美術の脱教育資源のすすめ
今のアーティストが収入を得て経済活動を続けていけるのは市場があるからと言いたい所ですが残念ながらそうではありません。
皆さんご承知の通り多くのアーティストの経済活動の源は講師、教師のいわゆる先生の職に他なりません。
アーティストが健全な経済活動を営むためには、作品を制作してその収益だけで生活を続けていけなければなりません。
実際にはそれが不可能だから先生として利益を上げられるように計画的に努力しています。
問題の発端は先生として利益が上がるようにする「努力」の所にあります。
問題とは何か?
まずは問題を取り巻く背景からお話します。
美術の世界は2つに割れています。
簡単に言えば売れっ子作家を目指すファインアートと美術の問題と向かい合うコンテンポラリーアートです。
やっかいなのは売れっ子作家を目指すのはほんの一握りで殆どの人がコンテンポラリーを目指す所です。
ここに問題の火種の多くがあります。
皆さんもうおわかりかとは思いますが多くのアーティストは作品で収入を得ることを考えていません。
売れっ子になることが難しいとか才能がないといったことではなく、売れっ子になることに興味がないのです。
作品で収入が得られないので教えることで収入を得ているのです。
今のように2つにバックリと割れたのは昭和の中頃です。
多くのアーティストが売れて有名になったり、お金を儲けたりすることより美術の問題に向かい合う道を選び始めます。
画壇で賞をとったり、偉くなったり、売れっ子になることがとてもダサいと考え始める時代になりました。そして画廊を目指すようになります。
未だにこのような姿勢が推奨されていることには変わりはありません。
売れっ子を目指す人が減ることは売れやすい絵を描く人が減るので画廊が販売する作品が枯渇することを意味します。
昭和の後期にかけて画廊からは売れやすい絵が消えていきました。
このことは売れっ子作家が減ることだけでなく、優秀な人材がコンテンポラリーアートに吸い上げられることを意味します。
コンテンポラリーを目指す作家が増えるとともに若いアーティストから有名になることへの興味は消えていきました。
コンテンポラリーの台頭はアーティストの経済活動の在り方を変えていきました。
よく言われているのは寄付、協賛、助成金を集める活動です。
でも今回問題に上げたい所は別にあります。
これまで問題視されたことのない経済活動です。
それは最初にお話した先生の職。
美術教育という資源です。
私はこれをあくまで天才育成計画の中だけですが「教育資源」と言わせて頂きます。
先生の職は現在でもどんどん増え続けています。
教育資源はまだまだ大きくなり続けているのです。
でもこれがすでに大きな歪を生んでいると私は考えています。
なのでまたの機会に警笛を鳴らします。
目指すは「脱教育資源」です。
寄付、協賛、助成金などの市場規模を表したとしても大した金額にはなりません。
そんなものよりも先生職の市場規模の方がはるかに大きいです。
美術は教育産業が一番人の興味関心を集め、人を集め、大きな経済活動に発展しているのです。
関わっているアーティストの数を考えてください。
美術作品が売買される市場とは比べものにならない数のアーティストが関わっています。
後は一人の日本人が学校に支払う金額を考えて下さい。
一人100万円以上の大金をどれだけの人数の人が使いますか?
美術作品が売買されている市場の人数とはけた違いの人の集まりです。
それだけ意味を認められている世界です。
多くのアーティストは先生になるために先生の職についていません。
アーティストをするために先生をしています。
なので美術はこれだけ大きな教育資源を持ちながらも美術が教育そのものを研究の対象として見ることを誰もしてきませんでした。
今あえて「美術が」と称したのは「美術教育」と区別するためです。
美術教育の先生たちは教育系の大学で美術教育を学んだ先生たちです。
美術教育の先生たちは美術教育の研究を行います。
但し、美術教育の先生は実は専門的な美術についてはあまり関心がありません。
例えば東京芸術大学の実技試験に対応できるような高度な技芸の指導だったり、子供たちに絵をのびのび描く指導はできても、上手に水彩絵の具を使ったり、人物を描いたりすることができません。
高度な技芸や上手に描く方法を知っているのは東京芸術大学や多摩美術大学や武蔵野美術大学を出ている先生たちです。
上手に描く方法を知っている先生たちはアーティストであることが多く、アーティストが第1。先生が第2なので、先生としての研究をしていません。
この構図や先生の意識が大きな歪を生んでいる原因です。
歪とは美術教育と美術の乖離です。
このような状況なので高校の美術科や美術部から東京芸術大学に現役合格する高校生が出てきません。
話を教育資源に戻します。
アーティストが教育を資源にするようになる状況を見越した昭和の頃の先人は、先生が増え、美術に興味のある子供が増えるように保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学のシラバスを作りました。
美術教育の実践と同時に美術の世界の主な収入源が学校であることを見越してシラバスはよく計算されて作られています。
時は流れ、現在になり、美術の教育資源は細ってきています。
学校から美術の授業が減っている。
授業が減っているのはなぜか?
世の中の美術に対する認識をリサーチしてみるとわかりやすいと思います。
単刀直入に言えば、美術の印象は残念ながら「怪しい」のです。
わかりやすく世の中の皆さんのイメージを言葉にすると
「意味不明」
だと思います。
美術が前に進むために素直に認めませんか?
私はこの怪しさの原因は教育を資源にしている所にあると考えています。
アーティストは学校を完全に生きていくための依り代にしています。
これを根本的に見直す時期に来ていると切実に思います。
皆さんご承知の通り多くのアーティストの経済活動の源は講師、教師のいわゆる先生の職に他なりません。
アーティストが健全な経済活動を営むためには、作品を制作してその収益だけで生活を続けていけなければなりません。
実際にはそれが不可能だから先生として利益を上げられるように計画的に努力しています。
問題の発端は先生として利益が上がるようにする「努力」の所にあります。
問題とは何か?
まずは問題を取り巻く背景からお話します。
美術の世界は2つに割れています。
簡単に言えば売れっ子作家を目指すファインアートと美術の問題と向かい合うコンテンポラリーアートです。
やっかいなのは売れっ子作家を目指すのはほんの一握りで殆どの人がコンテンポラリーを目指す所です。
ここに問題の火種の多くがあります。
皆さんもうおわかりかとは思いますが多くのアーティストは作品で収入を得ることを考えていません。
売れっ子になることが難しいとか才能がないといったことではなく、売れっ子になることに興味がないのです。
作品で収入が得られないので教えることで収入を得ているのです。
今のように2つにバックリと割れたのは昭和の中頃です。
多くのアーティストが売れて有名になったり、お金を儲けたりすることより美術の問題に向かい合う道を選び始めます。
画壇で賞をとったり、偉くなったり、売れっ子になることがとてもダサいと考え始める時代になりました。そして画廊を目指すようになります。
未だにこのような姿勢が推奨されていることには変わりはありません。
売れっ子を目指す人が減ることは売れやすい絵を描く人が減るので画廊が販売する作品が枯渇することを意味します。
昭和の後期にかけて画廊からは売れやすい絵が消えていきました。
このことは売れっ子作家が減ることだけでなく、優秀な人材がコンテンポラリーアートに吸い上げられることを意味します。
コンテンポラリーを目指す作家が増えるとともに若いアーティストから有名になることへの興味は消えていきました。
コンテンポラリーの台頭はアーティストの経済活動の在り方を変えていきました。
よく言われているのは寄付、協賛、助成金を集める活動です。
でも今回問題に上げたい所は別にあります。
これまで問題視されたことのない経済活動です。
それは最初にお話した先生の職。
美術教育という資源です。
私はこれをあくまで天才育成計画の中だけですが「教育資源」と言わせて頂きます。
先生の職は現在でもどんどん増え続けています。
教育資源はまだまだ大きくなり続けているのです。
でもこれがすでに大きな歪を生んでいると私は考えています。
なのでまたの機会に警笛を鳴らします。
目指すは「脱教育資源」です。
寄付、協賛、助成金などの市場規模を表したとしても大した金額にはなりません。
そんなものよりも先生職の市場規模の方がはるかに大きいです。
美術は教育産業が一番人の興味関心を集め、人を集め、大きな経済活動に発展しているのです。
関わっているアーティストの数を考えてください。
美術作品が売買される市場とは比べものにならない数のアーティストが関わっています。
後は一人の日本人が学校に支払う金額を考えて下さい。
一人100万円以上の大金をどれだけの人数の人が使いますか?
美術作品が売買されている市場の人数とはけた違いの人の集まりです。
それだけ意味を認められている世界です。
多くのアーティストは先生になるために先生の職についていません。
アーティストをするために先生をしています。
なので美術はこれだけ大きな教育資源を持ちながらも美術が教育そのものを研究の対象として見ることを誰もしてきませんでした。
今あえて「美術が」と称したのは「美術教育」と区別するためです。
美術教育の先生たちは教育系の大学で美術教育を学んだ先生たちです。
美術教育の先生たちは美術教育の研究を行います。
但し、美術教育の先生は実は専門的な美術についてはあまり関心がありません。
例えば東京芸術大学の実技試験に対応できるような高度な技芸の指導だったり、子供たちに絵をのびのび描く指導はできても、上手に水彩絵の具を使ったり、人物を描いたりすることができません。
高度な技芸や上手に描く方法を知っているのは東京芸術大学や多摩美術大学や武蔵野美術大学を出ている先生たちです。
上手に描く方法を知っている先生たちはアーティストであることが多く、アーティストが第1。先生が第2なので、先生としての研究をしていません。
この構図や先生の意識が大きな歪を生んでいる原因です。
歪とは美術教育と美術の乖離です。
このような状況なので高校の美術科や美術部から東京芸術大学に現役合格する高校生が出てきません。
話を教育資源に戻します。
アーティストが教育を資源にするようになる状況を見越した昭和の頃の先人は、先生が増え、美術に興味のある子供が増えるように保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学のシラバスを作りました。
美術教育の実践と同時に美術の世界の主な収入源が学校であることを見越してシラバスはよく計算されて作られています。
時は流れ、現在になり、美術の教育資源は細ってきています。
学校から美術の授業が減っている。
授業が減っているのはなぜか?
世の中の美術に対する認識をリサーチしてみるとわかりやすいと思います。
単刀直入に言えば、美術の印象は残念ながら「怪しい」のです。
わかりやすく世の中の皆さんのイメージを言葉にすると
「意味不明」
だと思います。
美術が前に進むために素直に認めませんか?
私はこの怪しさの原因は教育を資源にしている所にあると考えています。
アーティストは学校を完全に生きていくための依り代にしています。
これを根本的に見直す時期に来ていると切実に思います。