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絵を書く

これから解決するべき絵画の課題


小平 崇史


  • はじめに

     「絵を書く」は書籍を出版するために書き続けた原稿をHPにあげたものです。本書の出版は営利目的ではないのでこのままHPにもあげようと思います。また私自身日本語能力がとても拙いので書籍にしたところで誰も買わない、読まないので損得勘定も成り立たないとの考えもあります。でも拙いからこそ反応する人もいるとも考えてHPで公開することにしました。拙いとは私も含め画家はもともと文章は苦手です。美術評論家の書いていることも正直よくわからないことだらけでほとんどが頭に入らないのが実のところです。でもそのような状況の中、現代の絵画の世界を支配しているのは美術評論家の書いた概念です。つまり拙い画家の概念は置いてけぼりになっている。つまり拙いもの同士の世界で成立する物事が今の絵画の世界には反映されていません。その損失を考えてみたときに画家が書くことを思ったのです。

     本書の執筆は筆者が運営している美術予備校熊谷美術研究所のHPからはじまりました。HPでは絵画の学校では知り得ないことや本でも書かれないことを書き連ねていきました。

     もとはと言えば本書を書きはじめたのは一人でも生徒を増やすためです。保守的に、これまでの慣習に合わせて、先人たちの言う通りにしていても絵画はなんの発展もないと考えました。上の人間のいうことを荒立てないために黙って聞いて、組織のために献身的に務めたとしても平和に生きていけるのであれば何の問題もありませんでした。でもそれで食べていけるのは本当にその組織で一人くらい。そのような状況が長年続き、見続けてきたのは先細る状況だけで、このままでは流される河の中でかろうじて足を踏ん張っている状態で、自分の画家としての存続が本当に危ぶまれる状況なので、根本的な所から変えるために行動にうつすことにしました。絵の世界は長年辛抱強く我慢していると思います。なるほど私も耐え難きを耐え忍び難きを忍んでいます。この世界はそのような状況でも受け入れられるような人が勧誘されて存続しています。高校の美術部では怒鳴り散らされながら自由に描くことを強制されました。予備校に通い始めた時は自由に描いていても何もならないという知識を得ました。大学では絵を描いているだけで否定の的となり、大学教授には絵画科で絵画を志望する生徒を集めて運営しておきながら、絵を描くことを肯定できる者はひとりもいませんでした。そしてアート全体は作者の考えではなく、評論家の考えに支配されています。今の大学は大学で絵を描くことを勧める者はいても、未だに教員の誰一人として絵を描き続けて収入を得られるように指導できる者はいません。あるのはほんのわずかな地方の大学教授のポストのみ。他には本当になんの役にも立たないのです。未だに自由だと言われながら本当は自由などどこにもない。それが真実です。自由を声高々に歌いながら自由などどこにもない世界。そして自由という言葉によって支配できる人を支配して利用することでギリギリの状態で成り立っている世界。画家の置かれている状況は何一つ変わらない。真実を何も知らされない状態でひたすら耐え忍ぶ、この世界の人間の忍耐強さはいつみてもやはりさすがです。本書は自分もさることながら、耐え忍ぶ描き手を救うために書いています。それは前にも述べたように私の運営する学校の生徒集めのためでもありますし、教え子たちが食べていけるようにするためでもあります。

     後に詳述しますが、画家はもともと「自由のない職人であるギルド」から、工業の発展による時代の変化と、豊かになる世界に合わせて同調させるように教養を養わせようとするリベラルアートの考えをもとに自由を目指すようになりました。そのような自由を叫ばれる中で我々は「画家は自由」だと言われてこの世界に入ってきた。実際にそこに自由があるかと言われれば自由などどこにもなかった。自由を叫んだ時代のもっとも致命的な過ちはそれ以前にすでに、誰にでも簡単に絵が描ける方法が完成しているにも関わらず、世界に向けてその方法の導入を怠った点にあります。誰でも絵が描ける方法が導入されていれば、今頃は誰でも学校でそれを習い、アニメを作っていたでしょう。誰でもアニメで物事を表現できるようになればあらゆる情報は格段にわかりやすいものになります。アニメーションの表現力を駆使すればアートや絵画が説明に苦心してきた内面の描写も今のアニメの力を持ってすればスムーズに世界中の老若男女全ての人に説明できてしまうはずです。それを阻止しているのは特別な存在であり続けたいアートと絵画の保守層の既得権益を守る人間だけです。そうそうアニメが本領を発揮すれば何よりも教科書がわかりやすく面白いものになるはずです。ポンコツの文科省がやらなくて普通の人がすでに作り始めている。アートと絵画の力を解放したい。世界中の老若男女全ての人と絵を描こうというのが本書の狙いです。

     私ごとですが、30年前、もともと何もできない自分の場合は絵の世界に足を踏み入れる以外に選択の余地はなかった。昔から美術を勧められる人は何か困っているような人が多かった。引き込みやすい、どこか困っている風の人を積極的に狙って勧誘している。恵まれず耐えしのいで生きている人は耐え難いことにまみれた状況が当たり前で、それがどれだけ続こうが慣れている。そしてそれに歯向かう術を知らない。美術の世界に入ってくる人はほとんどの人が口下手です。そして心に問題を抱えている人が多い。不幸から不幸への移り変わりはもとから不幸な私たちにはさして何も変わりはない。そういった不幸な人はだまり続けます。それを見ながらほくそえむ既得権益を持つ一握りの権力者は、今の状況が変わらないことこそが安泰が続く安全基地なので自分のご都合よろしく何も語りません。でも我々はやはりどこかで願っています。本当に報われるときが来るように願っています。絵の世界が本当に自由になるように。実際はこんな状況ですが、こんな状況とは裏腹に我々の置かれている立場は自由だといわれています。それは自由だと勧誘している既得権益を持つ者が自由な感じで勧誘のテクニックを仕掛けているだけのことです。実際は自由などどこにもない。全く違う。本来なら自由に絵を描いてそれで収入を得て、称賛されて、画家たちに参考にされて、若い画家たちはそれに習う。健全に機能している世界であればそれが連鎖し普通に常識になっているはずです。でもそんな絵の世界はどこにもない。絵の組織の中で偉くなるために大事なことはいかに自分を殺し続けるかです。私は大学院の入試で不毛な我慢を辞めました。当然あるだろうと自由が担保されシステムとして想定されている自由の連鎖、さもあるかのように世の中で語られているような自由が連鎖する仕組みは実は全くありません。このことは絵の世界の外からは全く見ることはできない現実です。

     このような絵の世界の現実を変えるには誰かが口火を切らなければならない。残念ながらこのままでは何も変わらない、なので私が口火を切ります。秘密を暴き、問題を解決するために大げさに言えば革命を起こそうと思います。変えることを恐れてはならない。恐れず革新的に活動しなければ何も変わりません。そしてこの状況を作り上げたカラクリを打ち崩せばきっと画家は変わります。少なくともペテン師の仕掛けた自由は消え失せる。画家が絵について「書く」こと。画家が書けるようになれば変わるのです。本書では画家がなぜ書けないのかお話します。その後に絵の書き方を書こうと思います。

     絵のことについて書いた後は活動することが大事です。絵を描かない画家を卒業することができれば私も絵を描こうと思います。騙される前のように胸を高鳴らせながら描ければいいのですが、色々と知った今はもう難しいと思います。画家が真の自由を手にするためには革命が必要です。実際行動にうつすとなれば恐れず活動できる人は世界中に何万人もいると思います。ただし純粋な我々画家の頭の中を支配しているのは前に出てはならないという考えです。ひたすら控えているだけ、画家はきまってそれが正しいと教育されています。もし静観することが正しいと言う論理が変われば皆動き始めると思います。それにはまず黙ってじっとしている必要がないことを説かなければならないでしょう。それが洗脳を解くことになると思います。洗脳を解いた後は、活動するべきことを具体的にあげなければなりません。そもそも画家は描くことが仕事です。本来なんのために描くのかといったことや、絵をどのように評価するか?とか、どうみせるか?といった理屈を画家にやたらとふるべきではありません。画家は内的必然性をたよりに描く画家がほとんどです。外的必然性はたいていの画家が苦手です。もともと静かに描くことだけに専念していてよいのであればそれにこしたことはない。右脳だけを使って描くことのみに専念させる世の中の仕組みを作ることが大切です。でも時代がそれを許してはくれなかった。スポーツ選手はどうですか?理屈がわからなくても良いプレイをすれば評価されるはずです。音楽はどうですか?理屈はわからなくとも評価されているはずです。画家はどうですか?私の知る限り理屈を抜きに評価されている人は一人もいない。画家が、今おかれている現実が、思うまま描くことを許してくれない。描くことを誰も許してはくれないわけで黙って描くことができないのです。これが画家のおかれるしられざる状況なのです。そもそも見たことのない絵を描かなければならないと徹底されればその時点で未来はないことはわかりきっているわけです。今の状況は予定調和されたように、絵を描き続ける世界とは違う世界の住人が理屈によって作り上げたものです。実際に今は絵を描き続けることは不可能です。音楽やスポーツの世界とは違い、絵の世界は見たことのない絵しか評価しないという手法で駆逐されています。画家を弾圧して頭一つ出ることができるのは画家のかわりに世にはびこる美術評論家です。他の研究分野で仕事ができなかった評論家が美術に流れ依代にする。能力の低い評論家が垂れ流される絵画の世界の程度は実に低い。絵が描くことよりも評論することに目が向けられる原因がここにあります。この状況は画家が「書く」ことができないために起きています。この状況を改善するために画家の誰かが書かなければならないのです。そして美術評論家の支配から解放されるために一人でも多くの画家が書くべきです。画家のみんなが書けるようになればその時は美術評論家の支配から解放されるでしょう。

     私は書こうと思います。皆が書けるようになるために。そして理屈ではなく感覚で「描ける」ように世界中の画家が永久に絵を描ける課題を出そうと思います。その課題を網羅すれば概念を考えずに描くことが担保されるはずです。そこに美術評論家が侵略行為を働けば書ける画家がそれを防衛します。音楽やスポーツの世界にあるように「描ける」仕組みが機能すれば画家は食べられるようになるはずです。課題は描けるようになるための課題を沢山つくりました。美術評論家のご高説にある社会的な必然性がなくとも課題があれば絵は描き続けることができるのです。その際の評価に評論家を挟む必要はありません。審査員すらいらなくなります。なぜならば世界中の全ての人が絵を見れるようになるからです。絵のルールは一部の人間が日本であれば文教族に支配され、美術評論家に支配され、画廊の顔色を伺いながら決まるものではなく、絵の外の世界の全員で決められるようにすればいいのです。そうすれば課題は永久に生き続けます。皆さんのためにたくさんの課題を考えました。描くための絵画の道になるように絵画の問題をあげました。絵画には確かな道があります。しかし絵画の描く道を示す人は世界中に誰もいないのです。スポーツや音楽のように絵も描くことができるのです。

     私が見る限り今の絵の世界は黙ってじっと大人しくしているように教育されています。じっとしていることが正義のように教育されているのでそうせざる得ない状況です。指を咥えて見ているだけでは我が身が細り朽ちていくばかり。じっとしていても何もはじまらないので何かしなければならない。絵画には問題が沢山あります。皆に解決して欲しいことがたくさんあります。これを切っ掛けにして画家が画家の力によって完全に立ち直るために絵画の課題を考えました。これまでは口をつぐむことが正義だった。しかし今は正直に全てを話さなければならない時だと思います。遠慮なく動いていい。遠慮なく動けるように論理を書きました。「絵画は終わった」という具合に絵画に対するネガティブキャンペーンは世界中で積極的に行われています。一方で絵画に対するポジティブキャンペーンを行うことは少ない。人目を気にせず絵画のポジティブキャンペーンを行おうと思います。絵画のネガティブな状況を変えるには多くの誤解を解かなければならない。そもそも絵画は終わるとか消えるという類のものではない。そのようなものに見えてしまうのも評論家によって仕掛けられた誤解の一つです。張り巡らされたネガティブな論理で雁字搦めになった絵画を解放するために、一つでも多く誤解を解き、ひとりでも多くの人に改めて絵に興味を持ってもらえるようにしようと思います。

     ここに今書いたような思いが本書の執筆の根底にあります。絵の世界を変えたいという思いが私の活動の原動力です。その原動力から出てくるエネルギーを向ける対象は美術予備校です。つまり壮大なイメージを持ちながら結局私は美術予備校の仕事をしています。そのため本書は善意も勿論ありますが、広い意味で営業利益を上げるために書き始めたものです。埼玉の小さな町から、芸大美大受験という小さなフィールドから、世界中の絵画を本気で動かそうと思っています。世界を動かせば小さな町で生きていけて細々儲かる。芸大美大受験産業は起死回生のアクションを起こさなければじきに消滅します。事実、年を追うごとに生徒を減らし続けている。クマビの予測では今の半分かそれ以上減少は続くと考えています。具体的な数字で言えば東京芸術大学美術学部の受験者数は現在3000人程度。これが1000人まで減少し下げ止まる。減少の続く理由は下げ止める手立てがないからです。ネガティブな方に向かう論理が定着しそれを穿ち対抗する論理は彼らの中にはもはやありません。それもそのはず、そもそも今の時点で10倍以上の倍率があり、それを存続させる論理の方が異常なことで、適切な倍率まで下がり続けることの方が明らかに健全だからです。クマビはそのような中で必ず成功する確信があってはじめた美術予備校です。次々と美術予備校が倒産する最中でこの状況を垣間見ながら予備校を立ち上げる人はいません。おこがましいですがクマビはその中で唯一勝算を持って立ち上げた予備校です。アクティブに活動しなければ、ただでさえ全般的に斜陽の美術と絵画の世界です。本来であれば埼玉の熊谷の小さな学校が存続することはできません。生き残るために受験生の減少の理由を考え、その問題の根本を理解し、根こそぎ解決するために、なんだかんだ長い間一心不乱に書き続けてきたのが本書です。このファイルだけでも話したいことが積もりに積もってすでに17万文字あります。章にして68章。それを少しずつ公開していきます。HPで最初の話を公開して何年か立ちました。現在執筆活動に入ったので2年余り更新されていませんが、それでもたまにですが長々書いている文章を「全部読んでいますよ」との声をいただけるようになりました。そして一連の執筆を読んで頂いている皆様のお陰でほそぼそですが日本全国から生徒が集まるようになり今日まだまだ運営できています。ありがたいことに本書を書いている令和3年は近隣の生徒と遠方からきて一人暮らしをしながら通う生徒と半々になるまでになっています。近隣の高校と中学に向けた営業努力を怠っていると言えばそれまでですが、クマビはポリシーとして他社様のように高校を訪問する高校周りの営業は致しません。そのような営業をかけずにクマビが遠くから生徒を集めながらほそぼそでも存続していることは少し自慢です。都内の大手予備校に行かずにクマビを選んでくれる。それだけでありがたいことです。それが続くように努力を続けなければなりません。そしてその輪が全国に広がるように。我が校は小さいながらも全国区。うちのような美術予備校は他にはないと自負しております。これは予言ですがクマビは全国1位の結果を出す予備校になります。今はその前夜。でもこれはクマビだけでなく他の予備校でも起こることです。小人数の予備校が大手を凌ぐ合格者数を出し始める。近い将来クマビは未来の美術予備校のモデルになると考えています。美術予備校で働く先生方は年々報酬が減少し、とても少ない報酬で働いています。美術予備校では以前は時給10,000円で働いていた先生もいましたが今では高くともその3分の1程度です。ほとんどの予備校はもっと低い。そのような中で時給10,000円貰え年収1000万円を超える収入を得る先生がいるのはクマビしかないでしょう。規模の大きい予備校で講師の報酬を上げることはこの時代の今の状況では不可能です。ですがクマビのビジネスモデルならそれが可能です。時期が来たら小規模予備校のビジネスモデルを公開したいと思います。その時から美術予備校は全国に展開し多くの美術大学を卒業したOBが個人で経営し生活してくことが可能になるはずです。本書はそう思い至った時に執筆を始めました。
  • 絵の課題の前に〜1真実をお伝えするため「天才育成計画」というものを考えました

     絵やデザインの世界はもともと閉鎖的です。もとはと言えば画家はギルドというメモ書き一つ残さないようにしていた職人からきている・・乱暴ですがそうともみれます。もとはと言えば、クラスでコミュ障で一人で絵を描くことが好きだからこの世界に入ってきたと正直に告白すれば多くの人がそうだと言えます。もとはと言えば、先生は教えてくれません。なので、技法やタッチやスタイルは自分で出来るようにしたり、編み出したりして、自分で新しい発明をしてきたのですからやすやすと暴かれてはならないといった感じをみんな抱いています。そんなこんなで絵とデザインの世界の人間は全般的にペラペラと喋るようなタイプの人間ではありません。20年ほど前からコミュニケーションが大切だと言う声が聞こえ、常識として定着してきて、格好つけてみんなコミュニケートできているようなことを言いますが、いやいやどうして全く交流できていないので隣の話になると全く何のことやら理解していないのが実情です。そもそもそれほどオープンならこれほどわからないことだらけで色んなことに困らないわけで、絵やデザインと言えば本質的に昔から何も変わっておらず閉鎖的な体質は今も全く同じです。例えば隣の科のことになれば何にもわからないのが実情です。全くコミュニケートできていません。どこそこ大学様いかがですか?

     絵の世界は秘密にされていることが多くあります。そのせいで絵は自分の身を隠してしまっているせいで、絵そのもののポテンシャルはほとんど発揮されていないと筆者は思います。この問題を解けばもっともっと絵に人が集まるはずです。絵の世界は人に不可解な印象を与えることが多いと思います。その不可解を解消し皆さんに少しでも多くの真実をお伝えするため筆者はこれまで「天才育成計画」(=天育)と称してHPで知られざる絵のことを書きました。

     筆者は絵の世界で今の有様が続けば絵の天才は生まれてこれないと考えています。逆に天才にとってはチャンスかもしれないとも考えていますが・・。少なくとも日本では・・生まれてはこれません。天育は筆者が絵画の天才が育ちようのない今の世界中のアートの状況を憂いて改善するために書いています。天育は本編に入る前の導入に何章も費やしました。なぜなら天育の内容が本題の技法書の章に入る際に技法書の必要性をしっかりと説く導入が必要だと考えたからです。誰でも絵が描けるようになるための技法があります。でもそれを導入する前に立ちはだかる壁は「才能神話」でした。技法の話の前に絵は才能がなければ描けないという誤解を説かなければならなかったのです。
  • 絵の課題の前に〜2「才能神話」

     絵画や絵画のみならずデザインなどの絵に関係する世界には多くの才能神話があります。才能神話によって才能がなければ絵が描けないと考えてしまい多くの学生が絵の道を諦めてしまいます。才能神話を作ったのは絵画の世界とメディアです。今の日本において大きな損失はアニメと漫画に興味のある子供達が才能神話によって目指すまで思い至れずに諦めてしまうことです。絵は誰でも描けるようになります。

     自分たちのために自分たちの巻いた種によって功罪は巡り巡って、現在、人離れという形で降り掛かってきています。本来誰でも描けるほど簡単にできている絵画技法を絵が売れ入場料を取って鑑賞させるために特別なものに仕立て上げた。誰でも簡単に描ける絵画技法が表に出る機会は奪われ、出しても信じてもらえない状況が作られました。重ね重ね言いますが絵は誰でも描くことができます。

     世界はAIの時代に入りスマホのアプリで誰でも映像を作る技術を手にしています。今足りないのは絵を描く能力です。本来なら誰でも描ける絵の描き方を知られていない。そのため誰にでもアニメや漫画を作れるのにその機会に恵まれず絵が世の中で役立つ機会は完全に失われています。

     世界中の人が絵を描けるようになった時に才能神話は崩壊します。そして特別な才能と称して売買されていた作品は全て売れなくなります。しかしその代わりに偽りは解けて世界中の皆の手でアニメや漫画が描かれるようになり、わずかながら油絵が描かれるようになるのだと思います。

     才能神話が生んでいる誤解を解くために執筆を思い至ったのも本書を描く動機の1つです。天育は最初HPで公開していましたが、本書から書籍の出版へ移行することにしました。執筆開始は平成の終わり頃でした。平成から令和に入り、コロナになりました。AIにより様相が変化する世界の時代の流れとともに絵の世界も前人未到の局面に入ろうとしていると思います。ひょっとしたらこのトリガーが引かれた時に後世に語り継がれる本当の天才が生み出されるのかもしれません。
  • 絵の課題の前に〜3「第2次産業革命の中で画家は洗脳された」

     時代は今、AIによる第3次産業革命に入ろうとしています。第2次産業革命のもとで絵画は絵の具の量産を可能にし、大きな飛躍を遂げました。腸詰めやガラスの容器を使った絵の具の保存方法から絵の具のチューブに変わったことで屋外で制作可能になり、それを切欠に印象派が生まれました。絵の具を自分で製造できなくとも絵が描けるようになったことは絵画にとって革新的な変化です。しかしその時に捨てられたのは絵を描く技術そのものです。それ以前は絵の具の製造方法とともに絵の描き方が伝搬されました。絵の具の製造はすなわち絵を描くことそのものだったのです。例えば何万年も前、壁に捕らえて食した動物の血液で絵を描いたように、絵を描く都合を踏まえて製造方法を改良し続けた製造のノウハウは制作のノウハウそのものと言えるものでした。絵の具のチューブの開発と工業化による量産は絵の具をみんなのもとに届けることを可能にしたものの、描き方までは届けてはくれませんでした。その状況に蓋をするように上書きされたのは自由にのびのび描けばよいという考え方です。この考え方は場合によって正しく、場合によって誤りです。自由に描きたい人にとってはいい。しかし私の知る限り大半の人が絵の描き方を知りたい、でも実際には誰も知る機会がなく本来教育を受けなければ身につかない技術まで誰にも教わらずに身につく能力とされてしまったことで不可解な才能神話が生まれました。おかげで絵描きも鑑賞者などの周りの人たちもみんな首をかしげることとなります。結局現代でも絵の描き方を正しく知る人は相変わらず少ない。絵の具があっても思うように絵が描けない。描きたくても描けないというジレンマは病的な様相を作り上げていると私は考えています。軽い、いや軽くはないか・・重い詐欺だと私は思います。道具を与えてやり方を教えないとは詐欺以外の何物でもないと思います。筆者の親の世代は第2次産業革命の世代ですが、うちの親を見る限り、我が家では電源を入れるだけで動かせないパソコン。誰も弾かないピアノのように高価なオブジェを買うだけで満足する人は多かったように思います。使い方がわからないけれども購入するだけで満足、そういう感覚があったと思います。ピアジェや発達心理学などのことも語られますがそういう問題ではないと考えています。絵の描き方を教えなければ五感を働かせることは確かです。ただそこでは使わなくても良い感覚を働かせていることも認めておかなければなりません。幼児でなくてもやり方のわからない道具を与えられれば五感をフル動員してなんとか使えるようにしようと試みます。でもそれは困惑の最中にいる精神的にはとても不安定な状態になることも認めておかなければなりません。情緒が不安定であればのびのび描くとは程遠いことをさせていることも偽りなく認める必要があります。事実やり方を教えずに絵を描かせて困惑しない人はいません。車の運転はまず車の操作を教えなければ車は動きません。教えなければ五感を総動員するでしょう。そして無理に動かしても動かず失意のどん底に落ちるか、万が一動いてしまったらおそらくその人が運よくブレーキのかけ方に気づかなければ人は死ぬでしょう。絵の世界はこれと同じことをしています。動かせても運転の技術と道路交通法を教えなければ公道を走れないように、描けても無意味なものです。車と同じように絵の造形技術は技術を教えなければらくがきはかけても高度なものは身につきません。それにアートの世界での絵画のルールを教えなければ事故なく発表することはできません。単純に絵の描き方を教えていないということは問題なのです。

     私がこれまで30年間生きている間に肌で感じてきた絵画は日の目を浴びることはありませんでした。工業化の時代の流れを背景に持つこれまでの絵画は手わざであるがために世の中から大きな注目を浴びることはなかったと思います。手わざよりも工業。工業化の風潮の中で絵画をどのように見て考えるべきかがただ闇雲に絵を描くより誰もが先決だと思っていました。芸術のための芸術というマニエリスムの時代に入り、絵画は存続しつつも、少しずつ着実に、工業に力を吸い取られたように思います。工業の影響で絵画の手わざの力は弱まっていったと思います。

     本書の狙いの1つは「人は描く」ということが本質であることを説明することです。工業化の猛威が衰えてきたこの機会に絵画の復興を試みたいと思っています。

     私がこれまで見てきた絵画は工業化の時代の流れの中にありました。私がそれを感じたのは高校の美術部に入部してすぐでした。入部してすぐ油絵を描く時代ではないと話されました。油絵を描く時代でないことは30年経った今でも変わりません。それでも私は油絵の世界に入った。私が幼い頃はテレビがまだ白黒でした。白黒のテレビが見られなくなったように油絵を描く時代は過ぎ去りました。工業化が進みどんどん生活が変わる。絵の時代ではないなんてことは少なくとも大人であれば誰もが認識していたことです。当然私もそうでした。私自身はもとはといえばそもそも油絵に興味があったわけではなく、興味があったのはテレビで鶴の線画を動かして飛び立つ様子を描いた当時まだ目新しいCGでした。何もない田舎に育った私にとってCGも油絵もどちらも自分には遠い存在でした。田舎者の私にとって遠い存在のものは全て憧れの対象となりえるものでした。

     時代は農業や漁業、林業、手工業から工業へ。アナログから機械へ。私が高校生の時はデジタルへ突入するその前夜でした。我が家にはパソコンがありました。高校の入学金も払えなかった父は私が中学生の時にパソコンを買ったのでした。ビデオがまだ一家に一台なかった当時、パソコンは高価で家にある家庭は稀でした。貧乏な我が家でも新しい物好きの父が思いつきでパソコンを買った。そんなような我が家の家風もあって何がどうなることかさっぱりわからない油絵の道に高校生の私は飛び込みました。その感じは50歳を目前にした今でも変わっていないように思います。まあ思えば極貧だからなんでもかんでも買えないので思い切って買えるものを買える時に1つだけ買う。そして何にもないから守るものがなく保守的になる感覚など持ち合わせておらず別になんのためらいもなく絵の世界に平気で飛び込めたのだと思います。

     アートのもとの意味は技術です。世の中での視覚表現としての技術のお株を絵はご承知の通りカメラに取って代わられています。世の中の興味関心はアナログで物を作ることから離れ、次第に人々からものづくりの技芸への関心は薄れる。そのような意識は今に続きます。絵の世界は技術ではなく感性や発想や考える力で新たな道を切り開こうとしていたと思います。世の中に響かなくともよいというのは建前で必死に足掻いてきた。どのような道にも正しい面があるのは確かですが、私は先人たちの切り開こうとした道とは別の所に絵が通れる道があるように思います。

     絵にはけしてなくならない形があります。時代がどうなろうと絵が失わない形があります。それは絵を描くことそのものです。絵を描くということ自体に輪郭があります。その輪郭が写し出している形は未来永劫なくなることはありません。絵を描くということ自体は、どれほど工業が発展しようと、AIが進化しようと、人間の本質として最初から淘汰されようのないものがあります。その形が多分我々が気づかなければならない絵です。

     そのような油絵の世界を理解しながらも私の周りでは多くの学生が油絵を描いて将来の進むべき道を模索していました。それからそれぞれの歩む道に進みました。

     私が生まれた時はすでに絵の世界の力は衰え目にするものはアニメと漫画でした。あいかわらずアニメや漫画の世界は人気があります。しかしアニメや漫画はアカデミックな世界には今でも受け入れられていません。今の美術史家の書く本の年表に刻まれるのは油絵や日本画や現代美術の中に見られる絵画です。敷居が高いところから低俗といわんばかりに見下し、必要のない敷居を設置してそこに登るシステムを作りせかせか登ってからアニメと漫画の世界を見下ろすようにしてアカデミシャンというか評論家はアニメや漫画と絵画は絵画とひとくくりにはしてはならない別の絵として扱います。本来は絵はアニメであれ、漫画であれ、油絵であれ、日本画であれ何でも絵です。でも私のいる絵画の世界ではそれぞれ自分たちの扱っているものが「絵」で「絵になっている」と称して、自分の絵と違うものを「絵ではない」とか「絵になってない」といった表現で遠ざけます。その選ぶ行為が優性遺伝的なとか選民思想的な錯覚を生み、半ば間違いと気付きながらも徒党を組み同調することで得られる権威を傘に言葉遊びをして愚かでおぞましい悦に浸りそのゾーンに浸っていながらアニメや漫画を気にするようにしています。他の世界には機能しない自慰が人気のない絵画の世界にいる「自分」という自らを一度井の中の蛙のように心の深い所まで落とし込み、深い深層で都合の良い論理はないかまさぐり、まさぐりながら自慰をして、悦に浸ることがいろんな社会的不安を取り払ってくれて、これでいいんだという気にさせてくれる。やがてそれは錯覚の自己肯定感を生み、その錯覚を抱きなから仲間と絡みみんなでゾーンに何度も入り、楽しいので一人でいる時も妄想してループする機会を沢山作り、知らないうちに洗脳され、自分たちの根拠のない自信である「絵になっている」という錯覚に没入しています。このような集団催眠は絵画の随所で行われていることです。冷静に見ればサッカー選手が野球はスポーツではないと言っているのと同じです。実にくだらない。

     油絵の世界では今、油絵の姿が薄れ、だんだん薄れ、薄れに薄れて、油絵そのものをやる気配がなくなっているように思います。それは問題で、どんなに生活が便利になろうとも、アニメが面白かろうと、それは油絵には直接関係のない話で、油絵というもの自体で切磋琢磨し、研鑽をつみ、人に感動を与え、プロとして評価される。油絵そのものの姿はいつも我々の世界のどこかにかっことした形としてあるべきです。さりとてこれは油絵だけを「絵になっている」と錯覚することとは違います。油絵の輪郭をはっきりさせるために洗脳から目を冷まし見極めるべきです。敷居の高いところから周りを見下ろすように油絵の世界を見ようとしていてはいつまでたっても油絵の輪郭は見えてきません。油絵の世界が外の世界の人に理解されないのはそのためです。輪郭をぼかすことで成り立っている世界、この輪郭をはっきりとさせることが油絵の本当の力を発揮させる唯一の方法です。

     スポーツや音楽の世界にはプロがいます。油絵の世界ではプロと言えるプロはいません。プロはいますが、少なくとも私の周りはそのプロを嫌煙しています。実は絵は売ろうと思えば簡単に売れます。コレクターが望むものを描くことは簡単ですし、コレクターはある程度、動産として作品を割り切って購入しているので動産として売りつけてしまえば買います。そこで描かれる絵に参考にする物の見方や考え方や感性や技法はあまりありません。その証拠にそれを大学で授業しようとしてもあまりに簡単で、それでは授業が成り立たないのでどこの大学もやりません。画廊やそこで描いている画家はそれでも自分たちを肯定しますが、それならば民間で授業をすると良いと思います。簡単にできてしまうことなので受講している生徒たちはなんなくそれができてしまう。それも油絵の輪郭を鮮明にすることに役立つでしょう。民間に誰でも簡単にできることが伝わる日が早くなる。授業をすれば真価がしっかりと浮き彫りになるはずです。

     私は油絵の指導をはじめて20年が立ちましたが私は具体的に生徒に油絵のプロとはこのようなもので、このように目指しなさいと指導することができません。本当に勧められるようなプロの形がないのです。スポーツや音楽の世界のように油絵で年間数億円を稼ぐような画家が日本にはいません。この状況は世界中で同じでこれを変えなければならないのです。
  • 絵の課題の前に〜4「人類の描くことのはじまりをみれば今の絵画の問題が見えます」

     私は画家なのでふと人が絵を描くということについて考える時があります。何度考えてみても、絵を描くということは本当に不思議で謎だらけです。

     これまでたくさん考えてきて、それでもなお「なぜ人間に絵が描けるのか?」わからない。アートの世界の中では絵を描くことを否定している人が多く、特に私の周りでは大半です。ですが、絵を描くことをどれだけ否定してみてもイラストを描くことが好きな人は一向に描くことを辞めないし、描くことを否定している人の多くは子どもたちに自由に描かせることを勧めているし、きまってその子達が本格的に絵を描く道に進む気になったと同時に絵を描くことを否定するのです。

     しかし、イラストを描く人がいなくなることはありません。子供や大人でさえもらくがきすることはなくなりません。絵の世界は絵を描くことが好きな人によって支えられています。そして絵を描くことが好きな人達によって絵を描くということは未来永劫なくなることはありません。それが美術評論家が辟易し最も毛嫌いする絵を描くことがなくならない本質的な理由です。美術評論家の人に頭の悪い筆者の私がいいことをひとつ教えてしんぜようと思います。「あなた方が絵を描くことをいくらやめさせようとしても絵を描く人がいなくなることは、永久に、ない。」

     絵は理屈ではなく、自然に描いてしまうものなのです。これを無くそうとしても不可能というもの。絵を否定する思惑は感覚的に描く世界を論理的に支配し思い通りに操作したい人たちの都合で生まれたものです。この論理は絵を描くことの未来のために生まれているものではありません。美術評論家がどれだけ絵を描くことを否定してみても、人に絵を描かせないようにすることは無理だと断言できます。そしてお粗末で無能極まりない評論。美術評論家の中に絵を描くことを肯定し時代を揺るがすような力のある人はかわいそうですがいません。人が自然に描く落書きで食べていけないのはなぜか?好きな絵やイラストで食べていく道筋がぼんやりしていて見えてこないのはなぜか?それはスポーツや音楽のようにそれぞれの絵やイラストを愛好する者たちが集まりを作って完全な市場を作り上げていないからです。今あるマーケットはゲリラ的な様相です。そうではなく誰もが信じて疑わない規模の市場にまで成長しなければなりません。そのためには自然に絵を描くことを美術評論家や流行のために作品を作るモードやコードで制作する輩を跳ね除けて押し通していかなければならないのです。

     人が絵を描くことは自然の摂理です。人が絵を描いてしまうことは手を動かしてしまうことそのもの、体を動かすことや動かす際にイメージすることそのものが絵です。絵は体を使う軌道そのもののイメージを痕跡として残すようなもので、そもそも手と脳をもつ人にははじめから組み込まれていることです。脳で手を動かすことそのものが絵。美術評論家が絵を描いている人間をみてどれだけ辟易しても無限増殖的に後からあとから絵を描く人は現れます。それは人が動くことそのものが「絵」だからです。今の問題は時代がそれをただ受け入れれば済むことです。今は第2次産業革命から第3次産業革命へと時代が移り変わろうとしています。工業ではない手仕事の絵は第2次産業革命では時代から積極的な要請を受けませんでした。世界中が手で物を作ることに消極的になった。それが体を動かすことが絵そのものであっても人が絵から離れた原因だと思います。一方でこれから訪れる第3次産業革命では個人にスポットの当たる時代です。自分自身をカメラで映し、その場で放送できる。身体からできる絵は描いている姿を動画に撮影しながら撮影した映像と合わせて絵を発表するといいでしょう。そうした方が体を動かすイメージが絵そのものであることが伝わりやすい。小さなお子さんとか絵を描いている様子を撮影して絵と動画を両方残して欲しいです。年配の方も子供やお孫さんたちに絵とその動画を残すといいと思います。映像は虚像ですから絵は実物そのものなので映像の良さもありますが映像には持ち得ない現実に目の前にある物質とまぎれもなくその方が体を使って描いた痕跡がそこには延々と残り続けます。美術評論家が辟易する絵ですが私は美術評論家の方にも片意地を張らずに絵を描いて欲しいと思います。個人が自由に発信できる時代では個人の価値や考えや感性が本当の意味で尊重されるようになります。社会が個人を見るシステムを手にした時に絵が活きる時代に入るように思います。その時代ではきっと今以上に個人の意見が政治にも反映されるようになっているはずです。現代は残念ながら個人の意見や思いはねじ伏せられている世界です。そんな個人に蓋をして当たり前の世界では絵も流行らないわけです。

     絵を描くことをアートの最前をいく評論家が毛嫌いしても、否定しても、権力闘争に打ち勝ち、周りの画家の生命線をことごとく絶っても、人類から絵を描く人間がいなくなることはありません。駆逐し、滅ぼしたはずの画家がしょうこりもなく目の前に現れると美術評論家は絵を描くことを辞めない人を見てゾンビのように感じ、悍ましいものを見るかのような毛嫌いの仕方をします。美術評論家は絵を描きません。文字を愛し文字を書きます。絵を憎み、絵を描くことを否定します。でもどれだけ美術評論家が絵を描くことを否定しても、どうしても描いてしまうものは仕方がないのです。絵を描いてしまうことは美術評論家がいうようにリベラルアートを理解しておらず教養がないということではなく、自然なことなのです。美術評論家が思い描いている正義は今より100年も前の奴隷のように奴隷に絵を強制的に描かせていた時代に通用した話。時代錯誤な感を誰もが感じながらもこの惰性を止められず、既得権益を守るために止めないでいます。一言で言えば「大人気ない。」これまでの時代では多くの画家が美術評論家の指示に従順に従いました。それでも評論家に全ての画家が付き従うかと言われればそんなことはありません。出世を捨て一線から身を置くことを選択する画家もいるのです。というか、私の目から見て、ほとんどの人がこのような絵の世界からは距離を置いていると思います。実際の所、黙って距離を取る人の中に優秀な人は多い。

     今日も美術評論家は「アーティストは嘘をつく。」と美術評論家の卵に指導しています。そもそも嘘もなにも絵を描く人はなぜ描くのかわからないのです。体を動かすこと自体が絵なのですから動いている人に例えば「なぜ息をしているんだ貴様は説明しろ」と攻めても困るのです。それを説明しろと言われてもできないだけ。そこに当てはまる言葉がはじめからないのです。言葉から始まって言葉に終わることで喜ぶのは美術評論家。絵描きは絵を描くことから始まっているものです。そもそもロジックなことから始めているわけではありません。活字とは別の営みで動いている。それを世の中にない言語で表現しろと言われても無理というもの。評論の世界は活字の世界です。そこは活字の中だけの、絵の世界とは全く別の場所の世界です。脳の中にある活字がイメージとして構築した世界は絵の世界ではありません。活字になることがらの中の世界です。活字にならない世界はそこには全く重なりません。評論家が絵の世界だと思いこんでいるそれは多分哲学や何かの世界を絵の世界に当てはめて作り上げられた絵の実体験を通じて見える世界とは別の想像の虚構の世界です。そのため絵が好きでイラストを描いたり、心から楽しんで落描きを描いている人の感覚を共有し、考えを正しく書ける評論家は一人もいません。彼らが書いているのはあくまで、評論の世界で書かれた絵の話なのです。

     美術評論家並びに絵の世界の権力者の致命的な誤りは絵をスポーツや音楽のようにプロとして描く道筋を壊してしまった点です。歌ったり、踊ったり、走ったりすることと同じように「描く」ということには価値があります。絵の価値を社会的に認める機能を世界は持つべきです。走る人になぜ走るのか?答えを求める必要はありません。歌う人になぜ歌うのか理由を求めることもナンセンスです。少なくとも絵を描かせることを辞めるように、走るのを辞めさせるために、歌うことを辞めさせるために理由を聞くことはナンセンスです。でも絵の世界にはなぜ描くのか?という愚問を投げかけるのが常識となっています。これらの仕組みを作り上げたのはもとはといえば自由を求めた人たちです。年月が本末転倒な状況を作り上げてしまった。もとの鞘に収めることができないのは今の形で力を得ている権力者が権力を守って硬く蓋をしてしまっているからです。私が絵と向かい合ってきた30年。この間にじっと我慢していましたが、いっこうに前向きなことを何一つ言わないおろかな美術評論家。私はこのままでは自分の人生が終わってしまうので、このおろかな過ちを打ち崩してみようと思います。
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