モラトリアムハザード
私はネグレクトの家庭で育ちました。
私のようなネグレクトの家庭に育った人間が「まとも」とは言わないまでもある程度読み書きや考えることができるようになっているのは学校の御陰です。
私は家庭でろくな教育を受けることができませんでした。会話すらありませんでしたので・・。
家では憂鬱で動きもせず、喋りもせず、植物のような感じです。絨毯よりも厚く積もった埃まみれの部屋で私は植物のように育ちました。
植物のような私がいっぱしの口を聞けるようになったのは学校で話せるように、人間らしく動けるように教育してもらったからです。
私をただの植物にしなかったのは学校の義務教育です。
義務教育がなければ私のような人間は本当に存在価値のないクズ。
それが少しはマシになれたことは、私の人生にとって化学変化です。
私の自分の世界の中では学校は革命を起こすことができる。 私は学校をそう認識しています。 そのような学校は今の私の眼から見てさらに変われるのではないか?とも変わらなければ・・とも思います。 穿った物の見方からくる過剰な期待かもしれませんが、微かな隙間からその可能性を見ています。 私の心の奥底はネグレクトの家庭に育ったあの時となんら変わっていません。残念ながら本質は変われないんですね・・。 体は動いていなくても、深い深層心理の中で心は活発に動いています。 世の中には困っている人が大勢います。 皆んなが今の状況からうまく抜け出せるように。変われることを知らない人が大勢います。 彼らを見て昔の私を見ているようで私はじっとしていることができないのです。 期待ができる以上、私を変えた学校にはもっと良くなってもらわなければ困ります。
私はネグレクトの家庭で育ちました。なので、私の家庭はよくも悪くも「モラトリアム」です。 こもろうと思えば何十年でもこもることができる。 そのような特性のある家庭です。 なので芸術家を目指す家庭としては向いていたのかもしれません。 なので私は24時間考え続けます。 寝ている時も起きている時も考えることを止めることができません。 そのような生き方は社会で推奨されるような生き方ではないと思います。 あの東京藝術大学でさえも。 はっきり言って私は浮いていたかな〜。 絵を描くこと一筋すぎて周りは迷惑だったんじゃないかな・・特に先生は・・。
私のモラトリアムの中にはロックンロールのスピリッツがあります。 つまり小さいことの全てを糞食らえだって思う感覚です。
体をじっと動かさずに・・でも、頭の中では徹底的にどうすればいいか考え続けています。 くだらない考えの全てを排除しながら。
私の場合は家族がいない。 一人だからひたすら美術のことを考えることができました。 今でもその状況は変わりません。 父親も母親も両方とも生活が破綻している人間です。 なんの役にも立ちませんが、全く邪魔されないのが何よりの恵です。 なんの因果か私のような人間には神様は子供を授けてはくれません。 当然ですよね、素敵な子供が私のような人間の所にやってくるわけはありません。 そんなような糞みたいな人間なのでロックロールの精神で美術と向かい合うことができるのです。 さて、「自由にのびのび」とか「モラトリアム」と言った言葉は私のようなクズが徹底できる言葉です。
普通の幸せなご家庭の皆さんにとって「自由にのびのび」「モラトリアム」は大事故を起こす元凶になりかねません。 事実、「モラトリアム」=執行猶予は完全な答えを導き出す前にやめてしまっては全く効果のないことなのです。 中途半端な「モラトリアム」のために多くの大学生が事故を起こしています。 それが覚悟の上だとしても、私はそれはかつて戦時中に特攻服を着て戦闘機に乗って敵艦に突撃していった「特攻隊」のイメージと重ねます。 つまり、かっこいいかもしれませんが、私たちはそこでかっこよく死ねないのです。 私たちの場合は生きているので惨めに人生を続けなければなりません。 多くの東京藝術大学の学生にはその惨めな人生は見えていません。 なので私は私自身の惨めな姿を詳細に晒すべきだと考えますし、布石は打てるので打つべくてんいくを計画しているのです。 てんいくが私のロックンロールです。
美術の世界には「自由にのびのび」という素敵な言葉があります。
芸大生向けに言い直すと「モラトリアム」です。2つとも美術に限らず生きていく上でとても役立つ言葉だと思います。
ただこの2つの言葉の本当の意味に気づき、具体的にどのように役立つか理解し、実際に役立たせるまでに至るのは、事前にかなり大変な人生経験をしておくことが必要です。 つまり、この2つの言葉はかなり強靭な精神力を持って物事に取り組むことで始めて効力を発揮するものだと私は考えます。 なのでまず、社会に対して真剣に向かい合う姿勢が必要ですし、その前にそのような境地に想い至る経験をしておくことが必要だと思います。 まず、経験は捏造できませんし、美術とデザインが表現である以上、伝えなければならないような物事に触れていなければ伝えるべき内容がないわけです。 私が見る限り、ほとんどの芸大生と子供達は課題の前に伝えるべき物事がなくて呆然としています。 「自由にのびのび」「モラトリアム」は呆然とする時間を過ごすという苦痛を味あわせるためのものではなくて、伝えなければならない物事を形にするための素敵な時間であり、学生には社会に出る前の猶予期間に「自由」「のびのび」できる時間と空間を大人が用意してあげることです。 つまり、この2つの言葉を役に立たせるには子供や学生のモチベーションが必要で、これは如何に素晴らしいカリキュラムやシラバスを作っても、それを受ける子供や学生に相応の「想い」がなければ空振りに終わるものです。
私の自分の世界の中では学校は革命を起こすことができる。 私は学校をそう認識しています。 そのような学校は今の私の眼から見てさらに変われるのではないか?とも変わらなければ・・とも思います。 穿った物の見方からくる過剰な期待かもしれませんが、微かな隙間からその可能性を見ています。 私の心の奥底はネグレクトの家庭に育ったあの時となんら変わっていません。残念ながら本質は変われないんですね・・。 体は動いていなくても、深い深層心理の中で心は活発に動いています。 世の中には困っている人が大勢います。 皆んなが今の状況からうまく抜け出せるように。変われることを知らない人が大勢います。 彼らを見て昔の私を見ているようで私はじっとしていることができないのです。 期待ができる以上、私を変えた学校にはもっと良くなってもらわなければ困ります。
私はネグレクトの家庭で育ちました。なので、私の家庭はよくも悪くも「モラトリアム」です。 こもろうと思えば何十年でもこもることができる。 そのような特性のある家庭です。 なので芸術家を目指す家庭としては向いていたのかもしれません。 なので私は24時間考え続けます。 寝ている時も起きている時も考えることを止めることができません。 そのような生き方は社会で推奨されるような生き方ではないと思います。 あの東京藝術大学でさえも。 はっきり言って私は浮いていたかな〜。 絵を描くこと一筋すぎて周りは迷惑だったんじゃないかな・・特に先生は・・。
私のモラトリアムの中にはロックンロールのスピリッツがあります。 つまり小さいことの全てを糞食らえだって思う感覚です。
体をじっと動かさずに・・でも、頭の中では徹底的にどうすればいいか考え続けています。 くだらない考えの全てを排除しながら。
私の場合は家族がいない。 一人だからひたすら美術のことを考えることができました。 今でもその状況は変わりません。 父親も母親も両方とも生活が破綻している人間です。 なんの役にも立ちませんが、全く邪魔されないのが何よりの恵です。 なんの因果か私のような人間には神様は子供を授けてはくれません。 当然ですよね、素敵な子供が私のような人間の所にやってくるわけはありません。 そんなような糞みたいな人間なのでロックロールの精神で美術と向かい合うことができるのです。 さて、「自由にのびのび」とか「モラトリアム」と言った言葉は私のようなクズが徹底できる言葉です。
普通の幸せなご家庭の皆さんにとって「自由にのびのび」「モラトリアム」は大事故を起こす元凶になりかねません。 事実、「モラトリアム」=執行猶予は完全な答えを導き出す前にやめてしまっては全く効果のないことなのです。 中途半端な「モラトリアム」のために多くの大学生が事故を起こしています。 それが覚悟の上だとしても、私はそれはかつて戦時中に特攻服を着て戦闘機に乗って敵艦に突撃していった「特攻隊」のイメージと重ねます。 つまり、かっこいいかもしれませんが、私たちはそこでかっこよく死ねないのです。 私たちの場合は生きているので惨めに人生を続けなければなりません。 多くの東京藝術大学の学生にはその惨めな人生は見えていません。 なので私は私自身の惨めな姿を詳細に晒すべきだと考えますし、布石は打てるので打つべくてんいくを計画しているのです。 てんいくが私のロックンロールです。
美術の世界には「自由にのびのび」という素敵な言葉があります。
芸大生向けに言い直すと「モラトリアム」です。2つとも美術に限らず生きていく上でとても役立つ言葉だと思います。
ただこの2つの言葉の本当の意味に気づき、具体的にどのように役立つか理解し、実際に役立たせるまでに至るのは、事前にかなり大変な人生経験をしておくことが必要です。 つまり、この2つの言葉はかなり強靭な精神力を持って物事に取り組むことで始めて効力を発揮するものだと私は考えます。 なのでまず、社会に対して真剣に向かい合う姿勢が必要ですし、その前にそのような境地に想い至る経験をしておくことが必要だと思います。 まず、経験は捏造できませんし、美術とデザインが表現である以上、伝えなければならないような物事に触れていなければ伝えるべき内容がないわけです。 私が見る限り、ほとんどの芸大生と子供達は課題の前に伝えるべき物事がなくて呆然としています。 「自由にのびのび」「モラトリアム」は呆然とする時間を過ごすという苦痛を味あわせるためのものではなくて、伝えなければならない物事を形にするための素敵な時間であり、学生には社会に出る前の猶予期間に「自由」「のびのび」できる時間と空間を大人が用意してあげることです。 つまり、この2つの言葉を役に立たせるには子供や学生のモチベーションが必要で、これは如何に素晴らしいカリキュラムやシラバスを作っても、それを受ける子供や学生に相応の「想い」がなければ空振りに終わるものです。