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天才育成計画始動

熊谷美術研究所は「天才を育てる」という論点から発想して美術予備校としての在り方を模索しています。

天才を育てることを基にしている理由はこのような大きな理想を掲げなければ、つい細かな予算のことや目先の利益。
わかりやすい小さなことばかりに目が行きがちになり、美術予備校にありがちな一過性の営利に走り、教育の本質を見失い、しだいに本質をまるで問うことのない体質になる。
そのような闇に陥らないようにするためです。

安定しているとは言い難い斜陽にある芸大美大受験産業の中では小さな物事だけにとらわれていれば時代の流れに抗えず、流れに沿って細っていくわが身を眺めて待つばかり、とそんなことになると思っています。
事業の本質を追い求めその意義を問い直し、自他ともに活性化するためには、美術の、皆が描けるような大きな目標を描いて、それに本気で向かっていく必要があると思っています。

芸大美大受験産業全体が安定期であれば、ことを荒立てずに静かにそっとしておいても平和に運営していけます。
でも今は言うまでもなくそのような時代ではないでしょう。


美術の再生というと大げさかもしれませんが、美術の闇の部分を私たちは知っています。

笑顔で表に立って美術の広告や顔のようにしている佇まいの人達もいますが「美術」は中心にいる数人のことを照らしているのではありません。

光の当たる場所からあぶれた美術の闇の部分は美術に関わる全員が知っています。
勿論美術の中心にいて光ばかり見ている人たちも自分とは違う所にある闇を知っています。
光ばかり見ている人も今は羨望の眼差しで見られていますが、光しか見えていなければ、又見ていなければ、闇にいる人たちから心の底からリスペクトされることはないでしょう。

今後のことを考えて少しでも闇の方を向いてみてはいかがですか?とアドバイスのつもりで問いかけて見たくはなりますが、平和な今を楽しむ気分でなかなかそんな気にはならないのだと思います。

美術の世界は実は大きな闇に囲まれて成り立っている悲しい世界です。


幼児教育から連綿と組み立てられたプロセスを沿って芸大美大受験へと生徒が流れてくる。
この世界は犠牲とでもいいましょうか?理不尽な壁に進路を閉ざされて前に進むことが出来なくなった。
その物言えぬ犠牲者を踏み台にして・・・今の美術の世界はそのような多くの悲しみの上にあります。

理不尽な壁は「天才」「才能」というあいまいな言葉によって美化されます。

美化する論法は口添えによって言い伝えられそれぞれの集まりの中での美談として連綿と息づいています。


今回の天才育成計画は美術の全ての理不尽をさらけ出すことからはじまります。

この理不尽を公開するのは私が担います。

私が具体的に計画しているのは公開するまで。

美術の世界は美談を語る論法は持っていてもこの闇を言葉化する単語と文法を知りません。
美術の世界の皆さんが綺麗な言葉や文法しか知らないので、汚い言葉や文法の部分を言葉にしていくことを私がやらなければ・・・多分ずっと、闇に光が照らされることはすぐにはありません。

私が今それをするのは今の私は動きやすい立場にあると考えているからです。

話が大きすぎておそらく身の周りの人は誰も傷つけずに済むと考えています。
ただ、理不尽を利用してお金を儲けたり、権力の座に座っている人たちには何かしらの影響は与えるでしょう。

私はそれらの人たちには申し訳ないですがまったく興味がないのでこの計画はなんのためらいもなく実行させて頂きます。


今の美術の世界は何らかのモーションを起こせなければ淘汰されてしまう時代です。
今は従来であればそっとしておくような問題を一つ一つ丁寧に手に取って見つめ直す時です。
問題を世の中に露呈させることは今現在利益を得ている人たちを傷つけます。
なので利益を共有している周辺の人はできないでしょう。

大学は基本的には利害関係者の集まりです。
なのでこれは第3者でなければできない仕事です。
丁度よく引きこもっている私に向いている仕事だと考えています。


美術の理不尽は美術の道に進んだ全ての人が知っていることです。

ただそれらの全ては私たちが持っている「敗者の論理」をベースにその上に都合のいい美学を作りその美学に守られています。
すなわち敗者がそのまま負けたままの状況を美談にすることで勝者と利権者は利益を得続ける。
そういった構図になっています。

結果が出なかった時に使う「天才には勝てない」や「才能がない」という締めくくりの言葉と前後を構築した論法。
美学に守られているため理不尽という認識すらないと思います。

でも違います。

一つ一つを公にして社会の全ての人に精査してもらいましょう。

そうすることで全ての闇は取り払われるはずです。
私の言う闇は全て美術の中の人が意図的に行っていることですから、それをあたかも自然発生的なことにしているのも「天才」と「才能」というロジックが生み出した幻想です。


私は美術予備校を経営しています。

美術予備校のことに話を戻すと、美術の中の人が意図的に作っている闇を振り払わなければ美術の世界は社会から嫌煙され続け多くの美術予備校と一部の大学が淘汰されるでしょう。
我々が従来常識と考えている美術予備校としての在り方の中には実は多くの闇があります。
その闇の全てが美術予備校をこれから先運営し続けていけるかどうかの懸念に置き換えられます。

このまま誤魔化し続けても必ず人は離れていく。

「天才」「才能」などの言葉によって問題がぼかされてきたことで懸念がはっきり認識されず暗黙の了解になり、疑念を抱き続け、問題が顕在化せず、問題にならずに惰性で進めているといった不健康なモヤモヤとした状態は一掃するべきです。

汚れたものを一度洗い直さなければならない。
危機感を持っている者は少なくないはず。


美術の中心にいる人たちの多くは胡坐をかいて落ち着いています。

それはなぜか、何もしなくても儲かるからです。

問題に興味を持てない、心ない、自分の安心の世界に落ち着いている人達には任せておけません。
大ナタを振るわなければ芸大美大受験産業そのものの未来はない。

大学という公の教育機関でありながら、難関校は、ほんの数校の予備校に通える受験生しか合格できない、公平性が欠如した実技試験を未だに続けています。

日本中に反感を持っている人が何十万人、いやそれ以上かもしれません。
反感を持っている人たちが2世3世に美術の世界を勧めますか?
彼らが発言できる切り口が生まれるタイミングはもうすぐ目の前に来ています。
その前に考えませんか?

彼らの多くは今の所「天才」「才能」という言葉とかけて理不尽な現実を闇として受け止めずに全て自分の責任として受け止めています。
美術の世界を攻撃しないまでも、理不尽なことが改善される可能性が見えれば彼らはすぐに動くはずです。

本当に公平な試験になってそれで評価されるのであれば、敗れても心から納得いくはずです。


さて機会が来たら日本中を対象にアンケートをとりましょう。

そこで本当の現実が露わになります。

美術には確かな価値があります。

その価値を社会にはっきりと示せば美術は社会から求められるようになります。
闇に包まれた今の美術の世界は汚れているので外から価値が見えません。
価値が明瞭なものは消えることはありません。
洗い直した後にはっきりと見えてくる美術の価値があります。
私はその価値を想像しています。
世の中の全ての人が食事をするくらいに絵を描くことを愛し美術を守り続ける。


私はこんな汚れた現在の状況からは天才は出てこないと考えています。
例えば今日本で名前が出てきているアーティスト数人を頭にイメージして「天才」だと思いますか?
作品を見て歓喜の声を上げて感動しますか?褒めないと恥をかくからすごいとか言っていませんか?

私は正直思います「くだらな!」とか「しょぼ」と。

見栄を張らずに正直に発言しませんか?

「天才」「才能」「芸術」などの高尚な言葉が支配した発言できない空気これら全て美術の闇です。
闇を撃ち払った後、今思うことは、社会に広く美術の本当の価値が認知されたらその時初めて本物の天才を育てる基ができる。
闇にまみれた狭い世界が強引に取り上げたアーティストが感動を与えることはあろうはずがない。
社会に広く美術の価値が認知された時、世界中の人の頭で考えられるようになった時、初めて本物の天才は現れます。

世界中の賢者が本当に価値を認める天才です。


話は変わりますが、熊谷美術研究所は経営者が講師なので芸大美大受験産業の存続を願いアクティブに思い切った行動を起こすこともできる珍しい立場にあります。

美術教育の世界全般をみれば大学などでは現状で切迫している状況にない所もあります。
切迫していない平和な状態にある人たちからは私が掘り下げようとしている問題とその解決のための行動へは関心は持たれません。
興味が持たれず、その理解、ましてや賛同は当然得られないでしょう。

但しこれから上げる問題は真に多くの人が直面し、ぶつかったことのある問題です。

例えば合格しなかった人たちについて。

そしてこれから上げる問題は後の世代に絶対に引き継がせてはならない問題です。
先人が苦悩したことを後の人に繰り返させてはならない。


私がこれから列挙する懸念は感じている人が大勢いるが、これまで言葉にすらされていないようなことです。
問題を解決したいその想いを実現していくためには滑り出しで天才という派手な言葉を用います。

派手にした方が正しい。

教育の世界は地味に、と考える先生は多いですが私は間違っていると考えています。
地味に嫌なことをしたりさせるのが勉強という面がどうしてもあることは否定しません。

ただ、楽しく遊びが勉強になり勉強が楽しくてしょうがないや仕事が楽しくてしょうがないが正しいと考えています。


「天才」「才能」という言葉の闇を語りながら、仕事を楽しくするためにあえて「天才」という言葉をアイロニカルに使います。
又、アイロニーではなく、本心から天才が育つ基を作ろうと思っているので「天才を育てる」という大義名分に心が躍ります。

問題が世に出回って周知された時には世界中からこれまでに出てくることのできなかった新たな天才が生まれてきます。その時にこのプロジェクトは忘れ去られているでしょう。

それでも自らが若い時に苦悩したのと同じように次の世代の人たちが同じことで苦しまない状況になっていることが実現したら爽快です。

そうなることを願ってこのプロジェクトを開始します。

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