権力者蹂躙ハザード
私は天才の芽を潰したことがあります。
逆に天才の芽を潰されたこともあります。
1回や2回ではなく何回も。
多くの試練を乗り越えないと立派になれないという人もいるかもしれませんが、成長のための訓練のような試練であればそうかもしれませんが、そもそも芽を摘んでしまっては元も子もないわけです。 ですが、天才の芽を潰される代わりに、美術とデザインの世界で生き抜くための力を身につけることは確かにあります。技能ではなく、地位であったり、地位であったり、又、地位であったり。あ、出世だけですね。あいや、それほど大した地位でもない場合は、細々生き抜くためのただの保身ですね。
つまり、私は生徒をたかが細々生きていかせるために大きな天才の芽を潰しているのです。
ここで私がしたいのは何気なく、無駄だと思われているためにつまれている天才の芽を摘まれないようにすることです。最初に摘まれているそれが天才の芽であることを証明しなければなりませんね。年月がかかると思いますが、じっくりと説明して立証していきます。立証できれば誰もが気を配るので皆んなで成長を見守ることができると考えています。
私の関わってきた芸大美大受験の世界は、最初に蹂躙されることが受け入れられるかどうかが、最初の通過儀礼になります。
色んな場所で色んな瞬間に、切ないその事故は、制約によって、ときには常識などの正しいと決められていることに沿って、正しい行為を実行した結果起こります。この事故は日常とも言えるような当たり前の行いで、誰が悪いわけでもないようなことです。なのでそれだけ根の深い問題でもあると思います。
美術とデザインの現場で働く人間にとってはいちいち気にしていては仕事にならないほど些細なこと。
しかし、一瞬の刹那に起きるそのようなことは、実は美術に潰された本人にとっては大事故とも言える大きな問題でもあるのです。
一瞬に起きるその事故は、現場の人の裁量によって防げる場合があります。
現に、優しい人間の集まったこの美術とデザインの世界では、現場の人間の裁量によって交通整理のされていないこの状況下で起きる多くの事故を避けています。蟻んこを踏まずに歩くように。
今日、ここでお話ししたのは、あまりに瞬間すぎて問題として認識されていないこのことを言葉にして、皆さんに気づいていただくことと、多くの問題の中でも特に権力者が蹂躙して起きる事故のことを。蹂躙のお話をすることで美術とデザインで食べていく世界が「自由でのびのび」だという誤った認識を払拭するためです。
刹那的に起きる多くの問題は別のお話の機会に改めて網羅を目指して言葉にします。
私がしなければ、このようなことを問題にする人間が他にいないので、この問題はずっとなくならないのです。
今日は私がたくさん天才の芽を潰してきたことの中の一つをご紹介します。
私が幼稚園で図画工作の講座を開いた時のお話です。
人間は、動物的な感覚を持って生まれてきます。生まれ持った動物的な感覚は理性によって次第に忘れていきます。美術にはその動物的な感覚を呼び覚ます作業があります。制作するものにとっては呼び覚ますための作業。大人がこの作業をすることによって、心の奥底に溜まったストレスを解放することができます。「動物の眼になって絵を描く」このことを大人が実行できるようにすることがてんいくで具体的に計画していることの一つです。
「動物の眼になって絵を描くこと」は実は年中さんくらいまでの幼児は最初みんなできます。幼稚園の先生たちなら多分わかりますよね。
「動物の眼になって絵を描くこと」は天才的な画家を育てる第一歩です。今の世の中には私の知る限りこの感性を持っている画家はいません。
人間にはもともと攻撃的な感覚が備わっています。
攻撃的な感覚によって生き物を見れば捕獲したいと思い、殴ったり、噛みついたり、刺したりしたくなります。
後はおしっこをかけたくなったり。
小さい頃友達を噛んだり、友達におしっこをかけたりしてしまったことはありませんか?
生き物を捕獲したり、殺したりすることで、本能的な欲求は満たされます。
むげに生き物を殺してはならないことは当然です。
しかし、人間らしくありたいと思っても悲しいかな我々は元は理性のない動物なのです。
なので、小さい子には、昆虫採集や釣りをさせてあげるといいと思います。
後は、絵を描くことが昆虫採集の代わりになるのです。
幼児に画用紙を渡した時、動物的な本能が目覚めます。画用紙を蹂躙したくなり、画用紙を破ったり、絵の具を撒き散らしたり、筆についた絵の具をグリグリ紙に殴りつけたりしたくなります。
「動物の眼になって絵を描く」感覚が残っている幼児に画用紙と絵の具を渡して絵を描かせると、最初は理性でおとなしく絵を描こうとしますが、どこかでスイッチが入ります。筆に絵の具をつけて塗り始めて、それまでは冷静に作業をしていたのが、絵の具を紙にこする動作を繰り返すうちに眼が「動物の眼」に切り替わり、その場を蹂躙しようとぐちゃぐちゃにします。
天才を育てるためには、この蹂躙を思う存分やらせてあげる必要があります。でも、現状ではそれが不可能なのです。
なので、てんいくではそれができるように計画を立て実現に向けて実行しています。
動物の眼になって絵を描く画家を育てることは幼児の時からその眼を無くすことなく、大人になるまで動物の眼を引き出せる環境を作れば可能です。
そうすれば生まれ持った才能を潰すことなく、動物の眼を持つ天才を育成することができます。まず、私の目的はこの天才を市場や美術館や画廊や学校のために育てようとは全く思いません。
動物の眼を持った天才は誰でもなれるものだからです。
てんいくでは皆んなが天才になることを計画しています。
つまり、皆んなが動物の眼になって絵を描くことができたら市場価値はありません。出してもいいですけれどみんなにとって画廊や美術館に展示する価値はありません。素晴らしい絵画ですが誰でもできるものなので美術館が飾りたくなっても、自分で描いて自宅に飾れば済むのでそれでいいのだと思います。
現状では、私は多くの天才の芽を潰しています。
幼稚園の図画工作の講座で、動物の眼をして絵を描く天才がいました。
ある子は筆を持って画用紙に色を塗る作業を数回繰り返すと攻撃的な本能が呼び起こされてその場を蹂躙するために筆で画用紙を殴り続けます。
ある子は筆についた絵の具を振り回します。筆についた絵の具は汚してはならない天井や壁に飛び散ります。
ある子は水入れの水を床にまきます。その子にとって水入れの水はまくものです。
幼児にとって絵の具は攻撃の道具です。
水入れの水は筆を洗うものではなく撒き散らすものです。
私は幼児のこれらの行為の全てを阻止しました。
そうすると幼児たちは敗北感に襲われ恍惚とした表情が顔から消えます。
自由にのびのびで最高に面白かった図画工作が全くつまらないものになり嫌いになります。
美術とデザインは「自由でのびのび」制作することが大切です。
でも、必ず現場には制約と権力者がいます。
権力者によって自分と自分の作品は蹂躙されます。
私は動物の眼をした幼児が画用紙に殴り描きをして自由にのびのび、それこそ生まれ持った動物的な感覚を全面開放しているその子を抑止して蹂躙しました。
蹂躙した理由は、水彩絵の具でそのような激しい作業ができる教室ではないこと。親御さんと幼稚園は絵の描き方を教えて、幼児に覚えさせて欲しいという要望があることです。年中さんくらいで動物的な眼をしてぐちゃぐちゃやる子は、少し遅れている子です。親御さんの多くは心配して落ち着いて作業してくれることを望みます。実際は飽きるまでやらせてあげるといいのですが、事情があってそれが叶わないのだと思います。なので激しい作業を止めるしかありません。でもそれは美術とその子にとって天才の芽を潰した瞬間なのです。
逆に天才の芽を潰されたこともあります。
1回や2回ではなく何回も。
多くの試練を乗り越えないと立派になれないという人もいるかもしれませんが、成長のための訓練のような試練であればそうかもしれませんが、そもそも芽を摘んでしまっては元も子もないわけです。 ですが、天才の芽を潰される代わりに、美術とデザインの世界で生き抜くための力を身につけることは確かにあります。技能ではなく、地位であったり、地位であったり、又、地位であったり。あ、出世だけですね。あいや、それほど大した地位でもない場合は、細々生き抜くためのただの保身ですね。
つまり、私は生徒をたかが細々生きていかせるために大きな天才の芽を潰しているのです。
ここで私がしたいのは何気なく、無駄だと思われているためにつまれている天才の芽を摘まれないようにすることです。最初に摘まれているそれが天才の芽であることを証明しなければなりませんね。年月がかかると思いますが、じっくりと説明して立証していきます。立証できれば誰もが気を配るので皆んなで成長を見守ることができると考えています。
私の関わってきた芸大美大受験の世界は、最初に蹂躙されることが受け入れられるかどうかが、最初の通過儀礼になります。
色んな場所で色んな瞬間に、切ないその事故は、制約によって、ときには常識などの正しいと決められていることに沿って、正しい行為を実行した結果起こります。この事故は日常とも言えるような当たり前の行いで、誰が悪いわけでもないようなことです。なのでそれだけ根の深い問題でもあると思います。
美術とデザインの現場で働く人間にとってはいちいち気にしていては仕事にならないほど些細なこと。
しかし、一瞬の刹那に起きるそのようなことは、実は美術に潰された本人にとっては大事故とも言える大きな問題でもあるのです。
一瞬に起きるその事故は、現場の人の裁量によって防げる場合があります。
現に、優しい人間の集まったこの美術とデザインの世界では、現場の人間の裁量によって交通整理のされていないこの状況下で起きる多くの事故を避けています。蟻んこを踏まずに歩くように。
今日、ここでお話ししたのは、あまりに瞬間すぎて問題として認識されていないこのことを言葉にして、皆さんに気づいていただくことと、多くの問題の中でも特に権力者が蹂躙して起きる事故のことを。蹂躙のお話をすることで美術とデザインで食べていく世界が「自由でのびのび」だという誤った認識を払拭するためです。
刹那的に起きる多くの問題は別のお話の機会に改めて網羅を目指して言葉にします。
私がしなければ、このようなことを問題にする人間が他にいないので、この問題はずっとなくならないのです。
今日は私がたくさん天才の芽を潰してきたことの中の一つをご紹介します。
私が幼稚園で図画工作の講座を開いた時のお話です。
人間は、動物的な感覚を持って生まれてきます。生まれ持った動物的な感覚は理性によって次第に忘れていきます。美術にはその動物的な感覚を呼び覚ます作業があります。制作するものにとっては呼び覚ますための作業。大人がこの作業をすることによって、心の奥底に溜まったストレスを解放することができます。「動物の眼になって絵を描く」このことを大人が実行できるようにすることがてんいくで具体的に計画していることの一つです。
「動物の眼になって絵を描くこと」は実は年中さんくらいまでの幼児は最初みんなできます。幼稚園の先生たちなら多分わかりますよね。
「動物の眼になって絵を描くこと」は天才的な画家を育てる第一歩です。今の世の中には私の知る限りこの感性を持っている画家はいません。
人間にはもともと攻撃的な感覚が備わっています。
攻撃的な感覚によって生き物を見れば捕獲したいと思い、殴ったり、噛みついたり、刺したりしたくなります。
後はおしっこをかけたくなったり。
小さい頃友達を噛んだり、友達におしっこをかけたりしてしまったことはありませんか?
生き物を捕獲したり、殺したりすることで、本能的な欲求は満たされます。
むげに生き物を殺してはならないことは当然です。
しかし、人間らしくありたいと思っても悲しいかな我々は元は理性のない動物なのです。
なので、小さい子には、昆虫採集や釣りをさせてあげるといいと思います。
後は、絵を描くことが昆虫採集の代わりになるのです。
幼児に画用紙を渡した時、動物的な本能が目覚めます。画用紙を蹂躙したくなり、画用紙を破ったり、絵の具を撒き散らしたり、筆についた絵の具をグリグリ紙に殴りつけたりしたくなります。
「動物の眼になって絵を描く」感覚が残っている幼児に画用紙と絵の具を渡して絵を描かせると、最初は理性でおとなしく絵を描こうとしますが、どこかでスイッチが入ります。筆に絵の具をつけて塗り始めて、それまでは冷静に作業をしていたのが、絵の具を紙にこする動作を繰り返すうちに眼が「動物の眼」に切り替わり、その場を蹂躙しようとぐちゃぐちゃにします。
天才を育てるためには、この蹂躙を思う存分やらせてあげる必要があります。でも、現状ではそれが不可能なのです。
なので、てんいくではそれができるように計画を立て実現に向けて実行しています。
動物の眼になって絵を描く画家を育てることは幼児の時からその眼を無くすことなく、大人になるまで動物の眼を引き出せる環境を作れば可能です。
そうすれば生まれ持った才能を潰すことなく、動物の眼を持つ天才を育成することができます。まず、私の目的はこの天才を市場や美術館や画廊や学校のために育てようとは全く思いません。
動物の眼を持った天才は誰でもなれるものだからです。
てんいくでは皆んなが天才になることを計画しています。
つまり、皆んなが動物の眼になって絵を描くことができたら市場価値はありません。出してもいいですけれどみんなにとって画廊や美術館に展示する価値はありません。素晴らしい絵画ですが誰でもできるものなので美術館が飾りたくなっても、自分で描いて自宅に飾れば済むのでそれでいいのだと思います。
現状では、私は多くの天才の芽を潰しています。
幼稚園の図画工作の講座で、動物の眼をして絵を描く天才がいました。
ある子は筆を持って画用紙に色を塗る作業を数回繰り返すと攻撃的な本能が呼び起こされてその場を蹂躙するために筆で画用紙を殴り続けます。
ある子は筆についた絵の具を振り回します。筆についた絵の具は汚してはならない天井や壁に飛び散ります。
ある子は水入れの水を床にまきます。その子にとって水入れの水はまくものです。
幼児にとって絵の具は攻撃の道具です。
水入れの水は筆を洗うものではなく撒き散らすものです。
私は幼児のこれらの行為の全てを阻止しました。
そうすると幼児たちは敗北感に襲われ恍惚とした表情が顔から消えます。
自由にのびのびで最高に面白かった図画工作が全くつまらないものになり嫌いになります。
美術とデザインは「自由でのびのび」制作することが大切です。
でも、必ず現場には制約と権力者がいます。
権力者によって自分と自分の作品は蹂躙されます。
私は動物の眼をした幼児が画用紙に殴り描きをして自由にのびのび、それこそ生まれ持った動物的な感覚を全面開放しているその子を抑止して蹂躙しました。
蹂躙した理由は、水彩絵の具でそのような激しい作業ができる教室ではないこと。親御さんと幼稚園は絵の描き方を教えて、幼児に覚えさせて欲しいという要望があることです。年中さんくらいで動物的な眼をしてぐちゃぐちゃやる子は、少し遅れている子です。親御さんの多くは心配して落ち着いて作業してくれることを望みます。実際は飽きるまでやらせてあげるといいのですが、事情があってそれが叶わないのだと思います。なので激しい作業を止めるしかありません。でもそれは美術とその子にとって天才の芽を潰した瞬間なのです。