JR熊谷駅北口徒歩15分
営業時間 9:00〜22:00

048-578-8177

絵を書く

これから解決するべき絵画の課題


小平 崇史


  • はじめに

     「絵を書く」は書籍を出版するために書き続けた原稿をHPにあげたものです。本書の出版は営利目的ではないのでこのままHPにもあげようと思います。また私自身日本語能力がとても拙いので書籍にしたところで誰も買わない、読まないので損得勘定も成り立たないとの考えもあります。でも拙いからこそ反応する人もいるとも考えてHPで公開することにしました。拙いとは私も含め画家はもともと文章は苦手です。美術評論家の書いていることも正直よくわからないことだらけでほとんどが頭に入らないのが実のところです。でもそのような状況の中、現代の絵画の世界を支配しているのは美術評論家の書いた概念です。つまり拙い画家の概念は置いてけぼりになっている。つまり拙いもの同士の世界で成立する物事が今の絵画の世界には反映されていません。その損失を考えてみたときに画家が書くことを思ったのです。

     本書の執筆は筆者が運営している美術予備校熊谷美術研究所のHPからはじまりました。HPでは絵画の学校では知り得ないことや本でも書かれないことを書き連ねていきました。

     もとはと言えば本書を書きはじめたのは一人でも生徒を増やすためです。保守的に、これまでの慣習に合わせて、先人たちの言う通りにしていても絵画はなんの発展もないと考えました。上の人間のいうことを荒立てないために黙って聞いて、組織のために献身的に務めたとしても平和に生きていけるのであれば何の問題もありませんでした。でもそれで食べていけるのは本当にその組織で一人くらい。そのような状況が長年続き、見続けてきたのは先細る状況だけで、このままでは流される河の中でかろうじて足を踏ん張っている状態で、自分の画家としての存続が本当に危ぶまれる状況なので、根本的な所から変えるために行動にうつすことにしました。絵の世界は長年辛抱強く我慢していると思います。なるほど私も耐え難きを耐え忍び難きを忍んでいます。この世界はそのような状況でも受け入れられるような人が勧誘されて存続しています。高校の美術部では怒鳴り散らされながら自由に描くことを強制されました。予備校に通い始めた時は自由に描いていても何もならないという知識を得ました。大学では絵を描いているだけで否定の的となり、大学教授には絵画科で絵画を志望する生徒を集めて運営しておきながら、絵を描くことを肯定できる者はひとりもいませんでした。そしてアート全体は作者の考えではなく、評論家の考えに支配されています。今の大学は大学で絵を描くことを勧める者はいても、未だに教員の誰一人として絵を描き続けて収入を得られるように指導できる者はいません。あるのはほんのわずかな地方の大学教授のポストのみ。他には本当になんの役にも立たないのです。未だに自由だと言われながら本当は自由などどこにもない。それが真実です。自由を声高々に歌いながら自由などどこにもない世界。そして自由という言葉によって支配できる人を支配して利用することでギリギリの状態で成り立っている世界。画家の置かれている状況は何一つ変わらない。真実を何も知らされない状態でひたすら耐え忍ぶ、この世界の人間の忍耐強さはいつみてもやはりさすがです。本書は自分もさることながら、耐え忍ぶ描き手を救うために書いています。それは前にも述べたように私の運営する学校の生徒集めのためでもありますし、教え子たちが食べていけるようにするためでもあります。

     後に詳述しますが、画家はもともと「自由のない職人であるギルド」から、工業の発展による時代の変化と、豊かになる世界に合わせて同調させるように教養を養わせようとするリベラルアートの考えをもとに自由を目指すようになりました。そのような自由を叫ばれる中で我々は「画家は自由」だと言われてこの世界に入ってきた。実際にそこに自由があるかと言われれば自由などどこにもなかった。自由を叫んだ時代のもっとも致命的な過ちはそれ以前にすでに、誰にでも簡単に絵が描ける方法が完成しているにも関わらず、世界に向けてその方法の導入を怠った点にあります。誰でも絵が描ける方法が導入されていれば、今頃は誰でも学校でそれを習い、アニメを作っていたでしょう。誰でもアニメで物事を表現できるようになればあらゆる情報は格段にわかりやすいものになります。アニメーションの表現力を駆使すればアートや絵画が説明に苦心してきた内面の描写も今のアニメの力を持ってすればスムーズに世界中の老若男女全ての人に説明できてしまうはずです。それを阻止しているのは特別な存在であり続けたいアートと絵画の保守層の既得権益を守る人間だけです。そうそうアニメが本領を発揮すれば何よりも教科書がわかりやすく面白いものになるはずです。ポンコツの文科省がやらなくて普通の人がすでに作り始めている。アートと絵画の力を解放したい。世界中の老若男女全ての人と絵を描こうというのが本書の狙いです。

     私ごとですが、30年前、もともと何もできない自分の場合は絵の世界に足を踏み入れる以外に選択の余地はなかった。昔から美術を勧められる人は何か困っているような人が多かった。引き込みやすい、どこか困っている風の人を積極的に狙って勧誘している。恵まれず耐えしのいで生きている人は耐え難いことにまみれた状況が当たり前で、それがどれだけ続こうが慣れている。そしてそれに歯向かう術を知らない。美術の世界に入ってくる人はほとんどの人が口下手です。そして心に問題を抱えている人が多い。不幸から不幸への移り変わりはもとから不幸な私たちにはさして何も変わりはない。そういった不幸な人はだまり続けます。それを見ながらほくそえむ既得権益を持つ一握りの権力者は、今の状況が変わらないことこそが安泰が続く安全基地なので自分のご都合よろしく何も語りません。でも我々はやはりどこかで願っています。本当に報われるときが来るように願っています。絵の世界が本当に自由になるように。実際はこんな状況ですが、こんな状況とは裏腹に我々の置かれている立場は自由だといわれています。それは自由だと勧誘している既得権益を持つ者が自由な感じで勧誘のテクニックを仕掛けているだけのことです。実際は自由などどこにもない。全く違う。本来なら自由に絵を描いてそれで収入を得て、称賛されて、画家たちに参考にされて、若い画家たちはそれに習う。健全に機能している世界であればそれが連鎖し普通に常識になっているはずです。でもそんな絵の世界はどこにもない。絵の組織の中で偉くなるために大事なことはいかに自分を殺し続けるかです。私は大学院の入試で不毛な我慢を辞めました。当然あるだろうと自由が担保されシステムとして想定されている自由の連鎖、さもあるかのように世の中で語られているような自由が連鎖する仕組みは実は全くありません。このことは絵の世界の外からは全く見ることはできない現実です。

     このような絵の世界の現実を変えるには誰かが口火を切らなければならない。残念ながらこのままでは何も変わらない、なので私が口火を切ります。秘密を暴き、問題を解決するために大げさに言えば革命を起こそうと思います。変えることを恐れてはならない。恐れず革新的に活動しなければ何も変わりません。そしてこの状況を作り上げたカラクリを打ち崩せばきっと画家は変わります。少なくともペテン師の仕掛けた自由は消え失せる。画家が絵について「書く」こと。画家が書けるようになれば変わるのです。本書では画家がなぜ書けないのかお話します。その後に絵の書き方を書こうと思います。

     絵のことについて書いた後は活動することが大事です。絵を描かない画家を卒業することができれば私も絵を描こうと思います。騙される前のように胸を高鳴らせながら描ければいいのですが、色々と知った今はもう難しいと思います。画家が真の自由を手にするためには革命が必要です。実際行動にうつすとなれば恐れず活動できる人は世界中に何万人もいると思います。ただし純粋な我々画家の頭の中を支配しているのは前に出てはならないという考えです。ひたすら控えているだけ、画家はきまってそれが正しいと教育されています。もし静観することが正しいと言う論理が変われば皆動き始めると思います。それにはまず黙ってじっとしている必要がないことを説かなければならないでしょう。それが洗脳を解くことになると思います。洗脳を解いた後は、活動するべきことを具体的にあげなければなりません。そもそも画家は描くことが仕事です。本来なんのために描くのかといったことや、絵をどのように評価するか?とか、どうみせるか?といった理屈を画家にやたらとふるべきではありません。画家は内的必然性をたよりに描く画家がほとんどです。外的必然性はたいていの画家が苦手です。もともと静かに描くことだけに専念していてよいのであればそれにこしたことはない。右脳だけを使って描くことのみに専念させる世の中の仕組みを作ることが大切です。でも時代がそれを許してはくれなかった。スポーツ選手はどうですか?理屈がわからなくても良いプレイをすれば評価されるはずです。音楽はどうですか?理屈はわからなくとも評価されているはずです。画家はどうですか?私の知る限り理屈を抜きに評価されている人は一人もいない。画家が、今おかれている現実が、思うまま描くことを許してくれない。描くことを誰も許してはくれないわけで黙って描くことができないのです。これが画家のおかれるしられざる状況なのです。そもそも見たことのない絵を描かなければならないと徹底されればその時点で未来はないことはわかりきっているわけです。今の状況は予定調和されたように、絵を描き続ける世界とは違う世界の住人が理屈によって作り上げたものです。実際に今は絵を描き続けることは不可能です。音楽やスポーツの世界とは違い、絵の世界は見たことのない絵しか評価しないという手法で駆逐されています。画家を弾圧して頭一つ出ることができるのは画家のかわりに世にはびこる美術評論家です。他の研究分野で仕事ができなかった評論家が美術に流れ依代にする。能力の低い評論家が垂れ流される絵画の世界の程度は実に低い。絵が描くことよりも評論することに目が向けられる原因がここにあります。この状況は画家が「書く」ことができないために起きています。この状況を改善するために画家の誰かが書かなければならないのです。そして美術評論家の支配から解放されるために一人でも多くの画家が書くべきです。画家のみんなが書けるようになればその時は美術評論家の支配から解放されるでしょう。

     私は書こうと思います。皆が書けるようになるために。そして理屈ではなく感覚で「描ける」ように世界中の画家が永久に絵を描ける課題を出そうと思います。その課題を網羅すれば概念を考えずに描くことが担保されるはずです。そこに美術評論家が侵略行為を働けば書ける画家がそれを防衛します。音楽やスポーツの世界にあるように「描ける」仕組みが機能すれば画家は食べられるようになるはずです。課題は描けるようになるための課題を沢山つくりました。美術評論家のご高説にある社会的な必然性がなくとも課題があれば絵は描き続けることができるのです。その際の評価に評論家を挟む必要はありません。審査員すらいらなくなります。なぜならば世界中の全ての人が絵を見れるようになるからです。絵のルールは一部の人間が日本であれば文教族に支配され、美術評論家に支配され、画廊の顔色を伺いながら決まるものではなく、絵の外の世界の全員で決められるようにすればいいのです。そうすれば課題は永久に生き続けます。皆さんのためにたくさんの課題を考えました。描くための絵画の道になるように絵画の問題をあげました。絵画には確かな道があります。しかし絵画の描く道を示す人は世界中に誰もいないのです。スポーツや音楽のように絵も描くことができるのです。

     私が見る限り今の絵の世界は黙ってじっと大人しくしているように教育されています。じっとしていることが正義のように教育されているのでそうせざる得ない状況です。指を咥えて見ているだけでは我が身が細り朽ちていくばかり。じっとしていても何もはじまらないので何かしなければならない。絵画には問題が沢山あります。皆に解決して欲しいことがたくさんあります。これを切っ掛けにして画家が画家の力によって完全に立ち直るために絵画の課題を考えました。これまでは口をつぐむことが正義だった。しかし今は正直に全てを話さなければならない時だと思います。遠慮なく動いていい。遠慮なく動けるように論理を書きました。「絵画は終わった」という具合に絵画に対するネガティブキャンペーンは世界中で積極的に行われています。一方で絵画に対するポジティブキャンペーンを行うことは少ない。人目を気にせず絵画のポジティブキャンペーンを行おうと思います。絵画のネガティブな状況を変えるには多くの誤解を解かなければならない。そもそも絵画は終わるとか消えるという類のものではない。そのようなものに見えてしまうのも評論家によって仕掛けられた誤解の一つです。張り巡らされたネガティブな論理で雁字搦めになった絵画を解放するために、一つでも多く誤解を解き、ひとりでも多くの人に改めて絵に興味を持ってもらえるようにしようと思います。

     ここに今書いたような思いが本書の執筆の根底にあります。絵の世界を変えたいという思いが私の活動の原動力です。その原動力から出てくるエネルギーを向ける対象は美術予備校です。つまり壮大なイメージを持ちながら結局私は美術予備校の仕事をしています。そのため本書は善意も勿論ありますが、広い意味で営業利益を上げるために書き始めたものです。埼玉の小さな町から、芸大美大受験という小さなフィールドから、世界中の絵画を本気で動かそうと思っています。世界を動かせば小さな町で生きていけて細々儲かる。芸大美大受験産業は起死回生のアクションを起こさなければじきに消滅します。事実、年を追うごとに生徒を減らし続けている。クマビの予測では今の半分かそれ以上減少は続くと考えています。具体的な数字で言えば東京芸術大学美術学部の受験者数は現在3000人程度。これが1000人まで減少し下げ止まる。減少の続く理由は下げ止める手立てがないからです。ネガティブな方に向かう論理が定着しそれを穿ち対抗する論理は彼らの中にはもはやありません。それもそのはず、そもそも今の時点で10倍以上の倍率があり、それを存続させる論理の方が異常なことで、適切な倍率まで下がり続けることの方が明らかに健全だからです。クマビはそのような中で必ず成功する確信があってはじめた美術予備校です。次々と美術予備校が倒産する最中でこの状況を垣間見ながら予備校を立ち上げる人はいません。おこがましいですがクマビはその中で唯一勝算を持って立ち上げた予備校です。アクティブに活動しなければ、ただでさえ全般的に斜陽の美術と絵画の世界です。本来であれば埼玉の熊谷の小さな学校が存続することはできません。生き残るために受験生の減少の理由を考え、その問題の根本を理解し、根こそぎ解決するために、なんだかんだ長い間一心不乱に書き続けてきたのが本書です。このファイルだけでも話したいことが積もりに積もってすでに17万文字あります。章にして68章。それを少しずつ公開していきます。HPで最初の話を公開して何年か立ちました。現在執筆活動に入ったので2年余り更新されていませんが、それでもたまにですが長々書いている文章を「全部読んでいますよ」との声をいただけるようになりました。そして一連の執筆を読んで頂いている皆様のお陰でほそぼそですが日本全国から生徒が集まるようになり今日まだまだ運営できています。ありがたいことに本書を書いている令和3年は近隣の生徒と遠方からきて一人暮らしをしながら通う生徒と半々になるまでになっています。近隣の高校と中学に向けた営業努力を怠っていると言えばそれまでですが、クマビはポリシーとして他社様のように高校を訪問する高校周りの営業は致しません。そのような営業をかけずにクマビが遠くから生徒を集めながらほそぼそでも存続していることは少し自慢です。都内の大手予備校に行かずにクマビを選んでくれる。それだけでありがたいことです。それが続くように努力を続けなければなりません。そしてその輪が全国に広がるように。我が校は小さいながらも全国区。うちのような美術予備校は他にはないと自負しております。これは予言ですがクマビは全国1位の結果を出す予備校になります。今はその前夜。でもこれはクマビだけでなく他の予備校でも起こることです。小人数の予備校が大手を凌ぐ合格者数を出し始める。近い将来クマビは未来の美術予備校のモデルになると考えています。美術予備校で働く先生方は年々報酬が減少し、とても少ない報酬で働いています。美術予備校では以前は時給10,000円で働いていた先生もいましたが今では高くともその3分の1程度です。ほとんどの予備校はもっと低い。そのような中で時給10,000円貰え年収1000万円を超える収入を得る先生がいるのはクマビしかないでしょう。規模の大きい予備校で講師の報酬を上げることはこの時代の今の状況では不可能です。ですがクマビのビジネスモデルならそれが可能です。時期が来たら小規模予備校のビジネスモデルを公開したいと思います。その時から美術予備校は全国に展開し多くの美術大学を卒業したOBが個人で経営し生活してくことが可能になるはずです。本書はそう思い至った時に執筆を始めました。
  • 絵の課題の前に〜1真実をお伝えするため「天才育成計画」というものを考えました

     絵やデザインの世界はもともと閉鎖的です。もとはと言えば画家はギルドというメモ書き一つ残さないようにしていた職人からきている・・乱暴ですがそうともみれます。もとはと言えば、クラスでコミュ障で一人で絵を描くことが好きだからこの世界に入ってきたと正直に告白すれば多くの人がそうだと言えます。もとはと言えば、先生は教えてくれません。なので、技法やタッチやスタイルは自分で出来るようにしたり、編み出したりして、自分で新しい発明をしてきたのですからやすやすと暴かれてはならないといった感じをみんな抱いています。そんなこんなで絵とデザインの世界の人間は全般的にペラペラと喋るようなタイプの人間ではありません。20年ほど前からコミュニケーションが大切だと言う声が聞こえ、常識として定着してきて、格好つけてみんなコミュニケートできているようなことを言いますが、いやいやどうして全く交流できていないので隣の話になると全く何のことやら理解していないのが実情です。そもそもそれほどオープンならこれほどわからないことだらけで色んなことに困らないわけで、絵やデザインと言えば本質的に昔から何も変わっておらず閉鎖的な体質は今も全く同じです。例えば隣の科のことになれば何にもわからないのが実情です。全くコミュニケートできていません。どこそこ大学様いかがですか?

     絵の世界は秘密にされていることが多くあります。そのせいで絵は自分の身を隠してしまっているせいで、絵そのもののポテンシャルはほとんど発揮されていないと筆者は思います。この問題を解けばもっともっと絵に人が集まるはずです。絵の世界は人に不可解な印象を与えることが多いと思います。その不可解を解消し皆さんに少しでも多くの真実をお伝えするため筆者はこれまで「天才育成計画」(=天育)と称してHPで知られざる絵のことを書きました。

     筆者は絵の世界で今の有様が続けば絵の天才は生まれてこれないと考えています。逆に天才にとってはチャンスかもしれないとも考えていますが・・。少なくとも日本では・・生まれてはこれません。天育は筆者が絵画の天才が育ちようのない今の世界中のアートの状況を憂いて改善するために書いています。天育は本編に入る前の導入に何章も費やしました。なぜなら天育の内容が本題の技法書の章に入る際に技法書の必要性をしっかりと説く導入が必要だと考えたからです。誰でも絵が描けるようになるための技法があります。でもそれを導入する前に立ちはだかる壁は「才能神話」でした。技法の話の前に絵は才能がなければ描けないという誤解を説かなければならなかったのです。
  • 絵の課題の前に〜2「才能神話」

     絵画や絵画のみならずデザインなどの絵に関係する世界には多くの才能神話があります。才能神話によって才能がなければ絵が描けないと考えてしまい多くの学生が絵の道を諦めてしまいます。才能神話を作ったのは絵画の世界とメディアです。今の日本において大きな損失はアニメと漫画に興味のある子供達が才能神話によって目指すまで思い至れずに諦めてしまうことです。絵は誰でも描けるようになります。

     自分たちのために自分たちの巻いた種によって功罪は巡り巡って、現在、人離れという形で降り掛かってきています。本来誰でも描けるほど簡単にできている絵画技法を絵が売れ入場料を取って鑑賞させるために特別なものに仕立て上げた。誰でも簡単に描ける絵画技法が表に出る機会は奪われ、出しても信じてもらえない状況が作られました。重ね重ね言いますが絵は誰でも描くことができます。

     世界はAIの時代に入りスマホのアプリで誰でも映像を作る技術を手にしています。今足りないのは絵を描く能力です。本来なら誰でも描ける絵の描き方を知られていない。そのため誰にでもアニメや漫画を作れるのにその機会に恵まれず絵が世の中で役立つ機会は完全に失われています。

     世界中の人が絵を描けるようになった時に才能神話は崩壊します。そして特別な才能と称して売買されていた作品は全て売れなくなります。しかしその代わりに偽りは解けて世界中の皆の手でアニメや漫画が描かれるようになり、わずかながら油絵が描かれるようになるのだと思います。

     才能神話が生んでいる誤解を解くために執筆を思い至ったのも本書を描く動機の1つです。天育は最初HPで公開していましたが、本書から書籍の出版へ移行することにしました。執筆開始は平成の終わり頃でした。平成から令和に入り、コロナになりました。AIにより様相が変化する世界の時代の流れとともに絵の世界も前人未到の局面に入ろうとしていると思います。ひょっとしたらこのトリガーが引かれた時に後世に語り継がれる本当の天才が生み出されるのかもしれません。
  • 絵の課題の前に〜3「第2次産業革命の中で画家は洗脳された」

     時代は今、AIによる第3次産業革命に入ろうとしています。第2次産業革命のもとで絵画は絵の具の量産を可能にし、大きな飛躍を遂げました。腸詰めやガラスの容器を使った絵の具の保存方法から絵の具のチューブに変わったことで屋外で制作可能になり、それを切欠に印象派が生まれました。絵の具を自分で製造できなくとも絵が描けるようになったことは絵画にとって革新的な変化です。しかしその時に捨てられたのは絵を描く技術そのものです。それ以前は絵の具の製造方法とともに絵の描き方が伝搬されました。絵の具の製造はすなわち絵を描くことそのものだったのです。例えば何万年も前、壁に捕らえて食した動物の血液で絵を描いたように、絵を描く都合を踏まえて製造方法を改良し続けた製造のノウハウは制作のノウハウそのものと言えるものでした。絵の具のチューブの開発と工業化による量産は絵の具をみんなのもとに届けることを可能にしたものの、描き方までは届けてはくれませんでした。その状況に蓋をするように上書きされたのは自由にのびのび描けばよいという考え方です。この考え方は場合によって正しく、場合によって誤りです。自由に描きたい人にとってはいい。しかし私の知る限り大半の人が絵の描き方を知りたい、でも実際には誰も知る機会がなく本来教育を受けなければ身につかない技術まで誰にも教わらずに身につく能力とされてしまったことで不可解な才能神話が生まれました。おかげで絵描きも鑑賞者などの周りの人たちもみんな首をかしげることとなります。結局現代でも絵の描き方を正しく知る人は相変わらず少ない。絵の具があっても思うように絵が描けない。描きたくても描けないというジレンマは病的な様相を作り上げていると私は考えています。軽い、いや軽くはないか・・重い詐欺だと私は思います。道具を与えてやり方を教えないとは詐欺以外の何物でもないと思います。筆者の親の世代は第2次産業革命の世代ですが、うちの親を見る限り、我が家では電源を入れるだけで動かせないパソコン。誰も弾かないピアノのように高価なオブジェを買うだけで満足する人は多かったように思います。使い方がわからないけれども購入するだけで満足、そういう感覚があったと思います。ピアジェや発達心理学などのことも語られますがそういう問題ではないと考えています。絵の描き方を教えなければ五感を働かせることは確かです。ただそこでは使わなくても良い感覚を働かせていることも認めておかなければなりません。幼児でなくてもやり方のわからない道具を与えられれば五感をフル動員してなんとか使えるようにしようと試みます。でもそれは困惑の最中にいる精神的にはとても不安定な状態になることも認めておかなければなりません。情緒が不安定であればのびのび描くとは程遠いことをさせていることも偽りなく認める必要があります。事実やり方を教えずに絵を描かせて困惑しない人はいません。車の運転はまず車の操作を教えなければ車は動きません。教えなければ五感を総動員するでしょう。そして無理に動かしても動かず失意のどん底に落ちるか、万が一動いてしまったらおそらくその人が運よくブレーキのかけ方に気づかなければ人は死ぬでしょう。絵の世界はこれと同じことをしています。動かせても運転の技術と道路交通法を教えなければ公道を走れないように、描けても無意味なものです。車と同じように絵の造形技術は技術を教えなければらくがきはかけても高度なものは身につきません。それにアートの世界での絵画のルールを教えなければ事故なく発表することはできません。単純に絵の描き方を教えていないということは問題なのです。

     私がこれまで30年間生きている間に肌で感じてきた絵画は日の目を浴びることはありませんでした。工業化の時代の流れを背景に持つこれまでの絵画は手わざであるがために世の中から大きな注目を浴びることはなかったと思います。手わざよりも工業。工業化の風潮の中で絵画をどのように見て考えるべきかがただ闇雲に絵を描くより誰もが先決だと思っていました。芸術のための芸術というマニエリスムの時代に入り、絵画は存続しつつも、少しずつ着実に、工業に力を吸い取られたように思います。工業の影響で絵画の手わざの力は弱まっていったと思います。

     本書の狙いの1つは「人は描く」ということが本質であることを説明することです。工業化の猛威が衰えてきたこの機会に絵画の復興を試みたいと思っています。

     私がこれまで見てきた絵画は工業化の時代の流れの中にありました。私がそれを感じたのは高校の美術部に入部してすぐでした。入部してすぐ油絵を描く時代ではないと話されました。油絵を描く時代でないことは30年経った今でも変わりません。それでも私は油絵の世界に入った。私が幼い頃はテレビがまだ白黒でした。白黒のテレビが見られなくなったように油絵を描く時代は過ぎ去りました。工業化が進みどんどん生活が変わる。絵の時代ではないなんてことは少なくとも大人であれば誰もが認識していたことです。当然私もそうでした。私自身はもとはといえばそもそも油絵に興味があったわけではなく、興味があったのはテレビで鶴の線画を動かして飛び立つ様子を描いた当時まだ目新しいCGでした。何もない田舎に育った私にとってCGも油絵もどちらも自分には遠い存在でした。田舎者の私にとって遠い存在のものは全て憧れの対象となりえるものでした。

     時代は農業や漁業、林業、手工業から工業へ。アナログから機械へ。私が高校生の時はデジタルへ突入するその前夜でした。我が家にはパソコンがありました。高校の入学金も払えなかった父は私が中学生の時にパソコンを買ったのでした。ビデオがまだ一家に一台なかった当時、パソコンは高価で家にある家庭は稀でした。貧乏な我が家でも新しい物好きの父が思いつきでパソコンを買った。そんなような我が家の家風もあって何がどうなることかさっぱりわからない油絵の道に高校生の私は飛び込みました。その感じは50歳を目前にした今でも変わっていないように思います。まあ思えば極貧だからなんでもかんでも買えないので思い切って買えるものを買える時に1つだけ買う。そして何にもないから守るものがなく保守的になる感覚など持ち合わせておらず別になんのためらいもなく絵の世界に平気で飛び込めたのだと思います。

     アートのもとの意味は技術です。世の中での視覚表現としての技術のお株を絵はご承知の通りカメラに取って代わられています。世の中の興味関心はアナログで物を作ることから離れ、次第に人々からものづくりの技芸への関心は薄れる。そのような意識は今に続きます。絵の世界は技術ではなく感性や発想や考える力で新たな道を切り開こうとしていたと思います。世の中に響かなくともよいというのは建前で必死に足掻いてきた。どのような道にも正しい面があるのは確かですが、私は先人たちの切り開こうとした道とは別の所に絵が通れる道があるように思います。

     絵にはけしてなくならない形があります。時代がどうなろうと絵が失わない形があります。それは絵を描くことそのものです。絵を描くということ自体に輪郭があります。その輪郭が写し出している形は未来永劫なくなることはありません。絵を描くということ自体は、どれほど工業が発展しようと、AIが進化しようと、人間の本質として最初から淘汰されようのないものがあります。その形が多分我々が気づかなければならない絵です。

     そのような油絵の世界を理解しながらも私の周りでは多くの学生が油絵を描いて将来の進むべき道を模索していました。それからそれぞれの歩む道に進みました。

     私が生まれた時はすでに絵の世界の力は衰え目にするものはアニメと漫画でした。あいかわらずアニメや漫画の世界は人気があります。しかしアニメや漫画はアカデミックな世界には今でも受け入れられていません。今の美術史家の書く本の年表に刻まれるのは油絵や日本画や現代美術の中に見られる絵画です。敷居が高いところから低俗といわんばかりに見下し、必要のない敷居を設置してそこに登るシステムを作りせかせか登ってからアニメと漫画の世界を見下ろすようにしてアカデミシャンというか評論家はアニメや漫画と絵画は絵画とひとくくりにはしてはならない別の絵として扱います。本来は絵はアニメであれ、漫画であれ、油絵であれ、日本画であれ何でも絵です。でも私のいる絵画の世界ではそれぞれ自分たちの扱っているものが「絵」で「絵になっている」と称して、自分の絵と違うものを「絵ではない」とか「絵になってない」といった表現で遠ざけます。その選ぶ行為が優性遺伝的なとか選民思想的な錯覚を生み、半ば間違いと気付きながらも徒党を組み同調することで得られる権威を傘に言葉遊びをして愚かでおぞましい悦に浸りそのゾーンに浸っていながらアニメや漫画を気にするようにしています。他の世界には機能しない自慰が人気のない絵画の世界にいる「自分」という自らを一度井の中の蛙のように心の深い所まで落とし込み、深い深層で都合の良い論理はないかまさぐり、まさぐりながら自慰をして、悦に浸ることがいろんな社会的不安を取り払ってくれて、これでいいんだという気にさせてくれる。やがてそれは錯覚の自己肯定感を生み、その錯覚を抱きなから仲間と絡みみんなでゾーンに何度も入り、楽しいので一人でいる時も妄想してループする機会を沢山作り、知らないうちに洗脳され、自分たちの根拠のない自信である「絵になっている」という錯覚に没入しています。このような集団催眠は絵画の随所で行われていることです。冷静に見ればサッカー選手が野球はスポーツではないと言っているのと同じです。実にくだらない。

     油絵の世界では今、油絵の姿が薄れ、だんだん薄れ、薄れに薄れて、油絵そのものをやる気配がなくなっているように思います。それは問題で、どんなに生活が便利になろうとも、アニメが面白かろうと、それは油絵には直接関係のない話で、油絵というもの自体で切磋琢磨し、研鑽をつみ、人に感動を与え、プロとして評価される。油絵そのものの姿はいつも我々の世界のどこかにかっことした形としてあるべきです。さりとてこれは油絵だけを「絵になっている」と錯覚することとは違います。油絵の輪郭をはっきりさせるために洗脳から目を冷まし見極めるべきです。敷居の高いところから周りを見下ろすように油絵の世界を見ようとしていてはいつまでたっても油絵の輪郭は見えてきません。油絵の世界が外の世界の人に理解されないのはそのためです。輪郭をぼかすことで成り立っている世界、この輪郭をはっきりとさせることが油絵の本当の力を発揮させる唯一の方法です。

     スポーツや音楽の世界にはプロがいます。油絵の世界ではプロと言えるプロはいません。プロはいますが、少なくとも私の周りはそのプロを嫌煙しています。実は絵は売ろうと思えば簡単に売れます。コレクターが望むものを描くことは簡単ですし、コレクターはある程度、動産として作品を割り切って購入しているので動産として売りつけてしまえば買います。そこで描かれる絵に参考にする物の見方や考え方や感性や技法はあまりありません。その証拠にそれを大学で授業しようとしてもあまりに簡単で、それでは授業が成り立たないのでどこの大学もやりません。画廊やそこで描いている画家はそれでも自分たちを肯定しますが、それならば民間で授業をすると良いと思います。簡単にできてしまうことなので受講している生徒たちはなんなくそれができてしまう。それも油絵の輪郭を鮮明にすることに役立つでしょう。民間に誰でも簡単にできることが伝わる日が早くなる。授業をすれば真価がしっかりと浮き彫りになるはずです。

     私は油絵の指導をはじめて20年が立ちましたが私は具体的に生徒に油絵のプロとはこのようなもので、このように目指しなさいと指導することができません。本当に勧められるようなプロの形がないのです。スポーツや音楽の世界のように油絵で年間数億円を稼ぐような画家が日本にはいません。この状況は世界中で同じでこれを変えなければならないのです。
  • 絵の課題の前に〜4「人類の描くことのはじまりをみれば今の絵画の問題が見えます」

     私は画家なのでふと人が絵を描くということについて考える時があります。何度考えてみても、絵を描くということは本当に不思議で謎だらけです。

     これまでたくさん考えてきて、それでもなお「なぜ人間に絵が描けるのか?」わからない。アートの世界の中では絵を描くことを否定している人が多く、特に私の周りでは大半です。ですが、絵を描くことをどれだけ否定してみてもイラストを描くことが好きな人は一向に描くことを辞めないし、描くことを否定している人の多くは子どもたちに自由に描かせることを勧めているし、きまってその子達が本格的に絵を描く道に進む気になったと同時に絵を描くことを否定するのです。

     しかし、イラストを描く人がいなくなることはありません。子供や大人でさえもらくがきすることはなくなりません。絵の世界は絵を描くことが好きな人によって支えられています。そして絵を描くことが好きな人達によって絵を描くということは未来永劫なくなることはありません。それが美術評論家が辟易し最も毛嫌いする絵を描くことがなくならない本質的な理由です。美術評論家の人に頭の悪い筆者の私がいいことをひとつ教えてしんぜようと思います。「あなた方が絵を描くことをいくらやめさせようとしても絵を描く人がいなくなることは、永久に、ない。」

     絵は理屈ではなく、自然に描いてしまうものなのです。これを無くそうとしても不可能というもの。絵を否定する思惑は感覚的に描く世界を論理的に支配し思い通りに操作したい人たちの都合で生まれたものです。この論理は絵を描くことの未来のために生まれているものではありません。美術評論家がどれだけ絵を描くことを否定してみても、人に絵を描かせないようにすることは無理だと断言できます。そしてお粗末で無能極まりない評論。美術評論家の中に絵を描くことを肯定し時代を揺るがすような力のある人はかわいそうですがいません。人が自然に描く落書きで食べていけないのはなぜか?好きな絵やイラストで食べていく道筋がぼんやりしていて見えてこないのはなぜか?それはスポーツや音楽のようにそれぞれの絵やイラストを愛好する者たちが集まりを作って完全な市場を作り上げていないからです。今あるマーケットはゲリラ的な様相です。そうではなく誰もが信じて疑わない規模の市場にまで成長しなければなりません。そのためには自然に絵を描くことを美術評論家や流行のために作品を作るモードやコードで制作する輩を跳ね除けて押し通していかなければならないのです。

     人が絵を描くことは自然の摂理です。人が絵を描いてしまうことは手を動かしてしまうことそのもの、体を動かすことや動かす際にイメージすることそのものが絵です。絵は体を使う軌道そのもののイメージを痕跡として残すようなもので、そもそも手と脳をもつ人にははじめから組み込まれていることです。脳で手を動かすことそのものが絵。美術評論家が絵を描いている人間をみてどれだけ辟易しても無限増殖的に後からあとから絵を描く人は現れます。それは人が動くことそのものが「絵」だからです。今の問題は時代がそれをただ受け入れれば済むことです。今は第2次産業革命から第3次産業革命へと時代が移り変わろうとしています。工業ではない手仕事の絵は第2次産業革命では時代から積極的な要請を受けませんでした。世界中が手で物を作ることに消極的になった。それが体を動かすことが絵そのものであっても人が絵から離れた原因だと思います。一方でこれから訪れる第3次産業革命では個人にスポットの当たる時代です。自分自身をカメラで映し、その場で放送できる。身体からできる絵は描いている姿を動画に撮影しながら撮影した映像と合わせて絵を発表するといいでしょう。そうした方が体を動かすイメージが絵そのものであることが伝わりやすい。小さなお子さんとか絵を描いている様子を撮影して絵と動画を両方残して欲しいです。年配の方も子供やお孫さんたちに絵とその動画を残すといいと思います。映像は虚像ですから絵は実物そのものなので映像の良さもありますが映像には持ち得ない現実に目の前にある物質とまぎれもなくその方が体を使って描いた痕跡がそこには延々と残り続けます。美術評論家が辟易する絵ですが私は美術評論家の方にも片意地を張らずに絵を描いて欲しいと思います。個人が自由に発信できる時代では個人の価値や考えや感性が本当の意味で尊重されるようになります。社会が個人を見るシステムを手にした時に絵が活きる時代に入るように思います。その時代ではきっと今以上に個人の意見が政治にも反映されるようになっているはずです。現代は残念ながら個人の意見や思いはねじ伏せられている世界です。そんな個人に蓋をして当たり前の世界では絵も流行らないわけです。

     絵を描くことをアートの最前をいく評論家が毛嫌いしても、否定しても、権力闘争に打ち勝ち、周りの画家の生命線をことごとく絶っても、人類から絵を描く人間がいなくなることはありません。駆逐し、滅ぼしたはずの画家がしょうこりもなく目の前に現れると美術評論家は絵を描くことを辞めない人を見てゾンビのように感じ、悍ましいものを見るかのような毛嫌いの仕方をします。美術評論家は絵を描きません。文字を愛し文字を書きます。絵を憎み、絵を描くことを否定します。でもどれだけ美術評論家が絵を描くことを否定しても、どうしても描いてしまうものは仕方がないのです。絵を描いてしまうことは美術評論家がいうようにリベラルアートを理解しておらず教養がないということではなく、自然なことなのです。美術評論家が思い描いている正義は今より100年も前の奴隷のように奴隷に絵を強制的に描かせていた時代に通用した話。時代錯誤な感を誰もが感じながらもこの惰性を止められず、既得権益を守るために止めないでいます。一言で言えば「大人気ない。」これまでの時代では多くの画家が美術評論家の指示に従順に従いました。それでも評論家に全ての画家が付き従うかと言われればそんなことはありません。出世を捨て一線から身を置くことを選択する画家もいるのです。というか、私の目から見て、ほとんどの人がこのような絵の世界からは距離を置いていると思います。実際の所、黙って距離を取る人の中に優秀な人は多い。

     今日も美術評論家は「アーティストは嘘をつく。」と美術評論家の卵に指導しています。そもそも嘘もなにも絵を描く人はなぜ描くのかわからないのです。体を動かすこと自体が絵なのですから動いている人に例えば「なぜ息をしているんだ貴様は説明しろ」と攻めても困るのです。それを説明しろと言われてもできないだけ。そこに当てはまる言葉がはじめからないのです。言葉から始まって言葉に終わることで喜ぶのは美術評論家。絵描きは絵を描くことから始まっているものです。そもそもロジックなことから始めているわけではありません。活字とは別の営みで動いている。それを世の中にない言語で表現しろと言われても無理というもの。評論の世界は活字の世界です。そこは活字の中だけの、絵の世界とは全く別の場所の世界です。脳の中にある活字がイメージとして構築した世界は絵の世界ではありません。活字になることがらの中の世界です。活字にならない世界はそこには全く重なりません。評論家が絵の世界だと思いこんでいるそれは多分哲学や何かの世界を絵の世界に当てはめて作り上げられた絵の実体験を通じて見える世界とは別の想像の虚構の世界です。そのため絵が好きでイラストを描いたり、心から楽しんで落描きを描いている人の感覚を共有し、考えを正しく書ける評論家は一人もいません。彼らが書いているのはあくまで、評論の世界で書かれた絵の話なのです。

     美術評論家並びに絵の世界の権力者の致命的な誤りは絵をスポーツや音楽のようにプロとして描く道筋を壊してしまった点です。歌ったり、踊ったり、走ったりすることと同じように「描く」ということには価値があります。絵の価値を社会的に認める機能を世界は持つべきです。走る人になぜ走るのか?答えを求める必要はありません。歌う人になぜ歌うのか理由を求めることもナンセンスです。少なくとも絵を描かせることを辞めるように、走るのを辞めさせるために、歌うことを辞めさせるために理由を聞くことはナンセンスです。でも絵の世界にはなぜ描くのか?という愚問を投げかけるのが常識となっています。これらの仕組みを作り上げたのはもとはといえば自由を求めた人たちです。年月が本末転倒な状況を作り上げてしまった。もとの鞘に収めることができないのは今の形で力を得ている権力者が権力を守って硬く蓋をしてしまっているからです。私が絵と向かい合ってきた30年。この間にじっと我慢していましたが、いっこうに前向きなことを何一つ言わないおろかな美術評論家。私はこのままでは自分の人生が終わってしまうので、このおろかな過ちを打ち崩してみようと思います。
  • 絵の課題の前に〜5「絵のはじまり」

     私はよく絵のことを考えます。自分の描く絵のことや、普通は考えすぎだからといって考えない方がいいと言われそうな様々な懸念や、理想を妄想したりします。私は最近国会で野党が与党を責め立てることとその必要性がやっとわかったような気がします。今の私は野に下る道を選んだ野党です。画家として美術館や美術評論家や芸大美大、画廊、オークションなどの矛盾に手当たり次第に声をぶつけていかなければならないと最近よく思います。

     そんな調子で毎日絵のことを考えているわけですが、この章を書いている時は人類の絵の始まりのことを想像していました。人類初めての絵はきっと世界中の至るところで描かれ、意外と同じような題材で、同じような描き方で、きっと同じようにみんながすごく面白がりながら、描く喜びに満ち溢れ、地面に這いつくばって絵を描いたり、壁に絵を描いて壁の前に立って絵を見ながらみんなが歓喜をあげているような、そんな様子で始まったのではないかと思います。そこには才能という概念はなかった。全員で絵を描き誰でも絵が描ける自信を持っていたと思います。誰かを画家として祭り上げるようなこともなかった。ここで言いたいことは「描いている絵が他の人と同じでいい。」ということです。何故ならば違う絵を描こうとすることや違うことを評価することは歓喜を奪うからです。「みんなと違うことをしなければならない」という縛りは必ず自滅の道を辿ります。絵の世界ではどこの誰を見ても間違いなく目が死んでいる。それはみんなと違うことをしなければならないということによって絵を描く概念そのものが構造的に破壊されているからです。その縛りのせいで絵は簡単に描けなくなりました。それはスポーツや音楽が盛り上がる中で絵画が盛り上がらない理由です。みんなで同じ絵を描くことを受け入れればスポーツのように細かい差異に注目して話題にすることができます。これがどれだけ盛り上がるものか。でもこれを怪訝に思うのは美術評論家です。絵の世界が細かい差異を問題に取り上げるようになれば美術評論家はアプローチの仕方を180度変えなければならなくなります。美術評論家がどれだけ困ろうが知ったこっちゃありませんが。みんなが同じように描くのではなく逆に誰も描かない絵を描こうとすると程なく全員が描けなくなります。誰でも安易に描けなくなることによって潤うのは絵の世界を描く世界から考える世界に変えた美術評論家です。こんな自殺行為をするのは画家ではありません。みんなと同じことをやる中に歓喜をあげるヒントがあります。そんな絵の歓喜の声を現在は大人から聴く機会はありません。歓喜を奪った主な原因は評論家以外には工業化の流れの影響が大きいと思います。土いじりや漁をしたり絵の具をいじっていられなくなった。漁や土いじりがどれだけ面白いか・・。私は毎日釣りをしているのでよくわかります。工業化によって人類の仕事は自然から離れていきました。そこで絵の世界は人との関わり方を大きく変えてしまったと私は考えています。今では太古の昔の人が絵の前で歓喜したように美術館の前で歓喜の声をあげて大喜びするようなことはどこの美術館にもないと思います。そのようなみんながシンクロするようなことはそのような遊びがなくなったので不可能です。唯一あるのは小さなお子さんが絵を描く時です。ちなみにこの最後の砦はなんとしてでも死守しなければならない。美術評論家は人が絵を描いていることに辟易します。美術評論家の矛先を子供に向けさせてはなりません。かつてピアジェは絵を生業にするために訓練している大工の子供がみんな同じ絵を描いているといって攻撃しました。でも実際は子供たちはみんなでスポーツしたり歌を歌うように絵を描いて遊んでいたのです。みんなで遊ぶ遊びはみんなと同じことをすることが楽しいものです。それをピアジェは発達心理学の見地から根底から否定しました。そこからの切り口でいまだに幼児教育の中での絵は根本的に大きな問題を抱えています。みんなで絵を描いて歓喜の声をあげるその声を奪う仕掛けは実はピアジェが仕掛けたと私は考えています。みんなと「違う絵を描かなければならない」この概念によって絵は容易に描けないものになり全ての人から描く楽しみを奪い歓喜の声を奪いました。みんなで同じような絵を描いて遊んでいた職人の子たちは歓喜の声をあげて楽しんでいたと想像します。

     日本は幼児のこの砦を守ることでさえ危ういと思います。理由は自由を推奨する派閥に忖度しているからです。私が子供たちの内心を探っている限り子供達は絵の描き方がわからない時点で絵を描くことが嫌になります。それは幼稚園の年中さんともなればほぼ全員が経験します。まず水彩絵の具で綺麗で本物みたいな風景や人を描きたいのにぐちゃぐちゃになってとてもストレスで、先生はぐちゃぐちゃを褒めるので得体がしれず、それを機に絵から距離をとります。子供たちは全員絵が嫌いです。子供達には授業だからと言って描くことを強制することなく本音を聴くようにしてもらいたい。そうすれば全員が「上手に描けないから描きたくない。」というはずです。無理やり自由にのびのびぐちゃぐちゃ描かせるのはストレスにストレスを擦り付けるだけなのでもう辞めた方がいい。それによって心が病みます。それによって先生の大好きな協調性や大人らしい振る舞いは身につきますが、誰も気づいていないようですが「心に闇を作る問題」の方が大きいです。期待通りにならない絵を描いて歓喜をあげる人がどこにいるでしょうか?絵の世界には子供を見ていればよくわかるのですが嘲笑はあります。この嘲笑や冷やかしは絶対にやってはなりません。必ず絵が嫌いになります。「喜び」とは忖度で起きる感情ではありません。忖度で起きている喜びは褒賞はあっても絵を描くことそのものにはありません。日本の絵画の世界では「ご活躍」という忖度の言葉があります。「ご活躍」を連呼する姿は野にいる私から見ると本当に醜くおぞましい。いっている人は全員言わされており誰一人として目が喜んでいません。「ご活躍」というワードを使うのは公募団体ですが芸大美大でも、美術館でも、画廊でも目から喜ぶことは絵を見る時にはありません。目から喜ぶ時は褒賞を得た時です。それは絵を見ることによって喜んでいることとは全く別です。「褒賞で喜ぶ」ということは大人の作り上げたシステムに乗った時に大人に褒められるということです。それは同時に絵を前にして歓喜することから完全に乖離することを意味します。忖度で情動を押し殺したままでは歓喜の声をあげることはできません。もしできるならやってみてください、できませんよね?今のやり方では絵を前にして歓喜の声をあげることは絶対にできない。絵画の世界で歓喜をあげるには「強情」にならなければならない。これが唯一の方法です。

     強情に美術館やアトリエではみんなで集まって歓喜の声をあげることはあるでしょうか?それもないと思います。スポーツの観戦だとありますね。楽しいです。そして何より価値があります。スポーツも工業化の影響は受けているのですが絵画のように大事なものを削いで消していくように消極的ではありませんね?これには美術館ができたことと美術評論家によって絵画が考える側面に大きく舵を切ったことが大きく影響していると思います。スポーツと同じような歓喜は音楽や文学でもあがります。アートや絵画には鑑賞者が歓喜の声をあげることはありません。あるとすれば自分や家族が賞をとったりオークションで高額で落札されるようなことがあればあるでしょう。それ以外であるとしたら心の問題か、脳の問題か、演技と考えて間違いありません。偽の歓喜は間違いなく作品の内容についての歓喜ではなく、完全に出世や金銭を得た幸運に対して歓喜しているのです。あるとしたら幼稚園で絵を描いたり、お子さんがお家で絵を描く時くらいです?美術館では絵は絵の鑑賞はありがたいものということにされています。お陰でかしこまって見なければなりません。かしこまるのはいいのですが、そのせいで白けてしまい感動はどこへやらです。絵は学校の朝礼のように軍隊のように整列して校長先生を大上段に掲げて平伏するように見なければならないとされているように思います。だからすごく権威的です。実際に美術館は殆どの画家を屠殺する生殺与奪の権利を持っています。学校では校長を崇めると学校を崇めることに繋がり、先生を崇めることに繋がります。そうすれば学校は生徒を管理しやすいのです。美術館も絵を崇めるようにさせれば鑑賞者を簡単に管理できます。そのおかげで絵は校長先生の朝礼の話のようにつまらないものになり下がりました。私は大人が絵を前にして歓喜をあげる様子は世界中のどこを探してもないと思います。また、今回の章でお話ししたいのはそこが今のアートと絵画の最大の懸念だということです。絵には歴史的にも世界的にも大問題です。アートから「喜び」を奪ったのは誰でしょう・・?それはそれで利益を得ている人です。

     何万年も前の人たちが狩をして絵を残したように、今の時代に生きる私も釣りをして絵に残しています。きっと今に生きる人も太古の人も本質は変わりません。本当の「絵を描く喜び」を知る機会があれば今の時代に生きる人も太古の人と同じように楽しく絵を描けます。そしてそこには明らかな「絵を描く価値」があり、価値への揺るぎない理解が生まれるはずです。その価値はアートの世界を作る美術館や美術評論家や大学教授がなんと言おうとあなたの中にある価値観に完全にフィックスした揺るぎない価値です。本当は今のアートの世界で聞こえてくるモードとかコードなど気にせず絵を描いて評価したい人がいたとすれば勝手に評価させて勝手に有名になったりお金になればお金にすればいい話です。そのような自然な成り行きではなく自分から評価されるように売れるように向けていくことによって大事なものは簡単に失うものです。「絵を描く喜び」とは本当に壊れやすいもので、大半の人が失ってしまっていると思います。偉い人でもよく絵がわからないと言っていることがありますがおそらくはどこかに大事なものを置いてきてしまったのだと考えます。

     今の人たちは従順な人ばかり、従順を強いる場所ばかりです。従順の反対は強情ですが、絵を描くには強情でなければ心は死にます。理性で従順を徹して出世したり、評価されたりすることはできても、それは絵を描くことそのものの楽しみを感じていません。楽しみを封印し、結果を得ることに徹しています。アートの世界は今、コードとモードを理解しそれに即して制作しなければならないとされています。それはコードとモード、つまりわかりやすく言えば美術館という箱を使う時のルールと美術評論家が作り上げたジャンル分けと評価の仕方に従順に従わなければならないことを意味します。このモードとコードの働きは絵を「考える」本質を追求させてくれるものの、絵を「描く」ことの本質とは明らかに異なり、筆を止めさせてしまうものです。さらに「考える世界」はジャンル分けをし尽くして、もうほとんど残っていない概念の隙間をほじくり返そうと躍起になっています。そこで働いても十分な禄を与えられず、誰も潤わず、飢えてどうにもならないところまで堕ちています。

     これまでは美術館と美術評論家の権力は絶対でした。彼らに受け入れられなければ作品を外に出して評価されることはできませんでした。でもこの構図は近い将来必ず変わります。彼らに従順でなくても、素直で、強情でいても、作品を発表したり、この文章のように書くことができます。私の書いていることは今までであれば彼らにメディアから滅却される内容です。今の時代は彼らに従順になることなんてなく、強情でいられるのです。是非みなさんもご自身の思うがままに作品を作り、書いてください。きっと太古の人たちと同じように楽しいはずです。

     私の理想ですがキャンバスは家で何をどんな風に描いても怒られない自由に表現できる場になるといいと考えています。それが私が思っている新しい絵画です。一家に一台車があったり、一人一つ携帯を持っているように一人一枚キャンバスが家にある。美術館がことごとく作品の発表の機会を奪っているうちは表現する気も失せますが今はネットがあるのでいつでも簡単に描いたり書いたものが出せるのであれば描くことと書くことは楽しいはずです。みなさんの強い情を引き出す。もっとわかりやすく言えば「嫌いなこと」「嫌なこと」をキャンバスは遠慮なく吐き出せる「場」になって欲しいと思います。

     自分の体を使って絵を描くことには意味があります。細かいことはここでは描きませんが街中にはどこでも自由に絵を描いていい所はありません。パソコンや携帯の中に絵を描いてもそれは太古の人たちのように体を使って描いていることとは身体感覚的に違います。身体を使って描くことを、取り外し可能な壁であるキャンバスは可能にしてくれるのです。

     残念ながら今の時代に生きる人の多くが絵を描くことを好みません。好まないのは苦手意識や天才でしか描けない誤解、難解なイメージや劣等感などのヴァイアスがかかるからです。みんなが会話をするように、カメラで写真を撮るように実は絵は手軽に描けるものです。これをガチガチにしてしまって、ガチガチのイメージを作り上げているアートの世界は実は「絵を描く」というこれほど面白い人類の貴重な財産をダメにしてしまっています。私は「釣り」を描いています。よく絵のことを考えながら釣りの絵を描きますが、釣りという狩を絵にすると太古の人と気持ちで繋がれるのです。これが私の知る密かな絵のダイナミズムです。評論家や美術館との繋がりは私はどうでもいいです。小さい。しょぼい。汚い。何より無駄。評論家と美術館に従順になる気は毛頭ありません。それよりも強情さを前面に出して攻撃した方がこれからのアートのために建設的です。評論家と美術館が築いた誤った構造は根底から駆逐するべきだと思います。太古の昔は今のアートのように誰が最初だなんてどうでも良かったとよく思って見たりします。この世界を思うなら絵の起源から絵を描くことが人類に広まっていく様を妄想することが大事だと思います。その状況を再び作り出すために、今の現状でボトルネックに引っかかって絵が広がっていかない状況を悩み、これから首をどのように広げていけばいいか創造してみたりします。

     定説ではもう長い間「絵は終わった」といわれています。評論家の書く活字の上ではなるほどそのように解釈できる絵もあります。でも太古の人に「鼻で笑われるな〜」と思います。絵が終わったなんてカッコいいですが、それはあくまで机上の中の絵の話です。空論とまでは言いませんが、机の上でなく画家が、画家というか人が画用紙やキャンバスに絵を描くことからは目を背けた上で書かれた理屈です。絵の世界は終わっているかのように語られますが、そんなことはないと思います。変わったのは絵が向かう課題です。懸念は無限にあります。

     評論家が絵が終わったと称するのは評論家の見る絵の形を定義し、定義の仕事を探し尽くし掘り起こし、探り倒したからです。なるほど終わったと言えるほど隙間もないような状態であることは間違いありません。しかしそれはあくまで評論家から見ることができる絵のカテゴライズの限界なり飽和であり、絵描きが描くことに目を向け見続けている絵ではありません。評論家が扱うのは絵のアウトラインというかジャンルの輪郭というか境界の問題。それと絵画の外の科学や工業や精神分析学や哲学、教養、教育などとの繋がりの問題。絵がどのようなスタイルに定義されるのか?新しいジャンルなのか?新しい概念なのか?新しい技法か?云々。これらは、ご丁寧にアウトラインを作ってくださった中で淡々と営む我々には何の関係もないことです。評論家の話の中には絵を描く最中の絵が出てくることはありません。絵の中の話は彼らにとって全く興味のないもの。絵を描いている最中の筋肉の動き、神経の反射、見方や気分の移り変わり、イメージやモチベーションの変化、体調など絵を描いている時は実に様々なことを問題にして取り組んでいます。つまり美術評論家とは絵の中身には全く興味がないのです。評論家が話題にするのはオークションの値段それを肯定するための歴史的な背景、画家の日常、人間関係、学歴、受賞歴、絵のスタイル、画材、題材、題材の人物の人間関係の話です。これらは全て評論家が活字にできる物事。その中に絵を描く時の話は出てきません。例えば野球とサッカーの違いを語られても正直困ります。野球をしてればいいし、サッカーをしていればいい。相手にする必要はない。無視して野球をやったりすればいいのです。無視して絵を描けばいい。私は絵のはじまりを想像しうらやましく思います。その頃は評論家がいなかったのでみんなが楽しんで絵を描いていたはずです。今はそこに戻る時です。
  • 絵の課題の前に〜6「世渡りしたい下の従順とそれを守りたい上の愛」

     絵の世界は世渡りが大切です。残念ながらこう言うしかありません。絵の世界は一部の人が言うように「自由」などと無責任なことを声高に叫べる状況では絶対にありません。
     私のこれまで見てきた画家の全てが先生のいうことをよく聞いて。美術館のルールに忠実に従い。美術館を神と崇め奉り。画廊を崇め。コレクターの前でへこへこし。公募団体を崇め。公募団体の会員に上納金を払い、媚びへつらい。芸大美大の先生に従い守ってもらう。というのが画家の姿です。奴隷のように疲れ果てた顔つきの彼らが外では「自由」と称される。美術館や画廊や大学に従順に従うことは利益ですから良いと思います。しかしそれをどこにも自由などないにも関わらず、この世界の外にのうのうと自由と偽るのだけは許せません。私の見る限りどこからどう見ても自由に描いたり、行動してきた人間など一人もいない。自由という集団幻想は1日も早く無くさなければならない。この世界の悪癖は「自由でないことを恥じる」ことにあります。皆さんはどうか「自由」でないことを恥じないようにしてください。そうすれば絵画の世界は次第に自由でないことを少しずつ打ち明けられるはずです。自由ではないのに「自由」と言っている人を私は詐欺師だと思います。それをよく考えてください。
     絵を描く時実際に自由にのびのび描いてしまったら内的必然性によってバランスを取ろうとしてしまい無意識の内につまらない形を描いたり、つまらない色をのっけてしまうものです。絵画ではこれが御法度になることが多い。「上手いのに評価されない」という恵まれない画家を生んでしまいます。無意識の働きのそれを個性と称するのはいいでしょう。その通り反射的に体質や感性が出てくるのは個性の賜物です。でもその個性の賜物を絵画の世界はつまらないと称して全て否定します。見たことのないような面白いものでなければ評価しない。そこに予め約束された万民に対して公平に与えられたフラットな自由はないのです。画家はつまらない絵にならないように逐一「面白いかどうか?」というフィルターにかけるのであってその瞬間瞬間に自由も個性のへったくれもありません。生徒がつまらない絵を描かないようにクマビでは日々指導していることです。
     個性と言えば障害がある人のことが頭をよぎる方もおられると思いますが彼らも暗黙知に法則に沿って形を描いて色を塗っています。歩くことや咀嚼と同じように脳は普段の連動で、zoonに入り集中する神経と筋肉を動かすシステムを持っていますから、持っていなければ死んでいます。筆を同じように脊髄反射的に使ってしまいます。その人が普段行なっている脊髄反射の動作を絵筆や鉛筆やペンに応用して描いています。健常者とされている人と同じ動きが困難である場合に特殊なストロークが確認できることはありますがこれは間違っても視覚的な感性が絵に現れているのではありません。障害のある方が絵を描く所を見ることがあります。冷静にいつもですが私の見る限りどこからどう見ても手前にあるペンを手に取ったり、手前にある楽な絵の具を次の絵の具に選んで筆に付けて塗っています。これを個性やら感性と賞賛し褒め称え商売に利用している輩がいますがバケの皮が剥がれるのは時間の問題です。客の哀れみを誘い口八丁手八丁でたぶらかして絵を買わせていますがこれがバレた時に惨めな思いをするのは描いた本人たちです。彼らの中に気づいてやめた人も大勢います。気づくのは大抵奴隷のような劣悪な労働条件(最低賃金以下)に置かれ何年も経ってからです。輩は普通に儲けて人並みかそれ以上の生活(障害者が低賃金で作品を上げてくれる分で利益が出ます)を送っていることに疑問を感じた時(大抵何年も経って、障害のある方は意外に辛抱強い面があり、長年耐え凌いだ後にやっとストレス耐性の限界に達し、怒りが頂点に達して・・おそいです)。何だかんだありますが、気づいてやめた彼らがこの問題を根本から解決するトリガーになるべきです。
     この世界の中を見てきて、美術館や画廊や芸大美大のやっていることを見てきて、一体この世界のどこに「自由」があるのか?と疑問に思います。つまり「自由」など見たこと、触れたことは一度もありません。自由という言葉から連想されるユートピアのようなイメージは美術館の来場者と出品者、貸画廊を借りる画家と作品を買うコレクター、芸大美大の受験生を勧誘するために作られた偽りの妄想です。裏腹を証明しているのは、この世界の人間の誰一人として目が笑っていない、本当に自由であればみんなが幸せで嬉しそうに満たされた顔をしているはずです。でもそのような顔をしている人は誰ひとりいない。この世界に幸せがないとは言いませんが言い切れることは自由奔放とは全く無縁の世界が絵の世界だということです。これは絵の世界という狭い括りではなくアートという広い括りとなってもアートの方が多少ましにはなりますが、でも大差ないかな・・。
     絵の世界、私の関わっている絵の世界なのでつまり「絵画の世界」はうまく世渡りできる感覚が必要です。特に日本は敗戦国であり、世界から見れば圧倒的な弱者である日本では圧倒的な弱者である立場を十二分にわきまえて渡れないものを無理矢理に渡れるように工夫をし尽くさなければ絶対にアートの世界で世界的な活躍をするのは無理です。当然食べていくことも無理です。
     皆さんが想像している以上にあらゆる表現をやり尽くされた泡の世界です、言うなれば権力闘争の果てに波の慣性の働いた惰性でかすかに動く泥沼の上の泡のような泡沫(うたかた)の世界です。中の誰が何をやってもダメな状況に陥っている世界です。下は惨憺たる状況です。下にも中にもどちらにも進まなくて済むように生徒に指導しなければならないのはこの世界があまりにひどい有様だからです。私が指を指しているのは泥から抜け出た泡か泡の弾けた空気です。私はみんながやっているような泥の中に「自由」と称してユートピアがあるかのような勘違いをして泥沼に指を指すことは到底できません。また、この世界に全く可能性がないようなことも言いたくないのです。正解はやはりある。上に行くかそうでなければ上にも中にも下にも行かずに別の空間に絵の世界を作ることが正解です。例えば美術の外の空間で漫画やアニメは大きな世界を作り上げることに成功しています。未来の新しい絵画の世界も漫画とアニメを見習うべきです。漫画とアニメの成功の後、絵画とアートは「漫画とアニメに敗北」していることを認めるべきです。後はそのタイミングを待つばかりです。又は泡がもうじき跡形もなく消えるのでそれを待ってもいいと思います。絵画の、アートの美術評論家が残している歴史の多くは残らない歴史となるはずです。作品のくだらない時代背景など後々の絵を正しく書かれるようになった未来からすれば失笑されるようなお粗末なものばかりです。作品の内容についてはほとんど触れられず、書くことができず、時代背景やエピソードなどの作品の周りの話をただただだらだら書き連ねるだけの無駄な話。

     絵の世界は基本的に強気では戦えず戦々恐々としながら周りの出方をよく見て上の顔色を伺いながら、最初から最後までずっと注意深くよく見て世渡りをしていく世界です。自由とは無縁の世界。上は「モードとコード」とよく言いますが下々は上のやり方を十分に理解し即して行動しなければなりません。そして上は自由と称してモードもコードも詳細に教えません。戦略などもってのほか・・。というより戦略が立てられるほどの力はありません。とにかく「モードとコード」という表現は「自由」とは無縁なことをよく表しています。
     よくこの世界に入ってきたばかりの人で意気込んで強気の発言する人がいますが、何をしても必ず秒殺されます。秒殺してあげないと危険です。見過ごせば必ず事故ります。これまでに賞をとったり、才能があると思っていたり、知識があると思っていたりしている人は間違いなく最初に事故ります。このような事故を起こして自尊心を傷つけてしまうのはこの世界やメディアや学校が誤解をして、誤解させるような誤った情報を流し、誤った教育を続けているからです。世渡りをせずに強気に押し切れる人が稀にいます。でも私の知っているアーティストの中でも本当に一人ふたりです。知り合いではないですが私の中では川俣正、でも彼がモードやコードを無視していたかと言えば全く違います。完全に即している。

     日本のアートの世界は欧米の新しい作風が日本に輸入、つまりわかりやすくストレートに言えば誰かがパクったら、それまでの日本の絵画の作風の全てが古いものと一掃されてきました。それが日本の絵画の歴史の正体です。その歴史の変遷というかパクリの変遷を冷静に紐解いてください。見えてくるのに時間はかからないはずです。そして完全に欧米に媚びています。ちなみにこれは東京芸大の受験でも言えます。欧米の流行に合わせて日本の絵画は変わってきた。その逆は歴史上で浮世絵の起こしたセンセーショナルただ一つです。つまり近代以降の日本の画家で自由にのびのび描いて評価された人は誰一人としていない。世渡りのために欧米の真似をしてきた画家しかいません。そうでない者が残念ながら一人もいない。その事実が一般の人には見えないだけです。そしてそのパクリをさも自分で創造し作り上げたかのように錯覚し、どこで目にしたのかの出所は都合よく忘れ、ごく自然に頭に表出したかのように思えてしまう。この人間最大の学習能力である模倣性をフルに発揮させたパクリの通過儀礼は暗黙の了解で行われ、誰でも完全な形で無意識のうちに無自覚にしてしまった後にそれを個性と称して出所は毎回誤魔化せてしまうほどよく仕上がっている。平気でパクパク肉を食いながらさも自分は動物を殺せないからといって動物の命を奪うことに全く関わっていないかのような「都合の良い錯覚」を平然と抱いていることと同じように日本の画家の全てが欧米をパクパクパクッているのです。

     日本の絵画は欧米に対して脆弱です。欧米の正しい技法が輸入、つまり導入されたのはほんの少し前の話です。昭和の終わり。正しい技法が入った時点でそれまであった日本の絵画(洋画)は全て否定されました。それから日本の油絵は病んだ。その状況を知る絵画に精通し、つまり歴史を正しく学び、正しく翻訳された文献に触れ、世界の最先端の絵画の動向を理解している学生は全員油絵を描けなくなりました。正しいと称する技法を用いなければおかしなものとされる概念に完全に汚染されてしまった。状況がわかる学生は戦略的に油絵の具から離れるしかない。技法の話を持ち出すことが全ての作品を否定するための論法になりました。そして一部の人間を出世させた。馬鹿な話だと思います。これは東京藝術大学の油画専攻で実際に起きた話です。私の認識している限り50年病み続けた。そろそろなかったことのようにパタリと音を立てて証拠隠滅される話です。このような話はどさくさに紛れて亡きものにされた無数の話のほんの一部です。とにもかくにも日本の絵画の脆弱さは本物です。こんな脆弱な組織の中にとてもではないが入る気にはならない、自殺行為です。大々的に歌う公募団体も中身は空っぽです。公募団体の出品者の誰一人としてここに書いていることは知らないと思います。それだけ独りよがりで真実を学んでいない。美術館が巨額のお金を出して催す美術展もろくなものがありません。何にもない中でなんかやらなきゃ指を咥えて赤字が続くだけで何も始まらないので無理やり展示している。そうすれば給料はもらい続けられる。これで個性だの才能だのほざいているのだから始末におえない。全て作り変えるべきです。
     とまあ・・絵画の世界はいうなれば世渡りだけで成り立っているともいえるような状況です。どのように生き抜けばいいか考え抜ける人だけが生き残っているのは間違いありません。内部ではこのあたりの状況を見越して生きることが賢いとされていますが本当は馬鹿そのものです。生き残っているとは言え実際に誰も目が笑っていない。聞こえてくるのは全て敗者の論理です。気持ち悪い。私はそれを賢いとは全く感じないし見えないし思えません。
     クマビの生徒にはそれを踏まえて上手く行動して欲しい。絵の世界には何も考えずにただ作品を作るだけで生きていけるような音楽やスポーツの世界に構築されているシステムは何も存在しないのです。あなた方が健全なシステムを作り上げるべきです。そのために真実を書かなければならないし、絵画の世界を作り上げる創造力を指導しなければならないと思います。

     絵の世界では組織自体も大きな社会に対峙する様々な手を尽くしながら世渡りで生き残っています。そしてそこに社会に絵画の必要性を十分に訴えられるだけの力や頭脳や活動の内容は一つもなく、ただただ自分たちが存続するだけ綱渡りのために、口八丁手八丁で世渡りすることによってのみ生き残り、バレている社会からはジワジワ格下げされ続けています。格下げされ続けているのは芸大美大、美術館、画廊、市場です。大学の権力にはなかなかメスが入らなかったのが最近では後で少し触れますが日大を例に見るようにメスが入るようになりました。残念ながらこの世界は絵画で実力を上げることや評価をされることを第一に考えて行動すると生き残ることは無理と言える状況です。絵画の世界も社会も絵画を見る眼は壊れています。そのため絵画の中はやりたい放題。日大の理事会を想像するとわかりやすいと思いますが同じでやりたい放題です。「自由」と称して、既成概念や組織を解体していったおかげで、社会が絵画をどう受け止めればいいのか理解しようがない状態に陥りました。なので世の中での絵画の社会的な地位は根底から崩れていく一方です。現存する絵画の組織は形骸化し、絵画の価値を支える構造が完全に崩壊しているので今の絵画は実力社会ではありません。それでも芸大美大、美術館、画廊、美術評論家、マーケットという組織が存在し「上」という概念が存続してしまっています。それは最悪の事態でありそれ自体が今の状況が確実に崩壊する原因となるはずです。今の組織は元はと言えば革命を起こして作られたものです。つまり画壇を打ち崩しアカデミズムや公募団体をねじ伏せ「自由」を標榜しながらそのように活動してきた集まりです。その人間が結局「上」になってしまっています。本当は上も下もないのです。組織の上を一度壊して根本から見直せば正しい絵画の世界は構築されます。それにはこれから新しく生み出す組織は今のようなブラックボックスには絶対にしてはなりません。脆弱な絵画の世界の中に新しく生まれた組織は必ず日大の理事会のようになります。今は社会からすれば開かれていることが最もいいと思います。それが理想ですが「上」がそれを許しません。
     現場にいる人間のほとんどが「自由」を実現するために切磋琢磨していても状況が一向に改善されないのは組織を立ち上げる時に文教族が利益を得るために作られた美術館であり、大学であり、大学の校舎であったり、団体であるからです。結局は何をしても文教族が約束した会社が利益を得るようになっている。美術館が赤字になろうが大学が赤字になろうがその間に組織の中の人間が利益を獲られていればそれで目的は果たされているのです。文教族とそれを取り巻く会社は組織なり建物といった箱が作れた時点で利益を得ている。絵画の世界やアートが自由と歌いながら自由でないのはそのような「上」が君臨するからです。そういったことを全て計算に入れながら自分がどうのように行動するか?何が「正義」か?を考えていかなければこの世界で生き残ることはできません。絵画の集まりはこのような偽りの自由という土台の上に城を構えている組織なので組織の上の誰にも今の絵画で世界的に歴史的に評価するべき作品がわからないのです。とにかく日本は欧米をパクるしかない。欧米をパクっている様子は芸大美大の卒業制作を見るとすぐにわかります。敗戦国として欧米に従い続けるしかない。そういった構図を知った彼らの大事にしているのは自分たちの「既得権益」本当にそれだけです。この構図を壊すのは若い作家たちが利益を得る構図(システム)を変えることです。画廊や美術館を通さず独自に利益を得られる形を作り上げれば今ある無数の魔の手を消し去ることができます。

     絵画において問題を解決して絵画が復興するための答えは誰もが自由に絵が描けるようにすればいいだけの話です。簡単なこと。それには自由に絵を描ける課題を出せばいいのです。課題では個性で絵を描くことを許します。つまり脊髄反射的にタッチを入れていって構いません。その中にスポーツや音楽と同じくスピードや音色(形と色のバランス)等の差異の全てを項目としてあげ尽くし評価の基準を作り上げてしまえば実は個性によって自由に、そしてのびのび伸びやかに絵を描いて評価され生活していける形を作ることが可能なのです。その時は勿論障害者の作品も正当に評価することが可能です。パラリンピックと同じように平等に正当に評価することができます。そこに輩が入る余地はない。
     課題はまず手始めに「花」の絵を描くことから始めるといいでしょう。障害者も我々も「花」を描けばいいと思います。
     今の絵画の組織の多くは「花」を手始めに「よく描かれる題材」を一つずつ否定しながら「社会」と乖離する論理を構築して実践してきました。その逆を行けばいいのです。

     絵画は改めて自由を受け入れることから始める必要があります。そこには文教族を絶対に立ち入らせてはなりません。絵画の世界に描いてはいけないモチーフや絵はあってはなりません。絵を販売する場所は画廊ではダメです。輩というか反社会勢力が近く遠くから関わっている画廊があります。絵画は野菜の即売所のようにガレージで売ればいいのです。売るというよりも配るといいでしょう。私は自分の絵を売らずに自宅のガレージで配ろうと思います。配る相手は近所の子が理想です。近所の子に何百枚も配ろうと考えています。それが正しい絵画のあり方だと思います。

     政治の世界には保守と革新があります。与党と野党です。私の生徒には実際の所文教族の存在を知りつつその傘下の組織に、みんな与党に行って欲しいと考えています。でも野党に進みたいのであればそれもいいと思います。野に下り世渡りをしないのであれば私のように事業を起こして経済的な体力を身につけたりしなければなりません。その覚悟があればそれもいいでしょう。絵画の世界は単純な努力や評価では、つまり実力行使だけで生きていける世界ではありません。このようなことであることに気づかず戦いに敗れていった人は大勢います。彼らの敗因の多くはこの世界が平らかだと誤解したり、自分には特別な才能があると誤解したり、諸々騙されてこの世界に入ったからです。そして彼らの多くは実は私の知る限り残っている人よりもはるかに優秀です。彼らは小細工を一切しなかった。真っ向勝負したので残れなかったのです。真っ向勝負している人材を拾う気がないのに運営している組織を許すことはできない。こういったことをよく踏まえて絵画の世界に足を踏み入れなければ上手くいきません。今の絵画の世界で生き抜くには絵画の世界で生き残ることに特別に固執すればいいだけのことです。ちなみにこの世界を与党でも野党でもいいのでどのように作るべきかを考え抜くのであれば、そのように絵画に人生を捧げる人は少ないのでこの世界は逆に生きやすい世界だと思います。

     既得権益を持っている人に付いていこうとすると従順でなければなりません。その代わり色んな理不尽にも耐えなければなりません。何か書こうものなら「そんなこと書かれると困るんだよ」(そんなこと書かれると困るんだよハザード)と言われます。身内が犯罪を犯す訳です。社会の眼から逃れられている今は既得権益を握る権力者の天下です。つまり「上」。でもそれが今変わろうとしています。今標的にされたのは日大です。日大であるような理不尽は他でもあります。彼らが共通するのは「可愛がり」をやることです。それは「愛」と言われることもあります。いずれも自分を絶対的強者と思い込み惨めな下々に手を差し伸べてしんぜようと誤解した時に起こる感情です。これは残念ながら東京芸術大学にもある。これから変わっていくのだと思います。
     本来は上も下もなく、区別をする、人間の選別をする以上は「愛」ではなく、正しく厳正な評価の基準が必要なのです。媚びる奴を選ぶような、弱いものに強者が愛の手を差し伸べるかのような考えや感覚は一切持ち合わせてはならない。「愛」という言葉はいらないのです。

     人の幸せとは単純ではありません。仮に理不尽が社会から標的にされるようであれば愛で守られた従順の努力は水の泡と消えると思います。上は絶対的強者のそぶりで「愛」を口にしますが、それに心から従っては絶対になりません。上があなたを確実に選ぶならいいでしょう。その愛の代償として身も体も捧げてください。それであなたがいいのであればそれでいいでしょう。でもその愛はあなた以外には注がれないはずです。「愛」とは特定の人を選別する言葉です。誰にも平等に与えられるものではありません。
     不幸は自分の中にある全てを否定するものではありません。つまり全てにおいて不幸とは言えません。努力が水の泡になった時、泡になった代わりにとても晴れやかな清々しさを感じるかもしれません。それであればそれは幸せなことでもあり、本当は出せなかった本音がやっと出ているのだと思います。表現者としては大事にしたいところです。

     あなたがもし「自由」を大事にしたいなら、既得権益を持っている人の言うことを全く気にしない生き方をすることが最も自由な姿だと思います。いわゆる天才とはこのような生き方を貫き既得権益を生み出す構造を根こそぎ破壊して、根底から物事を覆す結果を出せる人のことです。天才の姿勢は従順ではなく強情です。
     私は正直昔から日大は馬鹿だな〜と思っています。少し前のアメフトの監督が学生に他校の学生にタックルして怪我を負わせるように命令したようなことをしていることは昔からわかっていたことです。そして最近日大理事長(原稿を修正している今は元理事長)が馬鹿なことをしています。これは従順が生んでいることです。この従順は絵画やアートの中にもある、というかそれしかないようなとても悪い状況です。これを根底から覆すには権力者に従わない勇気を持たなければならないのです。でも残念ながら絵画の世界は従順な人しか生き残れないし、その結果従順な人しかいません。「自由」はそこにはなくあるのは「上」です。とても長い間権力者の既得権益は細々と守られています。
  • 絵の課題の前に〜7「絵画はやり尽くされていない、描いている時のことは全く書いていないのだから」

     アートの世界では「絵画はやり尽くされた」と言われていますがそれは全くの間違いです。正しくは「絵画のジャンル分けの作業が完成した」、又は「絵画のカテゴライズの作業が一通り終わった」です。絵画がやり尽くされたのではなく分類の作業が終わったにすぎません。それがわかっていても先人達は、特に日本の先人達は全く声を上げることなく従い続けてきた。「東京芸術大学など外から見れば雲の上の存在のどれも誰も何一つできずにただただ大人しく従うしかなかった。」というのは雲の上を見てきた私のいる雲の下への報告です。このことがアートや絵画の世界が外や内側から見て外の人も内側の人も意味がわからなくなってしまっている大きな原因だと思います。外にいてずっと疑問に思っていたことも内側にいて誰も、東京芸大の教授ですら腑に落ちていない状態であることも最近になってやっと理解できた。結論は「大昔から、おそらく何千年も前から何も変わっていない」です。

     かつてエジプト文明では絵画の様式は3000年変わらなかったと言います。今の状況はそれとさして変わりません。最近まで漫画やイラストはアートの世界では認められていなかった。今でも芸大美大受験ではイラストを描くのは御法度です。どんなにいいイラストでも受かりません。それは分類しているからです。これは絵画であればいいというものではありません。
     公平公正と表向きは歌っても全く公平ではなく、公平公正であるべき入試を例にあげてみますが東京芸大の根本的な問題は入試の出題をリークする教官がいることです。私自身入試前に出題を知っていることは多いです。もちろん東京芸大の内部の人間もリークしていたりかつてリークを受けてきたのですからリークの事実は承知しています。入試に関して予備校と芸大との水掛け論に折り合いがつかないのはこの事実があるから。この事実を伏して解決しようのない不毛な遠吠えを続けています。都合が悪いので両者ともにここから始まる問題に手が出せないのです。これによって被害を受けているのは東京芸大とリークされている予備校ではありません。情報の入らない予備校と受験生を抱える高校です。私の高校生の時からの悲願は全国のどこからでも東京芸大を目指せることです。
     入試を公平公正にするのは簡単です。リークを完全に無くすことです。東京芸大の内部の人間は誰がリークしているかは知っています。でもそれを改善するでもなく隠蔽するしかない。東京芸大は合格者がひとつの予備校に偏る状況を予備校のせいにします。でもこのことはリークから始まっていることなのです。東京芸大が本気になればいつでもなくせること。ここに東京芸大の心が現れています。リークが無くなればひとつの予備校に合格者が偏ることはなくなります。でも東京芸大は善意として個人的な「愛」であるリークをするのです。一時期は毎年試験問題がわかりました。その時に担当している生徒のことを思えば試験問題がわかっていることは助かる。でも頭の隅に九州の高校で芸大一本で何もできなかった自分の苦しみの部分が当時のままの悲鳴を挙げます。リークされた情報を知らない大多数のことを考えてください。東京芸大にとって何が一番大切なのか?それは知り合いと自分に利益をもたらすことではなく入試に関わる全ての人に公平であることです。
     東京芸大の公平でなくても構わないという横暴な体質を生む緩みは入試の評価を都合よく適当に決めて良い所から生まれています。評価の仕方をしっかり公開するか固めることができれば横暴を許す隙間は限りなく狭まります。油画専攻では合格させる作品はその時の都合で決まっており一貫性は全くありません。都合の悪いことの全てを隠蔽していることも緩みを生んでいます。大学院の入試ではイラストでも教官の都合が良ければ合格します。よくある例では他に受験者がいなければ合格です。この都合は東京芸大の教官や他大学の教官を決めるまでに至ります。全ては教官の都合で決まっていることなのです。教官がどう動くか?それを踏まえて動かなければ物事が上手く運ばないことを知っていてください。
     入試でなくとも、これまで絵画の中では一部の画風やスタイルしか認められていませんでした。あらゆる絵の中でこれは認めるがこれは認めないと言う選択をすることで選民思想的な上流感覚に興じ、自分たちのみが正しいや価値があると悦に浸り、自分たちだけの利益になるように自分以外の組織を否定しながら儲かる方程式を作り上げ、根底にある自分たちさえ得すればいいと言うエゴを満たしてきた。このような偏執的な状況は考えられるだけのスタイルを創造し尽くした今はなんとか少しずつ変わるようになってきた。近年では絵画らしい絵画こそ全く日の目を見ることはないにしても、これまで絵画の世界では全く認められていなかったイラストチックな絵は受け入れられるようになってきている。

     これまで絵画の中では絵を描くと言う仕事は新しいスタイルの確立に完全に偏ってきた。「ただ描くこと」を一切認めなかったと言っていい。私なんかは本当はただひたすら描きたかった。でもそれを認めてはもらえなかった。私以外にも公募団体などで描くことを主体としている画家は全く認められてこなかった。でも不思議なのはなぜか東京芸大が団体を否定せず守っている場面もある。美術評論家からしてみれば描くことを認めれば評論家の立ち入ることができない狭い範疇の中の出来事を肯定することに繋がる。つまり「描く」ことを肯定することになる。狭い絵画の世界をなんとか広げさせようとする懸念を解決し広げることに際して湧き上がる心配の種を潰すこと以外の話は一切タブーとなった。やがて画家の仕事として推奨されるのは「絵を描くこと」ではなく、絵画の外の「現代美術」の世界の仕事になりました。学校で絵に触れ、賞をとったり良い成績をとって自信を持ち、絵に興味を持った学生の多くは絵を餌にこの世界に集められ、そして上手く集まった後は逆らえない状況に立たされ絵の外の現代美術の世界に進むように教育(洗脳)されてきました。タブーとされる中で絵を描く組織は形骸化し力を失いました。形骸化したお陰で硬かった絵の世界の壁は溶けていきました。そのお陰でもうじきイラストが絵画の世界に受け入れられそうな気配を感じます。
     そんな仕事の中で生まれた論理が「絵画はやり尽くされた」です。その言葉は同時に「絵なんか描いてもしょうがない」と言う状況に陥ることを簡単に想像させました。なので東京芸大の教授の一部は「絵なんか描いてもしょうがない」と連呼した。当時の声は25年経った今でも私の頭の中で鳴り響いています。どいつもこいつも絵を描くことを否定することしか言わない。絵のジャンルを増やしていく、発想していく水平思考の脳はいとも簡単に画家の「絵」への執着心を消失させ「絵」から人を引き離しました。

     我々は風潮に合わせて空気を読み無自覚に「絵」から離れた。そして難しいことはよくわからないが何となく「絵画はやり尽くされた」と思ってしまう。よく仕上がっていますが私はそんな気がする人は「上」に巧みに洗脳されていると思います。
     新しいジャンルをカテゴライズしていくゲームとしての絵画は本来一部の人間がやればいいだけのことです。カテゴライズされた中で絵を描く人はそんなことを考える必要はありません。スポーツに例えるなら「野球」が生まれて西洋ではなくアメリカで流行らせると言うのは一部の人間が考えればいいこと。野球をする人たちはその辺りは考える必要はありません。しかしアートの世界、絵画の世界はその後すんなり絵を描かせなかった。絵を描かせなかった所に一部の人間の余計な都合があるのです。野球をさせたくない一部の人間によって行われたこれは「洗脳」です。
     かなりよく仕上がった洗脳なので実感は全くないと思います。無自覚に、そして何となく。実際には「絵画はやり尽くされた」全くそんなことはありません。これは美術評論家の都合ではじき出される考えです。絵を描くこととは関係ありません。これをスポーツや音楽にあてはめて想像してみてください。「スポーツはやり尽くされた」「音楽はやり尽くされた」当てはまりませんよね?これはスポーツをやる側、音楽をやる側からすればスポーツすることに終わりがないこと、それは言うまでもないことですし、演奏することに終わりがないことも言うまでもありません。スポーツと音楽には「洗脳」がかかっていない。絵を描く側ではなく、スポーツをする側ではなく、音楽を演奏する側ではなく主催者が主導権を握りたい時に「やり尽くされた」と言う言葉がどうやら出てくるようです。事実絵画の世界で主導権を握ったのは美術評論家、キュレーター、美術館、画廊です。彼らにコントロールされている絵画の世界は「やり尽くされた」と言われるようになった後に絵を描くことが終わったかと思えるような空虚な時間が続いています。しかし描くことに終わりはありません。このおかしなことは権力闘争の中で迷走する内に混乱に乗じて誰もが気づかないうちに論理のすり替えが行われて起こってしまいました。この洗脳を受けた人は絵をやめた。今日は洗脳を解いて絵をやる話です。

     「絵画はやり尽くされた」はほどなく「絵なんか描いていても仕方がない」という誤解と錯覚を生んでしまいます。事実世界中の画家が筆を置きました。そして本当に絵を描いても評価されない仕組みに変わった。私の通った東京芸術大学でも絵が描けない状況が続いた。絵画はやり尽くされたと言う言葉は絵画のやることがなくなり、描かなくてもよくなったと言っているように聞こえますが、実際には絵を描く画家の立場からすればまだ何にも始まってはいません。完璧とも言える強力な洗脳がかかっているため始めることがとてもひと苦労。相当豪腕で大きな鉈を振るわなければことが動き始めません。「絵を描いている時のことを書く」これは近年全くやってこられなかったことです。書かれなかったのは絵を描く論理は洗脳のために封じ込まれたパンドラの箱を開ける鍵となり、「上」をブスッと綺麗に綺麗に貫くロンギヌスの槍となるからです。

     画家は自分の描いている絵を描き始めから描き終わりまでず〜と見続けています。この時間は美術評論家によって全く価値のないものとされています。描くことの意味を否定し描くことを無価値にして、「絵について考えること」を最も大事なことにしています。でも洗脳を解いて描くことを再認識しなければなりません。描き始めから終わりまで見続けることは大事なことです。誰がなんといおうとこの時間が大事。画家はこの時のことを「書く」べきです。これは美術評論家に書くことはできません。この期に及んで文章が苦手だからといって彼らに甘えても仕方ないでしょう。今の状況は半分書けなかった画家のせいです。何も書けない画家のために美術評論家が代筆した、そうなれば描いている時のことなど美術評論家にわかるわけはないので絵を描き終わって鑑賞する時の話や作品の時代背景などの話になるのは当然と言えば当然です。

     絵を描いている時間は画家が作品に最も長く触れる時間です。画家でない方でも描いている時が最も長く触れる時間だと思います。描く時間に最も長く触れている人同士は同じ価値観を共有しています。そこで共有している価値観の体力は社会に対して非常に脆弱で社会で権力を振るう学校や美術館などに簡単に吹き消されてしまいます。でも本当はそこにある価値が最も大事なものなのです。絵画の世界が確立して来なかったのは描く時にある様々なことを言葉にし、その言葉を要素としてお互いが繋がっていくことです。共有することができれば絵画の価値として成立していきます。スポーツではほんのコンマ何秒の差のことを共有できます。その瞬間について世界中の人と繋がることができる。そしてその瞬間には無限の可能性がある。音楽も同じです。絵画や絵はその点全く手付かずで未熟な状態です。強いてアニメや漫画の世界は繋がろうとしていますがコンマ何秒で繋がれる術をあまり知りません。あるにはありますが例えば「バルス」です。絵で繋がる価値は未来で必ず確立される。確かに存在する大事な要素。要素について徹底的に書かなければならないでしょう。美術評論家と美術館の権力を簡単にねじ伏せられるように徹底的に書かなければなりません。絵について考えることの時間は絵を描くことに重点をおいている人たちの中では少ないはずです。一方でその人たちとは違う時間を過ごしている人たちがいます。それは美術評論家です。絵を描く時間よりも絵について考える時間の方が長い、ほとんどが考える時間です。今社会で確立されている絵の概念と価値観は美術評論家が作り上げた論理です。そこには描いている時の脆弱な描く感覚は一切含まれていません。

     美術館と美術評論家は見る時間と考える時間は最大限に評価しても描く時間のことを全く評価しません。見向きもしない。見てもよくわからない。見てしまうと自分たちの都合よく作り上げた構造が根底から崩れるのが直感的にわかるから反射的に嫌厭する。そして学校の先生もこの絵を描いている時間のことを評価しません。彼らは真っ白で加筆する手の入らない絵に、又は真剣に消してしまった絵に、必死に描いて真っ黒に潰してしまった絵にどんな意味があり価値が見いだせるかわかりません。そこには絵画の無限の可能性があるのです。真っ白に消された絵の制作途中には意味があります。大事です。しかし美術館は意味があるという話になってしまっては困るのです。学校も困ります。権威が揺らぐ可能性があります。成績のつけ方と評価の仕方がわかりません。両方ともポンコツです。絵画は真剣に取り組むほど描けなくなることがある、そんなことも踏まえられないポンコツちゃんです。特にポンコツなのは美術館です。美術館は絵を展示させることで支配が完成します。だから描き途中の話は都合が悪い損するばかりの辟易する話です。描くことの話になってしまえば顔で笑っていても心が泣いています。美術館は画家が絵を展示することにどれだけ執着するかが大事です。展示が画家の餌ですから。画家が美術館にすがれば美術館はそれだけ権力を保てます。美術館の努力は権威を守ることです。美術館は画家と鑑賞者を徹底的に管理します。学校もしかりです。

     完成された絵からは制作途中にある価値はほとんど見えてきません。途中の行程の詳細がどれだけ見てわかるのか?美術館と学校は手に取るようにわかるとほくそ笑みながら言うでしょう。でも実際にはさっぱりわかりません。そのため絵画を破壊する無謀な保存修復がなんのためらいもなく施されます。修復の終わった作品の全てが全くの別物です。それは描くということに対する興味が欠落しているために起きています。別物になっていることを見てみぬふりするのは見てしまっては描き途中のことが何一つわからない素人であることがバレてしまうからです。別物でも書類上は本物です。これが保存修復です。
     絵の制作途中には価値があります。実際問題、完成された作品からは制作途中にある絵の価値のほとんどが見ることができません。でもこれは動画撮影が変えてくれるはずです。美術の、美術館の盛り上がる可能性は実はここにあります。動画撮影で記録をするべきです。現状で私は「絵を描かない画家」なので今現在絵を描いている画家のみなさんには動画撮影をしてネットにあげてほしいと思います。絵画が描くこと自体の意味を認めれば、ダンスに負けないくらい、漫画に負けないくらい価値を持ちます。美術を扱う美術館も今の不毛な採算の取れない馬鹿げた企画ではなく初めて世が認める価値を持つと思います。これを書いている今、森美術館で鬼滅の刃の原画展を行なっていますが、美術の側が一線を画して必死に差別し軽蔑している漫画の展示は長蛇の列。その一方女性アーティストを集めたTHE美術と言える展示の方は私が原画展に並んでいた多分200名程度入場した30分間で1人も入場者はいません。この件に関してはいつか詳しく書こうと思っていますが、簡単に言えば漫画の世界の方が権威で人を見下ろし、管理することなく人の目線に立って価値あるものを提供し続けている素晴らしいものだということです。一方で美術は権威を祭り上げてから、上から下々を見下ろす構図を作り、その構図を最も大切にしながら、「下々」にお金を払わせ、絵を鑑賞させる。そして下々には自由に好きなように見るように命令し学校などで下々は下々なのだからありがたい美術館に行くように命令される。いかに命令と言えど人は本当の自由になった時に本当に価値のあるものを選びます。その結果が原画展とTHE美術の展示です。美術館の関係者が言い放つのは「教養がない人は見にこない。来るのは海外の方ばかりだ。」です。これは根本的な誤りです。日本人もそこそこ教養があります。そこまで馬鹿ではないです。学校では年月をかけて教育をしています。教育のシステムに構造的な間違いがあるからこのような問題が起きるのであって一般の人の誰にも非はありません。一般の人たちに教えるべきものがあるのであれば幼稚園、小学校、中学校、高校でしっかりと責任を持って与えておくべきです。でも教えるべきものを並べてみてください。冷静にそれを見ればそれを教育する必要が実はないことが見えてきます。今のままでいいのです。見えてくるものは既得権益を得るものたちの利益を守る構図です。それを美術館やアートは教養と称しています。本来みなさんは真面目に学校に通い学校の与える絵画の教養を与えられています。その教養をフル動員してもさっぱり訳がわからないのです。つまり学校では偽の教養を与えて誤魔化している。美術館や指導要領を作っている人間に教養がない訳ではありません。でもこの矛盾や問題を知りながら無視をしています。無視をする理由は既得権益を第一に自分たちの都合よく動かしているからです。そうするとみなさんはわからないものは切り捨てていい。学校に通って教養と称するものは真面目に授業を受けて勉強しているのですから。それでも教養がないというのであればそれは指導要領を徹底的に叩き壊して正しいものに作り変えるべきです。みなさんは教養を得た上で正当に選ぶべきものを選んでいるのです。本当は絵にも美術にも大きな価値があります。ただこの価値の教え方を誰もが間違っている。この価値が花開かないのは仕上がった作品でなおかつ賞を取らせた本当に数少ない作品しか取り上げないという支配のための構図を壊さないからです。壊さない理由は権力、特に利益を手放せないからです。芸術作品はしばしば国益のために利用されてきました。日本では千利休が二束三文の茶器を高額で売り秀吉に儲けさせた。ドイツの美術館はユダヤ人を虐殺し死体から剥ぎ取った宝飾品で作られた。このようなことに利用されることで構造が壊れるのです。
     「絵」において描くことは最も大切なことです。一握りの巨匠ならいざ知らず、美術の外の世界の一般の皆さんにとっては完成された作品を評価されることよりも絵を描くことの方が自分と絵との関わりの中では大事です。美術館と美術評論家と学校の先生が描くことの意味を深く考え評価しないことによって描くことにある多くの意味は気づかれていません。斜陽にあり誰もが指を咥えてどうすることもできずにアホ面下げて死んだ魚の眼をして鼻水垂らしている最中で「絵を描くこと」の意味を誰も語れずにいます。これは画家が美術評論家と美術館に平伏し支配されているから起きる事態です。美術館よりも画家のアトリエの方が大事です。美術館よりもご家庭の方が大事です。美術館はただの倉庫。倉庫を素晴らしいもののように化けさせているのは美術評論家と美術館です。美術館はただの倉庫です。騙されないでください。美術の世界において大々的に話題にすることはありません。このことは美術の世界の本当に残念な過ちだと思います。画家のみならず絵を描くことに触れたことのある人の多くが最も実感を持って感じている絵の価値は絵を描くことです。でも美術評論家はこの最も大切な「描くこと」を評価する力がありません。美術評論家は絵の世界を考える世界に置き換えることで生業としています。そして描く世界から考える世界に塗り替え支配し続けています。若い美術評論家の多くは描くことの素晴らしさに気づいています。しかし出世をすると今の絵を考える世界を守らなければ自分の利益にならないので描くことから目を背け仕上がった作品のしかも画廊と美術館に展示されている作品にしか見向きしなくなります。この姿を見るたびに私は「絵を描かない画家」であり続けたいと思ってしまいます。自分の中の美学というか真実に向かってただひたすら真直ぐ進むとなればそのような美術評論家のいうことには未来の無さから関わる意味をひとかけらも見出せないのです。全く評価されていない、何よりほとんどの画家は出来上がった絵を鑑賞する時間より全然長い時間描き途中の絵を見続けています。描いている時間も観ている時間です。飾っている時間よりも観ている時間の方が圧倒的に長いものです。それが観ている時間の話ばかりされる。描いている時に観ていることの話は全て無視。画家にとって描いている時は最も大事な時間。そして画家でなくとも全ての人間の絵を描いている時間がどれだけ大事なことか。我々が描き途中を話題にしないのは、描き途中の話をする論法を持たないからです。それは美術館などの権威が完成されたものしか話題にする機能を持たないからです。絵画は鑑賞と販売で成り立っている。そこに描いている時の話はありません。美術館は大昔と変わらず沢山ある作品の全てを見れないために1つに選んでそれ以外は流すといういかにも乱暴極まりないシステムを惰性で運用しています。「馬鹿か?」と思います。スポーツはスポーツしている時を大事に考えています。音楽は演奏している時を大事にしています。動物園は動物が生きている様子を大事にしています。美術館は完成した作品しか扱いません。馬鹿そのものです。動物園であれば死んだ動物の剥製しか鑑賞しないようなもの。「馬鹿か?」と思います。いや間違いなく馬鹿そのものでありポンコツです。絵には数秒で描き終わるものもありますし、数分かかるものも、1時間程度かかったり、10時間程度かかったり、100時間、1000時間かかったり、一生描き続ける作品もあり様々です。それぞれに生きています。それぞれに全く違う素晴らしさがある。「そこ」だと思います。えらい美術評論家は「絵画の時代は終わった」とさもそれらしいことを言ったみたいです。「馬鹿か?」と本当に思います。いや「馬鹿だ」と断定できると思います。そうすることで絵画の世界は大きく発展するのですから。
     便利というところでしょうか。でもその便利さの陰で絵画の世界は大事な本質を見逃し絵画が大きく発展する機会を掴み損ねています。絵画が完成されたものしか扱われないのは、絵画を販売する権利を持つ者の都合と鑑賞させることによって利益を得る権利を持つ者の都合を中心に絵画の世界が回ってしまっているからです。この世界では美術館の権力が大上段に掲げられて画家は支配下に置かれ美術館の権力が行使されています。この状況が一向に変わらないのは美術館に代表する権力者が画家を奴隷と考えているからです。多くの画家の制作の労力には見向きもしない。奴隷はどれだけ働こうが作業しようが奴隷の作業時間など美術館は評価する必要などありません。仮に評価してしまえば今の立場が揺らぎ、既得権益が永遠に得られ続ける立場を失いかねない。本音を言えば我が金が全て「下賤の者の労働など知ったことか。」そんな感じだと思います。画家が出来上がりの作品などの形と評価など結果といった形に残るものだけを大人しく静かに出しさえしてくれれば権力者はそれでいいのです。権力者は画家に奴隷と直接言うことはありませんが、コレクターやギャラリストは奴隷なり、「早く死ねばいい」と言い放つ馬鹿が今まで何人かいました。美術館はしたたかだと思います。画家が「奴隷」という感覚は確かな慣習として根強く残っています。奴隷の作業の経過などどうでもいいし、ねぎらいや評価など一切する必要はないと権力者は考えています。下賤の者に労いなどそんな振る舞いは権力者には似合わないし、権力者が下賤の者の作業などの汚いものに触れれば権力者ではなくなると考えています。特に美術館という権威の横柄さ、横暴さはひどいもんで、一切制作途中を評価したり取り上げようとはしません。扱うのは出来上がりの作品ばかりです。このことは画家ではない一般の人たちに大きな影響を与えています。何よりも発表をする必要のない人たちが制作することの価値を、大上段から美術館は否定しています。それによる絵画の被害はどれほどのものか、暗黙の了解で絵を描くこと、描いている時のこと、感じや考えていることなど全て切り捨てているので、描くことが主体の発表しない一般の人たちの目で見たり、手で触れたり、聞こえてくる筆の音や絵の具の匂いなどの全ては取り上げるようなたいしたことではなく「つまらないこと」だと考えています。画家にとって最もリアリティーのある絵は制作している時に目の前にある絵の出来上がるまでの絵です。画家でなくても同じことです。美術館はこの最も大切な「出来上がるまでの絵」を全く無視します。これはつたなかろうが完成した作品の評価がどうだろうがそんなことよりも個人としての絵では最も取り上げるべきことなのです。絵を描く労力が見向きされないことは2000年前に滅びたエジプト文明から何も変わっていないのです。「画家という奴隷を管理する権力者が王から美術館に変わった」それだけの話です。私はこの構図をブッ壊そうと思います。
  • 絵の課題の前に〜8「へっぽこ美術館は絵の価値を偏見で決めるのを直ちにやめ個人が描く全ての絵の価値に目を向け広めることに専念しなさい」

    「へっぽこ美術館」

     へっぽこ美術館とは日本にある全ての美術館のことを言います。へっぽこと私が命名しました。美術館がへっぽこである根拠は評価の全てに効力がないからです。まず、幼児、小学生、中学生、高校生に対する評価の全てがサッカーなどの美術以外の世界のようにプロに全く繋がりません。(プロがいないという訳ではありません)東京芸大油画の入試においては偶然の一致が数%(1%程度あるかないか)の確率であり得ることはありますが全くないと言い切れるほどありません。つまり私の元にくる生徒に受賞歴がある生徒とない生徒が半々でいますが全く整合性はありません。大人についてもプロに繋がる可能性が全くありません。高校の美術の成績も全く参考になりません。そしてそのような状況を尻目に美術館は最近ではバスキアやバンクシーや東京で行ったので言えばバルセロの美術展を開催して堂々とチケット代を回収します。彼らの作品を評価しておきながら、どのような作品が世界に通用するか鼻高々にご高説を宣い(のたまい)ながら国内の幼児から大人までの全ての人に彼らの作品について教育し次のバルセロやバンクシーを育てると理想的な虚言は語りますが、具体的に実行し育てる気は全くありません。さらには絵画のプロの世界のことを語っておきながら国内のコンクールでは世界に通用する目線で作品を評価する気配が微塵もありません。あるのは全く通用しないような偏った無意味な評価です。そんな気配の中にあっても幼児から大人にかけて意味はない賞を内容はともかく賞を得たこと自体に意義があるような感じで絶賛しながら与え続けています。コンクールではバルセロと同様の作品が幼児、小学生、中学生、高校生、大学生、大人の出品作品から出てきても全く評価しません。私の経験上そのように指導した子供や大人は全て落選(落選は最初からわかっていますが真っ当な指導するために無視して指導しています)です。バルセロやバンクシーのような人が出てきたとしても評価し世界の舞台へと押し上げたり世界へ繋げる力が全くありません(美術館の機能として致命的です)。バルセロのような絵画を制作している画家は日本にもいます。バルセロを大上段に上げる時間があり偉そうな評価を下す暇があったら日本の画家のプロモートに梃入れし美術館に評価する力があるのであれば世界の表舞台で日本の画家が活躍できるようにしろ。と言いたい。ただし、日本は弱い国であり、それだけの論述の力のある美術館と学芸員がいないのでできません。さらには実現するには他にも大きな力(こういったことを踏まえなければ画家として生き抜くことが困難であることを知りうる事実の全てを処方箋として教えなさい。)が必要で・・まあ諸々の本当のことを日本人に伝えながらそのような背景の中でのバルセロ、バンクシー諸々だと正しく話せと言いたい。ので私は日本の全ての美術館が使えねー、無能、可愛らしく言えばへっぽこだと言いたいのです。幼児にも中学生にも高校生にも大人にも画家として死んでもいいくらいのつもりで絵を描いている人がいます。しかしあまりに美術館に力がないので彼らの全員が生かされないのです。幼児でも高校生でも真剣な人がいます。彼らの夢を叶えられないのであればその訳を幼児でも高校生でも話すべきです。話さず賞という栄誉だけ与えて誤解を生むのはあまりに罪深い行為だと、そこのどこに正義があるのか?と本気でそう思うのです。日本の美術館は弱い、そう考えた時にバンクシーのように美術館の外で活動した方が可能性を感じ成功のイメージを見ることができるのです。私は生徒に日展にしろ、県展にしろ、セゾンアートプログラムにしろ、ゲイサイにしろ、岡本太郎大賞展にしろ、絹谷幸二大賞展にしろそれぞれが押し出した画家の押し出された経緯を知った上で、ガチで出品した画家から評価される可能性を微塵も感じないことから生徒に出品を勧められるものが1つもないのです。自分の生徒には押し上げられるべくして押し上げられるレールが見える時(例えば事前に賞を取らせると密かに耳打ちして声がかかります。私ならきもいので無視しますが。受け入れた(気持ちの悪いマウンティング)奴が出世します。)に気が向けば出品するように指導しています。それぞれの展覧会が与える賞は後光が差すほどの栄誉のような言われ方だけします、日展でも県展でもそうです。本来であれば日展や県展からバルセロが出て来なければならない。それが全くできないのはその展覧会と美術館に力が全くないからです。全くないのは強者の論理で筋を通す絶対的に正当だと押し切れる評価(実際は個人的に押し切れるものを掴んで美術館など通らずに活動した方が楽というか間に美術館をかます必要が全くありません)を全く持たないからです。学校では甲子園やオリンピックでメダルをとった中学生や高校生と同じ列に並び県展や高校美術展で受賞した人が朝礼の舞台上に並べられます。その実際の質の差を考えた時に鳥肌が立つくらいみっともないし寒いのです。だから私は賞を取った子や人を見ても全く嬉しくないし笑えない。全くことが上手く運ぶようにならないので緊張感が解けることはありません。というかぬか喜びの無意味な褒賞を与え緊張を解こうとする美術館が犯罪者にさえ見えます。現状を知っているのになぜこのようなことを平然とできるのか私には理解できない。私が考えているのは甲子園で優勝したりオリンピックで金メダルをとるように絵画の世界でバルセロと並ぶように生徒を育て上げることです。冷たいかもしれませんがお世辞や虚勢を生徒に持ち込む感覚は微塵ももてません。私の指導は美術館のようにおぞましいものではなく神聖なものです。誰もが不可能だと考えるかもしれませんがそんな常識など一切気にせずただ前だけ向いて指導していく感覚しか私は持ち合わせていません。本当に美術館は何やってんだろうな・・と思い悩みます。

    「美術館が来場者を増やす唯一の方法」

     今日はへっぽこ美術館に絵に興味を持つ来場者が増える必殺の方法を教えてしんぜようと思います。まあ学芸員としての出世には繋がらない話ですが絵のために働く気が微塵でもあれば読んでみることをお勧めします。結論は簡単です。絵の展覧会の全てにおいて優劣をつけることをやめ全ての出品作品の絵画的な価値を論熟し尽くす程書き上げて出品者に渡し鑑賞者に渡し公に公開することを続けるのです。そうすることで出品者と鑑賞者の絵に対する興味は高まりいずれ世の中の人の絵に対する知識が増していきます。そして日本で唯一価値のある美術館として歴史に残りたければ実行することをお勧めします。ゆくゆくは世界的にも美術館のモデルとなると思います。これを読んでこれしか生き残る道はないと考える美術館はさっさと始めてください。優劣をつける展覧会を催したり入場料をとる展覧会を催すのは人の知識が十分に高まり評価が確定し求められるようになったその後からです。その後は難しくないだろうからご想像にお任せします。
     ちなみにへっぽこのへっぽこは六本なんちゃらとか板橋なんちゃらとか美術館全部です。私にとって絵の価値を見出せない美術館は全て何の価値もありません。昔は期待していましたが今の美術館のどこに油絵を描く画家の期待を背負えるところがあるのでしょうか?いやありはしません。心に絵があるのなら、へっぽこから抜けたければこの下もさらに読みなさい。

     皆さんご存知の通り絵を出品する場所といえば画廊か美術館です。そして画廊で注目された絵から美術館で展覧会をさせる作品なり画家を選ぶ権利を持つのも美術館です。画廊よりも上のランクというイメージが美術館にはあり、逆に画廊や市場で評価された絵を美術館が収集するということもありますが、世間の目で言えば諸々を一番上で管理し決定し支配している感があるのが美術館です。世間のイメージで言えば美術館の館長というと鬼みたいな顔をしています。 
     そのため絵の価値は鬼の巣まう美術館に決められていると言えると思います。実際に展覧会に出品して落選させられる幼い子供の恐怖心と言ったら実際に悪さをすることがない物語の中の鬼以上に実際に子供の心を奈落の底に落とす美術館の人間の方が恐ろしい存在です。外には菩薩のような顔をしていますが大多数の人に実際にやっていることは鬼です。絵の価値はこの鬼が決めています。つまり絵の価値は全て人(鬼)が決めているということです。黒く引かれた線を良いものか?悪いもの?とするかは鬼のボスの閻魔大王の匙加減にかかっています。「その論述の力を全ての人の絵に向け全ての人の絵を肯定する」ために使えというのが今回のお話です。
     絵の価値は生得的なものではありません。生まれ持った才能ではなく学ぶものです。これも閻魔が仕掛けてのこと。そのため生まれ持ったものから何かが出てくるか待っても今のところの美術の中では評価されることは永遠にあり得ません。閻魔が全ての人の絵の中から価値を見出すようになれば生得的なものから出ていることに価値を与えることができます。殴り描きひとつとっても自称アーティストで閻魔の都合のいい者の殴り描きは評価されることがあっても子供の殴り描きが評価されることはありません。子供の殴り描きを評価することは展覧会を催し受賞作品を選別する機能そのものを破壊し、それまでの賞の意味の全てを駆逐してしまいます。(実際にはそれでいいのです。バスキア、バルセロと並行して子供や大人の作品を同等に同様に評価するのです。バスキア、バルセロを大上段に掲げるのではなく正統に作品を見て評価し絵画を見ることに優劣を持ち込む意味を完全に無くすのです。)展覧会を企画することによって権力構造が生まれ閻魔は支配者になれるのです。逆にその構図の意義が閻魔と餓鬼にしかないことに世間が気づけばこの構図は簡単に壊すことができます。これはその序章のためにも書いています。絵の中には閻魔の力によって封じ込まれた、正義の、生得的な絵の価値は人の描く全ての絵の中にあります。その価値は素晴らしいものです。それを鑑賞したり描いた作品を大事にすることは絵にとっても人にとっても大切なことです。そこに閻魔と賞の介在する余地はありません。そしてそれを人に伝える役割を担うのは本来美術館です。美術館の世の中に対する最も重要な役割は残念ながら微塵も果たせていません。これを実行しないのは権力のためです。
     今ある絵は閻魔やその下っ端の餓鬼がこれが良いものであると価値を勝手に決めているものです。そのため決めたことを教育してからでなければ絵を見ても勝手に決められていること、しかも鬼が決めたことなど知るわけねーというのが、いいものの正義よりの世間な訳です。絵を見に行っても怪獣とか悪魔みたいな絵ばかりでそれをアナザーなんちゃら絵とか言わても鬼の決めたことがすんなり頭には入る訳ないのです。現状では現代美術なり絵なりモードなりコードを知らない人間が悪いと美術館なりの言い分が正しいとのことですがとても不遜だと思います。まあ一般の皆さんからすればそのような諸々は煙いだけの話です。どれだけ美術館から自分達を正当化されようともこちらと齟齬があれば永遠にただのへっぽこです。そしてよくそんな神経でいられるなーと思うと同時に鬼のイメージがピタッとハマりすぎてどうにもハマりすぎるのが嘆かわしいです。自分達が正当だと思って色んなところから絵を集めても齟齬が生じ価値観が食い違い食い違った認識の差を埋める「教育」(これポイント!テストに出ます)もせず(せめて幼稚園から高校までの先生を対象のレクチャーぐらいはしなさい)ただ金欲しさに広告し来場者を集めようとして閑散とした展覧会をやり続けそれでも給料はもらえるから良しとしているへっぽこ学芸員の君(守銭奴の君はとっても素晴らしい!)。それでも美術館を再生できる手立てはない訳ではないので嫌々ながら君が改心するために書いています。少し前に鬼滅の刃の展示を六本木なんちゃらでみましたが隣の絵のアナザーなんちゃら展覧会はまー30分程度チケット売り場の鬼滅の行列に並んでいる間にだーれも誰一人チケット買わない。この齟齬は本当に情けない・・。
     現状では美術館は信頼され信頼を利用して子供たちや大人たちの展覧会を開催し賞を出したりしています。信頼を得ている分美術館が開催している展覧会の影響は世間では思いのほか大きものです。その際に評価されないことで絶望する子供があまりに多く、賞をもらったことで才能があると誤解して人生を踏み外してしまう子も残念ながら多く出てきます。展覧会の後の問題は評価の精度が低いことから起こります。評価がプロにまで伝搬されていないのです。つまり美術館始まりの美術館で終わる外で通用しない効力の全くない評価です。子供たちの人気のサッカーであれば評価された続けた子供はプロの世界にスムーズに入っていきます。しかしこれが美術の世界になると続くことが一度もないのです。全く参考にならず当てにならないものとして考えなければ人生を生きる上でのさまざまな問題が起きてしまいます。子供たちに与える賞は最終的に高校生を対象にしたコンクールへと展開します。この高校生対象のコンクールの評価でその先のプロ、つまりアーティストや画家になったり東京芸術大学に合格するようなことが全くないのです。本来であればアーティスト、画家、受験に完全に通用する評価が正当な評価です。それが展覧会に出品して力試しをしたい出品者や親御さん、学校の先生などが展覧会に参加する目的であり結果に期待し信頼しているところです。その信頼を完全に裏切るのは展覧会のあり方自体に大きな問題があるからです。私が特に問題にしたいのは展覧会で評価されなかった絵が実際はいくらでも評価できるもので世の中にその良さを伝える機会がこれまで一切なかったことです。美術館は展覧会で無駄なペテンの賞なんか出さなくていいから出品された賞の評価できる部分を徹底的に論述すべきです。それを続けることで世の中に絵の価値を認識してもらえるようになります。社会的な存在意義がわからず迷走状態にある美術館の皆さんに私が提案するのは展覧会で賞を出すことを止めることと、全ての出品作品の価値の論述を始めることです。特に即効性があるのは落選した作品の徹底的な肯定を行うこと。それにより絵の評価は正当なものになり、絵から心が離れた人たちを呼び戻すことができ、無意味に絶縁させてしまうコンクールの抑止に繋がります。そうすることで巡り巡って絵画の復権なり美術館の運営なりに帰ってくるはずです。

    「絵がどのように評価されているのか?」

     人類の全ての絵の価値は美術館が決めていると言えます。そしてこのような言い方をした方がそのことがそのような状況になっていることが如何に過ちか容易にわかると思います。実際問題として美術館は絵の価値を決める力がある。そしてそれは恐ろしく自分達の都合のみで自分の身の回りに功を奏するだけで価値が及ぼす範囲は極端に狭い。多くのコンクールは賞を出した人間と受けた人間とそれが学生であれば学校程度しか価値がない。絵とはそのような貧弱なものではないです。美術館の決めた絵の価値は価値があると決めた人たちとその状況を間近で知る利害関係者の眼の前でのみ成立しています。それは市長が決めたから受賞させようとか、政治家以外では社長が決めたから受賞させたり、美術評論家なり、芸大の教授だったりします。私は絵の評価は偏執的で狭い見方、例えば場合によって気分とか体調とか周りの作品に影響されながら見た時の絵の見え方で評価されていると思います。つまり絵は色んな見え方をするもので全ての絵が評価しうる絵であり、評価する側のその時の都合によって絵の評価は決められているにすぎないのです。そしてそのこと自体が絵のほとんど全ての機能を、社会に向けて働ける機能を奪っていると思います。絵には美術館が決め、美術館が認識し得た物事以外にも価値が無数にあります。その価値の認定は美術館という小さな箱にほとんど一任されてきたと思いますが実際はそのシステム自体に無理があると思います。ここまで言えば言うまでもないことですが美術館が認定した僅かな価値においてのみの絵の価値が認められ評価されているのです。そのことは仕事量の少ない美術館の評価できるパフォーマンス(数)だけしか評価できないことを意味します。私の知る限り美術館の学芸員は芸大美大などの大学を出ていますが私の知っている限りそれほど勤勉で活発という訳ではなくアートやデザインの世界に入るには気が引ける人が芸術学部を目指す傾向が強いと思います。彼らがそれなりに必死に働いてもそのパフォーマンスはあまりに小さい。それによる極端に矮小な評価の仕方は絵の無限の価値の一才を削ぎ落とします。そして画家の生命線。特に美術館の目前にいない全ての人が絵に興味を持ち描く可能性の一才をも打ち消しています。人が絵を描くときに自ら発掘する価値は美術館の認定している絵の少しの価値にほとんど当てはならないほど星の数ほどあります。ディブロが関係の美学で語っているように美しいとはそれを感じる要素を持っているもの同士で感じるものです。つまり審査する輩が持っている要素をたまたま刺激する絵を描いた絵しか評価されないのです。つまりコンクールはただの博打です。何の意味もないので描いた人のおりなした絵の全ての価値を探り理解し認めるべきです。輩ではなく学芸員になりたければその要素を網羅していかなければならない。その手間をかけず一方的な価値観で乱暴な評価をするから輩なのです。現状では描いた人の織りなす豊かな価値は全て暗黙の了解で流れ貧相で器の小さい美術館の輩のお陰で消えています。
     美術館は自分の目前の物事のみに価値を与え世の中の全ての人の目前でも同じことが起きているかのような錯覚をしています。また、暗黙知に察知している可能性の大きさに対して正確に言えば価値の可能性が無限にありすぎて対応しきれないでいます。残念ながら現状では絵の価値を決める権力を美術館が握っています。これを美術館から手放させなければこの極端に矮小な物事しか決められない絵画の価値のあり方は変えられないのです。

    「美術館が怠慢だから画家が食べられない」

     美術館が決めた価値は誰もよくわからないから決められた価値です。ものの価値は人が決めたもの。ファッションも車も建物もタレントもこれを美しいと教育されることによって美しいと認識されます。美しさとは他人が決めていることがとても多いです。絵の価値も概ね美術館と美術評論家が例外ではなく勝手に決め決められていると考えていいと思います。
     絵の世界において未開発の領域は個人の絵の価値です。個人の絵の価値を見出す作業はこれまで十分にされてきませんでした。個人の絵の価値を確立されてこなかったお陰で美術館は全体を設定し全体を俯瞰し部分として個人の絵の評価をしてきたと私は考えています。問題はそもそも勝手に描いた全体(絵画の分類、コード、モード)とそこから見える問題は個人にそもそも関係性がないことです。個人の気分や感情や経験や体調やモチベーションは個々の絵の価値においては自由なはずです。つまり諸々が個人にとって価値があり価値を個人で決めて良いものです。それを暗黙の了解で問答無用に無価値にしてしまっているのは美術館の全体を俯瞰して決めてしまっている評価です。始末が悪いのはそれを幼児期に須く(すべからく)やってしまい根付かせ浸透させてしまっていることです。
     世の中には全体はどうでもいい物事が無限にあります。個人の生、死、性、気分、感情、その時をどう楽しむか、過ごすか、生きるか、場合によって死ぬかという選択もあります。個人で価値を決めていいことはあげればきりがありませんがこれまでは個人の価値は抑えられ生かされてきませんでした。絵もその一つです。犯罪など抑えなければならないことはあります、しかし絵は違います。何かあれば吐き出してもいいものです。それを吐き出させないツールとして絵を使って(しつけ)しまっている。例えば幼児に絵の中に社会的に書いてはならないような真実を自由に書かせてあげて良いのです。そうすることで仮に自死してしまった子の表現にも自死を避ける解消にも絵はなれる可能性があるのです。自死してしまった人が絵を残した時、そこに美術館の評価など微塵も持ち込まないでしょう。おこがましいです。今は個人の表現は幼児期から抹殺されます。人間の社会はこれまでとは違い個人の価値や表現を認める必要があると切実に思うのです。幼児の絵には命が溢れているのです。そこに賞など介入する余地はない。

     個人の価値を考えれば絵は全て素晴らしいものです。それを美術館は組織的に破壊してきた。個人を大事にしなければならない絵やその人自身などは美術館だろうが学校だろうが親だろうと社長だろうと政治家だろうと評価として絶対に決めてはならないものです。人を値踏みするように絵を値踏みすることは間違っています。個人を認める社会が未熟なために個人の価値を全体の中の矛盾だらけの配列で決めてしまうシステムが機能しています。恥ずべきはアートや絵画の世界がいまだにそれをしている点です。コンクールを主催し自由など個性などほざきながら堂々と個人の価値を配列して決め続けています。いっておきますがこの際の配列に全く意味はありません。それにこの配列は不健全にも絶対に公開されることはありません。この問題はこれを成立させ続けている風潮にあります。何となく問題に気づいておきながらそのまま成長できないことは怠慢であり怠慢であり怠慢です。そこに甘んじてしまってどうしようかと適当に悩みながら惰性で美術館はビジネスモデルを考え運営してしまっているのです。私はこのモデル自体病的だと考えています。不健全極まりない。気づいてもらいたいのでここに書こうと思います。美術館の重い腰を動かさせるには美術館の外のみなさんに向けて書くことだと考えています。
     絵の世界は現状では不完全な組織を構築しています。更新や刷新ではなく根底から作り替える必要があります。個人の全ての価値を認めていった時に今ある組織の全ては作り替えられるはずです。作り替える作業が間に合わなければ消滅するほかありません。消滅せざるを得ないのは社会が個人が一人ひとりの絵の価値を理解するからです。理解した時に今ある学校の成績の付け方、美術館のコンクールの評価の仕方、画廊の価格の付け方などの全ては変えるほかありません。
     「個々の絵の素晴らしさを徹底的に紐解き理解していく」このことが絵の本当の力を引き出すトリガーになります。これからの画家は食べられないということはないはずです。それどころかかなり忙しくなる。

     絵に対する誤った認識の今はわからないから美術館の評価に同調することが正解と考えられていることが多いと思います。同調しておかなければ恥を書いてしまうので乗っておこうと思う方は多いでしょう。美術館は乗ってもらえているから成り立っていますが切っ掛けが生まれてしまえば簡単に崩れ去る脆い論理に支えられてギリギリの状態で形を保てています。今のところは美術館の言うことが正義、それに同調することが多いでしょう。実際私は美術館に同調する校長先生や美術教師に散々怒鳴られ奴隷のように蹂躙されてきました。実力行使で怒鳴りつけたり金銭を授受するなどするパワーを駆使してパワハラは同調の鉄壁のバリアになっています。みなさんご存知の通り怒鳴り散らす校長先生と美術教師や公募団体の審査員はそろそろパワハラはできなくなります。それが夜明けとなって美術館の同調圧力は消し去られるはずです。今はみんな同調している。でも私は正直そのみんなの同調が気持ち悪いです。安易に評価されている点については時が来れば簡単に覆されるような同調圧力の力のみにおいて成立していることは絵の世界には多いです。そんな状況も気持ち悪いし、私も含めてその気持ち悪い状況に何のアプローチもかけられない状態も、その空気感をなんとか壊さず慎重に維持し続けようとしている諸々もみっともなく気持ち悪いと正直に感じます。ただその気持ち悪さの中でそのモヤが晴れる予感がするのでとても楽しく感じています。だからその楽しさにみんなが乗れるようにこれを書いています。
     絵は食えない世界だと考えられています。美術館はこんな言い方は公にないですが「評価機関」として社会的に認められています。美術館は絵の評価を決める最高位としての地位を確立していると思いますし歴史の中で一定の理解を得ていると思います。ただし美術館に絵を見る力があるかと言えば私はないと考えています。これが絵の機能不全の原因だとも考えているのでこのような文章を書いています。絵を見れないものが絵を見れると称され実際に見れる者がいても今の状況が覆されることを懸念する利害関係者によって火消しされている。火消しの手が及ばないここから火種を起こそうと考えて書いています。

    「美術館のパワー」

     美術館は絵の価値を決める力があります。ただし世の中にある全ての価値を決める力は美術館にはありません。世の中にある全ての絵の価値を美術館に決めさせることはおこがましいことです。美術館にできることは一般的に価値が理解し難い絵の価値を正しいかどうかわからないけれどみんな困っているからとりあえず決めてみようというものだと思います。しかしそのような謙虚な姿勢とは裏腹に実際に決定した決め事は暴虐武人に人をコントロールし影響力を行使しています。やんわりとそっと評価を出しながら実際のその評価は絶対的なものとして社会に機能しているのです。例えば幼児は授賞すれば朝礼で登壇し表彰されます。それで美術館の魂胆は十二分に成立するのです。それさえなければ絵は本当の力を発揮します。権力を全ての人に与えることで全ての絵は生きるのです。その機会をすぐさま奪う機能を確立し実権を握り権力を行使しているのが何を隠そう美術館なのです。つまり価値ある絵とは選ばれるものではなくそもそも全ての絵に素晴らしい価値がありそれを気付き大事にすることこそに絵は価値があるのであってほとんど全ての絵の価値を否定し盲目にさせることによって美術館が選んだ本の数枚の絵のみに価値があるように錯覚させ同時に美術館が社会でかけがえのない存在と思わせる。美術館が絵に与えている価値は造られた価値であって造られた経緯がなければ元々なかった苦しいものです。ひとつひとつ苦しさを露呈させれば脆くも崩れ去るものです。人がその気になれないのは最も早い段階で我々の絵を否定しつくし感服させられているからです。幼い頃に植え付けられた敗者の論理は根底に残り日本を支配しています。これを打ち崩さなければ絵に未来はないですし、価値の捏造という無理が祟って荒廃し尽くしつつある絵画の世界の利害も、絵の復権が現状の既得権益を持つ輩たちの利益を守ることにつながる点において利害は一致していると言えるものなのです。そして絵の復権はここに書いたように全ての絵の価値を公開し全ての絵の価値に人が気づくことでなります。ここに書いたことはそのトリガーになると考えています。熊谷美術研究所は生徒に何を研究しているんですか?と聞かれまあ予備校は研究所と名乗ると言っておきますがクマビはここに書いたことのような色んなことを研究しています。大昔に絵画の書を書いたチェンニーノ・チェンニーニのようになんでもない人間こそが社会のしがらみに関係なく絵の大事な物事を正直に書けるのだととても実感します。といったまあ昔のチェンニーノのように書き残さなければならないことが山ほどあるのでせっせと書いています。これがクマビの誰もやらない馬鹿な研究です。ただここに書いていることは全てのしがらみを貫通し消し去るロンギヌスの槍になると思います。それほど威力のある面白いことをドキドキしながら書いているのでとても楽しんでいます。日本中から生徒が来てくれてどこかで読んでくれる人が読んでいるので後々の絵の世界に少しでも書いたことが残ることがわかるのでこれは私の画家としての集大成として書き上げます。

    「才能屠殺」

     美術館は美術館が絵の価値を決める全権を握っていることを社会に流布するキャンペーンを行っています。日本国民には刷り込みの最も効果の上がる一番早い時期の幼稚園で行います。美術館は日本の国民に物心をつく前の幼稚園年長さんを脳が未成熟なタイミングを狙って、すかさず親御さんともども絵の価値を決め絵を評価される選民を選らぶ全権は絵の世界の神である我「美術館」にあると知らしめます。
     美術館によって幼稚園年中さんの時に訳がわからず絵の世界からほとんどの園児は除外されます。コンクールという大量虐殺による大多数の絵の世界からの排除、才能があると思わせる子と親御さんを作るために才能がないとは断定不可能で可能性が満ち溢れている才能の塊の子たちを才能がないと認定させる「才能の屠殺」によってほんの一握りの選民を残す園児にとって全く無意味の儀式を行います。儀式を行うことで選民は稀に見る幸運を授けられた錯覚を抱きます。実際はこの時に虚栄心を育ててしまい、根拠のない自信を持たせてしまいます。この時に掴める幸運など隣近所と幼稚園で表彰され表彰台に立てることだけで実際にコンクールで才能を実証することは何ひとつありません。
     この儀式は公然と行われていますが実質何が起きているのかを公にすればこれはインチキ宗教団体が行っていることと全く同じであることが証明できます。神がいないところにいるかのように見える儀式を行えば何もなくともインチキ宗教団体は簡単に作れます。美術館はその手法を公に行っているに過ぎません。何もないところにないのだけれど選べないけど無理矢理選ぶ。場合によって大学生のアルバイトに選ばせます。絵を選ぶ権力者の中には子供の描いた絵が汚いし沢山あるのを選ぶ手間が面倒でそのような労働を普段していない権力者なので周りもごまを擦り擦りこびへつらいながらアルバイトに選ばせます。私はこいつらを叩き潰したいのです。賞をもらった子は権力を持つ豚を神と崇めてしまうと思いますがこれは間違った教育です。仮に手間を惜しまず選んだとしても善意を持って選んだとしても豚が選んだ結果と明確に違うと言える身のある評価の仕方はしていません。身のある評価であればスポーツの世界と同じく、幼児に人気のあるサッカーのように幼児の時の評価の延長線上にそのままプロの世界が見えてきます。そうでなければならないはずの絵の世界では高校からプロになれる絵以外のサッカーなどのスポーツや音楽や文学と違い絵の世界は高校からプロになれるどころか偽りの評価なので箸にも棒にもかからないのです。
     美術館の与える虚構の褒賞は惨殺された大多数の幼児の無限の可能性を全て打ち崩します。実は日本人の多くはこの時に絵と離れ二度と近づかないと心に決め疎遠になります。この時に受けた不快な感覚はトラウマとして死ぬまで消えることはないのです。ある意味美術館がいかに無能でも全幅の信頼を得ていると考えていいでしょう。
     美術館は大した根拠もなく報償を与える作品を選んでいます。厳選とは程遠い確立されていない評価の基準と選び方で浅い知識を深いと誤解して堂々と選んでしまいます。美術館は評価の基準と選び方を詳細に公開することはありません。それはいかにいい加減なものかが公にバレてしまうからです。逆に言えば正しいものであれば公開してしまえば誤解から生じている問題は全て解消され絵の人気は跳ね上がるのです。今行われているコンクールなどの評価はわかりやすく言えば採点し直せば結果が著しく変わってしまうものです。それは細かく採点すればするほど激しく変わります。また、仮にいいと思う作品を1枚だけ選ばせてもその時の気分と全く整理されていない評価の仕方とその時に初めてどう選ぶか考えている場当たり的な対応により変わります。変わり方は選び方が定まっていないのでお腹が減っていたり、脂っこいものを食べた後はさっぱりした絵がよく見えてしまうといったくらいに生理現象や体調や感情、気分、前に見た作品などに影響されるほどいい加減なものです。美術館がこれを読んだとしていい加減なことに影響されてしまう素人であり図星だと心の中では思うはずです。もし良心があるのだとすれば「まともになれ」と言いたいです。胸に手を当ててよく考えて欲しいと思います。選ばれてしまった選民となった幼児にない実力があるかのような錯覚を与えてしまいます。実質的な損失を受けるのは選民であればそこから本格的に絵の世界に入ってきた時です。日本では美術予備校に来たときに初めて真実を告げられそれまで授けられた栄誉の全てに何の価値もなく実力の証明でなかったことが理解されます。同時に惨殺された人たちから運良くそれまでの評価が過ちではないかと懐疑し自然に洗脳が解かれた人は美術予備校に来ることができます。ただ惨殺された人のほとんどが絵の世界に大きな嫌悪感を抱き眼もくれなくなるのです。偽りの選民を選び出すことは絵の価値を説けない幼児教育と美術全体の苦肉の策です。幼児の時に勉強やスポーツ、音楽などの競合他社への興味関心を払拭できるようなカンフル剤を打たなければ絵の世界に引き込むことができないという大きな功罪が伴う馬鹿げた愚策です。
     でも私の見る限り美術館に絵の価値を見極めたりましてや決める力などありはしません。仮に美術館に絵の価値を決める力があるのであれば美術館は絵の価値を理解し絵の価値を明確にわかりやすく私たちに教える力があるはずです。でもみなさんご存知のように美術館にそんなことはできません。絵はそれぞれかけがえのない価値があります。誰の絵も全て素晴らしいのです。一つひとつ説明し価値を紐解くことは簡単です。でも美術館にそれができないのは、正確に言えば彼らにとって絵の価値の説明が難しく、難しくされているのは知識や経験がないことが半分、もう半分は絵は特別な才能がなければ描けないと彼ら自身洗脳され正確には集団幻想とでも言いましょうか病的な状態に陥っているからです。また、彼らは絵は誰が描いた絵でも素晴らしい物であり一つとして価値のないものなどあり得ない物だと思いそうになり洗脳が冷めそうな瞬間があっても「いかんいかん」と頭を振りながら振り払い思わないようにしています。それは公僕として自分の意見をねじ伏せていることもありますし、やはり自分ではどこかわからないような気もして美術評論家に任せてしまった方がいいと謙虚に控えなければならないという自己判断を抑制する負のプロフェッショナルイズムも働いているのだ思います。そこには運営上の都合で美術館にある絵が特別で巷にある絵がくだらないものでなければ商売が成り立たないということがあります。巷にある絵の価値を説かないのは巷の絵への積極的なネガティブキャンペーンです。そんな苦し紛れの常識を社会に浸透させても美術館の多くは採算が取れません。採算が取れない理由は美術館にそれだけの価値がないからです。私はバスキアとバンクシーの隣に子供やおじさんが描いた絵をおいて対等に価値があると解いた方が美術館は生き残れると考えています。でもそれができないのは美術館にそれだけの気概や意志や勇気などの人間としての魅力や力はないからです。

    「落選者展」

     美術館にそれだけの価値がないのは美術館に置かれた作品がそもそもそれほどでもないことが一番の原因です。巷の人々は暗黙知に美術館の価値のなさを認識している。価値のない美術館に来場者が溢れるような価値を捏造することは不可能です。そんな不毛なことを創造してみる時間は不毛の中の不毛「不毛 オブ ザ 不毛」なので日々それを創造し美術館の運営に固執する学芸員は置いておいて、巷は本当の絵の価値に目を向けるべきです。美術館に対して無関係の我々「人」が謙虚である必要は全くありません。そもそも我々は騙されているのですからそのような騙しに乗る必要はありません。私たちに彼らの生活の心配をしてあげる必要はないのです。彼らなんかどうでもいいから画家を救済し全ての人の絵の価値を救済するべきです。
     これが大掛かりな騙しである証明は簡単です。美術館に人々の絵を否定させるのです。絵を知らない彼らは無勉強に証明に乗ってくるかもしれません。こちらの思惑通り絵を否定したならそれは絶好の機会です。その苦しい否定を根底から覆し完膚なきまで叩きのめすのは簡単なのでその機会に叩きのめしましょう。でもそれを美術館は想定しています。理解している美術館は通常逃げ続けます。保身のために賢い美術館は逃げ続けているのです。どこまで逃げ続けられるか?いつまで逃げ恥を晒すのか?どこかで逃げ道を封じて絵の価値ある姿を世界に解放し絵の市民権を取り戻さなければなりません。これは落選者展以上の革命になると思います。明治の頃から世界中に増えた美術館は自由と称しアカデミズムから画家を解放したかのように見せかけて実際は権力を手中に納め美術館という新たな支配者になりかわっただけで絵に画家に自由などありはしません。今絵の自由の前に立ちはだかっているのは何を隠そう美術館なのです。

     私は美術館に展示されている絵に興味がありません。そんなものよりも私の目の前にある今描いている絵の方に興味があります。私はアートスクールを経営していますからここで描いているみんなの絵に興味があります。この絵に囲まれた人生が私ですしとても素晴らしい人生だと思います。私の人生は絵によってできています。私は美術館に出品することは全く考えませんし、出品に未来があるとは到底思えません。何をどう考えても美術館に未来はありません。考えるのは目の前にある絵を生かすことばかりです。
     絵を生かすには目の前にある全ての絵を生かすことが必要です。それにはまず美術館に出品することによる屠殺をなくさなければなりません。そして目の前にある絵を生かすには目の前にある状態そのままの絵を世の中に注目してもらう必要があります。美術館に落選させられた作品を全て公開する落選者展をどんどん開催するといいでしょう。その落選者展で徹底的に落選した作品を肯定するのです。そうすることでみんなのエネルギーは最大限に引き出され絵は真の価値を持ち光り輝き始めるはずです。絵が光り輝くと同時に美術館は堕落し荒廃すると思います。それが美術館の本来あるべき姿です。人を騙し続けている美術館に価値はありません。遠慮なく落選者展を開催してください。落選者展こそ正義です。

    「絵が語る真実」

     私たちの日常は簡単にインターネットで公開できるようになりました。これはこれまで見せられなかったものが見せられるようになったということです。見せられなかった物事が見せられるようになった可能性は絵画に大きな影響を与えます。このことが絵に及ぼす変化は絵の世界をこれまでにない豊かなものへと変えてくれるはずです。その豊かさを今の時代に生きる画家は創造しなければならないと思います。私は目の前にあるそのままの状態の絵に目を向けてみようと思います。きっと目の前にある絵が注目される時代が来ると考えます。
     ネットが絵に与える変化によって絵は豊かなものに変わります。例えば絵は単なる記録ではなく描く過程で表出していった軌跡を問題視するようになるでしょう。それが痕跡として残ることも大事なことだと思います。例えば何も言わずに自死した人が絵を残してくれていたら私たちは必死にその絵を紐解こうとすると思います。これまでの絵画は痕跡や軌跡は鮮明に見えないためにそれほど関心を持たれずにきています。ですからこれからは痕跡や軌跡を映像で残せるので考えや感覚や衝動の変化が注目されると思います。何も言えずに墓まで黙って死んでいく人は多いと思います。そこを解き放つ鍵に言葉を使わない絵はなれるはずです。言葉しか評価できない世の中も変われると思います。写真と違い絵は想像を形にできると思います。絵は才能など必要なくても誰でも描けるものです。それは誰でも絵を描いていいということです。誰でも描ける描いていいものですからその寛容さを絵が持ちえれば誰もが想像を形にできるようになります。誰もが想像を描き起こせるようになった時にこれまで特殊な才能だと考えられていた絵を描くということはなんでもないことに変わります。描くことがなんでもないことになれば絵の本来のパフォーマンスがようやく生かされるようになるのです。インターネットは目の前にある絵に価値を吹き込みます。これまでは目の前にある絵の意味や価値を問うことができなかった。でも今なら美術館にある絵よりも私たちの目の前にある絵を大切にできると考えています。私たちが実際に話をして盛り上がるのは身近にある絵です。

     私にとっては日本で忌み嫌われる受験絵画も立派な絵です。私は受験絵画を見続けその絵を見て生きてきたわけですから私にとって美術館にある絵よりも受験絵画の方が当然リアリティーがあります。我々を豊かにしてくれるのは美術館の手の届かないところにある絵ではなく身近な存在の絵のはずです。価値のある絵は美術館にある絵の一択ではなく様々なところで機能して生きている全ての絵です。その全ての絵は美術館の評価の基準に沿わせる必要は全くありません。そしてそのことは美術館と美術評論家のでっちあげた基準を崩壊させるトリガーになると考えています。私のこの考えに反論がある美術館と美術評論家がいたら遠慮なく反論してもらえればと思います。ですが無理だと思います。

     これからの絵画にとって皆さんの目の前にある描き途中の絵は絵画にとって何事にも変えられない重要なものになると私は考えています。これまで作品は画廊や美術館で発表するしかなかった。でもこれからはインターネットで誰でもいつでも発表できるようになっています。これまで美術館と画廊が権威を維持できたのは発表の手段がそれ以外になかったからです。そして美術館と画廊はアカデミックの権威から自由を獲得し市民に歩み寄るかのような雰囲気に見せながらも実際は自分が権力の座に座っています。現在画家を支配し権威の中心にいるのは美術館と画廊です。発表の場を支配し画家の生命線を握ることで美術館と画廊は成り立っています。画家に自由の手を差し伸べるかに見せかけて誰にも気づかれないように支配者になっているのです。これから画家が自由を手にするためには美術館と画廊の権力を打ち崩さなければなりません。彼らは羊の皮を被っているので気づきづらいですが、よく考えてみてください、画家が食えない原因を作っているのは見たことのないようなスタイルやコンセプトの絵だけが評価しうる対象だとしている美術館です。見たことのないような作品だけを評価していれば全ての作品を否定し尽くすのは時間の問題です。画家のほぼ全員の可能性を無くす構図を描いた選民思想的な美術館。我々画家は生きています。そして見たことのないような絵でなくても価値がある。我々の矛先を向ける先ははっきりとしているのです。

    「テリー」

     私は画家として絵を見続けています。これまで見なかった日はありません。私は画家なので40年近くずっと油絵を見続けています。絵との出会いで言えばかれこれ44年が経ちます。私は絵を見続けながら絵の価値を確信しています。自画自賛というわけではないですが子供でも大人でも誰が特別というわけではなく全ての人が絵を描くことにとても大きな絵の価値があると思えるのです。絵の世界はその価値を認めず流して運営されているように思います。描くことの価値を貶めているのは残念ながら完成された絵のみを評価することです。完成された絵だけを評価することによって絵の価値の大半は社会で認知される機会を失っています。絵の存在意義は薄れ、多くの人が肌でありありと感じたはずの絵を描くという身体的な感覚は完成した作品を発表し評価を得られなければ意味がないようなことを言われるためあっさり捨てます。描く時に感じた身体感覚は親や先生によくないことのように言われるので放棄せざるを得ません。全ての人が評価という自分にない感覚を理性で受け入れ絵を描く際の感覚と主観の全ての価値を何も考えずに捨てている。絵は本来生得的に持っている絵の社会的役割を誤解によって十分に果たせないでいます。社会における絵という財産を私は解き放ちたいとずっと悩み続けこの文章を書くことにしたのです。
     誰でも絵を見続けた経験があるでしょう。絵は絵画と限りません、ミッキーマウスもあり、キン肉マンでも炭治郎でもいいと思います。私が最初に絵に感動したのはラーメン屋で見たジャンプのテリーマンでした。テリーが超人オリンピックで子犬を助けるために列車を手で停めるシーン、私は絵でこれ以上の感動を現代美術でも絵画でも受けたことはありません。私はテリーマンは崇拝しています。ですが油絵の画家でテリーほど崇拝している人はいません。私のようにキン肉マンでもなんでも絵を描く入り口になりますし絵を見るということは人にとって大事なことだと思います。今のアートや絵画は機能不全を起こしていると思います。何をやっても空回りしている。それは自分達の都合を中心に絵の世界を動かしているため絵の本質から目を背けているからだと思います。私の身の回りにある絵はモナリザではありません。キン肉マンや炭治郎です。私にとって絵の本質はキン肉マンや炭治郎から感じるものです。私にとって絵が機能しているのはモナリザではありません。キン肉マンや炭治郎です。絵の世界はこの事実を正面から受け止めるべきです。美術館も画廊も芸大美大もこの事実を受け入れてから全ての物事を考え直すべきです。それが絵画を再興しうる唯一の方法だと思います。
     アートの世界や絵画の世界は残念ながらキン肉マンを見続けることを肯定しない空気が強いです。例えば東京芸術大学の油画(油絵)専攻の入試でキン肉マンを描くのは気が引けます。合格する気がしない。うまくやればいいですが、私が実際に合格した時のようにウルトラマンを描きましたが、受け入れられるように策を講じなければ受け入れさせることができません。それはかなり器用な変化球で私のようなひねくれた人間ならいざ知らず健全な神経の人にできるとは思えません。素直にそのまま描いたのではキン肉マンは受け入れてはもらえません。でも日本において日本人のみんなが最初から絵に興味を持つのは漫画だと思います。絵に対する造形を深め浸透し内に潜め絵をカテゴライズしその人たちからこの世界に足を踏み入れようとする人を生み出しているのは紛れもなく漫画によるものです。特に私よりも若い世代の生徒たちとなると間違いなく油絵や日本画ということはありえません。油絵や日本画は敷居の高いところから下々を見下ろしているのでどちらかと言えば煙たい存在で日本人の興味から外れ人に寄り添わず必要とされていません。若い世代に寄り添い受け入れられ影響を与えているのは漫画やアニメです。これは明白な事実です。その事実は伏せられ、漫画やアニメに徹底的に押されてもはや見る影もなく社会のどこで役に立っているのかいないのか役に立つことはどこにもなく社会に居場所がなくなり姿形が見えなくなっている。それでも絵画の価値を標榜する美術館が存続しているのは人の人目につかないところに隠れバックで日本の絵画は絵画に関わる者の権力によって無理やり成立させ存続させているからです。世の中には面から全く見えないところで社会に全く必要ない負の力が暗躍しています。言ってしまえば目の前にある現実は一部の人間によって、本当に大切な物を、大事にすべきものを、価値あるものの価値を歪められている世界なのです。絵に関してそれを行なっているのは美術館です。私は油絵を真正面から描こうとするT H E油絵画家です。このように歪められているお陰で油絵らしい油絵は全く評価されることがなく、捩れが邪魔をして社会の表舞台に出られずにいます。私の知る限り私の生きている50年もの間油絵と社会との接点は消え続けている。漫画同様に油絵や日本画や水彩や版画や絵には本当の価値があります。この価値の全ては残念ながら日本に輸入されて以来いまだに社会に伝わっていないのです。伝えることに長けていなければならないはずの表現者である画家として、絵の価値が伝えられないという表現が下手だという事実はなんとも情けなく不甲斐なく思います。奥歯に物が挟まったような言い方しかできない美術館や画家を見ると致命的だと思います。

    「描き途中の絵」

     画家も含めて人が絵を見る時間はそのほとんどが絵を描いている時間です。絵を見る時間を過ごす空間は美術館ではありません。画廊でもありません。美術館と画廊で何十時間も絵を鑑賞し続けることはありません。美術館は居心地が悪過ぎて何十時間もいることは誰にとっても拷問です。こんな意味のない空間にいるのは関係者でも長くてほんの数分だと思います。一方で画家はアトリエで何十、何百・・何万時間も絵を見続けているのです。絵を見る空間に最も適しているのは自分のホームグラウンドです。絵はそこに存在するものです。でも美術館の学芸員と美術評論家は違います。この二者は絵を描くことはほとんどなく絵を見ることを生業とし絵を見続ける時間の方が描く時間よりも圧倒的に長いです。彼らにとって絵を描くことに価値はなく絵を見ることに興味を持ち絵を見ることの土俵で絵の世界の物事が動いた方が都合がいい。そのような都合で絵の世界は彼らに言葉のやり取りで完敗し彼らは絵の世界を理屈で支配することに成功しました。そして今でも絵の世界を牛耳り支配し続けています。これが話がおかしくなるねじれの原因です。

     小さな子供が黙々と絵を何時間も描き続けることには特別な意味があります。これが社会的に評価されないのは美術評論家がねじれを生んでいるからです。絵の世界の不可解なことはさておき描くことの意味を勘で察知しているのは絵を描くことが好きな子の親御さんです。絵は大人になっても死ぬまで続けていいものです。でも社会はこれを幼児の内に消失させます。勉強をすること、一つでも多くの教科書に書かれていることを丸暗記させるために絵を描く世界に入る感覚を幼児教育によって根こそぎ取り除きます。そうだ今ウクライナで戦争が起きていますがウクライナの子供たちにはこの戦争のことを一生描かせてあげましょう。彼らは画家として意味のある価値のある人生を送れるはずです。絵を描けば彼らのおった傷が解消されるとはいいませんがもしかすると絵で真実を表現し続けることは彼らのカタルシスになるかもしれません。もしウクライナがロシアに支配されてしまったら絵の世界が美術館に支配されているのと同じように自由に戦争のことは描けないでしょう。でも少なくとも彼らが描けば作品は我々に鑑賞の意味を与え我々に人と絵の正しい関わりを取り戻させてくれるはずです。親御さんの感じる勘、今はまだ実現できない絵を描き続ける行為から感じるその勘は実は正しいのです。
     その勘の先にある可能性を全て駆逐しているのが美術館と美術評論家です。駆逐を実行する最初の場は幼稚園の図画工作です。授業で上がった作品を速やかに美術館に差し出し選民をひとつまみ選び出しその他に刑を容赦なく実行する。うまくいけば刑を受けた子供はほとんど反吐が出るほど絵が嫌いになります。そうして未来の画家を幼児の内に屠殺し絵を描く世界ではなく理屈の世界へ進むよう意識を作り替えているのです。美術館によってお子さんと親御さんは絵に興味をなくすか受賞にしか興味がなくなります。ここに絵が流行らない、画家が流行らず人が絵から離れる原因と構図があります。
     美術館と美術評論家はショッカーのようなもので子供たちの前では善人ぶっていますが実は腹黒い悪魔です。ショッカーは絵を描く世界では困るので観賞と考えることと褒賞の世界に変えてしまいます。彼らは実は悪の中の悪、最悪の代名詞ショッカーです。彼らが絵には描くこと自体に価値がある事実を社会が認識しそうになったら躍起になって火消しのように絵の価値が描かれるだけで成立することがないよう「ヒーッヒーッ」と言いながら阻害します。美術館と美術評論家は絵が美術館に差し出されなければ価値のないものでなければ困ります。我々の誰もが困りませんが彼らは困るのです。そしてよくキャンペーンされて社会への洗脳は完成されています。今の絵の世界はショッカーが完全に洗脳を完成させた世界です。だから我々は彼らをやっつけるために立ち上がらなければならない。洗脳を完成させたショッカーの怪人美術館は美術館に差し出されなかった絵に絶対に価値が生まれることのないように悪の組織のイベントであるコンクールを数多主催し美術館と美術評論家が評価した絵と画家のみが評価されるようにキャンペーンしそれ以外に目が向けられないように火消しに努めます。それによってまんまと親御さんも子供も先生も受賞も何もしていない作品とただ描くことに対する価値を無くします。もし受賞しなかった作品を思い切って肯定しようものなら隣近所や洗脳されている先生にヒーッと徹底的に否定されて火消しされます。残念ながら勇気と自信と正しい物の見方と考え方を持ってショッカーを徹底否定できる先生は学校には一人もいません。先生という生き物は大きめの組織には完全に媚びへつらうのです。
     ショッカーは絵のことを具体的に語ることは絶対にしません。作品の内容について具体的に語ってしまえばそれ以外の作品との差異がないこととコンクールのたびに評価している作品が違うことがバレてしまい、それによって折角仕上がった洗脳が解けてしまうので作品の内容を細かく話すことは絶対にしません。それに具体的に話すだけの知識はなく経験も感性も興味もそもそも最初からありません。そういった諸々によって絵の世界は悪の組織によって都合のいいシステムを作り上げられ動かされているのです。
     社会の人類の絵の価値を歪め貶めているのは美術館と美術評論家という悪魔であり、彼らが作り上げた選民思想です。美術館と美術評論家が認めた画家と作品は苦しいながらも少し良いところはあります、しかしそれによって無視している絵と画家の方が圧倒的に拾いきれない程の星の数ほどの無限の良さがあります。この無限の良さを社会も人類も理解してしまった時に一瞬にして愚かでポンコツがこそっと作り上げたチンケなショッカーの野望は脆くも潰えるのです。人類はそろそろ絵を選び画家を選ぶ選民思想の愚かさに気づき、これまでのシステムを全て捨てるべきです。選ばれたものと選ばれていないものに絵としての価値としての差が全くない。このシステムは古い美術品を収集し倉庫として運営していく手段として鑑賞会を開き売上で倉庫の運営が成り立つように明治時代に立ち上げてみた美術館が元になって始まったことです。さて結局採算が取れないこの苦しいシステム。これを取り壊すトリガー(絵としての価値としての差が全くない。)がこれまでなかったから惰性で続けられてきただけで、ここに書いたことに社会が気づくことは時間の問題であり、機会が来たら自然にトリガーが引かれるはずです。この機会は早い方がいい。できることならば美術館が世の中のために自主的に動くことを期待します。でもないかな・・・。

     ショッカーによりアートの世界は家で黙々と絵を描く子供たちの世界を隅々まで生かして社会に発信することが全くできなくなっています。同じように子供から大人の画家になった絵描きたちはアトリエで黙々と絵を描けなくなりました。でも一部の画家はまだ描いています。ショッカーの目を盗みテロリストのように描いています。このテロリストの絵描きが黙々と何時間でも絵を描き続けている間のことは何一つ語られないのです。それはその間を話題にすることにアートの世界の権力者の利益になることが何一つないからです。アートの世界の権力は絵の軸足を制作とアトリエではなく展示と美術館に置かせています。制作すること自体に価値はなく完成した作品を鑑賞させることにおいてのみ絵は価値があるとする。絵を描く我々の側からすれば横暴です。このことが子供が絵を描き続けることに最大の価値をおき社会に結びつけ才能を花開かせることの弊害になっている第一の原因です。またこれは画家の力が封印され世に出られない原因でもあります。ショッカーは市場に介入し絵の制作時間は作品の値段には全く関係ないものとしてしまいました。命懸けで絵を描いている画家ほどほとんどの時間を描いて費やしているにも関わらずです。全ての絵に意味と価値があってもそこは伏され今の世の中では賞を取った作品にしか価値がないとされています。それはそうしなければ明確な尺度のない絵に金銭的な価値を与えることが現状ではできないからです。そして権力と結びつけることができない。今の価値を与えるシステムに乗せることによって結局、賞を取った作品の賞自体が理解され作品の内容については全く触れられず分析もされず引き出せない状態が続いています。全ての公募とコンクールや展示がそうです。身近な例でいえば県知事賞です。具体的かつ詳細に作品の価値を分かりやすく語られることはないので作品の内容に感動し記憶に残るのではなく、残るのは県知事賞自体と県知事賞をとった作品の表面を覚えておくという話題のたねとして記憶されるだけの役割しか与えられない県知事賞の絵です。絵には価値があります。その価値は全ての絵にあります。それを語る術を知らないから絵が盛り上がらないのです。美術館は無能です。その根拠は絵の価値を語れず、語ることにすら興味がないからです。美の術を語る力のない美術館のどこに能力があるのでしょうか?ありはしません。賞を取った作品の周りに飾られた無数の作品は一つひとつ吟味し鑑賞できる時間の猶予は与えられていません。それぞれの作品に無限の価値がある中で美術館が選んだたった一枚の作品のみが内容はともかく選ばれたことにおいてのみ価値が生まれる手法によって目立ち鑑賞する機会を与えられるのです。絵はそもそも目立つ必要がない。目の前に紙があったらその時点で絵の価値は成立しているのです。だからこそ白紙の下に県知事と書けば箔も成立する。実際は絵の価値において美術館は無用の長物であり弊害以外の何者でもなく絵にとって美術館は全く必要ないのです。描き途中の絵もさることながら白紙の絵にも価値はあるのです。デュシャンの泉を知りながらよくやれるなと感心します。

    「絵を見る」

     画家はこれまでアトリエで絵を見続けていることについて問題にはしてきませんでした。あくまで外で評価されることを問題にして内側で色んなことがあるにも関わらずそれを話題にすることはおこがましいと思って口にしないできた。
     私は画家と人が絵を見続けていること自体にこれまでアートや社会で理解されてこなかった画家、絵、描くことの真の価値が眠っていると考えています。人が絵を描き続けたり、見続けたり、その家族がその様子を見ていることも絵の無限の価値が眠っていると思います。そこを確認すべきだと思います。目の前のここにある価値を引き出せないのはそれを堂々と翻訳する人がこれまでいなかったからです。その原因はアートの世界が絵の本質を大事にする世界ではなく、あくまで金と権力を軸に物を考えシステムを作り上げているからだと思います。絵に関わるすべての人が金という力と出世や有名になること、権力に執着してきたと思います。金と権力に結びつかなくとも絵が目に写るすべての瞬間に絵の価値はあります。絵を見続けることにはそれ自体に色んな意味があると思います。
     絵は工芸と違って道具ではありません。絵はデザインと違って広告ではありません。絵は「絵」です。道具でも広告でもない絵には「描く」「見る」こと自体に価値があります。「描く」「見る」こと自体の絵の価値は軽視されているように思います。「ただ描く」「ただ見る」という絵はつまらないものというイメージがあるように思います。賞を取らなければならないと思えていたり、金にならなければならないと思われていると思います。絵の力はほんの一部しか生かされていません。それは絵が金と権力に利用されたからです。絵のポテンシャルを最大限に引き出すことは誰も考えてこなかったことです。絵はこれまでポジティブな題材しか描いてはならないという前提において展示され鑑賞され販売されてきました。それが常識とされていますがそれが絵の真価に蓋をする一番の原因です。受験でもそうですし、公募でも、学校の授業でもネガティブな絵を描くことはタブーとされています。それが自然なことと教育されていますが絵の世界が斜陽にあり存続が危ぶまれ、存在意義自体誰も問えない状況の中で画家や学芸員や美術評論家やコレクターなど絵に関係する全ての人が頭を抱えたまま何もできないでいるのですから正直私は滑稽に思えてなりません。

     人目を気にし媚びている絵はつまらないものです。ネガティブな題材、例えば親からのネグレクトや性的虐待、学校でのいじめ、職場でのパワハラなど外に公言してはならないと言われていることで言葉にできないことを絵に表すことによって絵は最大限に能力を発揮でき、世の中に「描く」「見る」ことの価値の理解が得られるようになるのです。絵は表現すること自体です。そして絵が市民権を得ていないのは市民が自分の中で押さえている不条理を外に出すことを許されていないことがわかっているからです。そこで絵も終わっている。つまり絵が力を得ることと市民が自由を手に入れることは同義なのだと私は思います。美術館とコンクールは許されないことを教育する場としてしか機能していません。そして手本となる作品に賞を与えます。
     絵は場合によってお金になったり、箔が付いたりします。絵はこれまで商売や権力を得る手段にされてきました。絵は社会の上層でセレブの金儲けと権力者が権力やステータスを得る手段に利用されてきました。それに同調しているのは政治家や政治家に付き従わなければ設立から運営から自分の生活さえも成り立たない愚かな美術館と学芸員です。そしてそこと繋がる画廊、コレクター。画家が絵を教えることをビジネスにしている芸大美大、美術予備校、画塾、カルチャーセンターなどなど。
     絵がお金になることは最初にあるものではありません。絵の世界は話題になりそうなものが先のように話題作りのことばかり考えて動きがちですが、そんなことの前にあるのはつい描いてしまう、つい見てしまう、つい考えてしまったり、感じてしまうといったことです。そのような絵は実は自分の傍にいつもあるものです。傘で地面をなぞったり、体を撫でてみたり、石を投げたくなったりすることも私は絵だと思います。美術評論家はそんなことが重要になってしまっては自分たちが儲からないので面白くないのでそのような絵を否定します。でも絵を描く画家からすればそんな些細なこと自体がとても重要なのです。絵と乖離してしまっている今の世の中を考えると本当にそう思います。絵はいつもあなたの傍にあります。

     人にとって絵を見続ける場所として最も適しているのは自宅です。間違っても美術館や画廊ではありません。人が必要で見る絵は立派な絵画である必要はありません。ペットの肉球で押した手形とか好きなキャラの落書きで十分です。ピカソが自分の食べた魚の骨をねんどに押し付けて焼いて作品を作ったのはそれを言いたいからだと私は解釈しています。そしてそれ以来なんの進歩もしていない。私が言うのもなんですが落書きとモナリザを比べて落書きを見たいならモナリザなんか見続けなくて良いので落書きを見てください。落書きの方がはるかに重要です。それが人が絶対に手放してはならなかった絵の価値です。私自身美術館や画廊で絵を見た時間は人生の中で何百万分の1の時間です。そういった意味では美術館と画廊は人生の中のほんのひとかけらのアトラクションやアクティビティーにすぎません。生きている人にとって美術館と画廊はその程度の価値しかありません。美術館と画廊はただのアトラクションやアクティビティーなのでその宣伝にはタレントを使います。テレビでは展示の内容は隅に置いておいてずっとイケメンや美少女をカメラの中心に写し続け内容はともかく客が来るように演出過多に徹するのが適しています。つまり美術館の広告を眺めていても絵にとって何の意味もありませんし、そのような美術館に足を運んでも意味はありません。美術館に本物のイケメンと美少女がいれば作品など吹き飛びます。それが展示されている作品の真の価値です。絵は実物には敵いません、人も風景も絵は実物にかなわないと知りながら描くのです。それをほくそ笑みながら金を取るのが面白いのでしょう。皆さんの記憶に残り頭をよぎるのは自分の気を引いた可愛い美少女の広告かイケメンの姿そのものです。そこに絵の価値はないのです。人は美術館に足を運ぶと美少女かイケメンと同じ空気を吸って少し近づけたような気がします。その楽しみの中では絵は邪魔以外の何物でもありません。美術館にとっても絵は二の次で展示に客が来て金を落としてくれることこそ重要なので絵なんてどうでもいい不要なものです。一番大事なのは札束。私自身美術館や画廊に行った時に綺麗な壁や屋外の風景が頭に残っています。特に美術館の壁が綺麗だということは頭に残ります。きっと高貴なお方やハイソな人は綺麗な壁が好きなんだな〜と思います。私とは違うな・・と思います。私のアトリエなんて汚い壁ですからそのアトリエの中の絵など高貴な方々や美術館からすれば汚物そのものです。お金をかけていないもの(正確には私の買い取ったアトリエのビルと土地など諸々1億以上はかかっていますが)には価値はありません。そんな高貴な方々のように何百億もお金をかけていない私自身が絵を見ているのは汚い壁の中です。それが絵を見る時の画家の真実だと思います。東京芸大にいた時、学内の展示を見に来た外部のお客さんに壁や床があまりに汚いのでどうしてこんなに汚いのか?と聞かれましたが、その理由を述べれば建築につきものの文教族と教授たちが遊興費のために多額の利益を得ているためで学内の設備や清掃に回す予算が全くないからでした。現在は新校舎ができて綺麗になって(文教族と建築家と教員が多額のお金を儲けほくそ笑みましたが、こんなことを書くと友達に建築家もいるので複雑ですが)いますがその前は、例えば私が高校生だった40年前(バブル絶頂期)は廊下に住み着いた鳩が糞をしてそれの上にベニアを重ねて歩けるようにしてその糞をサンドしたベニアが幾重にも重ねられていました。それほど上は金に目が眩んでおり、そのようなことからアトリエは汚いと言われてもその通りとしか言いようない状態でした。しかし大学に限らず私の見てきた絵を描く場は全て美術館の壁のように綺麗ではありません。絵はそのような場にあるものではない。本当の絵は汚いというか、少くなくとも美術館のように真っ白ではなく普通の、家などの壁にあり、そのような状況で見るものです。美術館のような虚構が世の中の人たちに絵を見る場所は高貴な美術館のような綺麗な真っ白な壁で見なければならないというおぞましい虚像を植え付けています。本当に事実に反するのでおぞましい。それによって世の中の人たちは家で気軽に絵を描いて気軽に飾って絵を見続けることができないのです。絵を飾る時は画鋲とかガムテープで貼ればいいじゃないですか。ガムテープ便利ですよ。虚勢や見栄ではなく絵をみてください。壁が絵との関わりを否定してしまう。何ともお粗末で愚かな絵の認識です。このようなお粗末な認識を与えているのは美術館や画廊です。美術館と画廊が急に汚い壁にしてしまっては、これまでその偽って来場者を集めてきたのですから急に汚い壁に変えるのは都合が悪いので急に変わる必要はありませんが、心を入れ替えて、絵の置かれる正しい真実を来場者には徹底的に伝える努力をするべきです。本当に絵を思い、人を思うなら美術館の損得は置いておいて人と絵を繋ぐことに尽力するべきです。でもそのような志を持った学芸員、美術評論家、ギャラリスト、コレクターに私は残念ながら出会ったことがありません。会ったことのある人間は見事にクソのような輩です。

    「色」

     画家ではない普通の人は日頃から色を画家ほど気にしたり認識して生きていません。そして形もそれほど気にして生きていません。絵の指導をしていると特に絵を見る時に色の反応が弱いことがよくわかります。大抵は初歩的な話しかしていないので色に対する反応の弱さがいかに社会に絵が受け入れられていないかの現状を表していると私は感じます。形は立体も動画もありますが色は動いていようが止まっていようが信号として眼に飛び込んでくるものです。色とともに絵が社会に受け入れられないと思えてなりません。特に日本では馴染んでいない。カラオケは社会に浸透しています。そのため音程を外す外さないは誰でも気にされます。でも色においては話題に上がらないどころか意識すらされません。

     人間は情報の多くを視覚に頼っています。そのため人間にとって色と形、特に視覚を通じて認識する色はとても大事なものだと考えます。人間としても生物本来の生き物としてもとても重要なものだと思います。言ってしまえば人間は色をそれほど利用せずに生きてしまえています。それが勿体無い。人が絵を描くことは泳ぐことや言葉を発し書くことと同じように生得的な能力ではありません。しかし、泳いだり、読み書きと同じように人の世界を飛躍的に広げてくれるものです。今の画家などの視覚に関わる人の使命は社会に色を伝えていくことです。手始めとして色と形の力にどのようにして気づいてもらうかが重要。色と形に対する感覚を育てていく上で自宅で手軽に絵を描くことはとても大事なことです。そして毎日絵をみ続けることで色の感覚は少しずつ身についてきます。英語の発音や歌の音程が聞き取れるようになることと同じように色もだんだん見えてくるのです。でもそれを妨げることがあります。

     誰もが自宅で絵を描くことを妨げているのは絵を主催し既得権益を持つ人間です。具体的に言えば美術館、画廊、芸大美大、市場、美術評論家です。彼らは絵が皆さんの手元にあっては困ります。誰でも手軽に描くようになっては困ります。絵は特別な高貴な方が描くものでなければ困ります。そうでなければ倉庫に眠るお宝がただのガラクタに成り下がってしまうのです。自分の金がただの紙くずになる。彼らはそれを最も恐れています。そして彼らのやってきたことは、ただのゴミや安価なものを評価し高額で販売できるようにし国を豊かにすることです。古くは千利休は露店で二束三文で買った陶器を織田信長に高額で売りつけた。秀吉は利休によって巨万の富を得たと言われています。現代でも巨匠と言われるアーティストによって国は莫大な利益を得ています。皆さんに馴染みのあるのは音楽になりますがビートルズです。コンシュマーエンジニアリングによって何を買えばいいか勧められた人々はビートルズに熱狂しイギリスは外貨を得ました。今でもアーティストによってなんとか稼げないか?オークションや美術館や画廊やコレクターはそれに乗っかりなんとか儲けようとしか考えていません。

     美術館にとって絵は皆さんの手元にあるようなものでは困ります。そのような下等なものではなく、少しでも高額で売られるものでなければなりません。高貴な方が扱い高尚な世界を妄想し、一般の市民は下で、絵は美術館の考える下々の汚らわしい下賤の者の手にあってはならないものなのです。絵は高貴な方の手元になければならないものだと美術館は考えています。そして何より下々を見下し自分が高貴な人間でいたいのです。美術館にある絵は高貴な色をしています。だから私は美術館にある絵を長時間見ていられません。
     美術館は高貴な方の作品とそうでない下々の下賤の者の作品を選別して保管する倉庫として存在価値を獲得しています。物を特別な物として扱うことで美術館は成り立っています。そのため美術館は物とそれを評価したり所蔵作品というガラクタやそれを作った巨匠を高貴な特別な存在に認定させる機能を持っています。問題はそのやり方によって実際には絵が誰でも描けるものだということがバレていないことです。絵は本当は誰でも自宅で絵を描き見続けられるものです。でも美術館が人間本来の生得的な色と形に対する感性を引き出すことを著しく阻害しています。くどいようですが美術館にある作品の全ては特別な人間でなくても誰にでも描けて作れるものです。本書はそれを証明するために技術書を書き上げていこうとするものです。暴くのは私にはできないかもしれない、でもこの本を残しておくことで将来誰かが実現してくれると考えています。私は彼らを天才と称し「ありんす」と名付けます。私の夢は全て「ありんす」に託します。一番の障害は美術館です。

  • 絵の課題の前に〜9「私のコンプレックスのはじまり」

    「コンプレックス」

     コンプレックスとは抑圧されながら無意識のうちに存在し現実の行動に影響力があることを意味します。コンプレックスの定義が確立され原因や症状が解明されている訳ではありません。でもコンプレックスが存在することは容易に認められますし、その定義はそれほど広義ではなく自分のいる世界のコンプレックスは自分達で存在を認めて解消されるように務める必要があると思います。私たち戦後の日本人にとって一般的に抱いているコンプレックスの概念は概ね近親の関係において生まれる相手からの圧力やそれに対する心の壁のようなものが多いと思います。私が近親の関係に着目するのは人の基本は生まれ育った家庭で育まれるからだと考えるからです。今日におけるコンプレックスの研究が主に展開しているのは家族間の抑圧に留まっているようです。実際には家庭の外の学校や職場などで生じるコンプレックスはあります。しかし、家庭の外のコンプレックスの解消を考えて調べても特段何も出てこないと同時に、当然ですが私のいる絵画の世界のコンプレックスを調べようとしても何も出てきません。私は画家ですから絵画のコンプレックスの要因となる抑圧の所在をいくつか知っていますし見過ごすことは到底できません。既存の概念がない以上絵画のコンプレックスについて独自に考えていくしかありません。
     絵画のコンプレックスの原因を考えるにあたり、コンプレックスの元をたどれば家族間にあるコンプレックスの影響が色濃く出ている場合が多いように思います。実際問題の根本が家庭にあることは多いでしょう。絵画の世界のコンプレックスの解消を考えた時、絵画の世界の中と同等に家族間の問題も考える必要があると思います。私は精神が複雑に絡み合う中で幾つもの抑圧があると思います。それは気分や健康状態の変化に影響され、いかようにも様変わりします。一つの物事を考える時、例えばそれが絵画なら、絵画の概念を頭に思い描き、思い描く周期の波が最高潮に達した時それがピリオドになり、ピリオドを言葉化すれば概念となり同時に概念が点になり、その点は幾重に重なった壁に抑圧されている、というような様子を俯瞰すれば点で構成される図式が見えます。その抑圧が作るのは論理の壁だと思います。そしてそれを溶解させるのも論理だと思います。論理の壁を溶かす論理を1つずつ創造していけばコンプレックスはいずれ解消されると思います。本書では絵画のコンプレックスの溶解を試みるものです。

    「私のコンプレックスのはじまり」

     私の最初の美術予備校の時の担任で私の初の恩師に後の東京芸術大学の副学長になる保科豊巳がいます。彼とのファーストコンタクトは授業を普通に受けていたのにそれを怒られるというとてもユニークなものでした。それは予備校の1年が始まる初日の朝、最初の課題を始めてすぐの時でした。
    私の後ろに来た保科先生は
    「小平お前なんでマルス(予備校の課題の定番の石膏像のデッサン)なんか描いてんだ」
    「俺はマルスなんか描けとかいってないぞ」
    「壁に課題文なんか貼ってんのか」
    「ああ、貼ってんのか?」(貼っていました)
    と言われました。それが一番最初の出会いです。予備校では朝アトリエに入ると課題が用意されています。例にもれずそのように言われていたのでアトリエに入って真面目に準備をしていました。でも遅れて(遅刻して、というか当時の先生は芸大TIMEというものがあって誰でも当然のように遅刻します)アトリエに来た先生が私に言ったのは真面目に課題に取り掛かろうとする私を諭すような小声の叱責でした。

     当時から今でも油絵の世界は普通に絵を描いていたのでは評価を得ることはできません。殆どやり尽くされた絵画の世界で普通に課題をこなす感覚でいるのではだめなのです。私が自分の予備校で課題をあまり出さなかったりこだわらないのもそのためです。実際この30年を見てきて、絵画の中で当時ではイラストと言われて評価されなかった絵がカテゴライズされ評価の対象になる変化はあったものの、THE絵画と言えるようなスタンダードな油絵の中で眼を見張るような評価をされる画家は日本では出てきていません。保科先生はそのような絵画の現状の話の切り口にマルスを描けとはいっていないと言ったのでした。

     その後諦めたかのようにアトリエから去ったので空気を読んでマルスを描き始めた訳ですが、保科先生を流石だな〜と思ったのはあの時の最初の数日間にあった出来事です。私が絵が描けるようになる切欠にもなったのは彼の言葉でした。
    「小平コンプレックスがあると絵は描けないぞ」
    です。悲観的になると絵は描けません。目の前の物事を否定する悲観的なモードでは最初の一歩を否定してしまい二歩目三歩目と作業工程を設計する建設的な思考ができない絵は形になりません。先に書いたピロオドが全て否定の論理になれば人間はいとも簡単に身動きできなくなるのです。創作もそうですが行動全般は行動する瞬間に楽観視して「出来る」という仮定を前提にしなければ動けません。保科先生が言ったコンプレックスには他の意味も含まれていますが、そのようなことを彼がすでに(その後数十年指導し続けて同様の気づきに至っている先生を他に知りません)知っていたことは驚きです。又、それ以上に私の描いては消し、描いては消しを延々と繰り返している姿をひと目見て問題を見抜いたことが私にとって大きな驚きでした。それに指導の仕方としては薄々感づいている者への示唆としてその指摘の仕方は今考えても最適な指導だと思います。

     絵の世界には透視者がいます。私の人生の中で瞬時に私のことを見抜いた透視者は2名いました。保科豊巳と後に私の予備校の担任になる関口雅文です。保科先生は当時の私にスランプを克服するためのヒントを投げてくれました。実際にあの時の言葉が裏付けになったお陰で、悲観的な物の考え方から楽観的な考え方へと切り替える方法を自ら編み出して絵を描けるようになります。そして私はスランプの克服を期に一生一画家でいることを決意しました。

     保科さんは私に2度言葉を投げることになります。あ、そうそう、彼は予備校では保科先生、芸大では保科さんと呼ばれていました。保科さんは私の担任だった1年を最後に芸大の講師になります。私はそれから6年浪人して結局7浪して東京芸大に入るわけですが、芸大に入学した際のこれも久しぶりのファーストコンタクトの時でした。
    その時言われたのは
    「絵なんか描いてもしょうがない」
    でした。その御蔭で私はあれ以来今現在、23年後(この記事を書いたのは2年前です。このタイミングで出すのが良いと思い温めている中から引っ張り出しました。)の今日まで筆を置くことになります。コンプレックスを克服するヒントをもらいながらコンプレックスに逆戻りです。当時の私は7浪して入学したものの、絵を描く制作を続けるために芸大を辞めるかどうか本当に迷いました。結局芸大に残ると同時に筆を置くことに決めました。(私は今silentというテーマで油絵を描き始めました25年前芸大の合格を掲示板で確認した日からこれを続ければ作家として生きていけるというイメージを形にし始めました。画廊と契約してこの一件があり筆を置き最近やっと筆を取りあの時中断した絵を25年越しに描き始めました。死ぬ前でよかった。)

     当時のアートの世界はファインアートの世界とコンテンポラリーアートの世界に2分されていました。私のいた油画専攻でコンテンポラリー系の主導権を握っていたのは保科さんでした。ファインアートは平たく言えばアートの問題点に眼を向けるのではなく楽観的に制作を続けるスタンスです。この世界で絵を描き続けるには悲観的ではできません。入学当時はそれで良いと思っていました。一方でアートの問題と向かい合うのがコンテンポラリーアートのスタンスです。今は私がどちらかと言えばこちらなのかもしれませんが、実際は狭間で何処にも属さず宙ぶらりんで浮いているような存在です。保科さんには1浪の時にポジショニングの話をされました。アーティストとしての自分のポジションを確立するという話です。ファインにもコンテンポラリーにもいたくなかったので結局どちらにも属さない空間に自分の場所を作って今はそこにいます。私はそこを「新絵画」ということにしようと考えています。

     コンテンポラリー系はファインの逆に楽観的に絵を描くことはできません。今この場で本書を書いているのはあの時に保科さんから「絵なんか描いてもしょうがない」と言われたからです。ファインアートの世界に残った時に後ろ髪を惹かれるものがあります。それはアートの世界を大きく変えるチャンスから眼を背けなければならないことです。

     ファインの世界はひたすら制作に打ち込む世界、その世界は市場や団体や画廊が形成している価値に則って描き続けなければなりません。新しい価値を提案出来ない世界です。多少の矛盾は飲み込まなければならない。それを引き換えに社会的な地位や財産を残すことができます。楽観的に見ればどんどん絵が描けます。そして有名になったり一財産築けるチャンスがある。一方で悲観的に見れば疑問が吹き出します。疑問と向かい合い歴史を覆せるような結果が出せればこれ以上ない気分の高揚を得られるかもしれない。所謂保守か革新かです。芸大に入って筆を置くまでに描いた作品は全て画廊が買取っています。あのまま絵を描き続ければ絵の世界のヒエラルキーにのって出世していたかもしれません。その一方で筆をおいた私は大きなチャンスの前にいるのかもしれません。絵には30年以上たってからようやく巡ってきたチャンスがあります。これは「絵なんか描いても仕方がない」というコンプレックスと向かい合ってきたからこそ手を伸ばすことができる好機です。

     コンプレックスは劣等感と言い換えることができます。でもこれは優越感を味わうチャンスが有ることも意味します。劣等感がもよおす大きな卑屈と大きな渇望は制作に気持ちを向かわせるために不可欠なものなのかもしれません。保科さんは私にコンプレックスがあってはだめだとは言っていませんでした。コンプレックスはアーティストにとってあった方がいいものなのかもしれません。

    「絵画コンプレックス」

     世の中には絵に対してコンプレックスを抱いている人が大勢います。そのコンプレックスの大半は「絵が描けない」ことからきています。そのため絵が描けるようになれば大半は解決できると思います。絵が描けるようになっても解決しないコンプレックスがあります。例えば描けても「才能がない」と思ってしまうものです。せっかく描けるようになってもコンプレックスが残る場合があります。コンプレックスの原因は絵の世界の側の論理にあります。絵の世界にある技法系の人達と非技法系の人達との対立によって技法的に描けても、非技法系の人達から見ると評価されない。それは絵の外の世界の人達に不可解さを抱かせます。不可解は絵の外の世界に「わからない」「難解だ」というコンプレックスを生みます。この不可解さは世界中に蔓延し、どんどん人を絵から特に絵画から遠ざけています。絵の外の人達は絵が不可解なら遠ざければ済む話です。しかしそれは絵の中の世界にとっては致命的なことなのです。絵の世界には絵の世界が生んだ論理による劣等感コンプレックスがあります。本書ではこれを一般の劣等感コンプレックスと区別するために絵画コンプレックスと称してお話ししていきたいと思います。

     絵画コンプレックスは絵が描けないと思っている人、才能がないと思っている人、技術系の人、非技術系の人にあります。絵画コンプレックスを持つと絵を描こう、見ようとする時に悲観的になります。絵を描こうとしても描けないと思えば描けませんし、観方がわからない、見れないと思うと見れなくなります。才能がないと思っても描くことができません。
     絵画コンプレックスには、成績が悪かったことによる成績系。才能がないと言われたり思っている才能系。描いたり見たりすることが難しいと思っている難問系。描けないことによる下手系の4つに分類できます。

    ●成績系絵画コンプレックス
    ・図画工作の成績が悪かった
    ・美術の成績が悪かった
    ・コンクールで賞を取ったことがない
    ・身近に(家庭に)絵が得意な人がいて全く認められなかった。
    ●才能ない系絵画コンプレックス
    ・親に絵の才能がないと言われた
    ・兄弟に絵の才能がないと言われた
    ・先生に絵の才能がないと言われた
    ・自分で才能がないと思っている
    ・自分で才能があるように思えない
    ・自分なんかにできるわけないと思っている
    ●難問系コンプレックス
    ・絵を描くことが難しいと思っている
    ・絵を見ることが難しいと思っている
    ●下手系絵画コンプレックス
    ・下手
    ・不器用
    ・デッサン力がない
    ・デッサンが下手
    ・きれいな線が描けない
    ・イラストが描けない
    ・イラストが下手
    ・キャラクター以外描きたくない
    ・キャラクターの正面の顔と側面の顔以外描けない
    ・漫画の背景が描けない
    ・漫画が下手
    ・風景が描けない
    ・人物が描けない
    ・本物そっくりに描写できない
    ・物を見ながらそっくりに描けない
    ・線が曲がる
    ・色がはみ出す
    ・水彩絵の具がぐちゃぐちゃになる

     この文章に続きがありますが温めている文章の中の順番をかなり飛ばして引っ張り出したので続きは順番が回ってきた時に出そうと思います。

  • 絵の課題の前に〜10「真の絵の褒賞は絵の眠らされている価値を解放した先にある」

    「アンチエレガント」

     私は高校生の時あまり勉強をしていない美術の先生から黒が汚い色だと教わりました。先生には汚いものを色々教わりました。親にも汚いものを色々教わりました。本当に色々教わったと思います。でも失礼ながら正直、汚いものを自分に当てはめた時自分の汚いことがあまりに多すぎて困ることがあります。そして色んな物事が汚いということですが頭の中で整理しようとするとそれでは辻褄が合わない色んな齟齬が頭の中で生じています。
     先生の言うことには絶対服従だと教わりました。親には大きな声で歌えと言われて大きな声で歌った瞬間うるさいと言われてビンタされました。私は小さな頃に日常会話で大きな声を出せなくなり何かを言えば殴られるので何も言えなくなりました。親は外で私を内気だと言いましたが違います。ただただ恐ろしかったのです。あの時母は多分大きな声で歌えと言った瞬間そのことを綺麗さっぱり忘れたのだと思います。20文字程度の文を書かせるとその間に話が2転3転するような人だったのでそうだとしても不思議はありません。とにかく小学校低学年の私は体が小さかったので逆らうことなどできませんでした。
     大人に絶対服従を躾けられた私は先生を崇拝し自分は奴隷のように謙るように教育されました。謙り方が悪いとへりくだるのへの段階でビンタされました。今思えば小学校にも上がらない小さな子をよくあれだけ殴れたと思います。自分にはとてもできない。先生は激昂し親はよく私を殴って躾けました。私は奴隷としてよく仕上がった、誰でもいい子だと褒める態度だけはよくできた良い子でした。私のようなタイプの良い子を育てたいなら家で怒鳴りちらし殴れば良いのです。もし自分のエゴでなく良い親でいたいなら子供に手をあげることは絶対にしないことをお勧めします。私は汚いものが何かを徹底的に教育されました。徹底的に痛めつけられ、体に言い聞かせられましたがそれでも黒が綺麗だと思える時があるのです。不思議ですね先生や親が言うことが間違っているのかもしれません。小さな頃そんなことを思う時がありました。私はよく親に殴り返しやり返されないように殴り続ける妄想をしてしまいます。それに私は最近先生の教えに反して黒い車を買いました。黒が好きです。そして汚いと教わった物事の全てを先生や親に失礼ながら当てはめて汚いかどうか?冷静に判断した所、申し訳ありませんが汚いと言われることの全てが本当は美しくて綺麗だと考えられます。世の中に本当に汚いものなどありません。そして不思議ですが私の目にはどう見ても汚くは見えないのです。どう見ても汚く見えてしまう先生や親に教育されたことが功を奏しているのかもしれません。そうであればある意味感謝です。アーティストとして。先生の汚いというものが汚く見えない。そこが実は一番失礼なことだと存じますが汚いと教わった物事の全てが全く汚くないのです。私は学校の特に美術の先生とお話しする時この汚いと言われても汚く見えないバイアスがかかって話をしてしまいます。このようなことが絵画やアートの世界には星の数ほどあります。このようなことと落ち着いて向かい合って一歩前進した時に、そのことを社会に言葉や絵やイラストやさまざまな適切な技法を使って表現すると所謂アートや絵画のコンセプトは成立するのだと思います。エレガントという言葉があります。アートや絵画やデザインはエレガントを目指すと途端に狭くチープなものに成り下がる危険があります。一般的にはエレガントな作品がわかりやすく好まれると思います。エレガント以外のものの価値を話されても難解なことは多いと思います。親や先生もエレガントを目指さない方が実は良いのかもしれません。

    「先生と絵画に対する神格化はあってはならない」

     高校の先生に対して「あまり勉強をしていない」というのは非常識のような気がします。しかし昔は先生を敬うことが常識でしたが、実際はその殻に隠れて実体はそれほどのパフォーマンスを発揮するのかといえばとてもそんなスーパーマンのような先生はどこにもいないです。高校の時の私が思っていた以上に先生はあまり勉強していないというのは残念ながら当たっていることです。
     私は幼い頃から高校を出るまで先生をスーパーマンのようなすごい人のように本気で思っていました。本当は今でもそう思いたいですが、今の職場の先生と仕事をする以上仕事の時は忖度は一切抜きにしています。現実的にシビアに実力は見させて頂かなければなりません。実際にそれだけの問題を投げて、答えられる先生は一人もいないので、無条件に敬うことはやめ、現実的に先生のできることをやってもらう。能力以上のことは求めず期待しないのが今持たねばならない認識だと思っています。そのため多少乱暴な言い方をすれば信じたい気持ちを抑えながら先生は実は「あまり勉強してない」とはっきりさせてしまった方が手っ取り早いのです。

     今の時代では神格化することで齟齬が生じています。齟齬に対して、率直に問題を発言するようにして齟齬を避けていくことが正義だと確信しています。先生が自己満足するだけの忖度は本当にいらないと思います。実際に本当に思い込んでいるほど学校の先生は勤勉ではないと思いますのであえて公言させて頂きます。先生はスーパーマンではありません。普通の人です。先生も遊びます、寝ますし、サボります。

     予備校の立場で全入時代の日本の大学に進学している受験生たちを見てきました。見ている限り、大学入学後の動向を追って学校の先生になっている生徒はそれほど勉強をしているとは考えられません。でも全入時代に入り誰でも気軽に軽く勉強ができるようになったのは良いことです。全入時代で誰でも手軽に大学で軽く勉強ができるようになり、軽く先生になれるようになっていることは社会的にとても有益であり大切だと考えます。ここが今日の本題です。昔のように大学に行くことが大変な時代ではないので先生というイメージも適切に変えるべきかと思います。先生は重い負荷に耐えられる生き物、すなわちスーパーマンではないのです。問題なくこなせる適切な量を残業問題などなど考えれば今は適切な仕事量を文科省など見ていないことは明白ですが、早急に見るようにして過度な負担に気づき取り除くべきです。文科省が先生をスーパーなイメージで見て現実から目を背け続けているのですから呆れます。

     私自身先生として過剰に評価されたり依存されることは危険だと感じています。私の力の限界もありますし言うまでもなく生徒に盲信させてしまうことも危険だし、先生の実力がパフォーマンスが正確に見えないことに問題があると感じます。予備校では先生方を採用するために色んな先生を面接します。予備校では教育系の大学に進学する学生たちは受験に対する意識はとても低く、教えたいという思いに反して学ぶことに対する興味はあまり高いとは言えません。高校では教育系に進む学生は歓迎されるだろうと思います。予備校では教育系の大学を目指す受験生の学ぶ姿勢を他の難関大学を受験する受験生と比較しながら見ていますし、冷静に見て大抵の大学で教員免許が取れる現在では先生が人生を学ぶことに捧げているかと言えば、そうではなく「軽く学んだことで普通に食べていければいい」「他に簡単に合格できる大学がない」と考えておられた先生や考えている受験生、このように考えて志望校を決めた大学生がほとんどだと思っています。実際に美術系の教育系の国公立大学の多くは原付の免許を取る程度の勉強量で合格できてしまいます。そして教員免許は車の免許程度だと感じます。採用試験はもう少し勉強が必要です。言うまでもなく一流大学と言われる難関校の受験対策と比べてしまえば圧倒的に少ない勉強量です。高校の先生の多くが難関校の受験を進めないことも頷けます。クマビのある埼玉や群馬の教育系の国立大学の入試対策は受験勉強が最短1日で終わることもあります。試験場では誰も絵が描けておらず全員初心者で描写力を確かめるデッサンの課題の出来上がりがなんの形にもなっていなくても偏差値も平均で全員合格するという状況です。中学高校の先生方の多くはあまり勉強しなくても入れるから教育系の大学を志望校に選ばれたと思います。そして実際に生徒に勧めています。教育系の志望者は予備校で進路指導している限り難関校の受験は勉強量が多いために避けた、実際に教育系を志望する受験生たちを見る限り全員そうです。そして大学に入り高校生に進路指導する立場になった際も同じように進路指導します。そういった先生方が教壇に立たれているわけですから生徒に対する指導も免許を取ることを勧め、取らせて完結するような感覚です。免許を取れる以上の社会的なチャレンジ、例えば偏差値や倍率の高い大学を受験したり、一流企業への就職や起業し成功することや、タレントになったり、アーティストになるといった免許とは無縁の、社会に踏み込み成功するための指導は感覚的に持ち合わせていませんし経験がないため指導ができません。当然ですが難関大学の対策を主体にしている我々の感覚とのズレを感じるのも無理はありません。どちらが普通かと言えば一般的には美術の世界で食べていこうとか成功しようとする我々の方が特殊であり、中学高校の先生方が普通でありスタンダードだと思います。普通の先生に対して過度な期待は先生たちにとってご迷惑なものであろうと思います。ただやはり1つ言えることは先生は神格化の対象ではあり得ないということです。先生を神格化して押し付けるのではなく、それに何を持って神格化できるのか?という素朴な疑問もあり、現代は先生も普通の人だと認識して無理をさせないようにしていかなければならないと考えます。私ともども社会はまだ先生を神格化してしまう洗脳を受けているように思うのでもう過度な期待はやめて余計なイメージの束縛から解放してあげた方がいいと思います。そしてこれは私たちアートや絵画の世界にぴったり当てはまる話です。芸大美大受験の世界は難関校が神格化されています。そして予備校の先生が神格化されています。芸大美大の先生も神格化されています。これらは全て正確にパフォーマンスが見えないことから生まれている虚構です。虚構が現実との齟齬を生んでいるのは学校の先生たちの直面している問題と変わりません。というかもっと酷いです。画家は反社も姿を見え隠れさせながら奴隷のように描かされ金儲けの道具にされている事実があります。そのようなことは伏せられ公にされることはありません。それは神格化している折角の虚構を消さないように努めているからです。このようなことは中学や高校でも似たようなことがあります。私の知っている高校では反社の子供は何をしようが野放しでした。いじめようが大声で叫ぼうが壁ごしに先生は気づかないフリです。これも外の力で大鉈を振るわない限りなくなる問題ではありません。高校の先生に大鉈を振るうことはできませんが、さて今日の話は絵画の世界の恥ずべき汚点を解決すべく鉈を素振りしようと思って書いています。

    「教員免許と同じように画家も免許を発行すればいい」

     ここからは本題に入ります。私は教員免許をとって食べていける学校の先生方を羨ましく思います。芸大美大受験の受験生たちも教育系の大学と同じように楽に進学して卒業後に食べていけるようにするべきです。難関校を神格化し邁進していくというワンパターンな道筋だけでなく日本中のどこの大学を出ても教員免許のように免許で食べていけるようにするべきです。芸大美大は全国にあります。それぞれが雲の上に登ることができれば食べていけるといっているだけでなく、免許を取れば誰でもアーティストとして生計が立てられるようにするべきです。本書では後にそれを実現させるための方法を書いていこうと思います。
     芸大美大にチャレンジして玉砕する生徒は大勢います。玉砕すればチャレンジしないで無難に美術系の教育系の大学を出て先生になった人がずっと美術に関わり続けていけるという逆転現象が起きます。芸大美大受験の世界には「やる気 元気 勇気」という言葉があります。その通り予備校生の能力は「やる気 元気 勇気」に比例して実力が顕著に手に取るようにわかります。その力は社会に出てからも変わらないはずです。でも失敗した場合に再起できないケースがこの世界では目立つように思います。それも実力と言えるのかもしれませんがシステムとして問題があると思います。限りなく食べていくためのハードルを低くすることで成功しているのが教育系の学校によって先生を生かすシステムだと思います。画家なりアーティストの場合社会がアートの力を受け入れ生かす力を持っていません。アートが社会的に役立つ部分を明確にできずにいます。明確にできないのはアートを神格化しているからだと思います。今は神格化して実態を隠すことでビジネスを成立させていますが、アートの本来のパフォーマンスを神格化してぼかすのではなく、逆にアートのパフォーマンスを普通の機能としてはっきりさせるのです。はっきりさせ姿をあらわにした先に普通に役立ち、アーティストが普通にアートで食べていけるシステムを目指すことができます。本来であれば誰でもアートの価値に気づいて実現できることです。だから1日も早くそのシステムを作るべきだと考えます。
     芸大美大を出た人たちが普通に能力を活かせる社会。アートが普通になるためにアートは普通を目指せる社会にするべきです。アートが普通とは言い換えれば表現することが普通になることです。表現を代弁することが利益を産みます。普通からさらに高みを例えば歴史や世界を目指す人はそれはそれでやればいい。食べ物の世界のように人の目の多くは普通のアートに向かい世界的な食べ物や歴史的な食べ物に食べ物の世界はそれほど関心がいかないようにアートの世界も普通のアートの価値が認知されるべきです。大多数は普通でいいのだと思います。
     今の段階でわかりやすい普通のアートが何かを言えば皆が漫画を(漫画はアートではなく低俗なものという方は無視して良いと思います。)描けるようにすることです。漫画で例えば教科書のわかりづらい所を漫画に描いてわかるようにする。学校の先生にも漫画を描けるようになって頂くといいと思います。当然学校では幼稚園から漫画やイラストの描き方を教えるべきです。漫画など普通に社会に生きる能力を免許として証明していけば少しずつ絵を描いて普通に食べていく道は開かれていきます。その道を日本は世界に先駆けて作るべきです。学校にある先生たちが楽に食べていけるようになれるシステムを私は心から大事なものだと思います。先生の現場は今過酷ですが先生になること自体は楽なはずです。私はアートが生きていくために教員免許を参考にしたいと思います。教員免許のシステムのお陰で日本中で日本人は教育を受ける機会を得られています。そして大学を出れば普通に先生になれるし大学自体それほど無理をせずに通うこと、例えば経済的に予備校に通うお金がないご家庭のお子さんでも大学に入ってから勉強すれば良いように受験勉強をそれほどしなくても合格できる大学が沢山あります。大学に入ってからは日本では普通に勉強すれば当たり前に先生になれます。これを美術の世界は本当に見習うべきだと思います。美術の教員免許を取ればいいと考える方がおられるかと思いますが、先生ではなく本業の画家なりアーティストとして当たり前に食べていけるようにするべきだと思います。アートが普通になるには世の中が表現することを普通のこととして捉えられるようになることが必要です。表現者が表現できるように普通の人も表現することが普通になれます。普通の人が普通に表現できないのは躾、思いやり、神格化などによって控えた方が良いような教育を受け感覚を抱いているからです。言うまでもなくその弊害は至る所にあります。先生でさえ過酷な労働条件で働かされている問題を解決できない。その一番の理由は表現してこなかったからです。つまり表現する前には表現の弊害を取り除くことが肝要なのです。表現者とはその弊害を取り除くプロでもあります。

     絵は、絵でなくてもアートは誰にでも触れられて、表現して良いものです。普通に触れていいものです。それが現状ではアートは特別な才能がなければならないと先生と同じように神格化され誤解されてしまい、本当に崇拝してもらっているかわかりませんが崇拝しているかのような感じを醸し出しながら遠ざけられるような遠ざけ方をされてしまっています。絵の世界は学校のように普通に社会に浸透していかなければならないと考えます。漫画は誰でも読むと言えるほど大勢の人が普通に読むと思います。問題は神格化されているから皆描きません。漫画は誰でも描けるようになるものです。それを妨げているのは神格化です。絵が社会に多く機能するイメージは一般的にはまだ持たれていないと思いますが、日本人の誰もが漫画をスルスル描けるようになればそれはG D PやらO E C D何やらで落ち込んでいる日本を世界の上位へ押し上げる力となるはずです。絵の世界が過剰に神格化され誰でも描ける絵の力は封印されていることは日本のみならず世界中がそうです。そうである今はチャンスだと思います。ただしうかうかしていると中国や韓国の勢いは凄いですからこのチャンスの期間は短いと思います。

     現状で画家は特別に歴史的な評価を得られる作家で尚且つビジネスの才能がある人でなければ食べていくことはできません。これは画家をあまりに神格化しすぎているので起きている、起こしていることです。
     予備校として教育の世界に携わってきて教え子が先生になったりして、冷静に見続けているうちに私自身にかけられていた洗脳のような先生を神格化する洗脳は解けた感じがします。私が見る限り私が子供の頃に教わったような先生と後お坊さんを神格化して崇めたほど実際は勉強している先生や霊感の強いお坊さんは見渡す限りいません。神格化するべき対象として推奨する風潮があっただけで実際はそれに見合う人物ではなく、ただの人であり、人として極々普通の人として接してあげなければならない存在だと思います。現在は次々に歪みが明らかなり反省しなければならない時代だと思います。昨今メディアでは先生の不祥事が毎日のように出てきますがそもそも初めから先生的な虚構というか表面的な偽りの殻が世の中を悪くしているように思います。それと同じように絵画や絵も偽りの殻を作られた誤ったイメージがあり、殻を破り普通に接して頂けるように変わって欲しいです。絵画と絵はそうでなければ消えて、というか一部の陰謀によって消滅させられそうな、実際には既に社会的に美術史的に消滅させられてしまっている存在です。

    「黒は汚い色ではない」

     私の経験上黒を汚いという先生は自分を綺麗な存在だと定義してしまっています。画家としてはエレガントを目指す人が多いように思います。エレガント・・。私のような生まれ育ちの人間には到底理解できないものです。エレガントに考えれば私はエレガントではない低俗な人間とされるのだと思います。綺麗でなければならないとは幼い頃に常識として教えられています。一見それでいいようですが問題はそれと同時に汚い人を教えらてしまっていることです。実際には汚い人などいません。
     自分の絵を綺麗、人の絵を汚いと定義する時に黒は度々利用されています。綺麗を追求する上で見方や考え方がこのように偏執してしまう場合があります。本来教育すべきは我こそが美しいという穿ったものの見方ではありません。どんなものでも美しさがあることを教えられなければなりません。つまりエレガントというのは危険だと思います。何かを見た瞬間に美しいと感じるのは汚いものとの対比とは関係のない視覚的な作用です。不味い食べ物があるから美味い食べ物があるかと言えばそうではなく不味い食べ物がなくとも美味い食べ物とその味覚は存在します。視覚においては不味い色というものはありません。例えば味覚では口にしてはならないものは吐き出すことに生物としての意味がありますが、視覚では口にすると不味いものでも目を背けるのではなく注意深く見なければならないのでよく見なければならない対象はいずれも面白く綺麗に見えるはずです。怖いもの見たさもそうですし、汚いと思い込んでいるものでも見たくなって二度見したくなったりするはずです。汚いものなど実際はないのですがそのような感覚が浸透していないために絵はぐちゃぐちゃしているものにも良さがあるし、美しいとする対象が限定されてしまったらその偏執はエジプト文明と同じ過ちを犯すことになります。日本のコンクールの多くは偏執があります。芸大美大の学生がコンクールの特に団体に出品しない理由の一つがその極端な偏執にあります。団体やコンクールの審査員は美の代弁者のような勘違いをしてしまうことがあります。審査員は美を限定するのが仕事ではありません。本来であれば美については全ての出品作品の美しさを正しく分類して解き明かしわかりやすく話せて、なおかつ評価の基準を明確に作り審査をしなければなりません。が、実際はこのような正しい認識を持てている人はほとんどおらず、適当に流して済んでしまうので美しいというものがますます偏った狭いものになってしまいます。今のコンクールの審査は歴史的な評価をしうるかどうか?アートのモード、コードを理解して評価できる作品かを判断するのが強いて正解だと思います。私は現状ではコンクールで選民を選ぶこと自体反対です。正しい見方や考え方が伝えられていないためにアートや絵画の難解なイメージに嫌悪感を抱く方が後を立たないのだと思います。ぐちゃぐちゃにも美しさがあることを真摯に解けるように努めることが絵に関わる人間の使命だと思います。
     黒が汚いという先生は綺麗と汚いという区別を持ち合わせているので私の目から見て他の人となんら変わりませんが、綺麗汚いという価値基準で絵と自分と人を評価しています。お粗末だと思いますし自分は綺麗だと自分以外の人間は汚いと認識されておられて、あなたを綺麗だと言われても・・正直困るというのが本音です。綺麗と汚いを対比して区別して人を評価することは私はちょっとどうかと思います。ということを絵の世界はやり続けています。これを恥じて、変革することが絵の生き残る道の一つなのだと思います。彼らは自分より価値の低い人を設けるためにわざわざ汚い人を定義しています。風貌や性差で人を区別するのは人の教育によって生まれている概念です。概念は心配なことがあり解決方法を実践した結果のことを言います。なんの心配から風貌と性差の区別が生まれてしまっているかを考えた時に色んなことが見えてくると思います。

    「神のような思いやりとその中にある汚い黒と絵の中の反社」

     世の中には思いやりの心があります。人を否定したり、責めたり、傷つけるようなことを重ねる度に思いやりの心は削れていきます。思いやりは世の中で大事にされつつ、一方で思いやりのモヤモヤしたケムに巻かれて不正や、不正と言えば東京芸術大学の実技試験では身内にとても大きな思いやりの心で教授ないし取り巻きが試験問題をリークする時があります。東京芸術大学以外の試験問題も含めれば両手では数えきれない数のリークがありました。思いやりの煙はアートや絵画の世界に蔓延しています。一見良さような思いやりはこの世界では特に濃いので大きくて多過ぎる数多の問題に繋がっています。この煙を消し去るには自分の心が削れてでも真実を話し思いやりのモヤモヤした煙の外から不正を正していかなければなりません。
     前の話の続きですが、エレガントにわざわざ汚いもの、つまり劣っているものを選別する感覚は知らず知らずのうちにアートや絵画の世界に根付いており、実はそれが反社や宗教団体の温床ともなり、反社や宗教団体と同様の黒いビジネスを絵の世界でも白く行っています。エレガントに神のように、神のようでありたいと思う人は宗教団体から壺を買ったり、エレガントな絵を反社から騙されて、つけ込まれて高額で買ってしまいます。学校教育の現場では中学高校や大学の先生も例外ではなく、悪気なく汚いという定義を行っています。これは元々トイレットトレーニングによってトイレは汚いものという認識やエディプスコンプレックスのように性を区別するための狭い教育を幼児期に行っていることが影響していると思われます。最低保証のように最低限の教育、言い換えれば最低限のエレガントを国は誰にでも得られるようにしています。幼児教育から本当にそれが正しいのか見直さざる得ない問題です。
     黒は汚いという先生は特に中学や高校の先生に大勢います。私は黒が汚いという声を聞くと鳥肌が立ちます。黒と言えば反社、後はなんでしょうね?昔は何食わぬ顔で受け入れられたことでしたが教え子に黒人系の方を受け持つ機会があってから黒が汚いという考えは誤っていると思うようになりました。日本の絵の世界では黒が汚いと言われる場面は自然に目にすることで何も疑問に持たずに汚いと教えられ認識する機会は多いと思います。黒についてそれしか学ぶ経験がなければ本当に黒が汚いと思い込んでしまいます。そのため先生の中には調子に乗って生徒の絵の具セットから黒を奪い捨てる強行に走る輩のようなことをしてしまう先生も出る始末です。また東京芸術大学の輩で有名な先生ですがその教授は朝鮮方の画家の個展にふらっと入ってしまい朝鮮に対する差別発言を平気で行う恥知らずな行為を平然と行います。このようなことを挙げると切りはないのですが偏見を改めなければならないことは多いと思います。アーティストや画家や絵画そのものを高尚なものと評価して自分を天上人だと錯覚してしまう。ここで先生を取り上げるのは社会的に影響力のある人が偏見を振り撒き下は従わざるを得ない状況が散見されるからです。目も当てられない問題なので外からアプローチすることで改善を図ってみようと思います。組織の上が原因となってこの手の偏見は社会に蔓延しています。東京芸術大学の某専攻は封建的で先生の発言は絶対です。そこで朝鮮に対する偏見が伝染すると思うと鳥肌が立ちます。これを止めるには容赦なく叩ける誰かが上を叩くしかないと考えます。
     絵は朝鮮の方だからダメだとか、黒だからダメだということはありません。私はあえて偏見を否定するために文句を言わせて頂きますが頭の硬い人ほど偏見があると思います。悪い人を定めて自分を肯定する。それは肯定する絵、評価する絵を決められるようにするために、否定し評価しない絵を決めてしまうことと同じです。否定の対象になる絵などそもそも最初からないのです。否定の対象になる人も同じです。多分画家が黒や朝鮮を悪く言うのは絵の評価の慣習が悪い形でにじみ出てしまっているからです。絵は色と形にイメージを与えるものです。色と形に価値を与えることもできます。それが悪い形で現れることがあります。否定の対象とされた、そんな評価に本来意味はありません。黒が汚いという定義はあり得ないのです。良い絵と称されるものも同様です。例えば富士山が描かれた絵の富士山は富士山がすごいのであって絵はそれとは別物です。

    「新絵画」

     富士山を描いたから評価するというのは絵としては間違っています。富士山を鑑賞したい鑑賞者は別として、画家同士の関係の中で富士山を描いたからどうこうということは全くありません。これは美術史が歴史的と評価する絵画を題材のことしかわからないので題材で評価してしまっている過ちがにじみ出ています。よく考えてみていただけますか?芸大美大受験の石膏デッサンで何を描いたか?を評価されますか?それに美術評論家は皆で石膏デッサンを描いている段階で皆を評価の対象から外しますがとても大きな過ちを犯していると思うのは私だけでしょうか・・?
     黒を使ってはダメというのはそんな話をする前に三元色を混ぜ合わせれば複雑な色んな黒い色を作れることを教えてしまえば黒を禁止する必要は全くないわけで、それに少なくとも黒を汚いと表現する必要がそもそもないのです。黒=黒人というイメージがあり黒人の皆さんを傷つけてしまうのであれば絶対に黒を汚いとは言ってはならないと思います。
     絵は色と形にイメージを与えられる物です。そのため黒にはどのようなイメージでも与えられます。だから予め汚いというようなイメージを固定観念として指導することは絵の世界ではやってはならないことのように思います。美術史では絵画を主に題材で評価しますがそもそも画家同士では絵を題材で評価することは話が簡単すぎてつまらないのであまりありません。美術史はそのつまらないレベルのことしかわからないのでそれを主にとりあえず書きます。絵画の価値を立ち止まって意識した瞬間、題材以外に色んな問題が噴出してきます。そこに手を伸ばすべきです。石膏デッサンにも価値はあります。価値に触れられないのは価値を顕在化し評価するシステムが確立されていないからです。美術史によって題材のみを評価の対象としているのは美術評論家の陰謀により絵の題材以外の物事にスポットを得ててそこで見える価値を顕在化してしまうと画家が力を取り戻してしまうからです。顕在化された物事自体がそれに関わる人間の力となります。今のアートの世界はそのような画家にとって不利な仕掛けで動いています。絵と画家の力を取り戻すには題材は音楽の歌詞のように固定するべきです。固定された歌詞や曲を同奏でるかで音楽家の力量は評価できるのです。絵の世界はそのシステムを完全に放棄し否定してしまっています。つまりとの時から絵の歴史は止まっているのです。この先に絵の新しい歴史は生まれます。本書で私のイメージする「新絵画」です。このような問題はエジプト文明の頃から続いている問題です。エジプト文明では様式が3000年変わらなかった。王の権力によって変えられなかった訳です。様式が変わらなければ絵は進歩することはできず3000年停滞したそうです。その反省があって今がある。エジプト文明から現在まで絵の世界に固定観念があり進歩の弊害になっていることは未だにそのまま続いていると思います。色と形に意味を与えられる絵はこのことに十分注意しなければならないと思います。うまく固定させていく努力が必要です。音楽やスポーツのように。それほど難しいことではないはずです。

    「歴史を揺るがす画家が生まれてくる」

     突然ですが、歴史を揺るがす画家が生まれる条件が揃った感じがします。ようやく画家の卵が割られなくなった・・・。と、嘘のような本当の話、割られないことが歴史を揺るがす画家の生まれる一番の理由です。評価によって全ての絵は否定され続けてきました。まあこれまで全ての天才の卵は割られまくったということです。基本的に卵は自ら守る力がなく無防備です。大人は卵を挟んで狙うものと守るものの二手に分かれ対立しています。これまでは卵を狙う者たちの力が強過ぎた。まず最初に標的にされ破壊されたのは卵を守るシステムです。あ、ちなみに卵を守るジェダイの騎士はアカデミズムや古典的な絵画技法の方です。そして卵を片っ端から割っていったのは発達心理学のピアジェや当時だと黒田清輝や自由にのびのび描かせようとする人たちや現代美術やアート全体や芸大美大などなどです。ですからまずは卵を強固に守る鉄壁のシステムが必要です。日本には国が作った芸術院というものがあります。が、さて、果たしてこれがどれだけ機能しているのか?教育系の学校で先生を普通に育てられるように画家ないしアーティストを普通に守れるシステムを早急に作り上げるべきです。教育系の学校の先生に漫画と絵を簡単に描けるように教えてしまう。そして授業でわかりづらいものは全て漫画やアニメで教えられるようにする、子供たちは表現し難いことを絵や漫画で表現できるようにするといいと思います。そうすれば日本中に絵が溢れるでしょう。

     絵画の世界は卵を守るシステムをある時放棄しました。明治の頃、ピアジェの時代です。工業化の波が世界中に押し寄せ絵はシステムが崩壊しました。絵のシステムが完全崩壊することは歴史上度々起きています。ルネッサンスの終わりにチェンニーノが工房が亡くなった後に「絵画の書」を執筆した時のそうでした。今の時代も同じように「絵」は消滅させられようとしています。それを防ぐために私は技法書である本書の執筆を始めました。現状では世界中が絵画を守るシステムを放棄し始めています。テンペラ、フレスコ、モザイク、版画、油絵を守るシステムは淘汰に向かっています。卵を守るものは何もなくなり、今では公には守ってくれる人は誰もいません。日本には芸術院が昔からありますが今は何も機能していません。美術(西洋から今風に言えばアート)が日本に輸入された時には既にパワーバランスは崩壊していました。黒田清輝により絵の技法の側面の生きる道は塞がれ続けています。密かに絵を、正確に言えば絵を描く技術を芸大美大受験に忍ばせ、ここでおいてのみ絵は守られ続けています。なんでデッサンをここまでやる必要があるのか疑問に持たれる方が多いかと思いますが、このお陰で高度なデッサンなどの絵画的技術は生き残れています。小麦を輸入されなくなった非常時に備えて埼玉で小麦を作るようなものです。

     日本は日本の芸術を守るために多額の税金を投入しています。日本が芸術家を守るために国の税金は一度〇〇院に流れます。芸術院の機能のほとんどは現代美術に駆逐され指を加えて見ている以外何もできません。人生を絵に賭けようという若者の関心は芸術院には全く向いていません。ただ、税金がまず〇〇院に流れることだけは死守され守られているのです。守られているのは素敵な文教族の皆さんの利益を担保しているお爺ちゃま方が結託しているからです。政治家にとって最も大事なことは彼らの結託です。日本のアーティストのほとんど全員が作品から利益が得られず資金が枯渇している中で芸術院の数名の会員は年収億越えです。その億が若いアーティストに届くようになれば一体何百人のアーティストが活動できることか。国は芸術家を支援するために国会議事堂や全国の大学、役所等の施設に作品を展示する名目で作品を購入していますが、この話が入るのは全てお爺ちゃまの所です。コロナのために国が用意した助成金は確か半分程度が残りました。国が毎年助成している金額から想定した日本の若手アーティストへ助成すべき金額は、お爺ちゃまがごっそり持っていっているため、国の想定以上にコロナでなくとも普段から食べられていない芸術家の皆さんはコロナ前はコロナ以上に実は収入を得られていなかったのです。つまりコロナの前があまりにも天上人の想像を超えて悲惨すぎたわけです。その原因は私の推測ですが数名のお爺ちゃまです。絵の卵は割られ放題、食べられ放題です。これまでの絵画の世界のように卵を片っ端から割られたのでは育てる方としてはいくら育てても切りがなく、邪魔する奴らに手も足も出ません。
     昭和の時代まではイラストや漫画やアニメは美術の世界から低俗なものとして唾を吐きかけるような扱いをされてきました。高尚とされていたのは芸術院を頂点とする画壇です。なので看過されて、というか洗脳されて中身は空っぽなのにあるように見えて漫画やアニメではなく多くの若者が勧誘されて絵の側につきました。そしてとうとう空っぽということが露呈して、中身のない絵の世界は今では漫画やアニメの世界に媚びへつらい始めています。芸大美大では絵画を目指す学科は漫画志望やイラスト志望の学生を抱え込まなければ成り立たなくなってきました。美術館はアニメや漫画の展示をしなければとてもやっていけません。あれだけ蔑んでいたのにこの手のひら返しはさすがです。このウルトラCは守銭奴だからこそできる技です。画家には藁食って生きるように指導しておきながらブクブク肥えているのですからまるで豚さん(豚さんごめんなさい)です。豚さんの食べる卵がなくなりそっぽ向いている今がチャンスなのです。

    「天才の卵」

     天才の卵は割ってしまうと中身は育たないのです。卵は簡単に割れます。褒章で簡単に割れます。褒章を与えられなかった人、例えば幼児はその瞬間絵に対する興味の殻が割れます。幼児のほとんどはその時が絵との今生の別れです。これは絵画にとって致命的で愚かなことです。褒章をもらってしまえば褒章が目的になってしまい本質の殻が割れます。本質は卵の殻のように脆いのです。これも今の時代では認識されていない絵画の致命的で愚かなことです。後は、絵を指導する仕組みがなければ割れます。学校で絵の技術を指導することがなくなってしまった。本来漫画大国日本では幼稚園から絵を描く技術を教えてあげるべきだと私は思います。このシステムが確立できない、1つは教えられる人がいない。もう1つは黒田清輝から続く自由にのびのびに傾倒する思想が理由です。私がこれまで教えてきた幼稚園生のみんなは技術が教えてもらえないことがわかった瞬間に絵の世界を自分の興味のある世界から抹殺しました。西洋ではそんなことはありません。世界中の幼児の作品を並べてみて日本の子供たちが変に技術がないのはそのためです。大人がどれだけお世辞で褒めてもぐちゃぐちゃの顔を見て本気で喜ぶ幼児はいません。いるのは大人の振る舞いを覚えて忖度する子や褒賞を得られて誉められたからわけわからないけれどぐちゃぐちゃしている子供だけです。つまりその子の絵は忖度か褒賞目当ての絵です。又、自由にのびのびはさせ続ける環境がなくなった瞬間割れます。日本には自由にのびのび描いてプロの画家として自然に生きていけるシステムがありません。これが私が自由にのびのびを警戒して欲しい理由です。欧米にはいますが日本ではたったの一人も見たことがない・・詐欺です。

     卵の中身に興味のある人たちは卵の成長には興味はありません。だから成長を待たずに割って食べてしまうのです。彼らの中に有識者がいた場合は日本ではどうせ育たないと割り切って、それなら食べてしまえくらいに考えています。それかなす術もなく呆然としています。彼らは中身を調理してビジネスをしているに過ぎないのです。卵を彼らから守り彼らに食われず大きな鳥になっていつか奴らを喰らって欲しいと思います。人間は卵を食べる習慣があるから子供の才能の芽を卵のように平然と喰い物にするのだと思います。幼児はものが言えませんからね・・。

    「評価された作品にしか目をやらないシステム」

     卵を割るとは主に評価されない作品の価値を見ない、評価された作品にしか目をやらないシステムのことです。美術史は絵画から現代美術に流れてしまった。そればかりか絵画の世界は評価を生む代償としてあまりに大き過ぎる犠牲を払ってきました。評価とはやがて自分の首も絞める諸刃の剣です。評価された作品にしか目をやらないこのシステムの問題は評価を得なければならないと錯覚させ、絵に、絵の本質に目が向かわないようにさせてしまいました。そして最大の問題はこのシステムはそもそも錬金術のために作られたものということです。金のために、絵画は宗教団体が二束三文の壺を信者に高額で買わせること、壺の評価を神のレベルに上げる話法と同様に同時期に同じやり方で神というセリフをアートと言い換えて値段を釣り上げてしまいました。錬金術、もう少し細かくわかりやすくいえば今(2022年)問題に挙げられた宗教団体が本を3000万円で信者に買わせたり、壺を買わせたりしています。それと全く同じことをアートの世界では一応公然と一部反社に利用されてとても反社に好まれる容易な方法なので好まれて反社ライクに行われています。反社は資金集めに秋葉原などで綺麗な女性に声をかけさせ高額な、プリンターでコピーしたコピーを版画と称して売りつけているのは皆さん目の当たりにされている方も多いかと思います。生産工場ではスカウトというか怒号を浴びせて拉致した気の弱いイラストレーターに絵を描かせています。その怒号は反社でなくとも商業画廊並びにナウイ言い方をすればコミユニケーション画廊でも同様に行われる、怒号は当然のように定着しています。また、反社はイラストレーターにはファストフードでアルバイトするよりも安い賃金しか与えません。怒号を浴びせて縮み上がっていますから死なない程度の賃金でもほとんど逃げられることはありません。それがベースとなり反社ではないコミュニケーション画廊でも画家に死なない程度かそれ以下の賃金や契約料や購入代金で絵を描かせています。反社の存在はあまり表には出ませんがこのように書けばこれがどれだけおかしいことか皆さんにご理解頂けると思います。このおかしなことの最も病的なことは一般のコミュニケーション画廊が平然と善意のように食べていけるわけのない収入で画家に絵を描かせ自らは普通かそれ以上の裕福な生活を送っている点です。画廊は食うやくわずの生活を送ることはありません。この点は冷静に考える必要がある問題です。画廊を介する必要がないということが結論だと思います。画廊を介さなければ画家はもっと、具体的に言えば今の2倍〜10倍以上に収入が増えるのです。それと美術館は見つけてきた安価で買った作品を掘り出し物として高額で販売できるようにしたり、画廊も同様なことをしていますし、オークションは公然と値段を釣り上げる錬金術として行われています。絵の世界で絵が評価されなければならないという風潮は絵の金銭的価値との結びつきをスムーズにするためのものです。これによって画家を潤っているのか?といえば大多数の画家は利用されているに過ぎず、錬金術を仕掛けている数名が設け画家は利用されているに過ぎません。画家の多くは利益を得ていない。そればかりか評価をされていない全ての作品は人の目が向かないようになってしまっているのです。絵にはそもそも評価を下す前から価値があります。画廊や美術館や市場に関係なく全ての絵は素晴らしいものです。例えばカレーパンをオークションで数十億円まで値段を吊り上げでも世の中のほとんどの方はその価値がないことはわかります。それと同じことを絵の世界はやっています。その一方で絵にはカレーパンと同じ誰でもわかる価値があります。絵には元々価値があってその本来の価値を隠さず社会的で認めることが絵と画家には大切なことなのです。
     画廊や美術館や市場に関係なく絵は素晴らしいものです。既存の絵の評価とは完全に別物として絵は機能させるべきです。今のような状況は美術館という箱やオークションという箱、画廊という箱が画家の前にあって、箱のために箱が儲かるために作られています。箱のために画家や絵を集める形になってしまっているため、箱の対象とならない全ての絵が一見価値のないようなものに成り下がってしまっています。箱の都合には箱を作るために利益が得られることを前提に協力した文教族と文教族と関わることで利益を得ている色んな会社があります。美術やアートの事情に関係なく箱が不可解な行動や判断を行うのは箱を作る際に文教族様たちに利益をもたらすことが箱を作る条件となっており、まずはそれに応えなければならないからです。箱の都合の対象とならない絵は箱からすれば価値のないものです。そもそもこのこと自体が絵の世界が終息する要因に私はなっていると思いますが美術館や画廊や市場の誰がこのことに気づくのかといえば誰も気づきはしないのが悲しい現実だと思います。

     美術評論家や美術館やそれに関係する諸々の「既得権力者」の思惑通り絵画の天才は生まれ出ぬ状態は彼らの安泰と共に続いています。権力者はコンクールで屠殺し学校の成績で屠殺し、芸大美大受験で屠殺し、画廊で屠殺し、美術館でも屠殺しています。大量虐殺の果てに、さてやっと天才が生まれて来れる状態になりました。爺さんになった画家の一人としてドラゴンボールの亀仙人やスターウォーズのヨーダのように私はなろうと思います。美術館や美術評論家にはフリーザやダースベーダーみたいなのがゴロゴロいますが遠慮なくバッサバッサバッサバッサ切り倒していこうと思います。

     絵画の歴史を刻んだ美術史は美術の中で美術の1つとして位置付けている「絵画」を社会的に崩壊させ誰も、美術館も、芸大美大も、画廊も、団体も、絵は立ち位置がわからなくなるまで立場を奪い、壊し、弱体化させました。彼らが絵画を崩壊させた目的はオークションで利益を上げるためです。オークションで作品に法外な値段を付けるには価値基準を壊す必要があります。絵に食べ物や音楽やスポーツのような普通の価値がない、正しく言えば機能しないのは機能されてしまってはオークションが成り立たないからです。絵画の価値を崩壊させる論法として使われたのが技術論です。社会的価値から見れば視覚表現を伝達するメディアは絵画から写真やテレビやC Gなどに変わりました。「美術」とはそもそも日本語では「技術」の意味合いが強い言葉です。視覚的表現は科学技術の進歩と発展と共に飛躍しました。ただし絵は情報を伝えるだけの技術とは離れて「描くことの意味」をまだ残しています。単に情報を伝えるためではなくただ描くだけのために手は動くことがあるのです。そこに絵の存在意義や社会的な立場はある。紙を前につい描いてしまう。我々の元にある絵は初めからそもそもそのようなものであったはずです。その価値を声高に叫べなかっただけで絵画が完全に崩壊してしまい既得権力者の儲けがなくなり陵辱が終わった今、やっと声を上げられる時代に入れるのです。

     描くための絵の存在価値は美術史が変遷されるはるか昔から洞窟で数万年前に獲物の血液で絵を描いた時に既に見出され、絵は人知を超えたはるか宇宙の先に、はたまた人間の本能として人類に初めから組み込まれているものなのです。

     絵の社会的価値は他にもあります。視覚的な想像を形にする手段は絵を描くことでしかあり得ません。人間の視覚や視覚を脳で認識している正しい映像は未だに誰にもわからず、科学的に人体の外に出力する方法はありません。強いて絵が唯一正しい視覚を表現しうる方法です。描かれた絵が質量として身体の痕跡として筆跡を残すのはアナログで描かれた絵でしかできないことです。亡くなった人が質量として残した絵は技術云々や絵画史以上に社会的な意味があるのです。美術史に書き込まれなくなった絵は価値が見過ごされているものです。これらの価値に気づきながらも画家である我々は不遜、烏滸がましいと考えてこれまで黙り続けています。絵には価値があります。絵は美術から離れてでも生き続け存在しなければならないのです。技術としての絵の役割の多くは最先端の技術に奪われはしても絵の具を使って描く絵の価値が消滅したわけではないのです。

    「美術史は絵画史ではない〜アフターインプレッショニズム」

     美術史が作り上げたのはアート史(技術史)であって絵画史ではありません。絵画史は世界的には存在せず、絵画そのものの立場も社会にはありません。絵画を社会で確立させるには絵画史が必要です。カメラに技術が移行し抽象化の果てに消滅したというのではなく、美術評論家が辟易する通り画家は根絶やしにできないのですから彼らの都合とは切り離した所に生存している我々画家の歴史を刻むべきです。社会的に見て生存している画家は生存していないことになっています。つまり絵画史に認識されておらず絵画史の目にはいないことになっています。画家がいるにも関わらずいないことにされているとても漫画のような滑稽な状況です。そのため絵の外の世界の方々には絵はよくわかりません。人がいるのにいないとされている。賞を取った人がいるのに食べていけない。賞を取っても美術史としては受賞の事実は残されないのです。これが音楽やスポーツや将棋や色々、絵以外の世界では受賞は記録されていきます。絵の世界ではありえません。絵画史によって初めて私たちは絵がやっとわかるのです。絵が絵の世界の中にいても外では当然のように解らないのは、画家が絵の外で自分の立場が解らないのは絵画史がないからです。絵画史を作って都合が悪いのは美術館、美術評論家、画廊、芸大美大、団体の既得権力者です。絵画史を作られてしまってはオークションで好きなように値段を釣り上げられなくなってしまうのです。

     絵の中の人間のことで特にわからなくなっているのは印象派以降の特にここ30年の絵です。印象派以降の絵が特に存在すら認識できないくらいにわからないのは美術史が現代美術の変遷から書き残し始め、現代美術の流れがものを設置すれば作品が成立するというインスタレーションが現れた頃です。インスタレーション以降は現代美術ですら書き残す内容が薄くなってしまった、そのような状況に陥ったその後の絵画史は本当に書くことがないのです。

     今の所絵画史はありません。「絵なんか描いても(書いても)もしょうがない」という美術の世界の風潮の中では絵画史を変遷するということを口にするのは烏滸がましい感じがします。でも絵にとって絵画史は美術から切り離して必要なのです。アフターインプレッショニズムとでも言いましょうか、印象は以降を正しく絵画史に変遷することが絵にとって重要なことです。これは西洋ではなされないことなので日本でやってしまってもいいことです。ということで誰かやればいいと思います。

     私たちの持っている絵を描く、見る、習うなどの確かな実感と絵の存在感や存在価値は社会的には確立されていません。世界的に、歴史的に見ればアートは技術であり美術史はあくまで表現の技術史なのです。表現の技術史は産業革命の影響で絵から写真や漫画やアニメや映像、C Gに代わっていきました。それはそれで正しい。ただ、そこに未熟さを感じるのは絵、つまり絵画を切り離して誰も絵画史を編纂してこなかったことです。絵画史を編纂していけば絵の生き残る道が開かれます。その道で積み上げるのはスポーツのようにカテゴライズされたジャンルと数値化などの細分化可能な評価です。表現の技術史に関わりなく絵は絵画史の文脈を作り上げることが可能です。本書ではそのための、描く絵を固定し課題を出題し、提出された課題作品を正当に評価することで永遠に絵を描き続けられ、絵画史を積み上げていけるようにするために書いています。
     美術史が作られて間がないアートの世界はアートの世界で起きた出来事を記録するのではなく出来事を起こして起こした出来事を記録していくようになってしまいました。そしてアーティストはコードとモードと称して芸大美大受験の傾向と対策のように美術史のために制作し、美術史のために制作しているアーティストの作品がアートとされるようになり、美術史の傾向と対策を無視して制作しているアーティストや画家は美術史からはアーティストでも画家でも何者でもない価値のないものとされてしまいました。
     工業化の流れの中で社会的な価値の見出せなかった絵画ができる社会的出来事は絵画を崩壊させることでした。工業と同じようにものつくりとして社会に貢献しようとした絵画はアミューズメントとしてのちに社会的な地位を確立した漫画やアニメやイラストや映画やC Gなどを低俗なものとして「大したことない」と揶揄しながら実際は全く歯が立っていない状況を集まってきた人たちに話して騙し、絵の世界に引き込み引き止めていました。
     絵画に関わる人は逆らえないので概ね崩壊のプロセスに同調しました。決まって大鉈振った時は既得権益を持つおじいちゃんは打ち捨てられました。今では芸大美大の絵画かでイラストや漫画やアニメの生徒を入学させ始めるために自分の功績にしがみ付くおじいちゃんをあっさり打ち捨てました。崩壊のプロセスは着実に進み、そして今では絵画のどこにも壊す所がなくなってしまいました。
     歴史の編纂に未熟なアートの世界は歴史で起こった物事をリスペクトし陶酔しながら、憧れと共に歴史的な出来事を自ら起こしたいと考えるようになりました。その結果、歴史的な評価に耐えうる絵しか描く意味がないとアートの世界の誰もが考えるようになりました。そして歴史の編纂に近しい者達の周囲にいるアーティストしか歴史から、アートから見られなくなりました。その結果、今のようなただただ絵を描いたり、見たりすることにおいて不毛な状況を招いてしまいました。歴史家が編纂する歴史に関係なく絵は描かれ続け、見られ続けるものです。その本質を忘れてしまった絵の世界は描き続けることと見続けることを放棄したアートを放棄し本質に立ちかえる必要があるのです。

    「宣戦布告」

     絵画を弱体化させ尽くした今、絵画を攻め続け陵辱し尽くした力は絵画とは別の矛先に向かってしまったようです。どこかは知りません。絵画を陵辱していた者達は公園のいじめっこやウクライナを攻めるロシアのように遊び場も無くなった今では、つまらなくなってしまい興味を失ってしまった状態です。焼け野原になってしまったけれど身を潜め隠れ続けた洞窟の中からやっと出てきても安全だと言える状況です。これから再生するアイデアは世界中の至るところで潜んでいた画家が持っていることと思います。私もその一人としてここでこれを書いている次第です。歴史を揺るがす画家の出現する舞台は美術館でも画廊でも芸大美大でもありません。既存の舞台の全てを打ち崩す画家にふさわしい舞台はネットにあります。
     「絵なんか描いてもしょうがない」と言われマニエリスムの時代に入り数十年、当初より期間が短い(20年程度)と言われていたこの時代もとうとう半世紀は過ぎようかと思います。この時代の犠牲になった画家の我々を引き換えに犠牲者にとってはあまりにも永すぎた時代を終わらせるトリガーが弾かれようとしていると考えています。トリガーは私たちの心の中にあります。我々の心ひとつで歴史は覆せると、それも簡単に覆せる感じがしています。個人的に私はマニエリスムに囚われているわけではないですがアート全体はマニエリスムの残像を払いきれず、評価やシステムは何も変われず、誰も何の手出しもできないでいると思います。これまで私の見てきた絵の世界では絵を肯定できる者は誰一人いませんでした。今のアートの世界は画家を消滅させ画家の集まりを否定します。それが今のアートの世界の正義です。私はあえてこれに真っ向から対立しようと思います。宣戦布告の意味でこれを書いています。画家の集まりと、それから派生するコンクール、コンクールを定期的に開催する団体、芸大美大などの学校の全ては否定の対象です。否定のムーブメントは世界中で同時に起こりました。それを起こした画家にとっての負の力学は画家のイメージやシステムといった諸々の形態を破壊し尽くし消滅させました。結果今では画家は体を成していない状態です。特に日本では古典的な写実やイラストに近い油絵はあっても、印象派以降発展し様々な表現手法が生まれることで作られた主義、スタイルの典型的な絵とも言える油絵を描く画家の生きる道はありません。既に絵画を解体させ一度破滅させる目的を果たしているアートの世界はここから絵画を再生しなければなりませんが、そのために絵を描くことを肯定する力がなく、否定して今の立場に収まっている以上肯定するための手のひら返しができないのだと思います。主だった人たちは全員否定して立場を得ているので何も起こせず指を咥えて何も亡くなってしまった状況をぼうーぜんと眺めているだけの状態が今です。特に日本のアートは欧米からスタイル、コンセプト、システム、ビジネスの手法などの全てが輸入されてからそれをなぞることでしか動けませんから赤ちゃんのように本当に欧米からの輸入を指をチュパチュパしゃぶりながら待っている状態です。
     アートの世界は絵画に否定的です。肯定したい考えが頭の隅のどこかにあっても脳の表には出てこないので、当たり前のように指を咥え傍観することしか誰もできないのです。日本の美術館のバカなところは日本で日本の画家を大々的に押し出して展覧会をできないところと海外に向けて日本の画家を強く押し出せないところです。日本の全ての美術館が無力ですが面白いくらいに海外の画家なら文句言われないだろうという浅い考えて展覧会をするしかありません。そのおかげで美術館に関わる日本の画家の全てが表舞台に出られないでいます。誰も言えないので言いますが「本当に日本の美術館は全て馬鹿だな〜」と思います。ということで宣戦布告の言葉とさせて頂きます。
     アートの世界の中にある絵はこれからあまりにもおかしい状況に入ります。絵という概念自体を確固とした形、制度やシステムで確立できない状況の中で、誰がみても明らかにおかしいその状況は時代の変革を容易にさせるはずです。私の言う歴史を揺るがすとは絵を描くこと自体に価値を見出す画家が現れることをいいます。売ったり、評価を狙ったりするのではなく描くこと自体の価値を確立し、誰でも手軽に描けるようにカラオケで歌を歌ったり、野球選手がプロ野球に入団してプロとしてプレイしたりするように絵を描くこと自体の価値を強く押し切れる画家が現れると確信しています。日本で言えばプロ野球が始まって現れた長嶋のような画家が出てくるはずです。
     残すべき油絵というもの自体を完全に無くそうとする。美術評論家が平然と行ってきた画家の屠殺は異様な光景で誤った行為としてやっと社会に認識されるはずです。学校の誤りは需要が極端に少ないことを知りながら大勢の志望者の排出に加担すること。大学で油絵科が完全になくなれば油絵などの絵画を制作する画家を目指す学生の受け入れ先がなくなる。そんなことになってもおかしい。現状では卒業後の受け入れ先がないにも関わらず大量の受験生と大学生を生み出し社会に居場所の全くない画家を大勢排出し続けていることもおかしい。

    「祭り上げられた虚構の価値」

     私は近い将来芸大美大の入試で油絵の実技試験はなくなると考えています。もしくは対称的に高校の美術部で描いていた油絵の延長で実技試験を受験しても合格できるようになると思います。ただ日本中に増えすぎた油絵科は多くの大学から無くなると考えています。明治と昭和の時代に高尚で崇拝され崇め奉られた絵画は祭り上げによって良いもののような気にさせられていただけです。祭り上げられたほどの価値は全くありません。インチキ宗教団体が二束三文の壺を高額な料金で信者に買わせるのと同じように全く価値のないものだということが直にわかるはずです。実は日本中に全く値段が上がることのない絵を画廊に買わされて諦めている人が、というか画廊から絵を買ったほとんどの人がそうですが宗教団体の壺と同じです。壺と併行して証明し続けることで直に真実が認識されます。大学の絵画科は今ほどの規模は必要ありません。根拠は必要ないからです。画家を目指す学生は今ほどいてはなりません。ほとんどいりません。もっと減らすべきです。何名か残すとしたら都内のどこかの大学で数名残っていればそれでいいと思います。そもそも1学年で本気で油絵に人生を捧げる気のある学生は片手で足りるほどの人数です。日本のどこかで片手で足りる人数の定員の油絵科があったとしたら彼らはわき目もくれずその1点を目指して真っ直ぐ進んでくるでしょう。私も学生の時そうであったらそうしたと思います。そして本当はそうしなければ本物は見抜けない。本物は日本中に不要な油絵科が無くなる淘汰が行われた後にはっきりわかります。それは油絵にとっても油絵を描く画家にとってもいいことで必要なことです。
     大学入試の油絵の実技試験はどんどん無くすべきです。自然に無くなるとも思います。木炭デッサンはもっと早く無くなるはずです。彫刻科や日本画も油絵に準じて同じように不要になってくると思います。それでも残るべき本来あるべき絵や彫刻は残ります。例えば東京芸大の1学年に油絵を専攻する学生は5名もいれば十分です。高校までに油絵に触れさせてきて誰も残さないというのはあまりに理不尽です。本当にひとにぎりでいいので残すべき人材を残すべきです。高校の美術部で油絵を教える意味はあります。そして高校の美術部から東京芸術大学を受験させても5名の中で厳選する場合には十分逸材は見抜けるはずです。今のような、大学の教員の馬鹿な見方に合わせた絵しか合格できないのは沢山の絵に目が眩んだ状態の教員が、大勢いる受験生の中から個々が見えない状態で選んでいるからで、本来見抜くべき学生を選び出すような見方ではありません。沢山ある作品を目の当たりにしてその光景から選び出すことと一人一人を見て人材を見抜くのでは話は全く違います。
     油絵は残す価値があります。他の例えば国語の古文のように学術的に残す意義は必ずあります。でも今のような規模はいりません。多すぎるから意味がわからなくなります。はたまた油絵は高校の美術部のようにプレイヤーとして音楽やスポーツやゲームのプレイヤーのように残さなければなりません。ポンコツ美術評論家が何をほざこうが油絵を描く画家はプレイヤーとして残ります。この事実が必死に絶滅させようとした美術評論家が根絶やしにできない画家が消えない理由です。油絵具を使う画家は美術評論家が何と言おうが社会的に必要です。絵は描く意味があるからです。ただ描くだけでも十分意味がありますが、そもそも画家が描かなければならない課題が山ほどあります。

    「絵を描くための出題」

     本書は画家が絵を永遠に描き続けられるように課題を作成しH Pで紹介していこうと思います。本書では後に課題を作成しH Pに上げていきます。(課題を出すまでにはおそらく10年程度かかります。状況的に世界中の誰もやれないので私がやります。)本書は課題を書き上げるために書いています。逆に言えば現状で全国に1000人近い油絵専攻の受験生がいることは異常なことです。この異常を続けているのは既得権益を得ている大学の教員の都合以外の何者でもありません。大学の教員がいかに必要性を解こうともこの数十年で油絵を描いて活躍する学生がいない事実を見れば弁解の余地はありません。毎年1000名の人材が油絵に必要かと言われれば全く必要ありません。しかし全国で1名〜5名ということであれば話は別です。片手で数えられる数の生徒を毎年排出していくことは国をあげて続けていくべきです。この数名のために育成チームを組んで世界で、歴史で台頭できる画家を育てると考えれば油絵の意義は見えてきます。今の大学にこの片手の画家を見つけ出し、守り育てる力はありません。本来であれば芸大美大は受験生の1000名を俯瞰しその価値を問えなければなりません。ですがとても不毛な作業です。つまり意味がないとわかっているので誰もやりません。大人数を預かる以上、大人数の価値を問わなければならない。大人数の生徒が必要であると説くことが彼らの収入を支えている以上説明責任があるのです。本当は片手で足りる程度の人数でいい。でもそう説いてしまえば収入が途絶えるのでできないのです。大人数の中で生まれた虚構の全体感に押されてしまい数名の逸材を見つけ出す力、というか興味関心がそもそもないのです。彼らの興味の全ては自分がこの油絵の世界で生きていくために大人しくしておき給料をもらい続けることだけです。これが大学教員の中で賢いとされている教員の在り方の全てです。とはいえ絵には価値があります。画家にも価値があります。その価値は時代がどれだけ腐敗しても消滅することはありません。今はもういい加減この価値の芽を拾い上げ育てる時です。
     絵をネガティブに見てきたこれまでの常識を一変する画家は必ず出てきます。この画家に敵対する者、心から迎え入れる者、マニエリスムの時代には絵を描くことに辟易している者は多いので敵の方が多いことは確かです。ですが皆さん、皆さんは落書きは好きな人が多いですよね。私はドラえもんやキン肉マンやウルトラマンの落書きを描くのは好きですが皆さんは落書きを描くのは嫌いですか?絵画の世界は絵を否定し人がつい落書きを描いてしまう謎も否定し絵の多くの謎と共に絵の価値と必要性を完全に見落としてしまっています。絵はこれまで絵を否定することしか出来なかった。この半世紀の間、肯定的に絵を研究することは全くなされず課題は放置されたままです。マニエリスムがどうであれ絵は絵。油絵は油絵。絵と、絵を完全否定するマニエリスムは全くの別物です。衰退しきっている絵を救う救世主は辟易している悪党どもをことごとく薙ぎ倒し、押さえつけられている画家たちや絵が好きで自由にのびのび描きたい子供たちのヒーローになります。
     英雄はマニエリズムでぬくぬくしている者の中にはいません。苦労している人間からしか出てはきません。なぜならば同じ立場で同じ苦しみを知り周りのみんなを苦しみから解放するのが英雄だからです。つまり今現在既得権益を守り状況を変えるつもりが全くない者からは英雄が出てくることはありません。どこかにいる英雄が自然に出て来れるようにお膳立てをしておかなければならないのです。ヒーローが出てきた時に彼、彼女らに降りかかる火の粉を我々老人は払い除けようと思います。容赦無く。
     時代を終わらせるトリガーに手をかける前には絵の可能性を封じる無数の鍵の番人をどうにかしなければなりません。番人はマニエリスムによって絵を描くことに疑問を持ち描くことを抑えているマニエリストです。彼らは実は美術館、画廊、芸大美大、市場です。絵の可能性を封じることで利益を得ている既得権益の番人です。彼らのweek pointは生活するための収入です。彼らの鎖は新たな収入源を確保してあげれば鉄のように硬く見えても灰のように息をそっと吹きかけるだけで脆く崩れます。彼らは後でお話しする芸大ロンダリング等の弱い者が生活するために従順に上の言う通りにして鍵を預かっているだけだから弱いです。芸大美大や美術館や画廊や市場はイラストやアニメや漫画に乗り換えようとしています。それまでのご高閲は自分達を正当化させようとしていただけの見せかけです。芸大美大ではこれまで徹底的に否定していたアニメやイラストを生徒が減ってきたのでなんの躊躇いもなく、是非もなく受け入れ始めています。彼らにとってお金が全てなのです。
     さてアート並びに絵画の世界はこれまでの悪の所業を打ち据えなければなりません。これまで正当化されてきた法外な作品の価格は今巷で話題になっている某宗教団体が本を1冊3000万円で信者に売りつけていることとなんら変わりありません。アートの世界では紙切れ1枚に数十億円の値段をつけているのですから宗教団体以上に悪質です。価格を破壊されているので真っ当な画家が正当な評価を得られない、例えば音楽やスポーツのように細かな差異を評価し対価が得られる仕組みが成り立たなくなってしまっている。
     絵やアートの世界に自由などありません。学校で習うように自由にのびのび制作してそのまま食べていけるようになる画家やアーティストは一人もいません。学校にいるまでの間はのびのび描けても学校を出てからはそれで生活はできないので制作を続けることはできません。アートや絵は簡単に言えば利益を求めさえしなければ自由に描いたり作ることができます。自由にのびのび作ったものが評価されないのはそこにある良さを価値として認め評価するシステムが作られていないからです。この評価は繊細に細分化された精度の高いものでなければなりません。今ある評価はザルでいい加減です。簡単に言えばほとんどの作品は歴史的な評価に結びつく必要はない。カレーパンでもうどんでも需要のあるものは歴史的なカレーでなくてもパン屋さんに生活出来るだけの利益をもたらすのです。絵の世界の報酬と褒章を得るシステムを破壊したのはマニエリストです。マニエリスト以前が完全かと言えば問題だらけだったと思います。問題があるからこそ一度破壊したと私は考えています。さてこれからの未来に今の荒れたまま受け渡せる神経は私にはありません。

     彼らの所蔵する作品に必要以上の法外な金銭的な価値を与えようとするために全ての話がおかしくなっています。彼らが運営できた通りマニエリスムの時代では絵を抑えることが利益に繋がった。マニエリスムの時代はなんでもない紙切れ1枚に数十億ドルの価値を与えることができた。これは悪の組織ショッカーの怪物クリエーチャーの所業です。ショッカーによって抑え続けるシステムが出来上がった。美術館も画廊もオークションも大学も全てショッカーが作ったシステムをベースに稼働しています。マニエリスムは絵の世界を完全に悪の色で湿潤し知らぬ間に社会に広く浸透してしまっているものなのです。そのシステムは簡単に言えば絵の世界に造られた絵を描けないようにする装置です。皮肉にもその装置は絵の財力を使って造られました。そして絵の世界に入ってくる栄養の全てを吸い尽くしている。その結果画家は生命線である収入の全ての道を経たれ絵を描くことができなくなりその姿を見て社会では「絵なんか描いてもしょうがない」と言う言葉が常識となり定着しました。絵の可能性を押さえつけ美術館や画廊や市場や芸大美大と密かに社会と繋げている鎖は鍵の番人によって守られています。私の知る限り歴史を理解し問題に真摯に向かい合おうとする若者たちはその鍵の番人に関わるか迷いました。迷いながら絵を描くか筆を置くか選択しました。そのような空気の中で勇気のある絵を大事にしたい人はマニエリスムの入り口に入ろうとはしませんでした。優秀なものほど静観し弱いものは簡単に迎合しました。弱いものほど素直に上に従いへり下り出世しています。弱いものほど権力の傘の下に入り権力者の言うことに従順で心の底から従います。例えば東京芸術大学では大学に残る意味を感じる学生が減り研究室に誰もいないため外部から受験したFランク校の学生を入れる今流行りの芸大ロンダリングが始まりました。今の東京芸術大学に定着しつつある出世の方法です。意識の高い学部生と大学の教員とは齟齬があるので東京芸術大学では汚染されていないFランク校の学生が必要となりました。形に疑問を持たないFランクの学生は従順です。皮肉にも勤勉な学生ほど扱いづらい、勤勉でない学生ほど何も知らないのでいうことを聞きます。芸大ロンダリングで従順に従ったものが世間的には出世していく形が出来上がりました。とても情けないですが真実です。実際に東京芸大では私が学生だった時代から現在までで学部から芸大にいた学生で油絵を描き東京芸大油画の教員になっているものは1人もいません。

     絵なんか描いてもしょうがないと思っている人は絵の世界の内部の人と外部の人を問わず多いです。
     この言葉は絵を描いた後が不毛だと言っています。内部では絵を描いてももう評価されない。外の世界の皆さんが使う時はお金にならなくて生活できないというのが一番意味するところです。漫画の世界でも漫画で食べていけないと言うのが一般論です。でもかもしれませんが私の九州の実家には売れない漫画を描いていた祖父がかつて売れる前の友達の松本零士を連れてきて居候させていたのを見ていたので親戚一同私も漫画を描いて100%食べられないと言う感覚はないです。私は漫画家ではなく画家ですがこの年になれば周りに結果を出す人間が現れるので100パーセント画家で食べていけないと言う感覚は持ちえず、難しくとも食べていけると認識しています。食べていく道筋は確実にあります。その道を教えなければならない人がいます。教えなければならない人に具体的に教える場所や形が世界中のどこにもない。そのため私は書こうとしているのです。そのためには目に見えない鎖を切らなければならないのです。

     とは言うものの食べられないという先入観が建てた心の壁を越えるのは一苦労です。やはりこの道は色んな意味で難しい道です。この道をインフラ整備するために多くの人間が尽力しています。絵がお金になるようにあらゆる所で様々な方法が試されてきました。しかし画家や絵を描く立場の人間からすると、私は画家や絵を描く立場とは違った人間の思惑が働き、絵の世界に流れるお金は全て整備に関わる彼らの元に一度集められ、彼らで分前を振り分け、そこでだけで終わっている。と私は見ています。そのように見た時に私は彼らと関わることに興味を持つことはできず、「絵なんか描いてもしょうがない」と言われる言葉のように絵が終わり、外からは訳はわからなくとも間違いなく整備が行き届いておらず荒廃しきっているというイメージを変えるには、改めて彼らを排して、彼らを素通りするシステムを作り、画家と絵を描くことを大切にする人間が集まって絵で食べていける世界を構築した方がいいと思います。
     私は少し先の未来は必ずそのように動くだろうと絵の世界を見越しています。自然とそうなるはずなので事がスムーズに運ぶように必要な論述をしておこうと思います。ここに書いておけばみんなの口からここに書いた文章が出てくるはずです。みんなが十分潤ってから何十年先に実はあるH Pに書いてあることを読んだんだよな〜あれなんだっけみたいな回想を世界中でされるといいと思います。
     絵はスポーツや音楽や文学のように終わることなく人類が続く限り永遠に存続し人のより良い人生に普遍的に貢献し続けるはずです。今の時代は間違っている。そもそも「絵なんか描いでもしょうがない」と言われることが常識となりえてしまっていること自体病的なことです。
     絵の世界でこのようなことを書けば性懲りも無く絵を描く人間が出てくることに辟易している美術評論家たちは鼻で笑うと思います。ですが私はこのアホな美術評論家どもを遠ざけ全員敵にまわして小指の先をチョイっと動かして完膚なきまでにやっつけようと思います。このような状況を作り上げている美術評論家はより良い絵の未来のために遠ざけるほかないのです。私の力で美術評論家は絵を描く人間に対して辟易など言ってられないようにぐうの音を上げさせます。
     皆が楽しい時、苦しい時、辛く悲しい時、怒る時、何かを訴えたい時、ただただ楽しく落書きを描きたい時にどんどん絵を描けるようにして、人が絵を描くことが常識なるようにしようと思います。美術評論家は恥をかきたくなければ早いうちに絵を描いている人を見ると辟易するなどという考え方は改めた方がいいと思います。しかし、現状では絵の世界は美術評論家の考え方が支配しています。そのためこの状況を変えようとする人は絵の世界では奇人扱いされると思います。私はとっくの昔に慣れてますが馬鹿扱いされたり、少なくとも出世とは無縁になります。であったりしますが私はやはりこの道に進むことが自分にとって最も実りある幸せに近づける道だと確信します。必ず状況は変わる。だからこれを書いています。ちなみにこれは技法書です。私が書き残す世に出ていない書き記されていない技法を書き上げる前に、絵を受け入れられない状況を変えることを書かなければならないので、技法書の前置きを書いています。私は失読症なので文章はとてもお粗末ですがチェンニーノのように書き残そうと思います。どんな偉い大学教授より私は絵の教育のことを考え続けてきました。どんなに売れている画家より絵のことを思ってきました。著名な美術評論家よりも絵の可能性を見て見出しています。彼らに絡めばこの可能性は文字に起こすことはできません。そのため彼らが画家を疎むように彼らが住まう六本木ヒルズとは程遠い田園風景の、墜ちた画家の姿を見て喜びそうな、絵に描いたような僻地のここでこれを書き続けています。彼らが辟易する画家の代表としてこの仕事を死ぬまで続けます。これが世の中に浸透した時、彼らは瞬時に掌を返します。その様子を思い描いて楽しみながら書いているのです。私にとっての褒賞はこれで十分です。

  • 絵の課題の前に〜11「絵で食べていけないことはない」

    「絵では食べていけない」

     絵はなかなか売れません。といってもそれはたまたま売れづらい状況を目の当たりにした後の認識です。たまたまという所がみそです。見る機会がそもそもない。これがパン屋さんでパンが売れるくらい絵が売れるのを見ていれば色んな問題が解決すると思います。絵の売れる様子が目につかないことで問題が起きています。未熟であるがゆえの問題です。これを無くしたい。
     確実に売れる火種はあります。私の考え方で恐縮ですがお客さんが1人でも来て頂けるビジネスはやり方さえ間違えなければ必ず成功する。つまり絵で必ず食べていけるようになると私は確信を持っています。人目のつかない、見ていない時に何かの風で消えている火を絶対に消させないように死守するのです。火種が消えないように一瞬1秒でも油断せずに守って育てていけば絵で食べていけるようになります。そのためにこれを書いています。
     パンのように絵が売れたり、画家がスポーツ選手や音楽家のように描くことで収入が得られるようにするべきだと思います。その能力が絵にはあります。それができない理由はパン屋さんのように絵の世界が普通でいないからです。特別なもののように偽って仕立て上げているから絵は普通にしていれば成り立つのにそうではいられなくなってしまっています。ペシュメル遺跡にある手形のように皆が普通に絵を描く世界が私は理想だろうとイメージしています。これは多分描くことで収益が得られるシステムを作ってしまえば実現することです。美術館や画廊と関わる必要はありません、ことの発端は描くことがそれほどわからない彼らが絵の世界を支配してしまったことから始まっています。美術館という巨大な箱が運営できるように、そして国が国益を上げるために巨額の税金を投入してしまったためにアートはまずは美術館に大きな利益をもたらすものでなければならなくなりました。無理な利益を上げなければならないものに仕立てられてしまった。そのお陰で絵というものがパンを売り買いするくらい安価ではならないものになってしまった。そしてわけのわからないものになった。
     わけがわからないのは「普通」という概念を一切否定し、普遍的な理屈の一切が通用しなくしてしまったためです。普通に描けば良かったものが変えられてしまったのは「特別」を前提にして今の絵の論法が作り上げられているからです。そして今の時代、つまり現代では「特別」を前提にして描ける絵は既に存在しません。普通を否定しているわけですから普通に画家が成り立たなくて、誰も絵がわからなくなるのは当然です。実態がそもそもないのですから。画家は彼ら(美術館や画廊)に察知しえない高度な技法や感覚や概念を普通として普通に星の数ほど持っています。それをそのまま認めて社会に流せばいいのです。本書はその気づきや思い至る仕掛けになればいいと考えています。時間がかかりますが何を描けばいいか課題も出していきます。採点の方法、評価の仕方も既存の低い精度のものではなくわかりやすくどこにもない精度ものを、誰が見ても美術館と美術評論家の評価がチープに見えてしまう程度に十分なものを出していきます。それで今の状況は払拭できるはずです。もちろん美術館や美術評論家の中に勤勉に学びたい人がいれば時間の許す限り教えようと思います。すみません、冗談ではなく本気で書いています・・。

    「絵は売れる」

     絵がたまたま売れる所を目の当たりにすれば売れると認識します。いずれにせよ正しいですが統計的に言えば売れないと言えるには言えると思います。しかしそれは売れずべくして売れないのであり、また違う場では売れるべくして売れているのです。実はアートはセレブでエレガントな世界では人知れず売れ続けています。そういった事実があることも何となくご存じだと思いますがどこと関わるかが重要だと思います。
     このように売れる売れない認識の齟齬が起こるのは市場が未熟なためです。なぜ売れるのか?何のために買うのか?といったことを公にできないでいます。それは事情を露骨に話すと販売している人間の都合に悪いからです。元々売れ続けるのは無償の奉仕の精神で買ってあげようという人がいてそういう人が集まる所です。それ以外の場所は売れないのを前提にして売れればいいな〜という感覚の売れないことが前提の未熟な所です。それがその場の絵ですしだからなかなか売れないのです。市場は不安定なので内情に詳しくない限りは出来心や投資目的で買っても損をしますから注意してください。

     未熟な市場は何かがあればすぐに壊れてしまいます。成長して成熟するまで外の世界と隔離して幼体である火種を保育しなければなりません。生き残るためには色々しているようです。私も酷い目にあったことがあります。売る側からしてみれば儲けてなんぼなので画家を食い物にするために試行錯誤していることこそが努力されていることです。悪いこともかなりやっているので、それが売れるかどうかよくわからない原因だと思います。売れるには売れるが他のものに比べて価値がはっきり定められていないものです。このような状況の中で何とか売れるようにしているのが市場の世界です。何とか売るために売れるのか売れないのかよくわからないようにしているのは絵画の世界が作り上げている仕掛けです。
     アートの世界は画家総玉砕の構図を描いています。その構図を見せておいて取って置きの1枚を出せば売れます。玉砕しなかった画家が歴史に残りオークションで高額で売れるシナリオが綺麗に描けています。上げる。ことによって価値が作り出せてやっと売れるようになります。この売り方が諸刃の剣なので玉砕させざる得ないその他全員の画家の絵が売れません。玉砕した画家と生き残った画家の作品を比べて優劣があるかと言えば実はありません。優劣がないと尚更売れないために優劣をつけています。1つを残しその他全てを否定する仕組みによって絵はなかなか売れないという状況が生まれています。つまり絵は売れるのです。

    「優劣ではなく普通の良さを語る」

     アーティストの作品はどれも優劣のつけ難い価値があるものです。そこに普遍的な価値があります。絵はそもそも市場で全く売れなくなるほど価値のないものではありません。とても価値のあるものです。劣の存在しないものです。しかも絵は高額で取引されなければならないものではありません。売れる値段で自然に売れるようにして良いものです。高額投資の対象にしようとするから売れなくなってしまうのです。パン1個百万円では誰も買いませんよね、それをやってしまったのがアートの市場です。そんなことをしてしまえばパンが売れなくなるのは当然です。
     絵の世界は絵が高額投資の対象になるように全て画家の中から1名だけを選び出すシステムによって有無を言わさず高値を付けられるようにしています。有無をいった方が儲かると思うのですが変われません。こんな状況には無理があるので限界に来ていると私は思います。私は当事者でありながら少し距離をとって観察し思案し続けてきましたが、どう見ても全ての作品の価値を容易に説明できるようになってしまっている今では特定の作家の作品だけが特別に価値があるという構図はもう無理があります。本当に実際はどの作品もそう大差ないのです。画家総玉砕の構図は学校教育のシステムから作られています。画家は全て玉砕するものだと学校で教えているのです。それを幼児の作品の成績やコンクールから行なっているのだから困ったものです。その結果玉砕してなんぼという認識を持たせて洗脳し画家が扱いやすい人造人間になるように仕立てています。

    「歴史以上に普通の普遍的な絵の素晴らしき世界」

     普遍的な絵の素晴らしさは全ての絵にあります。しかしアートの世界は普通の絵の世界を全て隠して人目に付かないようにしています。絵の普通に持っている価値が隠されているのです。それを隠すことによって巨匠だろうがなんだろうが本当は普通の人ですが神秘的な神のような存在として売り込めるようになっています。仕掛けている者からすれば正体がバレるのはとても都合の悪いことです。なんとか画家の絵が売れるようにしていると言いつつも、本当は始めから普通にしていさえすれば画家は利益を得られているのです。
     売れる売れないをどう踏まえて話すかで絵画の命運は分かれると思います。絵画の売買は特別な価値があるかのように見せて売りつけています。また、特別な価値をつけるために企画を立てて売っています。その意図は十分理解しているつもりです。ですがそれは普通に売れないようになることを意味しています。

     物の価値が普通に普遍的に認められているのは絵画以外にはたくさんあります。近い所では音楽、少し離れてスポーツです。この2つと絵画が共通していることはプレイすること自体に大きな意味や価値があることです。しかし絵画との違いはそこに対価を発生させるか発生しないように仕掛けているかです。音楽とスポーツはチケットを販売することで多くのプレイヤーが普通に収入を得られています。絵画はそれを否定し歴史的な価値のあるものでなければ認めません。私はこれを変えたいのです。
     画家にはプレイヤーとしての価値があります。我々画家は評論家や美術館などの画家の外の話を全て受け入れて生きてきました。「歴史的に意味のある作品でなければ認められない」そう教えられてきたので周りとどれだけ意味のある制作をし続けてきてもけしてそれを表には出さないできました。例えば私のいる受験の世界では音楽やスポーツに負けることのない熱量で絵を描いています。ここで起きている物事は外に出すに十分たるものです。これを伏せていること自体が絵を売れなくさせ、画家が普通に生きれない原因です。
     物には価値があります。絵にも価値があるように、歴史的な価値以上に普遍的に普通の価値が物にはあります。例えばパンは普通に価値があるので売れます。それと全く同じように絵もパンのように価値があるのです。歴史的な価値とは普遍的な価値の重要性と比較してしまえば表に出して取り上げるまでもないことです。例えば歴史的な価値のあるパンがあったとして、そのパンに対する対処の仕方は誰でも冷静にわかっていると思います。歴史的に価値のある絵もそれと同じでいいのです。

  • 絵の課題の前に〜12「新絵画という絵画の革命」

     絵が売れるかどうかと言われれば私は売れるという側です。絵には色んな金銭的な価値があります。まずは絵の、商品としての金銭的な価値。その他には、絵の描き方、見方、考え方を教えることもお金になります。評価することもなります。これからお金に変わっていくことは描くことを見せることです。そして描いて競技すること。競技することは私が新絵画を起こす中で計画していることです。私よりも早くやりたい人はぜひ!どうぞ初めてください。私がここで構想を公開すれば自然発生的に色んな場所で事が始まることはもうわかっています。私の方が遅れるかもしれませんが、でもそれなりに私も絶対に成功する温めた考えがあります。言い忘れましたが芸術的な価値。歴史的な価値もあります。ただし、芸術的な価値と歴史的な価値はその多くがこれから必ず廃れます。これは新絵画で私が書く予言です。
     絵の金銭的な価値が今まで社会的に機能していないのはそれぞれの境界線をぼかしてモヤモヤさせてきたからです。境界線をケムに巻き隠すことで、黙って入ってはならない領域までなんとなく、騙し騙し横断できるようにしています。領域侵犯し、そのことで悪徳商法のように利益を得ている仕組みがあります。領域侵犯はみんなわかっています。でもそれを規制する力がアートと絵の世界には存在しないのです。暗黙の了解を得て成立しているその距離感、煙い空気感を読む事がこの世界で生きていく上では才能のように必要なことと言えます。例えば画廊は美術館から価値を認められていなくとも芸術的な価値があるかのように市場やコレクターに売り込むことが可能です。この世界は基本、名乗ってしまえばいい。素人でも画廊の看板を立てて営業することが可能です。そのような世界なので第三者の目はさほど気にすることはありません。そのためインサイダー取引まがいのものも往々にしてありますし、試験問題も簡単に漏洩しています。このような形になってしまっているのは、そもそも国家がアートによって権威を保ったり、利益を上げてきたからです。社会はお金によって成り立っていますから、国はお金によって力を得ていますから、お金を得ていく事情と密接に関係しているのです。お金をどのようにして生み出すか?戦争をしたり侵略できる内は困りまらなかっただろうと思いますが、戦争が終わった後は発明をしたりで、錬金術としてアートは金儲けには不可欠な存在です。どうにかして力を生む方法の1つとしてアートがあるのです。ただの紙切れを大金に変える力が芸術性にはあります。芸術性というものをモヤモヤとした実態のないものにしておけば、アートなり絵画は権力者がお金に変える力を作り上げるのに都合がいいのです。それによって絵の本来の商品価値はほぼ喪失している状況です。そのためほとんどの画家が絵を描いて利益を上げることができません。商品価値の上に芸術的な価値をつけようと宣伝し、商品に芸術的な価値があたかもついている風になってしまっています。風なので誰でも気づくので売り方次第では売れることはないです。売れるとすれば高いから買う人が気分で買う時だけです。本当は歴史的にも芸術的にも誰も認めていなくても、ドラマを作って流したりバンバン宣伝してしまえば売れてしまいます。市場や公募団体や画廊や美術館でさえもそれぞれが独自の判断で領域を超えてあれこれ付け加えてしまっています。例えば公募団体の中では高校生は我が団体に出品すれば東京芸大に合格する力が身につくと営業してしまう。当然箸にも棒にもかからないのですが団体の中では神話ができていますから普通にまかり通ってしまいます。私も若い頃何度も団体の人に怒鳴られて洗脳されたことがあります。市場ではオークションで釣り上げを行い、団体は外で通用しない賞を与えます。画廊は意味のない個展を、美術館は意味がなくとも大々的に展覧会をすれば芸術的な価値があるように見えてしまい、力技で既成事実を捏造することができます。何がいいのかさっぱりわからない作品でも、実際に意味のない作品でも、美術館が力技でゴリ押しの評価をしてしまえばそれは歴史に残る絵になってしまいます。そこはいずれ廃れる部分ではありますが。
     それによって困るのは、他とそう違わないわけですから、他の画家の絵が良く見えなくなってしまうことです。これがアートや絵画の世界がモヤモヤしている2つ目の原因です。この功罪は画家が食べられなくなってしまっているということです。美術館が良くても画家が困る。描くだけで音楽家やスポーツ選手のように食べていけるところをその価値に目が向かないように仕掛けられている。見向きもされないようになってしまえば売れるわけがありません。人の目を向かせる仕掛けがあるために画家が勝手に営業しても理解されなくされています。画家がパン屋さんと同じように自分で看板を出して営業できないのです。アートと絵画の世界はこのディシプリンで完全に支配されているのです。
     画家がこのような状況に陥っている理由は、そもそも画家は奴隷のような扱いから始まったものだからです。わかりやすく書けば大昔絵はそもそも奴隷に書かせていたということです。そのためディシプリン、いわゆる規律に画家は従順なため規律を設けられてしまえばそこに簡単に迎合してしまいます。支配する側は大昔からいかにして奴隷を支配し続け、既得権益を守り続けるかに思慮し続けています。それが今の美術館にも繋がっている。そのやりとりは将棋やチェス、実際の戦争とそう変わらないと思います。あまりに徹底的に管理され成功してしまっているので市場に対して反旗を翻そうという画家は今では見たことはありません。
     ですが時代の節目はもう目の前に近づいていると思います。そして絵画の革命とは画家が独自に市場を形成してしまうことで簡単に成ると考えます。宣伝をして、販売する。それだけの営業をやってしまえばいいのです。画家が独自に営業する新しい絵画の営みが生まれれば絵画の世界に革命は起き、これまでの絵画の常識は簡単にひっくりかえります。現状では画家は奴隷ですから、ディシプリン、いわゆる監獄の囚人のようにガチガチに管理されている。そのためその手綱が切れるのであれば切ることを選択する画家は自然発生的に世界中から現れるはずです。今大事なことは切ることを肯定する論理を徹底的に作り上げて、切ることに対する不安感を完全に払拭することです。私はここでそれをやっていきますが、ネットで世界中で、やってみたい人がどんどん革命の論理を書いてくれれば新絵画はスムーズに現れるはずです。それが私の計画している(ありんす)計画です。その時には美術館も画廊もなすすべはありません。美術評論家も何もできないでしょう。美術評論家は画家の立場から歴史を紡ぐ力がありません。なぜならば彼らの興味は絵の世界にはないからです。画家の描くこと、教えること、売ること、見方、考え方はこの50年正しく書かれてきませんでした。全てないがしろです。
     書かれなかった理由はディシプリン、つまり監獄を作るためのコードとモードを構築し新しい作品でなければ価値がないという論法による支配を完成させているためです。そうしてずっと今まできました。新しいものしか意味がないとされてしまったために画家は本当はある絵の価値がないように錯覚してしまいました。これがこの世界にある完全な洗脳です。音楽やスポーツがプレイすること自体に価値があるように絵は描くことに価値があります。この50年は描くことの価値を剥奪され続けた時代でした。しかし本当は絵は売れるのです。監獄を破壊し、コードとモードを無視し無効化させ、画家が自分で独自に営業すればいいのです。そうすれば間違いなく絵は売れるようになります。あなたの手で新絵画の革命を起こしてください。
  • 絵の課題の前に〜13「新絵画の革命は必ず起きる」

     絵は売れます。ただし今のやり方は間違っています。今のやり方には大反対です。だから現状のまま安易に売れると言ったり、今のやり方に同調して売れると発言する気は一切ありません。絵は売れるとは思いますが腹に一物がある条件付きの売れるという考えです。絵の売り方は画家の力によって変えなければなりません。それと絵を売るだけではなく「描くこと」で収入が得られるようにしなければなりません。その他には「画家が正当に評価すること」「教えること」でも収入を得られるようにする必要があります。これが新絵画の革命です。
     新絵画の革命は美術館にやらせてはなりません。美術評論家にやらせてもなりません。市場にやらせてもいけませんし、画廊に手出しさせてもなりません。キュレーターにもアートディレクターにも一切関わらせてはならないと思います。画家を金儲けの道具として利用しようとする輩を一切排して革命は全て画家の手によってのみ実行するべきです。

     多くの画家はディシプリンという躾の中で美徳を教育され、美しい画家としての在り方というひとの形をした呪縛。アトリエという監獄。美術館という監獄の中で縛られ、画家はひたすらこもっています。画家は人知れずこもり、表に出ず、この数十年採算度外視で描いてきました。私もそうですし世界中の画家が無償の奉仕の精神でディシプリンの中で生きることを余儀なくされてきました。この監獄は既得権益を持つ看守が神のような仮面を被り厳しく管理しています。画家は無償の奉仕の精神で利用されながら利用している神の側はいくらでも湧いて出てくる美術館や市場という泉で利益を貪っています。私がこれまで成功した日本の画家を見る限り全員がこの美徳の幻想を打ち破り洗脳を自力で解いて、監獄では悪いこととされていることをやってみて成功しています。絵の世界では言うことを聞かない方が成功する。私の生きた時代ではこれは間違いないことだと考えます。幸い私の世代を支配する輩はdegeneration、つまり退化しています。私世代は絵を描けるようになってきている様子もわずかながら見ています。しかし大半は縛られていて相変わらず収入が得られていない。

    「絵には価値がある」
     今でも私は無償の奉仕の精神で描いています。周りもそうです。そんな絵の世界の中で絵を見る限り、絵が売れなくとも「描いたこと自体」に絶対的な価値があると手に取るようにわかります。それははっきりと握りしめた手の平の中にいつもしっかりとあるのです。問題はこれを世に出すことは禁じられてきている点です。私はこのルールを破ろうと思います。そしてそれを世界中の画家に勧めようと思います。私の手の平の中でギュッと固められている信念の中にはこれが大革命となり必ず成功する確信があるのです。

     絵の価値に絵の世界は目をくれようとせず、これを表に出すことを悪いこととして表に出してきませんでした。そこで気をつけなければならないのは、無償の奉仕の精神で生き抜いている画家の目を盗んで画家に奴隷のような生活を押し付けながら画廊はしっかりと利益を得ていることです。美術館は弱体化した画家達を尻目に権力を手にし、コレクターは画家が死ぬのを待っています。このような無様な実態が表に出なかったのは既存の価値に「描くこと」自体が含まれていなかったためです。描くこと自体がコードにされてこなかった。ここに絵の世界が大きく変われる可能性があります。描くことをコード化するのです。これは絵を描くことを知り尽くしている画家の仕事です。

     力のある画家の多くはただただじっと手を見つめて絵を描かずに静観している時代です。この状況を打破するには「絵では食べていけない」という問題をなんとか改善しなければなりません。「絵では食べていけない」という状況で評価されている画家は本当に実力が評価されているわけではありません。看守に都合の良い画家が評価されている。それはこの世界を知る人間の中で腑に落ちない人はいないはずです。このような状況は誰もが疑問に思っているわけで、どうすることもできずにただただ年月が過ぎています。そのためどのように変われば良いか?をしっかりと提案できれば自ずと変われるはずです。

     これが私の画家としてのモチベーションで作品のモチーフであり活動です。これは私でなくとも誰でもできることです。世界中で皆がはじめて欲しいと考えています。やれる人はぜひはじめて下さい。新絵画の革命を起こすのは皆です。私はその考え方を提供しようと思います。
  • 絵の課題の前に〜14「美術館の絶望から新絵画が生まれる」

     「絵なんか描いてもしょうがない」と言われる既存の絵の概念や評価の方法、つまり「これまでの歴史になかった絵を生み出せ」と言われとうにやり尽くされて、評価するべきものをし尽くされ評価のしようがなくなった絵の世界でも、物の考え方を変えて、絵の見方を変えれば新しい絵が無限に成長していく姿が見え絵画が進むべき大きな道が見えてきます。
     この道の行手を阻んでいるのは可能性のなくなった既存の絵画に固執する既得権益をもつ美術館と画廊と市場と美術評論家です。またその背景にはそれらに出資した企業やそれを仲介した政治家も見え隠れしています。それらの都合の考えれば全く採算の取れていない惨状を無視して画家の都合だけを考えて行動することは当事者にはできないのも納得です。つまりしがらみと関わっている人は画家のために、画家ファーストで行動することはできない。彼らの心配の中心はこれまでの絵画に協力してくれた諸々に少しでも返せるものは返そうというもの。そもそも無償の奉仕の精神で始まりいずれ淘汰されることもどこかで覚悟しているはずのこと。そもそも構造的に欠陥のある今の設計は私は崩れ行こうとしているとどこからどう見ても見えます。画家の生きる設計図そのものをゼロから書き直さなければならない時期にとっくにきているのです。しがらみと戦っている彼らはもう画家のために動くことはありません。それらの輩にとって画家はすでに贄。食い物であり奴隷です。その支配を完成させるために考え出されたものが絵を評価する箱である美術館と画廊です。その箱の中に評価方法を組み込んでいるのが美術評論家です。美術評論家が作った餌に飛びつくしかない構図を作り飛び付かせ飛びついた画家を美術館と画廊がおいしく食す。作品の評価をいかがわしいものにしているのが金です。作品をガラクタでも大金に変えてしまう錬金術を編み出し実践しているのが市場です。そして錬金術よりも先に顕になるのは画家を遊び道具にして性の奴隷に変えてきたことです。これらの如何わしさは少しずつ世の中に露わになってきています。ガラクタを大金に変える下世話な都合の正体がバレた時にそれらの価値は瞬く間に消滅します。それはそれが画家を美味しい贄になり食すために平気で殺す誤った論理で生きているからです。画家が生きるとは画家が音楽やスポーツのように描くことで生きていけることです。彼らは描くことの価値を一切否定し殺します。描くことに価値が生まれると画家は良くても彼らは困るのです。仮に描くことに価値が生まれれば画家は生きます。画家が生きてしまったら画家が贄にならないわけですから彼らは絶望するのです。

     既得権益者は自分の利益の思惑を背景に既存の今の方法は描くだけのことを否定することで存続しています。無理やり権力を行使し存続させ、無理な論理を押し通すにも、とうに限界を超えて数十年たつ今、誰もが惰性で画家の世界が存続していることが容易にわかる今、もう目の前にそれらが淘汰されて「新絵画」が生まれる時は来ているのです。

     新絵画の必要性は美術館、画廊、市場、何より美術評論家にはありません。あるのは画家です。新しい「新絵画」を作るには既存のものを守ろうとする美術館、画廊、市場、美術評論家と訣別するほかありません。
     画家が生きていくためには美術館は潰れていいですし、画廊も潰れて構わない。市場も潰せていいですし、美術評論家は頭の中を全て入れ替えてもらった方がいい。あ、その前に画家を性の奴隷にしてきた美術評論家は全て消えると思います。というと私の知る限り美術評論家で新絵画の世界で残れる人はいません。そもそも美術評論家は画家がやった後にそれを評価するもの。それが今や美術評論家に受けるように絵を描き、出世のために美術評論家に抱かれ、食べていくために必死に読めない本を読み美術評論家の考えや見方に即して絵を描くことが常識とされ、よく仕上がっているので誰も疑うものはいません。あまりにおかしな道理を画家が受け入れているのは権力行使されパワーで抑えつけられているからです。結果画家の生きる道はうまく閉ざされ、美術館と画廊と市場と美術評論家たち輩が作り上げた金儲けの錬金術にハマり画家は綺麗に奴隷にされています。

     問題は利害。今の絵なんか描いてもしょうがないという人たちはそのような状況の中で必死に自分が生きていけるように、ない畑を耕して生き抜き、自分についてくる人が食べられるようにしてきたわけで、その執着心たるや相当なものです。これまでの絵の世界ではこれまでの常識を根底から覆す新しい物の見方と考え方は許されず美術館や画廊や市場や大学は保守的に形成されてきました。これを変えるのは一苦労ですが、先細り続けて既存の精力の衰え切っている今はチャンスです。

     既存の物の考え方を捨て、新しい物の見方を導入すれば画家には描くことで収入が得られるようになる可能性があります。それはおそらくアートそのものが淘汰されて本質が露わになった時実現すると思います。本質が露わになるには間違っている既存の形がはっきりと見えなければなりません。既存の形を作り上げている人間の思惑の全てが手に取るようにわかった時にアートは淘汰されると思います。既存の形は既にごく個人の都合でしか動かなくなってしまったいわゆるコネの世界。それが外の世界が視認できてはっきりした時にその瞬間完全に消えると思います。それはそれを知る人が話せばそう時間はかからないことだと思います。私はそのトリガーになるようにこれを書いています。それが消えることが画家にとっていいことだと思います。異常に高値に引き上げられたアート作品は値段が下がり金銭的な価値がなくなります。コネの中で釣り上げられたことが露わになれば釣り上げられた価値は一瞬になくなります。残るのは描かれたこと自体が残す価値です。描かれたこと自体の価値に目が向かい正当に評価するべきことに世の中が気づいた時に今のヤクザなやり方を選ぶ理由が画家にはなくなり、ヤクザな美術館や画廊や美術評論家を間に介さずとも画家は絵を販売することができます。これからは所場代を払うこともなくなる。これが画家の目指すべき新絵画の形です。
  • 絵の課題の前に〜15「新絵画の天才は受験絵画から生まれる」

     私が見てきたこれまでの絵画の世界は絵を描くことを前向きに捉え発展させる気がありませんでした。絵画を建設的に捉えて発展させていかなければならないはずの美術館にはその気は全くありません。日本に美術館は数あれどひとつひとつの美術館が若い画家を売り出すことなどただの一度もありません。美術館は画家を育てるようなそぶりをしながら子供たちのコンクールや大人の公募展を催しますがそこから名だたる画家が生まれたことはこの30年全ての美術館でありません。あるのは催し物をした既成事実ができたというだけです。それに共謀している美術評論家も画家を育てる気は当然ありません。画廊には市場で育てる気が少し垣間見れますがその力は脆弱です。アート全体が仕掛けたマネーゲームによって、絵画が普通にコツコツ描いて、研鑽を積んで、技術などを積み上げて発展させていく道筋にお金が落ちてくることは無くなりました。
     絵画の世界には、日々切磋琢磨しながら編み出されたことの全てを建設的に構築する設計思想はありません。結論を先にいえばそれが残っているのは唯一受験の世界だけなのです。

     受験の世界は公には認められていません。でも密かに進化し続けているのです。そこで発見されたり積み上がってきたことはきっと絵画の世界に貢献する時が来ると思います。そこにはとても素晴らしい技術や物の見方と考え方が有るのです。そこに美術館が慌てて反応してくるのはそう遠くない未来だと思います。でもまだ行手を阻んでいるものが多いのです。画家には思い切って描くことに尽力を尽くせる時間と空間が必要です。その場は日本では受験の世界だけなのです。お金を得て制作に没頭できるシステムはその後にはありません。
     画家にはスポーツの例えば野球のように描くこと自体で広告収入を得られるような大規模なシステムが必要です。現状では描かれた作品の希少価値を判断し骨董品と並べて作品自体を物販してお金に変えるしかありません。美術館は言うなれば骨董品をしまうただの蔵です。蔵の中の作品の値段が全てで画家が描くことなど興味はありません。美術館に描くこと自体の価値を見出す思想や物の考え方はないしできないのです。そもそもその能力が世間からすれば意外にも欠落している。美術館と画廊は画家が生き生きと絵を描いている様子など微塵も興味ありません。彼らの思いを言葉にすると「早く死ねばいい」です。
     ルネサンスの時代にチェンニーノが全てが消える前に絵画の書を書き記したことからも伺えるように絵画の世界で編み出されてきたものは何かに残していかなければ泡のように簡単に消失します。絵画の組織や集団として残されていないので個人が残していなければ完全になくなります。その損失に目を向ける時はもうきているように思います。
     私の生まれる前から今の美術館や画廊や美術評論家は絵画が一度完成され技術的にこれ以上進歩することはないと考えていました。でもそれは外から見える表層の話。当事者は新たな発見を目の当たりにしながらめくるめく発展している様子を実感しています。絵画の外からは絵画は見えません。物の見方と考え方が根本的に違うのです。彼らは現状を覆す作品は出てこないだろうと考え疑うことを知りません。画家として生きている人間として違和感を感じるのはこれまでになかったことが沢山生まれてきていることを知りながら隠し続けなければならないことです。画家は長いものに巻かれて見て見ぬふりするように教育されています。絵画を突き詰めていくには出世を諦めるほかありません。私だけでなく大勢がそういった道を選んでいます。絵画の営みの中にはわかるものにはわかる大発明もあり、それを感じながらもそれを評価する意識は外の美術館や画廊や美術評論家には全くありません。絵が進化し続けていることは画家であれば誰でもわかっていることだと思います。絵を描く人間の目の前では様々なことが起こっています。でもそれを外に話すことがいかにナンセンスなことであるかは誰もがしっかりと教育されてわかっていることなのです。

     画家が直面している現実の外の世界にある美術館と画廊と美術評論家は画家から見える絵画の中のことなど眼中にありません。彼らの中に絵に対する心配は全くないのです。
     画家は外部から物の考え方と見方を都合よく操作されました。彼らの言うことを真面目に聞いていればそれによって本当にこれ以上の可能性は見えないような気が私でさえします。彼らの行ったことは洗脳です。音楽やスポーツの世界とは違い絵画の世界は分かりずらい世界です。分かりずらいことは錬金術を仕掛けるには好都合。都合よく全く意味のない作品を作っても好きなだけ金額を釣り上げられる始末です。これまでの絵画は音楽やスポーツと違って分かりずらいことがいいように利用され、輩は調子にのりマネーゲームに拍車をかけたと私は考えています。音楽は譜面を無視して掻き鳴らしても誰も振り向きませんし、現代音楽として確立させながら元の音楽の形態は保っています。スポーツはルールを無視して好きなところにボールを暴投しても誰も興味は持ちません。スポーツでも現代スポーツを編み出せばいいと思いますが、スポーツの世界では馬鹿げていることが普通にわかるので大儲けすることができないことがわかるのでアホな美術評論家ですらもわかるので手出しはしません。これが絵画の世界ではバレないので、スポーツでルール無視でボールを投げたり走ったりするようなアーティストの作品に野球の大谷さんのような何十億もの金額をつけられるのです。適当にボールを投げて儲かるシステムが仕上がったので今の美術館と画廊と美術評論家は譜面を無視し暴投することに尽力しルールに沿って競技するように絵を描いたり、競技でなくともただ描くことには全く無関心です。
     日本では受験絵画の世界だけが絵に人生を賭けた競技をして勝てば利益を得られる構図が生き残っています。美術館と画廊と市場と美術評論家の介在しない受験絵画の世界は実は健康的に日々新しいことが次々に起こり続けているのです。
  • 絵の課題の前に〜16「受験絵画を純粋に描くための処方箋」

     私は受験絵画で描かれる絵は作品だと考えています。少なくとも私はそのつもりで描いていましたし教えています。受験絵画は作品です。傾向も対策をするでもなく良いものや面白いものを作ってきたつもりですし教えてきました。
     東京芸大の教員が受験生の描いた受験の絵を変な目で見えしまうのは偏見を持った、いかがわしい考えがある、卑しい考え方からくる、ねじ曲がった目になってしまっている偏執的な目からです。東京芸大は傾向と対策を気にせず受験に臨むように受験生に向けて声を上げます。それは予備校的ではない純粋な作品を見たいということだと思います。そして評価されるのはそのお眼鏡に叶った作品です。しかし入学後に東京芸大が上げる声はこれまでの絵は「受験絵画だ」という全否定です。この曲がった目を打ち破らなければ正義は獲得できないと私は思います。我々が純粋に描いた絵を受験絵画と称してそれが絵画ではないパチもんのような偏見で物を見てしまう。そんな節穴でも教員が正しい考え方を謙虚に学べば受験絵画は東京芸大にとって作品になりうると教員は気付けると思います。但しその薬が何でどうすればいいのかが自分達ではわからないようです。そのため仕方ないので外の私が処方します。それによって東京芸大の病の1つだけ治るでしょう。受験絵画と称してパチもんのように毛嫌いしなければならないのは明確な原因があるのです。それが芸大自身で治せないのはいかがわしい考えを実行した事実と卑しい欲望を満たしてきた事実を隠し続けなければならない教員個人と東京芸大全体の事情があるからです。自分では治せない受験絵画の悩み、それを私がここで1つ処方してあげようと思います。そうしなければ受験絵画の世界で純粋に描いている人は学部で完全に洗脳又は淘汰され続けるのです。
     私が処方しなければ改善しないのは採点している人間が自らの犯している過ちを隠し続けそのせいで疑心暗鬼になる重篤な病におかされているからです。それは今巷で話題のジャニーさんの問題と似た体質です。健康になることを妨げているのは何を隠そう受験生ではなく出題している雲の上の天井人や神です。神は本当に親切で求めに応じて作品を買ってあげたり仲良くしていれば試験問題すら教えてくれます。教えてくれなくともわかってしまう距離にいさせてくれます。お祈りすればあり得ないような願いを叶えてくれるまさしくジャニーズでいう所のジャニーさんのような神なのです。お願いは密室で行われます。神に愛されれば密室に入れます。密室には学生でも簡単に入れる時があります。でもその行為は芸大の中では神の行為ですが外の社会から見れば犯罪なのです。
     神にはそう、表の顔と密室の顔があるのです。神は神にも悪魔にもなります。裏に隠れた密室の中の神は表の世界から見れば悪魔なのです。大学には表と裏があるのです。相変わらず試験中の様子はアルバイトからだだ漏れです。
     悪魔がいるから受験の絵は絵画になり得ないのです。神と悪魔は同一人物です。ジギルとハイドのように時と場合、対面する人に応じて人格が入れ替わります。どんな時にも共通しているのはどこにいても自分の認識としては絶対的な神であることです。顔が変わっても自分は神の顔であり続けていると思い込んでいて気づきません。神の顔を神に見せる鏡はジャニーさんのように暴露されてから現れます。試験の問題から始まる情報の全てを外に漏らさないようにするにはどこでどう漏れているのか自分達が漏らしているわけですからはっきりわかっています。それを公にすれば鏡に映った自分の本当の姿が見れるのです。相変わらず科によっては簡単なことは電話したらすぐ教えてくれます。それを入試説明会やパンフレットで全て公開すればいいのです。傾向と対策というよりもそんなことに対する手を講じなければなりません。その先にしか純粋に絵を描く道はないのです。

     一般的に受験絵画の世界はアートでありアートでない世界です。外の世界から切り離された美術評論家も美術館も立ち入らないアートと別世界の受験絵画の世界はその世界を支配している人間の都合のいいようにデザインされ利用され続けています。
     受験絵画の世界は圧倒的な力で洗脳されたので絵画科でありながら受験絵画の外でも中でも絵画の可能性に見向きをする人はいなくなりました。
     受験の世界ではデザイン科や日本画とそれに工芸や彫刻で描かれている受験絵画は習作としてみていいかもしれません多分当事者はその感覚です。見るからに受験で描く絵は習作と判断できるものです。しかし油画専攻に関しては習作として描いている人ももちろんいますが、中には純粋に作品として描いている人もいます。そもそも受験絵画の世界の神は入試の傾向や対策に捉われず純粋に描くことを推奨しています。でもこの推奨は面子というか対外的なパフォーマンスのために行なっているものです。仲の良い人間に入試の情報を漏らし、又は漏らす気がなくても漏れる状況を完全に封じる気はなく、隙間を見せて実際には色々と漏れるようにしている。又は無自覚に漏れたり悟られたりしている。場合によっては授業中に予測できるような話をしたり、ヒントを与え、それらを授かった予備校が事前に対策をして大量合格をさせる。神は率先して可愛い身内であるそれを合格させるので相変わらず合格者は一部の予備校に偏る。身内に愛を振り撒けば自分に分かりやすく愛が返ってくるので辞められない。仲の良いグループの中で行われていることなので予備校にいる時に授けられながらやがて神に繰り上がった時にはそのような実情を具体的に知っていながら、その事実には蓋をして純粋に描くことを外に向けて発信するのです。事実そのようなことを読んで対策を講じなければ合格者はなかなか出ません。クマビではそこを逆手にとって生徒に純粋に描ける環境を作っているのです。汚らわしいバイキンに汚染されないための予防接種として生徒にはこれまで漏洩してきた試験問題の歴史を話せる範囲で話しています。実際に漏洩した時にはその年の生徒に話してきているわけですから、事前に試験問題を聞いていた生徒の数は私以外の先生から聞いた数も含めると相当な数です。時が来たらネットでそれを聞いた人たちにひとつひとつの事例を書いてもらうアンケートを取ろうと思います。それでことがようやく動きます。今のところ私が単独で動いても文科省と厚生労働省は残念ながら動きません。文科省と厚生労働省はこちらの伝えた事実を東京芸大に問い合わせて本当ですか?いや違いますよ!いやそうですよねそうだと思いました。というアホな会話を交わして終わりです。このようにして多くの問題は消されています。なので絶対に消せない状態にするために事実を知っている大勢のみなさんに協力していただこうと思います。予備校は神がそのような行動をとる前提で対策を講じるのです。そうしなければ純粋に絵など描けはしません。でもこのように人間である神の事情を読み取って隙間で純粋に絵を描こうとした時に確実な道筋は見えてくるものなのです。受験絵画から天才が生まれる可能性はそこにあります。絵画の天才は受験の段階と1年生の時と卒業までかけて学部で全て消されてきました。そもそもカリキュラムからしてアートを理解させていくプロセスが画家を消していくことに繋がります。画家が消えると同時に現代美術、すなわちアートを理解した教育したとされているのです。
     そもそも芸大は作品を描くことを本気で求めているように思います。求められている絵は習作とは言い難いものです。石膏デッサンでも物の見方と考え方を変えれば立派な作品になります。でも石膏デッサンならまだ習作と言われてもすっと腑に落ちます。これが「絵を描きなさい」などと言われながら、合格した後にこれは「受験絵画だ」と言われても困ってしまうのです。純粋に描くことを本気で求めるなら合格した後に純粋に作品であると見て考えさせていくことが正解です。但しそのように行動する神はいません。そこに綻びがあるのです。その綻びが何となく受験生にも感じ取れるからそこをはっきりと解析できない人はとてもまともな神経では純粋に描けないのです。
     神は昔から「合格者の作品を見せない」だとか「参考作品は見ないで欲しい」などと指導し自分で考え、想像し、開発させておきながら受験という偏見から受験生の絵は受験絵画と見なし事前に用意しておいた論法を持ち出して全て否定します。毎年恒例の儀式によって受験絵画の世界は見向きをする価値のないものとされてきました。この儀式はまた神の都合によってデザインされているので絵画を否定する洗脳の方法でもあります。学生にあれ?と思わせておいて、そこで生まれた隙間に現代美術をスリこませます。現代美術でなければ自分達の立場的に都合のいい絵画です。学生の頭をかき混ぜることは一概に悪いこととは言いません。但し絵画や絵を描くことを完全に否定したり、実質支配してしまえばこれは立派な洗脳です。完全に否定するのではなくそこには自分の意志で選択する余地が必要です。本当に必要なことは自由。でもそこにあるのはたいていが受験生と神双方の傾向と対策の化かし合いです。勝つのは地図を広く深く理解し道筋が組み立てられている人間です。まあチョロいです。学部の1年生でも力のある人は十分勝てます。化かし合いの中に純粋な物の見方や考え方などどこにもありません。
     一時期は絵を描く学生は学部から根絶やしにされました。それは権力闘争において絵画系の教員の力を削ぐために現代美術系の教員が団結して行ったことでした。その結果学部から絵を描く学生は完全に排除できた。絵画系の教授は他の大学から絵を志望する学生を大学院に入れるほかなかった。画家を育てる余地を一切残さなかった神のそれは残念ながら洗脳に他ならないと思います。このようにして受験絵画の世界の可能性は閉ざされてきたのです。
     受験絵画の世界は日本で最も絵が研究され描き出されている世界です。その世界は東京芸大の学部で消し去られ続けています。
     日本で純粋に絵を描くには受験絵画の世界で純粋に絵を描けるようにし、学部でそれを継続させ、大学院並びに大学院を出ずとも画廊や美術館、市場と連携させて純粋に描かれた世界を守り持続させることです。守るには自分で抗体を攻撃してしまうアレルギーを抑え、神を人間から神たるところまで押し上げたこの仲良しの連鎖を断ち切ることが重要です。そして芸大の外の世界を、人を介入させる。そうすれば受験絵画で傾向と対策にとらわれない純粋な作品は生まれます。仲良しのバカちんがずっとやるから悟られるのです。仕組みが正しくなれば純粋な作品が学部で生き続け、美術館や画廊や市場にも繋がります。これらの問題を解決する手がかりは入試問題の漏洩の事実を具体的に公開することです。今はまだ文科省も厚生省に持ちかけても残念ながら門前払いされます。もっと広く世の中を取り込んでジャニーズのように解決していかなければなりません。それが私の処方する薬です。
  • 絵の課題の前に〜17「近い将来画廊と美術館は沈みます」

     私が絵を始めてから35年経ちました。私は巨匠を目指しています。その間ただの1つとして画家の役に立った美術館はありません。東京芸術大学では絵なんか描いてもしょうがないという指導を受けました。実際にその通り、いわゆる絵画らしい絵画を描いて世界的に評価を得られた画家は日本に私はいないと思います。この35年の間に海外ではバルセロなど絵を描き続け評価されてきた画家はいます。日本は弱いというか長いものに巻かれるので、現代美術という長いものに巻かれるしか能のない美術館は画家にとってただの箱であって、存在意義の全くないポンコツでした。
     長いものに巻かれるのだけは上手い美術館ですが奇妙にも絵なんか描いてもしょうがないと言われる状況を理解しつつも、何事もなかったかのように頻繁にコンクールを開催しています。その先に何の可能性もないのに華やからしい賞だけはバラまいている。バルセロのような画家は日本にもいます。ですがそれに受賞させることはありませんし、ましてやプロデュースし世の中や世界に認知させる力は全くないのです。やれやれと思うのは日本の画家をさておきバルセロを輸入し、日本の画家に対して恥を晒していることです。日本の美術館から世界に飛び出したり我々を納得させられるような画家が出てくることはないのです。
     日本の美術館の賞は全て我々にとっては全く響かずなんの役にも立ちません。あるのは趣味の世界には通用し、玄人には全く通用しない、何の影響も与えない、身内に通用する見栄、やってます感を出す建前、美術館が運営するための金儲けです。
     絵なんか描いてもしょうがないと言う状況を打破できるような作品を評価するのは美術館の使命です。でも1枚もなく。美術館にいる人間にそのような力はなく。ただあるのは美術館が絶対的な権力を持ち日本の美術の世界を支配している事だけです。美術館に乗るか反るか。多くの画家は発表せざる得ないので未だに何の役にも立たないポンコツ美術館に平伏するしかない状況です。この不健全な状況は壊し、誤った正しい考えと心を迎え入れ、不毛な道ではなく正しく実りある道を切り開く必要があります。それができるのは美術館ではありません画家です。正しく綺麗な道は汚れた心の今の美術館にはできません。絵画の多くの問題を解決するには正しい道。つまり正しい美術館を作り上げる必要があるのです。この懸念を解決する構想をここに書こうと思います。

     あと数年後構想を完成させ時が来たら天才育成計画presents新美術館を設立します。国立新美術館と名前が同じなので勝負し勝ちます。正直既存の美術館があまりにチープなので簡単に勝ててしまいます。しかも美術館の意義としてあまりにも差がありすぎるので新美術館もすぐに白旗をあげて負けを認めるでしょう。天才とはこういうことをいうのだと思います。第一回目の展覧会は「東京芸術大学入試問題漏洩展」を予定しています。日本において唯一健全に経済が周り、日本人が人知れず熱狂し、人生をかけ、制作が最も盛んに行われている受験の実技試験の絵について触れようと思います。受験以外の絵の世界はまあ死んでいます。
     伏線としては受験の絵は受験絵画として低俗で下等なものとして揶揄される状況を変える狙いがあります。受験絵画が辟易されている原因は入試の問題が漏洩しているからです。そのことを隠蔽し続けなければならない事情があるから目立っては困るのです。スポットが当たらないことをいいことに入試の問題を漏洩させることによって不当に利益を得ている輩がいます。そこに世の中の目が向かないように受験の絵は見る価値のないものとされ続けています。ここに光を与える目的がこの展覧会にはあります。きっと日本の展覧会を変える大きなものとなるでしょう。

     こちらの新美術館は国立新美術館ではありません。言うなれば私立新美術館です。最初はここの場所から、国立美術館の出せないような作品を出していこうと思います。世界中の美術館がここの美術館から学ぶようになるでしょう。

     伏線はさておきメインのコンセプトは別にあります。おかしなもので絵は美術館で展示されなければ認められません。内容はともかく美術館に展示されさえすればいいとされています。そのため画家はこぞって美術館を目指すのです。それでいて私が絵を描き始めてからこれまで美術館に現存の画家の名画が展示されたことがあるかと言えば一度もありません。私の進学した東京芸術大学ではあまりにひどいので絵なんか描いてもしょうがないと教育されていた始末。それでも美術館ファーストですから美術館で展示されない絵は絵ではないような感覚を抱き、体質がこびり着いて残っています。私は正直しょうもないと思いますし、私のみならず志のある画家の多くは今も昔も美術館を見限っています。問題はまともな美術館が一つもないということです。だから我々サイドで使える美術館を作ってしまおうというのが新美術館のコンセプトです。
  • 絵の課題の前に〜18「天才育成計画が贈る新美術の新美術館」

     絵の出品の場は画廊か美術館がお決まりです。画廊と美術館に認められなければ絵を出品することはできません。これが実は巨匠や天才泣かせで私は本当に本懐を遂げるためには画廊様と美術館様の意向に沿う訳にいかず悩んでいます。美術館のやっていることに従わなければ目先のメリットには全くあやかれないのに無視しなければならないのは本当に辛いです。天才の悩みというやつです。お決まり。お決まりが規則や規律や物の考え方となってめでたく世の中では画廊と美術館の見方の範疇でしか絵は語られてきませんでした。一般との認識に齟齬が生まれ、社会から倦厭される原因にもなっています。物事には人の数だけ道理がある所を画廊と美術館の考えだけを認めて他を結果的に排除しています。やれマネだの、デュシャンだのほざいても昔も今も本質は何も変わっていません。
     画廊と美術館の見方はとても狭いものです。元々ポンコツなので仕方ありませんが、でも画家にとって画廊と美術館に歴史に争う力がなければ絶望的なのです。後、日本の画廊と美術館は世界に争う気など微塵もありません。画家には七難八苦を与えておきながら海外には媚びへつらうばかりです。日本の画廊と美術館に歴史にも世界にも渡り合える力のあるところは1つもありません。上海、ニューヨーク、シンガポール・・いや外国のほとんどの国に日本は勝てません。そうすると唯一残された道は自分の力で切り開くことしかありません。不安ですが日本の画廊や美術館や市場を見れば見るほど首が閉まる思いがしますので殺されるよりマシです。本当に迷惑な話です。
     画家にとって不利な背景を背負いながら画家の世界では表に出て来ることなく吐き捨てられ続けている深く広い知見が存在します。つまり画家の手や眼からは歴史的にも世界的にも重要なことが毎日溢れ続けているのです。画廊や美術館が致命的なのは今をレポートし価値を与える力がないことです。もし心があるなら目の前にいる画家をレポートしてみてください。そこには無限の可能性があります。それを引き出す力がなければあなたは無能です。画廊も美術館も元々骨董から始まっている設計なので仕方ありません。そもそも生きている画家とは反りが合わないのです。
     可能性に溢れている源泉は数ありますが1つ例に挙げるとするなら手や眼にまつわる脳内の身体的記憶に注目するといいでしょう。画家の身体に宿った記憶を公開する様はスポーツ選手と違い表に出ることはありません。まずこのことにおいてもいつも吐き捨てられている数多の新奇性はありますがここに取り組む根性のある画廊と美術館はありません。どれもポンコツです。そしてスポーツ選手が自身の身体に眠る記憶の全てを言葉化できないように、画家にも概ね身体に感じていることを翻訳する力はないのです。言ってしまえば画家が身体で感じていることはこれまで表に出ることはありませんでした。一般の人たちがスポーツで熱狂するように私は受験絵画の世界で熱狂しています。これを低俗な物だとするアホがいますがそれは違います。人が全身全霊をかけて熱狂できることに低俗な物などありません。このことを考えれば私はいつも絵の世界が残念でならないのです。
     私のいる受験絵画の世界では表に出ることのない絵の見方や考え方が日の目を見ることなく捨てられ続けています。それは私が思うにチェンニーノが絵画の書を執筆した時と何ら変わりはないのです。
     私が見る限り画廊と美術館にそれほど見る力があるとは思えません。その根拠は我々が見ている絵の世界が画廊と美術館には全く見えてないからです。我々が熱狂するように絵を描く時のことに対して彼らが熱狂することはありません。売れればいいから、とか新奇性があって評価されればいいからと言った具合に取り合いません。これから絵が発展したり、絵が生きる時代を想像する限り、画廊と美術館の見る力のなさがボトルネックとなり、画家が不毛を確信した時に画廊と美術館と画家が自然に訣別すると考えます。これまで画廊と美術館が認知できず反故にされてきたことはネットに余すところなく公開すれば、それを拾わなかった画廊と美術館の愚かさは露呈すると思います。画家の鬱憤は溜まりに溜まり画家の魂の中に焦げ付き燻り続けています。それらが噴出される切欠さえあれば今の画廊と美術館が支配する絵の世界は簡単にひっくり返り転覆するでしょう。画廊と美術館の成り立ちや構造を考える限り、画廊と美術館はいつでも簡単に転覆してしまうほど華奢で危うい存在だと私は考えています。

     これまで美術館での絵の出品は大きな権力を持つ美術館に認められなければ叶いませんでした。美術館では美術館にマウントを取らせた作品しか展示されません。そのため、とにかく美術館に媚びへつらい認められる方法を考えなければなりません。平たく言えば美術館の考えることを無視して展示するなどあり得ないことです。それ自体がいかに愚かなものかを誰もが理解しながらどうすることもできずにただ指を咥えて呆然としています。
     挙句の果てにモードなりコードなりのかっこいい言い方が生まれ、美術館ライクの浅い考えが横行しています。モードコードはいかに暗黙のルールを見抜きそれを審美眼のように誇りを持つかが大事なようです。私から言わせれば暗黙にせずオープンにするべき所を諸所の黒い都合でできないだけでカッコつけるなです。大人の都合を理解し露骨にせずに伏せて、伏せる信頼を得た者が美術館との関わりを認められます。馬鹿げた話ですが美術館信仰とでもいいましょうかそれを高尚なものと勘違いしてしまう輩は実に多いものです。ジャニーズが性加害を伏せてきたように暗闇の中で全てが決められ黒い儀式が美術館では行われています。本当はコンクールの審査は様子を全て動画で公開し、評価を全て詳細に書面であらわさなければなりません。それを全て隠すこと自体がよくよく考えればとても悪なのです。そこから出てきた答えを正義だと誤解し、勘違いした見方と考え方が絵画の全てのように錯覚する。錯覚して完全に洗脳されることが重要で美術館に展示されるにはそのような画家になりきれなければなりません。大学ではそのような実態を学び、学べば当然距離をとる。出品するには真実に目を瞑り、自分を騙し、画廊と美術館からの抑圧の事実を全て隠し、ストレスを抑え込みながらも画廊様並びに美術館様には表向き自由にのびのびやらせて貰えていると感謝しているそぶりを見せなければなりません。まあ本当のところ宗教団体のしていることと何一つ変わりはありません。一つひとつを丁寧に確かめてみてください。わかるはずです。
     そのような団体の考えることは浅いものです。美術館はビックモーターと同じように生殺与奪の権利を持っています。ビックモーターの社員のように画家を簡単に切ります。たいていの画家は生殺与奪の権利を持っている人に向かって誰も文句は言えません。馬鹿なことだと理解していても絶対的な力の前に屈する他ないのです。これを覆すのが天才。それをここで育てたいと思っているクマビです。時が来ればビックモーターのような黒い会社は完膚なきまでに正義の鉄槌をくらわし跡形もなく叩き潰されるはずです。画廊と美術館が沈む日は近いと思います。
  • 絵の課題の前に〜19「私立新美術館」

     画家は美術館に媚びなければ美術館で絵は展示されません。美術館を敬い考えや好みに従い媚びる。全く媚びずにいることは出品を諦めることを意味します。絵画に歴史的新規性のある作品が描かれる可能性がないと考えられている状況で作品を発表するにはその中でテンプレとなった美術館の気に入るコンテンポラリー風の作品のコンセプトを自分の頭に下ろして、美術館推奨の時代の画家を演じながら馬鹿馬鹿しいとどこかで思いながら押し殺して美術館の言いなりになるしかありません。これらは画家を支配するために新規性を利用した美術館が真綿で首を絞めるように仕掛けたことです。そういった厳しい状況の中で画家は活動していかなければならない。と学校で私が習ったことを要約するとこうなります。実際絵画は何をしても当たりがないので孤高で生き抜くというわけにいかず、どこかの組織に属しその組織を通じて美術館に展示されることを目指すしかありません。団体かイベントか画廊もしくは大学に属することを目指す。少しでもましな組織に属することを目標とするプランにならざる得ないので最初からそこを踏まえなさいというのが内々の話です。このようになるのは画家に独自の発信力がないからです。ネットに作品をあげるだけでは足りません。必要なのは既存の画廊や団体や美術館を上回る強力な発信力を持つ美術館を自分のために造ることです。強度は最強でなければなりません。それがわかれば苦労しないでしょうからここではその一例を紹介しますので参考にしてください。大学等々一撃で粉砕できる強力なものを1つ引き出しから出します。画家並びに巨匠だとかアーティストはこのように革命を起こす生き物ですし、その際は美術館など全く相手にする必要ない無用の長物ですのでみなさんも自分を安売りしないようにどうか絵と真正面から向かい合って属するのではなくそこから自分の道があることに気づいて開拓してください。
      
     本書では私の活動を見本にできるように活字として公開します。私の私立新美術館で「東京芸術大学入試問題漏洩展」を開催しますのでみなさん参考にしてください。ジャニーズやビックモーターと同じように注目を集めようと思います。全て真実を基にしていますので誰にも邪魔されることなく滞りなく進めていきます。みなさんも表に出さなければならない事実を勇気を持って発信してください。宗教や歴史やモードやコードではなくあなたのことを描いて発信していいのです。既存の画廊や美術館に規制されることも媚びてキュレーターや学芸員が光るようにする気遣いも無用です。
     学校で習うのは画家不遇の時代に入っていることと画家の悲壮です。世界中の誰もまだこの状況を抜け出せない(私抜けますが)でいる。学校ではまずリアリズムを否定し本物そっくりに描くことがみんなが目指すべき本線ではないと教わります。みんなは絵が上手くなることはそっくりに描けることだと思って学校に来ますから、よくそこで齟齬があります。本来リアリズムはもはや時代の潮流には乗れないので教えることではないのですが、描写は教えやすいので描写を教えているところは多いです。ただその他の時代を踏まえている他校からはかなり時代錯誤であり必ずと言っていいほど良くはならないので問題視されます。リアリズムは簡単なので指導しないことが常識ですが、でも抜け道はあります。市場では誰でもできるので誰も目指さないため写実の供給不足が起きているので歓迎され重宝されます。写実は難しそうに見えますが根気があれば誰でもできるので学校では特に教えることがなく独学で描けるようになります。東京芸術大学では1人で黙々と写実をしている人をたまに見かけます。
     写実が画家の目指す時代の本線ではないので亜流に生きることを受け入れて学生は個人的に本線からドロップアウトすれば画廊に売ることは簡単ですし写実ブームも来ているので来客が多くなれば美術館で展覧会を開くことができます。
     学校では200年前のリアリズムの終わりと共に絵画の世界にモダニズムの流れが来たことを習い遠い過去に「絵画にできることを考える時代」があったことを習います。で、同時に絵画にできることはやり尽くされたと習います。そこもそれが本線ですが本線からドロップアウトすればモダニズムで絵は描けます。
     そんな状況ながら美術館では新規性のない新しく描かれた絵が展示されます。絵がやり尽くされた上で美術館に絵が展示されるのはいかにも奇妙な話ですが現実はさておき展示しています。それはでもやはり理想的ではありません。新規性のない絵なので本来評価に値する作品ではないですが美術館の都合で展示されテンプレをなぞっただけなのになぜか評価されます。で学校ではリアリズムとモダニズムは終わっていると習い絵なんか描かないコンテンポラリーアートを習います。でこれもやり尽くされたということです。それでこれらは言われ始めて40年は過ぎていますので、すでに錆びついているため教えて生徒が教えを養っても全て不毛なテンプレ概念ですし無用なコンテンポラリーの余計な心配を生徒にさせるだけなので私が学校で教えることはしません。この手の話はしても本当に不毛なのでしません。大事なのは実る話なので実らない話はこれからの未来ある生徒にしてはならないと考えます。東京芸術大学で授業を受けても全く新しい画家が出てこないのは指導しているのは過去に実った過去であってこれからは実らない話をしているからです。する先生は不毛な世界に迎合し実質媚びろと言っていることと同じです。大事なのは少し先の未来に向けた話です。それが創造できるかが問題です。私はリアリズムもモダニズムもコンテンポラリーもどれでもない、描く意味がある世界の話を提案します。生徒はそれを気に入れば趣くまま自分の精神に従って描けばいい。そこに私が目の前や上にいてはこれまでのお高くとまった画家と同じなので、日頃から少し軽蔑されるように心掛けて取るに足らない存在でいるようにしています。生徒はできれば偉そうなだけで何の役にもたたない先生や画家にならないように人を下に見る画家でなく対等に見れる画家に育って欲しいと思っています。それが未来の画家には大切な実りある地位なり立場です。
     私は絵には実りある未来がありますから未来の部分を教えます。ヒントは描く意味です。言ってしまえば今のアートの世界はザルです。つまり実は隙間だらけなのです。くどいですがヒントは描く側から見ることです。ただ生徒達はとてもザルには見えないでしょうから私の見えている穴の先から除いている絵を個々に教えるのです。万が一ですがもしそこに乗る気になったなら乗ってください、そうすればきっと天才になれるでしょう。ヒントは上からものを見ないことです。
     この不毛な状況を変えることは絵画全体の課題です。画廊も美術館も残念ながら人を下に見ている。美術評論家となると画家を性の捌け口にもしています。たいていの学生は社会に伏することを学び、人の話を聞く準備をして気持ちを整えています。絵の学校はリアリズム、モダニズム、ファインアート、コンテンポラリーアートなどの耳慣れない言葉とその言葉を使ってアートの様相を教えます。そして何と言っても世紀を超えて不毛の続く厳しい状況なので最初に導入として処世術をたいてい教えるのです。その際に話を聞く準備のできていない人はレールからそれます。話に乗れた者の中から生き残れる人が一握り現れます。さて問題はそれぞれの学校が行う導入には一癖も二癖もあることです。私の経験上既存の美術館を目標に導入する学校にまともなところは一つもありません。やっていることは全て形骸化して新規性から見ればとっくに腐ったテンプレです。美術館で展示しなければならないのに美術館を目標にしてはならないのです。あ、つまり学校が目標にしている展覧会で画家として道が開けるものはなく、ですがそれを承知の上で逆手に取って、イージーなことを伏せて騙し騙し社会的にはすごいと偽ってプロパガンダし目指して騙しています。その癖を見抜く人は多いですがわからない人はいますからそれでその学校はなりたっています。簡単なところでその筋くらいは見抜けなければその先の希望に繋がる話にはなりません。天才はその先の世界に踏み込み他とは違う軸で行動し反れた者と乗った者の双方を凌駕する存在になります。天才ははるか先を見越して先取りし諸々踏まえて、乗る反る話でなく、より良いアートの世界を自分で設計し作り上げるのです。本書は自分で設計できる天才へ導入を行います。そのために掲げられてしくじり続ける美術館を否定するところから始めなければならないのです。クソミソに言ってすみません。

     美術館では誰も表現したい物事をテーマにしていません。あるのは全てテンプレです。社会にルールがあるように絵にもルールがあります。社会にルールがあるため本音を抑えたり、律することは、ストレスや苦痛を顔に出すことはある意味表現ですから日常的に表現を抑制する練習になっていると思います。それは暗黙のうちに絵の世界で自分を抑えることに役立っています。つまり誰も本音で描いてはいないのです。
     展示のルールに合わせるのは当然ですがその他は不要です。流行やコンセプトやテーマ、展示の意図などに同調すること、させることは本当に不要です。画家は通過儀礼を経て初めて作品を人目につく場所に出せますが作品はその儀式で間違いなく劣化します。同調圧力という言葉が世の中に浸透していますが最も強い圧力がかかっていると思われて仕方ないのが絵の世界です。
     作品は物質として鑑賞するために生まれてくるのではありません。戦国時代の刀が展示していたとしてそこにあるのは骨董としてあるのであって、そこにあるのは物質で単なる質量でしかありません。質量を眺めても殺し合いの場は経験できません。刀は実際に使われていた時のその場の状況や使われていた時に意味をなしているのです。戦や元々の持ち主の手にあった時までが生きる時間です。刀が生きたのは振るった人の手に握られていた時です。絵は描かれていた時です。絵も誰かに伝えるために最も生きる時間があり場所があります。絵は生きる場所が美術館であればいいですがその多くは美術館ではなく制作された場所にあります。そう考えるとそもそも目指す場所が違うのです。生きる場所を間違えれば生き物は死にます。美術館で全ての絵が死ぬと思います。それに対して制作場所では全ての絵は生き生きと生きています。残念ながら美術館的な絵の認識は骨董に始まり骨董に終わっていると思います。だから骨董として価値が与えられてきた経緯がわからなければ既存の美術館の絵は意味不明なのです。それは絵がただの物質として成り下がり骨董の一つとして美術館に完全に支配されている姿です。
     作家は通過儀礼により自分の中にある作品の生々しさは抑制され、心は疲弊し、本当に表現したいことは伏せて美術館に受け入れられそうな骨董になりやすい表現をするほかありません。ストレス脆弱性の限界と相談しながら受け入れられそうな作品を描くしかありません。だから画家は面白さや生きがいはとっくにどこかに起き忘れています。でもここ私立新美術館ではそんな馬鹿なことを一切する必要はありません。本当の表現とは相手を惹き、引き寄せるものです。男女が惹き合うように引き寄せるものが表現です。人が生まれ持っている力は真理です。真理の力に従い作品を生み出し、それを余すことなく表現できる場を生み出すことで全く劣化しない本物を展示することができます。本物は強い。画家は描く時絵に惹きつけられています。画家ならその引力を知っている者は多いはずです。ですがそれを知りつつ、それを美術館で表現しないのです。まあこれからは表現してください。
     人間には生まれながらに人と繋がり、惹かれる力が備わっています。同様に絵と繋がる力を持っている。その能力を余す所なく引き出すのが新美術館です。どうですこの可能性に気づいた人も多いでしょう?つまり鑑賞の時を間違えなければ作品とは生まれながらにして人を惹きつける力があるのです。骨董としてはさておき描くことです。全ての作品に人を惹く力はあります。それでは困るのが公の美術館です。
     新美術館は公の美術館ではありません。個人の美術館ですから特定の人に向けて機能する美術館です。また人の惹かれる力には好みがあります。つまり全ての人に惹かれる必要はなく一握りの人を惹き寄せればそれでいいのです。人生を揺るがすような大地震を絵は起こすことができます。
     美術館には個の美を認める機能がありません。美術館は数人を惹きつける作品では採算が取れません。美術館は大勢の全体の美を定義し従わせることしかできません。だから美術館の作品は薄まって薄いのです。うっすいうっすいのに無理やり人と作品をくっつけようと押しつけて政略結婚のように従わせるのが愚かな美術館です。美とはなんでしょうか?それは強烈な引力です。
     美とは残念ながら人に教わる概念であり考え方です。私の考える美はそれはきっと生得的な個性として全ての人にあるものです。私はそれを教えたい。生まれながらにしてみんな絵の天才なのです。赤ちゃんでお母さんの容姿を気にする子はいません。容姿を気にするのは美術館のような愚かな価値観を教育された後です。親子が繋がることは美しいと思います。そこに介入することは許されません。個の美は作られたものではありませんし作れるものではありません。親子が惹かれる力は作れるものではありません。それと同じで絵にある惹く力は作れるものではないのです。そもそも気にする必要もありません。美が作れるように錯覚しているのは考え方を先に押し出して固定概念を植え付けた結果、つまり洗脳です。作られたものに価値を与えて儲けようとしている輩が美を企画して企てているにすぎません。
     公の美は作られた美です。作られた美には装いがあります。装いには装いかたのルールを作りルールに従う美しさもあるにはあります。作られた美を重んじる美術館はモデルさんのような細い人しか認めないでしょう。少なくとも全ての人の中に美を見出し表現する力はありません。全ての絵にかけがえのない美しさがあるのですがテンプレにしか目が行かないので認識できません。なんと非力で下らないのでしょう。全ての人が美しいように全ての作品に美しさはあるのです。生得的な美しさとは命に結びついてものです。絵は人の命を引き出し親子が弾きあうように人を強力な引力で引きつけ完全に呼応するものです。絵の命を殺すのが美術館です。美術館は絵の全体評価を下す時に大多数の絵の命を殺します。無惨な光景は子供のコンクールを見れば一目瞭然です。選ぶ必要は全くないのに子供の絵を選別し落選を選び出します。落選させられた子供の多くは断末魔の声をあげながら嗚咽しながら涙を流すのです。決まってその子は絵を見限ります。悪いことは何もしていないのに恥辱を受けるわけですから精神衛生上当然の仕打ちです。美術館の愚かな行為のようにテンプレで命の選別をする必要は全くありません。個の美の強さが皆さんに認識される時に美術の世界は一歩前に踏み出せるのです。大昔の絵は王やパトロンから愛され呼応しました。それはそうでしょう。そう言った絵は王には愛されるでしょう。でもそれは個々には全く関係のない絵なのです。王が自分の絵を愛でたようにその絵を愛でろと言われても無理というものです。私の命は私のものです。私の絵は私のものです。その普遍的な価値に踏み込むことは一切してはなりません。それに気づかないことが絵の世界の誤りです。全ての人に絵が見直される時はそう遠くない未来に来ると思います。近い将来人を作品に引き合わせることが自分の家に人を招き入れるように個人的に可能になります。私立新美術館はそれを実験するものです。

     新美術館はそのうち日本中の至る所に生まれる美術館です。新美術館は公立ではなく私立です。絵画を排除し汚職に塗れた政治家が絡んでいる(正しい政治家さんもしいたらごめんなさい)公立の美術館ではなく綺麗な心で美しい目の人が作る私立の美術館です。落書きが楽しかったらそれでいいですし、自分の子供の絵が良かったらそれで十分です。そして私はその絵を評価しようと思います。
     新美術館は展示の記録を残しません。それは表現、つまり伝えることが目的の美術館だからです。そして私は骨董になりたくありません。何十年後先の未来の人を今の特定の対象のように強烈な引力で惹きつけることは不可能です。既存の美術館は伝えることに対する熱はとても冷めています。だからだめなのです。バカな美術館が熱を入れるのは骨董と歴史的な記録です。それによって画家はバカから認定され人知れず出世するシステムに乗り同時に上手く行けば所蔵している作品の値が上がります。そんな所に全力を傾けているから美術館はつまらないのです。これで観客が集まらないと嘆いているのですからやれやれです。
     公で抑制している私を気軽に頭に思い描いて表に出せる。真の私の表現を実現するために自分が設立する私立美術館。公をスタンダードにするのではなく自分や目の前の大事な人をスタンダードにするのです。公ではなく私を表現するために文字や絵や彫刻や映像をどうすればいいか考えればいい美術館。美術館の顔色を伺わなくていい美術館。
     私を社会に出すことがとても大切です。隠すことなく私の本当の姿を社会に出すことができれば人との本物の関係を築くことができます。真の私を表に出し社会と関わることで私立の美術館は成立します。大事な時に自分で私の世界に人を呼ぶのです。同調した表現しか許さない美術館は本当の美術館ではありません。トイレットトレーニングから始まる社会への同調は自分をどこかに置いて来させわからなくさせます。私は実はこうなんだということを取り戻しありのままを表現していい美術館。既存の美術館は私を出すことはできません。同調できない人が既存の美術館で展示することは許されません。ポンコツの既存の美術館はラフな絵でなければ認めないとか、暗い絵は認めないとか色々偏っています。そういう美術館の話を聞くたびに私は美術館は頭が腐っていると思います。認識的複雑性の欠落した既存の美術館は誰が決めたかそのような万能なルールはないはずなのにルールを決めて作品を選別します。その様がどう見ても不器用でチープなのです。選別した後は絶大な権力でアートの世界で実力行使し政治家を利用して汚れていきます。作品も心もどんどん濁っていきます。結局金なので考えを曲げることはありません。美術館は美術館の権威に同調しない人は足蹴にします。真っ白なお気に入りの壁を汚す人は汚物として排除します。というか実際は関係を持ちません。美術館は壁の色を見れば分かる通り白い世界なのです。沢山ある絵からお気に入りの絵だけを選ぶ。それが美術館です。美術館が大事にしているのは壁や柱であり、彼らがいやらしい顔で愛でているのは絵ではなく壁なのです。
     天才育成計画では私立美術館の作り方を公開していきます。既存の表現力の弱い美術館とは区別するために新の文字を冠した美術館。私立美術館の作品はポンコツ美術評論家が認めた作品でなくて構いません。自分が人生を賭けた大事な物事を表現するのであればそれで十分です。例えば死ぬまで隠していたことを1枚のメモに書き上げてそれを大事な人に見せる。それだけで構いません。例えば学校で散々いじめられて死のうと思う前に文字は書けないので全てを描いた絵を特定の人に見せる。それだけで構いません。そういったことを絶対に止めない美術館です。既存の美術館は多くの表現に対して相殺し合うことを薦め、連帯感を作り上げ、まとめたことを成果とすることで個々の作家ではなく、キュレーターや美術館そのものや、展覧会に目が集まるようにします。私を蔑ろにするので個々に対して負の存在ですが、新美術館は個人に対して正義の存在です。美術館の例えば県展では落選するでしょうが新美術館ではそのような馬鹿なことはありません。例えば誰もがまだ価値に気づいていない作品を展示するなど新美術館では可能です。新美術館はこれまでにない全く新しい形の美術館です。新美術館の新は新しいという意味はもちろんですがこれまで叶わなかった希望を叶える革新という意味の美術館です。

     団体に合わせるでも他者性を特別大切な家宝のように重んじるでもなくこれまで実現不可能だった私を主体に展示します。新美術館を知ってしまったら既存の美術館にはもう行けません。国立新美術館のようななんの変化ももたらさないただ建物が新しくなっただけのちゃっちい新ではありません。私の問題においてあちらは無能、こちらは私という個人と向かい合い、私において本当の価値がある本物です。本物の革新、改革の新美術館。あらゆる制約を超える美術館です。これまでのどの美術館とも違う。これまでの美術館を超越しています。これまでは絶対に表現するべきことでも全て伏され表現できなかったことがたくさんありました。誰も積極的にそれを越えようとはしてきませんでした。その難局を越えるために新美術館は設計されます。設立に後もう数年。これまで表現できなかったことが表現可能になる価値のある美術館。表現の弊害になる物事を1つずつ考え尽くし解決していけばなんでも表現できる。表現の可能性が最大限に広がった美術館です。新美術館は表現しなければならない事案が生まれればその都度デザインされます。表現が生まれるたびに全く新しい形で生まれる美術館です。あなたの新美術館はあなたが作ります。既存の美術館は建物が威張りすぎ。本来建物は2の次です。人工的で潔癖な白い壁ではなく色んな色が混ざり合う色んな人が展示していい美術館です。
  • 絵の課題の前に〜20「絵の行き先」

     自分が生まれる前の絵の歴史のことは目の当たりにしていませんので本で読んだことしか知りませんが、人類が始まってからこれまで絵画の歴史は大きく変遷してきました。目の当たりにして実感のわく最も大きな変遷は、画家の時代の終わり、と今に続く凪のような歴史的に描くこと、書くことのない「停滞」です。一方、私の目の当たりにしてきた絵画は全く本には書かれていません。本とはそういうものですし、歴史とはそういうものです。
     「停滞」と表現しましたが私は画家として生きている以上、本当は泥の中で画家として生き生き生きてきた訳で、私のような画家は世界中にいるわけですから、本当の絵画の歴史は事実として本当は何も語られていないのです。美術評論家的に書くような出来事が起きていない。美術評論家ファーストの絵の世界は歴史的に書くことがなくなったら描く、書く必要がないものと定義されてしまいました。評論家からすれば停滞でも画家からすれば停滞ではなく正しくは評論家的歴史の記述が全くない「記述の空白」です。歴史的に空白と錯覚されているこの間も私は絵の世界を目の当たりにしてきました。ここで1つ。長い絵の歴史の中で天才は画家の立場を評論家に書かせ少しずつ認めさせてきました。なので誰か興味のある人は空白の画家の立場を美術評論家に認めさせ書かせてみてください。そうすればあなたは一人の立派な天才として歴史に名を残すと思います。現代美術の歴史的な天才とは評論家の目の前にいる人間をいいます。空白、ここを見ずに歴史を語り評価する美術評論家を私はおこがましいと思います。画家は生存するわけです。それを全て亡き者にするのはビルケナウで行われた人の存在を認めない殺戮と同じです。少なくとも画家に対する重大なハラスメントといっていいでしょう。ハラスメントを前提として画家の営みの真実をなんだと思っているのか聞いてみたいものです。画家を性の対象か飯の種としか見ていないからこんな状況になるのです。

     もう30年以上も前、私が高校生の時に安井賞展が終わり、それを機に日本でも完全な停滞に入ったと肌で感じます。美術評論家から言わせれば画家は全滅した。少しでも描いている画家を見つければ「辟易する」。「辟易する」は美術評論家の口癖で本気で吐いていますが絵の世界を上っ面でしか見ていません。
     一方で画家の世界では美術評論家の教育や命令に背き画家はサバイブし生き残り続けました。その根幹にあるのは美術評論家が「辟易」と称して忌み嫌う「没頭」です。言ってしまえば美術評論家の手も脚も出ない、人の心の奥底にある絵画の本質的な力がそこにあるのです。
     気やエネルギーといった底知れない力を置いておいてヴァザルリで画業が終わりだと言われても困ります。画家が土の中に潜ったので世界中で同時に「画家の時代が終わった」と言われました。美術評論家は言うことを聞かない画家を煙たがり、もの派の後のインスタが流行るなか、市場は市場で物故作家ばかり扱っていても困るのでハイリターンがワンチャンある青田狩りのために冬眠中の画家を泥の中から無理やりほじくり返しました。ほじくり出したはいいがどうにもならずに泥だらけのまんまカピカピになり展示させられて片付ける場所がないからそのまま泥に戻すようなことを繰り返しています。湿り気の戻る泥の中はやはり居心地がいいのです。簡単に言えばノープランで展示だけしている格好です。身も心も渇くのは当然です。
     さりとて画家からしてみれば、それらの規模は神の掌のように大きく、画家はまるで神の掌で踊らされているようでした。神の意向に素早く従い反応することが、その後の生き残りには必須とされ、美術史を揺るがす新規性が認められない中で画力の実力行使という概念はない状況で、画家の努力が何も通用しない掌では実力でなく従うものの順に出世しました。つまりほとんどが殺される訳で、その様子はやはりまるでビルケナウです。
     当然真面目な人や強い人間はそのような理不尽なレールに乗るわけはなく掌から降ります。大多数の人が安心な道に反応しない様子を傍で見てきました。「辟易」という言葉は美術評論家がその様子を見て我が身を心配する心の弱さの表れです。つまり画家が絵を描けば描くほど、それだけで美術評論家は脅威なのです。心配は最大の武器です。「辟易」とは美術評論家が自分の身を守る最大の武器であり、自分の身を脅かす心配なのです。つまり美術評論家を叩きのめす最大の武器は「絵を描くこと」なのです。美術評論家の入り込む余地のない徹底的に描く世界をスポーツや音楽のように作り上げればいいのです。
     東京芸大では試すかのように儀式が行われます。あそこもディシプリン、いわゆる躾と称して可愛がりを行い都合の悪い学生を排除するビルケナウです。教授は卒業式後の学部4年生を前にして全員に対して「君名前なんだっけ?」と聞いて周り、一人も名前を覚えていないパフォーマンスを行い、それでも媚びる学生を人選し選民として選びました。その様子はとてもエレガントです。選民は大学の教員のポストにつけられるのですからとってもエレガントです。でもそこに生粋の東京芸大の学生は少なく、たいていが芸大ロンダリングの学生です。生意気な実力のある芸大生を遠ざけ、他大学の、特にFランクの大学生を引き抜いて芸大ロンダリングする権力はとてもエレガントですが、真っ当にみればクリエイティブのかけらもない愚かな行為でした。自分の名前を冠したコンクールを催し、受賞者を選び出世させます。これが安井賞展で出世し公募団体を支配している輩の姿なのですから美術評論家が駆逐するのも納得できるには納得できます。画家と美術評論家はこんなお互い様のいたちごっこを繰り返してきているのです。そんな具体的な事例を挙げると、かいつまんだ話ができないのでここでははしょります。エレガントな神を冒涜してすみません、私はきっと東京芸大の教授とその信派を全員敵に回すでしょう。でももし教授と信派が攻撃してくれたら、私は軽快な音と共に世に轟く実弾を弾くチャンスが得られるのです。

     でも未だに絵の世界全体で実は「画家の時代が終わった」と言われているのはほんの中心部だけで、絵の世界の端までは伝播されていません。アートの中心からほんの少し離れた所まで情報が広がっただけで、全く知らない所がほとんどだと感じます。そうなってしまうのは日本の学校教育に問題があるからです。絵画の真実を何一つ学校教育に落とし込んでいない、学校で指導する教員に適切な教育をされていないのが致命的です。絵を教える小学校から高校までの美術の先生のほとんどが知らない。美術高校ですら明後日の指導をしています。これは日本の美術教育の本当に愚かな所です。ちなみに私の思うに教員を養成する教育系の大学の教員のほとんどが何もわかっていません。

     このような状況下で知る人ぞ知るその掃討作戦に掃討される側として、歴史に書かれる現実に触れられて画家の好きな選民思想が刺激され少し光栄な気もします。でもさすがに長すぎる停滞(空白)と、ツッコミどころ満載で明らかにおかしい今のやり口、どれもゲリラ的で切ない小さな火花、言っていることとやっていることが全く違っていたり、等々見ていると、どれも完全に着床し花開かないのは見ての通りだし、やり口の隙間から、やり口ではない絵の可能性がいつもチラッと見えているので、可能性から感じている強みを考える限りそろそろ絵は脆弱な火花を跳ね除けて「復権する」と考えています。

     そもそも画家の時代が終わったという考えは、画家の立場から出てきたものではありません。画家の都合で始まったわけではないのです。そんな時代は多分もう終わろうとしています。考え方を立ち上げた人たちの気持ちが萎えて放置されているのです。放置されてからずいぶん長い年月が経つのです。凪が続いているのは逆の論理を考え出せていないから。画家の世界は散々弄ばれて陵辱され壊滅し放置されています。ここで書きませんがパワハラ、セクハラが当然の世界でしたから駆逐されて当たり前だと思います。生き残っている画家は大抵どこかに属しています。どこかに属していると自分の立場を守ることが先決で逆の考えで行動はできません。それが凪の原因です。誰もやれないから恩顧を顧みず、裏切り、私が書いています。神の掌から降りたとはいうものの私は東京芸術大学の入学試験の問題が漏洩し毎年のように事前に知っていました。
     おそらく今の逆の論理を考え、実行し、一番目立った人が後の世では天才と称されることになるでしょう。それがこれからの絵の行き先です。私はこれからの人たちにそこを指差して示唆しようと思います。
  • 絵の課題の前に〜21「絵は人に没頭させる」

     私は美術予備校の先生を始めて30年経ちます。とうとう近しい人は予備校の先生を辞めました。私は自分の受験で色々苦しんだので受験に対して思うことが沢山あります。残りの人生がそれほど長くはないことを考えると、今私がこの仕事を続けていることは運命のような気がして、受験が正しくなるためにやらなければならないことがある気がします。受験を通じて絵を見てきて、受験の表に出せない問題も沢山知っていますが、受験に限らず絵の世界は裏側を綺麗に隠しているのです。それは表に出さなければならないことではないかと思います。

     絵画の最大の問題は信頼できないことだと考えます。

     絵を信じられる人が世の中にどれだけいるでしょうか?詭弁ではなく本当に信じられる人はいないと思います。東京芸大の教授でさえ絵を信じていないし、そもそも絵がわかっていない。私の知る限り東京芸大の教員の中に絵を学生に全力で推せる人はいません。それは絵を信頼していないからです。そのような絵を本当に信じて、絵に人生の全てを捧げられる人は絵の天才だと思います。絵を頼れる人が絵に頼られ愛される天才です。

     絵に全てを捧げられる人は絵の本質に気づいています。それをなんとか伝えようとするから人生を捧げられるのだと思います。それは損得などとは違います。絵で得をするから絵で生きているのは絵ではなくお金のために生きているのです。

     絵の本質の1つは絵を描くことが人を絵に没頭させることです。絵に没頭できる人はつまり全て絵の天才なのです。絵を描く力は誰もが生得的に持っています。その時は誰でも絵を信頼しているのです。社会はその力に気づき生かさなければなりません。社会がより良くなるためにいずれ絵を頼るようになると思います。それほど絵が人に没頭させる力は強力なのです。そんなことは昔から気づいている人はいましたが、ただしそれを世界中に伝播させる道筋はまだ誰も気づいていないと思います。

     生まれてからある時まで人は絵に没頭することができます。しかしそれぞれのタイミングで世間やアートの世界は人にその没頭の邪魔をして、間違った教育をしてしまい、絵と訣別させ、絵に対する不信感を抱かせます。そこに、とても難しいですが、単純な齟齬があるのです。

     物を壊したりすることは悪いことです。それを悪いと躾けながら、絵の中ではそれをやっていいので区別させ続けさせることが必要です。テーブルの上にオレンジジュースをぶちまけて手でぐちゃぐちゃかき混ぜるのはダメですが、絵の中でそれはやっていいのです。絵の中は感覚的でいいという区別を躾けとはっきり区別することが必要です。絵を描くことと躾を見分けることを社会はずっとできないでいます。社会にそれができないのはアートと絵の世界が正しく理解していないからです。

     絵を描き続けることが許されたなら、人間は生得的な感覚を大人になっても表に出し、押し殺すことなく生かし続けることができます。没頭している時はそのゾーンに入っている時です。生得的な衝動を抑制しなくてもよい、絵という場について誰もが正しく理解しなければません。絵の世界でこれが壊れる時はその行為や絵を評価した時です。

     生得的な感覚を第一に考えた時、当然ですが絵は上手くなくて構いません。まず、この説明に誰もが失敗しているのです。

     子供がもし下手に見えても没頭して描いていたらそのまま描かせてください。大人でも同じです。上手く描く必要など全くありません。評価しないでください。
     学校はその絵を評価してしまいます。その点において学校は何もわかっていないと言わざるを得ず間違いなく愚かです。人にはそれぞれ全く違った知見があります。その知見は論理的に言葉で表せるとは限りません。食べ物をどれのどこからいつ食べるか決めるように個々に違います。それを他人と合わせる必要は全くありません。合わせれば気持ち悪いです。評価はそれをさせてしまいます。またテーブルマナーの類は感覚的に生きる人間をコントロールする手段に利用される場合があります。美術評論家や画廊が画家を支配するときの手法もそうですが、それはモードやコードと称される時があります。感覚的な人間をコントロールするには織田信長が武将に茶の湯を学ばせたように、特定の道を学ばせれば、その道のテンプレはその道の初心者のダメ出しをする都合の良い道具になるのです。アートの世界ではモードとコードがそれです。

     人の感覚はそれぞれで全く違います。一言で「青」と言っても青に対する感覚や認識や触れてきた経験や感じ方は誰一人同じ人はいないのです。そこに良いも悪いもありません。描きながら想像することは、知見が溢れています。そこではそれが全てですから絵は赴くまま誰でも没頭できるのです。そこに個性があるのです。

     個人の個性は工業化された第2次産業革命の時、物が量産されるついでに人間もテンプレ通りの働き方生き方が推奨され失われたと思っています。
     知見は言葉になるものばかりではありません。言葉にならない身体感覚や身体記憶、頭に浮かぶイメージも知識だと思います。その知見を分析し一つづつ紐解いていくことが本来必要な評価です。ですがそれができる先生は学校には一人も存在しません。団体の評価のテンプレで評価しますが、それは全く意味をなさない物です。全ての先生がテンプレにはめてしまいます。東京芸大でもそうです。誰にでもある知見から描かれる絵の機能を横槍を刺すように、評価は全て壊してしまいます。その時に誰もが絵に対する不信感を抱き人間が作り上げた粗末な絵の評価や見方、考え方、感じ方に対して疑問を抱くのです。学校は天才の芽を摘んでしまっているのです。これは美術教育の功罪です。ピカソもその子の絵もなんら大差ありません。ピカソの絵を美術館と美術評論家は特別なものとして掲げますが、それは愚かな過ちです。その過ちを正せないことが絵の世界が停滞している原因なのです。

     一般的に絵画が理解されていない1番の原因は信用できないからです。世間が抱いている不信感は全て当たっています。不信感を払拭して受け入れられるには見抜かれている偽りを全て正直に話して解決することです。誰も動かないのでここで全ての偽りと解決方法を書いていこうと思います。
     例えばピカソやバスキア、クレー、ベンシャーンなどなどラフな作品は誰にでも描ける絵です。そもそも誰にでも描けることを前提に誰もがその効果を理解して描くようになることが本来彼らの活動と作品を評価するに値する評価の意味です。それを美術館と画廊と美術評論家は利益のために神格化し、正しい手続きを踏まず、特別な才能がなければ描けないと偽って広告しています。誰でも描けると言ってしまうと大金を払おうとするお客さんの購買意欲が削がれるからです。ピカソの若い頃の写実的な作品も全て、誰でも相応の練習をすればみんなが描けるようになります。ベルベデーレの模写から始めればいいのです。史実の通り当時はみんなやっていたことですし、これも特別な才能は1つも必要ありません。写実が誰にでも描けることを隠すことによって、世界中の人が描画能力を身につける機会を逸し、画家は競技によって生きていける機会を失いました。そういった齟齬、偽りがたくさんあるのです。

     画家として生きてきて、生徒を集めて指導しながら収入を得ている身分としては本当に言いたくないのですが、心配していることとして隠すことができないので書きます。
     改めて絵画は信頼されていません。
     生徒達にこの状況を伝えなければならないし、認めなければならないし、信頼できるわずかないところに確実に気づいて欲しいので書かなければなりません。
     絶対安心安全のように謳っているものの全てが偽りです。

     動産としての信頼。ビジネスとしての信頼。教育としての信頼。才能としての信頼。
     いずれも信じて頼れる存在ではありません。絵画の世界は人が作っています。間違っても神様でも仏様でもありません。その作っている人から見た絵画はスカスカで利用できるものです。スカスカの空間に美術館を建ててみたり、スカスカの場所に絵を売る市場を作ってみたり。売りながら眺めてみたりしてそれでお金をとってみたり。ずっと見ながら法則が見つかったので評論家してみたり。スカスカの中に作っていく人にとっては絵は信頼というより、どこまで利用できるかわからないけど利益が出る間利用してみようという存在です。
     今は利益が出なくなり利用できなくなってきました。スカスカではなく飽和したパンパンの状態です。美術館も画廊もたくさんあります。そしてほとんど赤字です。どうなるかわからないけどとりあえず作ってみようという感覚でお金をバンバン使ってみたのがこれまでです。立ち上げで儲かる道具に利用されました。彼らはランニングには興味がありません。美術館1個建てれば誰が儲かるかわかりますよね。そのために作られています。ランニングしてみて、それで、あれ?これ実際こうだよねとおかしなことがだんだんわかってきました。あれっ?という状態、それが今です。みんなやっとわかってきました。そこで何にも起きず他に興味が移り人が離れています。でもこれは新しい絵が始めやすい状態になってきたなんでもできるタイミングでもあるのです。

    絵は見せるためものから描くためのものになります。かならず道が開かれます。
    今のところ絵の道は閉ざされています。
    信じるか信じないかはあなた次第です。
  • 絵の課題の前に〜22「シン・エ」

     目の前の白い紙を見て何かを感じたり思ったり考えたりすることがあります。「感じる」「思う」「考える」この3つは全く違うものです。残念ながら絵の評価でそこを理解して評価をくだされてるものは世界中どこを探してもありません。ポンコツです。これがどれだけ愚かなことか考えてみてください。言葉の意味がわかるなら誰でもわかります。
     白い紙の前で浮かんでくるものは美しく綺麗なものばかりではありません。どちらかと言えば悪いイメージの方が多いはずです。美術の授業では間違いなく美しく綺麗な表現以外は認めません。そこで都合よくコントロールできる人間をアートの内外問わず育てています。学校での図画工作と美術の授業はその程度のものです。大学も同じです。
     白い紙を見て何を感じ、考え、思うかは自由です。ただし、それを表に出すことは簡単ではありません。出してはならないバイアスが働いているからです。本来絵は他のメディアに先んじて「自由」であることを世界や世間に表明しています。自由の先駆けであるように世界にブランディングしていると思います。アートも同様です。しかし実際はどうかといえば、かなり乖離していて自由とは程遠い状況です。世間に露出している画家は美術評論家なり画廊なり美術館の顔色を伺った絵しか描いていません。本当の意味で出世しているのはやはり世間という美術館を問題にはしていないと思います。絵やアートは悟りのように言えば出世間、つまり世間から出て出世できていないものです。主にお金の都合を軸に動いています。一方で自由に表現できない状況に反して、伝えなければならないことは噴出しています。絵やアートはさておきS N Sは自由度で言えば遥かに先行しています。例えばジャニーズの性加害です。子供にこれだけの災いが起きているのに黙らせてしまっていたのは社会の問題です。当然アートや絵画の問題でもあります。アートや絵画のしていることはどちらかと言えば子供を黙らせる側です。ジャニーズと同じように褒章を与えてコントロールしています。性加害もあります。ジャニー喜多川にペニスを咥えさせられたりしていたのだとすれば何の壁もなくサッと絵に描けたり、発言できるような開けた社会や絵画、アートの世界でなければなりません。それができないのであれば「自由」などと公言できません。おこがましいです。
     自由とは本来正しいとされていることとは別に悪いことも表に出せることを意味します。
     紙を目の前にして何かすることも、しないときもあります。そこでやるやらないは別として、感じ、思い、考えることは自由です。そして人の優劣はありません。誰も平等です。才能も関係ありません。優劣があったとしたら、それはまだまだ時代がついてきていないからです。昔は子供なら全否定かもしれませんし、年配の人の意見が絶対だったり、年配の人ならなんでも肯定されているように思います。あとは先生であったり、哲学者や芸術家でなければ全否定されていると思います。今はそのような偏見は減ってきたと思います。今1日も早く世の中が認識できなければならないのは人の感じ方や思いや考え方に優劣はないということだと考えます。
     これが絵の話であった場合、目の前のそこで感じたり、思ったり、考えたりしたことの全てを絵は肯定しなければなりません。その全てが人の全てであり、ひとつも劣るものなどありません。仮に優劣を付けたとしたら、それは絵ではなく政治です。絵としてではなく政治的な絵の判断です。絵の政治や絵を利用した政治なので、自分の都合を優先して相手を潰す戦争や権力闘争に他なりません。絵の世界で起きた戦争や権力闘争を絵と称したいのは美術評論家です。そもそも美術評論家に絵はわかりません。彼らが絵にしたいのは歴史的な記述や絵の闘争の歴史です。それは正確には絵ではありません。でもアートの世界で権力闘争に勝ったのは美術評論家です。画家で表に出ているのは美術評論家に近づいて、そばにいて、平伏し、羊のような面持ちで媚びへつらって、絵の思いを捨て、感じ方を捨て、考え方を合わせて逆撫でしないようにした、ほんの一部のものです。これは全て戦争なのです。全てが正しい状況の中で自分が得をするために自分だけが正しいということにして、自分以外の全てを殺したから、「絵画は終わった」という風に見えてしまっただけです。最初から何も終わっていません。戦争に従いなどしません。戦争は愚かな人間のすることです。戦争は人を人と想わず屠殺しますが同じようなことが絵の世界でも起きていたにすぎません。最初から何も終わっていませんし、変わっていません。

     仮にそこに何も描かなかったとしても肯定されるべきです。そこと向かい合うことで人の中にある可能性の源泉は開かれます。生産性のないものを肯定することは難しいかもしれませんが、人間は基本やらない判断がベースでほんのわずかな物事に限って生産します。ものを作る以上に大切なことが世の中にはあります。何でもかんでもやればいいと言うものではない。暴虐無人ではダメです。可能性がないように誤解されている絵画の源泉もまた人類の可能性と共に開くのです。

     絵画の可能性はこれからさらに開かれていきます。絵画は終わったなどと言われていますが違います。絵画は終わっていません。可能性は一つには細かな差異を丁寧に見極めて認めていくことから見えてきます。
     白い紙の前で起きる1つひとつの現象を丁寧に読み取り、分析して、言葉に置き換えて、カテゴライズしていく。その中から今までにない発見、進歩があれば評価し、場合によって賞賛し賞を与えてもいいでしょう。しかし現時点で与えられる評価は発見や進歩といった中身はなく形式だけが一人歩きしています。そういったことに陥っているのは丁寧に評価すると都合が悪いからです。大抵の評価は最大限に利益が得られるにはどれにどのように評価を与えればいいか?と言う論理で下されています。評価されている作品がなぜ評価されたのかを客観的に考える際にそのように見方を合わせればスルスルとどのように考え方を積み上げたかが見えてきます。損得が第一で、信念に沿って評価していることも稀にありますがとても珍しいです。信念に沿っていれば正しい評価ができているかといえばそうではありませんが損得よりは少しマシです。

     発見でもなんでもないものを評価し受賞させている。評価しなければならないものに目をくれる気は全くない。全ては自分の利益のために評価や賞は与えられるのです。評価と賞のほとんど全ては実態がないので絵の評価や価値や賞は得体のしれないものになっています。得体の知れないものになっているのは実体があるにも関わらず無視して得体の知れないものにしたからです。価値のないものに価値を与えられるようにすれば都合いい。名前が売れている画家の作品は適当に描いても1000万くらいにはなります。名前のある例えば千利休は露店で適当に買ったものを高額で大名に買わせました。それによって未だに画廊や美術館、マーケット、国は金欠から免れています。コンクールは目まぐるしい評価とは無縁の特に秀でた作品がなくてもどれかに賞を出さなければならないので賞を出します。それで面子は保たれます。これらは作品を適当な考え方で否定し、その反対の考え方が優れて見えるようにして、優れて見えるようにする手法で成り立ちます。つまり否定から始めなければ成り立たないやり方です。多くはこれです。そもそも否定は必要ありません。全て肯定できます。さらにおかしい絵の世界は大きければ大きいほど絵はいいと決めていますが、小さな絵に悪い絵はありません、そもそも大きさで絵は決まりません。全ての大きさに意味はありますがその差異を認め、そこにある可能性を引き出していかなければなりません。そこに源泉はあります。現状マーケットでは絵は大きさで値段が決まります。得体が知れない訳です。

     絵の指導では白い紙の前ですることをどう考えるかがとても重要です。決して大きさがどうとお茶を濁してはなりません。そこで起きていることの全てに無限の可能性があります。そこを認めず否定しながら都合のいい作品を選別してしまっているから絵は停滞しているのです。媚びへつらわなければ出世はあり得ない世界です。残念ながら多くの人がそこで肯定は無駄な努力と諦め、すぐに否定に参加してしまいます。いじめが生まれ、なくならない社会の心理と同じです。程度が低い。そうではないのです。いじめの対象として相応しい人はいません。否定やいじめを恥るべきです。

     それをどう見て、考えるかで可能性は無限にあります。少なくともやり続ければ必ず新しい色と形は現れます。見れば見るほど新しいものが見えてきます。見えれば見るほど発見があるのです。否定が気になる評価に困った先人は、テンプレを作りました。それは安心安全を手に入れた一方で画家から探り続ける姿勢を奪い新しい絵画の可能性を潰したのです。
  • 絵の課題の前に〜23「絵の世界は新しい発見に満ち溢れています」

     絵の世界は発見の宝庫です。新しい発見があるということは成功のチャンスに溢れているといえます。様々な人間の思惑によって絵の世界は手付かずのまま置いておかれました。そんな中で絵の世界の常識は「絵はやり尽くされた」です。ほとんどの人がそれを受け入れて信じました。でも思惑を透かしてみて、絵を見続けていくと星の数ほどの新しい発見が見つかるではないですか。このような状況に陥ったのはその言葉が頻発された当時の絵の世界はまだまだ物事や絵の見方や考え方が少なく狭かったからです。やがて絵の世界はアートの世界に飲み込まれ絵という枠組みは崩れ、絵の世界は忘れられました。その忘れられた、今も忘れられ続けいている空白の時間と空間の中で人知れず枠のなくなった絵の概念は残り、絵の物事の見方や考え方は進化し続けていました。一昔前であればこの進化は風化していたと思います。でも今ではえらいものでsnsがあるので容易に発信することができ風化することはありません。また、今までなら絵の世界を管理する支配者「美術評論家」や「大学教授」、「コンクールの審査員」などが認め、彼らの利益を担保しなければ新しい発見を外に出すことは許されませんでした。これもsnsのお陰で支配者をスルーして外に発信することができます。そのため私はここに様々な発見を書こうと思います。たまたまこれを読んだ画家や絵の世界で仕事をしている人たちはここに書かれたことで美味しいと思うことがあれば、自分の発見ということにして世の中に出していくといいと思います。そうすれば発見は表に出ます、出した人は成功し出世できると思います。私の思惑は1つ、このように絵の世界は成功に満ち溢れているということを知って、いつか絵の世界を見直して欲しいのです。いずれ宝の山にみんなが群がると思います。そうすれば自分の中にいる25歳の時の自分が納得してくれると思います。あの言葉が常識だった頃の当時の私は世の中が絵に関心のある状況であれば歴史に名を残し世界的に有名になって活躍していたはずです。残念ながらいまだに絵はまともに発表できる信頼できる場所が1つもない。だからその場を作るのが私のやらなければならないことです。まずは絵に対する関心を高めsnsから次第に伝播させたいと思います。
     少し宣伝じみたことをすると熊谷美術研究所では最先端の物の見方、考え方、技法を教えています。教え方も最先端です。美術予備校では講評をするのが常識ですがクマビでは講評は必要ないのでしません。生徒も全く必要ないことは理解できています。実はクマビの外の世界とクマビでは相当な時差があるのです。クマビの生徒は何十年かしたら時差がわかります。私は外の世界を見ると時差ボケを起こすのでギャップが辛いです。
     とはいえ絵で真の成功を収めるのは本当に難しいです。誰がみてもカッコ悪い成功ばかり。真似したいとは思えません。理想を追求し、あまりこだわりすぎると絵は描けなくなるので誰でもどこかで妥協するのです。でも実際は徹底的にこだわれるならそうした方がいいです。
     私の生徒なら心が折れないのであれば諦めずこだわり続けるように指導します。でもそんな指導は誰かれ構わずではありません。その気が本当にある生徒だけです。絵の世界は可能性に満ちているのでそれを指導しています。絵がわかる人ほど具体的にはっきりと絵の成功の形が見えます。そして明確に実行プランが見えます。それで実行します。日本にいろんな絵の学校がありますが絵の成功の形を指導できるところは多分クマビ以外にはありません。おこがましいようですがやはりそうです。
  • 絵の課題の前に〜24「絵の成功」

     誰でも少なからず理想を追っているので誰もが前に進むのが難しいのが絵の世界です。カッコ悪いのは、そんな絵の世界で理想を追求することを止めて、難しい世界だからこそ割り切って出世や金儲けに走れば簡単に成功できる世界が絵の世界です。それが透けて見えるのがカッコ悪い成功です。

     真の成功とは誰もが認める実力で勝ち取った成功です。苦労などが透けて見えます。理想を追求してやり切った姿は本当にカッコ良いものです。

     誰もが認める実力の「誰もが」とはある程度絵がわかる人たちが評価した実力です。そこには一般の人もいます。逆に言えば誰でもわかる絵の成功の話です。

     本当に実力のある画家がその力の通りに評価されないのが絵の世界です。そして絵の実力が本当にわかる人はあまりいません。

     わかりづらい絵の世界では、真の成功に見せかけたカッコ悪い成功をした画家が沢山います。それをわかる人はわかります。私がこんな他人事にこだわるのは私の生徒に本物を目指す生徒が出てきた時のためです。

     絵の世界の成功はほとんどカッコ悪いものです。絵の世界にはカッコ悪い成功をした画家がたくさんいるのです。絵の世界で認められている評価のほとんどは政治的な理由で評価されていたり、市場の絵を販売しなければならない理由で評価されていたり、大学教授などは適任者がいない中で評価されているものです。いずれも「絵なんか描いてもしょうがない」という状況を飛び越えて新しい絵の世界を更新して評価されているものではありません。程遠いということにカッコ悪さが見えてきます。
     さらに天才はこれから現れます。それがここで書く一つの成功です。絵の世界の更新の仕方を変える画家です。今まで通り新しい主義やコンセプトや、技法を生み出す可能性はあります。でもそれは本当に重箱の隅をさらにつつくというより、スカンプリングを続けてほじくり倒すような行為です。ほじくって出てくるのは出がらしですから本当に世界で数人の一握りの人が出てくる可能性しかないでしょう。「絵なんか描いてもしょうがない」とされている認識の通りです。一方で絵の世界はこの新しさを求めて評価していく方針を変えられないでいます。これをシフトチェンジさせる画家が見方をぐるりと変えて、少し先の未来の時代の要請に応える真の成功を手にするカッコイイ画家です。そしてその画家はそれを支援するパトロンをも歴史に名を残すでしょう。
トップへ戻る