先生細菌ハザード
仮に東京藝術大学美術学部各科の定員が1名になった場合、各科が本当に理想通りの人材を合格させることを評価基準において採点をすると考えます。
万が一そのようなことが起きた場合、いや可能になった場合、私の卒業した絵画科油画専攻では「自由にのびのび」制作して育んだ感性がその子の生まれ持った幼児性と一番強くフィックスしている子が合格することがありえると思います。
絵のためなら命も投げ出してもいい。
そのような所まで絵と心がフィックスしている子は稀にいます。
つまり本当に命がけで制作している子です。そしてそのような子は今の評価の仕方では絶対に合格することはありません。
その理由は「自由にのびのび」によって油絵にのめり込み幼児性と強くフィックスする子には特徴があるからです。
一つには大人になれない子であること。
幼児性と強くフィックスするためには論理的な思考を捨てなければなりません。
頭で考えるのではなく感じること。
そして幼児性は内なる世界に存在するものなので内に深く篭れる子。
自分の外にある情報も必要であれば完全に除外することができる子。
勉強が極端に苦手であること。スポーツが極端に苦手であること。
人とのコミュニケーションをとることが極端に苦手であること。
仮に勉強かスポーツかコミュニケーションが得意な人は油絵に命までかける必要はありません。
命をかけるとはそれだけの代償をかけても構わないと思えるほど追い込まれ、油絵以外のことに対する自信を完全に喪失している子です。
そしてその子は油絵に対して本当の「愛」を感じ、本物の「愛」を持っています。そして「愛」を求めます。
油絵のために死ねる。
そういった子が稀にいるのです。
余談ですが、そのような子が私の前に現れることがあります。
でも、現状で私がその子に施さなければならない指導は受験を諦めることです。
課題に対応できなければ試験になりません。英語力も問題になります。
コミュニケーション能力も大切です。
何より今の受験では大人になれなければならないのです。
「自由にのびのび」の理想を追求して生まれたような申し子を東京藝術大学の油画専攻に合格させることができないのです。
「自由にのびのび」の申し子を受験を迂回させて「天才」として昇華させ世に送り出す。 これが天才育成計画で目論んでいることの1つでもあります。私には「愛」などと大それたことをその子にはしてあげられないかもしれません。 でも、やれるだけのことはやってみます。
自分の内側には必ず幼児性が潜んでいます。 そして自分の外には大人の世界があります。 現状の入試で合格するには幼児性を捨て、大人にならなければなりません。 大人になるとは英語と国語の勉強をすること。 実技試験は課題がありそれに完全に従わなければならないことです。 幼児性と強くフィックスしている人は中身は子供です。 普段描いているものと違うものを描けと言われても、日頃究極に選び抜いた題材のみを極限にまで最高の状態に仕上げることに徹底してきているわけで、それ以外のことをやれと言われても自分の力は全く出すことはできません。 つまりわかりやすく言えば100メートル走の金メダルを目指して毎日トレーニングに励んだ人に入学試験では卓球をやらせ、走らせない。といったようなことです。東京藝術大学の油画の試験が今していることはそのようなことです。 毎日走り込んでいる子に走らせずに卓球をやらせる。あまりに馬鹿げている話ですね。
馬鹿げていることに気づかないのは感性で物事を判断することを忘れて、数字や大人の都合で判断してしまっているからです。 おそらく数字(定員数や学科の得点の計算の仕方)によって取るべき子の姿が見えなくなっていると私は考えています。定員が1名になれば数字を見る必要はありません。 血眼になって一人の逸材を探すでしょう。その一人は血眼になって探そうとするときに出てくる具体的な探し方を実践しなければ見つけようがないのです。 そしてそのような探し方を想定した時に普段の入試で多くの逸材を取りこぼしていることに気づくでしょう。取りこぼしの例を全てあげることが天才育成計画の計画していることの1つでもあります。
美術とデザインの世界には「先生細菌」(=Teacher Virus)(造語です)というウィルスが蔓延しています。 先生細菌によって多くの子供たちが美術とデザインの世界が「自由にのびのび」の世界だと誤解し素敵な美術とデザインの世界で生きていこうと考えて足を踏み入れてしまい子供がほぼ全員「行方不明」になります。 中には自力で病から立ち直り生き抜く子供も出て行きます。 かくいう私自身がその一人です。 一時は自死も考えるほど追い詰められた先生細菌による被害は後日改めて具体的にお話しします。 私がこのようなお話をするのは「自由にのびのび」という先生細菌による弊害に薄々気づきながらも、重症化している事実に対する反応が鈍感なため抑止しようともしていない状況を強引に改善させるためです。
先生細菌による事故は先生細菌「自由にのびのび」を深く信じれば信じるほど確実に大事故に発展します。大事故の先に明るい未来がある場合もあります。 でもそれを見越しての場合は大事故をセットで最初に子供達に話すべきです。ただ、それには先生がそのことについて精通してる必要があります。 さて、美術教育に関わる全ての先生方にお尋ねします。 「自由にのびのび」の核心をどれだけ正しく理解されているのか? 人を動かす力のある言葉は人を貶める言葉にもなるのです。とても大切なこのことを学校でちゃんと習いましたか?
実際に先生細菌「自由にのびのび」により芸術家として成功するのは2〜30年にひとりいるかいないかです。 つまり先生細菌「自由にのびのび」によって成功した人間はほぼ「いない」と断言できます。 30年の間に美術とデザインの世界に飛び立った人がおそらく15万人程度はいます。 15万人いる中で一人くらいは「自由にのびのび」で食べていけるただ運のいいだけの人はいます。多分・・。 美術とデザインの世界はそのただ運のいいだけの人間を思いっきり大きく引き伸ばして話に引き出して、さもそれが美術とデザインの全てのような話し方で子供たちに「自由にのびのび」と撒き散らすのです。 そのせいで美術とデザインの世界を「宝くじ」だと思っている人も少なくありません。「宝くじ」と思ってこの世界にくる学生は努力を全くしないので厄介ですし、博打だと思ってこの世界に寄り付かない人が出てくることも厄介です。
私の知る限り、芸大美大などの学校を出てから芸術家になるタイプでは私が生まれる前の大昔はいたかもしれませんが現在は「自由にのびのび」で芸術家になる人はひとりもいません。 現在では篠原有司男さんのように学校とは関わりなく自由を貫いて成功している方はいます。 彼は相当苦労されているように見受けられますが・・。つまり、私の認識では美術系の学校の全てが「自由にのびのび」は許さないし許している事実はない。 「先生細菌=自由にのびのび」の最大の問題は美術系の学校のおそらく全て(Fランク校には結果がどうなるかはともかくとして許容している学校はあるようです)が「自由にのびのび」を許していないにも関わらず、保育園/幼稚園/小学校/中学校/高校の図画工作と美術の授業の全てにおいて「自由にのびのび」という認識を導入して教育しておきながら、美術の世界の実態は「自由にのびのび」とはかけ離れている点です。 つまり、現代ではすでに「自由にのびのび」はアカデミズムにガチガチに凝り固まった古い過去の状況に対抗するために必要だった姿勢であり、教育方針であり、美術系の学校に最大限に生徒が集まる手法として相変わらず憮然と腰を据えつつも実際は美術の世界にとっては誤解を生むだけの時代錯誤なものになっているのだと考えます。
先生細菌を撒き散らしているのは「先生」です。先生は今もなお現状とはかけ離れた思想によって「自由にのびのび」を撒き散らし続けます。
「先生」と称する人間が医者のような佇まいでさも全てを見通しているかのような声のトーンでボソッと小声で「自由にのびのび」と一言唱えます。 その一言を聞いた親御さんと子供は胸を打たれ、目を閉じると頭の中にメントールのような爽やかな風が吹き、処方された先生細菌を持ち帰ります。 そしてたまに目を閉じます。親御さんとお子さんにとっては、勉強がダメで、体育がダメで、音楽もダメとなってよくわからないけれど足を踏み入れた先に、ほとんどぐちゃぐちゃ遊んでいればいいと言っているような、そんなもので認めてもらえる世界があると言われると、それは心が動くというものです。 でも言っておきます。目を閉じた時に頭の中に吹く爽やかなメントールはミントのような健康的なものではなく、繰り返していくうちに頭を壊して歯を溶かしてしまうトルエンです。 幼児性は子供の頭の中で積み上げていかなければならない建設的な思考を阻害します。 例えば絵を描く時、幼児性と制作が強くフィックスした場合、絵はぐちゃぐちゃになります。 そのぐちゃぐちゃを続けている間は上手に絵を描くことはできなくなってしまうのです。 先生細菌「自由にのびのび」を先生が撒き散らす時は、神のような面持ちで神のような声のトーン。 又は菩薩のような笑みで菩薩のような声のトーンで先生細菌「自由にのびのび」を撒き散らします。 親御さんとお子さんは先生のサッとかっこよく、こ慣れた手つきで巻き散らかす先生細菌を全身で浴びます。 そのようなことが美術教育の現場では日々行われているのです。
公募団体○展では審査の前に審査員である会員にお金を渡して社会的に問題になったことがあります。 つまり先生細菌に完全に汚染されて仕上がっている人からすると審査員は神であり、神にお布施を渡すのは当然の行為なのです。 でもしらふの私からすればただの病気です。渡す方も貰う方も病気以外の何物でもありませんし鳥肌が立ちます。はっきり言って大嫌いです。 美術の世界では審査員にお金を渡す愚かなこの光景は昔からよく見るし耳に入ることです。公募団体と歩けば金銭の授受とあたる。 皆さんにはよく考えて頂きたいのです。 お金を払って評価されるようなことをしていても、お金をもらって評価される作品は作れませんよね? 趣味で愚かな審査員にお金を渡して実力ではなく愚かな見栄のために入選させてもらって少し楽しめるならそれで構いません。 でも、それで食べていくとなるとお金を渡すような愚かな考えは一切捨てて大丈夫です。 後、細菌に汚染されているのではなく、審査員の皆さんの生活が大変なことを知っていて、支援のためにお礼を渡すのは社会的にはダメですが、私はいいのかもしれないと思います。 (実際は多分殆どがそうです。でもどう考えているかは人それぞれです。)
お布施を渡すことは今すぐやめて大丈夫です。 つまり、美術とデザインの世界で腐っているのはほんの一部で、実は殆どの人が美術とデザインの世界は真正面から仕事と向かい合って全身全霊をかけて「努力」して初めて食べています。 この世界のことがわからず慣習に従ってお布施を渡してしまう。 そのような美術とデザインの世界は偉い先生の撒き散らす先生細菌によって汚染されています。 なかなか細菌は無くならないと思いますが心ある人が麻薬に手を出さないようにすることと同じように手を出さない勇気を持って一人ずつやめていくことが大切です。 本当に美術のことを思うなら先生に対して「私は払いません」と言う勇気を持ちましょう。それで落選させられるのならそれでいいじゃありませんか・・。
先生細菌「自由にのびのび」は親御さんとお子さんが家に持ち帰って家で繁殖します。 お子さんが美術の道に進まなかったとしても死滅することはありません。 はしかのように頭の隅に巣喰い続けます。 美術系の学校に行かなくても、はしかの帯状疱疹のように大人になってから先生細菌「自由にのびのび」が出現することもあります。 つまり先生細菌「自由にのびのび」はただ遊べばいいだけといっていることなので、持ち帰った先で美術を嫌いになる=死滅する要素がないのです。 死滅させないための「自由」であり「のびのび」なのです。細菌としては最強の生命力を誇る「細菌兵器自由にのびのび」は死滅することなく勢力を拡大し、今まさに美術とデザインの世界を食い殺そうとしています。
「自由にのびのび」の申し子を受験を迂回させて「天才」として昇華させ世に送り出す。 これが天才育成計画で目論んでいることの1つでもあります。私には「愛」などと大それたことをその子にはしてあげられないかもしれません。 でも、やれるだけのことはやってみます。
自分の内側には必ず幼児性が潜んでいます。 そして自分の外には大人の世界があります。 現状の入試で合格するには幼児性を捨て、大人にならなければなりません。 大人になるとは英語と国語の勉強をすること。 実技試験は課題がありそれに完全に従わなければならないことです。 幼児性と強くフィックスしている人は中身は子供です。 普段描いているものと違うものを描けと言われても、日頃究極に選び抜いた題材のみを極限にまで最高の状態に仕上げることに徹底してきているわけで、それ以外のことをやれと言われても自分の力は全く出すことはできません。 つまりわかりやすく言えば100メートル走の金メダルを目指して毎日トレーニングに励んだ人に入学試験では卓球をやらせ、走らせない。といったようなことです。東京藝術大学の油画の試験が今していることはそのようなことです。 毎日走り込んでいる子に走らせずに卓球をやらせる。あまりに馬鹿げている話ですね。
馬鹿げていることに気づかないのは感性で物事を判断することを忘れて、数字や大人の都合で判断してしまっているからです。 おそらく数字(定員数や学科の得点の計算の仕方)によって取るべき子の姿が見えなくなっていると私は考えています。定員が1名になれば数字を見る必要はありません。 血眼になって一人の逸材を探すでしょう。その一人は血眼になって探そうとするときに出てくる具体的な探し方を実践しなければ見つけようがないのです。 そしてそのような探し方を想定した時に普段の入試で多くの逸材を取りこぼしていることに気づくでしょう。取りこぼしの例を全てあげることが天才育成計画の計画していることの1つでもあります。
美術とデザインの世界には「先生細菌」(=Teacher Virus)(造語です)というウィルスが蔓延しています。 先生細菌によって多くの子供たちが美術とデザインの世界が「自由にのびのび」の世界だと誤解し素敵な美術とデザインの世界で生きていこうと考えて足を踏み入れてしまい子供がほぼ全員「行方不明」になります。 中には自力で病から立ち直り生き抜く子供も出て行きます。 かくいう私自身がその一人です。 一時は自死も考えるほど追い詰められた先生細菌による被害は後日改めて具体的にお話しします。 私がこのようなお話をするのは「自由にのびのび」という先生細菌による弊害に薄々気づきながらも、重症化している事実に対する反応が鈍感なため抑止しようともしていない状況を強引に改善させるためです。
先生細菌による事故は先生細菌「自由にのびのび」を深く信じれば信じるほど確実に大事故に発展します。大事故の先に明るい未来がある場合もあります。 でもそれを見越しての場合は大事故をセットで最初に子供達に話すべきです。ただ、それには先生がそのことについて精通してる必要があります。 さて、美術教育に関わる全ての先生方にお尋ねします。 「自由にのびのび」の核心をどれだけ正しく理解されているのか? 人を動かす力のある言葉は人を貶める言葉にもなるのです。とても大切なこのことを学校でちゃんと習いましたか?
実際に先生細菌「自由にのびのび」により芸術家として成功するのは2〜30年にひとりいるかいないかです。 つまり先生細菌「自由にのびのび」によって成功した人間はほぼ「いない」と断言できます。 30年の間に美術とデザインの世界に飛び立った人がおそらく15万人程度はいます。 15万人いる中で一人くらいは「自由にのびのび」で食べていけるただ運のいいだけの人はいます。多分・・。 美術とデザインの世界はそのただ運のいいだけの人間を思いっきり大きく引き伸ばして話に引き出して、さもそれが美術とデザインの全てのような話し方で子供たちに「自由にのびのび」と撒き散らすのです。 そのせいで美術とデザインの世界を「宝くじ」だと思っている人も少なくありません。「宝くじ」と思ってこの世界にくる学生は努力を全くしないので厄介ですし、博打だと思ってこの世界に寄り付かない人が出てくることも厄介です。
私の知る限り、芸大美大などの学校を出てから芸術家になるタイプでは私が生まれる前の大昔はいたかもしれませんが現在は「自由にのびのび」で芸術家になる人はひとりもいません。 現在では篠原有司男さんのように学校とは関わりなく自由を貫いて成功している方はいます。 彼は相当苦労されているように見受けられますが・・。つまり、私の認識では美術系の学校の全てが「自由にのびのび」は許さないし許している事実はない。 「先生細菌=自由にのびのび」の最大の問題は美術系の学校のおそらく全て(Fランク校には結果がどうなるかはともかくとして許容している学校はあるようです)が「自由にのびのび」を許していないにも関わらず、保育園/幼稚園/小学校/中学校/高校の図画工作と美術の授業の全てにおいて「自由にのびのび」という認識を導入して教育しておきながら、美術の世界の実態は「自由にのびのび」とはかけ離れている点です。 つまり、現代ではすでに「自由にのびのび」はアカデミズムにガチガチに凝り固まった古い過去の状況に対抗するために必要だった姿勢であり、教育方針であり、美術系の学校に最大限に生徒が集まる手法として相変わらず憮然と腰を据えつつも実際は美術の世界にとっては誤解を生むだけの時代錯誤なものになっているのだと考えます。
先生細菌を撒き散らしているのは「先生」です。先生は今もなお現状とはかけ離れた思想によって「自由にのびのび」を撒き散らし続けます。
「先生」と称する人間が医者のような佇まいでさも全てを見通しているかのような声のトーンでボソッと小声で「自由にのびのび」と一言唱えます。 その一言を聞いた親御さんと子供は胸を打たれ、目を閉じると頭の中にメントールのような爽やかな風が吹き、処方された先生細菌を持ち帰ります。 そしてたまに目を閉じます。親御さんとお子さんにとっては、勉強がダメで、体育がダメで、音楽もダメとなってよくわからないけれど足を踏み入れた先に、ほとんどぐちゃぐちゃ遊んでいればいいと言っているような、そんなもので認めてもらえる世界があると言われると、それは心が動くというものです。 でも言っておきます。目を閉じた時に頭の中に吹く爽やかなメントールはミントのような健康的なものではなく、繰り返していくうちに頭を壊して歯を溶かしてしまうトルエンです。 幼児性は子供の頭の中で積み上げていかなければならない建設的な思考を阻害します。 例えば絵を描く時、幼児性と制作が強くフィックスした場合、絵はぐちゃぐちゃになります。 そのぐちゃぐちゃを続けている間は上手に絵を描くことはできなくなってしまうのです。 先生細菌「自由にのびのび」を先生が撒き散らす時は、神のような面持ちで神のような声のトーン。 又は菩薩のような笑みで菩薩のような声のトーンで先生細菌「自由にのびのび」を撒き散らします。 親御さんとお子さんは先生のサッとかっこよく、こ慣れた手つきで巻き散らかす先生細菌を全身で浴びます。 そのようなことが美術教育の現場では日々行われているのです。
公募団体○展では審査の前に審査員である会員にお金を渡して社会的に問題になったことがあります。 つまり先生細菌に完全に汚染されて仕上がっている人からすると審査員は神であり、神にお布施を渡すのは当然の行為なのです。 でもしらふの私からすればただの病気です。渡す方も貰う方も病気以外の何物でもありませんし鳥肌が立ちます。はっきり言って大嫌いです。 美術の世界では審査員にお金を渡す愚かなこの光景は昔からよく見るし耳に入ることです。公募団体と歩けば金銭の授受とあたる。 皆さんにはよく考えて頂きたいのです。 お金を払って評価されるようなことをしていても、お金をもらって評価される作品は作れませんよね? 趣味で愚かな審査員にお金を渡して実力ではなく愚かな見栄のために入選させてもらって少し楽しめるならそれで構いません。 でも、それで食べていくとなるとお金を渡すような愚かな考えは一切捨てて大丈夫です。 後、細菌に汚染されているのではなく、審査員の皆さんの生活が大変なことを知っていて、支援のためにお礼を渡すのは社会的にはダメですが、私はいいのかもしれないと思います。 (実際は多分殆どがそうです。でもどう考えているかは人それぞれです。)
お布施を渡すことは今すぐやめて大丈夫です。 つまり、美術とデザインの世界で腐っているのはほんの一部で、実は殆どの人が美術とデザインの世界は真正面から仕事と向かい合って全身全霊をかけて「努力」して初めて食べています。 この世界のことがわからず慣習に従ってお布施を渡してしまう。 そのような美術とデザインの世界は偉い先生の撒き散らす先生細菌によって汚染されています。 なかなか細菌は無くならないと思いますが心ある人が麻薬に手を出さないようにすることと同じように手を出さない勇気を持って一人ずつやめていくことが大切です。 本当に美術のことを思うなら先生に対して「私は払いません」と言う勇気を持ちましょう。それで落選させられるのならそれでいいじゃありませんか・・。
先生細菌「自由にのびのび」は親御さんとお子さんが家に持ち帰って家で繁殖します。 お子さんが美術の道に進まなかったとしても死滅することはありません。 はしかのように頭の隅に巣喰い続けます。 美術系の学校に行かなくても、はしかの帯状疱疹のように大人になってから先生細菌「自由にのびのび」が出現することもあります。 つまり先生細菌「自由にのびのび」はただ遊べばいいだけといっていることなので、持ち帰った先で美術を嫌いになる=死滅する要素がないのです。 死滅させないための「自由」であり「のびのび」なのです。細菌としては最強の生命力を誇る「細菌兵器自由にのびのび」は死滅することなく勢力を拡大し、今まさに美術とデザインの世界を食い殺そうとしています。