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モヤモヤッ自由の境界見えないハザード

皆さんにお伺いします。
「自由にのびのび」できるのは誰ですか?
・・・。

色んな意見があると思いますが、
私の答えは権力者です。
私の知る限り自分の実力を行使できる時に「自由にのびのび」できます。
つまり、美術とデザインの世界で「自由にのびのび」できるようにすることは権力者を目指すということだと私は思います。

美術とデザインの世界では「自由にのびのび」とよく言います。
何かと言えば「自由」「のびのび」
よく耳にするわりに意味がよくわからないので、よくあるのは生徒はまだしも親御さんの頭の中がモヤッとなっていることです。
世の中には権力が働きます。権力が働くと言われていることが、よくわからなくても偉い人を忖度して言うことに従います。忖度は美術の世界はたくさんあります。「美術=権力」と言っても過言ではないほど。この世界は大金持ちや権力者が支配しています。権力者の力が欲しいので多くの人がその力に群がります。ひとたび権力者が「自由」「のびのび」と小声で唱えれば、その周りの人間は拍手喝采でそれを迎えます。なのでモヤッとしているのです。

拍手を浴びるのは受賞した人。団体の会員。ギャラリスト。美術館。先生。名画を買ったコレクターです。

忖度をやめて、拍手をやめるとモヤが晴れて真実が透けて見えてきます。
透けて見えた微かな稜線を明瞭にするのは皆んなの努力です。
拍手喝さいの中で手を止める勇気が必要です。手を止めて冷静に様子を観察しなければ真実は見えてきません。

「自由でのびのび」というコピーはそもそも弱者に向けたものです。間違っても権力者に向けてさらに権力を行使しやすくするように考えられたものではありません。つまり「自由でのびのび」は冷静にみると権力者に利用されているだけで弱者には私のみる限り全く機能していません。
機能していない事実を人知れず隠してしまうのが権力者に媚びるために皆んなが打っている拍手です。

権力者の力ではなく市民の力。
インターネットを使って情報を上げることで稜線ははっきり見えてきます。
そうすれは美術とデザインの世界は市民ファーストに生まれ変われます。
拍手をする時間があったら真実をインターネットに上げる方に時間をかけた方が皆んなのためになります。

「自由」「のびのび」
美術とデザインの世界はこのモヤッとした言葉を使って、子供と学生に自由な空間と時間を与えて余裕を持って感性や情緒や創造力などを育てようとします。ただしその主旨は生徒にも親御さんにも、後は多くの場合先生(特に保育園、幼稚園、小学校の先生に多いですね)にも伝わっていないので全体にモヤッとした状況を余儀なくされています。幼稚園でも小学校でも子供達の中にモヤッとした気持ち悪さが根付いても、彼らの中に忖度が強く働いて、ある程度「世の中そんなもんだ」と無理やり納得してことを荒立てないように話を落とします。
つまり、幼い頃に美術とデザインの世界は失望されている。そんな印象を与えていることにも気付かずに美術とデザインの権力者は「自由にのびのび」]と唱え続けているので市民の皆んながモヤモヤしているのです。市民は大体いつから美術とデザインがモヤッとしているのか忘れてしまっています。

このモヤモヤを作っているのは主に学校の権力です。
美術とデザインの世界でたいてい最初に会うのがこのタイプの権力者です。
日本では学校の先生に出会ってその次に美術部を通じて公募団体の権力と出会います。良くあるのは市の美術展や県の美術展です。

誰が発端で今も引っ張る必要がどれだけあるのかも曖昧なこのモヤッとした状況を変えられる人間はいません。
この惰性はいつまで続くのでしょうか?
美術とデザインの世界はモヤが蔓延しています。

権力を行使する現場の先生たちが「自由にのびのび」の効果をどれだけ理解しているのでしょうか?

授業の中で「自由にのびのび」の機会を与えると・・・。頭を整理して物事を噛み砕く時間が「間」として生まれます。

「間」は作業と作業の合間だったり、一生懸命描いて、また再び描き始める合間だったりします。「間」のあるのびのびとした時間を設けて柔軟に物を考えて答えを出して表現を試してみる切欠ができます。

自分の内面と向かい合い深く物事を考えることで、それまで気づかなかったことに気づいたり、考えが整理されたりします。そして何よりも考えと表現の結びつきに成功していることが確認できれば、自分の中に確かにある感受性と琴線が証明され、表現の能力に気づきます。

琴線に触れる作品を作ることができれば感性や琴線についての指導が受けられます。「自由にのびのび」の授業はここまで来なければ意味がないのです。ただし肝心の琴線や感性の指導ができる先生が滅多にいません。だからモヤッとしているのです。

「自由にのびのび」させられて「糸の切れた凧」のように放置されただけ。だったり、「伸びきったゴム」のようになっただけという授業が多いです。

自分の中にある感受性と琴線に気付けば、その時初めてモヤッとした靄が晴れて「自由にのびのび」意味が少し理解できます。自分の笑いのセンスがどの程度かは友達とのやりとりで皆んな理解してますよね。美術とデザインは授業を通じなければなかなか機会はありません。

「自由にのびのび」は自分の中に在る様々な曖昧なものごとをはっきりとした手応えのあるものに変える気づきのチャンスを作ります。そして「自由にのびのび」は受動的な態度ではなく、軽視されがちな能動的な態度で学ぶ姿勢です。
つまり、「自由にのびのび」の時は最初に何をするか先生が教えるということはできません。導入でロジックな会話も必要ですが、なるべく言葉ではなく言葉以外の方法で表現させることが大切です。そこに美術とデザインの教科にしかできない力と役割があります。頭の中に映像として吹き出すものは、言葉ありきではなく、絵で噴き出させるものです。本人も何が出てくるかわからないものを出す前に言葉で説明したり、教わったりすることはできません。

琴線の指導をするときにお笑いの世界をばかにするのは愚かなことです。美術とデザインの世界よりもお笑いの世界ははるかに市民権を得ています。市民にお笑いの琴線が理解されている。それに比べて学校で授業をしながら美術とデザインの琴線を理解している生徒はほぼいない。恥ずかしいことです。

笑いを教えるのは理屈ではありません。感覚です。美術とデザインもそれと同じなんです。
美術とデザインの世界の琴線を市民は皆さん持っています。
CMや漫画やアニメやイラストや映画で視覚的に綺麗だったりカッコ良かったり、面白いものを沢山見て感じています。
美術とデザインの世界が市民からモヤッとされているのは高度に発達したCMや漫画やアニメやイラストや映画を見栄を張って否定しているからです。

美術とデザインの世界には多くの学生が入ってきます。
美術とデザインの世界はとても厳しい世界です。
「自由にのびのび」は厳しい美術とデザインの世界で生きていくための力を身につけるために必要なものです。
つまり、この世界は教わったことを反復するだけでは労働力を提供するだけの作業要員になってしまい、ただの作業になってしまえば安い報酬で延々と働かなければならなくなります。この世界は人気があると同時に極端な人手不足です。

作業要員にならずに権力者になるには「自由にのびのび」の時間を成功するまで取ること。

静かな無の世界で、ゼロから物を作り出す力。創造力と微かな変化を機敏に察知して感じ取る感性。美術やデザインの力で感動させる琴線(お笑いの世界だと笑いをとる琴線というとわかりやすいかもしれませんね)がなければ美術とデザインの世界では呆然と立ち尽くしてしまいます。また、美術やデザイン以外の世界に進む子供も図画工作や美術の授業を通じて落ち着いて物事を考える力を身につけ、折れづらさやを気づきを引き出すための姿勢を身につけることができます。なので「自由にのびのび」の時に教えてしまっては台無しです。

役に立つ「自由にのびのび」ですが、その取り扱いには十分な注意が必要です。
つまり、誤った取り扱い方をしてしまって殆ど皆んな事故に遭います。

あまりにも事故が多いし、それで美術とデザインの世界ではあまりにもこのことについて誰も何も言わないので、見て見ぬふりができないので私が口火を切ります。

事故が多いのは車のように免許制度がないからです。道路や信号が見えずらいモヤの中を無免許運転しているようなものだからです。

私は正直申し上げますとたくさんの人から嫌われています。特に埼玉では。前に勤めていた学校では見事に私一人孤立して学校の全員が敵でした。つまり、自分の周りの人間を傷つけないようにするために皆んなはわかっていても何も言わないのです。でもそれは正しいと思います。私はそれを言ってしまう。なので「大人の振る舞い」として私は間違ったことをしています。その辺りは生徒にも間違った道に進まないように言っておきたいです。でも、私の身の回りにはいなくても、日本中を見れば、私が「てんいく」であげているような問題で本当に苦しんでいる人が大勢います。それは間違いのない真実なのです。そしてそこから眼を逸らさなければならない現場の人間も回りまわって心の奥底でモヤッとしています。なのでその人たちに向けて誰かが周りに嫌われるのを覚悟でやらなければならないのです。

美術とデザインの世界は学校教育によって支えられています。そのため学校関係者の中でお互い傷つけあってしまうような問題は誰も手をつけることができません。だからこの手の問題はずっと放置され続けてます。なので誰かがやらなければならない。生徒たちには美術とデザインの中に大きな問題が山ほどあるのでいつかその中から自分の取り組みたい問題を掴んで沢山仕事をして欲しいと思います。あ、いや私のような不器用な諸刃の剣ではなく、皆さんは私と違って頭がいいので、もっと器用に立ちまわって欲しいです。人生はとても永いのでじっくりと落ち着いて美術とデザインの世界で大切なものを見つけてください。「てんいく」は私が大切にしていることです。君たちの中から天才が現れるのを期待して一つでも問題を解決しておきたいと思います。

「自由でのびのび」で多くの人が事故にあい怪我をする原因は、美術とデザインの世界でどこが「自由でのびのび」の世界で、どこが「自由でのびのび」ではない世界かが眼に見えないからです。なので境界線に足をつまづいて転んだり、境界線から出てしまったことに気がつかないで他の子の運転するトラックに轢かれてしまったり、大小様々な事故がおきます。

美術とデザインの世界では境界線をはっきりと指導しません。
実にモヤモヤとしてわかりません。
境界線をモヤッとさせることでFランクの大学や専門学校は儲かります。
つまり難関校であるほど生徒に境界線をはっきりと示すことができます。
Fランク校で境界線を示すことができないのは示すことで生徒が寄り付かなくなるからです。モヤッとされることで最大限に儲かります。美術の中でも特にモヤッとしているのは社会的な需要度の低い美術の中の科目です。

「自由にのびのび」してはいけない所で「自由にのびのび」してしまう。
てんいくが未完成の今はまだクマビでも誤った認識が邪魔をしてストレートに境界線を教えるのは無理です。

クマビでは「大人の振る舞い」がしっかりとできる子供しか入会させていません。本来「てんいく」で目指していることで言えば、今の受け入れ方はとても不本意なことです。「大人の振る舞い」が全くできない子にも美術はすごく役立つものだということが分かっていても、親御さんと子供に納得のいく線引きの説明がまだできず、第一に「大人の振る舞い」ができない子を受け入れる環境がまだ作れていないのです。

自由にできる場所をはっきりと見極めればのびのびは最大限の効果を発揮して通用します。でも、それには誰にでも理屈で納得できるようにわかりやすい説明が必要です。

例えば今のクマビの子供の授業で言えば「大人の振る舞い」を大切にして「自由にのびのび」ではなく、指導の通りにしっかりと技術を身につけることを主体にしているので、そこに「自由でのびのび」指導する子供を入れるとお互いが自由にやるのか?やらないのか?何が何だかわからなくなって絵が形にならなくなります。

「てんいく」「自由にのびのび」「大人の振る舞い」が成功するように詳細に取り扱い方を説明するための長い話です。それぞれの境界線を明瞭にする話です。「てんいく」の話は長いですが、でもそのかわりに私の中でロジックに話が詰んでいます。「てんいく」が新しい絵画と彫刻の時代の幕を開けてくれることを願っています。


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