天才育成計画
「天才育成計画とは」
天才育成計画は私が長年見つめてきた美術の問題を解決したい一心で、おこがましいことはじゅうじゅう承知の上で書き始めたものです。 私が筆をとる動機になったのは、私が指導する生徒の中から天才が生れようはずがない状況が眼の前にあること。 私が高校生の時に苦悩した美術の世界が閉鎖的で隠蔽体質であることで情報が得られないことを解決するため。 斜陽にある美術の世界を立て直すアイデアのいくつかを実践してみたいと思ったためです。 先ほども申し上げましたがおこがましいということはじゅうじゅう承知の上です。 でも、五十歳を目前にして、今まで沈黙を続けてきて、老い先もどれほどあるかもわからない年齢になってきて、長年何も言わずに静観し続けてきて、そろそろ声をあげてもいいだろうと考えたからです。 誰かには恨まれるようなことにもなるかもしれないと思いましたが、それでも1つでも悪い状況が改善できればと思い実行に移すことにしました。美術は素晴らしい世界です。 でも小さな世界。 その小さな世界を必死に守ってきた人たちがいます。 彼らはその小さな世界を必死に守るために他の人には決して伝わらない努力をさんざん積み上げてきました。 そのおかげで今の美術とデザインはあります。 でも小さな陽を守る陽の陰で多くの問題も出てしまいました。 陽は陽を作り、守るパフォーマンスは持っています。 でも、それから流れ出る影の世界の問題を解決する機能を持ちません。 余裕がないというのが正解かもしれません。 私が構築したいのは流れ出た問題を構造的に解決するシステムであり、それを実現するための論法を作り上げ、人材を育てることです。 これらの問題を解決するものたちを私は「天才」と称します。彼らは特定の誰かというものではないかも知れません。 「天才」とはおそらく彼らの全てを総称した人格。 でも彼らは自然発生的に現れ思うがままに行動しこれまで誰も解決することができなかった困難な問題を解決する「天才」なのです。 天才育成計画の中では彼らを「ありんす」と呼びます。 ありんすは日本中から現れ、活躍します。 天才育成計画では彼らの声を集めアーカイブします。 影の中から生まれる情報。 この情報は美術とデザインの世界の常識を覆し、新たな道を作り、美術とデザインの世界の可能性を広げます。
天才育成計画ではありんす以外のいくつかの「天才」を生み出すことを計画しています。 これまでに解決しなかった問題を解決する「天才」。 その彼らを育てるのが天才育成計画です。
天才育成計画の序から序々々々は天才育成計画始動の文章から始まり、東京芸大生特攻ハザードで終わります。 序から序々々々は計画の下地として私が心配していることを走り書きしたものです。 私の思いを正直に伝えるために中には汚い表現もそのまま隠さず書いています。 序々々々からさらに続くシリーズは私の頭に表出する全てのことを完全に記録するためにラフなまま飾らず垂れ流すかのように書き連ねています。
序の次
序のシリーズの次の「はじまりのおわり」は・・・天才育成計画のはじまりである序のシリーズのおわりを意味しています。 垂れ流しから内容を整理して実行計画に移行します。 天才育成計画のはじまりによって終わらせなければならないこと。 おわりは終わらせなければならないことを書いています。 はじまりはじまりは天才育成計画のはじまりです。
さて、天才を育てる永い永い旅のはじまりです。
いつまで続く旅なのか・・でもこの旅を貫く覚悟はできています・・。
というか今までと私自身は何も変わらないのです。
変わることは美術の影が変わること。
さてさて、永い永い旅のはじまりはじまり〜!!
走り書き的覚え書き
Click天才ハザード 怒
Clickはじまりはじまり〜
Click-
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● 内容
皆さんの絵画の見方を「絵画の見方」というタイトルのレポートで募集します。盛り上がるかわかりませんが面白いものはHPで紹介させて頂きます。 1つずつ集まれば少しずつ大きな意味を持つものになってくると思います。 私がイメージしているのは著名な方ではなく、学識のある方でもなく、でも絵画の見方に精通していて声を発信する機会が今までなかったような人の貴重な声を美術の、世界の、大上段にまで一気に押し上げることです。 陽の当たらない日陰の世界には多くの天才が潜んでいます。それを引き上げるのが天育です。 期日は特にありません。私の書いている内容は一切気にせず好きなことを書いてください。 忖度だとか一切いりません。 集まって話し合う必要があるかわかりませんが面白いメンバーが集まりそうだったら集まって話をします。
● 投稿
○ 投稿先
kumabikodaira@yahoo.co.jp
※ レポートの書き方はよくわからないので自由です。例えば、ですます調で構いません。内容が全てです。
○ 投稿されたレポートについて
・文字の添削や校正はしないつもりです。障害を抱えた方もおられるかもしれません。小さなお子さんが投稿するかもしれません。文章が苦手な人もいます。形よりも気持ちや内容が全てです。(形も大切ですが・・)
・念の為・・・盗用は認めません。引用する場合は引用箇所と出典を明らかにしてください。著作権の許諾が必要な場合は必ず許可を得てください。盗作が判明した場合は削除します。
○ サミット開催日時
・然るべきメンバーが集まり時期が来たら日時を決めてHPにて公開します。
・メンバーは、例えば展覧会を見た小さなお子さんの正直な感想など動画で世界中に上げたりしても面白いと考えています。 世の中に流れる展覧会の感想はネガティブなものは一切上がりません。 それによってアートの見せ方は一向に成長しません。 絵画の見方と見せ方にはものすごく沢山の問題があるのです。 まず変わらなければならないのは見せる側の態度です。
次のページからはHPの常識を無視した長い文章です。
無理に読む必要はありません。
● はじめに
アートの世界は「鑑賞者ファースト」ではありません。 「作家ファースト」でもありません。 残念ながら「権力者ファースト」です。 陽のあたる世界からは見えませんが、私のような影の世界からはありありと手に取るように見えるのです。 私のような粗末なものには大学も美術館も画廊も油断をしていやらしい本音をさらけ出します。 権力者の愚かな所です。 芸大美大はまず生徒のためにあるわけではありません。 教授が生活をするためにあります。 画廊は作家のためにあるわけではありません。 ギャラリストが生活するためにあります。 美術館は鑑賞者のためにあるわけではありません。 美術館に自動的に流される利益を拾い食いする人間のためにあります。
芸大美大も画廊も美術館も鑑賞者を第一にものを見て考えて行動してはいません。 その結果がみなさんとの接点になる展覧会に現れます。 ちょっとした知識を知らなければ内容がわからないものでも鑑賞者の立場に立ったわかりやすい説明はありません。 展示の中身はわけのわからないものばかり。
このような様相の中で私が気になるのは鑑賞の仕方に対する雑音です。ザックリ言えば「自由に見ていい」対「予習してからこい」です。 私の意見を簡単に言えば鑑賞者は自由に見ていい。 そして予習してこいと言う前に「予習が必要な展示は全て広告で予習しなければわからないことを鑑賞者の立場に立って事前に歌え」です。 事前に歌わないのは来客が減り収益が減るからにすぎません。 鑑賞者はわけのわからない後味を味合わされた後にさらに追い討ちをかけるように悪者扱いされ、誰かのフォローがあるかと思えば、忖度する馬鹿ばかりでわからない奴が悪いような論調も聞かされる始末。 これまではそんな調子が通用しても、鑑賞者が反論できなかった時代は終わり、今はすでに全ての鑑賞者に発言する力があります。 これからはこれまで通用した投げやりでいい加減な展示は危険です。 鑑賞者の反撃はもうそろそろはじまります。鑑賞者ファーストで物事を考え始めるなら今のうちです。 予習が必要であることを広告で歌わなければ詐欺と同じではないですか?モラハラ?だまし討ちのテンハラ?未だに展示会場で見えてくるのは鑑賞者のキョトンとした表情です。 作品よりも鑑賞者のリアクションの方がわかりやすいのですから始末に悪い。
このような状況の中で「アートの見方」はアートの中の我々の中であまり語られることはありません。 これまで語られることのなかったのはそれぞれの立場を超えてまで語ることが必要に迫られなかったからです。 鑑賞者ファーストという概念を持てばみんな考え始めると思います。 これを機に色んな人の意見を聞きたいのです。
未だに私の生徒は自由に思ったことを私に発言できない。 私にも問題はあると思いますが、一番の理由はこの世界が「権力者ファースト」だからです。 彼らの萎縮を全力で取らなければならない。 そのための尽力を私は微塵も惜しまない。● 認識の作法〜絵画を見る見せる瞬間について
みなさんは絵やアートを見る時どのような見方をしますか?
・・・
あ、もしかすると・・これってあなたにとって「キラーパス」ですか・・そうならないことを願います・・。
すみません。 突然聞かれても困る方が多いかもしれませんね・・答え方がわからないと言葉に詰まってしまいます・・。 答え方がわからないと芸大生でも言葉に詰まります。
かく言う私自身他の人とこのような話をすることはありません。 生徒ともしませんね・・。 生徒にもしない理由は核心をつく話にたどり着くまでに様々な話を挟む必要があり、話が長くなりすぎて現実的に無理だと思うからです。 多くの先生が中途半端になることを懸念して話さないと思います。 今回のお話をする意図には生徒に話せるようにするためもあります。 あ、私このHP見てもおわかりの通り生徒に対して相当口数多いです。うざいです。生徒は迷惑です。それでもこのお話はしません。
どのように作品を見たりしているか。 その他には考えているかといったことは意外と同業者同士でも話さないものです。 主な理由は日本人がみんな控えめだから・・。 そして仮に話したとしたら衝突になることも予想されるからです。 衝突が予想されるのは意見を出しあえる場がなく、あらゆる考え方を出し切ってまとめる機会が未だかつてないからです。 なので今回幻想公開講座で行います。つまり全員が手探りなのです。 一般の方は芸大美大生は授業で習うように思われるかもしれませんが、そのような気の利いた授業は芸大美大にはありません。 こんな面倒なだけで出世につながらないことは奴らはやりません。奴らにとって生徒は黙っていた方が楽。
一般的には絵をどのように見るか話さない理由は「馴染みがない」からだと思います。 珍しい話題に盛り上がる機会もあるかもしれませんが、大抵採用しても特に盛り上がりそうもない話題なので話すことは少ないでしょう。 鑑賞者のことなどどうでもいいという感覚もあると思います。 利益がそこにないのですから。 不遜ですね。 それを突く者は組織の中にいません。
今日のお話のキーワードは「馴染みがない」です。 このことは今後の天育の話にちらほら出すつもりです。 今回のお話で「馴染みがない」ということについて考えてみる切っ掛けになればいいかな〜と思います。
すみません・・・「絵をどのように見るか・・」
私からお答えしなければなりませんね・・。楽に聞いて頂ければと思います。
えっと・・私は適当です・・後、サーッと作品の前を素通りする感じでパーッと観ちゃいます。あの、1つずつはよく観ません。パッと気になったものだけよく観ます。他は流します。
気になった作品は見方のわかる作品です。後は正直何にもわかりません。そんなもんです。 なんとなくわかったような感じがして作った本人に聞いてみたら全然違ってた!なんてことが多いのであんまり深く考えないようにして、あえて勝手に解釈するようにしています。 勝手に解釈しないと作者も困ります。 作者の多くはわかりやすく説明できないんで見る側が一方的に正しい解釈に拘っても困るし、拘った所で結局の所で誰も何もわかりません。 多くの場合、本気で作者に追求するといじめてるみたいになるのでそれもできませんし・・・。 アーティストの多くは自分の作品の説明ができません。そのため適当に解釈してくれて、買ってくれたり賞をくれたりすることを望んでいます。 「何にもわからない」そういう時は取り合わないでアートはなんでも「自由にのびのび」「才能」ということで流してしまわれて結構です。 そのように忖度することがこの世界の常識、追求することが非常識という感覚はあります。 とにかく作品の値段が上がったり儲かればいいのです。 なので値段は吊り上げ放題です。 建前。 建前がいつしか常識となり、良識のように扱われるようになりました。 それを肯定する論調が増え、その度にアートは理解不可能なものになりました。 作者が説明できないことも表現の自由として受け入れているのがアートです。 そうするとその時点で鑑賞者に理解を強要したり強制する権利はアートの側にありません。 あ、そうそう、学生の作品を見る時も同じような感覚があります。 ただ、指導では流せないので意地悪にならないように配慮しながら追求します。 それで少しずつロジックなボキャブラリーをインプットして語彙を増やし脳を育てていますが、それでも論理的に物事を考えられる思考が持てるまでに育つ学生はほんの一握りです。
そしてその様相はアート全体を見ても同様だと思います。
つまり、ほとんどのアーティストが論理的な思考で作品を考えていないので説明することはできないのです。 そしてその現象が表す大切なことは多くのアーティストの問題は論理的な思考が未成熟であること。 つまり脳を育てることで今まで伝わらなかったことが伝わるようになるのです。
話が長いですが、もう少し付け加えれば、絵を見る時は、学校の中で人の顔を見る時みたいな感じに似ていると思います。 知らない人かどうかの判断は一瞬でします。人の眼や記憶とは素晴らしいものです。 それで知らない人の顔はいつまで見ても知り合いにはならないので見ません。知らない人で気になる人は、気になったからといってすぐに声をかけることはしないで、あえてどのような人か勝手に解釈するようにしています。 こいつは危なそうだとか・・。私には関わらずに相手のことを見透かすだけの眼力はないのでパッと見ただけでは人のことも作品のこともよくわかりません。 知り合いである程度関わったことがあればわかりますが、仲良くなければ大抵コミュニケーションが成立しないのです。街中で知らない人と映画を見に行ったりしませんよね? それと同じで日頃から常識のすり合わせをしてコミュニケーションが成立することがわかっている人としか絡まないのです。 作品もそれと同じです。 作者が鑑賞者を取り合わないのもそういった感覚からきています。 名画を見ても関わりがなければスーッと入っていかない。 人間にはそのような認識のエントリープラグがあると思います。 馴染んでいるものでなければエントリープラグが接続されない。 新しい車に乗っても、絵画や美人と同じように綺麗でかっこいいと思ってもすぐには馴染まない。 知らない人と突然映画を見に行くような感じって不味いですよね? 「鑑賞」には「馴染み」が必要なのです。 そしてアートの鑑賞とはただ見て終わるだけの浅いものではなく、人を巻き込む深いものだと思います。 つまり、私の場合、少ないけれども私の人生を巻き込む絵画があったと思います。 そしてそれは決して多くはない。 馴染みのない違和感は作品を鑑賞する時に誰もが抱いているはずです。 知り合いと会ったらそれぞれの知り合い別に「おきまり」のコミュニケーションの基礎的な動作をします。 コマネチしたり、ハイタッチしたり、白目むいたり・・。 「おきまり」がなければキョトンとなります。 鑑賞した後に何か虚しいのはキョトンとなっているからです。 コマネチしたりする作法があればキョトンとはならないのです。 コミュニケーションには基礎としてそのような作法があるのです。 余談ですが私は天育の文章を書き終えたら作品を発表しようと考えています。 それは今発表してもみんなには馴染まないからです。そして私自身も自分自身の作品に馴染まない。 馴染まない発表ほど虚しいものはないと私は思っています。 天育の中で十分に私の作品のコンセプトと認識の作法の話をさせて頂いてから発表した時にはキョトンとする方も少ないのではないかな〜と思っています。 それで今の所私の作品は私の所で基礎的なコミュニケーションの作法で対話中です。 作品と対峙する時は独特の波長でコミュニケーションをとる対話がある。 そして私にはその対話の認識の作法を詳細に説明する準備がある。 で、発表は死んだ後する予定です。 多分。作品を見る時、あなたは、何も考えていない・・。
そうですか!いやそれは良かった!!
アートはよく人に恐怖を与えます。 馴染む前に恐怖を与えてしまってはアート的に不味いのです。 何もない時点で既に怖がって構えてもらっては困ります。 絵やアートの世界は散々人を「才能」「天才」という言葉で馬鹿にして、劣等感を植え付けた上で、「輝かしい賞」「庶民には到底たどり着かない高額な値段」などでしたり顔でジョジョ立ちを決めながら人を見下した上で、権力を行使することで儲けようとするもさほど儲からず、ただ怖がらせてしまうだけで終わるお馬鹿ちゃんな所があります。 画壇や先生様のコネとか忖度とか、法外という言葉で、もはやおさまらないオークションで、意味なく釣り上ったアートのアホな値段で嫌悪させてきていて、人に構えさせてしまうことが多いので、まだあなたが先入観なく何も考えていない状態であることが助かります。 もし何かあればその時は絵やアートの世界の人間が予めみなさんに考える材料を説明するべきなのです。 具体的かつ詳細になぜ100億もの金額になるのか・・。 それがなければ如何わしいにもほどがあります。 説明が必要なものに対する説明がないのは「不遜」です。 というか実際はオークションのその現象を論理的にわかりやすく説明できる者がおらず、全員脳が未熟なのです。 現象に誰もついていけない。 買っている人間でさえ。 説明がない時は当然、構えずにそのまま自然に・・自然に・・流してもいいですし、自由に鑑賞してください。 不遜な態度を貫こうとする奴に大した奴はいません。 中身がないのに偉そうにしようとする。 100億の具体的な中身はありません。 そのようなつまらん輩がこの世界では多いのです。 そういう奴には白目むいてやってください。 見ているけれど見ていない新手の無視です。 私は生徒にやられたことがあるのでどれほどの威力かわかります。 そしてその後にちょっとだけそいつのことを考えてやってください。 不思議とそういったことから馴染んでいくこともあるのです。 アホな高額な値段に踊っている奴らを助けないと・・と思うのは私だけでしょうか・・。
あなたは、そうですか・・見方があるのでそれを勉強してから見ますか。
勉強熱心ですね、確かに色んな作品があって見方がわかると作者の意図がよくわかることがありますね。 面白いものも多いですね。 作者の中にははっきりとわかりやすく説明できる人もいます。 そういった作者の作品に触れてみるのもいいですね。 後、でも、その後に馴染むものと、それでも馴染まないものが沢山ありますね・・。
何の手がかりもなく、わからないものだらけの時はどうしましょう・・・。
そうですか・・自由に見ますか。
私もみなさんにお勧めするのは自由に見る見方です。これが基本だと思います。
だったらこんな話必要ないのでは・・好きに見させてくれ・・。
そうですよね、みなさんにとってはそれで良い話です。 しかしみなさんと向かい合う私たちの方に、私は大きな問題があって、心配とか、懸念を抱いていて私は私たちの問題をおこがましいですが私の問題として解決したいのです。 私の問題とはつまり、作家として作品を発表する気になれない。 そしてアート全体が脳が未熟でその状況で騒乱が起きないように権力でねじ伏せているので、萎縮した生徒が自由に発言できるようにならない。
解決とはつまり、私たちの側の人の多くが気づいていないことがあって、今回の話をきっかけに気づいて頂いて解決する・・気づくだけでもアートがより良い形へと大きく変われる気がするのです。 私にとっては深く馴染んでいるアートですから、その素晴らしさや未来の社会にとって具体的に機能することが良く分かるのです。
「気づくべきこと」は、ざっくり言えば、見せる側が見る人に予め作品の見方を伝えるべきということです。 現場でがっかりさせないように出来れば事前に馴染ませておくべきです。
馴染ませるとはつまり映画を例に挙げると映画に出てくるタレントはテレビで日頃から馴染んでいます。 これは芸能事務所の努力です。 なので映画を見た時にスッと入ってくる。 それに比べて絵画は題材の多くは馴染みがない・・。 それを事前にパンフレットか何かで馴染ませておくなどすれば絵画を見た時の入り方が変わります。 場合によって導入が上手くいけばスッと馴染むことができます。 絵画の題材を馴染ませる・・・そのような必要を考える作家は少ないですよね・・。 つまりそれはそれだけ鑑賞者ファーストではないということなのです。 そしてそれは作家の導入が下手ということです。 「伝える」ことが作家の仕事である以上、導入の下手な作家はもはや作家として成立していないですよね?偉そうな態度をとる暇があったら「自由に見てくれ」ぐらい言えませんか?
「見方」として自由に見て欲しい場合は自由に見てくださいと一言添えておくべきです。 そうしなければアートは見方を予め予習しておかなければならないとか、自由に見ていいとか色んなことを言われているのでそのような雑音を小耳に挟んだ人たちが混乱しています。 作者がどのように物事を認識して制作したのかを説明しなければならない場合は、自分がどのように物事を認識したのかを言葉などでわかりやすく、見る人に表現できるようにしておかなければなりません。 現状では説明するべきことがかすかで見つけにくいものなので気づかなくて、説明できない、又はしないで流すことが当たり前の感覚でいます。 説明できないというか、もっと正確にいうとかすかすぎて説明するべきとも思わない。 かすかなことはとても繊細でささやかです。 精神の機微を敏感に、毎日それに向かい合うなどしなければわかる瞬間はきません。 「気づかなくても当然のこと」です。 でもそれを流してしまえば鑑賞者も流すしかないので自由に鑑賞させる以外の表現は成立しないのです。 でも、決まってそういった伝わらない時には鑑賞者を悪者にする。そのような意味のない愚痴のような論調ばかり聞こえてきます。 鑑賞者に一切非はありません。 鑑賞者はアートと馴染んでいないから反論しないだけです。 一番怖いのは世の中のアートに対する無関心です。
表現にはコミュニケーションの基礎が必要です。 基礎とは常識です。 つまりあなたの中にある、言葉になっている常識の全てを洗ってみれば、その作業のどこかのタイミングでこれまでかすかに感じていた認識と合致する言葉が見つかるのです。 その言葉はあなたが常に心のどこかで大事にしている認識=常識です。 おこがましいですがそれを知らない人が多いので言わせて頂きます。
今日の話の・・「気づかなくても当然のこと」とは、人の、眼で物を見る時の認識には、予め用意した作法があるということです。 眼の前には複雑な情報が溢れています。 その一切にとらわれずにスッと必要な情報だけを狙って辿り着く作法を我々は知っています。 作法はスッと常識にたどり着く方法です。 馴染みのタレントの顔がテレビに映るとスッと入りますが知らない人の顔が映ると?と一瞬困惑します。 作者は暗黙の了解で鑑賞者も同じ作法を持っていることに淡い期待を抱きます。 つまりこの場合に気づかなければならないのは無意識の内に自分が用意している、観る瞬間に採用している「作法」のことです。 作法の用意があれば主観と主観が通じ間主観性が働きます。 作品の鑑賞者とその方法を共有しなければ共通認識を持つことはできません。 共通認識を持たなければ鑑賞者は独自に用意した認識の仕方を持ち出して、独自に認識します。 鑑賞者が独自に用意した認識の作法を持ち出した時点で、作者と鑑賞者は常識を共有することができません。 一緒にテレビを見ているご老人がタレントの名前を完全に間違えて別人を勘違いしている場合、ご老人と感覚を共有することはできません。 この瞬間の常識とはつまりお互いに共有する知識のこと。歴史観であったり、生活観であったり、美術史観であったりします。 常識が2人のコミュニケーションの基礎となるのです。コマネチは1000年後の人にはおそらく通じません。 でも白目は通じます。 私はお菓子のパックンチョが好きです。 でもだからと言ってあなたの作ったチョコレートのお菓子を好きになるかどうかはわからないのです。 仮にあなたが同じチョコレートだからと言って好きになることを強要しても、パックンチョで常に認識できるものがなければ無理なものは無理なのです。 あなたがパックンチョの常識を理解し、あなたの作ったお菓子がパックンチョの常識を・・例えば食感とか・・甘味とか、口に入れた時の大きさとか、側の硬さや厚みを表現していれば好きになる可能性はあります。 作品は鑑賞者が見たり、触れたりした瞬間に常識を表出するように作られています。パックンチョのように・・。 パックンチョという常識が作品を紐解き、作者の主観の中で複雑に絡み合った紐の間から垣間見れる作者のパックンチョを見つけることで表現は成立します。 作者と鑑賞者の間に本当に伝わって欲しい常識は美術史でも歴史でもありません、作者と鑑賞者が共に感じた感覚です。 パックンチョを食べたことのない鑑賞者は素通りして頂いた方がいいのです。逆にパックンチョを食べたことがある人にパックンチョのことを事前に話さないのはチャンスロスです。● アカデミズム
アートの世界は元々アカデミズムの作り出した常識があり、認識の仕方があります。 物をどのように見れば良いか突き詰めた結果、アカデミズムは融通の聞かない偏執的なものになりました。 かつてデュシャンが嫌った網膜で何でもかんでも評価するとか何たらです。 でも本来のアカデミズムが確立した物の見方は私たちにとってわかりやすいものでした。 普通に本物そっくりに物が表現され、ぺったんこの壁に絵で手が入るように見える3次元的な空間が作られ、絵で華やかに装飾され、単純に絵の美しさを追求したものです。 古い言い方をすれば「審美眼」です。 「審美眼」が高尚なアートの中核を担う人間が持つ常識でした。 でもこの常識は哲学や科学や文学などの知識がなければ言葉にすることは難解なことでした。 言葉を知らない人には何かわからないけれど美しさを感じる。 その何かが言葉です。 自然発生的なものではなく人工的なものです。 夜を汚いと教育されれば夜が汚いものと認識される。 「汚い」とは認識の作法を教育することで生まれた人工的なものです。 汚いと言われるものの中に造形的に美しくないものはありません。 でも汚く見えてしまうのは作法を教育されたからです。 本当に危険なものであれば汚いものとして見ることは良いと思いますが「いじめ」のように中には無くさなければならないネガティブなものもあります。 いじめの認識の作法については後日改めてお話しします。 この審美眼で見る絵画の世界は予め認識の仕方の説明がいらないことの多い、誰もが普遍的に美しさを、慣れ親しんだ生活の中で、教育されて認識できるものです。 でもこの美しさは形式があります。 つまり、アカデミズムは、アカデミズムの用意した常識で理解できる形式で作られているので、その辞書にない美しさを認める機能がありませんでした。
世の中にはあらゆる美しさがあります。 例えばみんながブサイクだという自分の顔をありがたいことにイケメンだと思う人がいるように・・。 例えば学校の中でごく少数の勝ち組の飛び抜けたイケメンと可愛い女の子が大切なように、私たちのような負け組のイケてないその他大勢のみんなの中からイケメンと可愛さをなんとか見出していくことは大切なことです。 そしてその活動の意識が高まれば革命が起き、クラスで一番のイケメンが一番モテる奴になるわけではないのです。クラスの認識の作法の逆転が生んだ下克上。 アートもこのような転覆を図る活動がたくさん見られます。 我々の、多くの人にとって、みんなの中から価値を見出すことの方がアカデミズムが示す価値に習い従うよりも大切なことは沢山あるのです。 そのような働きが進めば私は学校や職場でいじめがなくなると考えています。 高校を中退する女の子の中には美少女が多い。 そんなこんなでアートの世界は「自分で由とする。自分を由とする」いわゆる「自由」を大切にしてきました。 元々アカデミズムによって作られたアートは、今は権威ではなくみんなのためのアートになろうとしています。 ・・多分。 そうなろうとした時にアートは様々な美しさを許容することが求められるようになります。 アートの世界は少しづつ色んな価値観を取り込みながら今まできています。 でも、その価値観の多くはわかりずらいものです。 なぜこの子がイケメンなのか・・頭を悩ます時、その子をイケメンだという子の認識の仕方を学ぶと良いのです。 あ、確かにちょっと可愛く見える・・・といった発見や発明は人類にとって大切なのです。 そして新たな価値の多くはわかりずらいものです。予め説明がないから。説明できないから・・。 美少女でない子から美少女に見える見方を見出したとしたら、それを説明することはとても難解なことです。 でもそれができるのがアーティストなのです。 ここで1つ簡単に美少女にする方法をお教えします。 それは・・部屋を真っ暗な暗闇にすることです。 後、天育の暗闇図画工作にも同様の力があります。みんなの絵が傑作になる。
● マニエリスム
現代を生きる私たちにとってのアートが難解なイメージを纏ったのは日本で印象派が流行って以降、マニエリスムといって芸術対芸術、アートがアートと向かい合って作品を作り、アートを考え、深め、広げていく時代が続いたからです。 私はその流れを、アートが、特にアカデミズムが私たちの側に歩み寄るために必要だった流れだと見ています。 そして世の中のみんなが絵を描けるようになるまで後もう一歩・・かな・・と思っています。 単純にアートが私たちの側に歩み寄るためだけにここまできたとはいいません。 あくまでマニエリスムはみんなにとってわかりやすいファインアートに対抗する形で生まれた難解なコンテンポラリーアートです。 が、少しずつ側に近づいてきている感じがするのは確かです。 マニエリスムの関わりは「アートに詳しい人とアートの関わり」です。 そのため詳しくない人は作品の見方がわからなければわかりません。 そのような状況の中でアーティストはわかりやすい作品を作る人とわかりずらい、伝わることを最優先にすることに囚われないで独自の認識の仕方で作品を作る人に分かれました。 独自の認識の仕方で作品を作るアーティストは自分の認識の仕方を探ることで精一杯です。 そのような状況の中でアートは鑑賞者のことまで気が回らず、アーティストの認識の仕方を理解しようとすることだけで精一杯のように私には見えます。なぜこの子が美少女に見え、これがイケメンに見えるのか・・。 それでも運営するために展示はしなければならない。つまりアートの外の世界の人たちに向けてわかりやすく伝える努力をする余裕がないのです。 展示はするものの実際には作品の表面を見せるだけで本質は伝わりません。 本質が伝わらずに、いつしかそれが常識となり、今ではそれが慣習にもなってしまっていると思います。 私はこれが今の難解なアートの実態だと考えています。 でも、このような時期を経て少しずつアートが様々な認識の仕方を見つけていけば、みんなにとってわかりやすいアートになるとも思っています。そのため今はこのような話をみんなに向けてするべきなのだと思うのです。
● 観客の多くが外国の方?
私が美術館に行く時、観客の過半数が外国の方です。 外国の方の多くはアートの見方を学んでいます。 その状況を見て日本人にはそれだけアートが伝わっていないのだと私は思います。 私が思うにその大きな原因は幼稚園、小学校、中学校、高校での図画工作と美術の授業でアートのことをわかるように教えていないからだと思います。 逆に海外の学校はアートと馴染み、国によっては幼稚園から美術の専門的な教育を実践しています。 日本は他の教科に比べてあまりにも指導内容の中に専門的な知識と専門的な造形が織り込まれていない。 あたかも作為的にアートを理解できない国民を育て上げようとしているかのようです。 専門性を高め高度な知識と造形力を身につけさせることに対して否定的なので、カリキュラムはおさなすぎます。 結果として学校で専門的な知識と技術を学ぶ機会がないために学校を出て大人になって美術館に行くこともままなりません。 幼稚園、小学校の体育の授業では少しずつ高度な運動能力を育てることができます。 でも、図画工作の造形能力に関しては低すぎます。 図画工作と美術の授業では、専門的な知識と技術指導がしやすいアカデミックな内容には触れず、入って行かず、難解な、「自由にのびのび」や「個性」や「才能」といったアートに詳しくない人にはわからない道に入り込んでしまいます。 また、「自由にのびのび」「個性」「才能」といったことを大切にしているからといっても、その内容はアカデミックではない現代美術などのアートとも似ていても常識として共通する部分があまりに少ないので、学校で学んだ常識がそのまま芸大美大に進学してアートの道に入ったとしてもそのままが上手く通用することはありません。 幼稚園から高校までの美術教育でアカデミックな指導を迂回してしまうことで、大学で教員を育てることが容易になっても、それが原因となって日本人がアートのアカデミズムから現代美術までのコンテクストを学ぶ機会を逸しています。 タレントと違ってアートを馴染ませる場所はテレビではありません。学校です。
幼稚園から高校まで美術の授業を受けたとしてもモチーフの形すら取れない。 つまり、体育で言えば走れない。音楽で言えば譜面に合わせて歌すら歌えない状況です。
モチーフの形を取り、立体感を出し、色作りしながら色と形をどのように観るかを実感し、色と形の扱い方を覚える。少しずつ色んな物の見方、認識の仕方があることを知ることが大切です。 それを導入しなければ、急に自由な認識の仕方で図画工作しろと言われてもできませんし、自由なアートの話をされても誰もピンときません。
しっかりと形を取らなければ音楽で言えば譜面に合わせて歌うところを「奇声をあげている」にすぎません。 奇声をあげているだけだと異様ですし、それは楽しいとは思いますが、「感性を養う」ということでもありません。 図画工作の「自由にのびのび」は音楽で言えば「奇声をあげている」だけです。 体育で言えば、野球をしていてバットが球に当たってもいないのにグラウンド中を走り回ってしまう。 奇声をあげたり、グラウンド中を走り回ることは障害を抱えた子に対しては、それを寛容に受け止める思いを常識としてみんなが持つために大事な認識です。 しかし健常者は自由に叫んだり、駆けったりたりすることは苦痛です。できません。なんならあなた街中を奇声を上げながら走り回ってください。 幼稚園の年少さんで少しやるくらいで、年中さんになったらすぐにルールを教えて専門的な指導を行うべきです。 小学校低学年までに少なくとも形くらいは取れるように指導するべきだと考えます。 幼稚園の子たちにとって図画は異様なものです。子供たちにとっては、きったね〜色と形をぐちゃぐちゃやるだけのおぞましいものです。 大人に忖度して子供たちは何も言いませんが、本音を聞いてみるとみんなそんな感じです。 私は子供たちの声を聞いて健康的だな〜と思い、全員忖度しているんだな〜賢いな〜と安心します。 先生たちや親御さんも同じようなもんです。 学校でぐちゃぐちゃを推奨することを教えられたので、本音ではぐちゃぐちゃが「きたね〜」と思っていても空気を読んだり忖度して言いません。 ぐちゃぐちゃさせて美術が得をし、徳を高める時代は終わりました。もうやめませんか・・?と思うのですがどうでしょう?まだ・・忖度続けますか?あ、あなた教育委員会ですか・・あなたの顔汚いですよ。 鏡見た方がいいかも・・・。あなた方が目薬にしている神戸発の激辛カレーが顔についてますよ・・。● 本物そっくりに上手に描くには?
本物そっくり上手に描くには落ち着いてじっくりとよく見て描くことが一番大切です。
そして良くないのは描き方で描こうとすることです。
それとじっくりと落ち着いてモチーフを良く見ないこと。
後それと落ち着いて画面を十分に見ないことが問題です。
私がここでわざわざ話をするのは、これらのことがあまりに知られていないからです。
そして、知られていないことから多くの問題が起きています。
画廊は上手に描かれている作品を特別な才能と歌って販売します。
幼稚園や小学校では描き方を教えてしまいます。
絵画教室なんかによくある図画工作のコンクール対策のメソッドも描き方を教えてしまいます。
子供達や幼稚園の先生、小学校の先生は誤解をして絵描き歌のような描き方があると考えてしまいます。
そして薄々特別な才能は実はないのではとも考えています。
上手に絵を描くことに特別な才能が必要ないと正しい認識を持たれるようになれば世の中の全ての人が上手に描けるようになります。 勉強ができない子もスポーツができない子も努力をするようになってくれれば上手に描けるようになります。
絵はみんなが上手に描けるようになったらとても大きな力を発揮するようになるのです。
その力はこれまで絵画の世界が積み上げてきた功績を一瞬にして吹き飛ばすほどの大きな可能性がある力です。
● 絵には絵にしかできないことがあります。
人の眼から見えたものはカメラのレンズで見た色と形とは違います。
人の手から作られたものは3Dプリンターで作られたものとは違います。
人には人の感性と認識があるのです。 それを機械が同じように作ることはできません。 人は感性と認識によって物事を都合よく捉えています。 必要な情報のみを瞬時に読み取っていらないものを無視しています。 そのような選択は写真にはできません。現代で写真が信じられているのは人が感性と認識に対する理解がまだ薄いからです。 人間が眼で見る物事は写真ほど多くの情報を認識することはできません。 輪郭だけだったり、色だけだったりシンプルです 。個々の人のその瞬間の感覚と認識を踏まえた視覚を表現できる映像は写真にもAIにも不可能です。 それは絵にしかできない技術なのです。
● 最後に・・
美術予備校と絵画教室に来る人は全員誤解をしています。
全員が描き方がある。そして特別な才能が必要だと考えています。
最初に来た人に面接をして話をするのは描き方ではないことと特別な才能ではないことについてです。 ここでしっかりと話をしておかないと大変な問題が起きてしまいます。
もっとも深刻で大きな問題は才能があると誤解している人の伸び悩みです。
ここに来るまでにコンクールで数々の輝かしい賞をとっている子と親御さんは特別な才能があると考えています。 そういった場合の多くは特別な才能はあるけれども描き方がわからないからリアルに上手に描くことができないと考えます。 そのため描き方を教わればその瞬間に描けるようになる。そして、才能がない人は描き方を教わっても描けるようにならないと考えます。 これは全くの間違いなのです。
特別な才能があると信じることによって強い自己肯定感を得ている子と親御さんにこのことをお話しするのは心苦しいのですが、話さなければずっと上達しないまま何年も浪人したり、どこの大学にも合格できなかったりする事故が起きます。 結果が出なかった時に子供と親御さんが考えるのはやはり才能がなかったのか?ということですが、それも違います。 違うと断言できる理由は才能を気にせずに努力をした人は大抵上手くいくからです。
と言ったようなことを長々話さなければならない困難な状況が美術とデザインの世界にはあります。 これが悲しいかな私の講座を取り巻く背景です。 普通に指導していればいいだけの世の中であれば良いのですが、そう右から左にことが進んでくれないのです。 今回の講座はただ、「正確な形を簡単に取れる」ただそれだけの話をしたいだけなんですけどね・・・やれやれです。 -
絵画の見方レポート
「芸術とは?」その問いに対して、とあるゲームでは3つの答えが提示されていました
1つ目は「観ただけで誰もが衝撃を受けるもの」であると
2つ目は「観た人にとって鏡になるもの」であると
3つ目は「作者の言葉にできない感情を表現するもの」であると
記憶が曖昧ですが、おおよそこんな内容だったはずです
そして芸術の初心者である私にとって自分の体験を照らし合わせても相違ない十分納得できる答えでした
1つ目の「観ただけで誰もが衝撃を受けるもの」とはつまり最も言葉のいらない絵画だと思います
葛飾北斎「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」やミケランジェロ「最後の審判」はそれだと思います
初心者が観ても凄さが伝わり、おそらく誰もが同じような感想を持つはずです
2つ目の「観た人にとって鏡になるもの」とはいわゆる観る人の数だけ解釈がある、と呼ばれるものです
観客が作品から「悲しみ」を感じても作者はそんなつもりで表現はしていないとき、観客は作品を通して自分自身の悲しみを認識しているとか、そういったあれです
3つ目の「作者の言葉にできない感情を表現するもの」とは作者自身の自己表現ができれば芸術というわけです
さて私にとっての絵画の見方ですが、ずばり2つ目の「鏡」として観るのが正しいと思います
ただし作品を観ながら「悲しみ」だの「人生の苦難」だの感じたことはありませんし、そういった見方は嫌いです
そういえば初心者や素人が美術展に来るのは何故か。作者のためでも展示してる人のためでもなく自分のために来てるんです。(美術展に来る自分に酔ってる、という事実はおいておいて)好きな絵画を探しにきていると思います。美術展ならいくつも飾ってあるので見比べながら好きな絵、嫌いな絵、全く理解できない絵と判断できるでしょう
ここからが私の伝えたい重要な所です
「買って飾りたい絵画を見つける」ことが素人にとっての最良の絵画の見方です
ちょっと好き、なんとなく好きではなく特に好きな絵画を見つけて飾るのです。
値段は重要ではありません。数十万するレプリカなんか買えません。数千円のポスターやカレンダーやジグソーパズルを自室や居間に飾るというイメージをするのです
学生ならポストカードを買うイメージです
飾った絵画は客人にも見られます。その時、客人は〇〇という作者の絵画ではなく、「友人の飾った絵」として認識します。属性が作者ではなく飾った友人になるのです。そして客人は友人を「この絵を飾るような友人」と判断するのです
客人が絵画の評価を友人と同じであるとは限りません。もしかしたら客人は友人を誤解する可能性もあります。しかし、必ず何かしらの表現を少しは感じるはずです
元々は作者の自己表現であった絵画がこの時には飾った人の自己表現に変わっています
それが素人にとって最高の絵画です
絵画の見方を「鏡」と言ったのは、作者からの表現を観客からの表現に変えるのに結局は「鏡」として見ているからです
ここまで語っておきながら私は全然美術展で買い物しません。野球のカレンダーを飾ってます
あとは海外旅行先で路上の絵描きから買った絵を飾ってます。スペイン広場が茶色く描かれているのです
ミケランジェロの「最後の審判」の方が好きですが飾るのに向きませんし、何より恥ずかしい
葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」も有名だし派手だしで恥ずかしい
飾るなら「武州玉川」がいいな、と思います
と、いうように他人の描いた絵画を使って自己表現するのが素人にとって最適な絵画の見方ではないでしょうか
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