天才育成計画てんいく「古いパンハザード」
今日もいつものようにバカな話からはじめます・・・。
あ、話の最後までずっと馬鹿な話になるかもしれません。
そうなったらどうも・・御免なさい。
馬鹿なことを言わないようにするとつい言っても仕方ないようなつまらないことばかりを言ってしまいます。
これを言ったらいけないのかな~と気にしてしまうと、本当にろくな言葉が出てきません。
言葉が出ない時の私の頭の中は「大人の振る舞い」的には言ってはならないことばかり。
ということは、私の頭の中は大半が「大人的に馬鹿なこと」が入っているのだと思います。
で、そのような頭と上手く向かい合うために、私はとうとう私が馬鹿であることを受け入れました。
そしてこれからの人生、めでたく馬鹿なことを言い続けて生きていきますとそのような覚悟を決めるのでした。
これまで、私が大学に残ることを辞めたあの時から、馬鹿なこと。つまり「本音」を言って、それでも美術の世界で生きていけるようにするために、生き抜ける環境を作り上げる努力を重ねてきました。 生き抜く方法については後日又・・・。
なんというか、なので、今はとても楽しいです。
おそらく、あのまま大学に残っていたら、それなりに成功していたと思います。そのかわりに自分を抑えつづけて耐えしのぐ日々を過ごしていたと思います。
その当時、今もそうですが、そう言った生き方にどうしても魅力を見出せなかった。
当時の私を知る人は私が大学に残らなかったのが不思議だったんじゃないかな~と思います。
みんな私のことを馬鹿だな~と、きっと思ったと思います。
私のことを馬鹿だな~と思った人は正解ですね。
洞察力とか観察力があります。
馬鹿なりにさんざん考えたあげく、最終的に本能の赴くままに従いました。
そんな私はよく物思いにふけっています。
私は馬鹿な話やら何やら考えていると、いつの間にかいつも美術のことを考えてしまっています。
私は美術とのそんな向かい合い方を大切にしています。
馬鹿な話し方からはいる・・・なのでそんな空気感でこの文章も書きます。
馬鹿な話を切欠にすることは私にとって大切です。
私はそのような日常を大切にしています。
私の頭の中にあるのは、たわいもない馬鹿な見方、考え方、捉え方です。
なので私の頭の中は馬鹿な物事がベースです。
私の頭の中はベースが馬鹿(すみません言い方が汚いですね!!)ですから、ベースを前提にしないと考えが巡らず思考停止します。
その中に賢い物事を放り込みようものなら、次に繋がるボキャブラリーがないので思考停止。
片意地や背伸びや見栄をはっても私の頭は思考停止です。
容量の少ない、性能の悪いPCを思い浮かべるとわかりやすいかもしれませんね。
でもそんなPCでも一丁前に仕事はするんです。
見栄を張って頭のいい人の真似をしたら、思考停止しなかったとしても、嘘を書いてしまったり、当たり障りのないどうでもいいことを書いてしまいます。
所謂正解とされているくだらないことを、なぞって言ってしまいます。
ただでさえ伝わっているか不安な文章が確実に何も伝わらない身のない文章になってしまう。
なので馬鹿をベースにした話を始めます。
馬鹿というのは汚い表現ですが、馬鹿が愛されるものになれるといいな~と思います。
馬鹿な話。
なんか、眼の前にあります。
頭に浮かんだおぼろげな個体。
何でしょうね、パンでいいや。
パンがあります。
え~とメロンパンがあります。
え~と300年前のパンです。
バカバカしいですね。
お付き合いいただける方はお付き合いください。
ここでついてこれないと感じている人は無理をしなくてもいいです。
体に悪いので読むのをやめてください。
ここでの話は、無理のない空気感が大切ということをお話ししているので、気を使って無理をして読んで頂くと申し訳ない気がします。
私にとってあなたが、無理に私につきっている。そういった関係であることが困るんです。
私としては無理をせずに楽しめる。そんな感じを目指して書いています。
なので読んでいる皆さんが無理をした時点で私としてはアウト。
先生とはそういうものだと思いますし、生徒が学ぶとはそもそもそういうものだと考えています。
学ぶとは本来学ぶ側が好きに学ぶものを選んで良いものです。
なので私の話も合わないなら遠慮なく吐き捨ててください。
それが学ぶということです。
学び始めのフィーリングは大切だと思います。
空気感が自分に合うか?
空気感が違うものは学べない。
そんな気もします。
私はこれまで空気感が掴めないものは掴めるように努力してきました。
そんな努力も、こと受験においては大切だとは思います。
受験生に学ぶ内容を選ぶ権利はないですから。
私にとっての美術もそのような壁を超えて随分無理をしていたような気がします。
でもそのような壁を越えることで学びの本質からかなりズレたことをしてきたと思います。 なので私は東京藝術大学の卒業制作で全てのちゃぶ台をひっくり返して優等生ぶっていた自分と決別しました。
それで長い時間をかけてリハビリーをしてきた。
私なんか天才には程遠いですね。
ん~それで・・・無理な受験勉強を越えて大学に行かなければ研究者や先生になれない。
不思議な世の中ですね。
空気感。 日常から醸し出るような。
そのようなことでなければ感性で指導することはできません。
感覚は空気を介して伝わるものですから。
あと、表現とは空気を超えるものだと私は考えています。
つまり、テストの英語の勉強などと違って、美術やデザインは感じるものであったり、同じ空気を共有する人に感じさせるものなので、日常から醸し出るような物事を通じてでなければ感性の教育は不可能だと私は考えています。
人と人の間には空気があります。
今の私の目の前にある空気は埼玉の熊谷のガストです。
アメリカではありません。
なので、私には輪切りにしたサメのことや壁に塗られた油のことなんかは活字で理解できても作者の目の前の空気を共有していないので実際にはさっぱりわかりません。
作者と同じ場と空間と時間で同じ空気を肌で感じ共有することは不可能なんです。
作品は理屈ではなく感覚を共有するものですから、
サメを輪切りにしたり、壁に油を塗ること自体、熊谷にいる私自身が共有することなど不可能です。
日常から醸しでるような物事を通じてでなければ作品を作ることは不可能です。
その実。無理をせずに、背伸びせずに、眼の前にあるものを落ち着いて見ることからはじめて、じっくりと考えていくようになってからはすごく楽なものになったと感じます。
大げさかもしれませんが、現実や日常を逸脱した情報は必要ない。
つまり、素晴らしいアートやデザインと言われるものを見ることはできても、実はその作品を本当に理解しうる空気感はそれが作られた時間にその場にいて肌で感じることでしか得ることはできないのです。
アートやデザインを理解した。という会話は玄人の世界では活字にできる情報を共有すれば成立します。
でもそれは実際の作品の空気感をピタッと共有したという肌の手応えのあるものでなく。
もっと薄い次元で、言うなれば体でなく、頭で理解した。と言えるようなものです。
その逆に素人は、玄人の世界で常識になっている「頭での理解で成立した」とする認識はないので素直に空気感だけで理解できたかできていないかを判断します。
なので素人は見た作品のほとんどを素直によくわからないといいます。
でも、真実は実は素人の皆さんの素直な声の方にあると私は思っています。
玄人の皆さんは馬鹿な話だと思うでしょうね。
でも私は正直にこう思います。
私は馬鹿の側にいます。
日常を大切にする。バカみたいな感じですが、
でも、いつもこんなように何でもないことから美術のことを考えています。
なので今日もバカみたいな所から美術のことを考えてみます。
高尚でも、権威でもなんでもなく、ただの日常です。
何気ない馬鹿なことから、
気楽に考えた方が、
ぽんぽんなんか浮かんでくるんです。
それでぽんぽん浮かんでくることをスイスイ吐き出した方が
色んなことが見えてきたりもします。
今回のお話で一番言いたい所です。
フリーズする頭をほぐすには馬鹿になること。
あ、話の最後までずっと馬鹿な話になるかもしれません。
そうなったらどうも・・御免なさい。
馬鹿なことを言わないようにするとつい言っても仕方ないようなつまらないことばかりを言ってしまいます。
これを言ったらいけないのかな~と気にしてしまうと、本当にろくな言葉が出てきません。
言葉が出ない時の私の頭の中は「大人の振る舞い」的には言ってはならないことばかり。
ということは、私の頭の中は大半が「大人的に馬鹿なこと」が入っているのだと思います。
で、そのような頭と上手く向かい合うために、私はとうとう私が馬鹿であることを受け入れました。
そしてこれからの人生、めでたく馬鹿なことを言い続けて生きていきますとそのような覚悟を決めるのでした。
これまで、私が大学に残ることを辞めたあの時から、馬鹿なこと。つまり「本音」を言って、それでも美術の世界で生きていけるようにするために、生き抜ける環境を作り上げる努力を重ねてきました。 生き抜く方法については後日又・・・。
なんというか、なので、今はとても楽しいです。
おそらく、あのまま大学に残っていたら、それなりに成功していたと思います。そのかわりに自分を抑えつづけて耐えしのぐ日々を過ごしていたと思います。
その当時、今もそうですが、そう言った生き方にどうしても魅力を見出せなかった。
当時の私を知る人は私が大学に残らなかったのが不思議だったんじゃないかな~と思います。
みんな私のことを馬鹿だな~と、きっと思ったと思います。
私のことを馬鹿だな~と思った人は正解ですね。
洞察力とか観察力があります。
馬鹿なりにさんざん考えたあげく、最終的に本能の赴くままに従いました。
そんな私はよく物思いにふけっています。
私は馬鹿な話やら何やら考えていると、いつの間にかいつも美術のことを考えてしまっています。
私は美術とのそんな向かい合い方を大切にしています。
馬鹿な話し方からはいる・・・なのでそんな空気感でこの文章も書きます。
馬鹿な話を切欠にすることは私にとって大切です。
私はそのような日常を大切にしています。
私の頭の中にあるのは、たわいもない馬鹿な見方、考え方、捉え方です。
なので私の頭の中は馬鹿な物事がベースです。
私の頭の中はベースが馬鹿(すみません言い方が汚いですね!!)ですから、ベースを前提にしないと考えが巡らず思考停止します。
その中に賢い物事を放り込みようものなら、次に繋がるボキャブラリーがないので思考停止。
片意地や背伸びや見栄をはっても私の頭は思考停止です。
容量の少ない、性能の悪いPCを思い浮かべるとわかりやすいかもしれませんね。
でもそんなPCでも一丁前に仕事はするんです。
見栄を張って頭のいい人の真似をしたら、思考停止しなかったとしても、嘘を書いてしまったり、当たり障りのないどうでもいいことを書いてしまいます。
所謂正解とされているくだらないことを、なぞって言ってしまいます。
ただでさえ伝わっているか不安な文章が確実に何も伝わらない身のない文章になってしまう。
なので馬鹿をベースにした話を始めます。
馬鹿というのは汚い表現ですが、馬鹿が愛されるものになれるといいな~と思います。
馬鹿な話。
なんか、眼の前にあります。
頭に浮かんだおぼろげな個体。
何でしょうね、パンでいいや。
パンがあります。
え~とメロンパンがあります。
え~と300年前のパンです。
バカバカしいですね。
お付き合いいただける方はお付き合いください。
ここでついてこれないと感じている人は無理をしなくてもいいです。
体に悪いので読むのをやめてください。
ここでの話は、無理のない空気感が大切ということをお話ししているので、気を使って無理をして読んで頂くと申し訳ない気がします。
私にとってあなたが、無理に私につきっている。そういった関係であることが困るんです。
私としては無理をせずに楽しめる。そんな感じを目指して書いています。
なので読んでいる皆さんが無理をした時点で私としてはアウト。
先生とはそういうものだと思いますし、生徒が学ぶとはそもそもそういうものだと考えています。
学ぶとは本来学ぶ側が好きに学ぶものを選んで良いものです。
なので私の話も合わないなら遠慮なく吐き捨ててください。
それが学ぶということです。
学び始めのフィーリングは大切だと思います。
空気感が自分に合うか?
空気感が違うものは学べない。
そんな気もします。
私はこれまで空気感が掴めないものは掴めるように努力してきました。
そんな努力も、こと受験においては大切だとは思います。
受験生に学ぶ内容を選ぶ権利はないですから。
私にとっての美術もそのような壁を超えて随分無理をしていたような気がします。
でもそのような壁を越えることで学びの本質からかなりズレたことをしてきたと思います。 なので私は東京藝術大学の卒業制作で全てのちゃぶ台をひっくり返して優等生ぶっていた自分と決別しました。
それで長い時間をかけてリハビリーをしてきた。
私なんか天才には程遠いですね。
ん~それで・・・無理な受験勉強を越えて大学に行かなければ研究者や先生になれない。
不思議な世の中ですね。
空気感。 日常から醸し出るような。
そのようなことでなければ感性で指導することはできません。
感覚は空気を介して伝わるものですから。
あと、表現とは空気を超えるものだと私は考えています。
つまり、テストの英語の勉強などと違って、美術やデザインは感じるものであったり、同じ空気を共有する人に感じさせるものなので、日常から醸し出るような物事を通じてでなければ感性の教育は不可能だと私は考えています。
人と人の間には空気があります。
今の私の目の前にある空気は埼玉の熊谷のガストです。
アメリカではありません。
なので、私には輪切りにしたサメのことや壁に塗られた油のことなんかは活字で理解できても作者の目の前の空気を共有していないので実際にはさっぱりわかりません。
作者と同じ場と空間と時間で同じ空気を肌で感じ共有することは不可能なんです。
作品は理屈ではなく感覚を共有するものですから、
サメを輪切りにしたり、壁に油を塗ること自体、熊谷にいる私自身が共有することなど不可能です。
日常から醸しでるような物事を通じてでなければ作品を作ることは不可能です。
その実。無理をせずに、背伸びせずに、眼の前にあるものを落ち着いて見ることからはじめて、じっくりと考えていくようになってからはすごく楽なものになったと感じます。
大げさかもしれませんが、現実や日常を逸脱した情報は必要ない。
つまり、素晴らしいアートやデザインと言われるものを見ることはできても、実はその作品を本当に理解しうる空気感はそれが作られた時間にその場にいて肌で感じることでしか得ることはできないのです。
アートやデザインを理解した。という会話は玄人の世界では活字にできる情報を共有すれば成立します。
でもそれは実際の作品の空気感をピタッと共有したという肌の手応えのあるものでなく。
もっと薄い次元で、言うなれば体でなく、頭で理解した。と言えるようなものです。
その逆に素人は、玄人の世界で常識になっている「頭での理解で成立した」とする認識はないので素直に空気感だけで理解できたかできていないかを判断します。
なので素人は見た作品のほとんどを素直によくわからないといいます。
でも、真実は実は素人の皆さんの素直な声の方にあると私は思っています。
玄人の皆さんは馬鹿な話だと思うでしょうね。
でも私は正直にこう思います。
私は馬鹿の側にいます。
日常を大切にする。バカみたいな感じですが、
でも、いつもこんなように何でもないことから美術のことを考えています。
なので今日もバカみたいな所から美術のことを考えてみます。
高尚でも、権威でもなんでもなく、ただの日常です。
何気ない馬鹿なことから、
気楽に考えた方が、
ぽんぽんなんか浮かんでくるんです。
それでぽんぽん浮かんでくることをスイスイ吐き出した方が
色んなことが見えてきたりもします。
今回のお話で一番言いたい所です。
フリーズする頭をほぐすには馬鹿になること。