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コンクール不参加の理由

コンクール不参加の理由を一言で言えば以下の通りです。
「コンクールに出品されている全ての作品が甲乙つけがたい素晴らしい作品です。」
私の中ではこの一言に尽きます。

私の目には全ての作品が天才に見える。
天才の作品にコンクールに出品して受賞するための偏執的な指導などする必要は一切ないし、私にはできません。 そして致しません。
そんなことよりも、一つひとつの作品がなぜ天才なのかを具体的にわかりやすく指導することが大切で、私がクマビで尽力するべきで、私が考えるに図画工作に関わる全ての大人がそのようにあるべきだと私は考えています。

仮に子供が将来、芸大美大に行きたいと言えば、私は迷わず難関校に行くようにアドバイスします。 そして指導します。でも、多くの子供はアートの世界で生きていくわけではありません。 大人が方向性を決めてしまうのではなく子供の好きな所に行かせるべきです。
子供が芸大美大に行きたいと言えばその時に指導すればいいと考えます。

子供の意思に反してコンクールに参加させてしまえば、その時点で無意味な「感覚の喪失」が起きます。 つまり、それ以降「脳神経的」に絵を考えるようになる。
それはつまり、食べ物を味わって食べていたのが、それ以来頭で食べるようになり、味わうことを忘れてしまうようなことです。
獲物を狙うかのような衝動的な感覚で絵の具をグチャグチャさせて「遊び」をしていたのが、綺麗な形を描く「仕事」に変わってしまう。

子供が芸大美大に行くとか「上手」という技芸を身に付けたいと望むなら「仕事」としての指導をしてもいいと思います。 でも子供にその判断ができない時は辛抱強く待つべきです。
ピカソは生まれた時にすでに絵を描くことが「仕事」でした。 そのような家庭に生まれた当時の子供たちには良くあったことのようです。 幼い頃から職人的な技巧を持っている。 でも彼らが持ち得なかったのは技巧を使わずにグチャグチャ描くことです。
芸大美大や受験する学生には絵が描けなくなる学生が出てきます。 それは「感覚の喪失」が起きているにも関わらず、それに気づかず感覚で描こうとする時に起きてしまいます。
つまり、ピカソは「感覚」を取り戻すために子供の落書きのように描けるように大人になってからリハビリーを始めたのだと私は考えています。
ガチガチの技巧を体で覚えてしまったら、グチャグチャでだらしない絵を描けなくなる子がいます。 それはとても不幸なことなのです。
それを超えることはとても困難なことです。
私もかつて全く絵が描けなくなりました。 手が強張ってしまい、落書きすら描けない。 そのためリハビリーで落書きが描けるようにすることから始めました。
コンクールの主催者や審査員にはこのようなことを考えている人は一人もいません。

つまり
「コンクールに出品されている全ての作品が甲乙つけがたい素晴らしい作品です。」
この問いに真正面から向かい合って答えられる人はコンクールの側にはいないのです。

「コンクールに出品されている全ての作品が甲乙つけがたい素晴らしい作品である。」 それに甲乙つけること自体私には信じられないし、素晴らしい作品に乙をつけるようなことは絶対にしないで欲しい。 だいたいそれがわからない時点で評価する人間としては致命的だし迷惑なので評価はしないで欲しい。 仮にコンクールを「技芸」として割り切るならそれをはっきりと事前に示すべきだし、「脳神経」を評価するゲームであるならそれも事前に示すべきです。 それでも子供たちは普段「自由にのびのび」で指導されている。 つまり「技芸」「脳神経」を指導された経験は一切ない。 そのような競技に参加されるための教育、つまり芸大美大受験のような指導を一切なされていない状況であるにも関わらず突然競技に出させられるのは、私はナンセンスにもほどがあるような愚かな行為だと思えてならないのです。

● コンクールの問題

・コンクールごとの評価基準にバラツキがある。それによって生徒が翻弄されることが懸念される。
・コンクールでどのような作品が評価されるべきか図画工作の世界で定められているわけではない。
・コンクールに出品する以上受賞を狙うわけだが、そのためにはどのような審査が行われ、作品が評価されるかを先読みして評価をされる作品を描かざるを得ない。
・評価される作品を考えて制作することによって自由に想像し、感覚を働かせて制作することができなくなる。
・コンクール狙いのために受賞作品を調べ傾向と対策を練ると言うようなことをクマビでは絶対にしたくない。
・コンクールで受賞される作品を描くことに絵画としての価値が全くない。
・コンクールで受賞される作品を描くことに子供を育てる効果はない。
・コンクールに出品されている全ての作品が素晴らしい。その見方を指導するべきである。
・コンクールに出品された作品に優劣をつけるべきではない。
・コンクールに出品された作品の評価の仕方の全ては棲み分けであって優劣ではない。
・この世に「評価されるべき良い絵」があるのなら公募前に「悪い絵」の全てを具体的に公表して欲しい。だがそのようなことができる優秀な者はコンクールの運営サイドにはいない。
・コンクールの評価する「悪い絵」に入りたくはない。「悪い絵」として扱うなら展示を拒否させて欲しい。
・コンクールは大多数の「劣等感難民」を生んでしまいます。それはアートにとって恥ずべきことです。

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