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They are geniuses

They are geniuses
作品解説
タイトル
They are geniuses.~Fingertip spectacle!~(彼らは天才です〜指先の壮大な光景!〜)
サイズ
油絵の具(Oil painting)
制作年月日
2019/12/1
価格
900,000円(税抜き)
※額装されていません。

  • はじめに〜結局人生の全ては生まれ育ち〜

    世の中には大事なことがあります。その1つがずっとわからず最近ようやくわかったような気がします。 自然にスッと腑に落ちるというか。 自分にスッと馴染むというか。 なんの引っかかりもない自然な感じです。 どうでもいいことの全てを取り払って。 お祓いが済んだら本当に大事なことが見えてきた。 そんな感じです。 どうでもいいことは全て処世術でした。 そして貧乏人の無理な背伸び。 処世術を使わなければ騒ついて不安で一杯ですがそれは心の表面の話で心の底は気持ちいい。 貧乏人の私にとって表面的に裕福になるよりも、その根本的な解決に近づける物事の方が大事なのです。 表面的なことはどうも気持ちが悪く憂鬱になります。 一瞬気持ちが舞い上がっても舞い上がった後に着地する場所がない。 気持ちのやり場がないというかそんな感じ。 晴れやかな気持ちになるにはもっと根本的なことに目を向けて努力をしなければならないのです。 これをやることだけ考えれば学歴は関係なかったと思います。 でもアートで良かった。 この目で学歴社会の内側を見渡すことが出来たことは自分にとって良かったと思います。 皆のことを考えると貧乏人が一流大学に入り込むことで様々な問題を手に取るように知れたし、これからの大きな仕事に直接結びつけることができるので、自分にも還元できて良かったとも思います。 貧困層の子にはやはり一流大学を目指して欲しいという思いはあります。 かなり過酷な道ですが貧乏を乗り越える1つの方法です。 その気があるなら目指して欲しい。
    アートの世界の入り口では通過儀礼「食べていけない」(天育では怪物クリエーチャーと言いました)の洗礼を受けます。 それによって処世術を学び、RPGのように攻略本を使った偽りの冒険が始まります。 つまり、本当に冒険していない偽りの自分に後ろめたさを感じながら生き抜く道を選択します。
    私が攻略本を破り捨てたのは東京藝術大学の卒業制作の時です。 あれがなければ、おこがましいですがどこかの大学の教員程度には楽勝でなっていると思います。 予備校で指導すれば芸大の1年生の時に既に予備校の業界では全国1位の成績を出せるクラスを作っていましたし、受験では芸大の先生を騙そうと思えば小指の先でピッとする程度に簡単でした。 作品は全て完売されるし、東京藝術大学でも描き続ければ作家になれると言い切る先生が出てくる程度の結果が出せるよく出来た攻略本です。 でも大学の4年間でそれでいいのかが本当に引っかかって、悩んでいました。 割り切ればいつでもできる。 元々割り切れない性格でそれを選択しないで受験は最も遠回りして7浪もしてしまいました。 割り切れないのは腹に一物あるからです。 あの時反省して、いい子になると決心して、要領よく生きようと心に決めていました。 世渡りをする際には処世術を使わざるを得ません。 割り切ることで芸大に入学することができました。 大学でも処世術をよく使い、いい子でいました。 卒業制作までは・・。
    私が今、このタイミングで処世術を使わず本質と向かい合えるようになったのは、起業し、それをしなくても食べられるようになったからです。 簡単に言います。 アートの世界はパトロンか起業しかありません。 それ以外は処世術です。
    大学生の時当時私の頭の中にあったのは「川俣正」。 彼の仕事に勝てるのかと言えば当時の私の仕事は彼のダイナミズムに到底及びません。 攻略本は所詮チープ。処世術は人として安い生き方なのです。 当時の私には安くない本当に価値のある大切なものが見えかかりながらまだ手に取るようには見えていなかった。 (今思えば絵画でそれをやろうとしていたわけですから時代的に当然と言えば当然ですが・・) なので、世の中ではよくないこととされている禁断のリセットボタンを押したのです。 卒業制作は壊し、壊したまま提出しました。 あれで単位をくれる芸大も流石です。 大学院の面接では院に残る気がないことを宣言する始末。 偉そうなこと言って申し訳ないですが成績表では間違いなく私は最低の成績です。 自分の歴史に残るのは数字の語るダメな学生という自分の史実です。 院に残り惰性(攻略本)で事が進むことに大きな懸念を感じたのです。 大抵の人には利口になれ・・とか言われそうですけどね・・。 思えばあの時が芸大への最後の挨拶となりました。 そしてカッコいい言い方をさせてもらえば本当の意味で卒業した。
    あの頃から20年近くかかりやっと腑に落ちたわけです。 ・・馬鹿ですね。 でも大事なことを掴みました。 20年前の勘は正しかった。 日本では・・いや世界的に私のような貧困層の人間は超一流大学に進学することはほぼ不可能です。 今思えば私の子供の頃は東大早稲田慶応という決まり文句を親が連呼し、一流大学を目指せと厳しく子供に指導する。 メディアに流布された思想に洗脳された親によって私の世代の人間は東大早稲田慶応のフレーズを頭にこびりつくくらい毎日言い聞かされました。 それで身の回りの誰が東大早稲田慶応に行ったかと言えば、見渡す限りひとっこ一人いません。 今思えばこれは上級国民が東大早稲田慶応の株を最大限に上げるために日本の底辺層に巻いたキャンペーンです。 日本中の親がそれに乗ってしまった。 この歳になって貧乏人の目で貧乏人代表として夢にまで見た一流大学を舐めるように見てきた私が言います。 貧困層出身の人間は超一流の大学にはいません。 もし行くとするなら想像を絶する困難を超えなければなりません。 不可能とは言いませんが、もし目指すのならそれだけの覚悟をしてください。 これは特に親御さんに言っています。 子供に奴隷のような仕打ちをするのではなく。 あなたが努力しなさい。 美術系でも実際に私と同じレベルの貧乏人は見たことはありませんし、一般の東大、慶応、早稲田でも、東大、慶應にはまずいません。 早稲田には少し貧乏な人はいます。 つまり、あのまま芸大に残ればエリートへの道を進めたと思います。 大学の教員程度にはなった。 でも、しっくり来ないのです。 全く。 友人たちで大学の教員になっているのは、やはり余裕のあるまともなご家庭で立派に育った人ばかりです。 つまり、私の根っこには貧乏人根性があって、立派な生き方の日々は違和感の連続なのです。 例えば、そんなことで昔の自分が喜ぶかと言えば全く喜ばない。昔のクソ田舎のど貧乏の友達が喜ぶかと思えば喜ばない。 自分のような生まれ育ちの人間が本当に良くなるように、世の中のために仕事をするには、やはり根底には生まれ育ちをしっかりと据えなければならないのだと思います。 そうしなければ心の一番底が機械のように無表情でこっちを見ていて喜ばないのです。 性根といいますか、隠さず言うと腐っているわけで、その腐っている部分がうずくんです。 腐っていることをどうすれば良くなるか?真剣に考えて、それを仕事にしたいのです。 それが天職だと思います。 本音で言えば生活が安定し、社会的にどこにでても恥ずかしくない大学の教員にはやはりなりたかったという思いはあります。 でもそれははっきりと私の天職ではないことが分かるのです。今回の作品の根底にはこのような想いがあります。 貧乏人には手元が大事です。具体的な話ではないので今の所、作品解説??キョトンとされている方は多いと思いますが、次以降で説明させて頂きます。
  • なぜFingertip spectacleを描いたのか?

    副題のFingertip spectacleを付ける作品は、一連のシリーズとして制作していきます。画家が制作している最中と画面に近づいた時に見える「筆跡」から覗ける「手元」「手元の仕事が織りなす壮大な景色の素晴らしさ」を皆さんに伝えて行くことを試みます。 次回作以降では皆さんに伝える為に技法についても詳細にお話しします。
    今回のThey are geniuses. はシリーズの1作目です。 この作品の解説はシリーズの導入に重点を置いています。 先ほど申し上げた通り技法などの詳細は次回作以降に委ねます。 今回の導入を読んで頂ければこのシリーズをどんな気分で、どんな概念で、懸念を持って描いているのかご理解頂けると思います。

    「手元」の良さは私が貧乏でネグレクトの家庭で育った幼少期に1日中油粘土を弄って遊んだそのままの感覚やイメージで表現しています。 おそらく貧乏人は「手元」が好きなのです。 基本的にアートはセレブや貴族が作っています。 なので優雅にゴルフをやったり、カジキを釣ったり、ラクレット・・。つまり手元なんか出番がありません。 まあ、なのでチャンスだと思っています。 世界中にどれだけの貧乏人がいることか・・。 粘土で作る何かの部分をPutty(パテ)と表現させてもらいましたが、子供の頃に脊髄反射的に繰り返した粘土遊びはいまだに体が覚えているのです。 私にとってはこのような感覚で絵を描くことが幸せなのです。 褒賞などは関係ありません。おそらく皆さんにとってもそのはずです。
    絵の世界は、一生懸命沢山描き込んだり、沢山枚数を描いたり、沢山時間をかけたり、速く仕上げたり、色んな努力をすることが推奨されています。 でも私はそれらはいらないと思います。 そんなことよりも正直であること。 晴れやかな気分でいることが大切です。 つまりそれらをすることに憂鬱さを感じる人は多いと思います。 沢山描き込んだりすることが憂鬱、時間をかけることが憂鬱、早く仕上げることが憂鬱、努力することが憂鬱。 憂鬱なのは多分媚びているからです。 憂鬱さを抱く人の全ては絵を描かなくてもいいのだと思います。 そしてよくよく探してみると必ず晴れやかな気持ちで絵を描きたくなるやり方が絶対にあるのです。 それを見つけることの方があなたにとってもアートにとっても非常に大切なことなのです。
    それらをしながら、考えること。 ということ。 コンセプトということ。 主観ということ。 客観ということが我々の中では大切にされてきたと思います。
    そんな絵の世界の、絵の世の中の雰囲気は絵の外の多くの人に伝わり、絵を描く時は皆色んなことを考えています。
    絵の世界の中心で考えることを推奨し、絵の外の世界にも考えることが習慣であることが行き渡っている。
    そんな中でふと思ったのは行き渡った今最も大切なことは、それぞれの人がそれぞれの主観の中で様々に感じていることを外に出していくことなのではないか?ということです。 世の中の全ての人が絵を描く時に考えて描いているわけですから、その全てを出すということをするといいと思います。 正直いうと今のアートの世界はチープだな〜と思います。 とても参戦する気にはなりません。私の期待はアートの外の世界の人材に向いています。 世の中には凄い人が沢山いる。 その人たちは残念ながらアートの世界などには目もくれないのです。
    私も、こんなこと言うとおこがましいですが、東京芸術大学の教員にも、今評価され、例えば六本木ヒルズやらなんやらで展示をしているご立派そうなアーティストも、申し訳ないですが「チープ」なのです。 わかりやすく言います。 「クソつまんない」どっかの人が10億くらいで作品買ってましたが、なんとか世の中の注目を浴びたくて、人として評価されたくて媚びてしまっているのだと私は思います。 やめましょう・・そういうの。きっと憂鬱な毎日を送っているはずです。
  • 作品の値段

    今の所、絵は完成したものばかりが評価されます。 それは当然のことかもしれませんが、でも絵を描いている人は色んなことを考えながら描いているわけで、その中で気にしていることは、画面で目の前で起きている全ての出来事に対してどう対処するか?です。 発表は多分皆そういうもんだから、実際の色んな考えなどは伏せて、やっていることは対外的に取り繕ってやっていること、つまりは「忖度」です。 無理にタイトルをつけたり、突き放して搬入したりしています。 完成された作品では制作している時に考えている様々なことを絵を見る人に伝えることはできません。 それはとても勿体無いことのように思います。 私もそうですし、他の人たちも皆絵を描いている時は本当にとても多くのことを考えながら絵を描いているのです。 この作品の値段は900,000円です。 高額かもしれませんが、本当にとても多くのことを考えて紆余曲折を得てこの制作に行き着いて描き上げているのでこの値段をつけています。 この作品の値段が市場でこの後どうなるかは皆さんのご想像にお任せします。

    絵を描いている時は本当にとても多くのことを考えながら絵を描いているのです。 皆、その全てを誰にも何も言えないまま反故にしています。 私はそんなバカなことはないんじゃないかな〜と思います。 絵を描いている皆の手元ではとても沢山の物事が起きています。 私は、多分他の多くの人も実は作品の完成のイメージについてはさほど深く考えてはいない。 最も考えているのは描いている過程です。 そうすると本当に考えているのはその時なので、本当に表現しなければならないのはそこだろうと思うわけです。
  • 大事なことは展示ではない

    絵を描いている多くの人にとって 絵を展示するよりも絵を描く時にあれこれ考えたり悪戦苦闘したり実践しているあまりに沢山の出来事の方が大事!と思います。 絵画の真価も展示ではなく描くこと自体にあると思います。 描きかけの絵を部屋に飾っておいて、気になったら手を加える。 そこに知られざる絵画の真価があります。 それを外に発表する必要はありません。 今回の作品は敢えて発表しますが・・。 本来発表は必要ない作品です。 アートの世界は作品を発表してなんぼと言う固定概念がありますが、私はそんなものに拘る必要はないと思います。 描くだけでいいのです。 皆のそれをアートの世界が興味を持って引き出そうとした時、ものすごく大きなこれまでに無かったような絵画のうねりが世界中で起こるような気がします。 自分とキャンバスとのしつこいやり取りの中では何を描いているかといった説明は無用です。 批評家の絵画の批評は何を描いただの、どうして描いただのどうでもいいことしか話していません。 王様描こうが街人描こうがスライム描こうがどうでもいいのです。 スライム描いたから評価するとかほんと馬鹿じゃねーのと思います。 本当の問題は何をどうして描いた以上に、その時間にどのように自分がキャンバスと向かい合ったか?ということです。 そこに壮大な光景があるのです。 絵を仕上げて展覧会に出品する必要はありません。 展覧会に出品しなければ売れたり、天才的な評価されないと考えている人は多いと思いますが、例えば県展とか何やらに出しても売れないし、天才にもなれません。 絵画の力はそんなものではありません。 絵画の力は絶大です。 絵を売るとか褒賞を得るとかどうでもよくて自分を知りたいとか知って欲しいとか、絵を描く時の本当の楽しみや、苦しみの方がよっぽど大事なのではないかと思います。 その力はアートの真価です。

    ちょっと想像つかないかもしれませんがアートの力はあります。 仮に外に発表する時には何の弊害なく表現することを認めるだけで、いじめやパワハラを起こさせない力があると思いますし、戦争を起こさせない力もあると思います。 県展なんかに出さなくて良いのでいじめについて詳細に描いてsnsで訴えればいいのです。 いじめもパワハラも戦争も隠蔽を前提として成立することだと思います。 つまり隠蔽させなければ良いのです。 そういった意味で表現を認めるべき。 アートにはそれを可能にする力があります。 それを邪魔しているのは美術館などの既存の「制度」です。 その制度を乗り越えるのは簡単です。 国家権力の働く高尚な美術館を省いてインターネットに発表の本場を移すのです。 これまで人と人は権力者を通さなければ繋がることはできませんでした。 表現すること、させることが金にもなるわけです。 しかし、これからは権力者をいとも簡単に素通りして人と人が繋がることができます。 その時に力を発揮するべきなのがアートだと思います。 アートの世界にはあらゆる制約を超える天才がいます。 彼らの力を生かすべきです。 絵を売るとか、褒賞を得るといったことは権力者を通じて得られるものです。 そして下でも話しますが、売るとか褒賞は錬金術です。 そんなものではなく、そんなものはどうでもよくて自分を知りたいとか知って欲しいとかの方がよっぽど大事だと思います。 多分私以外の皆にとってもそう思っている人は多いのではないかと思います。 なのでこれはとても大きなうねりになるような気がするのです。 今回の作品は販売しますが、私の作品を購入される方はどうかそのような話を頭の隅に置いて私の作品を見てください。 そうすればご理解頂けるはずです。 作品を売る為に描いているわけではありませんが、予算が枯渇しているので買って頂ける人がいらっしゃれば販売致します。 後、私の作品は画廊を通さずにネットで販売致します。 画廊やオークションや美術館の権限を通りません。 この活動が一般的になればアーティストの表現は自由になります。 この活動に協力して頂ける方はネットで直接私の作品を購入して下さい。
  • 大事なことは何

    私は大事なことをずっと忘れていました。そして危うく大事なことを見落としてしまう所でした。
    絵を描いている途中のあれこれ考えていることを、なるべくその全てを言葉にすること、を仕事としなければならないのだと思います。 それが今の私のなすべきことだと思います。 私の目には、つまり、今は、完成された作品に天才を見出すのではなく。 描いている途中の中の天才が見えてきます。 そこには本当に多くの天才がいるのです。 それは決して見逃してはならないアートの財産です。 私はこれからこの大切なアートの財産を世界中の人が気づくように伝えていきたいと思います。 時間がたてば世の中の皆が現代美術が生み出した脳神経的な作品を作り出すようになる日が来ると考えています。 時間にしておそらく20年もたてばそうなると思います。 根拠は私の目から見てアーティストの作品は科学や医術や哲学などと比べてそれ程高度なことをやってないからです。 どのアーティストのコンセプトを覗いても、正直さほど大したことない。 インターネットによる情報爆発の起こるこの機を利用すれば早く伝搬するはずです。 問題は皆にわかりやすくシナリオを書いてくれる人がいないこと。 ・・と書けば皆やり出すかな・・。 皆がやり始める順番としてはまず、インスタレーションやパフォーマンスはまだまだ先のこと。 まずは具体的に物を描くのではなく抽象的に意味のある絵の具いじりをする所から始めるべきだと考えています。
  • Fingertip spectacle

    Fingertip spectacleの作品の一部はツイッターでのみ発表したいと考えています。 次回作以降、作品の一部は制作の一部始終を動画で流します。 この作品は制作の途中の全てが作品です。 絵を描く人が筆を取ってから置くまで何を感じ、何を考えて制作しているのか? 動画をご覧になった方は自由に想像しながら見て頂けばと思います。

    絵画は「目」と繋がる世界です。 そこに壮大は景色があります。 絵画は「目」つまり、見られることを前提とし、見る前に「頭」とつながらない以上説明を前提としない世界です。 例えば私の名前は何ですか?と聞かれても、知らなければ誰にもわからないように、絵画はコードだのモードだの言ったとしても、どのような辞書を持ち出したとしても、その作品がどのような考えで、どのような感じ方で制作したのかを作者の話を聞く前に知れない。 そのため絵画は知ること以前に見られることを前提にしています。 そこにはあらゆるコードやモードを寄せ付けない力が存在します。 作品の全ては事前の説明を抜きに「目」から繋がることが常識です。 つまり、名前もわからない人と突然対峙し繋がれるということが常識です。

    ○ 絵画との出会いは怖い
    絵画との出会いは怖いものです。街中で人とすれ違うようなものです。 家族ではありません。 普通に考えて怖いですよね・・。 名前も知らない得体の知らない人と普通繋がれと言われて繋がりませんよね?? 例えばそんな知らない人と子供を作れと言われて、作りますか? 作りませんよね? それで作れというのがアートです。 なので私の作品は皆さん自由に見てください。 それでその瞬間は不可解だと思います。 なので私の作品は不快だと思われた方は遠慮なく吐き捨てて頂いて構いません。 私はそのようなこと自体をどうなの?と言いたいのです。 殆どのの出会いで吐き捨てられたとしても、人と人との出会いくらいに人と繋がることができたらそれで十分です。 ある意味、ピカソのように巨匠の作品だから良いものだから見なさいと言われて誰彼構わず繋がらされるよりも繋がるべき人と繋がるべき時に繋がれた方が幸せです。 ある意味私自身が楽しめればそれでいいのです。 自分が楽しめればいい。 という部分で皆と繋がれればいいと思います。 皆自分の手元で自由に遊んでください。 それを堂々と成立させる為に今回の発表の意義があると思います。 今のアートの世界は権力者によって繋がる相手を操作され、自分で探すことができません。 これって物凄く不自然だと思うのです。

    作品の全ては事前の説明を抜きに「目」から繋がることが常識です。 つまり、名前もわからない人と突然対峙し繋がれるということが常識です。 そこにこれからの私の仕事があるのです。 「目」には無限の可能性があるのです。 今ここでこのことについて安易に答えらしきものをお話しすることは避けましょう。 生徒たちにバトンを渡しても面白いかもしれないとも考えています。 怖くない人となら繋がれますよね。

    皆さんが私の作品と「目」で繋がった後に、一連の制作の中で技法書としての意味も含めて詳細な解説を加えたものをツイッターとHPを連携させて流していきます。 どのように考え、どのように感じていけばいいのかご自身が決める参考にして頂ければと思います。 ツイッターで公開する技法の中には世界中でどこを探しても得ることはできない特別なものも公開します。 技法を公開することによって誰でも絵が描けるようになるはずです。 そしてこれまで「特別な才能」と考えられていた多くの技法などが実は誰でも簡単にできることなのだということがご理解頂けるはずです。

    誰でも簡単にできるものと考えた時に無限に広がる可能性があります。 それがFingertip spectacle=手元の壮大な光景です。 そうなった時には是非それをお楽しみください。 皆さんの目で自由に壮大な光景を楽しんでください。
  • 既得権益や権力や無意味に高尚な扱いをされるアートの汚い部分、にまみれていない綺麗な所

    世の中は特定の人間の元にお金が舞い込むようにできています。 所謂セレブや貴族の元にお金が流れるように。 それを永続的なものとする為に彼らとその周辺は権力を誇示し、高尚であり続けられるように世の中の価値観を操作し続けます。 アートの世界は彼らにお伺いを立てなければ評価されないようにできています。 美術館、市場、画廊、大学といったものも例外ではありません。 彼らは主に欧米にいます。 美術館、市場、画廊、大学の権力は欧米の力が圧倒的に強く、日本のそれらは脆弱です。 でも日本の中で見ればやはり、日本の中の上級国民の力は絶対です。 上級国民を軸に考えて庶民の生活はそのおこぼれにあやかる庶民は後回しのシステムになっています。 まず学歴。 庶民が超一流の大学に進学することは不可能か、よほどの困難を超える覚悟が必要です。
    アートの世界は彼らにお伺いを立てなければ評価されないようにできています。 その為、日本のアーティストの多くは儲かりません。 日本のアーティストが儲かるために選択する道は欧米の作った儲けのシステムに乗っかることです。 乗っかりたいがためにコードだのモードだの必死です。 それによって本質は喪失されます。 本質が喪失されているので庶民がアートを見てもキョトンとする他ないのです。 これは私の意見ですが、なので無理に庶民が媚びて高尚なアートを見る必要はないのです。 よくあるのはピカソだから有り難いので鑑賞しなさい。 やめなさい・・先生・・あなたです。
  • 錬金術

    セレブや貴族は何とか楽にお金を生み出そうとします。 自分の豊かな生活を持続させるために、ピカソもその1つ。ぺぺっと描いて1億円。 皆さん踊らないでください。
    ピカソなんか皆さんが無理して見る必要は全くありません。 見なくて良いです。 そして、コードやモードの一切は見る必要はありません。 見なくて良いです。 皆が目指すべきはそんなつまらないものに乗っかるのではなく、本当に価値のある独自の道を切り開くこと。 自分が綺麗、美しい、面白い、それで構いません。 セレブの錬金術に皆さんが関わる必要は一切ありません。 無視してください。 壁にバナナをガムテープで貼って1600万。 無視してください。 下でもお話ししますが、錬金術で値段を釣り上げ、儲け、その後、それに関わって作品を買った人たちが作品を手にして暫く間を置き、販売する時には、魔法が解けて作品の値段は急に下がります。 つまり売り逃げです。 急激に上がった作品の値段は、急激に下がるものでもあるのです。 まあ、無視してください。 乗れば乗るだけセレブの思う壺。 アホらしくてやってられませんよね・・・。 と私は思います。

    セレブの行いは今は美しいものとされています。 しかし、その美しいものが汚い姿に変わるのは、からくりの全てが露呈した時です。 誰もが綺麗なものを表現できるようになり、発表できるようになれば、彼らのみに許されてきた表現という特権は価値を失います。 彼らの本性が覗けるのは彼らが我々の表現の自由を阻止しようと動き出した時です。

    絵は全て素晴らしいものです。 それに優劣をつけるのは、市場価値をつけてお金儲けをする為。 セレブや貴族は簡単に大きな利益が得られる構図を作り続けてきました。 アート以外で言えば簡単に儲ける為に行われてきたのは「戦争」です。 戦争によって先進国は植民地を支配し、自分たちは裕福な生活を送りながら植民地の皆を強制労働させてきました。 裕福な生活を送る国と食うや食わずの生活を送る国。この2つに別れて以来、未だにその区別が変わってはいません。 戦争のない平和な現代。 戦争を起こせない現代では、戦争に変わる大きな利益を生む新たなシステムにされようとしているのは美術市場です。 バナナをガムテープで壁に貼つけて1600万儲ける。 アメリカと中国の市場は一気に膨れ上がっています。 これはつまりセレブたちが既得権益を守る為に仕組まれていることなのです。 そこに乗っかってしまえばバナナを壁に貼つけようが何しようがマネーが成立します。 表現の自由を本当に認めればどうなるのか?アートの市場価値は無くなります。 表現する力にアーティストと普通の一般の人との差はありません。 アートの世界の人間はさも高尚で難解なことをやっているかのように世の中にキャンペーンを打ちますが、難解なものなど1つもありません。 ちょっと考えれば誰でもできるようなことです。アートの世界の中と同じような表現や作品がアートの外の世界に溢れかえるのは時間の問題です。 その時に本当にすごい作品は出てきます。 今はセレブと貴族の周辺の少ない人間の脳と感性でできているアートの世界は脆弱です。 そしてやはりつまらない。 そうではなく世界中の皆が脳と感性を生かしてくれるようになれば本当にすごい作品が出てきます。 その時にはアートは金儲けの為にあるものではなく、純粋に表現する為のものに変われるはずです。 権力者は置いておいて、一般の皆が繋がってしまえばいいのです。 そうすれば戦争も起きません。 権力者が戦場に死にに行け、殺しに行けと言っても権力者が攻めようとする国の人たちと先にガッツリと繋がっておいて、行けと言われても行かなければいいのです。 行ったとしても水鉄砲で戦争しているフリしていればいいのです。
    アートは創造する力のあるものです。 世界や社会自体をも創造することができます。 国家権力やセレブや貴族の既得権益から離れて、アートとして世界中が繋がることができます。 その時にアートが汚い物にならないように細心の注意を払ってこの世界が美しい世界になるようにしっかりと世の中の皆に働きかけをしていくことが大切です。 間違ってもセレブや貴族に媚びへつらって、乗っかろうなどとは考えてはならないのです。 セレブや貴族に汚染されていない綺麗な部分がアートにはあります。 そこが如何に汚染されずに大きく広がっていけるかが今後のアートの課題だと思います。 そのためにはまず、そのシナリオを作り上げなければならないのです。
  • 天才はいない?

    私の感覚で見てきた美術の世界には天才はいません。
    美術の世界には天才になろうとも思わないし、育てようとも思わない。 そのような感覚が常識としてあるように思います。 特に東京藝術大学や美術予備校、画廊、美術館の関係者などの諸々のこの世界の事情を深く広く知っている人の中にはそのような常識が共通認識としてあると思います。
    私がこの世界に入る前はテレビを通じてピカソやゴッホやゴーギャンなどの巨匠が天才と称され彼らのエピソードを学ばされ、それと連動して子供たちは図画工作のコンクールで褒賞を与えられたり、大人は県展や地区の美術展で褒賞を与えられて憧れの天才に一歩近づく感覚を享受しました。 皆さんお分かりの通り、それは美術の世界が作った時計仕掛けの喜びで、演出です。 それによって天才になれるわけではありません。 県展や地区の美術展から天才に通じる道はない。 それが皆にとって美術の世界への導入になり、この世界に足を踏み込む動機となります。 でもそこは実は袋小路。天才に繋がる道ではありません。 既得権益を得るもののみが現金を得る。 そのためだけの仕組みです。 多くの人がそのような切り口から美術の世界に踏み込んだはずです。 それ以外には美術との接点はおそらくありません。
    私が美術の世界に踏み込んだのは30年以上前です。 当時を振り返ると子供には多くの天才を、例えばアインシュタインやエジソン、ライト兄弟。ナポレオンなどの英雄の伝記を読ませ知識を与えました。 人生初(40年前)の読書は伝記を読めだったと思います。 それで私はそれを地で行こうとして路頭に迷っている口です。 あ、でも多分上手くいくと思っています。
    そのような背景から美術を知り、興味を持ち、美術の道を選んで足を踏み込むプロセスは私以外の美術の世界にいる人の多くにも共通することだと思います。 でも、美術に関してはその中にいればいる程、天才などいないことに気づかされます。
  • 時計仕掛けの成績

    美術の中に入れば、美術の外にどのように美術を見せていくかを試行錯誤する場に立ち会うこととなります。 皆スッピンの状態でどのように化粧をするか相談する。 皆さんの見ている美術とアートは化粧をしている姿です。 スッピンではありません。
    特に東京藝術大学などにいると評価される経緯やからくりが手に取るように見えてきます。 評価は自然に発見されたり、発明されたりするような物ではなく、計画的で、時計仕掛けで淡々と流れ作業のように行われます。実際はともかく成績がつく。 つまり東京藝術大学において成績にした数字と実際の能力は全く合わない物です。 学生全員がほぼ拮抗している課題についても成績は時計仕掛けで差を作らなければならないので数値で差が機械的に設けられます。 時計仕掛けの作法で評価していくとたまたまその評価の方法に合致したタイプの学生が優秀な成績を収めることになります。 例えば卒業制作などは皆さんの目にも触れられる際たる例です。 東京藝術大学の首席ともなれば、世間ではその学生が天才と称されてしまう可能性もあるのです。 地方などに行けば画伯と称され小銭を儲けるのは造作もありません。 ただ、内部の人間はその様子を冷めた目で見ています。
    東京藝術大学や美術予備校の先生の感覚は「天才」など育てられるわけないし、育てようとも思っていないし、育つ訳ないとも思っています。 自分自身も天才ではない。 そして、天才はアートの世界に必要ないとも思っていると思います。 仮に、天才が東京藝術大学と美術予備校にいたとします。 そうすると中にはウザいと思う先生もいると思います。 ウザいのは東京藝術大学も美術予備校も時計仕掛けの作法で生徒を流していく所だからです。 流していく以上のことをやるのは別口の仕事になります。 それは美術予備校の課題で実践するようなことでもないですし、東京芸術大学のシラバスにも組み込まれていないことです。
  • 何を持って天才と称するのか?

    天才とは時計仕掛けで計画された物ではない、全く別物の、自然に生まれ出でる者です。 つまり美術予備校や東京藝術大学に生産できない物や者。 そうすると美術予備校や東京藝術大学の先生にとっては既存のパフォーマンスでは対応不可能な迷惑な存在ということでもあります。 天才は確かにいます。 でも大学のシラバスはその天才の発明したアイデアを授業に落とし込むために理論化し、論文にしてシラバスを作り、授業計画を立てた後に授業をして理論化されたことを学生に覚えさせることです。 つまり、実践の積み重ねによって得た結果を学生に与えることができても、それは天才に育てたということではなく、天才の成果を覚えただけ。 天才とは未知の領域を実践の積み重ねで新たに開拓し、その結果を理論化して世の中に落とし込んだ人のことなので、大学の授業を受けさせることは天才を直接生み出すことには繋がりません。 でも、授業を通じて学生たちに天才とはどうのようなものかを示唆することはできると思います。 その示唆から未知の領域へ足を踏み込むものが大勢いることは確かです。 それは大学の醍醐味でもありますし、結果はどうであれ人生を全うするダイナミズムを味わうことができます。 東京藝術大学の学生の多くはそのダイナミズムを大事にしている人だと思います。 結果は二の次という感覚です。 各々の人生を全うするということは天才となること以前に大事なことだと思います。 なので多分天才になることに対しては皆冷めていると思います。
  • 時計仕掛けの価値

    アートと美術の世界には元々価値はありません。 という一見乱暴なような、そんなことを前提にして考えてみると見えてくることがあります。 (あ、これ一応作品のコンセプトの話です。懸念というか・・) 本来は元々価値の無かったものです。 そこからどのように価値が付けられてきたのかを話す必要もあるかと思いますが、割愛して価値はありません。 ということにして、価値をつけることを考えます。このような必要があるのは、既存の価値の全てが変わる可能性があると私は考えているからです。 少なくともインターネットによる情報爆発によってアートと美術の世界は大きく変わるはずです。
    乱暴ですが学生たちの作品に価値がないということで考えを巡らせてみましょう。 そうすると、程なく、そこに価値を見出したいと考える人やそこに価値を生み出したいと考える人が出てきます。 そこで元々価値を持っている人。全く前例は「ない」わけです。 「ない」その価値を、その時に見出される者が所謂「天才」です。 その価値を定着させ、社会に伝播して、その天才のメソッドによって学校や地域で次々に生み出される者。 が成績優秀者であったり、受賞者といった褒賞の与えられる者です。 つまり褒賞を得るものは天才ではない。教育によって褒賞を得ていることから才能でもないと言えると思います。
    平然としているだけで何のアクションも起こさなければ、価値は、見出そうとしてもそうそう見出せるものではありません。 で、それを放置しているのはダメなので、悩んだ挙句、苦肉の策で活用方法がないか考えた。のが時計仕掛けで価値を生み出すシステムです。 時計仕掛けはわかりやすく言えば、特定の集団を設けて、その中から評価する1人を選び出し、その時にその場の都合で評価の仕方を決めて、「1対その他」の優劣を生み出す・・というシステムです。 東京藝術大学他芸大美大の卒業制作などの成績や地域のコンクールなどの多くはこのようなその場の判断で評価の仕方を決めています。 不思議とその場合の多くは1人。東京藝術大学が昔からよく言うのは1人を生み出すために芸大がある。 その他はその1人の犠牲。というものです。 学生の時の私はそれが良くわかりませんでしたが今は良くわかります。 当時の私がわからなかったのは、まさかそんな適当に決められているなどと考えようもなかったからです。 犠牲を出すというのは、誰も残れないよりは1人でも出そう。 というものです。 これは芸大の権威を利用すれば中々の効果を発揮するものでその1人は何とか食べていけるくらいにはなります。 ただ、多くはアーティストや天才芸術家ではなく大学の教員となって食べていくという話になるのです。 1人でも多くの卒業生をバックアップし生計が立てられるようにするために誰も残れないよりは1人でも残れるようにしようという考えは、何の価値もない状態を目前とすれば必須とも言えるものです。 そして過去に社会の様々な価値の創成期においてアートや美術以外の様々な分野でそのような活動がなされたのでは、と想像すると特に戦後などは無くてはならない機能だと言って良いと思います。 でもこれはアートと美術においては東京芸術大学だからこそ成立するもので、その他の芸大美大が同じようなことを目指して行っても、実際に行なっていますが、残念ながら機能しません。 芸大美大に他ならず、県の美術展や地域の美術展でも褒賞によって同じようなことを試みますが残念ながら褒賞のネーミングに答えられるだけの機能を果たすことはできません。 この機能を設けることは天才不在の状況の中から生み出される苦肉の策なのです。 そして我々がしっかりと認識しておかなければならないことは、この時計仕掛けの価値を生み出すシステムの中で働く人たちには「独特の作法」があるのです。 作法を知らなければそこで生きていくことはできません。 つまり、作品の本質などはさておき、作法に一番の神経を注ぎ、作品は間に合えば良い。間に合わせの作品でも賞を取れれば良い。 ということが実際に行われていることです。 先生が手を入れたり、メソッドが出てきたり、なんのこっちゃ・・って話です。 学校の成績や賞を取ることを気にせずに本質と真正面に向かい合って作品を制作している本当の「天才」は私の知る所、いません。 つまりこの時計仕掛けの作法は天才のそれとは完全に似て非なるものなのです。 時計仕掛けの作法を知っている余りに本質を忘れて誰もが誤った行動をとってしまう。 とても大きな問題だと思うのです。

    学生の多くはこの「作法」を冷めた目で見ています。 同様に先生も冷めています。 理想ではないにしても必要なもの、でも、目指すべきものではないことは誰の目にも明らかです。 なので先生も学生も成績に拘るように指導はしません。 油画専攻においては「成績は気にするな」ということが1年生の時からの指導でした。 当時の私は意味がはっきりとはわかりませんでしたが今は良くわかります。 でも、実際に成績を本当に気にしない奴は学部で芸大を出ます。 成績を気にする者が大学に残り、大学教授になります。 でも、彼らの理想というか目指そうとしていたことはそこにはないのです。 ゴッホやゴーギャンそのようなイメージがあるわけですから。 何とも浮かばれない世界ですね・・。 このような空気は簡単に読むことができます。 なので成績や賞には走りません。 でも稀に障害のあるような子が空気が読めずにのめりこみます。 あ、・・・昔の私です。 一言付け加えるとクマビの油絵科生には大手優良企業への就職か大学に残るように指導します。 この2つは私からの最大に効率の良い処世術なのです。多くの生徒は私の言うことは聞きません。 それを見越した上での生き抜くためにはどうするか?について私なりに計算した指導です。
    時計仕掛けは、芸大美大に限らずその他の、画廊や、公募や、美術部や公民館、カルチャーセンターなどでも同様だと思います。 天才不在の中で行われていることです。 多くの人が冷めた目で見ている中で、昔の私のように盲目的にのめり込み、人生を踏み外してしまう人が未だに出てきます。 でも、ただ、私は、この時計仕掛けはやっと一度見直してもらえる時期にきているのではないかと考えています。 見直してもらうには冷静な人たちの手によってモヤっとした状態をクリヤーに掃除する。 明快なシナリオを作り上げ、社会に伝播して認識してもらう必要があるのです。 今足りないものは本質と正面から向かい合う天才をどのようなシナリオで作るのか?と言うことです。 それと今ある時計仕掛けを捨てることが大切です。 皆が本質に興味を持った時点で時計仕掛けは機能しなくなります。 褒賞が必要ないわけです。 その姿はとても健全で、幸福なものだと思います。 それを皆さんが目指せるかどうかが私の今の仕事のチャレンジです。
  • 時計仕掛けによる劣等感難民の大量生産「一億総劣等感難民政策」

    1人の褒賞のためにその他大勢を犠牲にする。 それによって美術はあまりにも多くの劣等感難民を生んでいます。 わかりやすく言えば「一億総劣等感難民政策」。 そう言っても過言ではない状況です。 実際、クマビで保護者の皆さんとお話しさせて頂く時、全員アートや美術はわからないと言われます。 わかると言われる親御さんは殆ど誤解されています。 稀に芸大畑の方が親御さんにおられますがそれ以外で話がすんなりと通じることは稀です。 皆さんのご家庭のみならずかく言う我が家も私以外は同じです。 何十年同じ屋根の下で生活をしていても私ですら家族にわかりやすく説明する言葉を持ち合わせていないのです。 なぜならば、実践を繰り返して、成功体験をして、理論化される。 その繰り返しによって初めて分かるという実感が湧くものなので、同じ家族といえども同じ経験がないものは常識を共有することは無理なのです。 こんな状況なのでなんとか私の理論化されている部分をなんとか伝えようとセッセと申し訳ないと思いつつもこのクソ長い文章を書いています。

    ○ 褒賞の弊害
    1人の褒賞のためにその他大勢を犠牲にする。 そして褒賞によって道を踏み外す者が出てくる。 踏み外す人は決まって判断の付かない小さな子や障害のあるような人です。 昔の私のように・・・。道を踏み外す人は美術系の学校関係者であれば大抵見分けがつきます。 グレーゾーンは難しいですが、学校の良心によって出来うる限り避けられるはずです。 どの学校でも2〜3割程度はいるはず。 この層で収益を上げている学校も多いと思います。 でも褒賞で道を踏み外しそうな人には正しい指導をするべきです。 障害のある人は学校で学ぶ形でこの世界で成功するのは不可能な事が全ての学校がそれを事実として把握しているはずです。 でも誰も声を上げません。 これは完全に時計仕掛けになって完成されている誤ったシナリオです。既得権益を得る者が時計仕掛けによって半永久的に利益を得続けるための装置です。 つまり、アートや美術の世界は判断の付かない人をターゲットにして大きな収益を上げています。 巧みに仕組まれた装置。 幼児教育から上手く騙せそうな人が祭り上げられてアートや美術の世界に来るように、まず大学では未来の先生となる大学生を教育・・はっきりいうと洗脳ですね・・しています。 障害があってもこの世界に踏み込んだ後に何十年でも前に進み続けて結果を出せる人は良いと思います。その覚悟があるかどうかが問題です。 障害がある人の多くがストレス耐性が弱く、とても強靭な精神とは言えない人です。 そして覚悟があるなら褒賞のことは綺麗さっぱり忘れた方がいいでしょう。 褒賞を考える必要は一切ありません。 忘れて真実に向かって直走る。 つまりどのように考えても褒賞はいらないのです。 そして学校にはもっと別に学校で教えなければ全ての日本人が学ぶ機会を失う大事なことが山ほどあります。 本当に教えるべきことはもっともっと別にあるのです。
  • 今回の作品の制作を通じて見ようとしていること「目」から「手」、「手」から「頭」へ

    今回の作品は既存のアートのために描いてはいません。今のアートの評価の仕方に倣って評価されたいとは、さらさら思えません。 真っ平御免です。 これから先の未来のアートのために描いています。
    そういった意味では絵画とも言えるし、でも、今のアートや美術の世界からは、こいつらのお決まりの、これは「絵画でない」「油絵ではない」とか、「これはイラストだ」を言わせたいとは思います。 そうなってくれれば、しめしめ・・という感じでコテンパンに叩きのめすチャンスが生まれるのです。 まずはこちらがやられたわけですから、対等にやり返しても構いませんよね。 世の中に絵画ではない絵や油絵の具を使った油絵の具ではない絵は存在しません。
    そんなこんなで既存のアートを考えながら絵を描く気にはさらさらなれません。 描こうとするとあまりの無意味さに鬱になります。 今回の作品はそういった意味では・・絵画とも言えるは言えるのですが、絵画ではなく単に「絵」といった方がいい気がします。 そう言わなければ大事な絵画の外の世界の人たちを蚊帳の外にしてしまいそうです。 言うなれば取りつく島もない蚊帳の外の人たちが安心して取り付ける島になれる・・というか絵を描けるように。 そんなコンセプトで描いています。なので、いい成績とろうと全くしていないので、見た目、何これって感じです。 ゴ–シュ(gauche英)な下手くそ絵画が皆さんに受け入れて(初対面で怖がられず)もらえるように、皆さんにとって迷惑なクソ長い文章を書いています。

    絵画の世界には「手」で物事を考える・・というか考えないで手を動かす画家の割合が9割以上います。 残りの1割未満に手を動かすことはそこそこで「頭」で考える画家がいると思います。 人数比で言えばそんな感じです。 絵画の世界はほとんどの人が手で考え・・というか手を動かすことを大切にして、ほんの一握りの人が頭で考えています。 ここでいう絵画の世界とは地域の美術展や絵画教室やカルチャーセンターで絵を描いている人たちも含めています。
    頭が100人なら手が900人
    頭が1000人なら手が9000人
    頭が10000人なら手が90000人
    多分、日本は頭が10000人くらいで手が90000人くらいいると思います。 芸大美大の受験生だけで3000人いるのでそれを考えるともっとかな・・・。 1つ皆さんに言いたいのは90000人・・というかそれ以上の絵を描く人をないがしろにしていいの?ということです。 ないがしろにしてしまう、しても平気だという感覚が頭の世界にはあるのです。

    美術とアートの世界は「頭」で考える人を中心に回っています。 これからもさらに、あたかも悪を倒し真の正義を手にしたかのような言い分で手で作業することを大切にしている人を否定し、頭の世界を肯定します。 頭は手を否定し、技巧から手を離すことと引き換えに処世術や褒賞を与えます。 それから多くの人が処世術と褒賞と向かい合い、本質を見なくなります。

    100年以上前のアートの世界は確かに「手」を悪として「頭」で様々なことを考えなければならない状態にありました。 でも、現在では、その矛先がなんの悪気もない「手」の人たちに向くことが多々あるのです。 つまり、向ける矛先を完全に間違っている。 「手」の世界の一部には無意味な権威が残っています。 無駄に偉そうな無意味な権威といった「手」の悪い部分は完全に取り除くべきです。 こいつらはやはりどこからどう見てもポンコツ。 それは間違いありません。 既得権益・・。 いらね・・。 今のアートの世界は「手」よりも「頭」の世界が完全に優位に立っています。 でも、考えてください。 この世界は多くが「手」で作業することを大切にしている人たちです。 彼らにとって寝耳に水の、終わっただの、ダメだの言った声が頻繁に聞こえてくるのです。 このような状況を見て私は雑だな・・と思うわけです。そして馬鹿だな・・と思います。 「頭」の世界の人は自分たちを頭が良いと思っているようです。 でも、こいつら馬鹿だな・・と本当に思うのです。

    改めて・・「頭」というのは言語でアートを考えていくことです。
    アートの世界の懸念を理解しコンセプトを持ってアートを観たり制作したりします。

    「手」とは脳を使っても言葉化しない感覚の世界で物事を認識して脊髄反射のように制作する考え方です。 考えというか営みといった方がいいかもしれません。

    私のいう「頭」とはアートの世界でいうコンテンポラリーの世界です。
    コンテンポラリーの世界では「頭」が9割、残りの1割か、もしくはいないのがコンテンポラリーの中で「手」で考える画家(私の中ではオノヨウコとか大竹伸朗とか篠原有司男さんたちのイメージです。)です。 そんな人数比です。

    世の中には「手」とも疎遠な「目」で物事を考える人たちが9割以上。 これはつまり一般の人たちです。 残りの1割未満が「手」。 その「手」の中に1割未満の人が「頭」です。 又その「頭」の中に「手」で考えたり、何も考えていないという人たちが1割程度います。

    アートの世界に入る時は全員「目」から入ります。その中で美術の成績が良かったりすると「手」の世界に飛び込む人が出てきます。 「手」の中でさらに「頭」の世界に導かれると「頭」の世界に入ります。

    ○「目」から「手」、「手」から「頭」へ
    この一連のプロセスについて深く考えていくのがGenius(天才)を題材にした制作です。彼らを天才と見ることでとてもワクワクするのです。権力者を見ても何にも上がりません。鬱になります。
  • 「目」と「頭」の乖離

    私の懸念は「目」「頭」が乖離していることです。
    つまり「目」「頭」の存在を知りません。そして「頭」「目」と出会った時の挨拶の仕方を知りません。 出会うなり突然「目」を否定してしまいます。 理由は「頭」「目」が怖いのです。 怖い理由は普通に受け入れられないことがわかっているから・・。 難儀な生き物です。 最近はマシに成りましたがちょっと前は喧嘩腰です。今もか・・。 「目」の方で「頭」に嫌な目にあった人は私に言ってください。 コテンパンに論破してご覧にいれます。 あ、でも私、英語が弱点です。 日本人専門でお願いします。 論破した後は放置プレイでいいです。 彼らは弄られてなんぼなので放置すれば自然に死にます。 つまり、自立できないので「目」の人たちに関わってもらわなければ死んでしまう脆弱な生き物なのです。 脆弱なのに生意気。 矛盾しているようですが、このようなイメージで想像した構図にアートの世界の本質が見えているような気がします。 コンテンポラリーの世界は言わば「意固地」「意固地」でありながら、それに見かねた人からの支援で成り立っています。 でもその「意固地」は世の中で大いに役に立つ側面を持っています。 逆にコンテンポラリーではないファインアート「手」の世界は聞き分けは良いが、言い方は悪いですが今の「手」は役に立たない。 産業革命以後、機械で物を大量生産できるようになってから「手」はその代わりになる役割を見出せずに今日まで来てしまいました。 でも「手」の生きる道はあります。 それよりも「頭」「目」は乖離しています。 今最も問題なのは乖離です。 私がやりたいことはこの2つを繋ぐことです。

    今回の制作の背景にはインターネットがあります。ネットによって世界は情報爆発がおきます。 というか起きています。 アートについては抑止力が働いているのでこれを解いてこれから起きます。

    この機に乗じて私が計画しているは「目」「手」「頭」を教えることです。
    そうしてそこから「天才」が生まれてくることを目論んでいます。

    「目」「頭」の存在を知りません。 そして「頭」「目」と出会った時の挨拶の仕方を知りません。 出会うなり突然「目」を否定してしまいます。
    彼らも元は「目」の人でした。 それもそのはずです。 今の日本ではアートの世界に足を踏み込まない限り「頭」に出会う機会はないのですから。 「頭」が出会い頭(がしら)にあなたを否定するのは「頭」は全員アートの世界に触れた時に通過儀礼として同じ洗礼を受けているからです。 そのため半分は「冷やかし」もう半分は「可愛がり」のような感覚でいるはずです。 自分もやられたので仕返し。 という感覚の人もいるでしょうし、この出会いがなければ「頭」の世界に人が来ないので嬉しさもあると思います。 ただ、そろそろこの通過儀礼はやめたほうがいいです・・・。
    皆さんおわかりの通り矛盾を起こしているこのような状況は簡単に言えば「混乱」を起こしています。 このような状況に強い懸念を抱いて解決を目指すのが今回の一連の作品のコンセプトです。 つまり「冷やかし」など一切せずにそのまま情報を流します。
  • 作品解説の前の予習

    私の中には一般の人が「目」で見て、如何に手元の世界に怖がらずにスッと入っていけるかがテーマでもあります。この瞬間の出会いがとても大切です。 間違えても脳がどうたら、神経がどうたら知ったかぶりして人を怖がらせてはなりません。 そのようなことをした瞬間、そういじられた人は壊れます。 壊れれば自然に「目」で、「感性」で絵を見ることはできなくなります。そこで生まれるのは拒絶反応だけ。 そう思うので、ロジックに作品を見なくとも、予習せずとも、「目」で作品との間にある空気に触れるだけで様々な物事を想起する。 作品がそんな仕掛けになれることを理想にしています。 でも、アートの世界はモード、コードと拘るもの。そのためそれを踏まえた対策と正しい予習が必要です。

    ○ 皆が繋がる粘土遊び
    「目」で見てスッと入れるようにするには、皆が見ているものを用意する必要があります。 そう考えると幼児性の強い、皆が物心着く前から、着いて間がない頃に触れたものが良いと思います。 そうすれば先入観で比較的皆と繋がり易いはずです。 そのため今回扱うのは私の大好きだった粘土遊びです。

    作品の解説に入る前には予習が必要です。 でも今から美術史の話に入るわけではないので安心してください。 一般の方も、コンテンポラリーに精通した方も納得して頂ける話だと思います。 美術館や評論家や名うてのアーティストが唱えるコードやモードを言い始めるわけでもないので安心してください。 コードモードよりももっと前に、それ以前に必要な誰もが頓着しない部分のお話をします。

    日本では私の認識が正しければ、「頭」からすなわちコンテンポラリーを入り口としてアートの世界に入る人はいません。 「アートの世界に頭から入るものはいない」ここが考えるべきポイントです。 頭から入ると考えると誰もが違和感を覚えるはずです。 そこに頭の世界の問題点が見えてきます。 人間は概念から生まれてきたわけではありません。 必ず実践があり、実践の繰り返しを得て理論化されます。

    我々は必ず義務教育で「手」すなわちファインアートよりの・・・図画工作の工作よりの所からアートの世界に入ります。 皆さんご存知の通り図画工作は中学校の美術だけではなく、中学校の科目「技術」とも繋がるように考えられています。
    その後、どこかの場所とタイミングで「頭」の世界に入る人がいて、一度「頭」の世界にどっぷり入った人は「手」の世界に戻りません。
    戻らないのは導入時の勧誘した者による「否定の3段論法」によって思考に鍵がかかっているからです。
    ※否定の3段論法については後日改めて詳細にお話しします。

    ここに「手」「頭」の根本的な問題。厄介なことの根本があります。

    「頭」の世界にいる人は「何で今更、手に戻る必要があるんだ?」と考える人が多いと思います。 皆「頭」の世界に入ってきたのに何で?・・・ところがどっこい、大多数の人が実際には「頭」の世界に移動しているわけではない。 ・・・のです・・!
    つまりこの世界の多くは「手」なのです。
    「頭」は言わば「手」の突然変異。

    ここがポイントです。→アートの世界の多くは「手」の世界。

    そしてもう1つのポイントです。それは「頭」の世界の終わりです。
    「頭」の世界は「手」の世界の終わりという話を聞かされて、「手」の世界は終わるという認識から入っています。 でも、実際に「手」が終わることはありません。 でも、「頭」の世界の人間は「手」の世界が終わっていると教わり、終わることを信じて何十年も生きてきました。 それでも一向に手の世界がなくならない。 無くならないことに苛立ち始めている人も増えてきています。 そして残念ながら、「頭の世界の手のひら返し」は実はもう始まっています。 「頭」の世界はこれから裏切られたという無念を抱きながら、身の振り方を考える瀬戸際に立たされています。

    作品解説の前の予習はコンテンポラリー、所謂現代美術のコード、モードの説明をする訳ではありません。何故ならばその意味はないからです。

    「手」「頭」の世界は「乖離」しています。 今必要なことはこの2つが綺麗に繋がるシナリオを考えること。 つまり、ここで私が言いたいことは繋ぎのシナリオのはじめです。

    1つ言えることは、我々の次の世代には「手」「頭」を同時に指導すること。そして「頭」が放置し続けた「目」の世界に「手」「頭」を教えることです。 美術の世界に拘らず、一般の全ての人たちが「目」「手」「頭」を始めから理解していることでアートの世界は変わります。 つまり近い将来アートの世界の様相は今のものとは全くの別物となります。 特に私が皆さんにお話ししなければならないのは「手元」「手」「頭」を導入された後に「目」で初めて見ても怖くないものがあるのです。そこには未開発の無限の可能性があります。
  • 手と頭の世界の入り口

    「頭」の世界の入り口は美術予備校か芸大美大、芸術学部を有する早稲田などの一般大学です。

    「頭」の世界に入った人は導入で「手」の終わりの話をされます。

    「手」の世界の人は中学と高校の授業で絵の具に触れ、美術部で展覧会などに出品する機会を得てファインアートに触れているのでそれがアートの世界だと認識します。

    芸大美大にはデザイン学科、工芸科、絵画科日本画専攻、絵画科油画専攻、彫刻科、建築科、芸術学科、先端芸術表現科があります。

    芸大美大の中で「手」の世界にはデザイン学科、工芸科、絵画科日本画専攻、彫刻、絵画科油画専攻の学生が進みます。絵画科油画専攻は多くの学生が「頭」の世界に進み、「手」には進みません。
    よって「頭」の世界に進む人の多くは絵画科油画専攻、芸術学科、先端芸術表現科の学生です。
  • 「頭」の世界が社会になすべきこと

    頭の世界はこれまで手の世界を否定してきました。 手の世界の人間が目で作品を見て評価するものの見方や考え方やそれによって出来上がる権威やルールに辟易して、頭の世界は「手」を否定し、作品を見るものではなく、鑑賞ではなく、頭で考えることを重視し、手仕事を鑑賞するだけで終わるものではない、目で脳神経的を刺激することに価値を置くものとしてきました。 私の目から見て「頭」の世界は様々な成果を上げているように見えます。 でもその成果を上手く社会に下ろせていない。 このような話をすると「頭」の世界は「マニエリスム」の概念を持ち出します。マニエリスムは芸術対芸術という芸術のための芸術を考えたり、制作する考え方です。 只、矛盾しているのは「頭」の世界が社会に作品の購入を求め、展示の入場料を求め、説明を抜きに一足飛びに社会の側が「頭」を理解することを求めます。
    一言で言えばそれは無理というもの。 それはそもそも一般的な社会が認識する「手」を否定し拒絶する所から「頭」の世界は自分の立場を確立しているのですから。 その無理を無自覚に通そうとする所で様々な不幸が起きているように私には見えます。不幸とは「頭」の世界にです。

    「頭」の世界がやらなければならないこと、それは「手」「頭」を繋ぐ新たな常識を創造し、拒絶ではなく、受け入れの姿勢を持って「頭」の世界の成果を「手」と社会に還元して行く努力をすることです。 「手」の世界の悪、つまり権威は駆逐され現存している形は最終形態とも言えるほど弱体化しています。 そこを消滅させることは必要です。 でも、一方で「手」の世界の多くは正義なのです。 何にも悪いことはしていない。 これを昔と同じ論理で攻め続けるのはどうかと思います。いかがですか?
  • 「手」の世界が社会になすべきこと

    画家が絵を描く時、その手元では様々な事が起きています。 それはあまりにも多くの出来事。 その出来事の1つひとつはとても重要です。 どれ1つ取っても作品を理解する上では欠かせないもの。でもその手元の出来事を詳細に解説した作品はありません。 世の中に作品はいっぱいあるのに1枚も・・。 皆さんの目の前にある絵画は賞とか、金額とか、歴史に名前が残っているとか、なんちゃらちゃっちゃ美術展に出品されたとか言うことしか見られないで、細かいことはウザいのでスルーされます。 あなたが絵を描いている人ならわかるはずです。 一筆一筆にどれだけ悩んで、困って、考え続けているかを。 私が思うのはあなたがもし絵を描いているのなら一筆一筆考えたことをしっかりと世の中の人に伝える努力をして欲しいと言うことです。 あなたが一番大切にしている所は困ったり、悩んだりしたことではないですか? 如何なる名画においても、一筆一筆について詳細に語られている作品は世界に1つとしてありません。 この一筆の話の前に、如何なる哲学者も、評論家も、名うてのアーティストも、ギャラリストも、コレクターも、セレブも、権力者も、その全てが無力です。 なぜならばそれは画家にしか出来ないことだからです。 そしてこの一筆の出来事は巨匠にも、天才にも、一般の皆さんの図画工作や美術の授業、趣味で絵を描いている人にも同じように起きていることなのです。 一筆の話は何も皆に話す必要はありません。子供なら親に、画家なら本当に親しい人にさえ見せれば良いのだと思います。 図画工作は残念ながら、賞や成績によって皆が考えた1筆の努力を一瞬にして消してしまいます。 これは私はやめた方がいいと本当にやめるべきだと思っています。 親御さんは兄弟の片方が賞を取った場合に賞を取ってない子の作品をまともに評価して見れなくなる。成績をつけなければ不安なんでしょうか?そんなことはありません。 本当に大切なものは皆が絵を描いたのならその手の中にすでにあるのです。それは何にも変えられないかけがえのないものです。 皆の先生は偉いんでしょうね〜私の作品にもきっと悪い成績をつけるのだと思います。 手の中にある大切なそれを成績や賞で否定することは絶対にしてはなりません。 そのままでいいのです。 先生、お願いです。 やめてください。
  • 既得権益〜絵画の新時代の幕開け〜

    手と頭の世界はこの手元で起きていることを巨匠や天才の前にのみに起きている特別なこととしてきました。 そうすることで説明を避け、お金を稼ぎ、権力を得て、既得権益を頑なに守ってきました。 皆の中には「これ誰でも描けるんじゃない・・?」という疑問が湧きます。 正解は「誰にでも描けるけれどそれがセレブの既得権益」です。 それを維持していく為に生まれ、それを今だに守り続けようとするのが「頭」の世界です。 時間をかけずに如何に簡単に大金を手にするか。 アホなバナナにガムテープのように、そして如何に労働に価値のないものとするか・・。 労働に価値を置かないことで、自分たちが大変な作業をすることを避けられ、後進国の労働に対する報酬を出来うる限り叩くことができます。 つまり、アートが労働に価値を見出すことは後進国で労働に苦しむ皆を助けるシナリオに繋がるのです。 私はそっちには手が回らないので誰かやって下さい・・。 バナナなどは、収入を得られないアートの世界で何とかお金が入るようにしたい。 それの正義もあります。 しかし、残念ながら今のようなやり方でお金がアートに入ろうとすればするほど、人はアートから離れるほかないのです。

    手元で起きていることはとても重要です。 これは特別な人間の前にのみ起きていることではありません。 誰の手元でも同様に起きています。 その手元を自由に、コードやモードにとらわれることなく、見たり、考えたりしていいのです。 誰もが自由に見たり考えたりすることを「常識」にすること。 それが頭の世界が持たなければならない考えです。 常識になった時にはアートのコードもモードも皆の中に綺麗に浸透し、今のような無理やり祭り上げて作られた形態は姿形を失い消滅しているはずです。

    人にはそれぞれの常識があります。 その常識を全て引き出す作業がアートの世界では重要です。 つまり、アーティストのアートが認定した数少ない常識ではなく、アートは全ての人の常識を受け入れるのです。 「手」の世界でありがちな、絵画はただただひたすらに描きこめば良いというものではないですし、かといって適当に描けば良いというものでもありません。 それぞれに、その状態が最も良いと認識しうる認識の作法があるのです。 最も良いと認識しうる状態がその人の常識。 横断歩道を青信号で渡ることと同じように正しいと決められたルール。 そして青信号をどのタイミングで渡るかは皆の自由で、個々の常識です。 この認識の作法は感覚的なものです。 感覚で見極める。 絵の具が自分の気に入る状態になることをやってみる。 それがあなたの常識である以上それは絶対的なものなのです。 でもその代わりそれに褒賞を与える必要はありません。 何故ならばそれは誰にでもできることだからです。 そして誰にも、特別な人の常識というものはありません。 褒賞を与える側が既得権益を守るために特別な人の常識と称するものをコンクールの度に自分たちの都合で設定します。 そのどれもが誰にでもできる常識です。 これまで作品の鑑賞はアーティストの常識を特別なものとして考えて、それだけを取り上げようとしていました。 でも、それは間違いです。そうではなく、皆がそれぞれに持っている常識で人生を生きるように、絵を描く時は自分の常識で描いて、その常識を自分の見方として外に打ち出して良いのです。 コードもモードも必要ありません。賞などもってのほかです。 自分の見方を打ち出すことは権威のある美術館や画廊、芸大美大で行う必要は一切ありません。 ユーチューバーのようにネットで出せば十分です。 情報爆発が起こるこれからの時代では美術館、画廊、芸大美大は情報を処理する力は残念ながらありません。 それに彼らに処理を任せる必要は一切ありません。 彼らはやりたがると思いますが、それは権力を維持する為です。 彼らの能力を上回るのは時間の問題です。彼らのパフォーマンスや顔色を伺う必要はこれからは全くないのです。 何故ならば、これまでと違い、これまでのように彼らのお伺いをたてなくとも発表できるからです。 これはこれからの時代が「手」と個々の常識の大切さを認識して新たな時代の精神として「手」が世界になすべきことです。 絵画の新時代は必ず幕が開きます。絵画の新時代の幕開けのシナリオはすでに出来ています。 って言うかここまで言えば私がやる必要はありませんね・・多分。
  • 感覚の伝え方〜Tips〜Fingertip spectacle

    私は食べ物を食べる時、「おいしい」という言葉が頭に浮かばないようにしています。 私の場合舌で感じた刺激を「おいしい」と頭で言葉にした時点で舌で感じている刺激が無くなるのです。 脊髄反射的に咀嚼している瞬間が実践。実践して得た体験を解析して理論化する。 つまり、理論化すると、仕事が終わった感が出てしまい悲しいかな感覚の喪失が起きる。 そのためより良い研究をするには出来うる限り実践を引き延ばして理論化のタイミングを待ったり、計ったりする方がいいと思います。
    理論化のタイミングを計ることはFingertip spectacleのコンセプトの重要項目の1つです。
    目と手で実践している感覚の中にはまだまだ常識として共有されながらも日本語に言葉化されていないものが数多くあります。 それを言葉化する仕事は「手」の世界の人間の仕事です。
    脳神経的な楽しみと網膜的な楽しみの瞬間の区別は一般の方のみならず、画家の多くは明確に自覚して境を計れていません。 例えば、指導をする時に、口頭で説明しながら精度の高い形や目の錯覚を起こし易い形を取ろうとしても取れません。 そのため指導の時は良く形が狂います。 それは話している時は脳神経が機能し主に左脳が仕事をしているからです。 絵を描いている時は網膜が機能し右脳が働いているから本来話しながらでは散漫になり高度な感覚を要する絵は描けないのです。
    他には、クマビの図画工作では自由にのびのび制作することと上手になる為に制作することをはっきり分けます。 理由は上手になる為に制作する際はおしゃべりしながら制作しては絶対にならないからです。 小学生の多くは絵を描く時におしゃべりすることが自然と考えており、親御さんや先生も同様に多いです。 でも、それによって上手になることはありません。 理由は先にお話した通りですが、もう少しわかり易い例を挙げれば、上手になる技芸を高度に高める場、芸大美大受験の為に描くような場でおしゃべりするような所は世界中どこを探してもありません。 このようなことは親御さん、子供はもちろん、美術教育を専門に扱う先生方が皆さんご存知ないのです。 他にも多々ありますが纏めて言うとこのようなことはまだ未開発であまりに基礎的なことができていない未熟な領域なのです。
    私は「目」「手」「頭」を皆が明確に区別できるようにFingertip spectacleで少しずつTipsを書いて働きかけをしていきたいと考えています。 それは主に「頭」を重視する脳神経的に絵画を考えて仕事をしている人たちの多くが「目」から始まる感覚の世界を認識していないで語っていることに気づかされることがあまりに多く、あまりに目に余るからです。 それにより多くの不幸が起きていると私は考えています。つまり、脳神経の素晴らしい仕事の多くはそこがつまづきとなり世の中に伝わらない、なんとももったいない状況があります。

    舌で感じた刺激を「おいしい」と頭で言葉化した時点で舌で感じている刺激が無くなる。 私にはこれと同じような現象が絵を描く時にも起こります。 そのような人は私以外にも多いでしょう。 なので絵の世界では「頭」で考えないようにすることが推奨されていると思います。 でも、そのため絵を描く時の出来事が他の人に伝えることが難しいのです。 本来であれば絵を描く時の自分の常識を理論化して分かりやすい言葉で観賞者に伝えるべきです。 そしてこの難しさは鑑賞者が鑑賞する際の問題にも繋がっています。作品が「難解」という問題です。 美術館や画廊に行っても意図していることや感覚で感じていることが伝わらない。 鑑賞者に対して詳細に解説するTipsが必要だけど今の所どの美術館に行ってもないのです。 感覚はさておき、「頭」で理論化されている部分を説明すればそれで十分というのが高尚で権威的な美術館然とした考えです。 彼らは基本的な説明はしているとキョトンとした顔で言います。あまり伝える気は・・・ないです。 例えば毛糸まき散らかしてそれで終わり、毛糸をまく一瞬一瞬に色んなことがあるんじゃないかな〜冷静に巻いているだけ?そうするとと想いはそれほどないってこと?まさかね・・。

    キョトンとした顔を見るたびに早急にTipsが必要だと考えてしまいます。 このようなことがずっと頭に引っかかり大きな懸念として膨らんでいるので、それを解決するために制作を始めたのがFingertip spectacleです。

    感覚は言葉にならないと考えられていることも多いです。 言葉にならないからアートがあると考えている方もおられます。 でも、実践から理論化までのプロセスを落ち着いて踏めば感覚は言葉化が可能なのです。 例えば、かわいい、かっこいい、ツルツル、ボワボワ、切ない、煩わしい、揚がるなど全て感覚を言葉化したものです。 Designare(デシネーレ)というdesignとdessinの語源が表すようにデザインとデッサンには設計と記号化という意味があります。 人類はこの設計と記号化を繰り返してここまで来たのです。 そのためこれからももっと未知の、今より先にある感覚の世界を言葉や絵にしていくことが可能です。

    Tipsは手元のスペクタクルとチップスのスペクタクルの2つの壮大さを掛けて表現しています。
    Fingertip spectacleは写真には映らない、完成した作品を見ても見えないことを描いています。
    映らないことの1つとして、画面にはPutty(私が作画する時に描く部分のことで、部分は粘土でプラモデルの部品を勝手気ままに作る感覚で描いています)で描いた天才の姿を描き込んでいますが、天才は画面に近づかなければ見えません。

    そして気ままに描いていることは作品を見るだけではわかりません。

    映らないことのもう1つとして、アートの世界が感覚の喪失を起こして「頭」の目で全ての絵画を見ているため、味がしないことと同じように感覚が喪失しているため、絵画の描き手の感覚は誰にも見えていないことを描いています。 ギロッポンの毛糸は正直味しなかったな〜
  • タイトル

    ○ They are geniuses.=彼らは天才です
    天才は世界中に星の数ほど存在します。そして彼らは未だ日の目を見ない天才です。 正直者もいれば、臆病者もいます。 今のアートの世界は正直者や臆病者が表に出ることができないおかしな世界。 今のアートの世界は図太い神経の奴とか平気で人を踏みつける奴、裕福な奴らばかりが日に当たり世界を牛耳っています。間違ってますね・・。
    天才は1人ではありません。 大勢います。 そのため1人の天才を生み出すために機能するのでは時代錯誤です。 そのように仕事をするのではなく、多くの天才を生み出す機能を作り上げるためにせっせと私は絵描きなのに文章を書く仕事をします。 そのため、既存の形に囚われて天才を決めつけるわけにはいきません。 色んな天才を創造することが大切です。 そのような思いをThey=彼らという言葉に込めています。

    ○ They=彼ら
    彼らはアートの世界で日陰に潜んで未だに陽の目を見ることのない天才たちのことです。
    彼らは特定の誰というわけではありません。 天才たちの総称であり、天才たちの人格を具現化したものです。 彼らは偉そうでなく、かっこつけでもなく、世の中のことを思い、アートのことを思っています。 それとこれらは自己投影はしていません。客観的に彼らです。

    ○ geniuses.
    天才は画面の左下にはアニメのイデオンのような天才が1人います。 イデオンみたいな天才は巨大です。 巨大で強い。イデオンを正確に表出する必要はありません。 でも瞬間でそんな天才が創造されるのです。 そしてそれは間違いではありません。 きっと巨大な天才がどこかで潜んでいるはずです。

    画面の中央にコマネチをする前のようなポーズで浮いている天才が1人います。 彼は白くてかっこいい天才です。 彼は木馬のように白く、ゴレンジャーに出てきた白のようにカッコいい天才です。 でもたけしのように親近感のある天才です。 偉いというか特別な感じの天才です。 そのような天才が世界のどこかに必ず潜んでいるはずです。

    左上に嘴のような細い口を持った鳥人間のような天才が1人います。 肩はイデオンのように角ばって張り出しています。 彼の嘴はPuttyを面相筆という細い筆に絵の具をつけて筆を寝かせて引っ張るように描いたストロークを利用して作ったので細くなりました。 絵画表現は先端と角が大切です。 ちょっと上手っぽく描きたい気分だったのでギンギンに尖らせました。
  • putty=パテ

    天才の彼らはputty=パテでできています。 パテは私が絵の中で物の形を表す時に潜在的に持っている粘土遊びとプラモデル遊びが表出(40年前の遊びの記憶です。)するイメージです。 なんならずっと遊んでいたかった。 で、現実でパテ(粘土)で物を作る時のような感覚で絵を描いています。 なのでまず手に粘土を握ってそれから適当に何を作るか考えるような、描いているものは何でもないものかもしれませんが、私の子供の頃の粘土遊びをする時のように楽に楽しくパテで描いています。 問題は奴隷でもなく、スパルタでもなく、鑑賞者に気兼ねしたり、コレクターに媚び売ったり一切せずに、楽に楽しく描く描き方があることです。 つまり、画家の中や、絵の世界に触れたことのある人の中に奴隷のような仕打ちを受けて、絵を描くことに辛い経験しかない人は意外に多いのです。 その全てを洗い流すというか、少なくとも楽に楽しく描く世界があることをはっきりと世界に示したいのです。 私と同じように、絵の具をPuttyと認識して絵を描いて頂いてもいいですし、自分の幼い頃の塗り絵やお絵かきや積み木などの遊びの感覚で描いて頂いてもいいと思います。 そのような感覚で絵を描いても良いという認識が持てることに意味があるのです。 後、そこに褒賞やお金儲けや出世のことは絡めてはなりません。 絡めると脳神経的になり感覚の喪失がおきます。

    私のPuttyの形は子供の頃に粘土遊びしていた頃に知ったガンダムのプラモデルのパーツのようなイメージです。 自分にとってかっこいい形。特に気持ちの高揚する形の代表格はガンダムで、その部分の形はプラモデルのパーツです。 このパーツを積み木のように重ねて人の形を作って遊んでいます。 私の中にプラモデルのパーツを想像して実際にリアルに組み合わせていくような高等なイメージはありません。 積み木のように積み上げることしかできません。
    人の形は子供の頃の粘土遊びの感覚と同じです。 私にとってこのようなやりとりが最もの気持ちが高まるのです。 仮にリアルなガンダムを作ろうとすると頭の中をテクニックに切り替えなければならないのでこの感覚は消えてしまうと思います。 Fingertip spectacleのコンセプトで考えれば超絶技巧を施しても、それはそれで手元の壮大な光景は広がるので良いのですが、今回の作品は何でもない粘土弄りのままの感覚を大切にしたかったので難しいことは一切せずに楽に描いています。 なので造形力的に何か素晴らしいものがあるのか?と言われればそのようなものは微塵もありません。
  • 美術の導入

    美術の世界には大きく3つの導入があります。 1つは「目」の世界の導入。 1つは「手」の世界の導入。 1つは「頭」 の世界の導入です。 純粋で正確な導入を行なっているのは実は「目」の世界の導入です 。そういうと反論も多いと思いますが、その全てを論破させて頂きたいと思います。

    「目」は所謂一般的なアートや美術や絵画のイメージです。 ファッションやイラストやゲームやプラモとか動物とかイケメンとか美少女などなど。 画家ではハ○クロやダビンチやピカソやゴッホや手塚治虫や広重や北斎などの人物像を印象付けることでインプットされて作られたイメージ。 これらはそれ自体全て正解と言えば正解です。 但し現代の世の中の人に合うかどうかと言われれば合いません。 そして巷で東京藝術大学は最後の秘境ということにされています。 秘境にいるのは魑魅魍魎や人間でも奇人変人の集まりだというのが世間一般の認識です。 で、これは実際とは随分違います。 世間一般の美術のイメージは大方間違いではありません。 でも、「手」「頭」が理想とは異なるスタンスを取っています。 「手」「目」から離れて手を使って技巧の世界に参加した人たちです。 そしての「手」の参加者の中からさらに「頭」の脳神経的な世界に参加する人たちがいます。 この手と頭は「目」とは違うスタンスを取っています。 スタンスの違いによってアートと美術の世界の外見は歪んでいると思います。 歪みの主な理由は処世術です。 これは例えば最初からパトロンがいれば個々には解決します。 つまりハ○クロのような感じで描き続けることができます。 世間一般のイメージが通用する。 但し、皆さんおわかりの通り、パトロンがつく人はまずいません。 まあ、パトロンはいません。 そうするとなんとかサバイバルして生き抜いていくこととなります。 つまり全員サバイバルするのです。 そうすると中はヒッチャカメッチャカ。 法則も何もあったものではないので歪になります。 処世術を使わずに上の画家たちのように資金を得られる画家は現代の日本ではほぼいないのです。

    「目」の導入を行うのは、美術館、テレビなどのメディア、保育園.幼稚園から始まる幼児教育です。 美術館は基本的に高尚で権威的です、それで一部の美術館は反省し権威を捨てる努力を始めています。 殆どの美術館は下らない無意味な権威ですが、権威を捨てた一部の美術館とメディアや幼児教育は平和な導入を行います。 幼児教育では、平和に才能、天才、感性などの言葉から連想されるそのままのイメージで授業が行われています。 それが決して間違っているわけではありません。 でも、それが仕事と結びつくものだという誤解を与えてしまうことが問題です。 誤解を与えてしまうのはそのような誤解を生むシナリオで指導することが常識となっているからです。 つまりもっと今の時代の認識に適したシナリオがあります。 「手」「頭」を踏まえてものを言うことです。 今のシナリオによって幼児教育から続く学校教育から得た知識により、本来ならお陰様でいうべきかもしれませんが、余りにも多くの「目」のみの、ピュアで平和な考えを持った人がアートや美術の世界に入ってきます。 彼らは実は「誰一人生き残れない」のです。問題の根源は幼児教育のパフォーマンスです。 幼児教育で「手」「頭」を育てられるようにすることが理想です。 それが可能になれば「手」「頭」の導入の問題も解決すると思います。 子供の将来が不幸になることを現場の先生は望んでいませんよね?気がかりは大学で既得権益を得ている大学の教員たちです。
  • 作品の天才育成計画的背景というか天育的な目的

    ○ 天才を題材に扱う背景〜第一の天才「ありんす」
    私はアートの日陰の世界を知っています。そこには能力の高い天才が沢山潜んでいることも知っています。
    日向に有能の人間が入ったことも知っています。 でも実は日向よりも遥かに、比較にならないくらい有能で、あまりに多くの人材が日陰に入っています。 そのような状況になるのは簡単に言えばそもそも最初からパイがないからです。 そして少ないパイに強引に多くの学生を垂れ流す、教員を生活させる都合に合わせた仕組みは構造的に余りに大きな問題を抱えています。

    私の知る限りアートに関わる多くの人間が人の良い人です。 人を押しのけてどうの、こうのする気は最初から毛頭ない。 特にそんな人が集まりやすい。 ということくらいは皆よくわかっていることだと思います。 ハ○クロのような感じのピュアな子は多いです。 でも、実際生き残るにはこの世界は真逆の世界。 ピュアで真面目で、本当にこの世界に向いているような人はこの世界には不向きです。 まず、私の見ている世界ではピュアな人は入り口の芸大美大受験の時点で潰れます。 芸大美大受験は能天気な人には向いていない。シビアな人にしかできない。 ピュアな人が間違って大学に行こうものなら、数々の洗礼を受けて体の芯から壊される。 そうなった人は実際少なくありません。 壊れるかバケモノ(ありんす計画のクリエーチャーです。)になるか。 この世界はハ○クロのような世界では全くありませんし、才能とか天才とかいう世界でもありません。 逆に言えばアートの世界は人を押しのけてでも自分だけは生き残ろうとする人間にはちょろい世界です。 そしてコネの世界。「根回し」という下らないことばかり頭にあるようなポンコツが幅を利かせる世界です。 言うなればヒモ体質のような、輩のような本質を持っている人が残る世界です。 その辺りを目の当たりにすると「運」とは言えないある意味堅実な実力社会ではあります。
    なので、そんな姿を目の当たりにした日陰の彼らは今のアートの在り方では表に出られないことを知っています。
    今の日本のアートの在り方はただただアートを学んだ「行き場のない学生」を社会に垂れ流しているだけ。構造的に致命的な欠陥があります。素直に垂れ流されるか、抗うか。 抗うのはピュアな人にできることではありません。 やろうとするときっと嗚咽しながら泣き崩れるような目に合う。 そんな姿を何人も見てきました。 抗えるのは処世術を身につけている人間だけです。 努力ではどうにもならない。 構造的に余りに大きな問題があります。 今のアートの世界で正常に機能している構造は既得権益を持つ人間が半永久的に利益を得続ける時計仕掛けだけ。

    大学の教員が生活するために学生がいます。教員を脅かさない良い子は可愛がられ生き残れる。

    それをみて有能な人材の多くは寄り付こうとも思わない。何とも困った世界です。
    私が描く天才の彼らはそのような懸念から生まれています。
    こういった状況を打ち破る天才。

    私は彼らを「ありんす」と呼びます。


    ○ 天才を題材に扱う背景〜第二の天才
    日本にはアートや絵画の正しい知識を皆が知る機会がありません。 美術館でも学校でも教えない。 本屋に行けば文字情報は得られます。 でも肝心な、多くの画家がコードだのモードだの気にせず「手」で仕事をしている。

    その感性を知る機会がないのです。 そして脳神経的には「手」の仕事の全てを無駄にしている。 「頭」の世界はそれで平気なのです。 狂気の沙汰ですね。 本当に頭がおかしいのは誰?

    画家には「手」から入る者と「頭」から入る者がいます。
    アートの世界にある言葉は主に「頭」の方が作ったものです。

    「手」の方は言葉にすることが苦手です。

    「手」の方が言葉にすることが苦手なので、絵画のテクニックは実は簡単なのですが、言葉がない為に伝わっていません。 「手」は言葉にすることも苦手ですが、それだけではなく大抵が人の話を聞いたり、文字を読むことも苦手なのです。 技法自体は古い技法書から紐解いていけば文字として書かれています。
    中でも決定的に遅れているのは、「手」の画家が感じていることの多くが言葉化されていないことです。
    「Don’t think feel=考えるな感じろ」は李小龍が言ったことですが絵の世界にも当てはまります。
    李小龍の言ったことは間違いではありません。というか、私は生徒たちに李小龍の言ったことは絵画のための言葉として指導しています。 それほどこの言葉が絵画の世界にぴったりとマッチしているのです。 ただしこの言い方は世の中の一般の皆に絵画を見せる時にはいささか投げやりで難解な印象を与えてしまうのです。
    難解な印象を与えるのは、「頭」の方がいうコードやモードのどうのこうのという言葉と混在していることも原因と考えます。
    「手」の画家は、基本的に描き出しから終わりまで様々な感覚を総動員して制作します。 その一部始終を解説することは「手」の画家には大切なことです。 つまり「手」の画家は作品の完成だけを見ているわけではないにも関わらず、展示の時は唯憮然と飾ってしまうのです。 「手」の画家の作品は制作途中も含めて詳細な解説が必要です。 李小龍の戦いは戦っている最中を見てなんぼですよね・・それと同じです。 絵は戦い終わった李小龍を見せているだけです。 そんなもの見せても本人「フォアお〜」と言いながらキョトンとしますよね。私はたまに李小龍に成り切って絵を描いているのです。
  • 錬金術2

    「手」「頭」の世界が生まれたのには理由があります。 それは世界のセレブや貴族がお金を生み出す時計仕掛けをアートを利用して手に入れるためです。
    お金がなければものが買えないように。お金に価値があるように。 社会はゴミでもなんでも価値を与えてお金になるように価値を生み出す仕掛けを作りしました。 仕掛けは自動的に機能します。 自動することによってあたかも自然に見えるようにしました。 芸大美大受験もその1つです。 オークションやコンクールや賞も同じです。
    褒賞はお金を生み出す道具です。 そのために褒賞を得るのは難しくされています。 難しいという仕組みを作るのは多数から1つを選ぶという形をとり、それを基本とすることで誰でも簡単に可能です。 めんどくさければ問答無用で適当に1つだけ選べばいいのです。 地区の美術展でも学校の成績でも簡単に価値を生み出すことができます。 賞を取った作品には金銭的な価値が付きます。 それによって作品は売れませんが、地域の絵画教室は授業料を取れますし、美術予備校がお金を取れます。 (お陰様で・・。) 受賞した作品が受賞されていない作品と違いがあるのかと言われればあります。 でもそれぞれに価値がないのかと言われれば違います。 受賞していない作品にも価値があります。 今回の作品のコンセプトは受賞していない作品の価値を見出すことです。 褒賞や金銭的な価値にとらわれずに作品を見て考えると本当の価値が見えてきます。 皆がその感覚や考えが持てるようにすることが今回の作品のコンセプトです。
    芸大美大受験は東京藝術大学に合格することが困難になればなるほど、合格することに価値が出てきます。 実技試験では網膜的な、アカデミックな絵を描かなければなりません。 デザイナーがそれほど高度なデッサン力が必修かと言われればそれ程必須とは言い切れませんし、油絵科においては「絵なんか描いても仕方がない」と言われてきたように殆どの学生が卒業してから絵を描きません。 アートの世界は「頭」の世界です。「頭」の世界は「手」に辟易しています。 東京藝術大学にそれだけのパイがないことが明白でありながらも大勢の受験生が集まるのは東京藝術大学を卒業することに金銭的な価値があるからです。 その価値を生み出しているのが異常に高い倍率です。 この倍率は東京藝術大学を卒業することに金銭的な価値を付けるために仕掛けられたものなのです。 東京藝術大学に入学した後に他の大学と何か違いがあるのかと言われれば何もありません。 校舎や授業内容や食堂のご飯も著名な先生も箱がもたらすものは他大学となんら違いはありません。 只、学生は「手」については限界とも言えるレベルに高めています。 でも、社会にそれほど「手」の需要があるかと言われればはっきり「ない」と断言できます。 恐るべし錬金術です。

    ○ オークション
    セレブや貴族はオークションを利用すれば自分の持っているコレクションの価値を釣り上げることができます。 特定のアーティストの作品を数人のコレクターで安く大量に購入しておいて、その作品を競り合って金額を釣り上げればいいのです。 そうすればゴミが数千万、数億の価値で売買されます。この仕掛けには貧乏人は参加できません。セレブや貴族に可能な遊びなのです。 学識や鑑定眼も何もいらない。 オークションでは数人の人間の都合で自在に価値を捏造されているのです。 誰もが編み出したい錬金術。腐ったメロンパンでも一度価値がついてしまえば後は自分たちの思うがままに幾らでも価値を釣り上げることができます。
    「頭」の世界が「手」に辟易していたのは「手」つまり、工芸、絵画、彫刻の世界が権力を握り、高尚であり続けるために作品を特別なものに仕立て上げていたからだと思います。 作品は誰にでも作れるものです。 でもそれに金銭的な価値をつけようとすると誰でも作れるという都合の悪い事実は随分歪んでねじれ曲がってから表に出てきます。 大絶賛という形をとって。 これは皆にとっては大きな損失なのです。 皆にとっては錬金術に参加する意味がない。 メディアに踊らされるように仕掛けられていますが、作品は誰にでも作ることができるのです。
  • 情報爆発による新時代の幕開け

    アートの世界には2つの人格があると思います。 1つは「頭」の人たちが彼らで作るコンテンポラリーの人格。 もう1つは「手」の人たちが作るファインな人格です。
    コンテンポラリーの人格は、アカデミズムと言う古い感覚や考え方に凝り固まったファインを排除した新しいアートの概念の中に、次々に新しい箱を作り無数の箱でファインを排除したアートを構築し直そうとします。 これはファインを情報操作によって徹底的に排除することによって成立し現在はコンテンポラリーの支配がなろうとしています。
    一方でファインの人格は自分自身を中心に自分の外の世界と関わろうとします。自分の外の世界との関係は自分の頭の中で時間軸と空間によって区切られ、それが記憶の箱となって積み上げられていきます。
    コンテンポラリーが情報操作できたのは情報が「画廊」「美術館」「大学」から外に漏れることがなかったからです。 つまり、これまでそれらに足を運び関わらなければ情報を得ることはできませんでした。 何事も彼らにお伺いをたてるしかなかった。
    情報爆発はインターネットによっておきます。 世界的な情報爆発はこれで2度目。 1度目は印刷によるものです。 印刷できるようになって長い旅をして先生の元に行かずとも情報を得ることができるようになりました。 1度目の爆発によって「手」による支配から解放されました。
    インターネットによる情報爆発は「画廊」「美術館」「大学」に情報を集める必要がなくなることを意味します。 つまりこれまで「画廊」「美術館」「大学」に集められた情報は彼らの都合によって外に出す情報と出さない情報を選択することができました。 今後はそのような情報操作をさせないように「画廊」「美術館」「大学」に集めなくともインターネットで自分で発信できるようになります。 例えば落選されたとしてもインターネットで落選した作品を評価すればいいのです。 既存の展覧会の受賞した作品の多く(御免なさい全てです。)はあまり褒められた評価の仕方をしていません。 その評価を上回るのは簡単です。これまでは作品や論文は「画廊」「美術館」「大学」に通して外に出せるか評価のお伺いをたてて、「画廊」「美術館」「大学」の都合を最優先にしなければ発表することができませんでした。 2度目の爆発によって「頭」の支配から解放されるはずです。
    アートの世界は「手」「頭」の世界にわかれています。 元々は全員「手」の世界の人間でした。でも、それでは「食べていけない」「評価されない」「ダサい」などと説得され「手」から「頭」の世界に移りました。
    「画廊」「美術館」「大学」を通さなくてもインターネットで作品を発表することで評価されるようになれば「頭」の世界に移る必要は無くなります。
  • 私の今回の活動

    私が行っている活動は日陰の天才たちに陽の光を当てることです。
    アートの世界から見た彼らは暗い暗闇の世界にいるように見えます。 でも彼らが本当にいる世界は既得権益や権力や無意味に高尚な扱いをされるアートの汚い部分にまみれていない綺麗な所です。
    彼らに一度に陽が当たるようにするには既得権益を生んでいる今のシステムを壊すしかありません。
    彼らに光が当たるようにするには、誰もが絵を描けるようにすることが大切です。
    絵を描くことを権力や高尚なことにして既得権益を守る守銭奴の真似をするのではなく、そもそも絵は簡単に描けるものなので、その技法を惜しみなく公開し、皆が絵を描けるようにするべきです。
    絵画の時代は終わったなどという「頭」から絵に入った人の話は置いておいて、バナナをガムテープで壁に貼ったりして喜んでいるのは置いておいて、皆が絵を描けるようにする。
    そうすることで彼らに陽は当たるようになるはずです。
  • 私にとって

    私にとって・・・。私の中にいる彼らは私のコードによって表出された色と形をしています。私の中の箱にある絵画の世界で培った複雑な美しい形や鮮やかで美しい色彩。
    私にとって大切なものはアート。そして人です。
    アートは私がともに30年生きてきた人生です。 今となっては切っても切り離せないもの。コンテンポラリーもファインもどうでもいいです。
    私がアートを大切にする時は私が触れ合って染み込んだ絵画の認識の作法が私の中から出てきます。 それは1990年代のインスタレーション全盛のアートシーンであったり、当時の東京藝術大学の受験絵画であったり、遥か昔の古典的な絵画だったり。 子供の頃の粘土遊びやガンダムです。
    人は、あまり人付き合いをする方ではない私のような人にとってもやはり人は大事です。
    私が人を大切にする時は週間少年ジャンプで培った正義感が出てきます。
    人を絵の色と形でイメージして描くとアートシーンや受験絵画やジャンプが入り混じってフィックスして出てきます。
    これが私です。
  • 鑑賞する際の2つの立ち位置による視認性とその違い

    Fingertip spectacleは2つの立ち位置から鑑賞してもらうように制作しています。1つ目は至近距離から。もう1つは適当に離れて全体が見渡せる位置からです。
    至近距離に近づくと画面に描かれた天才を見ることができます。

    全体を見渡せる位置からは全体像を確認することができます。そしてこれは写真に写すことができます。でも至近距離から見える天才を見ることはできません。
    天才は光の加減で見えたり見えなかったりするように描かれています。
  • 技法〜今回は簡単に〜

    ○ 筆の使い方
    天才が至近距離で見えるように、光の加減で見えたり見えなかったりするように描くのは簡単です。
    ただ薄く描いたり、絵の具をつけていない筆でこするように、筆の痕跡を残すように描けばいいだけです。
    薄く描いた所はカメラに映ります。 でも、絵の具をつけない筆で描かれた部分はカメラに写すことはできません。 至近距離でも画面にあたる光の加減で見えたり見えなかったりします。 このことは絵画には画面に近づかなければ見ることができない世界があることを示しています。 そしてそれは私にとって、また画家にとってとても大切なFingertip spectacleなのです。
  • 作品の歴史的な背景というか現状

    Fingertip spectacleは指先の壮大な光景という意味です。 コンテンポラリーの世界は「頭」の世界です。 頭の世界を確立するための論法を展開する創世記にまず「手」の否定から入っています。 その時に否定されたのが絵画の工芸的な側面による「手」による技巧です。 当時のアートの世界は「手」による優れた作品を多く生みだしながらも、アウトライン。 つまりアートの概念自体はとても狭く、カテゴリーの少ないものでした。 スポーツで言えば競技の数があまりに少ない。 ボールで言えば様々な大きさや重さや形のボールを使った競技がないような状況です。 物理的に考えて、色んな競技を生み出すかのようにアートの世界に様々な概念の作品が生み出すことが必要になりました。 物理的な側面から多くの概念が生み出された最終局面はとうとう物を置くだけだったり、言葉だけで良かったりするようになります。 これらの作品は未だ多くの人に知られていないアートの形です。 競技を生み出す仕事は概念や競技と競技の境界線のアウトラインを考える、「頭」を刺激する「脳神経的」な楽しみで制作することを主流とさせました。 スポーツなりアートなり食文化なり、それぞれの中にアウトラインを設けて区別していく作業はそれ程時間のかかるものではありません。 予測されたのは20年程度、かつてのマニエリスムであるルネサンスと同様に20年程度の短い期間だと予測されました。 コンテンポラリーの創世記にこのような状況を予測し、ミケランジェロやダビンチが活躍した時代とも重なりマニエリスム=芸術対芸術の時代と称されました。 時は流れ、今ではマニエリスムは終わりを告げようとしていると私は考えています。
    「頭」の世界の住人からは未だに「絵画は終わった」という声が聞こえてきます。コンテンポラリーの創世記に「手」を否定したあの当時であれば「絵画は終わった」というコピーは綺麗に当てはまります。 但し、区画整理がやり尽くされた今はこのコピーを打ち出しても世の中には響かないのです。なぜならばこのコピー、つまり概念が示す対象となる競技の絵画が社会にもうないのですから。つまり絵画はもう生まれ変わっているのです。 マニエリスムは大きな功績を残しながら、功罪も残しています。
    簡単に言えば、この間「手」の成長が止まってしまっていること。 それと「頭」で生み出した様々な概念がジャンルとして社会に認知されていないことです。
    「手」の成長に関してはAIが絵を描くようになった時点でこのままではあまりに立ち遅れていることが問題になると考えています。 日本ではジャンルを社会に広く知られるようにするのは美術教育で多くのアートに触れさせる鑑賞を主軸に教育、実技を行わなければならないと考えています。
    美術教育は今のように実技中心のものでは不味いです。鑑賞と概念の教育と実技をバランスよく教育するべきです。 これを実現させる上で教育の機能を大きく飛躍させるのは私は漫画だと考えています。 鑑賞と概念と実技のマニュアルを全て漫画、幼児には絵本で起すのです。 そうすれば幼児も美術教育に携わるアートを専門としない保育園、幼稚園、小学校の先生を目指す大学生にもわかりやすくアートを学べると考えています。 漫画大国日本ならできるはずです。これが今回の作品を取り巻く現状です。
  • 作品の歴史的な価値

    所謂アートが追い求める歴史の一行を書き込むような活動には興味はありません。 結果的にそうなるかもしれませんがアートの歴史には辟易しているので No thank you です。辟易している部分は捨て置けないのでコテンパンに潰すために後日改めてお話しします。 知ったような口を聞くど阿呆が「絵画は終わった」「油絵なんか描いてても仕方がない」「脳神経的な」などとほざいていますが、どれもただの水掛け論で「絵画は終わりません」「油絵を描いてもいいです」「網膜的な絵画も脳神経的なものも大切です」と言うのが私の意見です。
    強いて私の絵の歴史的な価値を推測して触れると、バカなアートの世界は、特に市場の世界は小さな絵画の価値を正しい価値、正規の価値として認めていません。 小さな作品や工芸的な価値を否定することを前提として考えられています。 つまり小さな作品の素晴らしさを許容していないのです。 言う必要もないですが小さな作品には小さな作品にしかない素晴らしさがあります。自分で言ってて恥ずかしくなるくらい当たり前のことを言っていますが。 今回の作品はF30号なのでさほど小さくはありません。 でもタイトルのFingertip=手元を鑑賞して頂く作品です。 手元と同時に少し離れて全体を見て頂きます。 さらには写真で見た時に美しく見えるスケールで描いています。 そしてFingertipは実物の側に行かなければ鑑賞することはできません。 実物の写真では写せない、絵画そのものでなければ伝えることのできないことがあることを表現しています。 タイトルの spectacleは壮大な光景を意味しています。 現物を見なければ人間の手元の仕事の良さはわかりません。 つまり今のアートの世界は「頭」ばかりに夢中で、絵画の手元の良さ、「手」の良さをあまりよくおわかりになっていないのです。 手元の良さを伝えるには技法から何から詳細にTipsにして公開する必要があります。 技法を隠蔽するのではなく公開することで「手」の良さが伝わると思います。そして同時に世の中の全ての人が簡単に絵を描けるようになると考えています。 皆が絵を描けるようになるために天才育成計画と連動して絵を描きます。 後は、同時に鑑賞の仕方についても考え、画家の皆が絵画の詳細な解説ができるようにこの解説のようなサンプルを書きます。
  • 手の中に生まれる神話

    手の世界には神話があります。 手の世界では様々な出来事が起こります。 あまりにも多くの出来事が起こるので、そこには神様がいるような感じがします。 私は神様を信じていませんが、あまりに多くの出来事が起こるので、そこに神秘的なものを感じるのです。 そしてその中の出来事は誰に伝えるでもなく、絵を描く人の手元では様々なことが実践されます。 絵を描く人の手元で起きていることは表現が難しく、不問とされてきましたが、インターネットができ、動画撮影が簡単にできるようになった現在では、これまで不問とされてきた手元の出来事を表現することが可能となりました。 手元の世界には神話があります。 その神話の中には世界を揺るがすような大発明があるはずです。 そこにロマンを感じるのは私だけではないはずです。
  • 制作途中の詳細な解説

    詳細な解説を行う為に私は作品Fingertip spectacleの制作と公開を行います。 Fingertip spectacleはツイッター上で制作を公開する作品です。 完成した作品を鑑賞することではなく動画から流れる全ての瞬間が作品です。 この作品の鑑賞は自由です。 そしてTipsを書いて公開していきます。動画の公開は次回作から行います。
  • 作品の購入希望と寄付について

    作品は販売しています。
    ご希望の方は問合せフォームをご利用ください。
    ご連絡頂きましたら数日中にお電話させて頂きます。
    お電話で売買のお話をさせてください。

    そして天才育成計画並びに熊谷美術研究所の取り組みにご支援頂ける皆様からの温かいご寄付をお願い致します。
    天才育成計画を発展されるためにこれから課題は資金力です。
    「寄付により計画が成功することに喜びを得られる。だから無償の奉仕の精神で計画を支える」
    そのような強力な支援者が必要です。

    フォームには以下のことをご記入ください。
    ・名前
    ・住所
    ・自宅の電話番号
    ・携帯の電話番号
    ・購入する理由を簡単に書いて下さい。(思った通りで構いません)

    振込先
    東和銀行 行田支店 店番070
    普通口座 
    口座番号 3082739 
    口座名義人 熊谷絵画教室小平崇史(クマガヤカイガキョウシツコダイラタカシ)



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