日本の美術教育の問題
日本の美術教育には様々な問題があります。
美術教育とは日本で日本人に学校を通じて美術やアートに触れる切っ掛けを与え、美を教えるものです。 彼らはこれを「美育」と称します。
美とは絵画では網膜的な作品に見られる色と形の美しさを言います。 美術教育では網膜的な美を教育していません。 現在の美術教育の元が出来た時の考え方の中には網膜的な美の教育の必要性というよりも、今の言い方をすれば脳神経的な側面から美術やアートを考える必要性を強く考えはじめ、網膜的な絵画に懐疑的になり、否定し始めている時代でした。
この時代の成果は子供らしい絵の在り方から美育の仕方を考え指導に落とし込めたことでした。
しかし、それから年月が経ち、現代では、デザイン、絵画、彫刻、工芸の世界では依然として網膜的な美を元にして平然と機能しています。 つまりアートの高度な手仕事の側面を工芸から否定することで端を発した脳神経的なアートの流れは現代美術の世界の中では正しく機能していても、世の中の大部分の美の価値観は、工芸的な価値を否定することなく、網膜的な美を求め、平然とそのまま何も変わらない状態であり続けたのです。 美術教育が美と乖離することによってデザイン、絵画、彫刻、工芸の世界を目指す学生に網膜的な美を指導できる機能は学校には完全になくなりました。 つまり、美の指導において芸大美大の難関校の実技試験のレベルには学校は手も足も出ません。 受験を前に美術教育の指導者の多くは美の指導においては全くの素人です。 日本で網膜的な美を指導できるのは美術予備校において他なりません。 芸大美大には依然としてデザイン、絵画、彫刻、工芸の世界が網膜的な美然と存在します。 この存在を否定することはもはや誰にも出来ない。
又、美術教育が美と乖離することによって美術の外の世界の一般の方達は網膜的な美を学び、描けるようになる機会を失い続けています。 そのような明らかな誤りは美術予備校の立場からはありありと見え、又言いやすい立場でもあるのです。
美術教育では網膜的な美を教育していません。
それによって日本人は絵画と関わる基本中の基本となる鑑賞において、網膜的な絵画の鑑賞の仕方がわからず、知る機会を持てず、鑑賞することができないため結果的に鑑賞しなくなる。 同時に鑑賞においては自らの作品を描いて、部屋に飾るということから絵を鑑賞するという素晴らしさの気づきとなり、絵画を見る心を育むことができるが、絵画の基本中の基本とも言える制作において、形の取り方も教えず、見えるものに合わせた色の作り方も教えず、初歩的な技芸である立体感の出し方も教えないので絵が描けず、自宅でのびのびと楽しみながら描くことができない。 よって日本人は日常で描くことを楽しみ、部屋で鑑賞するために絵を飾ることを一切しない。
仮にそのような自然なことが日常になれば、日本人の中に絵画の知識が膨らみ、描く力と鑑賞する力が育まれ、やがて美術館に足を運び、画廊に足を運び、絵画を購入して部屋に飾ることが当たり前となるだろう。 つまり、現在の日本の美術教育の最大の問題は、美術教育の最大の使命と言える日本人の美の知識を教え、能力を引き出すことができていないことと言える。 それによる実害は大きく、美術に関わりのない一般の人は美によって日常が豊かになる恩恵を受けられない。 美術の世界の人は作品を見てもらえず、売れない。
日本では網膜的な絵画は芸大美大受験をする受験生が美術予備校に通って初めて学ぶ機会を得る。 網膜的な絵画の基礎について高度な教育の実践が行われているのは美術予備校の他ない。 芸大美大の難関校では網膜的な絵画の基礎は美術予備校で終了しているべきとして一切やらない。 難関校ではない芸大美大では網膜的な絵画の基礎を学ぶ課題を行うが、それほど高度なものにまで高める意欲、制作時間は割かない。 よって網膜的な絵画の基礎から高度な技芸までに高める教育が実践されているのは日本では美術予備校の他にはないのである。 本来これは学校の美術教育によって実践されるべきことだと考える。 ほんの20年前であれば、難解な網膜的な絵画の指導を学校で行うことは現実的に考えられなかったが、現在の美術教育は20年前からはるかに進歩し誰にでもわかりやすく簡単に学べ、高度な技芸までに高められる所までに来ている。 これを機会に美術教育は抜本的に見直すべきだと私は考える。 もし、美術教育の抜本的な見直しがなされたら、美術教育というアートの入り口で難解という理由で拒絶され距離を取られている日本のアートは一変するだろう。
因みに芸大美大受験産業は今斜陽にあり、受験者数は急速に減少している。 つまり。 日本で網膜的な絵画を学べる教育機関が減少しており、日本人が日本で学べる機会が極端に減り続けている。 これを補完することは芸大美大および学校が担うべきだ。これについては別の機会に書きたいと思う。
仮に学校の美術教育によって網膜的な絵画の基礎から高度な教育の実践が可能になったら、美術教育が次に行わなければならないのは、脳神経的な作品についての知識を教育することである。 美術の世界はこの脳神経的な作品を制作するアーティストの頭脳によって様々な展開を見せてきた。 日本人は脳神経的な作品について学ぶ機会がない。 これは日本人がアートによって豊かな知識を得て、能力を育む機会を逃していると言って良い。 日本人は脳神経的な作品を鑑賞する際に、先入観として美術教育で学んだ「自由にのびのび」鑑賞する見方、考え方を引き出し鑑賞と理解を試みようとするが、脳神経的な作品を見る時の作法はあらかじめコードとモードを理解し、時代的な背景、文化的な背景を理解した上で作品のコンセプトを紐解かなければならない。 そう言った矛盾が多くの日本人に「不可解」な思いをさせて不快な印象を抱かせてしまう。 美術教育の内部の人間がどのような論理で指導の内容を決めようとも、今の美術教育が実践している内容は、常識的に考えて、美術の基礎である網膜的な作品の見方と脳神経的な作品の見方とは逸脱し誤っていることは美術教育の外の人間から見て明らかだ。 つまり、美術とは美であり、アートの一部である。 美である網膜的な面とアートの脳神経的な面と逸脱している美術教育は美でもアートでもない。 実際に問題が露わになるのは網膜的な面が必須の芸大美大受験で美術教育で学んだことが一切通用しないことだ。 脳神経的な面は日本人が現代美術に触れた時に見方が全くわからず学校教育を受けたにも関わらず権威のある美術館や評論家からは自習してから見に来いという声が上がってしまう始末。 美術教育が学校教育の実権を握り剛腕が届く世界を支配できてる間はそのような態度が通用しても、日本人にとっての美術教育の今のあり方は現状に対してあまりにも盲目的で独りよがりに見える。 美術やアートの世界の人間は見る力がとても大切だと考えるがこの現状が見えていないのであれば美術教育の外の人間の危機感がどれほどのものかわかりやすく伝えていかなければならない。 と言っても、あまりにもわかりやすいこの問題に気付いていないわけはないわけで、問題は例えば既得権益を得ている美術教育の内部の人間が自分の利益を守るためにテコでも動かない。 と言ったことだとの推測が成り立つので、原因を突き止めて美術教育の外から積極的に働きかけていくしかないのだと考える。 美術教育の外の人間の懸念は大きい、そのため今足りないのはしっくりとくる論理とシナリオがないことで、行動に移す前にぼんやりとしているだけ。 そのため論理とシナリオを作れば懸念を抱いている人は積極的にスッと動けると考える。 美術教育の誤りが日本で常識となれば既得権益を得ている人間たちは自分たちの利益を守りながら、自分たちの利益を守るために必ず変わる。
教育とは知識を教え、能力を引き出すこと。
美術教育の問題とは、美術教育以外の美術の世界から見ると何の知識も教えておらず、何の能力も引き出してはいない。
例えば、絵画技法においては、基礎中の基礎と言える。形の取り方、立体感の出し方、構図の取り方、色の作り方など何一つ教えていない、そしてこれらのどれ一つとして能力は引き出してはいない。
例えば現代美術においては、作品の鑑賞の仕方、作品の解釈の仕方、アートの歴史、コード、モードなど何一つ教えていない。そして絵画技法同様に何の能力も引き出してはいない。
美術教育とは日本で日本人に学校を通じて美術やアートに触れる切っ掛けを与え、美を教えるものです。 彼らはこれを「美育」と称します。
美とは絵画では網膜的な作品に見られる色と形の美しさを言います。 美術教育では網膜的な美を教育していません。 現在の美術教育の元が出来た時の考え方の中には網膜的な美の教育の必要性というよりも、今の言い方をすれば脳神経的な側面から美術やアートを考える必要性を強く考えはじめ、網膜的な絵画に懐疑的になり、否定し始めている時代でした。
この時代の成果は子供らしい絵の在り方から美育の仕方を考え指導に落とし込めたことでした。
しかし、それから年月が経ち、現代では、デザイン、絵画、彫刻、工芸の世界では依然として網膜的な美を元にして平然と機能しています。 つまりアートの高度な手仕事の側面を工芸から否定することで端を発した脳神経的なアートの流れは現代美術の世界の中では正しく機能していても、世の中の大部分の美の価値観は、工芸的な価値を否定することなく、網膜的な美を求め、平然とそのまま何も変わらない状態であり続けたのです。 美術教育が美と乖離することによってデザイン、絵画、彫刻、工芸の世界を目指す学生に網膜的な美を指導できる機能は学校には完全になくなりました。 つまり、美の指導において芸大美大の難関校の実技試験のレベルには学校は手も足も出ません。 受験を前に美術教育の指導者の多くは美の指導においては全くの素人です。 日本で網膜的な美を指導できるのは美術予備校において他なりません。 芸大美大には依然としてデザイン、絵画、彫刻、工芸の世界が網膜的な美然と存在します。 この存在を否定することはもはや誰にも出来ない。
又、美術教育が美と乖離することによって美術の外の世界の一般の方達は網膜的な美を学び、描けるようになる機会を失い続けています。 そのような明らかな誤りは美術予備校の立場からはありありと見え、又言いやすい立場でもあるのです。
美術教育では網膜的な美を教育していません。
それによって日本人は絵画と関わる基本中の基本となる鑑賞において、網膜的な絵画の鑑賞の仕方がわからず、知る機会を持てず、鑑賞することができないため結果的に鑑賞しなくなる。 同時に鑑賞においては自らの作品を描いて、部屋に飾るということから絵を鑑賞するという素晴らしさの気づきとなり、絵画を見る心を育むことができるが、絵画の基本中の基本とも言える制作において、形の取り方も教えず、見えるものに合わせた色の作り方も教えず、初歩的な技芸である立体感の出し方も教えないので絵が描けず、自宅でのびのびと楽しみながら描くことができない。 よって日本人は日常で描くことを楽しみ、部屋で鑑賞するために絵を飾ることを一切しない。
仮にそのような自然なことが日常になれば、日本人の中に絵画の知識が膨らみ、描く力と鑑賞する力が育まれ、やがて美術館に足を運び、画廊に足を運び、絵画を購入して部屋に飾ることが当たり前となるだろう。 つまり、現在の日本の美術教育の最大の問題は、美術教育の最大の使命と言える日本人の美の知識を教え、能力を引き出すことができていないことと言える。 それによる実害は大きく、美術に関わりのない一般の人は美によって日常が豊かになる恩恵を受けられない。 美術の世界の人は作品を見てもらえず、売れない。
日本では網膜的な絵画は芸大美大受験をする受験生が美術予備校に通って初めて学ぶ機会を得る。 網膜的な絵画の基礎について高度な教育の実践が行われているのは美術予備校の他ない。 芸大美大の難関校では網膜的な絵画の基礎は美術予備校で終了しているべきとして一切やらない。 難関校ではない芸大美大では網膜的な絵画の基礎を学ぶ課題を行うが、それほど高度なものにまで高める意欲、制作時間は割かない。 よって網膜的な絵画の基礎から高度な技芸までに高める教育が実践されているのは日本では美術予備校の他にはないのである。 本来これは学校の美術教育によって実践されるべきことだと考える。 ほんの20年前であれば、難解な網膜的な絵画の指導を学校で行うことは現実的に考えられなかったが、現在の美術教育は20年前からはるかに進歩し誰にでもわかりやすく簡単に学べ、高度な技芸までに高められる所までに来ている。 これを機会に美術教育は抜本的に見直すべきだと私は考える。 もし、美術教育の抜本的な見直しがなされたら、美術教育というアートの入り口で難解という理由で拒絶され距離を取られている日本のアートは一変するだろう。
因みに芸大美大受験産業は今斜陽にあり、受験者数は急速に減少している。 つまり。 日本で網膜的な絵画を学べる教育機関が減少しており、日本人が日本で学べる機会が極端に減り続けている。 これを補完することは芸大美大および学校が担うべきだ。これについては別の機会に書きたいと思う。
仮に学校の美術教育によって網膜的な絵画の基礎から高度な教育の実践が可能になったら、美術教育が次に行わなければならないのは、脳神経的な作品についての知識を教育することである。 美術の世界はこの脳神経的な作品を制作するアーティストの頭脳によって様々な展開を見せてきた。 日本人は脳神経的な作品について学ぶ機会がない。 これは日本人がアートによって豊かな知識を得て、能力を育む機会を逃していると言って良い。 日本人は脳神経的な作品を鑑賞する際に、先入観として美術教育で学んだ「自由にのびのび」鑑賞する見方、考え方を引き出し鑑賞と理解を試みようとするが、脳神経的な作品を見る時の作法はあらかじめコードとモードを理解し、時代的な背景、文化的な背景を理解した上で作品のコンセプトを紐解かなければならない。 そう言った矛盾が多くの日本人に「不可解」な思いをさせて不快な印象を抱かせてしまう。 美術教育の内部の人間がどのような論理で指導の内容を決めようとも、今の美術教育が実践している内容は、常識的に考えて、美術の基礎である網膜的な作品の見方と脳神経的な作品の見方とは逸脱し誤っていることは美術教育の外の人間から見て明らかだ。 つまり、美術とは美であり、アートの一部である。 美である網膜的な面とアートの脳神経的な面と逸脱している美術教育は美でもアートでもない。 実際に問題が露わになるのは網膜的な面が必須の芸大美大受験で美術教育で学んだことが一切通用しないことだ。 脳神経的な面は日本人が現代美術に触れた時に見方が全くわからず学校教育を受けたにも関わらず権威のある美術館や評論家からは自習してから見に来いという声が上がってしまう始末。 美術教育が学校教育の実権を握り剛腕が届く世界を支配できてる間はそのような態度が通用しても、日本人にとっての美術教育の今のあり方は現状に対してあまりにも盲目的で独りよがりに見える。 美術やアートの世界の人間は見る力がとても大切だと考えるがこの現状が見えていないのであれば美術教育の外の人間の危機感がどれほどのものかわかりやすく伝えていかなければならない。 と言っても、あまりにもわかりやすいこの問題に気付いていないわけはないわけで、問題は例えば既得権益を得ている美術教育の内部の人間が自分の利益を守るためにテコでも動かない。 と言ったことだとの推測が成り立つので、原因を突き止めて美術教育の外から積極的に働きかけていくしかないのだと考える。 美術教育の外の人間の懸念は大きい、そのため今足りないのはしっくりとくる論理とシナリオがないことで、行動に移す前にぼんやりとしているだけ。 そのため論理とシナリオを作れば懸念を抱いている人は積極的にスッと動けると考える。 美術教育の誤りが日本で常識となれば既得権益を得ている人間たちは自分たちの利益を守りながら、自分たちの利益を守るために必ず変わる。
教育とは知識を教え、能力を引き出すこと。
美術教育の問題とは、美術教育以外の美術の世界から見ると何の知識も教えておらず、何の能力も引き出してはいない。
例えば、絵画技法においては、基礎中の基礎と言える。形の取り方、立体感の出し方、構図の取り方、色の作り方など何一つ教えていない、そしてこれらのどれ一つとして能力は引き出してはいない。
例えば現代美術においては、作品の鑑賞の仕方、作品の解釈の仕方、アートの歴史、コード、モードなど何一つ教えていない。そして絵画技法同様に何の能力も引き出してはいない。