自由にのびのび詐欺ハザード
美術とデザインの世界は「自由にのびのび」していい世界だと考えている人が多いと思います。
でも本当に美術とデザインの世界はそんなにのびのびした世界でしょうか?。
「自由」と「のびのび」という言葉はあまりにも意味が広すぎて、個人個人で受け取り方はまるで違います。それと世代によって認識も様々です。
令和になりましたが、昭和の頃の考え方がまだまだ根強く残っていると感じます。古き良きものもありますが、時代に合わないものもあります。
又、意味を深く、深く、深読みしていけば、意味の逆転現象や飛躍が起きて強引に当てはまる論法に持っていくことができます。それを正しい使い方をすれば正義ですが、残念ながら悪用されている実態が数多くあり、目に余ります。
今日は悪用の実態については具体的に話しませんが、個々によく考えなければ自衛できることなので、良い方にも悪い方にも転がる話になるので安易に捉えないように注意を呼びかけたいです。
信頼できる人に相談することは勿論ですが、一般の方に目の前の方が信頼できる人かどうか判断するのは実際難しいでしょうね。
難しい判断の参考になるかわかりませんが、
「振り込め詐欺」と同じように美術とデザインの世界には「自由にのびのび詐欺」があります。
こんなものなるべく早く撲滅するべきですね。
私の今回のお話の目的は皆んなに気をつけてもらえるようにすること。「自由にのびのび」は本来大切な正しい思想です。なので「自由にのびのび詐欺」を気をつければ私の心配のタネはひとつ減ります。皆さんがトライアンドエラーでこの世界と戦って結果が出た時に心の底から納得できる状態であることを願います。
この世界には「騙された」と思ったり、「知っていれば美術の世界にこなかった」「全く仕事がない」「絶対に美術の学校には行かない方がいい」という憤りの声が沢山あります。私が考えるに少なくとも半数以上がそうだと思います。
憤りの多くは「自由にのびのび詐欺」にかかったことが原因です。
私の懸念は「自由にのびのび詐欺」によって美術とデザインの「本当の価値」が見えなくなってきていることです。一般の方々によって美術とデザインとは「意味のないもの」だったり「価値のないもの」だったり「わけのわからないもの」だったりすることが多いと思います。
問題を解決して、実際の被害者をなくすこと。あきらかな詐欺行為をさせないこと。偽善をなくすこと。当事者が正義が何か明確になるまで追求すること。グレーゾーンをいいことに営利目的で営業をかけている学校に自粛を促すことです。そしてクマビ自身が細心の注意を払える体質になれるように気をつけていきたいと考えています。
クマビは2019年度生の受け入れの際に進学がどう考えても困難だと考えられる生徒は親御さんと本人とよくお話しして思いとどまって頂きました。その人数は実は内部生の数と変わりません。そのため運営的にはとても苦しい状態です。でもそのような受け入れ方を続けることでいつか本当に信頼していただける学校になれると考えています。
多分この問題は「自由にのびのび詐欺」が世の中に認定されるまで続けなければ解決しません。昨今のパワハラ、モラハラ、セクハラと同じように認知されることを目指します。
てんいくが取り扱っている「自由にのびのび」問題は「自由にのびのび詐欺」(=自由にのびのび詐欺ハザード)が世の中に認知されれば解決に向かうと思います。
美術とデザインの世界に「自由」はあります。
例えば、私の場合は東京芸術大学に入るために7年浪人できたのはこの世界が「自由を目指せる」世界だったからです。又、「のびのび」はやっとこの歳になって思い通りの仕事をして自由なのんびりした時間も作れているわけなので、今となってはこの世界が「自由でのびのび」で良かったと考えます。
ただし、私自身がこれまでこの世界と関わった30年を振り返ると、どこをどう見ても楽な「のびのび」ではないし、とても厳しいサバイバルの毎日をおくってきたと思います。
美術とデザインの世界の「自由」の概念の中には厳しい道に進む選択の自由という意味もありますし、一方でのんびり過ごしていいという意味での「自由」という意味もあります。
私の中での「のんびり」は、私はネグレクトの家庭に育ったのでネグレクトの家庭は完全に育児放棄されているので一見のびのびして開放的な感じに見えるかもしれませんが、実は社会の冷たい壁に閉ざされた自由のない毎日を過ごすすしかなく。簡単に言えばお金もないわけですし、子供には右も左もわからないわけですから行動範囲はとても狭いです。
その狭い中で窮屈に毎日すごくわけなのでのびのびではありません。そういった意味で最低限の社会生活を送れる「豊かさ」がなければ「のびのび」はできません。
そんな中で私に与えられた「のびのび」は日本が豊かな国だったからで、他の国であれば私には自分で働いて学校に行くような余裕はなかったはずです。
なので私の場合は貧しい家庭に育ちながら自分で働いて学校に行けたことに「のびのび」はあったのだと考えています。
でも本当に美術とデザインの世界はそんなにのびのびした世界でしょうか?。
「自由」と「のびのび」という言葉はあまりにも意味が広すぎて、個人個人で受け取り方はまるで違います。それと世代によって認識も様々です。
令和になりましたが、昭和の頃の考え方がまだまだ根強く残っていると感じます。古き良きものもありますが、時代に合わないものもあります。
又、意味を深く、深く、深読みしていけば、意味の逆転現象や飛躍が起きて強引に当てはまる論法に持っていくことができます。それを正しい使い方をすれば正義ですが、残念ながら悪用されている実態が数多くあり、目に余ります。
今日は悪用の実態については具体的に話しませんが、個々によく考えなければ自衛できることなので、良い方にも悪い方にも転がる話になるので安易に捉えないように注意を呼びかけたいです。
信頼できる人に相談することは勿論ですが、一般の方に目の前の方が信頼できる人かどうか判断するのは実際難しいでしょうね。
難しい判断の参考になるかわかりませんが、
「振り込め詐欺」と同じように美術とデザインの世界には「自由にのびのび詐欺」があります。
こんなものなるべく早く撲滅するべきですね。
私の今回のお話の目的は皆んなに気をつけてもらえるようにすること。「自由にのびのび」は本来大切な正しい思想です。なので「自由にのびのび詐欺」を気をつければ私の心配のタネはひとつ減ります。皆さんがトライアンドエラーでこの世界と戦って結果が出た時に心の底から納得できる状態であることを願います。
この世界には「騙された」と思ったり、「知っていれば美術の世界にこなかった」「全く仕事がない」「絶対に美術の学校には行かない方がいい」という憤りの声が沢山あります。私が考えるに少なくとも半数以上がそうだと思います。
憤りの多くは「自由にのびのび詐欺」にかかったことが原因です。
私の懸念は「自由にのびのび詐欺」によって美術とデザインの「本当の価値」が見えなくなってきていることです。一般の方々によって美術とデザインとは「意味のないもの」だったり「価値のないもの」だったり「わけのわからないもの」だったりすることが多いと思います。
問題を解決して、実際の被害者をなくすこと。あきらかな詐欺行為をさせないこと。偽善をなくすこと。当事者が正義が何か明確になるまで追求すること。グレーゾーンをいいことに営利目的で営業をかけている学校に自粛を促すことです。そしてクマビ自身が細心の注意を払える体質になれるように気をつけていきたいと考えています。
クマビは2019年度生の受け入れの際に進学がどう考えても困難だと考えられる生徒は親御さんと本人とよくお話しして思いとどまって頂きました。その人数は実は内部生の数と変わりません。そのため運営的にはとても苦しい状態です。でもそのような受け入れ方を続けることでいつか本当に信頼していただける学校になれると考えています。
多分この問題は「自由にのびのび詐欺」が世の中に認定されるまで続けなければ解決しません。昨今のパワハラ、モラハラ、セクハラと同じように認知されることを目指します。
てんいくが取り扱っている「自由にのびのび」問題は「自由にのびのび詐欺」(=自由にのびのび詐欺ハザード)が世の中に認知されれば解決に向かうと思います。
美術とデザインの世界に「自由」はあります。
例えば、私の場合は東京芸術大学に入るために7年浪人できたのはこの世界が「自由を目指せる」世界だったからです。又、「のびのび」はやっとこの歳になって思い通りの仕事をして自由なのんびりした時間も作れているわけなので、今となってはこの世界が「自由でのびのび」で良かったと考えます。
ただし、私自身がこれまでこの世界と関わった30年を振り返ると、どこをどう見ても楽な「のびのび」ではないし、とても厳しいサバイバルの毎日をおくってきたと思います。
美術とデザインの世界の「自由」の概念の中には厳しい道に進む選択の自由という意味もありますし、一方でのんびり過ごしていいという意味での「自由」という意味もあります。
私の中での「のんびり」は、私はネグレクトの家庭に育ったのでネグレクトの家庭は完全に育児放棄されているので一見のびのびして開放的な感じに見えるかもしれませんが、実は社会の冷たい壁に閉ざされた自由のない毎日を過ごすすしかなく。簡単に言えばお金もないわけですし、子供には右も左もわからないわけですから行動範囲はとても狭いです。
その狭い中で窮屈に毎日すごくわけなのでのびのびではありません。そういった意味で最低限の社会生活を送れる「豊かさ」がなければ「のびのび」はできません。
そんな中で私に与えられた「のびのび」は日本が豊かな国だったからで、他の国であれば私には自分で働いて学校に行くような余裕はなかったはずです。
なので私の場合は貧しい家庭に育ちながら自分で働いて学校に行けたことに「のびのび」はあったのだと考えています。