油画科のススメ
小平 崇史
東京藝術大学絵画科油画専攻 卒業
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通常のプロフィール
1999 東京芸術大学絵画科油画専攻卒
2013 美術予備校熊谷美術研究所 設立
現在
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「絵を描かない画家」としてのプロフィール
1995 東京芸術大学絵画科油画専攻 入学
1996 絵の世界で一生生きていくための計画を実践
・大手予備校で芸大現役合格者を出す
・温めていた絵を描いて画廊と契約
1997 生涯で一度きりのコミュニケーション画廊での個展
・市場に対する疑問を持ち市場から一度離れることを決める
・大学で口を開ければ何かと「絵なんか描いてもしょうがない」という指導の洗礼を受け真摯に受け取り筆を置きその状況を変える活動を自分の道に選ぶ
・美術館、画廊、市場、大学の全てが斜陽。絡むと巻き込まれるばかりかマウントをとられる。しかたなくそれで得られるのは生活していけることくらいなので生活は別にできるので距離を取り一人でいることを自分のスタンスとする
1999 東京芸術大学絵画科油画専攻卒
1999 東京芸術大学大学院試験に落ち芸大の院のレベルの高さに驚愕。落ちこぼれの道をなぜか晴れやかな気分で進む
2013 美術予備校熊谷美術研究所 設立
現在 絵を描かない画家として絵の未来を切り開くことを考え続けている
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はじめに
最初に結論からお話すると私は油画科をオススメします。理由は油絵の世界と出会ってから絵を売ったり、教えたりしながら生活してきて絵の世界の良さを沢山知っているからです。
特に私のような人間が生きていけるのは油絵があったからです。なんだか食べていけるんだか、いけないんだかよくわからない社会的イメージの油絵の世界は、私のような者には逆に向いている世界でした。都合よく皆嫌厭するこの世界は私には好都合でした。勝ち筋を見抜けば確実に食べられる世界です。筋を見極めた上になおさら皆が目を背けやすい世界であれば競合するものがいないのでこれほど都合のいいことはありません。
私の実感として油絵の世界やアートの世界は食べていける世界です。でも、私の主張は他の人からはよく否定されます。油絵やアートの世界は「食べられない」確かにそれが一般論かもしれませんが私にとっては紛れもなく「食べられる」世界なのです。そして皆さんにとっては私以上に「食べられる」世界です。確信を持って言えます。だから皆さんに「油」を進めなければならないと思います。 -
私なんかと比べれば皆さんにとって油絵の世界は食べられる世界
最近になって気づいたことがあります。1日50円の食費で月にすると1500円で生活することが普通ではないということです。私は普通では考えられないくらい貧乏な生活をしてきたようです。本当に最近生徒や友人にこのことを話したのですが目を見開いて面白がられます。米一合50円です。それをお粥にして3回に分けて食べます。浪人時代に入試前の三ヶ月間はそのような状態に陥っていました。記憶している限りで3回はあります。親からの仕送りはありません。高校3年生の時に片親だった父が失踪し、ホームレス高校生でしたので、家の水道は止まり家でトイレもできません。高校でトイレを済ませ、友達が「お母さんがお前の晩御飯も作っている」と言われていつも渋々ご馳走になっていました。(心の底から感謝しています)修学旅行も小遣い無しで行って行く先々で友達の誰かが勝手におごってくれて。大学に入学する時はお金がないので合格発表の時に東京芸大にお金がないことをはなし、入学金と授業料免除は猶予の書類を出してその審査結果が出るまでの間にバイトをし、授業料は卒業するまでほぼ全額免除になり、古美術研究旅行という修学旅行のようなものは先生が立て替えてくれていて、結局支払うことになった教材費と入学金は友達二十人くらいから少しづく借りて、最後に友達のお母さんがとどめにまとまったお金を貸してくれて大学に入学することができました。
私の実家は皆さんは見たことないようないわゆるトタンで作られたバラックです。特に親が生まれ育った家を一度見ましたが完全なバラック オブ バラックでした。家の中は埃が絨毯くらいの厚さにつもり、親は無気力で精神的に余裕はなく私には厳しく当たるか放置しました。旅行など行ったこともなく、中学までは小遣いなどもらったこともなく。大学の時は一時仕送りもしました。
体の面では中学の頃から30才頃まで舞踏アテトーゼという発作の起こる病気になり、うつ、失読症に苦しみました。
このような中で私が生活していける手段を必死に模索し見出せたのは油絵の世界です。油絵の世界で貫き、実力を磨き上げて生きていけるようにすることを考えました。(実力が何かを考えれば可能性が見えるはずです)食べていく可能性として考えたのは、絵を販売して生活する方法。他には教えること。中学と高校で教えるためには教員採用試験があるので失読症の私には無理だと考えました。次に予備校の先生になること。予備校は絵の実力さえ評価されればできると思いました。ただ誤算は初めに勤めた時に想定した以上に給料が安すぎたこと。そのため専任になる方法を考えたり自分で経営することを考えました、そうすると最初の予備校は早く辞めた方がいいので辞めました。後は大学に残ること。大学は想像以上にモラトリアムでした。これはストイックな生き方をせざるを得ない私の体質にはあわず得策ではないと感じやめました。アルバイトをしながら1日2時間の睡眠と空腹に耐え凌ぎながら通う私のテンションと周りのゆるさとの間でゆるさを容認することなど私にはできませんでした。絵を販売することと予備校で指導することの2つの方法で油絵の世界で食べていくことを考えました。これらは全て実力を高めれば誰でもできることです。私以上に健常者で経済的な力のある皆さんの方が必ず楽に達成できます。そのため私には皆さんが努力さえすれば必ず「食べていける」と確信を持って感じます。確信が持てるのは経験的に裏付けが取れたこともあります。しかし、やる前からやる前の高校1年生の時から私は油絵の世界で食べていける確信はありました。そのヴィジョンは正確で一度も不安になったことはありませんでした。そして皆さんを当時の自分と同じように見ています。食べていけないわけはない。問題は皆さんにその興味があるかどうか?です。私のような社会の底辺の障害持ちの貧乏人のバカにできるのですから皆さんはもっと楽にできます。できないとしたらできないと思わせるバイアスが働いているからです。と私は考えています。そのため私はクマビに生徒を集めるためにそのバイアスを解こうと思います。 -
「複雑の雑の油絵の世界」
油絵の世界は非常に複雑な様相を呈しています。それを知らずに油絵の世界に入り込むとまず十中八九大変な状態に陥ってしまいます。そのため、そうならないための処方箋が必要です。
処方箋は私の歩んできた道では大方予備校で教えてもらえるものです。でもその予備校で教わることが完全な道しるべになるのかと言えばなりません。ならない理由はインフラが整備されていないからです。言い換えれば自由。アカデミックにガチガチに構築されたヒエラルキーを解体して今更地の状態になっていると言っていいかもしれません。さらに言えば更地にした後のことを誰も考えておらず、更地にするために抑えつけた権力を抑え続けることで精一杯で他に気を回す余裕がない。今その更地には色んな思惑の人が同じ水平面の上にバラバラに立っているそんな雑な状態だと思います。
では予備校に行かずに油絵の世界に行った人たちはどうなったのか?私の知る限りではこのような様相を呈していると知らずにそれぞれがそれぞれの場で学んだ論理が自分の歩く先で通用すると思っていることだろうと思います。でも完全に裏切られて愕然としていると思います。今日はその辺りから話そうと思います。
おそらく予備校に行かずに油絵の世界に入った人たちの多くは自分の入った世界の先生の権威が他に通用すると思っているに違いないと思います。他と関わりを持つ機会があった方はすでに体験済みかと思いますが、その威光は外では通用しません。
先生の威光が外で通用しなくなった発端は1960年代に中原佑介ら美術評論家が公募団体の権威が支配する中で前衛芸術の評論を書くようになった頃からです。
公募団体の権威は徐々に力を無くしていきました。それまでの美術系の雑誌は公募団体の展覧会の評論ばかりでした。前衛芸術を取り上げる機会が増え、世界的に油絵の発表の場は公募団体ではなく権威から離れ画廊を発表の場にするようになりました。その頃を境に東京芸大をはじめとする芸大美大から公募団体系の教授が令和の現在までかけて一人ずついなくなりました。芸大美大のこのような流れはゆるいスピードで日本中に広まっています。今では完全に公募団体の権威は東京芸術大学の油画専攻では全く効力がなくなっています。東京芸大の外には権力の崩壊が伝わっていないのでタイムラグがあります。
予備校に行かずに油絵を知る人はきっと下のような形で絵を知り油絵を知ったり絵に興味を持って絵の世界に来たのだと思います。
⒈ 絵画教室で学ぶ
⒉ 小学校の図画工作で学ぶ
⒊ 中学高校の美術部で学ぶ
⒋ 家でイラストを描いていて絵に興味を持った
⒌ コンクールに出品した
先生は下のような感じだと思います。
学んだ場所は・・。
・近所の絵画教室(カルチャセンター)
・美術部
・コンクールの審査員
そこの先生は・・。
・公募団体の会員だった。
・美大を出ていた。
・東京芸大を出ていた。
・教育系の学校を出た先生だった。
予備校に行った人は概ね東京芸大の油画科を出た先生に指導されていると思います。その際に油絵の世界の状況を多分正しく指導されていると思います。予備校に通ったことのない人は今の油絵の世界の状況を正しく指導されていない可能性が高いです。例えば公募団体に出品しても食べて行くことやその団体の外での評価には繋がらないにも関わらず誤解をして公募団体に作品を出品することに人生をかけてしまっているかもしれません。 -
東京芸大の油画科を出た後どのように生活して行くのか?
油絵科では卒業した後どのようにして生活をしているのか?お話しましょう。
まずよくあるのは先生になることです。サクッとお話しします。一番多いのは中学と高校の非常勤の先生です。先生の報酬は安い人で月5万円年収60万。多い人で1500万です。
先生には下のようなものがあります。
・中学、高校の専任の先生なる。
・中学、高校の非常勤の先生になる。
・専門学校の先生になる。
・カルチャーセンターの先生になる。
・絵画教室の先生になる。
・幼稚園の美術の先生になる。
・美術予備校の先生になる。
・教育系の大学の先生になる。
・東京芸大の先生になる。
・美大の先生になる。
最もステイタスになるのは東京芸大の先生です。次にムサビと多摩美の先生ですが私立になるとコネで入る人が出てくるので内情を知っている人からすると入り方によってはステイタスと呼べるか微妙です。外の皆さんからするとすごいな!!と思うでしょうが内情を知っていると「え、お前が・・?」という先生が多いです。但し一般的に見れば実情は関係ないので社会的な地位は高いと思います。次に教育系の先生ですが、東京芸大の助手になった人が次の就職先で教育系の大学の先生になることが多いと思います。教育系の大学の先生を選ぶ権限になるカードは東京芸大の先生たちが持ち、学生を食べていけるように唯一実力で導けるカードだと思います。確実な力として実装されているのは実は他の先生にはありません。他大学の先生が、選べる場合はたまにあります。他は自力で掴むしかない。ちなみに東京芸大以外の教授になるとそのカードもありません。ここで言えることは先生たちは学生を擁護する意識を持っているということです。つまり擁護される状況にないアーティストは先生の仕事をすることになど見向きもしてもらえません。そうなると他に成り手を探さなければならず、それと自分たちの利害を考えた時に、外に飛び出すと潰れてしまう生徒を守るためにカードを使うことが出てきます。ここからが本題ですが、不安があれば大学院に進み、大学の教員になることを目論んで、その先の助手や博士に残るのは一つの方法です。
大学の先生の報酬は非常勤で安ければ月5万。教授になれば1200万程度です。東京芸大は日本の国公立の大学の中で2番目に給料が高い(値上げできるようになったら即授業料値上げも頷けます)のでなる人はもう少し報酬を期待してもいいかもしれませんね。そして作品や事業をしている人は他からの収入があります。全て合わせると年収数億円という人もちらほらいます。
予備校の先生は受験生時代に実力が評価されていて東京芸大に入学した後に呼ばれて務めることが多いです。受験を熟知している必要があるのでほとんどが多浪しています。報酬は非常勤で月数万円。専任の場合は300万〜1000万です。私の知る限りでは最も稼いでいる人は年収1500万程度、但し経営者です。私も経営しているのでそのくらいになる時はありますが、波がありますね。普通に軌道に乗れば大学の先生よりも報酬というか自由に動かせる金額は高いと思います。
幼稚園の先生は月5万円程度だと思います。幼稚園によっては課題授業で図画工作の授業をしているのでそれを担当します。
絵画教室の報酬は5万円から自分で経営していれば200万〜上限はよくわかりません。
カルチャーセンターは意外に時給が高い人が沢山います。正確に言えば授業2時間で受講生1名をにつき千円という契約をするので多い人は時給1万円を超えます。一度生徒が付けば御高齢の生徒さんはずっとやめないので人数も増えますし、ベテランの先生は生徒共々10年以上続けていたりすることもザラです。人気のある先生は公募団体系の先生が多いですね。カルチャーでは東京芸大よりも公募団体の権威の方が通用します。
専門学校の先生は多くは時給3千円〜5千円。大学と連携している専門学校の場合大学の報酬と合わせて時給を設定するので4千円〜2万5千円位です。
中学、高校の非常勤の先生は1校につき5万円くらいの先生が多いです。芸大美大を出て中学と高校の非常勤の先生を目指す人は多いですが、毎月最低限に生活できるくらいの報酬をもらっていると誤解している人がほとんどです。実際になってからあまりの安さに驚愕するというケースがほとんどです。多くの先生は月に5〜10万程度しか稼いでいません。先生ということで社会的なステイタスはありますのでその立場に留まり奥さんに食べさせてもらっているという先生が多いです。私としてはありのままの実情を先生方の口から皆んなに伝えて欲しいと願っています。先生方は先生になってから月にいくら入るか知ったはずです。生徒たちに同じような思いはさせてはならないと思います。報酬を考えると私は生徒には中学高校の非常勤の先生はお勧めしません。先生になるなら専任になるように指導しています。 -
まず影の話をしなければ油絵の良さを話せない
油絵には良さがあります。でもこの良さを話す機会がない。また話せても偏見があったり、聞く方が激しい思い込みや強く洗脳されていたり、誤解されていたりするために、幅広い見方を話したり、洗脳を解いたり、誤解を解いたりしてからでなければ本当の話ができません。
話すと現実的ではない盛られた巨匠の天才的なイメージがすぐに立ちはだかり邪魔します。油絵の悪い部分は私は全ていなして生きてきました。もともと巷でも絵や画家としての生き方の評判は悪いです。そのため悪い部分の打開策を話してからでなければいかがわしくて皆さん聞く耳を持って頂けません。誤解を解いてからでなければ絵の良い話は一切できません。そのため私がここでお話ししたいのは絵の良さばかりではなく特に悪さと打開策です。私が経験的に知ってきた絵の良さの影で「絵の取り扱い」に注意するべき点が沢山あります。そこの部分は他ではけして語られることはなく、誰もそこには触れません。今回はそれを話そうと思います。 -
油絵の影についてのもう少し
他が影について話せないのは都合が悪いからです。予備校の場合は経営者の都合が指導者とは別に働きます。普通は万が一にも生徒が減るような可能性がある話は広報で語ることは許されません。広報では良い話しかできません。(特に日本の広告はネガティブな話をしない。海外では違います。日本も近い将来変わるはずです。)そのためこれはクマビがやらなければならないことだと思います。予備校以外にも公募団体を保守的に維持させていく立場にある人や、絵画教室や、芸大美大、美術館、画廊その他諸々も同様です。
影に対する処方箋があります。それは光となると思います。光は広報になるので、光りと影をセットで話すことにしました。そしてクマビ内でも生徒にしっかり指導していこうと思います。
何より絵の世界は「影」にさえ気をつければ普通の人が目指して成功できない世界かと言えば成功できる世界です。余計な脚色を振り払えば、努力さえすればどんな人でも道は開けます。そのことを世の中に知らせていかなければならないと思います。
実際私の周りで成功している人の中では、普通でない人や努力をしていない人はいません。下で親御さんが政治家をされている方で破天荒な方がいる話をしていますが成功はしていません。
成功している人は誰よりも「こうすればこうなるはず」という「理り」を信じて当たり前のことを貫いてきたと言っていいと思います。そこにまやかしの入る余地は一切ないのです。 -
資格
油絵のような世界に踏み込むことに抵抗を感じている人の多くは油絵の世界に不安を感じ人生を失敗する危険があると思われることが多いと思います。そして安心と思われる生き方、例えば資格を取ることのように進む道がわかりやすい道を選ぶ方は多いように思います。それが安全かもしれません。ですが、私自身にとってはその道自体がいつでも誰にでも安全のように見えるとは思えません。資格を取れたから安全でもなく安心でもない。それは多分それが不完全だからだと思います。完全。すなわちしっかりやるべきことをやれば安心を資格で買うことは必要ないと思います。
逆に頭でわかっていてもそれでもしっかりできない場合は安心を資格で買うといいと思います。あくまで私個人の対象は概ね生徒の感想ですが安全な道に進んでいる人と触れる機会に「こうすればこうなる」ということ、言い換えれば「やるべきこと」を外さずにキチンとやるという点でできていない印象を抱くことがとても多いです。失礼ですが特に免許や資格といった類のものを取得して仕事をする方に多い。もう少し問題の本質に目を向けて取り組んでいけば変われそうな感じがしますが、そこまで梃入れしない力加減で流してしまわれます。
下に話しますが流すという点では恥ずかしながら我が家を例をあげるといいかもしれません。我が家の親は安心安全に生きていくために色々と思案して結局崩壊しました。そんな我が家はやはりキチンとしていないことばかりでした。やるべきことを前にして、すでにストレスで神経をすり減らし、いつでもストレス耐性の限界の状態でやるべきことの全てを流すしかない。何かあれば全て他人のせい。私の親から自分の責任を反省し思案するような言葉はただの一度として聞いたことがありませんでした。多分これは人に頼って生きてきて安心な精神の籠の中にいて本当の社会を経験していないことからそうなるのだと思います。割と守られていることを当たり前とし守りきれていなければクレームを言う、相手に不満をぶつければ大方問題が解決する。報酬は努力をしても上がらないと諦めている。安い報酬で辛抱するしかなく自分の努力によって状況を好転させることは不可能だと考えている。そうなれば問題の本質を考える心はなくただ流すしかない。例えばゴミを拾う掃除ひとつ取っても社会のためを思って仕事などできずただただこの時間が早く過ぎて欲しいと思う。逆に時給換算で1万円もらいながらゴミを拾っている人もいます。私自身でも実感として1万円以上入る、稼げるようになった時からは完全に見方が変わり、社会のことを本当に考えて想いを持ってゴミを拾うことができるようになりました。同時に時給1千円の頃にはとてもそんな心にはなれなかった。悲観し状況がどのようにすれば好転するか考えるばかり。報酬が思うような金額でなく安いと思っている状態だったり、増える見込みがない状態だと次第にストレスばかり溜まり追い込まれ解消する手立てはなくただその仕事から解放されるまで耐え忍ぶしかありません。仕事量が同じでも公務員や大手企業や事業主など立場が違うだけで報酬はピンからキリまで違います。報酬によって人の受ける印象は大きく違うものです。そのため自分の進む道がどのような報酬を得られるかはこだわるべきだと思います。
ストレスが溜まっていれば、やるべきことが頭でわかっていても流すしかない。例えば私の趣味はランニングですが今はいつでも、雨が降っていても走ろうと思えばいつでも走れます。脳がそれに慣れていて楽しんでいる。逆に昔は健康のためにランニングはよいことが頭でわかっていても心がついてこなくて寝てばかりで立ち上がることすらできませんでした。同じ人はとても多いと思います。やらなければならないことがあってもできない場合は心に余裕と遊びが足りないのだと思います。他人から強制される状況でなければ自発的にできない。やるべきことを始める場合は遊びから入らなければならないと私は考えています。無理をしてもいつかやめる。後は心に余裕がなければ新しい物事を遊びのように始めることはできないと思います。
誰でもやらなければならないことは感覚的に察知できているはずです。しかしせっかくのアンテナを生かしていないように見受けられることが多々あります。油絵の世界は生得的な感性を花開かせる世界。私はやるべきことをきちんとやれるようになるためには「満足感」をいつも感じていることが重要だと思います。(一方で乾きも必要)
露骨なことを言ってしまえば収入面や自由な時間や人との出会いや仕事内容など人生を最大限に楽しむ大事な点が重要です。一つずつ妥協してしまえば満足することは到底できません。自分の安心を代償に、消極的になり、本来の潜在能力よりもずいぶん自分を貶めてしまっているため損をしている人は多いのではないかと思います。
油絵の世界では学校の先生になる人は多いですが、学校の先生の場合は教員免許を取ると決めた時点で妥協していると思います。その時の判断が間違いとは言いませんが私は生徒たちがこのような世界に足を踏み込むのであれば、今よりもっともっと何十年も先を見ていわゆる「夢」を可能な限り本気で目指して欲しいと指導します。生徒の親御さんとお話しする時に思うことですが公務員をされている親御さんがいつもいうのは「公務員をしているから安定している」「公務員をしているからお金がない」です。私立の芸大美大の授業料は公務員の親御さんの年収で対応できないケースが出てきやすい金額です。悔やまれる親御さんを沢山みてきました。公務員は立派な職業なのですが考えさせられてしまいます。一方で東京芸大から大手企業に就職した40〜50代の年収を考えた場合会社はどことはいいませんが1500万程度もらっています。難関校は大手企業へ就職するチャンスがあります。それに一般の大学ほど勉強ができなくてもいわゆる一流企業へ就職できる可能性が十分あるのですからデザインやアートに興味のある人は勉強よりも作品を作って仕事をした方が多分かなり楽ですしいいと思います。 -
安心を買うことは実はできないのではないか?
正直私は「自分の可能性を代償として安心を担保し選択することが世の中の常識として正しいような認識」はあるかと思いますが、よく考えてみて少し違うような気がします。何かに挑戦することを悪いことのように捉えるのは実は間違いだと思います。挑戦して結果的にそうなるのは仕方ないでしょう。失敗した時のことを考えずに猪突猛進することも間違いだと思います。できるかどうかの手応えがない状態で闇雲に挑戦することも間違いです。殆どの生徒が東京芸大の学生でさえも大学を出るタイミングではアーティストとして活動するには早すぎると思います。安心を買うために就職先を低く見積もることも間違いだと思います。結論を言えば一旦大手企業に就職することを勧めます。 -
産業革命と魚釣り
日本人はこれまで第二次産業革命の工業化の流れの中で黙って黙々とものづくりに励む国民像を美徳としイメージを作り上げて刷り込まれてきたように思います。確かにそれでよかった。そのおかげで日本は底上げに成功し、我が家のような社会の最底辺の層でも絶対的貧困に陥らず、相対的貧困と言われる中で、最低限死なずに生きていくことができ、教育を受けることができる。これがアフリカなどの絶対的貧困の国だとしたら私は奴隷のようなというか奴隷としてこのような偉そうなことなど言えずにいるのだと思います。社会の最底辺で生きてきましたが奴隷とか刑務所にでも入れられているかのような状況で生きてきました。社会的に奴隷で家庭では囚人のように。そんな状況では声を上げることはできない。でも、これからの世の中はもっともっと変わります。声を上げることができる。それによって人生を変えられる可能性がある。考えたり、創造することが許される。そしてAIによる第三次産業革命は全てを一変させる。これまで人が労働してきたことをAIがやるようになった時に大切なものは何か?私たち人間の大事なことは労働力を提供することではなく今ないものを絶えず創造し生み出し続けることだと思います。自分を変えられるのは「乾き」だと思います。「乾き」を抱いている人はそれが創造力を生み出す原動力になる。「乾き」を生かすには「遊び」という行為が大切だと思います。仕事でひらけない潜在能力を「遊び」が開く。全力で遊ぶこと。私にとっては「魚釣り」です。
人間にはストレスの限界があります。ですから、やるべきことをしっかりやるようにするためにはいつも気持ちに余裕がある状態でいなければなりません。私は親の元にいた時自由を一切認めて貰えませんでした。「満足感」を全く感じることができない。次第に心は死んでいきました。「満足感」を拘ることはとても大事です。それが許されない状況が社会には無数にある。そのようなことのためにアートがあるのだと思います。世の中から満足できない人が一人でも減るようにアートの世界は動けなければならないと思います。油絵はその責任を担っていると私は考えます。私が油絵に飛びついたのは油絵が「乾き」に答えてくれたからです。油絵がきれいにはまるタイプの人が世の中に大勢います。
第2次産業革命では向き不向きに関係なく工場の作業にはまらない労働者がおとなしく歯車や奴隷として生き、生かされる生き方に一定の美学が持たされ推奨されてきたと思います。今の油絵の世界にも同様の美学があります。画家は奴隷というような感覚がある。これは壊さなければなりません。これからは心を捨てて、遊ばず、耐えれば正解という時代ではないと思います。実はこれまでもなかったと思います。私が東京芸大に入った後に見たものは自分とは違う境遇に生きる様々な人たちの生き方です。ものすごく大きな隔たりがあり、格差があり、「満足感」が違う。これからの時代は黙ってできる仕事は奴隷ではなく、次々AIがやるわけですから、発想を180度転換する必要があると思います。(そんなような中にある油絵を想像すると油絵の新しい可能性が沢山見えてきます。)
より良く生きていくためには、とにかく真面目なだけではダメです。例に私の育ったガチガチの我が家のことをあげると良いかもしれません。思えば問題の多い家庭でした。事実私の生まれ育った家庭はこんな偉そうなことを書きながら皆さんのご家庭のように立派ではありません。恥ずかしながら崩壊しました。ガチガチの・・とは例えば母親は彼女が家を出て行く私が中学生になるまで私に一切テレビを見させず、外に遊びにいかせず、友達が一人でもできればすぐに絶交させる。簡単にこのように書いただけでも世の中のスタンダードとは程遠い行き過ぎた子育ての失敗例ですがガチガチ、保守的、間違った教育熱心(勉強を教える能力はないので教わってはいません。勉強はしませんので何もしないだけです。)という点では検討材料の対象に使えると思います。時が流れて私は大人になって、簡単に言えば反面教師です。私は子供の頃のしつけで教育されたこととは真逆の生き方をしています。沢山の遊んで沢山稼ぐ。人と積極的に関わり人の役に立てるように務め、友達を作る。生徒にはどんどん遊ぶように指導します。世の中のほとんどの親御さんが我が家ほどガチガチではないと思います。しかし私が今遊びを仕事にしているように毎日楽しくてしょうがいないような生き方と比べて頂いたら多分ガチガチの要素は失礼ですがあろうかと思います。
(油絵などのアートの世界のように)やりたいことを思いっきりやって、楽しく遊びながら収入を得て生きていく。「遊び」は「渇き」を「癒し」ながら生きていく上で力を爆発的に出してくれます。その逆に遊びがなくなればそれだけ力は出ずに行きすぎれば病気になります。色々やらなければならないことがあっても眠くなる。爆発力が引き出せればそれほど寝なくても勝手に体が動きます。毎日釣りをしている時なんかは3時間程度寝たらカッカしてそれ以上寝る必要ありません。この文章を書いている時もそうです。我が家は見事に私も、父も、母も病気になりました。(本人たちが自覚しているかはわかりませんが重度の心身症です。)そこから脱却(鬱抜け)できたのは私一人ですが父も生涯収入が上がらず、母に関してはガチガチすぎて一生働かない人生送ることになりました。 -
油絵の世界にはカラクリがある
私は油絵の世界をオススメします。ただ、今の世の中にある油絵のイメージや油絵を描く画家のイメージをそのままオススメするつもりはありません。画家を奴隷と考えている輩が実に多い。
一般的にある油絵に対する認識は「食べられない、難しい、才能がないとだめ、下火、斜陽、絵なんか描いてもしょうがない」等々ネガティブなイメージがあり、ほとんど食べられない人たちの中のほんの一握りの人だけが成功して食べているというものだと思います。でも実際とはかなり違うので、そこの所の誤解を解いて、油画科の良さをしっかりとお話しさせて頂きながら改めて油画科をオススメさせて頂きます。
まず油絵の世界に限らず世の中にはスターを作り上げるカラクリがあります。カラクリは私もそうですがあらゆる分野で暴露されてくることだと思います。私は今回のお話し等でこのカラクリによる幻想を解いて真っ当に生徒を集めていきたいと考えています。 -
お金が入ることをしなければ続けられるわけがない
まず一言だけ言わせて頂くと「油画の世界で食べている人の中に誰一人として特別な人はいません。」ただ風評や下で話す「天才幻想」に惑わされずにやりたいことをやった人が落ち着いて絵に関係する「経済的活動」を行なうことにより生き残り食べ続けています。経済的活動という所がポイントです。つまり、「お金が入ることをしなければ続けられるわけがない」という単純な理屈です。誰もが口では理想を語りながらも、モヤモヤとした雰囲気に表向きは同調しながらも、確実に生活を続けられるように考えています。(参考になりませんが、私の通った東京芸大ではやはり親御さんが政治家、芸能人、医者などなど卒業した後に収入を得なくてもいくらでも遊んで暮らせるような状況の人も一部ですがいます。)でも、この単純な経済的活動をすることに罪悪感を抱かせたり純粋ではない後味の悪さを抱くようにこの世界では幻想が仕掛けられています。そのため本当に純粋な人は病んでしまったり、破綻を起こしたり、適切な距離を保てなくなり付き合いきれずに他の道に進んだりします。幻想の漂う空気の中で上手くやる。そのことがとても大切だと思います。そして今の時代、もういい加減この幻想は通用しなくなる。なぜなら私もそうですが(他に私のように本当のことを話す人は少ないですが、でもクマビには少しずつ集まっています。)本当のことを暴露していくからです。そのため自浄するのがいいと思います。外の人のお世話になるのではなく自分たちの力で幻想を討ち払わなければならない。私はそう思います。クマビの油絵科ではその辺りも指導しているとお話しておきます。
油画科の人間が特殊な能力を磨いていることは確かです。何もないところから価値を創造し生み出す。そのような創造力を磨き続ける。絵の上手さというよりも私たちが磨き上げているところは創造力です。油絵畑の人はその力を使ってあらゆる方向で活躍できるはずです。油絵畑の人は「新しいものを生み出し続ける」そのポリシーを忘れてはならない。残念ながら今はその多くは生かせていないと思います。油画の人間は全員今のところ世の中からただの変人扱いされたり、時代錯誤に思われている。でも実際に本当に変人かと言えば変人として見る見方が植え付けられているだけで、本当は変人でもなんでもなく、ただ普通にやるべきことをやる人です。 -
天才幻想
油絵の世界に対する私の実感ですがほんの一握りの人だけが成功して食べているということは実際に本当のことです、でも、これは一握りの人しか成功しないと思わせられ油絵の世界を盛り上げるために生み出された幻想が作られ思わせられています。それを続けていくうちに結果的に現実が本当にそうなってしまって当事者たちでさえもモヤモヤと境界線が見えなくなっているだけだと私は考えています。実は現実は作れるのです。というか世の中にあるイメージはデザインされたものです。
よくある業界の裏話、芸能界や政界や社内や学内派閥のように、実際に周りが持ち上げている人物は持ち上げているからすごいように見えているだけで、実際は見せかけだけで本人の正体を知れば本当は普通の人です。職業柄というか政界や芸能界の家族の方に関わることは多いですが家族から見た内側の人物像はリアルに普通です。でも遊び方が悪い意味で派手な人が多い。
事実、今現在油絵の世界で食べている人の中に特別秀でた何かを本当に持っている人はいません。食べていけるように絵の経済的な活動をきちんとして食べているだけの話です。ただほとんどの人が人並外れて努力をしていることは間違いないことです。
油絵の世界に限らずどんな業界でも業界を盛り上げるために精一杯の演出をします。なんとか作品が売れたり、来客を増やすために特別秀でているように見せかけます。普通の人でも1万人から選んでおけば特別になる。広告料を考えれば1万人から選ぶことなど安いものです。でもそのようなことは外のお客さんに夢を見させてはくれても、外の皆さんに油画の実際の機能を見せる機会を無くします。特別なものだと見てしまえば本当の機能は見えなくなるのです。美術館などなどそれで失敗しています。それが長く続いて油絵がわけの分からないものになってしまっています。内部でも、わけがわからず油絵を描いている人だらけになってしまっている。
私がこのようなことを話し、この場で暴露のようなことをするのは教え子を健全に育てたいからです。そして正しいやり方で生徒を集めようと思います。現状ではわけのわからないいき過ぎた「幻想」があります。変な盛り上げ方によって絵を描くことの本質が全く伝わらず、この業界(美術館、芸大美大、画廊、美術評論家、画家)は誤解されてしまっている状態です。そんな中で生徒たちは集まっています。いかがわしいので結果的にこの業界は回復の手立てがなく今にも消滅してしまいそうな速さで急速な人離れが起きています。「天才幻想」によって人を集めることをやめ、実際の機能で人を集めることが大事です。 -
誰もが絵を描くようになる
絵画という古いメディアをよそに今はインターネットによって誰でも動画を配信できるようになっています。タレントのように事務所に認められなくてもユーチューバーになれる。絵の世界では誰でもアニメを作ることができる。そして漫画もイラストも自由に描いて発表することができます。今、絵の世界に必要なことは「絵を描く」ということを特別扱いするのではなく、普通のことと捉え直して、本当は誰でも絵が描けるわけですから、今すぐに誰でも絵が描けるように描き方がわかるように情報を発信することです。誰もがアニメや漫画を描けるようになった時、今の幻想のまやかしは全く通用しなくなります。そうなってから気づくのではなく、もう動くべきです。今の時点で巨匠と言われ崇められている画家たちの作品は全て、近い将来誰でも描けるようになります。必ず・・。そうなった時、美術館、画廊、美術評論家はどうなるかよく考えてください。誰もが絵を描くようになる前に立ちはだかっている最大の壁は絵は才能がないと描けないと誤解させていることです。 -
美術館
正直、美術館は普通の人はそれほど見に行く必要はありません。なんとか入場者が増えるようにあれこれ広報で努力するのはわかりますが、私は美術館はそういうものではないと考えます。つまり入場者はそれほど沢山の来なくても構わない。そこを曲げようとするから歪みが生じています。美術館に限らず、全てにおいて無理が生じているように思います。
例えば美術館は入場者が来ないのであれば倉庫でいい。その倉庫に特別に作品を見せて欲しいという人が訪れた時に許可を出して見せるようにすればいいのです。そうすれば美術館の管理は全てセコムに任せればいい。たまに訪れる来客の対応も常駐の警備会社の人かセコムに任せればいいのです。さらにはセコムは無人でAIが来客の対応をしてくれるシステムを作るべきです。地方の自治体が美術館を作るのは作品は倉庫にしまっておくものではなく美術館にしまって定期的に展示し来場者で収益を見込まなければならないと思い込んでいるからです。関係者は採算が取れないことが作る前からわかっていても美術館を作るという美談によって、さらには文教族などの力によって税金を投入して作れてしまいます。そのような流れで日本中にとても沢山の美術館が作られてしまいました。作品=倉庫にしまう、という発想は許されません。これが赤字で運営している美術館の間違いの原因だと私は考えます。ほとんどの美術館は黒字にならないことがどこかでわかりながら作られています。
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天才幻想を壊して新しいイメージで生徒募集します
絵で食べていくことが普通に努力すれば(大変)ですが現実的に可能だということが正しくお伝えできれば絵で食べていく人生を選ぶ人は確実に増えるはずです。でも年々減ってきているのは、作られた「天才幻想」によって自分の後ろ立てになるものが何もなく。ない橋桁を見てほとんどの人が思いとどまるからです。天才を祭り上げた功罪がここにきて巡ってきている。さらには私がこれまで培ってきた指導のノウハウを実践するためには世の中にある誤った「天才幻想」という認識を壊さなければなりません。それとコンクールなどで盛り上げて一人を選ぶやり方は辞めるべきです。
私がオススメしたいのはそのようなネガティブなイメージをそのままなぞる油画ではなく、視点を変えて発展性のあるポジティブにみることができる油画をみなさんにプレゼンテーションしたいと考えています。その上でのクマビの油絵(画)科の生徒の募集です。
今までにないポジティブな油画の世界観を皆さんの前面に押し出し、「食べられる、才能は関係ない、これから発展する、皆が絵を描くようになる」ことを前提に油絵の世界を可能性に満ちた形でオススメしようと思います。 -
東京芸大が流そうとしている絵を描かない画家たちの存在
ネガティブなイメージを纏う油画にありながらクマビは油画をポジティブにオススメします。私は自称「絵を描かない画家」です。私がクマビから生徒を送り出そうとする東京芸術大学、日本の油画の世界、特に東京芸大の油画は油画を否定的に捉えてきました。そして否定してきたこの数十年の時代を歴史的な記録に残さず何ごともなかったかのように流そうとしています。その中で私のように「絵を描かない画家」がいることは、つまり流したい彼らの盲点であり、一度絵筆を置き、有名になることも、出世することにも興味を持たず、芸大から離れ、状況を見続け、打開策を一日中考え続ける、絵画の再興を人生を懸けて取り組もうする人間がいることは考えもしなかったことだと思います。つまり絵画および油画の再興に関してポジティブな論理を打ち出せる画家は残念ながら今の油画をなぞる人たちの中にはいない、だろうと考えます。そのためまず私自身が常識をなぞることをやめ、発想を180度転換することにしました。すると程なく様々な可能性が見えてくるではないですか・・。これは組織に属してしまうと見ることができず、見えたとしても手を伸ばせないことだと思います。私がいた頃の東京芸術大学油画専攻では最初の授業で陰陽二気論について教わりました。陽があると同時に陰がある。この陰と陽はいつでもひっくり返る可能性のあるものなのです。 -
ネガティブなイメージを捨てポジティブにイメージしてみる
陽は陰に陽が当たらないように働きかけます。陽の側にいる組織が陰に対して絵を描ける可能性を隠していることとその理由は、発想を転換すれば容易に見えます。でもそれが見えないような錯覚に陥っているのは様々な仕掛けによって幻想を作り上げているからです。(例えば美術館)実は誰でも描ける絵を特殊なことに仕立て上げる。その辺りを紐解いてしまえば、油画の世界にどれだけの可能性があるかが誰の目にも手に取るように見えてきます。油画の世界は潜在的に大きく化ける力を眠らせている。その力を解き放たなければならない。そのために油画の新たな可能性を皆さんはお話します。
通過儀礼ではないですが、皆さんの発想の転換を行うため、まずは大前提としてネガティブなイメージに支配されている考え方を捨てて頂きます。そこから新たにポジティブな見方に耳を傾けて頂きます。
油画の世界はネガティブなポリシーで語ることが正解とされています。ネガティブを、それを前提にして突破してみせることを美徳とし、神がかった話に仕立て上げられています。これはコンシュマーエンジニアリングの手法で、売れないものが売れるように見せるために仕掛けられている仕掛けです。特殊でないものをあえて特殊に見せている。ポジティブなものは安易に見えてしまうときがあります。そのため絵を描くということはとにかく難しいことで特別な人間にしかできないことのように徹底的に語られます。でも実際はどこにもそのようなことはないのです。難しいことは少しありますが誰にでもできることです。油画の世界には誰にでも取り組みやすいような、安易で平坦に見えるイメージはありません。現状ではそれが油画の社会的な立場を狭め失わせ、油画の世界に入ろうとする人たちの興味関心を遠ざける結果となっています。油画の世界には無数の可能性があります。しかし入口に人を呼び込めるような、人の関わりを生む切欠にできるポジティブな概念というか、キャッチコピーのようなものは見事に存在せず、油画は何も持ち合わせていません。キャッチコピーが作れないことが実は実態を如実に表してしまっていると言えます。真実があればそれがコピーになります。残念ながらそれが存在しないのです。このような油画の世界、残念ながら気の利いたズパッと一言でこうだと言い切れる油画の良さ的な共通言語になるものがありません。優秀だと思っている美術評論家の方にズバッと言ってみて欲しいです。それができないなら絵画にとってその方は全く必要ない。ズバッと言えない。そうなると今の段階としては、とくとくと説明するしかないのです。
さて、油画の可能性は誰も説明しない・・。著名な美術評論家も、東京芸大の教授も、画廊も、美術館も誰一人としてできない。できないので、私は指を加えて傍観し尽くした後に、かくなる上は自分が話そうと思います。
本来であればこれは美術評論家の仕事。そして美術館と画廊が上手くプレゼンできなければならないことです。それができずに来館者が増えずに嘆いているだけなのですから困ります。本来油画等の魅力を語る。それが彼らの本職なのです。でも彼らはそれが全くできず。そのため私は美術館をディスりますし、画廊もディスりますし、美術評論家が嫌いですし全く意味をなさない彼らを私は評価しません。モードやコードや新しい表現方法やスタイルを散々あぶり出して重箱の隅を突きまくった挙句にそれしか方法がわからず、時代錯誤なことは誰でも肌で感じることが容易な現代でも、絵画となればさらに重箱の隅を突くしかできないようなことしかしていません。無意味で無味無臭な権威ばかりが目立ち、実態のない様を眺め続けて、コンクールというからくりを仕掛けてわけがわからず偉くなるばかりで大きく舵を切ることが誰もできない状況に本当に辟易します。でもすみません、待ってください、油画には価値があります。 -
油絵には価値がある
私がなぜ油画のススメを書くのかと言えば、やはり油絵の世界にはこの世界にしかない価値があるからです。そしてその価値の真ん中にどんと居座れば全然問題なく食べていける世界です。それを話さなければならない。
同級生で漫画家になれた人もいるし、現代美術の世界で頑張り続け成果を上げ始めている人もいるし、学生の時には私にも買える程度の金額だった作品が今ではとても手が届かないような金額になっている画家もいるし、企業で偉くなっている人もいるし。
何より私自身は油絵以外の世界では病んでいたせいで生きていくことが困難だったということがありました。私のように変わった状況?境遇?にある人でも生きられる世界だということを伝えなければなりません。私は油画の世界だからコミュ障(油画の先生たちはコミュニケーション能力が大切と言いながら目が死んだ魚のような目でどう見ても元々コミュ障だったことが伺えます。)でもやっていけたし、発達障害でも受け入れられたし、失読症で全く読み書きができなくても(今はかなり書けるようになりました。人は必ず成長します。)やっていけたし、舞踏アテトウーゼ(てんかんの一種)の私でも仕事になって収入を得ることができました。それに割と楽に楽しく生活しています。みんなが絵を描いている傍でそれを見てアドバイス(真剣ですが)するだけですから基本は楽(昔はとても苦しいことが沢山ありました。それを経ての今ですが・・)です。
この世界はリスクばかりの世界のように語られることは多いですが、ある種の境界線とでもいいましょうか?境界線の内側に自分の身を委ねればリスクでもなんでもなく。つまり油画の人間になり切ることで化学変化が起きてリスクはリスクではなくなります。油画の世界の境界線の外からみればリスクでもリスクの中心にいればこれはチャンスでしかありえないのです。そもそも仕事とは問題を解決することを言うので、問題を正面から真摯に受け止めることは生活に直結するものです。つまりチャンス以外の何物でもありません。この境界の内側に入るのは理屈では簡単です。一日中問題の解決のことを考え続けるのです。そして少しづつ解決していくこと。そうすれば食べられない訳はありません。そのためこの境界の中に入れる人には油画の世界はオススメです。もちろん実は荒れたこの世界はチャンスの山です。
私はたまに変人のように言われます。前の職場では周りの人間は全て敵(裏で生徒たちの悪口を表とは全く別人格の顔をして言っているのを諌めてから10年間敵視され続けました。でもそれは私に取って正義ですから気持ちがいいです。)でしたし、就職した人たちからすれば就職しないで生活している私は理屈としても、常識としても、きわめつけはそんな状況に耐えられる精神構造からしても理解不能な変人です。つまり裏を返せばこのような人は油画科に向いています。そしてそれなら可能性を最大限に生かすために就職はしない方がいい、と私は考えます。就職しなければお金が入ってこないと考える人が多いと思いますが、ズバリその逆です。就職する以上に桁外れに儲かります。そこで問題なのは大学にいる間に経済的活動の手段を明確に掴むことです。収入を得る明確な方法がなければ絶対に無理なので大手企業に就職するべきか就職せずに生きていけるか実はわかるはずです。
このような油画科ですが、就職希望者にも向いているのが油画科です。なぜならばリスクを恐れず問題と真摯に向かい合える人材を企業が求めているからです。事実、私の大学の同級生は普通では考えられないような適当な就職活動で大手企業に就職しています。それで採用されるのも納得できます。そして大学は東京芸大に関してはあくまで私のこれまで関わってきた人ですが大手に就職できなかった人はいません。
油画には私のように変人扱いされる人(私は自分では実のところ変人とは思っていませんが)が割といます。変人扱いされることは悪い事ばかりではありません。あ、まず、悪いことはあるので先にお話すると、浪人したり、失業したり、事業を軌道に乗せたりするまでは家族や周りの人からは忌み嫌われます。あとで挽回しますが、職場でも普通に生きたい人たちからは嫌煙されます。でも、いいことは、面白い人が横のつながりで集まることです。普通に考えて接触できないような誰とは言いませんが様々な分野で政治や芸能界や漫画の世界など色んな人たちとつながれます。そういった人たちも実は普通の人です。そんな友人たちとご飯を食べたりしていると面白いな〜と思います。
私がこれまで油画の世界で生活してこれたのは一日中油画のことを考え続けたからです。食えない時は夜中にコンビニやヤマト運輸の物流倉庫とかオリジン弁当(私はオリジンの常識を変えた女性しか雇わないオリジン弁当初の男性アルバイトです)でバイトをしていました。当時の1日の睡眠時間2時間程度でしたね。それを何年も続ける。でも峠を越えた今は遊べる時間は好きなように作れます。暇さえあれば釣り。詳しくは書きませんが事業をしているのでお金も大きなお金が入るようになっています。事業にはリスクがあると考える人がおられるかと思いますが、絶対的な強みがある場合は潰れません。その世界のスタンダードというか軸になれるくらいにその世界のことを考え抜けばいいのです。世の中には本当に真剣に世の中のことを考え抜いている人たちがいます。彼らは絶対的な強みを持っています。そのような強みがある場合は仮に一時的にショートしたり倒産したりしても誰かが資金を援助します。何があっても周りが捨てておかないような仕事をすればいいのです。(これは油画に限ったことではありませんが・・。) -
教えることで必ず発展する油画の世界
油画の最も特徴的なところは「世界がない」点です。油画を扱う美術館、美術館へ出品することを目指す公募団体、美術市場、市場に作品を出す画廊、画廊の扱う作家、大学、大学の教員を目指す画学生、一般的な油画に対するイメージ。これらの全ての世界観は一変します。それは「教える」ことで起こると思います。 -
ポジティブな話 その1「食べられる」
これまでの画家は画廊と契約して作品を卸したり、大学などの学校で働いたり、公募団体の会員になったりすることで収入に繋げてきました。これらは全て画家を特別な存在に仕立てて成立されたいわば幻想によって作られた世界です。つまりこれらは普通の人と称する画家以外の人たちにはできない特殊能力だという前提で成り立っている実際とはかなり違う作られた世界観、つまり幻想です。これがこれから簡単に崩れるのはいわゆる種明かしをするからです。そして種明かしをした後には誰でも絵が描けるようになります。
我々が食べられるようになるのは第一段階として誰でも絵が描けることを世の中の皆に教えることです。これによってアナログの絵のみならずデジタルの世界で誰でもアニメーションや漫画を描けるようになります。絵を描けないおかげで漫画を描かない人が大勢います。そのような方々はいなくなると思います。と同時に世の中で伝えるものの多くは漫画でわかりやすく描けるようになります。日常の中で例えばいじめを受けた状況などわかりやすく漫画にして図解することが可能ですし、他にも写真には写せない、想像を視覚的な形に表せるようになります。いじめ等の言葉化の難しい状況を表現できることもさることながら、教科書の内容を全て漫画化することができます。私の思惑では学校の先生が教えたいことを漫画に描くようになります。そうなれば教科書の内容を全て漫画に起こすなど時間の問題です。できれば漫画大国日本は世界に先駆けてそれをやって欲しいと思っています。漫画家の仕事も爆発的に増えるはずです。教科書の内容を漫画とアニメーションにすることで活字では理解し難かった状況を一変させることができます。そして私はディスレクシアという失読症(学習障害)ですが同じ障害に苦しむ人がしっかりと学べるようになると考えています。
これからの絵画の世界が見本にしなければならないのはダンスの世界です。40年前なら誰もできなかったムーンウォークも今はやりたい人なら誰でもできます。やり方さえわかれば才能でも天才でもなんでもなく誰でもできるのに天才幻想の同調圧力でそれを阻止しています。こんなことが恥ずかしながら絵画ならびにアート全般にあります。自由な表現など名ばかりです。全て権力者の都合で仕掛けられた世界。音楽は訓練が必要ですが、絵画の写真をトレースしない描写力は訓練の時間を要しますが、それ以外は訓練が必要なことはあまりありません。描写力と言われる力を身につけるにはある程度時間がかかりますが訓練さえすれば誰でもできるようになります。誰にもできないという認識を180度変えることで、東京芸大のOBの多くは収入が得られるようになります。日本中には高度な描写力を持つ東京藝術大学の日本画、デザイン、工芸、彫刻に合格できる程度の力を持っている人たちは大勢(数万人規模で)います。その中で現状仕事に困っている人は大勢いるはずですから、誤解さえ解ければ興味を持って描けるようになりたいと思い習い始める人がこれは数百万の規模でいるはずです。教える先生たちが十分食べていけるようになる程度にはいます。皆に絵の描き方を教えることを邪魔しているのは「天才幻想」です。この幻想を打ち破らなければならない。 -
ポジティブな話 その2「経済的な活動を何か1つ選んでいる」
油画の世界で生き続けている人間、私もその一人ですが、必ず収入を得る何かがあります。その手段は基本的に大学在学中に掴んでおくことが大切です。
小平の場合・・・美術予備校が経営しています。美術予備校では東京藝術大学の合格者を出せるかどうか?が要になります。大学在学中に大手予備校で指導をしていた時に大学卒業後に生活しいく手段になる可能性があるので生徒の現役生を東京藝術大学に合格させて実績を作っておきました。
漫画家になる人・・・大学在学中に漫画を描いて連載させる人は昔からチラホラいます。私が大手予備校で指導していた時の同僚もその一人、予備校をやめて漫画を描き始めて半年後には連載を持っていました。大学卒業後というより、在学中を利用して連載を持てるようにしておくことができます。
画廊と契約する人・・・私は大学合格と同時に画家として絵を描いて成功するイメージがありましたので合格発表を見ると同時にその日から絵を描き始めました。学内に展示すると同時に画廊がついたので契約し、2年生の終わりに個展をすることになりました。個展の前に作品は全て画廊が買い取る契約で、個展の時にはコレクターのみなさんが全ての作品を購入されていました。私が契約した画廊は今でいうコミュニケーション画廊、いわゆる商業画廊で、当時は日動画廊以外はまだ珍しく、今では有名な小山登美夫と数名の若いギャラリストによって銀座から少し離れた青山や私の画廊は九段下などでコミュニケーション画廊がオープンしたタイミングでした。当時は我々の作品が将来どのような評価になるのかは理屈ではわかっても肌ではわかりませんでした。それから25年経った今、同じ画廊にいた他のメンバーはいまだに続けていて作品の値段は10倍以上跳ね上がっています。当時私たちの作品を画廊が全て買い取って、コレクターはそれを購入しておく理由が今ではよくわかります。 -
ポジティブな話 その3「才能は関係ない」
油画の世界で「才能、才能」というのは「才能」という言葉で盛り上げたり、たらしこもうとする時です。描き手であるこちら側の描き手の世界では才能という言葉を聞くことはありません。つまりお互い盛り上げることもありませんし、同じ芸大生で相手を利用しようとたらしこまなければならない時はないのであるのは作品をどうするか考えるのみです。現状をよく見ないで流そうとしたり話を実力以上に飛躍させようとする時に「才能」という言葉は使われます。東京芸大の油画専攻の中で才能という言葉は一度も聞いていません。皆よくわかっているなと思います。
この世界で「才能」という言葉が使われる場は作品を売買する画廊やオークションです。作品を売るために「才能」という言葉は使われます。私自身秋葉原でパチモンの版画をパチモンの女性が私に画廊の前で売りつけようとした時にパチモンの版画を「才能、才能」と連呼していました。どんな詐欺行為を働いているのか調べようと思い話を聞きましたが私が東京芸大の版画専攻で版画の勉強をしていると言ってもスクリプト通りに「才能」の連呼は止まりませんでした。他にも「才能」という言葉を耳にする機会はありますが意味があることはありません。 -
ポジティブな話 その4「これから発展する」
次のその5「皆が絵を描くようになる」がこれから油絵が発展する原因です。ダンスを例に出していますが、ダンスを踊れる人が増えているように絵を描ける人が増えれば絵がわかる人が増えます。というかほとんどの国民に絵がわかるようになると思います。そうなった時にコンクールは意味を持つようになります。現状ではスポーツのオリンピックのように油絵を描く画家の活躍の場はありません。新しいスタイルや表現方法、コンセプトを模索しなければならない方針がやり尽くされた今でも惰性で続けられています。これが治らないのは今の状況で利益を得ている保守層が状況を固持しているためです。コンクールは昔から公募団体が存続していますが模索の時代に団体から新しいものが生まれた形跡はもう100年近くありません。それでいて栄誉が与えられ続けているのですから意味がわかりません。盛り上げによって飾られた作品と会員や審査員には出品者からの上納金が支払われることがあっても絵は賞の箔があるからすごいものだというメガネでみるだけで作品自体にはっきりと他との差異は見ても確認できません。
誰もが絵の良さを見れるようになった時に本当の意味でコンクールは価値を持ちます。その時には年間に何十億も稼ぐ画家も出てくるはずです。油絵には時代の流れに関係なく普遍の良さがあります。その価値を確定させ競うことで油絵は間違いなく大きく発展します。今はその基礎を作る時代。皆が絵を描けるようにどんどん教えていかなければなりません。 -
ポジティブな話 最後に一言「皆が絵を描くようになる」
上でも描いたようにダンスの世界が誰でもムーンウォークの仕方がわかるようになったように今の油絵は30年前のダンスの世界と同じ状況だと思います。 -
仕掛けられた話 その1「祭り上げなければ売れないから祭り上げる」
アーティストは自然に発生して自然に見つけられて自然に有名になって売れていくことが不可能な時代です。つまりアーティストは祭り上げる仕組みを考えてそれに誰かを乗せるようにすれば売れるけれどもそのような仕掛けを企てなければ誰も売れることはない。ということです。この仕掛けは展覧会を企画する前から計画されており展覧会を終えた後の展開も企画者は事前に計画しています。これらは関係者が利益を上げていく目的は勿論ですが、アーティストがこのような仕掛けを用いなければ売れようがないこともあるのでアーティストを売り出すという目的もあります。でもこれを知っているコレクターや画廊や大学や美術館や政治家が連携しているので文教族は儲かりますし、それに関わる業者も儲かりますし、コレクターもインサイダー取引のように動産を購入できますし、諸々儲かります。アーティスト1名に陽が当たることは良いのですが、このような仕掛けが横行しているので実力ではどうしようもない状況になってしまっている影があります。このことを知らずに猪突猛進して何の結果も出ずに苦心してる人はあまりに多いことが懸念です。少なくとも自分の教え子には教えておこうと思います。
私はこの主な原因はそもそも「祭り上げてしまったから」だと考えています。祭り上げて凄いもののように派手に見せなければ誰も見向きもしてくれないのです。芸能人も売ろうとした時に周りが持ち上げてステージを作りそこに一人立てた人は光り輝いて見えます。それと同じようなことが政治家にもありますし、アーティストも見事にそのように祭り上げなければ売れないようになってしまっています。アートの世界をどうにかしようとする人たちのやることはアーティストを発掘したり、育てたりするというよりも祭り上げる仕掛けをどう作るかに専念した方が一人でも多くのアーティストを助けることに繋がるのでそのように働きかけている人は多いと思います。その状況を知る内部の人間の多くはその中で自分が売れたいとはなりません。例えば隣にいるなんでもない友達が祭り上げられて売れるという状況を垣間見ていくわけですからそれを見ていれば興味はわきません。それを見れば私の知る限りほとんどが一歩後ろに引きます。前に出た奴もいて芸大の先生になっていますがその様子を見てしまえば普通はなかなか自分からは前には出ません。ただ生徒には生徒が成功?するためにこのような話はして、その仕掛けに乗るように話をします。同時に仕掛けがなければ売れようがないことに気づいてもらえれば良いと思いますし、私個人としては仕掛ける側の方が安定しているし実力勝負ができるので仕掛ける側に興味を持ってもらっても良いと思っています。このような状況から東京芸術大学の学生の多くが売れることには興味を持ちません。意外にも先生の多くは無名ですし、後任の先生を前任の先生が決めるという構図があるので何の力もない人が東京芸大や多摩美や武蔵美の先生になったりしていますが、そうではない先生もいるのである程度実力を見てもいると言えます。東京芸大で言えば本当に公平なのは学部の入試までです。大学院では私は落ちましたがだらしがないどうしようもない人でも気に入られれば大学院から先に進めます。先生の都合の良い生徒かどうか?をとても大切にしている先生が残念ながら多いです。絵の外の世界も1日も早く祭り上げられている祭り上げられ感でアーティストをみるのではなく作品そのものを見て頂けるようになることを願います。アート作品は箔だけで見て内容を全く見られていない状態なので好きなようにされています。そんなことをさせないためにも外の人たちが正しい見方ができるようにならなければならないのです。 -
仕掛けられた話 その2
油絵ならびにアートの世界で企てられた仕掛けはダンスの世界と同じように溶けていきます。ダンスの例に挙げると今から30年前は普通の人は盆踊り程度しか踊ることができなかったため、少し振りをつけたアイドルのダンスをとても才能のある凄い上手なダンスのように見ていました。しかし今はダンスに興味のある人なら30年前では誰もできないような高度なダンスを踊ることができます。才能でもなんでもなく「やり方」がわかるのでそれが可能になりました。そうすると今の時代では30年前の当時凄い上手なダンスと思っていたアイドルのダンスがとても安いものに見えてきます。見た瞬間に誰もが失笑します。それと同じように油絵とアートの世界ではこれから「やり方」が誰でもわかるように私や色んな人がインターネットや学校で教えていくので、周りが祭り上げただけの捏造で評価されている作品は全て安いものに見えるようになります。今でも安く見えているものはたくさんありますが、美術館が代表するように周りの盛り上げがあるので同調圧力が働き大声で安いとは言えません。でも、皆さんお気付きの通り安いと感じている作品は全て安いのです。ピカソでさえも(良い作品もありますがホイホイ適当に作った作品を評価させる仕掛けによって評価させていただけです。)本当は安いものです。このような価値のあるとされていたものがある日を境に突然価値をなくす現象はもうすぐ起きます。美術館、画廊、東京芸大、市場、公募団体全ての権威がまだそれに気づいていませんが、これからどんどん誰でも絵が描けるようにしていくのでこれを読んだ人は頭の隅に置いておいてください。 -
仕掛けられた話 その3「高いものがいいものではない」
ご飯を食べる時、近くの安い食堂によく行きます。その近くに少し高い店がありますがその安い食堂よりも美味しくないのでそこには行きません、誰もそこには行かないのでいつも車で通ってガラガラな様子が見えます。悲しいかなその店が油絵のように見えます。
値段はつける人の自由。わざわざ値段をつり上げてから買うのも自由。高級品を買う人は高級だから買うのです。ただ私は興味ありません。油絵は高級だから買う人の論理を持ち込むと本質を見失います。絶対にやってはならないことです。
実際私はいわゆる高級車には乗っています。ハイエンドの。高級車に興味はありますがそれは性能に興味があるだけで見栄とか虚勢のための興味は全くありません。新車で買うときもありますが使えれば中古でも走る車でいいです。今現在は色んな機能を持つ車たちがあるのでこのまま10年は乗るつもりです。車を皆よく買い換えますが自分はあまり興味なくこのまま乗りつづけて浮いたお金で次は船を買います。ハイエンドの輸入車を買う人は中古にすれば船を変えるのでその方がいいんじゃないかな?と思うことがよくあります。
食堂と同じように絵画も値段が高ければ良いというものではありません。洋服、宝石なども同じです。絵画は視覚表現です。視覚表現で安くていいものは沢山あります。私の携帯に入っている家の犬の画像は私にとって名画よりもいいものです。名画と家の犬とどちらを燃やすと言われれば私は迷わず命ある犬残し名画を選びます。
物の価値と値段という価格は同じではありません。油絵や絵画、アートは盛り上げをよく行います。オークションで競り上げるのもその一つです。でも競り上がった作品がその金額に見合った良さがあるのかと言えばありません。ZOZOの元経営者がオークションで高額な作品を買っていましたが、私は宣伝効果としては広告で同じ金額を出すよりも効果があるように見えましたから、そういった意味では上手いかもな?とも思いましたがでも、それは事業者としての関心で画家としては全く興味ありません。基本的にそんなことに干渉しても馬鹿らしいので無関心です。市場で高額で取引されている作品の中で金額に見合った良さのある作品はありませんので本当に干渉しないようにしています。たまに一般の方に高額な作品の良さを教えて欲しいと言われますが、全くないのでそのまま全くないと話します。それよりもオークションで釣り上げた作品の価格は間違いなく値崩れするので、そのような作品は買わないように注意を促します。オークションで競り上げて儲けたいならその前にその作家の周辺の安い作品を可能な限り買い尽くし、それから競り上げるようにすればその後瞬間的にその作家の作品は全て値上がりするのでその間に売り抜けるようにアドバイスします。まあいいながらくだらねと思います。
動産として高級な油絵はあくまで動産としてマーケットの中だけで生きる価値があります。それは視覚表現としての良さとは全く別物なのでそれを混同して混乱する方がおられるので全く別物として考えて頂きたいと思います。
マーケットを主催する側は実際の作品の価値と市場の価格とは連動していると言いたいので、具体的なことが言えないので才能だの天才だの綺麗だの美しいだの適当なことを言って誤魔化します。その余波でどれだけ油絵の本当の良さが曇っているか絵を描く立場の私からすると本当に迷惑なことです。 -
最後に一言
「私は絵を描かない画家としての人生を送らされました、その代わりに油絵の新時代を創生させてもらいます。そして油を皆さんにオススメします。」
小平 崇史