JR熊谷駅北口徒歩15分
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  • 私にとっての神

     私の中には2つモードがあります。「神に対する従順モード」と「神に対する強情モード」です。
     どこの世界でも組織の中でそこそこ出世をするなら従順でなければなりません。それは美術の世界も同じです。大きな矛盾や不満があっても耐え忍ばなければなりません。美術の世界の神の決め事に従順に従わなければ出世は愚か大抵生きていくことはできません。一方、美術というかアートの世界では従順に生きていては歴史に名を残すというかアートの世界で本当の意味で評価されるというか、本当にやるべきこと、つまり思った通りに自由に制作し歴史を変えるようなレベルで評価されることはありません。ただ単に自由に好き勝手やればいいという訳ではなく諸々をよく知った上で自由にやれることが大事です。力があればあるほど従順に行くか強情に行くか迷うものです。それはどこの世界でも同じだと思います。私の友達で資産1000億円を超えている奴がいます。強情で成功している好例です。彼のお陰でクマビのHPはタダ同然でできています。彼はアートの世界の住人ではありませんが成功する奴は出てくるものです。成功する人間を見ていていつも思うのは小さく生きること自体が自分の可能性を奪っているということです。成功している側から見ると自分の可能性を信じてやればいいのに、それだけなのに、と本当に思います。私のいるアートの世界では特にそう思います。逆に言えばアートの世界で好きなようにやっている人は本当に一握りしかいません。そのためこの世界の常識では好きなように自由にやることはできないということが常識、定説、正解です。小さく生きることによって掴める幸せがあることも確かですが、その裏で、勇気を出して前に出ることでどれだけ裕福で、楽しい世界があるのか手に取るようにわかります。私は毎朝4時間くらい釣りをしていますが周りはみんな定年退職した方達です。みんな元気ですし素晴らしい人たちですし、釣りをしまくって楽しそうです。その中に混ぜてもらって毎朝遊んでいる私は不思議がられます。奥さんは専業主婦というとなおさらです。本当にこれまで頑張ってきて良かったと思います。
     私の好きな言葉は白鯨です。大学院の入試の時は版画の研究室が推奨する「従順」に対し最も嫌う「強情」を隠さず出しました。作品の提出と面接までギリギリまで従順に徹した姿勢を見せていたので教官は驚いたと思います。試験まで大学には行かずに休み続けて立場をどうするか悩みました。試験の時は自分の能力を最大限に発揮させるための強情を表現するために入試の木炭デッサンに「ハクゲイ」と大きく書いたものでした。面接の際に意味を聞かれたので「私の好きな物語の白鯨が神には勝てないと知りつつも戦いを挑む男たちの物語で今の自分の意思を表現している」と答えました。従順の大切さと良さはよくわかります。でもその弊害はあるのです。その弊害を押し殺している様子とそれを利用している様子が気持ち悪かった。版画の研究室は長年従順でなければ長生きができないことが空気を読んでいればよくわかりました。少し逆らった留学生は来れなくなりました。そして先輩の面々を見れば全くといっていいほど能力を一切見ていないことが簡単に見て取れた。それが本当にプレッシャーだった。この弊害は教室を生きやすい雰囲気にしてくれる一方で秀でた能力のある生徒の可能性が一切殺されることです。大学に残ることはあの時の自分にとって長年芸大を神のように崇めて標榜して生きてきた人間にとって命とも言える大事なことでした。でも最終的に「自分の身につけた力を生かすために野に下ること」と「自分の力を封じて大学に残り生きながらえること」を必死に比べて前者を選ぶことにしました。そもそもこんな性格だからなかなか大学に入れず7浪したんだと思いますし、あらゆる面から考えて「野」が向いているのだと思います。芸大は雑草の生きる場所ではありません。空気も水も違った。風の噂では今の版画の研究室は教官が変わり悪癖が一掃されているそうです。それまでのコネが完全に断ち切られているそうです。あの先生がやってなければもしかすると私が残っていたらやっていたかもしれない。それが今回書く「強情」です。
     従順と強情は誰もが持っている面です。従順な面を出せば強情は隠れるのでその際には能力は完全には発揮されません。強情は誰かを傷つけますが私はクマビの先生には強情さを前に出させるようにしています。多少勢いてはみ出してしまうことがありますが最大限に能力を発揮してくれていると思います。
  • 嫌だということを言えない時点で人は無理をしている、少なくとも自由と言える状況ではない。美術館はそれをどれだけ理解しているのかな

     私は美術館を神だと崇めています。最近もよく生徒に美術館に絵を観に行くよう言います。画家やアーティストにとって美術館は神です。この世界に足を踏み入れたらすぐに神の習わしやルールを教わりました。自由ということと同時に。画家にとって「発表」ができなければ話にならないとされているわけですから我々にとって美術館が神として扱われるのは当然です。事実、美術館は生殺与奪の権利を持っています。しかも一部を殺すというのではなく親指と人差し指でつまめる人しか救いません。後は殺しているという認識はない感じで知らない内に蟻を踏むように、しらす丼や数の子を食べるように消費する感覚で、美術館が生かさなければ画家は死ぬことを十分理解しながら、大量に美術館という精肉工場で画家を屠殺しています。「画家を精肉工場に連れて行かなくてもいい」というのが今回のお話です。
     先輩たちの誰もが美術館に気をつけるように話をするのも当然です。優しい先輩たちに神に逆らうととんでもないことになるということを最初に教わりました。そしてとてもよく仕上がっている。画家は全て美術館の下僕で信者です。私の場合は最初に信者の一人から公募団体への出品する道に勧誘されました。神を目の前に掲げられた人間は弱いものです。なんとかして神に近づこうとします。神をちらつかされていたので、どんなに怒鳴り散らされても命があってのことなので全て耐えられました。今思えば怒鳴り散らしていた相手が私が乗り越えた七難八苦に耐えられるかと言えばひとつでも無理だと思います。怒鳴られた一つ一つに内容が全くないことが今ではよくわかります。神は内容のない物事でも簡単に人に命をかけさせてしまう危険なものです。怒鳴っていた相手に逆らえば神からも、それは学校でしたが学校からも見放されて学校には通えなくなることが手に取るようにわかりました。だから全く内容のないことで奴隷のように本当によく動いた。この世界はよくわからないことをいいことに神の名をチラつかせていいように利用している輩が実に大勢います。今ではその全てを打ち据えようと思っています。だから私は神から離れているのです。そしてこれから神と称されるものを討ち滅ぼそうと思います。神に少しでも近付こうとしていた時は美術館に自分の絵が飾られることこそ栄誉、美術館に認められれば画家として死んでも構わないとさえ思いました。大学に入るために7年浪人しました。私は奴隷ですから7年浪人することなどいといませんでした。大学に入り画廊が私の作品を全て買い上げた時コレクターという神の信者に触れました、その時にコレクターに私は自分の思うままのことを口にしてしまったので「早く死ねばいい」と言われました。その後神のために本当に死ぬことを考えましたがよく考えればあの瞬間が神と距離を置くことを思い至った瞬間だったと思います。あれ以来神に、学校や画廊に従順に従うことを辞め、直接的に関わるのではなく、冷静になれる場所から、距離をとった対象をずっと見つめ続けました。当事者では見えないことが見えていることは今の私の財産です。もしあの時に信者に従っていれば私はおそらく今頃売れっ子になっていたのだと思います。でもそこで距離をとって正解だと考えます。神が、このシステムというか、今のやり方を変えないところを見るとやはり美術館や画廊やコレクターは画家が早く死ねばいいと考えています。少なくとも生かそうと思っていないし、想いがあったところで自分たちが神である立場を捨てることができないために成すすべを持たないと思います。彼らは誰一人として「神であり神でない」のです。それでも私は彼らを神とどこかでは崇めています。私が今考えているのは発表しなくても画家がよくなることです。画家が発表しなければならないと決められているのでそれを輩が利用しています。画家に発表する前にすでに絵を描いていること自体に価値があることを認知できれば自分を滅して奴隷に身を落とす必要はありません。「画家は発表する前から画家である」発表をしなくてもそこには絵画のとても大きな能力が眠っていると私は確信しています。絵画の中心は「発表の場」から「アトリエ」に移行させるべきです。絵は、絵画は描くこと自体に大きな価値がある。誰もが絵を描く可能性を選ばれた画家のみが美術館で発表できるという構図が潰しています。絵と絵画は発表せずともすでに大きな意味があるのです。
     画家とアーティストの我々が「人生をかけて目指す場所」それが美術館です。我々なら誰しも美術館を目指します。だから美術館は神なのです。しかしながら私はここにきて神と別れを告げようと思います。神と仲良くしておいた方がいいことくらい私にもわかります。でもその構造自体やはり誤りなのです。神に背いた方が正しい行いになる。そう考えられてならないのです。
     現状で神が認めなければアーティストではないことはわかります。でもそのこと、つまり神に認められなければならないという呪縛があること自体が大きな過ちなのです。現状では美術館は運転免許を発行する免許場のような機能になっています。ですが我々に免許証は入りません。我々はどうしても暗黙の了解で目には見えない免許証を欲しがります。ですが私はそれを破り棄てようと思います。免許証を持っていなくとも素晴らしい画家やアーティストは至る所にいます。そう確信するのは美術館が素晴らしいと大上段に掲げるアーティストを見る限りいくらでも私の近辺にいて別に大したことがないと断定できるからです。美術館に近辺にいるアーティストのことが気づけないかと言えば違います。美術館はそこまで馬鹿ではありません。でもこれまでのやり方、特に美術館が運営していかなければならないことが頭にもたげてしまうからおかしな話になっているのです。近辺にいるアーティストを拾いきるのはもはや美術館では不可能です。それをしてしまえば多数から一人を選らぶことで特殊性を生み出す今の手法が使えなくなります。でももはや限界なのです。もう周りを騙すことはできません。今のやり方では選ぶ必要のない選民を作り上げてしまいます。その機能の全てがそもそもいらないものです。ですしこのまま続けていくこと自体危ういのです。美術館は運営しようと必死です。でも美術館が無理に運営していく必要は世の中にないのです。「残るべき物が残るべくして残る」この一言に尽きます。美術館は我々のパフォーマンス、その全てを認識することはできません。今の美術館のやり方で取り上げられる画家のみが取り上げられて、今の美術館のパフォーマンスに即して我々はほんの数人認識されます。
     美術館が太鼓判を押すと世の中からも評価されると同時にそれは美術館が太鼓判を押さなければ評価されないとの認識に繋がります。一番の問題は巷がそのように認識しているということです。美術館の生殺与奪の権利と破壊行為は巷の人々が我々の作品を正常に見る機能を破壊します。つまり巷の皆さんの率直な感想や印象や解釈は一部の稀な作品を除いて概ね正しいのです。見る力を奪われた巷の人は我々から離れる他ありません。見る認識の手法を破壊された巷の人たちは絵に先行きの不安を感じ、先に希望が全く見えてこない絵を自ら描く気には到底なれません。巷にある作品を鑑賞したとき美術館にある作品を鑑賞したときそれぞれに何も差がないので見る力がないのか?と誤解させています。その時に不可解の後味の悪さと失礼さと如何わしさがセットになって有象無象が湧きあがり詐欺師やいかがわしい宗教団体や犯罪者を嫌厭するのと同じ感覚が湧きあがり巷の人はみんな離れていくのです。
     美術館のやり方自体かなりの無理があります。簡単に言えば取り上げている画家なりアーティストと取り上げていない者との差がない。今は神が取り上げた者だけがスポットを浴びて認められるようになっています。なるほどスポーツのような競技であればコンマ何秒のスピードの差で金か銀かの差が出ることはいいでしょう。でも絵画やアートにはそのような尺度がそもそもありません。比べる必要もないし意味がないのです。比較する意味がないにも関わらず特別な展覧会をしていると捏造するので根本的な意味を欠いた展覧会をしてしまいます。細かい精度で振り分けられる物差しはアートの世界には存在しないのです。展示をする前にそのことを世の中に十分に伝えていくことが大切です。伝えた後に本当の美術館の意義が残ります。他との差異が認められない中で誰かを取り上げなければ廃れてしまうその懸念を解決する目的のみにおいて美術館は誰かを取り上げます。そのこと自体大きな間違いです。
     美術館が認めているアーティストはどこにでもいるアーティストと同じです。誰にでも描けて、同等の絵がそこいらで描かれています。海外から画家を呼び寄せて大々的に展覧会を催しても日本に同級生にも同様のレベルの作品を描いているものはいます。海外から呼んだということで箔をつけたいのでしょうが、無理です。何かあるなら具体的に日本に、その辺にゴロゴロいる画家と比較しながら明確な差をわかりやすく詳細にお話ください。でもそのような話は歴史上ただの一度として語られたことはありません。全ての話が漠然としている。あるのは美術館に取り上げてもらえなければ評価されない。その事実だけです。私は事実を知っていますから何をすれば得かはよくわかります。誰も神には逆らえない。美術館を声だかに唱える「自由」このペテンの自由は美術館が評価しなければ誰も這い上がれないように仕組まれたやり方によって、本当はどこにも存在しないものなのです。だからあえて私は神に刃を向けようと思うのです。誰も神を攻撃しないので私は神を殺すことにします。
  • 美術館=神

     私が美術館を神だと思い信仰するに至ったプロセスはここでは割愛しますが私は「美術館=神」だと考えています。私が美術館という神を話題にしなければならないのは神が大罪を犯しているからです。神は羊のような顔をしています。羊のような面持ちで何のためらいもなく蟻を踏みつけて殺すのです。神とは美術館の館長です。どれも羊です。そしてその群れをなす学芸員も羊です。
     神は人の生殺与奪の権利を持っています。そのため美術館は画家と絵を描く人を蟻のようになんのためらいもなくあやめます。私の生徒や仲間は全て殺されました。どれも有能なのにです。
     神は自由にのびのび絵を描くように教えを施し自由に描かれた絵を賞賛します。そうして自由にのびのび描かれた作品をかき集め、描き集まった絵から数枚を選び他の作品には目もくれず除外し捨てるのです。残された者は羊として育てられます。大きく育った子羊たちは自分たちの大好きな漫画やアニメが上手に描けるようになると教わります。神の教えを信じ込み美術の世界に深く進んでいきます。そうして美術の世界の外からは絶対に見えない真ん中に集まった子羊たちは自由にのびのび絵を描いてどんな上手な絵を描けるようになるか教えられます。そこで教えられる絵はピカソやシャガールの絵のような異形のぐちゃぐちゃの奇妙な絵であり本人たちが望むものとは全く似ても似つかないものなのです。綺麗な漫画やアニメのようなカッコいいものとは似ても似つかぬ汚いおぞましいものを見せつけられ呆然とします。でもその時には子羊はよく肥えて美味しそうに出来上がっているのです。
     神の国「美術館」では子羊はお客様です。真っ白な清廉潔白な建物では子羊はとても親切に暖かく迎えられます。でもそれは表の姿。あなたたちの絵が暖かく迎えられることは絶対にありません。あなたたちの作品は「神の贄」。美味しい贄なのです。その時の至上の暖かさは新興宗教の勧誘のそれと全く同じものです。美術館の窓や吹き抜けから入る日の光の暖かさも新興宗教の建物のそれと同じです。新興宗教の清廉潔白な建物と美術館の建物は外観も内観もコンセプトも全く同じです。自分の絵が美術館に飾られたら神に認められたかのような神秘的な感じがします。飾られた子の絵は神に選ばれし選民の絵です。選民の絵は学校やお家では神様がお認め下されたありがたいものです。日頃触れることができない神そのもの。神のように扱われます。そのおもてなしが忘れられないものになる。やがて子は神の子になり子羊となれば美術館に足しげく通うようになります。昔の私はそうだった高校2年生の時に出品するために30万円使った。そのお金があれば高校生の時に大学受験ができた。神にとって子羊の受験よりも子羊が贄になることの方が重要なのです。子羊は美術館に群れをなして集まります。集まった子羊たちは「美術館」に美味しく調理されるのです。それはそれは美しいソテーに生まれ変わります。美術館のランチに子羊のソテーがあるのはそのためです。東京芸大の美術館のランチにもあったと思います。子羊の国で子羊を食べる「美術館の神」にはなんとも愉快で爽快な話ではありませんか。
     美術館で子羊たちは「神」に美味しく召し上がっていただけるのです。美術に興味を持った人は最後は美術館を目指します。そしてたった1枚に残れるように目指します。そこには自由のかけらは一片もないのです。稀に豪腕で自由を貫き掴み取る人がいます。その陰でその他の全ての人の自由は犠牲になっています。神の大罪はそれを小さな子供や親御さんに教えないことです。ほとんど全ての子羊は神の生殺与奪の権利によって撲殺されます。多くは蟻のようにいつ殺したかも実感がないくらいに沢山。自由とはなんでしょう。自由のためには収穫祭をやらなければいいのです。私は先日森美術館に行って鬼滅の刃の原画展見ました。その時に20分程度並んでる間に鬼滅に200名程度入ったのに比べてアナザーアーティスト展には1人も入らなかった。その理由がここにあります。みんなよくわかっているのです。美術館が悩む必要はどこにもありません。学芸員と館長が子羊のような面持ちで佇んでいる姿、正直気持ち悪いです。あの顔で蟻を殺しているのですから。みんなアナザーアーティスト展の会場に入ると息がつまるような感じがしたり、マウントを取られているような感じがしたり、あまりいい気分で見られないのです。わけがわかりませんし、(私はわかりますが・・)教養がないと言われて済まされるのもなんとなく言われなくてもわかります。鬼滅は人を上から見下しません。生贄にされるというより消費している感覚です。安い金額で消費できます。アートはとてもではないですが落書きを高額で買わされる、そんな新興宗教から壺を買わされるのと同じようなこと誰もしないのです。(私は買いますが)己を客観視すれば簡単にわかることです。騙してでも金を取ろうとするから間違えるのです。自由にのびのびなのですからお金を取ることを一切やめればいいのです。
  •  無神論者の私ですが神のように崇めている存在があります。やぶから棒にすみません。私のような者の考えていることは唐突で突然「神」など言い始める「つたないもの」です、お許しください。でも今回は荒唐無稽ではなく真実について、確かに現実的に困っている人が大勢存在し、誰も放置しているけれども解決するべき問題として「神」という存在の話をしたいと思います。実際私は「本当に程度の低い人間」です、なので色んな人が「神」に見えます。私の自虐的な発言に対して「いやそんなことないよ」と思ってくださる方ありがとうございます。でもそれはあなたの中にある人を思うイメージを私にも当てはめて頂けただけではないかと思います。それは私が素晴らしいのではなく、あなたが素晴らしいのです。実際の私は「本当に程度の低い人間」なのです。そして私がこれからお話しようとする「神」は「程度の低い私の中の神」ですので、それもまた「程度の低い」ものです。
     昔の私は、今の私、つまり昔の私にとっての将来の「私」を「神」のようになりたいと思って頑張っていました。現実が厳しいことは頭の隅でわかっていましたが、さすがにもう少しましになるのかと思っていました。私は先生と言われる生き方をしていても中身は昔と同じです。何も変わりません。だから「神」が喜びそうな物や出来事では喜びませんし、つまらないものでとても喜びます。私が画家ですが世の中にある絵の賞の全てはくだらねーと思います。私が喜ぶのは釣りです。そして画家としての私は「絵を描かない画家」です。ですので美術館が画廊に展示された作品しか見ないので、美術館やそこの頭脳の美術評論家からは美術館と画廊というステージよりも低いステージの住人だと思います。画家のランクとして、そして人間としても低い身分とされています。逆にステージの上の画家は「神」。特別な高貴なものを選び抜き評価する美術評論家が「私」を評価すると「取り上げる価値のない話題性にかける価値の低い画家」なので低い画家の作業や描いた絵など目もくれないですし、実際に下賤の者とか奴隷と思われています。美術評論家の言葉を借りれば「辟易する」そのような表現で忌み嫌われる存在です。私はこのような美術評論家とその箱である美術館はとても「程度の低いもの」だと考えています。心からそう思いますし、本当に感覚的にそう見えます。美術館の展示や美術評論家の言いたいことは大方わかります。その上で「程度が低い」と思います。このままでは美術館は潰れ、美術評論家の作り上げた牙城は崩れ、近い将来アートと絵画の世界はひっくり返るだろうな〜と考えています。そのため今の私は今の美術館と画廊と美術評論家が支配する絵の世界では「絵を描かない画家」でいるのです。出せません。しかないからといってみんなのように美術館や美術評論家に向けて作品を発表するような自殺行為はできません。昔でいう宮廷画家やアカデミズムや画壇などの権威を崩壊させたように現代は美術館と学芸員と美術評論家と画廊とギャラリストと市場とコレクターとオークションという権威を討ち滅ぼさなければならないと思います。バスキアやバンクシーのオークションのあれは最悪です。あれを見た保護者は全員子供をアートの世界から遠ざけます。なぜ遠ざけるのかって?それは馬鹿だからです。馬鹿は死ななきゃ治らない。そうしなければ絵画の絵の道は開かれない。絵は描くことそのものに価値や意味があるのです。そうなって困るのは美術館をはじめとする彼らです。絵を御大層な場所に運んで飾ることには全く意味はない。家で絵を描いてそれでいいし、外に出すならまずネットにあげればいいのです。
     美術館のように、私が昔「神」と思っていたものが今では全て程度の低いものにさえ見えることがあります。ただ実際「程度の低さ」は誰にでもあります。低さは自分の内側では無数に持っているというか、抱えているはずです。高くなければならないという考えやイメージによって塞ぎこまれ、隠されているだけだと思います。幼い頃に親からトイレのしつけをされた時からそれは始まっています。トイレをしない人間はいません。それを隠す必要はない。トイレのような低いとされる諸々は外には出さないわけですから、大人の振る舞いをしつけられて振る舞えば外からは「神」のように観られ、敬われているかもしれません。今回私がお話したいのはそのような現実と虚構の中で様々な問題が起きているので、人や人の行いを「神」とし、振る舞い続けることによって生じている、トイレのようにジャーッと流され続けてきた問題を浮き彫りにしたいのです。そして問題を浮き彫りにしたとしてもやはり「神は神」だと私は崇めているのです。
     私の中にもあなたの中にもある、物事を敬おうとするイメージが今回のお話で私が取り上げる問題です。長い話ですがみなさんにも考えるきっかけになれれば幸いです。私は「本物の程度の低い人間」です。今改めて思えばそう育ったのです。「底辺 オブ ザ 底辺」中卒低収入の父。まともに仕事が勤まったことが一度もない母という両親が自分を神格化して都合よく育て上げて出来上がったのが「私」です。そのため人の物事の全ての良さが見えますしあらゆる物事は私にとって敬う対象「神」なのです。親がスタンダートで平均と教わったので具体的に親や私の暮らしと比べると日本では周りの人は全てと言っていいくらい神のような高いところにいる存在に見えます。私のような低いところの話を低いところからすることも合わせてどうかお許しください。ただ高いところにいるみなさんを見て失礼ながら低いところにいる私と何も変わらないと思います。みなさんと触れる機会を得て変わらないということに気づかされるのです。違いはあります、しかし本質は変わらないのです。私の家庭にその本質に気づき大事にする意識が少しでもあったなら家庭は崩壊せず、貧しいながらも幸せで楽しい人生を生きれたと思います。とても残念でならない。そしてこれが絵画とアートの世界にも同じように当てはまることがここで一番書かなければならないことです。その上でやはり全ての人を本心から神のように敬いたいと思うのです。私が自分自身で自分のことを低いというとそんなことはないと言われる方が多いかと思います。それは私からみなさんに絵画とアートの世界でみなさんが誰一人として低い存在ではないと教えたいことと重なります。私の思う限り世の中の多くの人が絵画やアートを前にして自分のことを低く捉えていると思います。また、私が家で低く育てられたように、絵画とアートにおいてみなさんは主に家庭と学校で低いと教えられ低いと認識してしまっていると思います。だから意味もわからず絵画やアートを敬っている。これはみなさんにとってはいいかもしれませんが絵画とアートの世界やそこで生きている私にとってはとても危ないことですし不味いことだと私は考えるのです。絵画とアートは本当の神ではなく所詮人間の創造したものなので崩れる時は簡単に崩れます。崩れるというか多くの場合話題性がなくなって消えます。私が低い人間として我が家でそう育ったというところと今の絵画の世界やアートの世界が繋がるところがあるので私は「私にとっての神」の話をしなければならないと考えます。簡単に言えば絵画やアートの世界は低い人間を置き去りにしている。高くいなければならないことが足かせとなり力を出せないでいる。低く身を落とし平らな世界に降りられないでいる。だから低い人間からのつたない言葉や低い人間から見た神の話をしなければならないのです。絵画とアートの世界が清算しなければならないことは多い。これは話が急に飛びますが、政治にも言えるものだと思います。今の政治を変えるのはアートかもしれない。それほど世の中の意識を変えることは重要なのだとこれは画家として思います。低い人間からの絵画とアートへの言葉は絵画とアートの世界にはありません。低い下々の私のような者は口を塞ぐばかりです。塞ぐように教育されながらプレゼンしろと言われたり、自由にのびのびしろと言われます。苦笑いするほかありません。このようなことが世の中にはたくさんあると考えています。私は低い身分として生きてきたので周りは目上の人ばかりで私にとっては神のような輝いている人たちばかりです。私は低い立場を教え込まれて育ちました。今思えば、今なら私以外の子供の境遇もたくさん知れたので、私がどれだけ私の立場を徹底的に教え込まれたかがわかります。与えられず、守られずにいてそれがスタンダードだと教え込まれました。私がなぜこのような育てられ方をしたのかというと、私の両親は学がなく、心も脆弱、コミュ障だったことが大きな原因でそのような親が管理をして自分なりに教育をしようとした時にいわゆる「良い子」に見えるように徹底的にしつけました。普通に考えればやりすぎであることはわかります。でもこのような内側のことは外からは見えないのです。私の親の育て方は独特でした、母親は何か癇に障ることがあれば即殴る、激昂する。今思えば毎日のように般若が可愛く見えるような醜い形相で怒鳴りつけられ、3日にいっぺんくらい感情に任せた平手打ちを食らう。今の私が見ても小さな子供をよくあれだけ殴れたな〜と思います。殴られないという点では間違いなく刑務所の方が良い場所です。母はプライドが高すぎて仕事を指示されただけで切れるので生涯まともに働かなかった人ですから、それほど心に余裕のない人と狭い家に二人きりで過ごしたあの間は本当に地獄でした。私の神のイメージが最初に着いたのはあの頃です。父親は冷やかす、逃げる、誤魔化す。中卒で稼げない父は責任感を持ったことがありませんでした。それでもそして何より私をコントロールするために自分に都合の良い論理を作り上げ支配したのでした。絶対服従の自分を神とは言わないまでも神と並列において神と同様に敬い絶対服従するように徹底的に殴られ、激昂されるかもしくは流され、誤魔化し続けられました。低い者から低く見える存在として育てられたので私は他の人が全て神のように見えるように育てられています。何をされても絶対に逆らわないように教え込まれたせいで、私は大学に入るために7年浪人しましたがそれはそれ以前の状況で慣れていたので普通に受け入れられました。どんな親でも自分の意思で子供を奴隷にすることができます。そのための論理を作ることは簡単です。同様に先生と言われる者も生徒を奴隷に仕立てることが可能です。そして何よりアートの世界は美術館、画廊、美術評論家、コレクターが画家を奴隷に仕立て上げる論理を持ち実行しています。私は奴隷のように育ったのでなんというか「つたない」存在です。美術館や画廊のように権威がなく立派ではない。底辺の存在です。特に「神のように崇めている」という言い方をすると「つたない」ような気がしますが「つたない」表現でも、絵画とアートは世界中で「つたなさ」の中で問題が大きく膨らんでいると思います。大きく膨らんだ問題を手につけなければならないことが「絵画」には山のようにあるように思います。そして神を崇めるつたない者の一人として、つたない中での問題を取り上げなければならないと思います。神はつたない者を助けてくれるのでしょうか?50年人生を送ってきて正直よくわからなくなっています。私にとっての神は人や物事です。神と敬ってきた人や物事が守りきれないような気がします。それでもまだ私は神を崇めている。でも若い頃ほど盲目的に神を崇めているわけではありません。神とは私の上とか先の存在。自分が歳をとり自分の下はいなくても後の人たちの方が多くなっています。後の人たちは神ではなく、私にとって守らなくてはならない存在です。そこにある問題を考えている時は盲目的に神を崇めている場合ではないのです。でも、それでもなお私はいまだに神を崇めているのです。
     絵画ならびにアートの世界は雲の上の針の先にあることしか評価しません。つまりつたない者を評価することはない。その様相を傍らで見ていて思うのは、どう見ても針の先が大した者ではないこと、つたない者の問題を何一つ解決できないこと。見向きすらしていないこと。何より針の先の人間が実につたないことに驚かされます。つたない世界の方にとても重要な、絵画の歴史を覆すようなことが沢山見えてくることを見て見ぬ振りをして流せないのです。流さないのは幻想で針の先の神を演出している人間たちにはとても迷惑なこと。でもそれをあえてやろうと思います。
     アートの世界は希少価値のある物/者でなければ評価できません。雲の上の針の先にある作品やアーティストでなければ認められないような認識にさせたり、しています。それこそが時代とともに色んなことを知ってしまった民衆とのズレを生んでいる大きな落とし穴だと思います。昭和ならまだバンクシーやバスキヤなどの作品がオークションで高額で落札されたことがとても素晴らしくすごいことだと騙せた。でも今を見てください。昔のように歓喜の声をあげて驚いている人はいますか?誰も騙せていません。昔のように、例えばゴッホやピカソの作品が落札されて世界中が湧き上がったようには誰一人として湧かないのです。誰もがテレビで見ても頭に入ってきませんし、拍手喝采ではなく、あるのは失笑。その光景を一瞬見ただけで今の民衆はアートの世界の中身の無さの全てが見通せてしまいます。それだけ今の世の中はアートを見透かし中身をわかっている。
     いまだに手法がわからず、最後の手段で、話題性が生まれるほど異常に高騰させなければならないオークション。何十億かつけばどんな風に人の目にうつろうがなんとかニュースになる。それを目論むしかない。歴史上類を見ない活動やコンセプトや表現スタイルの作品。針の先でなければならないとの仕掛けにしてはまっているために全員落とし穴に落ちてしまっています。針の先端にいる作品の内容が伝わっているのかと言えば全く伝わっておらず、伝わっているのは競り上がったオークションの金額が、無意味であり、内容がなく、とても馬鹿げたことであることです。そして画家やアーティストはいまだに針の先の世界に行こうとする。でもそこは虚構で大切なもの、すなわち現実は誰の目にも、誰にとっても針の先というそこにはないのだと私は思います。例えば20億以上もするバンクシーの作品。20億という針の先の世界にバンクシーのリアリティーは存在しません。誰かが誰かの都合で勝手に作ったロジックと数字だけの虚構です。行ったことのない針の先の世界は行って見ても、そこに広がる光景は今いる空間と何一つ変わらない日常と同じ光景だと思います。自分の肉体が変わらないように肉体の外も何もかもが普段の日常と同じです。現実的な問題は、虚構の世界には何もなく、頑張ってそこにたどり着いたとしても、世界が変わるのではなく、大事なことは、すでに「ここ」にあるのだと思います。私は「絵を描かない画家」です。私は画家なので今ここにある問題を片っ端からかたづけたいのです。私がかたづけようとしていることは針の先を目指すアートと絵画にとっては「つたないこと」と流されることです。私はこれまでつたない世界に生き、これからもずっとつたない世界の住民ですから、私にとって重要なのはオークションで何十億もする絵の世界ではなく、ここに、私の目の前にある絵の世界の問題です。私が最もよく見ている絵の世界は私の描き途中の絵の世界。私の関わるつたない絵の世界です。私たちは何十億でやり取りしているオークションの世界に行っても何もすることはありません。私たちの力が生かせる場所はここにあるのです。そしてアートや絵画の世界が取り扱わない大きな可能性がここに、私たちの目の前、手の届くところにあると確信しています。ここには実は神がいるのです。逆にオークションの世界には私は神はいないように思います。アートや絵画関連のニュースは何十億もする作品のことしか上がりませんし、それしかないので話題を生み出すためにわざわざ値段を「釣り上げ」ています。金額以外でも今までになかったというような希少性、大きなイベントを催してそれを付加価値としたり、大人数を集めて一人に受賞させてみたり、一人の成績優秀者を選び出すいろんな「祭り上げ」をしています。これらは全てアート並びに絵画が特別な特殊な者でなければならないという誤った認識から生まれている幻想です。話題を生むことにばかりに目が行きアートと絵画の本質には誰も目を向けようとはしません。目を向けないところに大きな過ちがあり、別のところにこれからのアートと絵画が向かう道があると考えています。これまで世に出たアーティストや画家の中で皆さんと違う特別な才能を持っている人は誰一人としていません。全ては捏造です。それを認めることから始まる大きく広い道があります。その新たな道は我々がつたないと思っているところにあるのだと私は考えています。針の先を目指すアートと絵画の世界ですからつたないところに目を向け仕事をしていくことは今ある出世とは縁のない道に進むことになります。周りが出世していく姿を尻目に誰も見ようとしないつたない世界を見ようというのですから理解を得ようとしても無理だとは思いますが、それでもこのつたなさの中に大事なことが沢山詰まっているので私はこれを紐解いていこうと思います。宗教を信じる人が神を信仰するように私の神は私が神と崇めている存在です。こんなことを描きながら、私はゴッホやピカソやアートや絵画やオークションなど全て神として崇めています。バンクシーもバスキアも。神は本当の神のように私の心を育み体を作ってくれた存在です。私が神のように崇めている存在。それをここでは神としてお話します。私を造った「もの」と「こと」ですから本当に神のように思っているのです。
  • 敬わなければならない存在こそが神

     私が神と崇めている存在。それは誰もが知る誰もが当たり前に敬わなければならないとしている存在です。常識としてとても大事にしなければならない存在。例えば父親。母親。他には先生、それや学校です。友達も神だと思いますし、私にとって生徒も神です。私が神と崇めていることを話題にしたいのはこの神がいたからこそ今の自分があると言い切れるからです。
     これからも自分であり続けるために神は不可欠なものです。私がここで神について書かなければならないのは神は気をつけなければ悪魔になりうるからです。父親が悪魔になるかもしれない。母親がなることもあります。先生が悪魔になる場合もありますし、学校が、友達が悪魔になることもあります。それでも根底では神であることには間違いないと思います。個々によって、その時々によって神か悪魔かは変わります。それを上手く見極めて考えていかなければならないのだと思います。やはり神ではなく人の所業だから考えて反省し反対方向に進んでいくことも時として必要なのです。私の神はみんな絶対服従でした。ある時までは完全な神もみんなある時を境に悪魔になりました。誰にとっても神であって欲しいと思いつつも残念ながらそうはいかないのです。人はみんな同じではありません。みんなが同じだと思い込んで右に倣えさせてしまえば必ずひずみができます。生きたいと思う人ばかりかと言えばそうではありません、死にたいと思う人も必ずいます。男として生まれてくればみんな男でありたいかと言えば女性として生きたいと思う人もいます。同じ行いでも神と捉える人もいれば悪魔と捉える人もいます。なので全てを同じ色に染めるのではなく色んな色が混在していることを踏まえて考えていかなければならない。ここでは悪魔を生まないように私にとっての神を少し書こうと思います。

     私の場合、貧困層で生まれ育ちました。家庭で教育を受けられない私が読み書きができるようになった、大学に行けて、今の仕事に就けるようになったのは「学校という神」があり「先生という神」がいたからです。神がいなければ、読み書きのできない家庭に生まれ育った私は失読症のまま、貧困のまま、50才になろうとしている今でも働けば誰かの奴隷のように働かされるしかなく金に卑しく心も貧しく生きていたと思います。お金がなくても幸せな家族が沢山ある中で、すぐ目の前にある幸せに手を伸ばすことに気づかず幸せとは程遠い人生を延々、両親が奴隷のように生きる様を見て参考にする限りは死ぬまで送っていたと思います。

     家庭にいる時の私は親の奴隷でした。低所得者の家庭の親は幼い頃から奴隷として、奴隷としての生き様や哲学や美学を教育されていることが多いと私は考えています。そのため奴隷の良識は奴隷としての良識です。奴隷の親は奴隷として長年大事にしてきた良識を良かれと子供に教育します。親の言うことは絶対服従。何度も激昂され怒鳴られ毎日のように平手打ちをされながら教育されてきました。神に質問をすることなどおこがましい。母親に何かを聞けば必ずかぶり気味に激昂され瞬時に立場をわからせるための平手打ちの処罰を受けました。私が疲れ果て絶対服従の心に陥る姿を見て母親は私に愛情に溢れるかのように甘い言葉を吐きましたが全ての言葉が私の中には頭に入るわけはなく何も残っていません。母は生涯働かない人生を送り引きこもり続けた人でしたが引きこもりながら自分に対して神のような尊厳を持っている人でした。下賤の者が何かを行ってくることが許せない、そのため職場に行っても仕事を覚えることはできませんでした。母が高貴な人として下賤の者である私に向けた深い慈悲のような愛情は、引きこもり続けた人間の陥りやすい自己肯定の幻想によるものだと私は考えます。そのような幻想から吐き出される愛など何一つ私の中に残る訳はありません。子供の頃は不思議でしたが、これは私が母と父に親子の愛情をほんの一欠片も抱けなかった原因だと今では思います。世の中がそうではないことをはじめに知ったのは学校です。自分とは言葉も身なりも頭も運動能力も何もかもが違うことが少しずつわかりました。必死に挽回しようと頑張り始めたのは高校を卒業してからです。そして近頃、50才を目前にしてようやく奴隷ではなくなったように思います。やっと絵が描けるようになった。ただ自分の子供を育てられるに至るには少々時間がかかり過ぎてしまいました。大好きな子供を持てるまでに至らなかったのが悔やまれてなりません。

     後でまた話しますが、結局私は、私が神と称する物事を潜在的に崇めて肯定し、見えない神の手に導かれるかのようにして感覚的に行動に移していることで、見返りを得られ、守られている、と考えています。そしてそれがある時期までは間違いなく安心できる安全基地になり私のアイデンティティーも作られていた。でも、それがある時から安全基地ではなくなり私を形成していたフォルムは脆くも崩れ去った。
     自分が守られる実感の元となっている「イメージ」というか「社会通念」というか概念や観念は自分が今から先に進むべき道を想像させてくれます。でもそれは妥当する場合としない場合がある。固定概念や固定観念は言われているままに従っていれば大丈夫、安心しろと言わんばかりに先を示してくれます。ある程度それを信じて行動していれば大方間違いはありません。でもこの固定概念と固定観念は万能ではないために当てはまらないことが出てきます。当てはまらない場合には全く新しいデザインを考えをイメージしなければならないと思います。
     ある程度常識で対応できる物事にはたいてい思うような見返りが付いてきます。見返りの一方で不都合や我慢といった難儀なこともセットについてきます。この想像は神が予め教えてくれたもの。それを深く信じ、さらに崇め奉れば、自分の進むべき道が頭で鮮明に想像でき迷うことはありません。その代わり必ず難儀なこともセットについてきます。今まではそれで良かった。でもいつからか何かが変わってきたように思います。今では常識で対応できないことが多くなった。私のたがが外れたのかとも思いましたが、そうではなく、社会通念というか常識として想定された守り切れる範疇から外れてしまっているのだと思います。次第に歯車は狂い始めました。気付いた時にはもう守られていなかった。本当につい最近までは頭の中の神にひたすら従順に生きてきました。すでに守られていないことに気づいたのはつい最近です。知らないうちに次第に無理をしている部分が積もりに積もっていました。そして守られていない分問題がどんどん大きくなりました。あ〜それでも私が我慢すれば済むこと。であれば何の不満もないのです。でもどこからどう見てもそうはいかないのです。私の守るべき妻や生徒を考えると問題を放置することはとてもできないです。とてもではないですが自分の神経ではできない。それは元々の生得的に生まれ持っていたもの、本能といった類のものの琴線に微かに、でもしっかりと触れているのです。あまりに問題が大きいので、私のためというよりも、私の深層心理の奥底の私の中にある神が導こうとする感覚に従うと問題に矛先を向ける必要があるとの考えに至るのです。
     問題となる事象はやはり、完全にネガティブ以外の何物でもない存在でしかなく、そこには先の見通を明るくする要素は何もありません。私を守ってきた神では私の生徒たちを守ることは到底できません。これまでのやり方ではできないことが手に取るようにわかるのです。
  • 常識という神

     私自身神(私は無神論者です)の教えを守るように教わり教えの通りに従うことで今でも守られています。信号が赤の時に横断歩道を渡るなとか。これは所謂常識という奴です。社会の底辺の貧困層に生まれた私が皆さんと同じような教育を受けて社会人になれたのは人を守る社会の思想とシステムがあったからです。昔は赤信号を渡ってましたし、タバコのポイ捨てもしていました。色々改善しましたが今は歯並びが悪いのとどうしてもポケットに手を突っ込む癖は治りません。社会には人を守る仕組みがあります。でもそれはある程度誰にでも公平にもたらされる幸福を想定されて描かれたイメージです。当然ですが細かく見れば的が外れることがある。特に大人になれば的外れは顕著だと思います。貧乏人はいつまでも幸せにはなり難い。さらには、人生を長く生きていると従うことの負の側面が若い頃と違って鮮明にありありと見えてきもします。友人たちも歳をとり別々の道を進んだ結果もとても参考になります。友人も私にとって神。よく考えれば私の友人はもうすでに私が幼い頃の若い先生の年齢をゆうに越えてしまっています。見えない神の手に導かれるかのように守られている間は常識という頑丈な結界にしっかり守られて生きていました。それもあってか、さらに強固にするために、今あるその結界を壊して後々のために創造しデザインし直すことに単なる好奇心ではなく心の底から強い使命感が駆られるのです。

     世の中に人や物事を崇めたり大事にする思想があるお陰で今の私があります。世の中にそのような思想がなかったら私は奴隷のような人生を送っていたと思います。社会の最底辺の最下層の私が一人前に笑顔なんかして、のんびりと、楽しく暮らしていけるのはみんなの中に世の中を思う神がいたからです。神はそのような存在で、私にとっての神は無数にあります。
  • 功罪

     私は神は世の中に必要だと思います。ここで私のいう神とは敬い大事にする物事のことを言っています。私は神という言葉を使わせて頂いているだけで無神論者です。
     神は世の中に必要です。但し気をつけなければならないことがあります。それは功罪です。

     私が神でもない私が良かれと思って振りまいている善意の行いも生徒にとっては災いになってしまうかもしれませんし、実際になってしまうこともあります。一度起きてしまった災いはもしかすると風化することなく密かに燻り続け私自身に返ってくるかもしれないとも思います。特に問題にしたいのは生徒に災いが降りかかってしまうこと。災いに対策を講じなければ大きな痛手を受けるのは私だけではありません。私のみならず、この業界で私のしている仕事に紐づいている全ての人です。それは美術館、画廊、芸大美大、高校、美術部、美術高校そして美術予備校だと思います。

     物事には必ず負の側面が伴います。敬い大事にすると光に照らされ幸せが訪れると同時に必ずその影も生まれていると思います。必ず明暗がある。神に対して悪魔。正義と悪。功罪というように功に対して罪がつきものだと思います。功を奏すると同時に罪は生まれます。臭いものには蓋ができるのであれば、蓋をして完全に済むのであれば蓋をしなければなりません。ただこの蓋をしている箱は既に一杯になって今にも破裂しそうになっていると思います。破裂させる前にガス抜きをしなければなりません。もしくは根本的に見直したり、箱の中身を入れ替えたり、箱自体を作り替えたりしなければなりません。この箱を開けて、中にいる人物や箱の中にある物事に目を向けなければならないと思います。私はこの箱をパンドラの箱と勝手に思っています。パンドラの箱には斜陽にあるアートの世界の希望が沢山詰まっています。私はこのパンドラの箱を開けることがアートの世界が生まれ変わり再生する唯一の方法だと考えています。
  • パンドラの箱

     パンドラの箱の話は人類に火をもたらされたことによって豊かになる。と同時に火を戦争に用いるようになり災いをも生んでしまったと言う話だと思います。箱を持っていたパンドラは自分で箱を開けてしまい災いが吹き出し再び蓋をされた箱の中には取り出せなかった希望だけが残った・・とざっくり言うとこのような話です。火は技術と考えることもできるようです。アートの世界が技術に偏執することのないように心がけているのも頷けるような気がします。ちなみにそこには技術に偏らない神がいて、自由を大事にする神が見え隠れします。私がパンドラの箱を開けたいのは「考える」こと所謂コンセプチュアルな姿勢に偏執しすぎた今の現状に絵の未来と希望を感じないからです。私がアートと出会い、意識するようになって以来、アートは今までずーーっとただの言葉遊びになってしまっている。ちなみに市場はただのマネーゲームになってしまっている。バンクシーの作品を20億円以上で落札する辺り、みっともない失笑の嵐を想像すると身が凍ります。市場にいる人間の誰一人として若い作家の作品たちの価値を正当に評価し販売できるようにする能力を持っていない。恥ずかしいばかりです。私は「絵を描かない画家」ですが生徒たちに希望を与えるためにパンドラの箱の中から希望を取り出すことを試みようと思います。箱の中の希望を取り出すために必要なことは目の前にある罪のひとつひとつを明るみにすることだと思います。ああ・・例えばバンクシーの作品が売れたことで話題になった、目立った。という功に対してアートがとても見っともない、陳腐なものになり、内容のないことが世界中に知られ・・と罪だらけとかです。目の前にある罪を隠すから希望が箱の中から出ないのだと思います。皆さんここまで地に落ちたアートのパンドラの箱を開けるのはいとも簡単だと思いませんか?
  • 神話

     長年対処に苦しんでいる功罪があります。その1つは神のエピソードが創り上げる神話です。これがあるから無闇に手出しできない感覚に襲われます。バンクシーやバスキヤの作品がオークションで高値で落札される馬鹿騒ぎも世界中の人がアートがとにかく高尚なものだと洗脳されているからいくらでも高値をつけられるので起きます。それによって金銭感覚と金銭を成り立たせる構造が破壊され若い作家たちの価値が正当に伝わり評価され売れることがなくなります。バンクシーやバスキヤの作品を買わずにその分で若い作家の作品を買った方がどれだけ意味があるか。神話は時として必要なものです。神の話。でも神話は時として災いをもたらします。
     まず世の中が神話を信じなければどうなるか?信じなければ私のような社会の最下層の人間が大学に進学することなどできなかった。と思います。というように多くの人が神話で善意を共有してくれたお陰でたくさんの人が救われています。でも残念ながら神話がもたらす罪もあるのです。感謝の方が大きいけれども負の遺産に対する始末がどうしてもできない。そのため気になるのです。始末ができないのは神話であるから絶対的に正しいという認識を持たせてしまうからです。正常な思考を機能させなく思考停止させ、盲目的に盲信する。すなわち洗脳です。洗脳は美術館、画廊、市場などが積極的にキャンペーンして行っています。従順にさせる。私は今、神話がもたらす罪について真剣に考える時が来ていると思います。美術館、画廊、市場に真実を突きつける。ロンギヌスの槍をブスッブスッと刺すのです。具体的に言うと強情になる。嫌なことがあればはっきり言うことです。そのひとことひとことが槍となって美術館や画廊に突き刺さり、壊れる部分が壊れてくれたら、再生するときに、希望が見えてくるようになります。今だと思うのはもう罪が罪としてわかりやすく、けして神がかり的な物事で流されず、人為的な問題だと認識して解決に向かわなければならないとみんなが認識できるタイミングに来ていると感じるからです。バスキヤ、バンクシー・・もう限界でしょう。小さな子供でももはや騙せません。いずれ、近いうちに私たちがパンドラの箱を開けなくても外の力によって開けられてしまうのは時間の問題だと思います。今の内に売り抜けようとする輩が多いですが、もうペチャっと始末するべきです。
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