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絵を書く

これから解決するべき絵画の課題


小平 崇史


  • はじめに

     「絵を書く」は書籍を出版するために書き続けた原稿をHPにあげたものです。本書の出版は営利目的ではないのでこのままHPにもあげようと思います。また私自身日本語能力がとても拙いので書籍にしたところで誰も買わない、読まないので損得勘定も成り立たないとの考えもあります。でも拙いからこそ反応する人もいるとも考えてHPで公開することにしました。拙いとは私も含め画家はもともと文章は苦手です。美術評論家の書いていることも正直よくわからないことだらけでほとんどが頭に入らないのが実のところです。でもそのような状況の中、現代の絵画の世界を支配しているのは美術評論家の書いた概念です。つまり拙い画家の概念は置いてけぼりになっている。つまり拙いもの同士の世界で成立する物事が今の絵画の世界には反映されていません。その損失を考えてみたときに画家が書くことを思ったのです。

     本書の執筆は筆者が運営している美術予備校熊谷美術研究所のHPからはじまりました。HPでは絵画の学校では知り得ないことや本でも書かれないことを書き連ねていきました。

     もとはと言えば本書を書きはじめたのは一人でも生徒を増やすためです。保守的に、これまでの慣習に合わせて、先人たちの言う通りにしていても絵画はなんの発展もないと考えました。上の人間のいうことを荒立てないために黙って聞いて、組織のために献身的に務めたとしても平和に生きていけるのであれば何の問題もありませんでした。でもそれで食べていけるのは本当にその組織で一人くらい。そのような状況が長年続き、見続けてきたのは先細る状況だけで、このままでは流される河の中でかろうじて足を踏ん張っている状態で、自分の画家としての存続が本当に危ぶまれる状況なので、根本的な所から変えるために行動にうつすことにしました。絵の世界は長年辛抱強く我慢していると思います。なるほど私も耐え難きを耐え忍び難きを忍んでいます。この世界はそのような状況でも受け入れられるような人が勧誘されて存続しています。高校の美術部では怒鳴り散らされながら自由に描くことを強制されました。予備校に通い始めた時は自由に描いていても何もならないという知識を得ました。大学では絵を描いているだけで否定の的となり、大学教授には絵画科で絵画を志望する生徒を集めて運営しておきながら、絵を描くことを肯定できる者はひとりもいませんでした。そしてアート全体は作者の考えではなく、評論家の考えに支配されています。今の大学は大学で絵を描くことを勧める者はいても、未だに教員の誰一人として絵を描き続けて収入を得られるように指導できる者はいません。あるのはほんのわずかな地方の大学教授のポストのみ。他には本当になんの役にも立たないのです。未だに自由だと言われながら本当は自由などどこにもない。それが真実です。自由を声高々に歌いながら自由などどこにもない世界。そして自由という言葉によって支配できる人を支配して利用することでギリギリの状態で成り立っている世界。画家の置かれている状況は何一つ変わらない。真実を何も知らされない状態でひたすら耐え忍ぶ、この世界の人間の忍耐強さはいつみてもやはりさすがです。本書は自分もさることながら、耐え忍ぶ描き手を救うために書いています。それは前にも述べたように私の運営する学校の生徒集めのためでもありますし、教え子たちが食べていけるようにするためでもあります。

     後に詳述しますが、画家はもともと「自由のない職人であるギルド」から、工業の発展による時代の変化と、豊かになる世界に合わせて同調させるように教養を養わせようとするリベラルアートの考えをもとに自由を目指すようになりました。そのような自由を叫ばれる中で我々は「画家は自由」だと言われてこの世界に入ってきた。実際にそこに自由があるかと言われれば自由などどこにもなかった。自由を叫んだ時代のもっとも致命的な過ちはそれ以前にすでに、誰にでも簡単に絵が描ける方法が完成しているにも関わらず、世界に向けてその方法の導入を怠った点にあります。誰でも絵が描ける方法が導入されていれば、今頃は誰でも学校でそれを習い、アニメを作っていたでしょう。誰でもアニメで物事を表現できるようになればあらゆる情報は格段にわかりやすいものになります。アニメーションの表現力を駆使すればアートや絵画が説明に苦心してきた内面の描写も今のアニメの力を持ってすればスムーズに世界中の老若男女全ての人に説明できてしまうはずです。それを阻止しているのは特別な存在であり続けたいアートと絵画の保守層の既得権益を守る人間だけです。そうそうアニメが本領を発揮すれば何よりも教科書がわかりやすく面白いものになるはずです。ポンコツの文科省がやらなくて普通の人がすでに作り始めている。アートと絵画の力を解放したい。世界中の老若男女全ての人と絵を描こうというのが本書の狙いです。

     私ごとですが、30年前、もともと何もできない自分の場合は絵の世界に足を踏み入れる以外に選択の余地はなかった。昔から美術を勧められる人は何か困っているような人が多かった。引き込みやすい、どこか困っている風の人を積極的に狙って勧誘している。恵まれず耐えしのいで生きている人は耐え難いことにまみれた状況が当たり前で、それがどれだけ続こうが慣れている。そしてそれに歯向かう術を知らない。美術の世界に入ってくる人はほとんどの人が口下手です。そして心に問題を抱えている人が多い。不幸から不幸への移り変わりはもとから不幸な私たちにはさして何も変わりはない。そういった不幸な人はだまり続けます。それを見ながらほくそえむ既得権益を持つ一握りの権力者は、今の状況が変わらないことこそが安泰が続く安全基地なので自分のご都合よろしく何も語りません。でも我々はやはりどこかで願っています。本当に報われるときが来るように願っています。絵の世界が本当に自由になるように。実際はこんな状況ですが、こんな状況とは裏腹に我々の置かれている立場は自由だといわれています。それは自由だと勧誘している既得権益を持つ者が自由な感じで勧誘のテクニックを仕掛けているだけのことです。実際は自由などどこにもない。全く違う。本来なら自由に絵を描いてそれで収入を得て、称賛されて、画家たちに参考にされて、若い画家たちはそれに習う。健全に機能している世界であればそれが連鎖し普通に常識になっているはずです。でもそんな絵の世界はどこにもない。絵の組織の中で偉くなるために大事なことはいかに自分を殺し続けるかです。私は大学院の入試で不毛な我慢を辞めました。当然あるだろうと自由が担保されシステムとして想定されている自由の連鎖、さもあるかのように世の中で語られているような自由が連鎖する仕組みは実は全くありません。このことは絵の世界の外からは全く見ることはできない現実です。

     このような絵の世界の現実を変えるには誰かが口火を切らなければならない。残念ながらこのままでは何も変わらない、なので私が口火を切ります。秘密を暴き、問題を解決するために大げさに言えば革命を起こそうと思います。変えることを恐れてはならない。恐れず革新的に活動しなければ何も変わりません。そしてこの状況を作り上げたカラクリを打ち崩せばきっと画家は変わります。少なくともペテン師の仕掛けた自由は消え失せる。画家が絵について「書く」こと。画家が書けるようになれば変わるのです。本書では画家がなぜ書けないのかお話します。その後に絵の書き方を書こうと思います。

     絵のことについて書いた後は活動することが大事です。絵を描かない画家を卒業することができれば私も絵を描こうと思います。騙される前のように胸を高鳴らせながら描ければいいのですが、色々と知った今はもう難しいと思います。画家が真の自由を手にするためには革命が必要です。実際行動にうつすとなれば恐れず活動できる人は世界中に何万人もいると思います。ただし純粋な我々画家の頭の中を支配しているのは前に出てはならないという考えです。ひたすら控えているだけ、画家はきまってそれが正しいと教育されています。もし静観することが正しいと言う論理が変われば皆動き始めると思います。それにはまず黙ってじっとしている必要がないことを説かなければならないでしょう。それが洗脳を解くことになると思います。洗脳を解いた後は、活動するべきことを具体的にあげなければなりません。そもそも画家は描くことが仕事です。本来なんのために描くのかといったことや、絵をどのように評価するか?とか、どうみせるか?といった理屈を画家にやたらとふるべきではありません。画家は内的必然性をたよりに描く画家がほとんどです。外的必然性はたいていの画家が苦手です。もともと静かに描くことだけに専念していてよいのであればそれにこしたことはない。右脳だけを使って描くことのみに専念させる世の中の仕組みを作ることが大切です。でも時代がそれを許してはくれなかった。スポーツ選手はどうですか?理屈がわからなくても良いプレイをすれば評価されるはずです。音楽はどうですか?理屈はわからなくとも評価されているはずです。画家はどうですか?私の知る限り理屈を抜きに評価されている人は一人もいない。画家が、今おかれている現実が、思うまま描くことを許してくれない。描くことを誰も許してはくれないわけで黙って描くことができないのです。これが画家のおかれるしられざる状況なのです。そもそも見たことのない絵を描かなければならないと徹底されればその時点で未来はないことはわかりきっているわけです。今の状況は予定調和されたように、絵を描き続ける世界とは違う世界の住人が理屈によって作り上げたものです。実際に今は絵を描き続けることは不可能です。音楽やスポーツの世界とは違い、絵の世界は見たことのない絵しか評価しないという手法で駆逐されています。画家を弾圧して頭一つ出ることができるのは画家のかわりに世にはびこる美術評論家です。他の研究分野で仕事ができなかった評論家が美術に流れ依代にする。能力の低い評論家が垂れ流される絵画の世界の程度は実に低い。絵が描くことよりも評論することに目が向けられる原因がここにあります。この状況は画家が「書く」ことができないために起きています。この状況を改善するために画家の誰かが書かなければならないのです。そして美術評論家の支配から解放されるために一人でも多くの画家が書くべきです。画家のみんなが書けるようになればその時は美術評論家の支配から解放されるでしょう。

     私は書こうと思います。皆が書けるようになるために。そして理屈ではなく感覚で「描ける」ように世界中の画家が永久に絵を描ける課題を出そうと思います。その課題を網羅すれば概念を考えずに描くことが担保されるはずです。そこに美術評論家が侵略行為を働けば書ける画家がそれを防衛します。音楽やスポーツの世界にあるように「描ける」仕組みが機能すれば画家は食べられるようになるはずです。課題は描けるようになるための課題を沢山つくりました。美術評論家のご高説にある社会的な必然性がなくとも課題があれば絵は描き続けることができるのです。その際の評価に評論家を挟む必要はありません。審査員すらいらなくなります。なぜならば世界中の全ての人が絵を見れるようになるからです。絵のルールは一部の人間が日本であれば文教族に支配され、美術評論家に支配され、画廊の顔色を伺いながら決まるものではなく、絵の外の世界の全員で決められるようにすればいいのです。そうすれば課題は永久に生き続けます。皆さんのためにたくさんの課題を考えました。描くための絵画の道になるように絵画の問題をあげました。絵画には確かな道があります。しかし絵画の描く道を示す人は世界中に誰もいないのです。スポーツや音楽のように絵も描くことができるのです。

     私が見る限り今の絵の世界は黙ってじっと大人しくしているように教育されています。じっとしていることが正義のように教育されているのでそうせざる得ない状況です。指を咥えて見ているだけでは我が身が細り朽ちていくばかり。じっとしていても何もはじまらないので何かしなければならない。絵画には問題が沢山あります。皆に解決して欲しいことがたくさんあります。これを切っ掛けにして画家が画家の力によって完全に立ち直るために絵画の課題を考えました。これまでは口をつぐむことが正義だった。しかし今は正直に全てを話さなければならない時だと思います。遠慮なく動いていい。遠慮なく動けるように論理を書きました。「絵画は終わった」という具合に絵画に対するネガティブキャンペーンは世界中で積極的に行われています。一方で絵画に対するポジティブキャンペーンを行うことは少ない。人目を気にせず絵画のポジティブキャンペーンを行おうと思います。絵画のネガティブな状況を変えるには多くの誤解を解かなければならない。そもそも絵画は終わるとか消えるという類のものではない。そのようなものに見えてしまうのも評論家によって仕掛けられた誤解の一つです。張り巡らされたネガティブな論理で雁字搦めになった絵画を解放するために、一つでも多く誤解を解き、ひとりでも多くの人に改めて絵に興味を持ってもらえるようにしようと思います。

     ここに今書いたような思いが本書の執筆の根底にあります。絵の世界を変えたいという思いが私の活動の原動力です。その原動力から出てくるエネルギーを向ける対象は美術予備校です。つまり壮大なイメージを持ちながら結局私は美術予備校の仕事をしています。そのため本書は善意も勿論ありますが、広い意味で営業利益を上げるために書き始めたものです。埼玉の小さな町から、芸大美大受験という小さなフィールドから、世界中の絵画を本気で動かそうと思っています。世界を動かせば小さな町で生きていけて細々儲かる。芸大美大受験産業は起死回生のアクションを起こさなければじきに消滅します。事実、年を追うごとに生徒を減らし続けている。クマビの予測では今の半分かそれ以上減少は続くと考えています。具体的な数字で言えば東京芸術大学美術学部の受験者数は現在3000人程度。これが1000人まで減少し下げ止まる。減少の続く理由は下げ止める手立てがないからです。ネガティブな方に向かう論理が定着しそれを穿ち対抗する論理は彼らの中にはもはやありません。それもそのはず、そもそも今の時点で10倍以上の倍率があり、それを存続させる論理の方が異常なことで、適切な倍率まで下がり続けることの方が明らかに健全だからです。クマビはそのような中で必ず成功する確信があってはじめた美術予備校です。次々と美術予備校が倒産する最中でこの状況を垣間見ながら予備校を立ち上げる人はいません。おこがましいですがクマビはその中で唯一勝算を持って立ち上げた予備校です。アクティブに活動しなければ、ただでさえ全般的に斜陽の美術と絵画の世界です。本来であれば埼玉の熊谷の小さな学校が存続することはできません。生き残るために受験生の減少の理由を考え、その問題の根本を理解し、根こそぎ解決するために、なんだかんだ長い間一心不乱に書き続けてきたのが本書です。このファイルだけでも話したいことが積もりに積もってすでに17万文字あります。章にして68章。それを少しずつ公開していきます。HPで最初の話を公開して何年か立ちました。現在執筆活動に入ったので2年余り更新されていませんが、それでもたまにですが長々書いている文章を「全部読んでいますよ」との声をいただけるようになりました。そして一連の執筆を読んで頂いている皆様のお陰でほそぼそですが日本全国から生徒が集まるようになり今日まだまだ運営できています。ありがたいことに本書を書いている令和3年は近隣の生徒と遠方からきて一人暮らしをしながら通う生徒と半々になるまでになっています。近隣の高校と中学に向けた営業努力を怠っていると言えばそれまでですが、クマビはポリシーとして他社様のように高校を訪問する高校周りの営業は致しません。そのような営業をかけずにクマビが遠くから生徒を集めながらほそぼそでも存続していることは少し自慢です。都内の大手予備校に行かずにクマビを選んでくれる。それだけでありがたいことです。それが続くように努力を続けなければなりません。そしてその輪が全国に広がるように。我が校は小さいながらも全国区。うちのような美術予備校は他にはないと自負しております。これは予言ですがクマビは全国1位の結果を出す予備校になります。今はその前夜。でもこれはクマビだけでなく他の予備校でも起こることです。小人数の予備校が大手を凌ぐ合格者数を出し始める。近い将来クマビは未来の美術予備校のモデルになると考えています。美術予備校で働く先生方は年々報酬が減少し、とても少ない報酬で働いています。美術予備校では以前は時給10,000円で働いていた先生もいましたが今では高くともその3分の1程度です。ほとんどの予備校はもっと低い。そのような中で時給10,000円貰え年収1000万円を超える収入を得る先生がいるのはクマビしかないでしょう。規模の大きい予備校で講師の報酬を上げることはこの時代の今の状況では不可能です。ですがクマビのビジネスモデルならそれが可能です。時期が来たら小規模予備校のビジネスモデルを公開したいと思います。その時から美術予備校は全国に展開し多くの美術大学を卒業したOBが個人で経営し生活してくことが可能になるはずです。本書はそう思い至った時に執筆を始めました。
  • 絵の課題の前に〜1真実をお伝えするため「天才育成計画」というものを考えました

     絵やデザインの世界はもともと閉鎖的です。もとはと言えば画家はギルドというメモ書き一つ残さないようにしていた職人からきている・・乱暴ですがそうともみれます。もとはと言えば、クラスでコミュ障で一人で絵を描くことが好きだからこの世界に入ってきたと正直に告白すれば多くの人がそうだと言えます。もとはと言えば、先生は教えてくれません。なので、技法やタッチやスタイルは自分で出来るようにしたり、編み出したりして、自分で新しい発明をしてきたのですからやすやすと暴かれてはならないといった感じをみんな抱いています。そんなこんなで絵とデザインの世界の人間は全般的にペラペラと喋るようなタイプの人間ではありません。20年ほど前からコミュニケーションが大切だと言う声が聞こえ、常識として定着してきて、格好つけてみんなコミュニケートできているようなことを言いますが、いやいやどうして全く交流できていないので隣の話になると全く何のことやら理解していないのが実情です。そもそもそれほどオープンならこれほどわからないことだらけで色んなことに困らないわけで、絵やデザインと言えば本質的に昔から何も変わっておらず閉鎖的な体質は今も全く同じです。例えば隣の科のことになれば何にもわからないのが実情です。全くコミュニケートできていません。どこそこ大学様いかがですか?

     絵の世界は秘密にされていることが多くあります。そのせいで絵は自分の身を隠してしまっているせいで、絵そのもののポテンシャルはほとんど発揮されていないと筆者は思います。この問題を解けばもっともっと絵に人が集まるはずです。絵の世界は人に不可解な印象を与えることが多いと思います。その不可解を解消し皆さんに少しでも多くの真実をお伝えするため筆者はこれまで「天才育成計画」(=天育)と称してHPで知られざる絵のことを書きました。

     筆者は絵の世界で今の有様が続けば絵の天才は生まれてこれないと考えています。逆に天才にとってはチャンスかもしれないとも考えていますが・・。少なくとも日本では・・生まれてはこれません。天育は筆者が絵画の天才が育ちようのない今の世界中のアートの状況を憂いて改善するために書いています。天育は本編に入る前の導入に何章も費やしました。なぜなら天育の内容が本題の技法書の章に入る際に技法書の必要性をしっかりと説く導入が必要だと考えたからです。誰でも絵が描けるようになるための技法があります。でもそれを導入する前に立ちはだかる壁は「才能神話」でした。技法の話の前に絵は才能がなければ描けないという誤解を説かなければならなかったのです。
  • 絵の課題の前に〜2「才能神話」

     絵画や絵画のみならずデザインなどの絵に関係する世界には多くの才能神話があります。才能神話によって才能がなければ絵が描けないと考えてしまい多くの学生が絵の道を諦めてしまいます。才能神話を作ったのは絵画の世界とメディアです。今の日本において大きな損失はアニメと漫画に興味のある子供達が才能神話によって目指すまで思い至れずに諦めてしまうことです。絵は誰でも描けるようになります。

     自分たちのために自分たちの巻いた種によって功罪は巡り巡って、現在、人離れという形で降り掛かってきています。本来誰でも描けるほど簡単にできている絵画技法を絵が売れ入場料を取って鑑賞させるために特別なものに仕立て上げた。誰でも簡単に描ける絵画技法が表に出る機会は奪われ、出しても信じてもらえない状況が作られました。重ね重ね言いますが絵は誰でも描くことができます。

     世界はAIの時代に入りスマホのアプリで誰でも映像を作る技術を手にしています。今足りないのは絵を描く能力です。本来なら誰でも描ける絵の描き方を知られていない。そのため誰にでもアニメや漫画を作れるのにその機会に恵まれず絵が世の中で役立つ機会は完全に失われています。

     世界中の人が絵を描けるようになった時に才能神話は崩壊します。そして特別な才能と称して売買されていた作品は全て売れなくなります。しかしその代わりに偽りは解けて世界中の皆の手でアニメや漫画が描かれるようになり、わずかながら油絵が描かれるようになるのだと思います。

     才能神話が生んでいる誤解を解くために執筆を思い至ったのも本書を描く動機の1つです。天育は最初HPで公開していましたが、本書から書籍の出版へ移行することにしました。執筆開始は平成の終わり頃でした。平成から令和に入り、コロナになりました。AIにより様相が変化する世界の時代の流れとともに絵の世界も前人未到の局面に入ろうとしていると思います。ひょっとしたらこのトリガーが引かれた時に後世に語り継がれる本当の天才が生み出されるのかもしれません。
  • 絵の課題の前に〜3「第2次産業革命の中で画家は洗脳された」

     時代は今、AIによる第3次産業革命に入ろうとしています。第2次産業革命のもとで絵画は絵の具の量産を可能にし、大きな飛躍を遂げました。腸詰めやガラスの容器を使った絵の具の保存方法から絵の具のチューブに変わったことで屋外で制作可能になり、それを切欠に印象派が生まれました。絵の具を自分で製造できなくとも絵が描けるようになったことは絵画にとって革新的な変化です。しかしその時に捨てられたのは絵を描く技術そのものです。それ以前は絵の具の製造方法とともに絵の描き方が伝搬されました。絵の具の製造はすなわち絵を描くことそのものだったのです。例えば何万年も前、壁に捕らえて食した動物の血液で絵を描いたように、絵を描く都合を踏まえて製造方法を改良し続けた製造のノウハウは制作のノウハウそのものと言えるものでした。絵の具のチューブの開発と工業化による量産は絵の具をみんなのもとに届けることを可能にしたものの、描き方までは届けてはくれませんでした。その状況に蓋をするように上書きされたのは自由にのびのび描けばよいという考え方です。この考え方は場合によって正しく、場合によって誤りです。自由に描きたい人にとってはいい。しかし私の知る限り大半の人が絵の描き方を知りたい、でも実際には誰も知る機会がなく本来教育を受けなければ身につかない技術まで誰にも教わらずに身につく能力とされてしまったことで不可解な才能神話が生まれました。おかげで絵描きも鑑賞者などの周りの人たちもみんな首をかしげることとなります。結局現代でも絵の描き方を正しく知る人は相変わらず少ない。絵の具があっても思うように絵が描けない。描きたくても描けないというジレンマは病的な様相を作り上げていると私は考えています。軽い、いや軽くはないか・・重い詐欺だと私は思います。道具を与えてやり方を教えないとは詐欺以外の何物でもないと思います。筆者の親の世代は第2次産業革命の世代ですが、うちの親を見る限り、我が家では電源を入れるだけで動かせないパソコン。誰も弾かないピアノのように高価なオブジェを買うだけで満足する人は多かったように思います。使い方がわからないけれども購入するだけで満足、そういう感覚があったと思います。ピアジェや発達心理学などのことも語られますがそういう問題ではないと考えています。絵の描き方を教えなければ五感を働かせることは確かです。ただそこでは使わなくても良い感覚を働かせていることも認めておかなければなりません。幼児でなくてもやり方のわからない道具を与えられれば五感をフル動員してなんとか使えるようにしようと試みます。でもそれは困惑の最中にいる精神的にはとても不安定な状態になることも認めておかなければなりません。情緒が不安定であればのびのび描くとは程遠いことをさせていることも偽りなく認める必要があります。事実やり方を教えずに絵を描かせて困惑しない人はいません。車の運転はまず車の操作を教えなければ車は動きません。教えなければ五感を総動員するでしょう。そして無理に動かしても動かず失意のどん底に落ちるか、万が一動いてしまったらおそらくその人が運よくブレーキのかけ方に気づかなければ人は死ぬでしょう。絵の世界はこれと同じことをしています。動かせても運転の技術と道路交通法を教えなければ公道を走れないように、描けても無意味なものです。車と同じように絵の造形技術は技術を教えなければらくがきはかけても高度なものは身につきません。それにアートの世界での絵画のルールを教えなければ事故なく発表することはできません。単純に絵の描き方を教えていないということは問題なのです。

     私がこれまで30年間生きている間に肌で感じてきた絵画は日の目を浴びることはありませんでした。工業化の時代の流れを背景に持つこれまでの絵画は手わざであるがために世の中から大きな注目を浴びることはなかったと思います。手わざよりも工業。工業化の風潮の中で絵画をどのように見て考えるべきかがただ闇雲に絵を描くより誰もが先決だと思っていました。芸術のための芸術というマニエリスムの時代に入り、絵画は存続しつつも、少しずつ着実に、工業に力を吸い取られたように思います。工業の影響で絵画の手わざの力は弱まっていったと思います。

     本書の狙いの1つは「人は描く」ということが本質であることを説明することです。工業化の猛威が衰えてきたこの機会に絵画の復興を試みたいと思っています。

     私がこれまで見てきた絵画は工業化の時代の流れの中にありました。私がそれを感じたのは高校の美術部に入部してすぐでした。入部してすぐ油絵を描く時代ではないと話されました。油絵を描く時代でないことは30年経った今でも変わりません。それでも私は油絵の世界に入った。私が幼い頃はテレビがまだ白黒でした。白黒のテレビが見られなくなったように油絵を描く時代は過ぎ去りました。工業化が進みどんどん生活が変わる。絵の時代ではないなんてことは少なくとも大人であれば誰もが認識していたことです。当然私もそうでした。私自身はもとはといえばそもそも油絵に興味があったわけではなく、興味があったのはテレビで鶴の線画を動かして飛び立つ様子を描いた当時まだ目新しいCGでした。何もない田舎に育った私にとってCGも油絵もどちらも自分には遠い存在でした。田舎者の私にとって遠い存在のものは全て憧れの対象となりえるものでした。

     時代は農業や漁業、林業、手工業から工業へ。アナログから機械へ。私が高校生の時はデジタルへ突入するその前夜でした。我が家にはパソコンがありました。高校の入学金も払えなかった父は私が中学生の時にパソコンを買ったのでした。ビデオがまだ一家に一台なかった当時、パソコンは高価で家にある家庭は稀でした。貧乏な我が家でも新しい物好きの父が思いつきでパソコンを買った。そんなような我が家の家風もあって何がどうなることかさっぱりわからない油絵の道に高校生の私は飛び込みました。その感じは50歳を目前にした今でも変わっていないように思います。まあ思えば極貧だからなんでもかんでも買えないので思い切って買えるものを買える時に1つだけ買う。そして何にもないから守るものがなく保守的になる感覚など持ち合わせておらず別になんのためらいもなく絵の世界に平気で飛び込めたのだと思います。

     アートのもとの意味は技術です。世の中での視覚表現としての技術のお株を絵はご承知の通りカメラに取って代わられています。世の中の興味関心はアナログで物を作ることから離れ、次第に人々からものづくりの技芸への関心は薄れる。そのような意識は今に続きます。絵の世界は技術ではなく感性や発想や考える力で新たな道を切り開こうとしていたと思います。世の中に響かなくともよいというのは建前で必死に足掻いてきた。どのような道にも正しい面があるのは確かですが、私は先人たちの切り開こうとした道とは別の所に絵が通れる道があるように思います。

     絵にはけしてなくならない形があります。時代がどうなろうと絵が失わない形があります。それは絵を描くことそのものです。絵を描くということ自体に輪郭があります。その輪郭が写し出している形は未来永劫なくなることはありません。絵を描くということ自体は、どれほど工業が発展しようと、AIが進化しようと、人間の本質として最初から淘汰されようのないものがあります。その形が多分我々が気づかなければならない絵です。

     そのような油絵の世界を理解しながらも私の周りでは多くの学生が油絵を描いて将来の進むべき道を模索していました。それからそれぞれの歩む道に進みました。

     私が生まれた時はすでに絵の世界の力は衰え目にするものはアニメと漫画でした。あいかわらずアニメや漫画の世界は人気があります。しかしアニメや漫画はアカデミックな世界には今でも受け入れられていません。今の美術史家の書く本の年表に刻まれるのは油絵や日本画や現代美術の中に見られる絵画です。敷居が高いところから低俗といわんばかりに見下し、必要のない敷居を設置してそこに登るシステムを作りせかせか登ってからアニメと漫画の世界を見下ろすようにしてアカデミシャンというか評論家はアニメや漫画と絵画は絵画とひとくくりにはしてはならない別の絵として扱います。本来は絵はアニメであれ、漫画であれ、油絵であれ、日本画であれ何でも絵です。でも私のいる絵画の世界ではそれぞれ自分たちの扱っているものが「絵」で「絵になっている」と称して、自分の絵と違うものを「絵ではない」とか「絵になってない」といった表現で遠ざけます。その選ぶ行為が優性遺伝的なとか選民思想的な錯覚を生み、半ば間違いと気付きながらも徒党を組み同調することで得られる権威を傘に言葉遊びをして愚かでおぞましい悦に浸りそのゾーンに浸っていながらアニメや漫画を気にするようにしています。他の世界には機能しない自慰が人気のない絵画の世界にいる「自分」という自らを一度井の中の蛙のように心の深い所まで落とし込み、深い深層で都合の良い論理はないかまさぐり、まさぐりながら自慰をして、悦に浸ることがいろんな社会的不安を取り払ってくれて、これでいいんだという気にさせてくれる。やがてそれは錯覚の自己肯定感を生み、その錯覚を抱きなから仲間と絡みみんなでゾーンに何度も入り、楽しいので一人でいる時も妄想してループする機会を沢山作り、知らないうちに洗脳され、自分たちの根拠のない自信である「絵になっている」という錯覚に没入しています。このような集団催眠は絵画の随所で行われていることです。冷静に見ればサッカー選手が野球はスポーツではないと言っているのと同じです。実にくだらない。

     油絵の世界では今、油絵の姿が薄れ、だんだん薄れ、薄れに薄れて、油絵そのものをやる気配がなくなっているように思います。それは問題で、どんなに生活が便利になろうとも、アニメが面白かろうと、それは油絵には直接関係のない話で、油絵というもの自体で切磋琢磨し、研鑽をつみ、人に感動を与え、プロとして評価される。油絵そのものの姿はいつも我々の世界のどこかにかっことした形としてあるべきです。さりとてこれは油絵だけを「絵になっている」と錯覚することとは違います。油絵の輪郭をはっきりさせるために洗脳から目を冷まし見極めるべきです。敷居の高いところから周りを見下ろすように油絵の世界を見ようとしていてはいつまでたっても油絵の輪郭は見えてきません。油絵の世界が外の世界の人に理解されないのはそのためです。輪郭をぼかすことで成り立っている世界、この輪郭をはっきりとさせることが油絵の本当の力を発揮させる唯一の方法です。

     スポーツや音楽の世界にはプロがいます。油絵の世界ではプロと言えるプロはいません。プロはいますが、少なくとも私の周りはそのプロを嫌煙しています。実は絵は売ろうと思えば簡単に売れます。コレクターが望むものを描くことは簡単ですし、コレクターはある程度、動産として作品を割り切って購入しているので動産として売りつけてしまえば買います。そこで描かれる絵に参考にする物の見方や考え方や感性や技法はあまりありません。その証拠にそれを大学で授業しようとしてもあまりに簡単で、それでは授業が成り立たないのでどこの大学もやりません。画廊やそこで描いている画家はそれでも自分たちを肯定しますが、それならば民間で授業をすると良いと思います。簡単にできてしまうことなので受講している生徒たちはなんなくそれができてしまう。それも油絵の輪郭を鮮明にすることに役立つでしょう。民間に誰でも簡単にできることが伝わる日が早くなる。授業をすれば真価がしっかりと浮き彫りになるはずです。

     私は油絵の指導をはじめて20年が立ちましたが私は具体的に生徒に油絵のプロとはこのようなもので、このように目指しなさいと指導することができません。本当に勧められるようなプロの形がないのです。スポーツや音楽の世界のように油絵で年間数億円を稼ぐような画家が日本にはいません。この状況は世界中で同じでこれを変えなければならないのです。
  • 絵の課題の前に〜4「人類の描くことのはじまりをみれば今の絵画の問題が見えます」

     私は画家なのでふと人が絵を描くということについて考える時があります。何度考えてみても、絵を描くということは本当に不思議で謎だらけです。

     これまでたくさん考えてきて、それでもなお「なぜ人間に絵が描けるのか?」わからない。アートの世界の中では絵を描くことを否定している人が多く、特に私の周りでは大半です。ですが、絵を描くことをどれだけ否定してみてもイラストを描くことが好きな人は一向に描くことを辞めないし、描くことを否定している人の多くは子どもたちに自由に描かせることを勧めているし、きまってその子達が本格的に絵を描く道に進む気になったと同時に絵を描くことを否定するのです。

     しかし、イラストを描く人がいなくなることはありません。子供や大人でさえもらくがきすることはなくなりません。絵の世界は絵を描くことが好きな人によって支えられています。そして絵を描くことが好きな人達によって絵を描くということは未来永劫なくなることはありません。それが美術評論家が辟易し最も毛嫌いする絵を描くことがなくならない本質的な理由です。美術評論家の人に頭の悪い筆者の私がいいことをひとつ教えてしんぜようと思います。「あなた方が絵を描くことをいくらやめさせようとしても絵を描く人がいなくなることは、永久に、ない。」

     絵は理屈ではなく、自然に描いてしまうものなのです。これを無くそうとしても不可能というもの。絵を否定する思惑は感覚的に描く世界を論理的に支配し思い通りに操作したい人たちの都合で生まれたものです。この論理は絵を描くことの未来のために生まれているものではありません。美術評論家がどれだけ絵を描くことを否定してみても、人に絵を描かせないようにすることは無理だと断言できます。そしてお粗末で無能極まりない評論。美術評論家の中に絵を描くことを肯定し時代を揺るがすような力のある人はかわいそうですがいません。人が自然に描く落書きで食べていけないのはなぜか?好きな絵やイラストで食べていく道筋がぼんやりしていて見えてこないのはなぜか?それはスポーツや音楽のようにそれぞれの絵やイラストを愛好する者たちが集まりを作って完全な市場を作り上げていないからです。今あるマーケットはゲリラ的な様相です。そうではなく誰もが信じて疑わない規模の市場にまで成長しなければなりません。そのためには自然に絵を描くことを美術評論家や流行のために作品を作るモードやコードで制作する輩を跳ね除けて押し通していかなければならないのです。

     人が絵を描くことは自然の摂理です。人が絵を描いてしまうことは手を動かしてしまうことそのもの、体を動かすことや動かす際にイメージすることそのものが絵です。絵は体を使う軌道そのもののイメージを痕跡として残すようなもので、そもそも手と脳をもつ人にははじめから組み込まれていることです。脳で手を動かすことそのものが絵。美術評論家が絵を描いている人間をみてどれだけ辟易しても無限増殖的に後からあとから絵を描く人は現れます。それは人が動くことそのものが「絵」だからです。今の問題は時代がそれをただ受け入れれば済むことです。今は第2次産業革命から第3次産業革命へと時代が移り変わろうとしています。工業ではない手仕事の絵は第2次産業革命では時代から積極的な要請を受けませんでした。世界中が手で物を作ることに消極的になった。それが体を動かすことが絵そのものであっても人が絵から離れた原因だと思います。一方でこれから訪れる第3次産業革命では個人にスポットの当たる時代です。自分自身をカメラで映し、その場で放送できる。身体からできる絵は描いている姿を動画に撮影しながら撮影した映像と合わせて絵を発表するといいでしょう。そうした方が体を動かすイメージが絵そのものであることが伝わりやすい。小さなお子さんとか絵を描いている様子を撮影して絵と動画を両方残して欲しいです。年配の方も子供やお孫さんたちに絵とその動画を残すといいと思います。映像は虚像ですから絵は実物そのものなので映像の良さもありますが映像には持ち得ない現実に目の前にある物質とまぎれもなくその方が体を使って描いた痕跡がそこには延々と残り続けます。美術評論家が辟易する絵ですが私は美術評論家の方にも片意地を張らずに絵を描いて欲しいと思います。個人が自由に発信できる時代では個人の価値や考えや感性が本当の意味で尊重されるようになります。社会が個人を見るシステムを手にした時に絵が活きる時代に入るように思います。その時代ではきっと今以上に個人の意見が政治にも反映されるようになっているはずです。現代は残念ながら個人の意見や思いはねじ伏せられている世界です。そんな個人に蓋をして当たり前の世界では絵も流行らないわけです。

     絵を描くことをアートの最前をいく評論家が毛嫌いしても、否定しても、権力闘争に打ち勝ち、周りの画家の生命線をことごとく絶っても、人類から絵を描く人間がいなくなることはありません。駆逐し、滅ぼしたはずの画家がしょうこりもなく目の前に現れると美術評論家は絵を描くことを辞めない人を見てゾンビのように感じ、悍ましいものを見るかのような毛嫌いの仕方をします。美術評論家は絵を描きません。文字を愛し文字を書きます。絵を憎み、絵を描くことを否定します。でもどれだけ美術評論家が絵を描くことを否定しても、どうしても描いてしまうものは仕方がないのです。絵を描いてしまうことは美術評論家がいうようにリベラルアートを理解しておらず教養がないということではなく、自然なことなのです。美術評論家が思い描いている正義は今より100年も前の奴隷のように奴隷に絵を強制的に描かせていた時代に通用した話。時代錯誤な感を誰もが感じながらもこの惰性を止められず、既得権益を守るために止めないでいます。一言で言えば「大人気ない。」これまでの時代では多くの画家が美術評論家の指示に従順に従いました。それでも評論家に全ての画家が付き従うかと言われればそんなことはありません。出世を捨て一線から身を置くことを選択する画家もいるのです。というか、私の目から見て、ほとんどの人がこのような絵の世界からは距離を置いていると思います。実際の所、黙って距離を取る人の中に優秀な人は多い。

     今日も美術評論家は「アーティストは嘘をつく。」と美術評論家の卵に指導しています。そもそも嘘もなにも絵を描く人はなぜ描くのかわからないのです。体を動かすこと自体が絵なのですから動いている人に例えば「なぜ息をしているんだ貴様は説明しろ」と攻めても困るのです。それを説明しろと言われてもできないだけ。そこに当てはまる言葉がはじめからないのです。言葉から始まって言葉に終わることで喜ぶのは美術評論家。絵描きは絵を描くことから始まっているものです。そもそもロジックなことから始めているわけではありません。活字とは別の営みで動いている。それを世の中にない言語で表現しろと言われても無理というもの。評論の世界は活字の世界です。そこは活字の中だけの、絵の世界とは全く別の場所の世界です。脳の中にある活字がイメージとして構築した世界は絵の世界ではありません。活字になることがらの中の世界です。活字にならない世界はそこには全く重なりません。評論家が絵の世界だと思いこんでいるそれは多分哲学や何かの世界を絵の世界に当てはめて作り上げられた絵の実体験を通じて見える世界とは別の想像の虚構の世界です。そのため絵が好きでイラストを描いたり、心から楽しんで落描きを描いている人の感覚を共有し、考えを正しく書ける評論家は一人もいません。彼らが書いているのはあくまで、評論の世界で書かれた絵の話なのです。

     美術評論家並びに絵の世界の権力者の致命的な誤りは絵をスポーツや音楽のようにプロとして描く道筋を壊してしまった点です。歌ったり、踊ったり、走ったりすることと同じように「描く」ということには価値があります。絵の価値を社会的に認める機能を世界は持つべきです。走る人になぜ走るのか?答えを求める必要はありません。歌う人になぜ歌うのか理由を求めることもナンセンスです。少なくとも絵を描かせることを辞めるように、走るのを辞めさせるために、歌うことを辞めさせるために理由を聞くことはナンセンスです。でも絵の世界にはなぜ描くのか?という愚問を投げかけるのが常識となっています。これらの仕組みを作り上げたのはもとはといえば自由を求めた人たちです。年月が本末転倒な状況を作り上げてしまった。もとの鞘に収めることができないのは今の形で力を得ている権力者が権力を守って硬く蓋をしてしまっているからです。私が絵と向かい合ってきた30年。この間にじっと我慢していましたが、いっこうに前向きなことを何一つ言わないおろかな美術評論家。私はこのままでは自分の人生が終わってしまうので、このおろかな過ちを打ち崩してみようと思います。
  • 絵の課題の前に〜5「絵のはじまり」

     私はよく絵のことを考えます。自分の描く絵のことや、普通は考えすぎだからといって考えない方がいいと言われそうな様々な懸念や、理想を妄想したりします。私は最近国会で野党が与党を責め立てることとその必要性がやっとわかったような気がします。今の私は野に下る道を選んだ野党です。画家として美術館や美術評論家や芸大美大、画廊、オークションなどの矛盾に手当たり次第に声をぶつけていかなければならないと最近よく思います。

     そんな調子で毎日絵のことを考えているわけですが、この章を書いている時は人類の絵の始まりのことを想像していました。人類初めての絵はきっと世界中の至るところで描かれ、意外と同じような題材で、同じような描き方で、きっと同じようにみんながすごく面白がりながら、描く喜びに満ち溢れ、地面に這いつくばって絵を描いたり、壁に絵を描いて壁の前に立って絵を見ながらみんなが歓喜をあげているような、そんな様子で始まったのではないかと思います。そこには才能という概念はなかった。全員で絵を描き誰でも絵が描ける自信を持っていたと思います。誰かを画家として祭り上げるようなこともなかった。ここで言いたいことは「描いている絵が他の人と同じでいい。」ということです。何故ならば違う絵を描こうとすることや違うことを評価することは歓喜を奪うからです。「みんなと違うことをしなければならない」という縛りは必ず自滅の道を辿ります。絵の世界ではどこの誰を見ても間違いなく目が死んでいる。それはみんなと違うことをしなければならないということによって絵を描く概念そのものが構造的に破壊されているからです。その縛りのせいで絵は簡単に描けなくなりました。それはスポーツや音楽が盛り上がる中で絵画が盛り上がらない理由です。みんなで同じ絵を描くことを受け入れればスポーツのように細かい差異に注目して話題にすることができます。これがどれだけ盛り上がるものか。でもこれを怪訝に思うのは美術評論家です。絵の世界が細かい差異を問題に取り上げるようになれば美術評論家はアプローチの仕方を180度変えなければならなくなります。美術評論家がどれだけ困ろうが知ったこっちゃありませんが。みんなが同じように描くのではなく逆に誰も描かない絵を描こうとすると程なく全員が描けなくなります。誰でも安易に描けなくなることによって潤うのは絵の世界を描く世界から考える世界に変えた美術評論家です。こんな自殺行為をするのは画家ではありません。みんなと同じことをやる中に歓喜をあげるヒントがあります。そんな絵の歓喜の声を現在は大人から聴く機会はありません。歓喜を奪った主な原因は評論家以外には工業化の流れの影響が大きいと思います。土いじりや漁をしたり絵の具をいじっていられなくなった。漁や土いじりがどれだけ面白いか・・。私は毎日釣りをしているのでよくわかります。工業化によって人類の仕事は自然から離れていきました。そこで絵の世界は人との関わり方を大きく変えてしまったと私は考えています。今では太古の昔の人が絵の前で歓喜したように美術館の前で歓喜の声をあげて大喜びするようなことはどこの美術館にもないと思います。そのようなみんながシンクロするようなことはそのような遊びがなくなったので不可能です。唯一あるのは小さなお子さんが絵を描く時です。ちなみにこの最後の砦はなんとしてでも死守しなければならない。美術評論家は人が絵を描いていることに辟易します。美術評論家の矛先を子供に向けさせてはなりません。かつてピアジェは絵を生業にするために訓練している大工の子供がみんな同じ絵を描いているといって攻撃しました。でも実際は子供たちはみんなでスポーツしたり歌を歌うように絵を描いて遊んでいたのです。みんなで遊ぶ遊びはみんなと同じことをすることが楽しいものです。それをピアジェは発達心理学の見地から根底から否定しました。そこからの切り口でいまだに幼児教育の中での絵は根本的に大きな問題を抱えています。みんなで絵を描いて歓喜の声をあげるその声を奪う仕掛けは実はピアジェが仕掛けたと私は考えています。みんなと「違う絵を描かなければならない」この概念によって絵は容易に描けないものになり全ての人から描く楽しみを奪い歓喜の声を奪いました。みんなで同じような絵を描いて遊んでいた職人の子たちは歓喜の声をあげて楽しんでいたと想像します。

     日本は幼児のこの砦を守ることでさえ危ういと思います。理由は自由を推奨する派閥に忖度しているからです。私が子供たちの内心を探っている限り子供達は絵の描き方がわからない時点で絵を描くことが嫌になります。それは幼稚園の年中さんともなればほぼ全員が経験します。まず水彩絵の具で綺麗で本物みたいな風景や人を描きたいのにぐちゃぐちゃになってとてもストレスで、先生はぐちゃぐちゃを褒めるので得体がしれず、それを機に絵から距離をとります。子供たちは全員絵が嫌いです。子供達には授業だからと言って描くことを強制することなく本音を聴くようにしてもらいたい。そうすれば全員が「上手に描けないから描きたくない。」というはずです。無理やり自由にのびのびぐちゃぐちゃ描かせるのはストレスにストレスを擦り付けるだけなのでもう辞めた方がいい。それによって心が病みます。それによって先生の大好きな協調性や大人らしい振る舞いは身につきますが、誰も気づいていないようですが「心に闇を作る問題」の方が大きいです。期待通りにならない絵を描いて歓喜をあげる人がどこにいるでしょうか?絵の世界には子供を見ていればよくわかるのですが嘲笑はあります。この嘲笑や冷やかしは絶対にやってはなりません。必ず絵が嫌いになります。「喜び」とは忖度で起きる感情ではありません。忖度で起きている喜びは褒賞はあっても絵を描くことそのものにはありません。日本の絵画の世界では「ご活躍」という忖度の言葉があります。「ご活躍」を連呼する姿は野にいる私から見ると本当に醜くおぞましい。いっている人は全員言わされており誰一人として目が喜んでいません。「ご活躍」というワードを使うのは公募団体ですが芸大美大でも、美術館でも、画廊でも目から喜ぶことは絵を見る時にはありません。目から喜ぶ時は褒賞を得た時です。それは絵を見ることによって喜んでいることとは全く別です。「褒賞で喜ぶ」ということは大人の作り上げたシステムに乗った時に大人に褒められるということです。それは同時に絵を前にして歓喜することから完全に乖離することを意味します。忖度で情動を押し殺したままでは歓喜の声をあげることはできません。もしできるならやってみてください、できませんよね?今のやり方では絵を前にして歓喜の声をあげることは絶対にできない。絵画の世界で歓喜をあげるには「強情」にならなければならない。これが唯一の方法です。

     強情に美術館やアトリエではみんなで集まって歓喜の声をあげることはあるでしょうか?それもないと思います。スポーツの観戦だとありますね。楽しいです。そして何より価値があります。スポーツも工業化の影響は受けているのですが絵画のように大事なものを削いで消していくように消極的ではありませんね?これには美術館ができたことと美術評論家によって絵画が考える側面に大きく舵を切ったことが大きく影響していると思います。スポーツと同じような歓喜は音楽や文学でもあがります。アートや絵画には鑑賞者が歓喜の声をあげることはありません。あるとすれば自分や家族が賞をとったりオークションで高額で落札されるようなことがあればあるでしょう。それ以外であるとしたら心の問題か、脳の問題か、演技と考えて間違いありません。偽の歓喜は間違いなく作品の内容についての歓喜ではなく、完全に出世や金銭を得た幸運に対して歓喜しているのです。あるとしたら幼稚園で絵を描いたり、お子さんがお家で絵を描く時くらいです?美術館では絵は絵の鑑賞はありがたいものということにされています。お陰でかしこまって見なければなりません。かしこまるのはいいのですが、そのせいで白けてしまい感動はどこへやらです。絵は学校の朝礼のように軍隊のように整列して校長先生を大上段に掲げて平伏するように見なければならないとされているように思います。だからすごく権威的です。実際に美術館は殆どの画家を屠殺する生殺与奪の権利を持っています。学校では校長を崇めると学校を崇めることに繋がり、先生を崇めることに繋がります。そうすれば学校は生徒を管理しやすいのです。美術館も絵を崇めるようにさせれば鑑賞者を簡単に管理できます。そのおかげで絵は校長先生の朝礼の話のようにつまらないものになり下がりました。私は大人が絵を前にして歓喜をあげる様子は世界中のどこを探してもないと思います。また、今回の章でお話ししたいのはそこが今のアートと絵画の最大の懸念だということです。絵には歴史的にも世界的にも大問題です。アートから「喜び」を奪ったのは誰でしょう・・?それはそれで利益を得ている人です。

     何万年も前の人たちが狩をして絵を残したように、今の時代に生きる私も釣りをして絵に残しています。きっと今に生きる人も太古の人も本質は変わりません。本当の「絵を描く喜び」を知る機会があれば今の時代に生きる人も太古の人と同じように楽しく絵を描けます。そしてそこには明らかな「絵を描く価値」があり、価値への揺るぎない理解が生まれるはずです。その価値はアートの世界を作る美術館や美術評論家や大学教授がなんと言おうとあなたの中にある価値観に完全にフィックスした揺るぎない価値です。本当は今のアートの世界で聞こえてくるモードとかコードなど気にせず絵を描いて評価したい人がいたとすれば勝手に評価させて勝手に有名になったりお金になればお金にすればいい話です。そのような自然な成り行きではなく自分から評価されるように売れるように向けていくことによって大事なものは簡単に失うものです。「絵を描く喜び」とは本当に壊れやすいもので、大半の人が失ってしまっていると思います。偉い人でもよく絵がわからないと言っていることがありますがおそらくはどこかに大事なものを置いてきてしまったのだと考えます。

     今の人たちは従順な人ばかり、従順を強いる場所ばかりです。従順の反対は強情ですが、絵を描くには強情でなければ心は死にます。理性で従順を徹して出世したり、評価されたりすることはできても、それは絵を描くことそのものの楽しみを感じていません。楽しみを封印し、結果を得ることに徹しています。アートの世界は今、コードとモードを理解しそれに即して制作しなければならないとされています。それはコードとモード、つまりわかりやすく言えば美術館という箱を使う時のルールと美術評論家が作り上げたジャンル分けと評価の仕方に従順に従わなければならないことを意味します。このモードとコードの働きは絵を「考える」本質を追求させてくれるものの、絵を「描く」ことの本質とは明らかに異なり、筆を止めさせてしまうものです。さらに「考える世界」はジャンル分けをし尽くして、もうほとんど残っていない概念の隙間をほじくり返そうと躍起になっています。そこで働いても十分な禄を与えられず、誰も潤わず、飢えてどうにもならないところまで堕ちています。

     これまでは美術館と美術評論家の権力は絶対でした。彼らに受け入れられなければ作品を外に出して評価されることはできませんでした。でもこの構図は近い将来必ず変わります。彼らに従順でなくても、素直で、強情でいても、作品を発表したり、この文章のように書くことができます。私の書いていることは今までであれば彼らにメディアから滅却される内容です。今の時代は彼らに従順になることなんてなく、強情でいられるのです。是非みなさんもご自身の思うがままに作品を作り、書いてください。きっと太古の人たちと同じように楽しいはずです。

     私の理想ですがキャンバスは家で何をどんな風に描いても怒られない自由に表現できる場になるといいと考えています。それが私が思っている新しい絵画です。一家に一台車があったり、一人一つ携帯を持っているように一人一枚キャンバスが家にある。美術館がことごとく作品の発表の機会を奪っているうちは表現する気も失せますが今はネットがあるのでいつでも簡単に描いたり書いたものが出せるのであれば描くことと書くことは楽しいはずです。みなさんの強い情を引き出す。もっとわかりやすく言えば「嫌いなこと」「嫌なこと」をキャンバスは遠慮なく吐き出せる「場」になって欲しいと思います。

     自分の体を使って絵を描くことには意味があります。細かいことはここでは描きませんが街中にはどこでも自由に絵を描いていい所はありません。パソコンや携帯の中に絵を描いてもそれは太古の人たちのように体を使って描いていることとは身体感覚的に違います。身体を使って描くことを、取り外し可能な壁であるキャンバスは可能にしてくれるのです。

     残念ながら今の時代に生きる人の多くが絵を描くことを好みません。好まないのは苦手意識や天才でしか描けない誤解、難解なイメージや劣等感などのヴァイアスがかかるからです。みんなが会話をするように、カメラで写真を撮るように実は絵は手軽に描けるものです。これをガチガチにしてしまって、ガチガチのイメージを作り上げているアートの世界は実は「絵を描く」というこれほど面白い人類の貴重な財産をダメにしてしまっています。私は「釣り」を描いています。よく絵のことを考えながら釣りの絵を描きますが、釣りという狩を絵にすると太古の人と気持ちで繋がれるのです。これが私の知る密かな絵のダイナミズムです。評論家や美術館との繋がりは私はどうでもいいです。小さい。しょぼい。汚い。何より無駄。評論家と美術館に従順になる気は毛頭ありません。それよりも強情さを前面に出して攻撃した方がこれからのアートのために建設的です。評論家と美術館が築いた誤った構造は根底から駆逐するべきだと思います。太古の昔は今のアートのように誰が最初だなんてどうでも良かったとよく思って見たりします。この世界を思うなら絵の起源から絵を描くことが人類に広まっていく様を妄想することが大事だと思います。その状況を再び作り出すために、今の現状でボトルネックに引っかかって絵が広がっていかない状況を悩み、これから首をどのように広げていけばいいか創造してみたりします。

     定説ではもう長い間「絵は終わった」といわれています。評論家の書く活字の上ではなるほどそのように解釈できる絵もあります。でも太古の人に「鼻で笑われるな〜」と思います。絵が終わったなんてカッコいいですが、それはあくまで机上の中の絵の話です。空論とまでは言いませんが、机の上でなく画家が、画家というか人が画用紙やキャンバスに絵を描くことからは目を背けた上で書かれた理屈です。絵の世界は終わっているかのように語られますが、そんなことはないと思います。変わったのは絵が向かう課題です。懸念は無限にあります。

     評論家が絵が終わったと称するのは評論家の見る絵の形を定義し、定義の仕事を探し尽くし掘り起こし、探り倒したからです。なるほど終わったと言えるほど隙間もないような状態であることは間違いありません。しかしそれはあくまで評論家から見ることができる絵のカテゴライズの限界なり飽和であり、絵描きが描くことに目を向け見続けている絵ではありません。評論家が扱うのは絵のアウトラインというかジャンルの輪郭というか境界の問題。それと絵画の外の科学や工業や精神分析学や哲学、教養、教育などとの繋がりの問題。絵がどのようなスタイルに定義されるのか?新しいジャンルなのか?新しい概念なのか?新しい技法か?云々。これらは、ご丁寧にアウトラインを作ってくださった中で淡々と営む我々には何の関係もないことです。評論家の話の中には絵を描く最中の絵が出てくることはありません。絵の中の話は彼らにとって全く興味のないもの。絵を描いている最中の筋肉の動き、神経の反射、見方や気分の移り変わり、イメージやモチベーションの変化、体調など絵を描いている時は実に様々なことを問題にして取り組んでいます。つまり美術評論家とは絵の中身には全く興味がないのです。評論家が話題にするのはオークションの値段それを肯定するための歴史的な背景、画家の日常、人間関係、学歴、受賞歴、絵のスタイル、画材、題材、題材の人物の人間関係の話です。これらは全て評論家が活字にできる物事。その中に絵を描く時の話は出てきません。例えば野球とサッカーの違いを語られても正直困ります。野球をしてればいいし、サッカーをしていればいい。相手にする必要はない。無視して野球をやったりすればいいのです。無視して絵を描けばいい。私は絵のはじまりを想像しうらやましく思います。その頃は評論家がいなかったのでみんなが楽しんで絵を描いていたはずです。今はそこに戻る時です。
  • 絵の課題の前に〜6「世渡りしたい下の従順とそれを守りたい上の愛」

     絵の世界は世渡りが大切です。残念ながらこう言うしかありません。絵の世界は一部の人が言うように「自由」などと無責任なことを声高に叫べる状況では絶対にありません。
     私のこれまで見てきた画家の全てが先生のいうことをよく聞いて。美術館のルールに忠実に従い。美術館を神と崇め奉り。画廊を崇め。コレクターの前でへこへこし。公募団体を崇め。公募団体の会員に上納金を払い、媚びへつらい。芸大美大の先生に従い守ってもらう。というのが画家の姿です。奴隷のように疲れ果てた顔つきの彼らが外では「自由」と称される。美術館や画廊や大学に従順に従うことは利益ですから良いと思います。しかしそれをどこにも自由などないにも関わらず、この世界の外にのうのうと自由と偽るのだけは許せません。私の見る限りどこからどう見ても自由に描いたり、行動してきた人間など一人もいない。自由という集団幻想は1日も早く無くさなければならない。この世界の悪癖は「自由でないことを恥じる」ことにあります。皆さんはどうか「自由」でないことを恥じないようにしてください。そうすれば絵画の世界は次第に自由でないことを少しずつ打ち明けられるはずです。自由ではないのに「自由」と言っている人を私は詐欺師だと思います。それをよく考えてください。
     絵を描く時実際に自由にのびのび描いてしまったら内的必然性によってバランスを取ろうとしてしまい無意識の内につまらない形を描いたり、つまらない色をのっけてしまうものです。絵画ではこれが御法度になることが多い。「上手いのに評価されない」という恵まれない画家を生んでしまいます。無意識の働きのそれを個性と称するのはいいでしょう。その通り反射的に体質や感性が出てくるのは個性の賜物です。でもその個性の賜物を絵画の世界はつまらないと称して全て否定します。見たことのないような面白いものでなければ評価しない。そこに予め約束された万民に対して公平に与えられたフラットな自由はないのです。画家はつまらない絵にならないように逐一「面白いかどうか?」というフィルターにかけるのであってその瞬間瞬間に自由も個性のへったくれもありません。生徒がつまらない絵を描かないようにクマビでは日々指導していることです。
     個性と言えば障害がある人のことが頭をよぎる方もおられると思いますが彼らも暗黙知に法則に沿って形を描いて色を塗っています。歩くことや咀嚼と同じように脳は普段の連動で、zoonに入り集中する神経と筋肉を動かすシステムを持っていますから、持っていなければ死んでいます。筆を同じように脊髄反射的に使ってしまいます。その人が普段行なっている脊髄反射の動作を絵筆や鉛筆やペンに応用して描いています。健常者とされている人と同じ動きが困難である場合に特殊なストロークが確認できることはありますがこれは間違っても視覚的な感性が絵に現れているのではありません。障害のある方が絵を描く所を見ることがあります。冷静にいつもですが私の見る限りどこからどう見ても手前にあるペンを手に取ったり、手前にある楽な絵の具を次の絵の具に選んで筆に付けて塗っています。これを個性やら感性と賞賛し褒め称え商売に利用している輩がいますがバケの皮が剥がれるのは時間の問題です。客の哀れみを誘い口八丁手八丁でたぶらかして絵を買わせていますがこれがバレた時に惨めな思いをするのは描いた本人たちです。彼らの中に気づいてやめた人も大勢います。気づくのは大抵奴隷のような劣悪な労働条件(最低賃金以下)に置かれ何年も経ってからです。輩は普通に儲けて人並みかそれ以上の生活(障害者が低賃金で作品を上げてくれる分で利益が出ます)を送っていることに疑問を感じた時(大抵何年も経って、障害のある方は意外に辛抱強い面があり、長年耐え凌いだ後にやっとストレス耐性の限界に達し、怒りが頂点に達して・・おそいです)。何だかんだありますが、気づいてやめた彼らがこの問題を根本から解決するトリガーになるべきです。
     この世界の中を見てきて、美術館や画廊や芸大美大のやっていることを見てきて、一体この世界のどこに「自由」があるのか?と疑問に思います。つまり「自由」など見たこと、触れたことは一度もありません。自由という言葉から連想されるユートピアのようなイメージは美術館の来場者と出品者、貸画廊を借りる画家と作品を買うコレクター、芸大美大の受験生を勧誘するために作られた偽りの妄想です。裏腹を証明しているのは、この世界の人間の誰一人として目が笑っていない、本当に自由であればみんなが幸せで嬉しそうに満たされた顔をしているはずです。でもそのような顔をしている人は誰ひとりいない。この世界に幸せがないとは言いませんが言い切れることは自由奔放とは全く無縁の世界が絵の世界だということです。これは絵の世界という狭い括りではなくアートという広い括りとなってもアートの方が多少ましにはなりますが、でも大差ないかな・・。
     絵の世界、私の関わっている絵の世界なのでつまり「絵画の世界」はうまく世渡りできる感覚が必要です。特に日本は敗戦国であり、世界から見れば圧倒的な弱者である日本では圧倒的な弱者である立場を十二分にわきまえて渡れないものを無理矢理に渡れるように工夫をし尽くさなければ絶対にアートの世界で世界的な活躍をするのは無理です。当然食べていくことも無理です。
     皆さんが想像している以上にあらゆる表現をやり尽くされた泡の世界です、言うなれば権力闘争の果てに波の慣性の働いた惰性でかすかに動く泥沼の上の泡のような泡沫(うたかた)の世界です。中の誰が何をやってもダメな状況に陥っている世界です。下は惨憺たる状況です。下にも中にもどちらにも進まなくて済むように生徒に指導しなければならないのはこの世界があまりにひどい有様だからです。私が指を指しているのは泥から抜け出た泡か泡の弾けた空気です。私はみんながやっているような泥の中に「自由」と称してユートピアがあるかのような勘違いをして泥沼に指を指すことは到底できません。また、この世界に全く可能性がないようなことも言いたくないのです。正解はやはりある。上に行くかそうでなければ上にも中にも下にも行かずに別の空間に絵の世界を作ることが正解です。例えば美術の外の空間で漫画やアニメは大きな世界を作り上げることに成功しています。未来の新しい絵画の世界も漫画とアニメを見習うべきです。漫画とアニメの成功の後、絵画とアートは「漫画とアニメに敗北」していることを認めるべきです。後はそのタイミングを待つばかりです。又は泡がもうじき跡形もなく消えるのでそれを待ってもいいと思います。絵画の、アートの美術評論家が残している歴史の多くは残らない歴史となるはずです。作品のくだらない時代背景など後々の絵を正しく書かれるようになった未来からすれば失笑されるようなお粗末なものばかりです。作品の内容についてはほとんど触れられず、書くことができず、時代背景やエピソードなどの作品の周りの話をただただだらだら書き連ねるだけの無駄な話。

     絵の世界は基本的に強気では戦えず戦々恐々としながら周りの出方をよく見て上の顔色を伺いながら、最初から最後までずっと注意深くよく見て世渡りをしていく世界です。自由とは無縁の世界。上は「モードとコード」とよく言いますが下々は上のやり方を十分に理解し即して行動しなければなりません。そして上は自由と称してモードもコードも詳細に教えません。戦略などもってのほか・・。というより戦略が立てられるほどの力はありません。とにかく「モードとコード」という表現は「自由」とは無縁なことをよく表しています。
     よくこの世界に入ってきたばかりの人で意気込んで強気の発言する人がいますが、何をしても必ず秒殺されます。秒殺してあげないと危険です。見過ごせば必ず事故ります。これまでに賞をとったり、才能があると思っていたり、知識があると思っていたりしている人は間違いなく最初に事故ります。このような事故を起こして自尊心を傷つけてしまうのはこの世界やメディアや学校が誤解をして、誤解させるような誤った情報を流し、誤った教育を続けているからです。世渡りをせずに強気に押し切れる人が稀にいます。でも私の知っているアーティストの中でも本当に一人ふたりです。知り合いではないですが私の中では川俣正、でも彼がモードやコードを無視していたかと言えば全く違います。完全に即している。

     日本のアートの世界は欧米の新しい作風が日本に輸入、つまりわかりやすくストレートに言えば誰かがパクったら、それまでの日本の絵画の作風の全てが古いものと一掃されてきました。それが日本の絵画の歴史の正体です。その歴史の変遷というかパクリの変遷を冷静に紐解いてください。見えてくるのに時間はかからないはずです。そして完全に欧米に媚びています。ちなみにこれは東京芸大の受験でも言えます。欧米の流行に合わせて日本の絵画は変わってきた。その逆は歴史上で浮世絵の起こしたセンセーショナルただ一つです。つまり近代以降の日本の画家で自由にのびのび描いて評価された人は誰一人としていない。世渡りのために欧米の真似をしてきた画家しかいません。そうでない者が残念ながら一人もいない。その事実が一般の人には見えないだけです。そしてそのパクリをさも自分で創造し作り上げたかのように錯覚し、どこで目にしたのかの出所は都合よく忘れ、ごく自然に頭に表出したかのように思えてしまう。この人間最大の学習能力である模倣性をフルに発揮させたパクリの通過儀礼は暗黙の了解で行われ、誰でも完全な形で無意識のうちに無自覚にしてしまった後にそれを個性と称して出所は毎回誤魔化せてしまうほどよく仕上がっている。平気でパクパク肉を食いながらさも自分は動物を殺せないからといって動物の命を奪うことに全く関わっていないかのような「都合の良い錯覚」を平然と抱いていることと同じように日本の画家の全てが欧米をパクパクパクッているのです。

     日本の絵画は欧米に対して脆弱です。欧米の正しい技法が輸入、つまり導入されたのはほんの少し前の話です。昭和の終わり。正しい技法が入った時点でそれまであった日本の絵画(洋画)は全て否定されました。それから日本の油絵は病んだ。その状況を知る絵画に精通し、つまり歴史を正しく学び、正しく翻訳された文献に触れ、世界の最先端の絵画の動向を理解している学生は全員油絵を描けなくなりました。正しいと称する技法を用いなければおかしなものとされる概念に完全に汚染されてしまった。状況がわかる学生は戦略的に油絵の具から離れるしかない。技法の話を持ち出すことが全ての作品を否定するための論法になりました。そして一部の人間を出世させた。馬鹿な話だと思います。これは東京藝術大学の油画専攻で実際に起きた話です。私の認識している限り50年病み続けた。そろそろなかったことのようにパタリと音を立てて証拠隠滅される話です。このような話はどさくさに紛れて亡きものにされた無数の話のほんの一部です。とにもかくにも日本の絵画の脆弱さは本物です。こんな脆弱な組織の中にとてもではないが入る気にはならない、自殺行為です。大々的に歌う公募団体も中身は空っぽです。公募団体の出品者の誰一人としてここに書いていることは知らないと思います。それだけ独りよがりで真実を学んでいない。美術館が巨額のお金を出して催す美術展もろくなものがありません。何にもない中でなんかやらなきゃ指を咥えて赤字が続くだけで何も始まらないので無理やり展示している。そうすれば給料はもらい続けられる。これで個性だの才能だのほざいているのだから始末におえない。全て作り変えるべきです。
     とまあ・・絵画の世界はいうなれば世渡りだけで成り立っているともいえるような状況です。どのように生き抜けばいいか考え抜ける人だけが生き残っているのは間違いありません。内部ではこのあたりの状況を見越して生きることが賢いとされていますが本当は馬鹿そのものです。生き残っているとは言え実際に誰も目が笑っていない。聞こえてくるのは全て敗者の論理です。気持ち悪い。私はそれを賢いとは全く感じないし見えないし思えません。
     クマビの生徒にはそれを踏まえて上手く行動して欲しい。絵の世界には何も考えずにただ作品を作るだけで生きていけるような音楽やスポーツの世界に構築されているシステムは何も存在しないのです。あなた方が健全なシステムを作り上げるべきです。そのために真実を書かなければならないし、絵画の世界を作り上げる創造力を指導しなければならないと思います。

     絵の世界では組織自体も大きな社会に対峙する様々な手を尽くしながら世渡りで生き残っています。そしてそこに社会に絵画の必要性を十分に訴えられるだけの力や頭脳や活動の内容は一つもなく、ただただ自分たちが存続するだけ綱渡りのために、口八丁手八丁で世渡りすることによってのみ生き残り、バレている社会からはジワジワ格下げされ続けています。格下げされ続けているのは芸大美大、美術館、画廊、市場です。大学の権力にはなかなかメスが入らなかったのが最近では後で少し触れますが日大を例に見るようにメスが入るようになりました。残念ながらこの世界は絵画で実力を上げることや評価をされることを第一に考えて行動すると生き残ることは無理と言える状況です。絵画の世界も社会も絵画を見る眼は壊れています。そのため絵画の中はやりたい放題。日大の理事会を想像するとわかりやすいと思いますが同じでやりたい放題です。「自由」と称して、既成概念や組織を解体していったおかげで、社会が絵画をどう受け止めればいいのか理解しようがない状態に陥りました。なので世の中での絵画の社会的な地位は根底から崩れていく一方です。現存する絵画の組織は形骸化し、絵画の価値を支える構造が完全に崩壊しているので今の絵画は実力社会ではありません。それでも芸大美大、美術館、画廊、美術評論家、マーケットという組織が存在し「上」という概念が存続してしまっています。それは最悪の事態でありそれ自体が今の状況が確実に崩壊する原因となるはずです。今の組織は元はと言えば革命を起こして作られたものです。つまり画壇を打ち崩しアカデミズムや公募団体をねじ伏せ「自由」を標榜しながらそのように活動してきた集まりです。その人間が結局「上」になってしまっています。本当は上も下もないのです。組織の上を一度壊して根本から見直せば正しい絵画の世界は構築されます。それにはこれから新しく生み出す組織は今のようなブラックボックスには絶対にしてはなりません。脆弱な絵画の世界の中に新しく生まれた組織は必ず日大の理事会のようになります。今は社会からすれば開かれていることが最もいいと思います。それが理想ですが「上」がそれを許しません。
     現場にいる人間のほとんどが「自由」を実現するために切磋琢磨していても状況が一向に改善されないのは組織を立ち上げる時に文教族が利益を得るために作られた美術館であり、大学であり、大学の校舎であったり、団体であるからです。結局は何をしても文教族が約束した会社が利益を得るようになっている。美術館が赤字になろうが大学が赤字になろうがその間に組織の中の人間が利益を獲られていればそれで目的は果たされているのです。文教族とそれを取り巻く会社は組織なり建物といった箱が作れた時点で利益を得ている。絵画の世界やアートが自由と歌いながら自由でないのはそのような「上」が君臨するからです。そういったことを全て計算に入れながら自分がどうのように行動するか?何が「正義」か?を考えていかなければこの世界で生き残ることはできません。絵画の集まりはこのような偽りの自由という土台の上に城を構えている組織なので組織の上の誰にも今の絵画で世界的に歴史的に評価するべき作品がわからないのです。とにかく日本は欧米をパクるしかない。欧米をパクっている様子は芸大美大の卒業制作を見るとすぐにわかります。敗戦国として欧米に従い続けるしかない。そういった構図を知った彼らの大事にしているのは自分たちの「既得権益」本当にそれだけです。この構図を壊すのは若い作家たちが利益を得る構図(システム)を変えることです。画廊や美術館を通さず独自に利益を得られる形を作り上げれば今ある無数の魔の手を消し去ることができます。

     絵画において問題を解決して絵画が復興するための答えは誰もが自由に絵が描けるようにすればいいだけの話です。簡単なこと。それには自由に絵を描ける課題を出せばいいのです。課題では個性で絵を描くことを許します。つまり脊髄反射的にタッチを入れていって構いません。その中にスポーツや音楽と同じくスピードや音色(形と色のバランス)等の差異の全てを項目としてあげ尽くし評価の基準を作り上げてしまえば実は個性によって自由に、そしてのびのび伸びやかに絵を描いて評価され生活していける形を作ることが可能なのです。その時は勿論障害者の作品も正当に評価することが可能です。パラリンピックと同じように平等に正当に評価することができます。そこに輩が入る余地はない。
     課題はまず手始めに「花」の絵を描くことから始めるといいでしょう。障害者も我々も「花」を描けばいいと思います。
     今の絵画の組織の多くは「花」を手始めに「よく描かれる題材」を一つずつ否定しながら「社会」と乖離する論理を構築して実践してきました。その逆を行けばいいのです。

     絵画は改めて自由を受け入れることから始める必要があります。そこには文教族を絶対に立ち入らせてはなりません。絵画の世界に描いてはいけないモチーフや絵はあってはなりません。絵を販売する場所は画廊ではダメです。輩というか反社会勢力が近く遠くから関わっている画廊があります。絵画は野菜の即売所のようにガレージで売ればいいのです。売るというよりも配るといいでしょう。私は自分の絵を売らずに自宅のガレージで配ろうと思います。配る相手は近所の子が理想です。近所の子に何百枚も配ろうと考えています。それが正しい絵画のあり方だと思います。

     政治の世界には保守と革新があります。与党と野党です。私の生徒には実際の所文教族の存在を知りつつその傘下の組織に、みんな与党に行って欲しいと考えています。でも野党に進みたいのであればそれもいいと思います。野に下り世渡りをしないのであれば私のように事業を起こして経済的な体力を身につけたりしなければなりません。その覚悟があればそれもいいでしょう。絵画の世界は単純な努力や評価では、つまり実力行使だけで生きていける世界ではありません。このようなことであることに気づかず戦いに敗れていった人は大勢います。彼らの敗因の多くはこの世界が平らかだと誤解したり、自分には特別な才能があると誤解したり、諸々騙されてこの世界に入ったからです。そして彼らの多くは実は私の知る限り残っている人よりもはるかに優秀です。彼らは小細工を一切しなかった。真っ向勝負したので残れなかったのです。真っ向勝負している人材を拾う気がないのに運営している組織を許すことはできない。こういったことをよく踏まえて絵画の世界に足を踏み入れなければ上手くいきません。今の絵画の世界で生き抜くには絵画の世界で生き残ることに特別に固執すればいいだけのことです。ちなみにこの世界を与党でも野党でもいいのでどのように作るべきかを考え抜くのであれば、そのように絵画に人生を捧げる人は少ないのでこの世界は逆に生きやすい世界だと思います。

     既得権益を持っている人に付いていこうとすると従順でなければなりません。その代わり色んな理不尽にも耐えなければなりません。何か書こうものなら「そんなこと書かれると困るんだよ」(そんなこと書かれると困るんだよハザード)と言われます。身内が犯罪を犯す訳です。社会の眼から逃れられている今は既得権益を握る権力者の天下です。つまり「上」。でもそれが今変わろうとしています。今標的にされたのは日大です。日大であるような理不尽は他でもあります。彼らが共通するのは「可愛がり」をやることです。それは「愛」と言われることもあります。いずれも自分を絶対的強者と思い込み惨めな下々に手を差し伸べてしんぜようと誤解した時に起こる感情です。これは残念ながら東京芸術大学にもある。これから変わっていくのだと思います。
     本来は上も下もなく、区別をする、人間の選別をする以上は「愛」ではなく、正しく厳正な評価の基準が必要なのです。媚びる奴を選ぶような、弱いものに強者が愛の手を差し伸べるかのような考えや感覚は一切持ち合わせてはならない。「愛」という言葉はいらないのです。

     人の幸せとは単純ではありません。仮に理不尽が社会から標的にされるようであれば愛で守られた従順の努力は水の泡と消えると思います。上は絶対的強者のそぶりで「愛」を口にしますが、それに心から従っては絶対になりません。上があなたを確実に選ぶならいいでしょう。その愛の代償として身も体も捧げてください。それであなたがいいのであればそれでいいでしょう。でもその愛はあなた以外には注がれないはずです。「愛」とは特定の人を選別する言葉です。誰にも平等に与えられるものではありません。
     不幸は自分の中にある全てを否定するものではありません。つまり全てにおいて不幸とは言えません。努力が水の泡になった時、泡になった代わりにとても晴れやかな清々しさを感じるかもしれません。それであればそれは幸せなことでもあり、本当は出せなかった本音がやっと出ているのだと思います。表現者としては大事にしたいところです。

     あなたがもし「自由」を大事にしたいなら、既得権益を持っている人の言うことを全く気にしない生き方をすることが最も自由な姿だと思います。いわゆる天才とはこのような生き方を貫き既得権益を生み出す構造を根こそぎ破壊して、根底から物事を覆す結果を出せる人のことです。天才の姿勢は従順ではなく強情です。
     私は正直昔から日大は馬鹿だな〜と思っています。少し前のアメフトの監督が学生に他校の学生にタックルして怪我を負わせるように命令したようなことをしていることは昔からわかっていたことです。そして最近日大理事長(原稿を修正している今は元理事長)が馬鹿なことをしています。これは従順が生んでいることです。この従順は絵画やアートの中にもある、というかそれしかないようなとても悪い状況です。これを根底から覆すには権力者に従わない勇気を持たなければならないのです。でも残念ながら絵画の世界は従順な人しか生き残れないし、その結果従順な人しかいません。「自由」はそこにはなくあるのは「上」です。とても長い間権力者の既得権益は細々と守られています。
  • 絵の課題の前に〜7「絵画はやり尽くされていない、描いている時のことは全く書いていないのだから」

     アートの世界では「絵画はやり尽くされた」と言われていますがそれは全くの間違いです。正しくは「絵画のジャンル分けの作業が完成した」、又は「絵画のカテゴライズの作業が一通り終わった」です。絵画がやり尽くされたのではなく分類の作業が終わったにすぎません。それがわかっていても先人達は、特に日本の先人達は全く声を上げることなく従い続けてきた。「東京芸術大学など外から見れば雲の上の存在のどれも誰も何一つできずにただただ大人しく従うしかなかった。」というのは雲の上を見てきた私のいる雲の下への報告です。このことがアートや絵画の世界が外や内側から見て外の人も内側の人も意味がわからなくなってしまっている大きな原因だと思います。外にいてずっと疑問に思っていたことも内側にいて誰も、東京芸大の教授ですら腑に落ちていない状態であることも最近になってやっと理解できた。結論は「大昔から、おそらく何千年も前から何も変わっていない」です。

     かつてエジプト文明では絵画の様式は3000年変わらなかったと言います。今の状況はそれとさして変わりません。最近まで漫画やイラストはアートの世界では認められていなかった。今でも芸大美大受験ではイラストを描くのは御法度です。どんなにいいイラストでも受かりません。それは分類しているからです。これは絵画であればいいというものではありません。
     公平公正と表向きは歌っても全く公平ではなく、公平公正であるべき入試を例にあげてみますが東京芸大の根本的な問題は入試の出題をリークする教官がいることです。私自身入試前に出題を知っていることは多いです。もちろん東京芸大の内部の人間もリークしていたりかつてリークを受けてきたのですからリークの事実は承知しています。入試に関して予備校と芸大との水掛け論に折り合いがつかないのはこの事実があるから。この事実を伏して解決しようのない不毛な遠吠えを続けています。都合が悪いので両者ともにここから始まる問題に手が出せないのです。これによって被害を受けているのは東京芸大とリークされている予備校ではありません。情報の入らない予備校と受験生を抱える高校です。私の高校生の時からの悲願は全国のどこからでも東京芸大を目指せることです。
     入試を公平公正にするのは簡単です。リークを完全に無くすことです。東京芸大の内部の人間は誰がリークしているかは知っています。でもそれを改善するでもなく隠蔽するしかない。東京芸大は合格者がひとつの予備校に偏る状況を予備校のせいにします。でもこのことはリークから始まっていることなのです。東京芸大が本気になればいつでもなくせること。ここに東京芸大の心が現れています。リークが無くなればひとつの予備校に合格者が偏ることはなくなります。でも東京芸大は善意として個人的な「愛」であるリークをするのです。一時期は毎年試験問題がわかりました。その時に担当している生徒のことを思えば試験問題がわかっていることは助かる。でも頭の隅に九州の高校で芸大一本で何もできなかった自分の苦しみの部分が当時のままの悲鳴を挙げます。リークされた情報を知らない大多数のことを考えてください。東京芸大にとって何が一番大切なのか?それは知り合いと自分に利益をもたらすことではなく入試に関わる全ての人に公平であることです。
     東京芸大の公平でなくても構わないという横暴な体質を生む緩みは入試の評価を都合よく適当に決めて良い所から生まれています。評価の仕方をしっかり公開するか固めることができれば横暴を許す隙間は限りなく狭まります。油画専攻では合格させる作品はその時の都合で決まっており一貫性は全くありません。都合の悪いことの全てを隠蔽していることも緩みを生んでいます。大学院の入試ではイラストでも教官の都合が良ければ合格します。よくある例では他に受験者がいなければ合格です。この都合は東京芸大の教官や他大学の教官を決めるまでに至ります。全ては教官の都合で決まっていることなのです。教官がどう動くか?それを踏まえて動かなければ物事が上手く運ばないことを知っていてください。
     入試でなくとも、これまで絵画の中では一部の画風やスタイルしか認められていませんでした。あらゆる絵の中でこれは認めるがこれは認めないと言う選択をすることで選民思想的な上流感覚に興じ、自分たちのみが正しいや価値があると悦に浸り、自分たちだけの利益になるように自分以外の組織を否定しながら儲かる方程式を作り上げ、根底にある自分たちさえ得すればいいと言うエゴを満たしてきた。このような偏執的な状況は考えられるだけのスタイルを創造し尽くした今はなんとか少しずつ変わるようになってきた。近年では絵画らしい絵画こそ全く日の目を見ることはないにしても、これまで絵画の世界では全く認められていなかったイラストチックな絵は受け入れられるようになってきている。

     これまで絵画の中では絵を描くと言う仕事は新しいスタイルの確立に完全に偏ってきた。「ただ描くこと」を一切認めなかったと言っていい。私なんかは本当はただひたすら描きたかった。でもそれを認めてはもらえなかった。私以外にも公募団体などで描くことを主体としている画家は全く認められてこなかった。でも不思議なのはなぜか東京芸大が団体を否定せず守っている場面もある。美術評論家からしてみれば描くことを認めれば評論家の立ち入ることができない狭い範疇の中の出来事を肯定することに繋がる。つまり「描く」ことを肯定することになる。狭い絵画の世界をなんとか広げさせようとする懸念を解決し広げることに際して湧き上がる心配の種を潰すこと以外の話は一切タブーとなった。やがて画家の仕事として推奨されるのは「絵を描くこと」ではなく、絵画の外の「現代美術」の世界の仕事になりました。学校で絵に触れ、賞をとったり良い成績をとって自信を持ち、絵に興味を持った学生の多くは絵を餌にこの世界に集められ、そして上手く集まった後は逆らえない状況に立たされ絵の外の現代美術の世界に進むように教育(洗脳)されてきました。タブーとされる中で絵を描く組織は形骸化し力を失いました。形骸化したお陰で硬かった絵の世界の壁は溶けていきました。そのお陰でもうじきイラストが絵画の世界に受け入れられそうな気配を感じます。
     そんな仕事の中で生まれた論理が「絵画はやり尽くされた」です。その言葉は同時に「絵なんか描いてもしょうがない」と言う状況に陥ることを簡単に想像させました。なので東京芸大の教授の一部は「絵なんか描いてもしょうがない」と連呼した。当時の声は25年経った今でも私の頭の中で鳴り響いています。どいつもこいつも絵を描くことを否定することしか言わない。絵のジャンルを増やしていく、発想していく水平思考の脳はいとも簡単に画家の「絵」への執着心を消失させ「絵」から人を引き離しました。

     我々は風潮に合わせて空気を読み無自覚に「絵」から離れた。そして難しいことはよくわからないが何となく「絵画はやり尽くされた」と思ってしまう。よく仕上がっていますが私はそんな気がする人は「上」に巧みに洗脳されていると思います。
     新しいジャンルをカテゴライズしていくゲームとしての絵画は本来一部の人間がやればいいだけのことです。カテゴライズされた中で絵を描く人はそんなことを考える必要はありません。スポーツに例えるなら「野球」が生まれて西洋ではなくアメリカで流行らせると言うのは一部の人間が考えればいいこと。野球をする人たちはその辺りは考える必要はありません。しかしアートの世界、絵画の世界はその後すんなり絵を描かせなかった。絵を描かせなかった所に一部の人間の余計な都合があるのです。野球をさせたくない一部の人間によって行われたこれは「洗脳」です。
     かなりよく仕上がった洗脳なので実感は全くないと思います。無自覚に、そして何となく。実際には「絵画はやり尽くされた」全くそんなことはありません。これは美術評論家の都合ではじき出される考えです。絵を描くこととは関係ありません。これをスポーツや音楽にあてはめて想像してみてください。「スポーツはやり尽くされた」「音楽はやり尽くされた」当てはまりませんよね?これはスポーツをやる側、音楽をやる側からすればスポーツすることに終わりがないこと、それは言うまでもないことですし、演奏することに終わりがないことも言うまでもありません。スポーツと音楽には「洗脳」がかかっていない。絵を描く側ではなく、スポーツをする側ではなく、音楽を演奏する側ではなく主催者が主導権を握りたい時に「やり尽くされた」と言う言葉がどうやら出てくるようです。事実絵画の世界で主導権を握ったのは美術評論家、キュレーター、美術館、画廊です。彼らにコントロールされている絵画の世界は「やり尽くされた」と言われるようになった後に絵を描くことが終わったかと思えるような空虚な時間が続いています。しかし描くことに終わりはありません。このおかしなことは権力闘争の中で迷走する内に混乱に乗じて誰もが気づかないうちに論理のすり替えが行われて起こってしまいました。この洗脳を受けた人は絵をやめた。今日は洗脳を解いて絵をやる話です。

     「絵画はやり尽くされた」はほどなく「絵なんか描いていても仕方がない」という誤解と錯覚を生んでしまいます。事実世界中の画家が筆を置きました。そして本当に絵を描いても評価されない仕組みに変わった。私の通った東京芸術大学でも絵が描けない状況が続いた。絵画はやり尽くされたと言う言葉は絵画のやることがなくなり、描かなくてもよくなったと言っているように聞こえますが、実際には絵を描く画家の立場からすればまだ何にも始まってはいません。完璧とも言える強力な洗脳がかかっているため始めることがとてもひと苦労。相当豪腕で大きな鉈を振るわなければことが動き始めません。「絵を描いている時のことを書く」これは近年全くやってこられなかったことです。書かれなかったのは絵を描く論理は洗脳のために封じ込まれたパンドラの箱を開ける鍵となり、「上」をブスッと綺麗に綺麗に貫くロンギヌスの槍となるからです。

     画家は自分の描いている絵を描き始めから描き終わりまでず〜と見続けています。この時間は美術評論家によって全く価値のないものとされています。描くことの意味を否定し描くことを無価値にして、「絵について考えること」を最も大事なことにしています。でも洗脳を解いて描くことを再認識しなければなりません。描き始めから終わりまで見続けることは大事なことです。誰がなんといおうとこの時間が大事。画家はこの時のことを「書く」べきです。これは美術評論家に書くことはできません。この期に及んで文章が苦手だからといって彼らに甘えても仕方ないでしょう。今の状況は半分書けなかった画家のせいです。何も書けない画家のために美術評論家が代筆した、そうなれば描いている時のことなど美術評論家にわかるわけはないので絵を描き終わって鑑賞する時の話や作品の時代背景などの話になるのは当然と言えば当然です。

     絵を描いている時間は画家が作品に最も長く触れる時間です。画家でない方でも描いている時が最も長く触れる時間だと思います。描く時間に最も長く触れている人同士は同じ価値観を共有しています。そこで共有している価値観の体力は社会に対して非常に脆弱で社会で権力を振るう学校や美術館などに簡単に吹き消されてしまいます。でも本当はそこにある価値が最も大事なものなのです。絵画の世界が確立して来なかったのは描く時にある様々なことを言葉にし、その言葉を要素としてお互いが繋がっていくことです。共有することができれば絵画の価値として成立していきます。スポーツではほんのコンマ何秒の差のことを共有できます。その瞬間について世界中の人と繋がることができる。そしてその瞬間には無限の可能性がある。音楽も同じです。絵画や絵はその点全く手付かずで未熟な状態です。強いてアニメや漫画の世界は繋がろうとしていますがコンマ何秒で繋がれる術をあまり知りません。あるにはありますが例えば「バルス」です。絵で繋がる価値は未来で必ず確立される。確かに存在する大事な要素。要素について徹底的に書かなければならないでしょう。美術評論家と美術館の権力を簡単にねじ伏せられるように徹底的に書かなければなりません。絵について考えることの時間は絵を描くことに重点をおいている人たちの中では少ないはずです。一方でその人たちとは違う時間を過ごしている人たちがいます。それは美術評論家です。絵を描く時間よりも絵について考える時間の方が長い、ほとんどが考える時間です。今社会で確立されている絵の概念と価値観は美術評論家が作り上げた論理です。そこには描いている時の脆弱な描く感覚は一切含まれていません。

     美術館と美術評論家は見る時間と考える時間は最大限に評価しても描く時間のことを全く評価しません。見向きもしない。見てもよくわからない。見てしまうと自分たちの都合よく作り上げた構造が根底から崩れるのが直感的にわかるから反射的に嫌厭する。そして学校の先生もこの絵を描いている時間のことを評価しません。彼らは真っ白で加筆する手の入らない絵に、又は真剣に消してしまった絵に、必死に描いて真っ黒に潰してしまった絵にどんな意味があり価値が見いだせるかわかりません。そこには絵画の無限の可能性があるのです。真っ白に消された絵の制作途中には意味があります。大事です。しかし美術館は意味があるという話になってしまっては困るのです。学校も困ります。権威が揺らぐ可能性があります。成績のつけ方と評価の仕方がわかりません。両方ともポンコツです。絵画は真剣に取り組むほど描けなくなることがある、そんなことも踏まえられないポンコツちゃんです。特にポンコツなのは美術館です。美術館は絵を展示させることで支配が完成します。だから描き途中の話は都合が悪い損するばかりの辟易する話です。描くことの話になってしまえば顔で笑っていても心が泣いています。美術館は画家が絵を展示することにどれだけ執着するかが大事です。展示が画家の餌ですから。画家が美術館にすがれば美術館はそれだけ権力を保てます。美術館の努力は権威を守ることです。美術館は画家と鑑賞者を徹底的に管理します。学校もしかりです。

     完成された絵からは制作途中にある価値はほとんど見えてきません。途中の行程の詳細がどれだけ見てわかるのか?美術館と学校は手に取るようにわかるとほくそ笑みながら言うでしょう。でも実際にはさっぱりわかりません。そのため絵画を破壊する無謀な保存修復がなんのためらいもなく施されます。修復の終わった作品の全てが全くの別物です。それは描くということに対する興味が欠落しているために起きています。別物になっていることを見てみぬふりするのは見てしまっては描き途中のことが何一つわからない素人であることがバレてしまうからです。別物でも書類上は本物です。これが保存修復です。
     絵の制作途中には価値があります。実際問題、完成された作品からは制作途中にある絵の価値のほとんどが見ることができません。でもこれは動画撮影が変えてくれるはずです。美術の、美術館の盛り上がる可能性は実はここにあります。動画撮影で記録をするべきです。現状で私は「絵を描かない画家」なので今現在絵を描いている画家のみなさんには動画撮影をしてネットにあげてほしいと思います。絵画が描くこと自体の意味を認めれば、ダンスに負けないくらい、漫画に負けないくらい価値を持ちます。美術を扱う美術館も今の不毛な採算の取れない馬鹿げた企画ではなく初めて世が認める価値を持つと思います。これを書いている今、森美術館で鬼滅の刃の原画展を行なっていますが、美術の側が一線を画して必死に差別し軽蔑している漫画の展示は長蛇の列。その一方女性アーティストを集めたTHE美術と言える展示の方は私が原画展に並んでいた多分200名程度入場した30分間で1人も入場者はいません。この件に関してはいつか詳しく書こうと思っていますが、簡単に言えば漫画の世界の方が権威で人を見下ろし、管理することなく人の目線に立って価値あるものを提供し続けている素晴らしいものだということです。一方で美術は権威を祭り上げてから、上から下々を見下ろす構図を作り、その構図を最も大切にしながら、「下々」にお金を払わせ、絵を鑑賞させる。そして下々には自由に好きなように見るように命令し学校などで下々は下々なのだからありがたい美術館に行くように命令される。いかに命令と言えど人は本当の自由になった時に本当に価値のあるものを選びます。その結果が原画展とTHE美術の展示です。美術館の関係者が言い放つのは「教養がない人は見にこない。来るのは海外の方ばかりだ。」です。これは根本的な誤りです。日本人もそこそこ教養があります。そこまで馬鹿ではないです。学校では年月をかけて教育をしています。教育のシステムに構造的な間違いがあるからこのような問題が起きるのであって一般の人の誰にも非はありません。一般の人たちに教えるべきものがあるのであれば幼稚園、小学校、中学校、高校でしっかりと責任を持って与えておくべきです。でも教えるべきものを並べてみてください。冷静にそれを見ればそれを教育する必要が実はないことが見えてきます。今のままでいいのです。見えてくるものは既得権益を得るものたちの利益を守る構図です。それを美術館やアートは教養と称しています。本来みなさんは真面目に学校に通い学校の与える絵画の教養を与えられています。その教養をフル動員してもさっぱり訳がわからないのです。つまり学校では偽の教養を与えて誤魔化している。美術館や指導要領を作っている人間に教養がない訳ではありません。でもこの矛盾や問題を知りながら無視をしています。無視をする理由は既得権益を第一に自分たちの都合よく動かしているからです。そうするとみなさんはわからないものは切り捨てていい。学校に通って教養と称するものは真面目に授業を受けて勉強しているのですから。それでも教養がないというのであればそれは指導要領を徹底的に叩き壊して正しいものに作り変えるべきです。みなさんは教養を得た上で正当に選ぶべきものを選んでいるのです。本当は絵にも美術にも大きな価値があります。ただこの価値の教え方を誰もが間違っている。この価値が花開かないのは仕上がった作品でなおかつ賞を取らせた本当に数少ない作品しか取り上げないという支配のための構図を壊さないからです。壊さない理由は権力、特に利益を手放せないからです。芸術作品はしばしば国益のために利用されてきました。日本では千利休が二束三文の茶器を高額で売り秀吉に儲けさせた。ドイツの美術館はユダヤ人を虐殺し死体から剥ぎ取った宝飾品で作られた。このようなことに利用されることで構造が壊れるのです。
     「絵」において描くことは最も大切なことです。一握りの巨匠ならいざ知らず、美術の外の世界の一般の皆さんにとっては完成された作品を評価されることよりも絵を描くことの方が自分と絵との関わりの中では大事です。美術館と美術評論家と学校の先生が描くことの意味を深く考え評価しないことによって描くことにある多くの意味は気づかれていません。斜陽にあり誰もが指を咥えてどうすることもできずにアホ面下げて死んだ魚の眼をして鼻水垂らしている最中で「絵を描くこと」の意味を誰も語れずにいます。これは画家が美術評論家と美術館に平伏し支配されているから起きる事態です。美術館よりも画家のアトリエの方が大事です。美術館よりもご家庭の方が大事です。美術館はただの倉庫。倉庫を素晴らしいもののように化けさせているのは美術評論家と美術館です。美術館はただの倉庫です。騙されないでください。美術の世界において大々的に話題にすることはありません。このことは美術の世界の本当に残念な過ちだと思います。画家のみならず絵を描くことに触れたことのある人の多くが最も実感を持って感じている絵の価値は絵を描くことです。でも美術評論家はこの最も大切な「描くこと」を評価する力がありません。美術評論家は絵の世界を考える世界に置き換えることで生業としています。そして描く世界から考える世界に塗り替え支配し続けています。若い美術評論家の多くは描くことの素晴らしさに気づいています。しかし出世をすると今の絵を考える世界を守らなければ自分の利益にならないので描くことから目を背け仕上がった作品のしかも画廊と美術館に展示されている作品にしか見向きしなくなります。この姿を見るたびに私は「絵を描かない画家」であり続けたいと思ってしまいます。自分の中の美学というか真実に向かってただひたすら真直ぐ進むとなればそのような美術評論家のいうことには未来の無さから関わる意味をひとかけらも見出せないのです。全く評価されていない、何よりほとんどの画家は出来上がった絵を鑑賞する時間より全然長い時間描き途中の絵を見続けています。描いている時間も観ている時間です。飾っている時間よりも観ている時間の方が圧倒的に長いものです。それが観ている時間の話ばかりされる。描いている時に観ていることの話は全て無視。画家にとって描いている時は最も大事な時間。そして画家でなくとも全ての人間の絵を描いている時間がどれだけ大事なことか。我々が描き途中を話題にしないのは、描き途中の話をする論法を持たないからです。それは美術館などの権威が完成されたものしか話題にする機能を持たないからです。絵画は鑑賞と販売で成り立っている。そこに描いている時の話はありません。美術館は大昔と変わらず沢山ある作品の全てを見れないために1つに選んでそれ以外は流すといういかにも乱暴極まりないシステムを惰性で運用しています。「馬鹿か?」と思います。スポーツはスポーツしている時を大事に考えています。音楽は演奏している時を大事にしています。動物園は動物が生きている様子を大事にしています。美術館は完成した作品しか扱いません。馬鹿そのものです。動物園であれば死んだ動物の剥製しか鑑賞しないようなもの。「馬鹿か?」と思います。いや間違いなく馬鹿そのものでありポンコツです。絵には数秒で描き終わるものもありますし、数分かかるものも、1時間程度かかったり、10時間程度かかったり、100時間、1000時間かかったり、一生描き続ける作品もあり様々です。それぞれに生きています。それぞれに全く違う素晴らしさがある。「そこ」だと思います。えらい美術評論家は「絵画の時代は終わった」とさもそれらしいことを言ったみたいです。「馬鹿か?」と本当に思います。いや「馬鹿だ」と断定できると思います。そうすることで絵画の世界は大きく発展するのですから。
     便利というところでしょうか。でもその便利さの陰で絵画の世界は大事な本質を見逃し絵画が大きく発展する機会を掴み損ねています。絵画が完成されたものしか扱われないのは、絵画を販売する権利を持つ者の都合と鑑賞させることによって利益を得る権利を持つ者の都合を中心に絵画の世界が回ってしまっているからです。この世界では美術館の権力が大上段に掲げられて画家は支配下に置かれ美術館の権力が行使されています。この状況が一向に変わらないのは美術館に代表する権力者が画家を奴隷と考えているからです。多くの画家の制作の労力には見向きもしない。奴隷はどれだけ働こうが作業しようが奴隷の作業時間など美術館は評価する必要などありません。仮に評価してしまえば今の立場が揺らぎ、既得権益が永遠に得られ続ける立場を失いかねない。本音を言えば我が金が全て「下賤の者の労働など知ったことか。」そんな感じだと思います。画家が出来上がりの作品などの形と評価など結果といった形に残るものだけを大人しく静かに出しさえしてくれれば権力者はそれでいいのです。権力者は画家に奴隷と直接言うことはありませんが、コレクターやギャラリストは奴隷なり、「早く死ねばいい」と言い放つ馬鹿が今まで何人かいました。美術館はしたたかだと思います。画家が「奴隷」という感覚は確かな慣習として根強く残っています。奴隷の作業の経過などどうでもいいし、ねぎらいや評価など一切する必要はないと権力者は考えています。下賤の者に労いなどそんな振る舞いは権力者には似合わないし、権力者が下賤の者の作業などの汚いものに触れれば権力者ではなくなると考えています。特に美術館という権威の横柄さ、横暴さはひどいもんで、一切制作途中を評価したり取り上げようとはしません。扱うのは出来上がりの作品ばかりです。このことは画家ではない一般の人たちに大きな影響を与えています。何よりも発表をする必要のない人たちが制作することの価値を、大上段から美術館は否定しています。それによる絵画の被害はどれほどのものか、暗黙の了解で絵を描くこと、描いている時のこと、感じや考えていることなど全て切り捨てているので、描くことが主体の発表しない一般の人たちの目で見たり、手で触れたり、聞こえてくる筆の音や絵の具の匂いなどの全ては取り上げるようなたいしたことではなく「つまらないこと」だと考えています。画家にとって最もリアリティーのある絵は制作している時に目の前にある絵の出来上がるまでの絵です。画家でなくても同じことです。美術館はこの最も大切な「出来上がるまでの絵」を全く無視します。これはつたなかろうが完成した作品の評価がどうだろうがそんなことよりも個人としての絵では最も取り上げるべきことなのです。絵を描く労力が見向きされないことは2000年前に滅びたエジプト文明から何も変わっていないのです。「画家という奴隷を管理する権力者が王から美術館に変わった」それだけの話です。私はこの構図をブッ壊そうと思います。
  • 絵の課題の前に〜8「へっぽこ美術館は絵の価値を偏見で決めるのを直ちにやめ個人が描く全ての絵の価値に目を向け広めることに専念しなさい」

    「へっぽこ美術館」

     へっぽこ美術館とは日本にある全ての美術館のことを言います。へっぽこと私が命名しました。美術館がへっぽこである根拠は評価の全てに効力がないからです。まず、幼児、小学生、中学生、高校生に対する評価の全てがサッカーなどの美術以外の世界のようにプロに全く繋がりません。(プロがいないという訳ではありません)東京芸大油画の入試においては偶然の一致が数%(1%程度あるかないか)の確率であり得ることはありますが全くないと言い切れるほどありません。つまり私の元にくる生徒に受賞歴がある生徒とない生徒が半々でいますが全く整合性はありません。大人についてもプロに繋がる可能性が全くありません。高校の美術の成績も全く参考になりません。そしてそのような状況を尻目に美術館は最近ではバスキアやバンクシーや東京で行ったので言えばバルセロの美術展を開催して堂々とチケット代を回収します。彼らの作品を評価しておきながら、どのような作品が世界に通用するか鼻高々にご高説を宣い(のたまい)ながら国内の幼児から大人までの全ての人に彼らの作品について教育し次のバルセロやバンクシーを育てると理想的な虚言は語りますが、具体的に実行し育てる気は全くありません。さらには絵画のプロの世界のことを語っておきながら国内のコンクールでは世界に通用する目線で作品を評価する気配が微塵もありません。あるのは全く通用しないような偏った無意味な評価です。そんな気配の中にあっても幼児から大人にかけて意味はない賞を内容はともかく賞を得たこと自体に意義があるような感じで絶賛しながら与え続けています。コンクールではバルセロと同様の作品が幼児、小学生、中学生、高校生、大学生、大人の出品作品から出てきても全く評価しません。私の経験上そのように指導した子供や大人は全て落選(落選は最初からわかっていますが真っ当な指導するために無視して指導しています)です。バルセロやバンクシーのような人が出てきたとしても評価し世界の舞台へと押し上げたり世界へ繋げる力が全くありません(美術館の機能として致命的です)。バルセロのような絵画を制作している画家は日本にもいます。バルセロを大上段に上げる時間があり偉そうな評価を下す暇があったら日本の画家のプロモートに梃入れし美術館に評価する力があるのであれば世界の表舞台で日本の画家が活躍できるようにしろ。と言いたい。ただし、日本は弱い国であり、それだけの論述の力のある美術館と学芸員がいないのでできません。さらには実現するには他にも大きな力(こういったことを踏まえなければ画家として生き抜くことが困難であることを知りうる事実の全てを処方箋として教えなさい。)が必要で・・まあ諸々の本当のことを日本人に伝えながらそのような背景の中でのバルセロ、バンクシー諸々だと正しく話せと言いたい。ので私は日本の全ての美術館が使えねー、無能、可愛らしく言えばへっぽこだと言いたいのです。幼児にも中学生にも高校生にも大人にも画家として死んでもいいくらいのつもりで絵を描いている人がいます。しかしあまりに美術館に力がないので彼らの全員が生かされないのです。幼児でも高校生でも真剣な人がいます。彼らの夢を叶えられないのであればその訳を幼児でも高校生でも話すべきです。話さず賞という栄誉だけ与えて誤解を生むのはあまりに罪深い行為だと、そこのどこに正義があるのか?と本気でそう思うのです。日本の美術館は弱い、そう考えた時にバンクシーのように美術館の外で活動した方が可能性を感じ成功のイメージを見ることができるのです。私は生徒に日展にしろ、県展にしろ、セゾンアートプログラムにしろ、ゲイサイにしろ、岡本太郎大賞展にしろ、絹谷幸二大賞展にしろそれぞれが押し出した画家の押し出された経緯を知った上で、ガチで出品した画家から評価される可能性を微塵も感じないことから生徒に出品を勧められるものが1つもないのです。自分の生徒には押し上げられるべくして押し上げられるレールが見える時(例えば事前に賞を取らせると密かに耳打ちして声がかかります。私ならきもいので無視しますが。受け入れた(気持ちの悪いマウンティング)奴が出世します。)に気が向けば出品するように指導しています。それぞれの展覧会が与える賞は後光が差すほどの栄誉のような言われ方だけします、日展でも県展でもそうです。本来であれば日展や県展からバルセロが出て来なければならない。それが全くできないのはその展覧会と美術館に力が全くないからです。全くないのは強者の論理で筋を通す絶対的に正当だと押し切れる評価(実際は個人的に押し切れるものを掴んで美術館など通らずに活動した方が楽というか間に美術館をかます必要が全くありません)を全く持たないからです。学校では甲子園やオリンピックでメダルをとった中学生や高校生と同じ列に並び県展や高校美術展で受賞した人が朝礼の舞台上に並べられます。その実際の質の差を考えた時に鳥肌が立つくらいみっともないし寒いのです。だから私は賞を取った子や人を見ても全く嬉しくないし笑えない。全くことが上手く運ぶようにならないので緊張感が解けることはありません。というかぬか喜びの無意味な褒賞を与え緊張を解こうとする美術館が犯罪者にさえ見えます。現状を知っているのになぜこのようなことを平然とできるのか私には理解できない。私が考えているのは甲子園で優勝したりオリンピックで金メダルをとるように絵画の世界でバルセロと並ぶように生徒を育て上げることです。冷たいかもしれませんがお世辞や虚勢を生徒に持ち込む感覚は微塵ももてません。私の指導は美術館のようにおぞましいものではなく神聖なものです。誰もが不可能だと考えるかもしれませんがそんな常識など一切気にせずただ前だけ向いて指導していく感覚しか私は持ち合わせていません。本当に美術館は何やってんだろうな・・と思い悩みます。

    「美術館が来場者を増やす唯一の方法」

     今日はへっぽこ美術館に絵に興味を持つ来場者が増える必殺の方法を教えてしんぜようと思います。まあ学芸員としての出世には繋がらない話ですが絵のために働く気が微塵でもあれば読んでみることをお勧めします。結論は簡単です。絵の展覧会の全てにおいて優劣をつけることをやめ全ての出品作品の絵画的な価値を論熟し尽くす程書き上げて出品者に渡し鑑賞者に渡し公に公開することを続けるのです。そうすることで出品者と鑑賞者の絵に対する興味は高まりいずれ世の中の人の絵に対する知識が増していきます。そして日本で唯一価値のある美術館として歴史に残りたければ実行することをお勧めします。ゆくゆくは世界的にも美術館のモデルとなると思います。これを読んでこれしか生き残る道はないと考える美術館はさっさと始めてください。優劣をつける展覧会を催したり入場料をとる展覧会を催すのは人の知識が十分に高まり評価が確定し求められるようになったその後からです。その後は難しくないだろうからご想像にお任せします。
     ちなみにへっぽこのへっぽこは六本なんちゃらとか板橋なんちゃらとか美術館全部です。私にとって絵の価値を見出せない美術館は全て何の価値もありません。昔は期待していましたが今の美術館のどこに油絵を描く画家の期待を背負えるところがあるのでしょうか?いやありはしません。心に絵があるのなら、へっぽこから抜けたければこの下もさらに読みなさい。

     皆さんご存知の通り絵を出品する場所といえば画廊か美術館です。そして画廊で注目された絵から美術館で展覧会をさせる作品なり画家を選ぶ権利を持つのも美術館です。画廊よりも上のランクというイメージが美術館にはあり、逆に画廊や市場で評価された絵を美術館が収集するということもありますが、世間の目で言えば諸々を一番上で管理し決定し支配している感があるのが美術館です。世間のイメージで言えば美術館の館長というと鬼みたいな顔をしています。 
     そのため絵の価値は鬼の巣まう美術館に決められていると言えると思います。実際に展覧会に出品して落選させられる幼い子供の恐怖心と言ったら実際に悪さをすることがない物語の中の鬼以上に実際に子供の心を奈落の底に落とす美術館の人間の方が恐ろしい存在です。外には菩薩のような顔をしていますが大多数の人に実際にやっていることは鬼です。絵の価値はこの鬼が決めています。つまり絵の価値は全て人(鬼)が決めているということです。黒く引かれた線を良いものか?悪いもの?とするかは鬼のボスの閻魔大王の匙加減にかかっています。「その論述の力を全ての人の絵に向け全ての人の絵を肯定する」ために使えというのが今回のお話です。
     絵の価値は生得的なものではありません。生まれ持った才能ではなく学ぶものです。これも閻魔が仕掛けてのこと。そのため生まれ持ったものから何かが出てくるか待っても今のところの美術の中では評価されることは永遠にあり得ません。閻魔が全ての人の絵の中から価値を見出すようになれば生得的なものから出ていることに価値を与えることができます。殴り描きひとつとっても自称アーティストで閻魔の都合のいい者の殴り描きは評価されることがあっても子供の殴り描きが評価されることはありません。子供の殴り描きを評価することは展覧会を催し受賞作品を選別する機能そのものを破壊し、それまでの賞の意味の全てを駆逐してしまいます。(実際にはそれでいいのです。バスキア、バルセロと並行して子供や大人の作品を同等に同様に評価するのです。バスキア、バルセロを大上段に掲げるのではなく正統に作品を見て評価し絵画を見ることに優劣を持ち込む意味を完全に無くすのです。)展覧会を企画することによって権力構造が生まれ閻魔は支配者になれるのです。逆にその構図の意義が閻魔と餓鬼にしかないことに世間が気づけばこの構図は簡単に壊すことができます。これはその序章のためにも書いています。絵の中には閻魔の力によって封じ込まれた、正義の、生得的な絵の価値は人の描く全ての絵の中にあります。その価値は素晴らしいものです。それを鑑賞したり描いた作品を大事にすることは絵にとっても人にとっても大切なことです。そこに閻魔と賞の介在する余地はありません。そしてそれを人に伝える役割を担うのは本来美術館です。美術館の世の中に対する最も重要な役割は残念ながら微塵も果たせていません。これを実行しないのは権力のためです。
     今ある絵は閻魔やその下っ端の餓鬼がこれが良いものであると価値を勝手に決めているものです。そのため決めたことを教育してからでなければ絵を見ても勝手に決められていること、しかも鬼が決めたことなど知るわけねーというのが、いいものの正義よりの世間な訳です。絵を見に行っても怪獣とか悪魔みたいな絵ばかりでそれをアナザーなんちゃら絵とか言わても鬼の決めたことがすんなり頭には入る訳ないのです。現状では現代美術なり絵なりモードなりコードを知らない人間が悪いと美術館なりの言い分が正しいとのことですがとても不遜だと思います。まあ一般の皆さんからすればそのような諸々は煙いだけの話です。どれだけ美術館から自分達を正当化されようともこちらと齟齬があれば永遠にただのへっぽこです。そしてよくそんな神経でいられるなーと思うと同時に鬼のイメージがピタッとハマりすぎてどうにもハマりすぎるのが嘆かわしいです。自分達が正当だと思って色んなところから絵を集めても齟齬が生じ価値観が食い違い食い違った認識の差を埋める「教育」(これポイント!テストに出ます)もせず(せめて幼稚園から高校までの先生を対象のレクチャーぐらいはしなさい)ただ金欲しさに広告し来場者を集めようとして閑散とした展覧会をやり続けそれでも給料はもらえるから良しとしているへっぽこ学芸員の君(守銭奴の君はとっても素晴らしい!)。それでも美術館を再生できる手立てはない訳ではないので嫌々ながら君が改心するために書いています。少し前に鬼滅の刃の展示を六本木なんちゃらでみましたが隣の絵のアナザーなんちゃら展覧会はまー30分程度チケット売り場の鬼滅の行列に並んでいる間にだーれも誰一人チケット買わない。この齟齬は本当に情けない・・。
     現状では美術館は信頼され信頼を利用して子供たちや大人たちの展覧会を開催し賞を出したりしています。信頼を得ている分美術館が開催している展覧会の影響は世間では思いのほか大きものです。その際に評価されないことで絶望する子供があまりに多く、賞をもらったことで才能があると誤解して人生を踏み外してしまう子も残念ながら多く出てきます。展覧会の後の問題は評価の精度が低いことから起こります。評価がプロにまで伝搬されていないのです。つまり美術館始まりの美術館で終わる外で通用しない効力の全くない評価です。子供たちの人気のサッカーであれば評価された続けた子供はプロの世界にスムーズに入っていきます。しかしこれが美術の世界になると続くことが一度もないのです。全く参考にならず当てにならないものとして考えなければ人生を生きる上でのさまざまな問題が起きてしまいます。子供たちに与える賞は最終的に高校生を対象にしたコンクールへと展開します。この高校生対象のコンクールの評価でその先のプロ、つまりアーティストや画家になったり東京芸術大学に合格するようなことが全くないのです。本来であればアーティスト、画家、受験に完全に通用する評価が正当な評価です。それが展覧会に出品して力試しをしたい出品者や親御さん、学校の先生などが展覧会に参加する目的であり結果に期待し信頼しているところです。その信頼を完全に裏切るのは展覧会のあり方自体に大きな問題があるからです。私が特に問題にしたいのは展覧会で評価されなかった絵が実際はいくらでも評価できるもので世の中にその良さを伝える機会がこれまで一切なかったことです。美術館は展覧会で無駄なペテンの賞なんか出さなくていいから出品された賞の評価できる部分を徹底的に論述すべきです。それを続けることで世の中に絵の価値を認識してもらえるようになります。社会的な存在意義がわからず迷走状態にある美術館の皆さんに私が提案するのは展覧会で賞を出すことを止めることと、全ての出品作品の価値の論述を始めることです。特に即効性があるのは落選した作品の徹底的な肯定を行うこと。それにより絵の評価は正当なものになり、絵から心が離れた人たちを呼び戻すことができ、無意味に絶縁させてしまうコンクールの抑止に繋がります。そうすることで巡り巡って絵画の復権なり美術館の運営なりに帰ってくるはずです。

    「絵がどのように評価されているのか?」

     人類の全ての絵の価値は美術館が決めていると言えます。そしてこのような言い方をした方がそのことがそのような状況になっていることが如何に過ちか容易にわかると思います。実際問題として美術館は絵の価値を決める力がある。そしてそれは恐ろしく自分達の都合のみで自分の身の回りに功を奏するだけで価値が及ぼす範囲は極端に狭い。多くのコンクールは賞を出した人間と受けた人間とそれが学生であれば学校程度しか価値がない。絵とはそのような貧弱なものではないです。美術館の決めた絵の価値は価値があると決めた人たちとその状況を間近で知る利害関係者の眼の前でのみ成立しています。それは市長が決めたから受賞させようとか、政治家以外では社長が決めたから受賞させたり、美術評論家なり、芸大の教授だったりします。私は絵の評価は偏執的で狭い見方、例えば場合によって気分とか体調とか周りの作品に影響されながら見た時の絵の見え方で評価されていると思います。つまり絵は色んな見え方をするもので全ての絵が評価しうる絵であり、評価する側のその時の都合によって絵の評価は決められているにすぎないのです。そしてそのこと自体が絵のほとんど全ての機能を、社会に向けて働ける機能を奪っていると思います。絵には美術館が決め、美術館が認識し得た物事以外にも価値が無数にあります。その価値の認定は美術館という小さな箱にほとんど一任されてきたと思いますが実際はそのシステム自体に無理があると思います。ここまで言えば言うまでもないことですが美術館が認定した僅かな価値においてのみの絵の価値が認められ評価されているのです。そのことは仕事量の少ない美術館の評価できるパフォーマンス(数)だけしか評価できないことを意味します。私の知る限り美術館の学芸員は芸大美大などの大学を出ていますが私の知っている限りそれほど勤勉で活発という訳ではなくアートやデザインの世界に入るには気が引ける人が芸術学部を目指す傾向が強いと思います。彼らがそれなりに必死に働いてもそのパフォーマンスはあまりに小さい。それによる極端に矮小な評価の仕方は絵の無限の価値の一才を削ぎ落とします。そして画家の生命線。特に美術館の目前にいない全ての人が絵に興味を持ち描く可能性の一才をも打ち消しています。人が絵を描くときに自ら発掘する価値は美術館の認定している絵の少しの価値にほとんど当てはならないほど星の数ほどあります。ディブロが関係の美学で語っているように美しいとはそれを感じる要素を持っているもの同士で感じるものです。つまり審査する輩が持っている要素をたまたま刺激する絵を描いた絵しか評価されないのです。つまりコンクールはただの博打です。何の意味もないので描いた人のおりなした絵の全ての価値を探り理解し認めるべきです。輩ではなく学芸員になりたければその要素を網羅していかなければならない。その手間をかけず一方的な価値観で乱暴な評価をするから輩なのです。現状では描いた人の織りなす豊かな価値は全て暗黙の了解で流れ貧相で器の小さい美術館の輩のお陰で消えています。
     美術館は自分の目前の物事のみに価値を与え世の中の全ての人の目前でも同じことが起きているかのような錯覚をしています。また、暗黙知に察知している可能性の大きさに対して正確に言えば価値の可能性が無限にありすぎて対応しきれないでいます。残念ながら現状では絵の価値を決める権力を美術館が握っています。これを美術館から手放させなければこの極端に矮小な物事しか決められない絵画の価値のあり方は変えられないのです。

    「美術館が怠慢だから画家が食べられない」

     美術館が決めた価値は誰もよくわからないから決められた価値です。ものの価値は人が決めたもの。ファッションも車も建物もタレントもこれを美しいと教育されることによって美しいと認識されます。美しさとは他人が決めていることがとても多いです。絵の価値も概ね美術館と美術評論家が例外ではなく勝手に決め決められていると考えていいと思います。
     絵の世界において未開発の領域は個人の絵の価値です。個人の絵の価値を見出す作業はこれまで十分にされてきませんでした。個人の絵の価値を確立されてこなかったお陰で美術館は全体を設定し全体を俯瞰し部分として個人の絵の評価をしてきたと私は考えています。問題はそもそも勝手に描いた全体(絵画の分類、コード、モード)とそこから見える問題は個人にそもそも関係性がないことです。個人の気分や感情や経験や体調やモチベーションは個々の絵の価値においては自由なはずです。つまり諸々が個人にとって価値があり価値を個人で決めて良いものです。それを暗黙の了解で問答無用に無価値にしてしまっているのは美術館の全体を俯瞰して決めてしまっている評価です。始末が悪いのはそれを幼児期に須く(すべからく)やってしまい根付かせ浸透させてしまっていることです。
     世の中には全体はどうでもいい物事が無限にあります。個人の生、死、性、気分、感情、その時をどう楽しむか、過ごすか、生きるか、場合によって死ぬかという選択もあります。個人で価値を決めていいことはあげればきりがありませんがこれまでは個人の価値は抑えられ生かされてきませんでした。絵もその一つです。犯罪など抑えなければならないことはあります、しかし絵は違います。何かあれば吐き出してもいいものです。それを吐き出させないツールとして絵を使って(しつけ)しまっている。例えば幼児に絵の中に社会的に書いてはならないような真実を自由に書かせてあげて良いのです。そうすることで仮に自死してしまった子の表現にも自死を避ける解消にも絵はなれる可能性があるのです。自死してしまった人が絵を残した時、そこに美術館の評価など微塵も持ち込まないでしょう。おこがましいです。今は個人の表現は幼児期から抹殺されます。人間の社会はこれまでとは違い個人の価値や表現を認める必要があると切実に思うのです。幼児の絵には命が溢れているのです。そこに賞など介入する余地はない。

     個人の価値を考えれば絵は全て素晴らしいものです。それを美術館は組織的に破壊してきた。個人を大事にしなければならない絵やその人自身などは美術館だろうが学校だろうが親だろうと社長だろうと政治家だろうと評価として絶対に決めてはならないものです。人を値踏みするように絵を値踏みすることは間違っています。個人を認める社会が未熟なために個人の価値を全体の中の矛盾だらけの配列で決めてしまうシステムが機能しています。恥ずべきはアートや絵画の世界がいまだにそれをしている点です。コンクールを主催し自由など個性などほざきながら堂々と個人の価値を配列して決め続けています。いっておきますがこの際の配列に全く意味はありません。それにこの配列は不健全にも絶対に公開されることはありません。この問題はこれを成立させ続けている風潮にあります。何となく問題に気づいておきながらそのまま成長できないことは怠慢であり怠慢であり怠慢です。そこに甘んじてしまってどうしようかと適当に悩みながら惰性で美術館はビジネスモデルを考え運営してしまっているのです。私はこのモデル自体病的だと考えています。不健全極まりない。気づいてもらいたいのでここに書こうと思います。美術館の重い腰を動かさせるには美術館の外のみなさんに向けて書くことだと考えています。
     絵の世界は現状では不完全な組織を構築しています。更新や刷新ではなく根底から作り替える必要があります。個人の全ての価値を認めていった時に今ある組織の全ては作り替えられるはずです。作り替える作業が間に合わなければ消滅するほかありません。消滅せざるを得ないのは社会が個人が一人ひとりの絵の価値を理解するからです。理解した時に今ある学校の成績の付け方、美術館のコンクールの評価の仕方、画廊の価格の付け方などの全ては変えるほかありません。
     「個々の絵の素晴らしさを徹底的に紐解き理解していく」このことが絵の本当の力を引き出すトリガーになります。これからの画家は食べられないということはないはずです。それどころかかなり忙しくなる。

     絵に対する誤った認識の今はわからないから美術館の評価に同調することが正解と考えられていることが多いと思います。同調しておかなければ恥を書いてしまうので乗っておこうと思う方は多いでしょう。美術館は乗ってもらえているから成り立っていますが切っ掛けが生まれてしまえば簡単に崩れ去る脆い論理に支えられてギリギリの状態で形を保てています。今のところは美術館の言うことが正義、それに同調することが多いでしょう。実際私は美術館に同調する校長先生や美術教師に散々怒鳴られ奴隷のように蹂躙されてきました。実力行使で怒鳴りつけたり金銭を授受するなどするパワーを駆使してパワハラは同調の鉄壁のバリアになっています。みなさんご存知の通り怒鳴り散らす校長先生と美術教師や公募団体の審査員はそろそろパワハラはできなくなります。それが夜明けとなって美術館の同調圧力は消し去られるはずです。今はみんな同調している。でも私は正直そのみんなの同調が気持ち悪いです。安易に評価されている点については時が来れば簡単に覆されるような同調圧力の力のみにおいて成立していることは絵の世界には多いです。そんな状況も気持ち悪いし、私も含めてその気持ち悪い状況に何のアプローチもかけられない状態も、その空気感をなんとか壊さず慎重に維持し続けようとしている諸々もみっともなく気持ち悪いと正直に感じます。ただその気持ち悪さの中でそのモヤが晴れる予感がするのでとても楽しく感じています。だからその楽しさにみんなが乗れるようにこれを書いています。
     絵は食えない世界だと考えられています。美術館はこんな言い方は公にないですが「評価機関」として社会的に認められています。美術館は絵の評価を決める最高位としての地位を確立していると思いますし歴史の中で一定の理解を得ていると思います。ただし美術館に絵を見る力があるかと言えば私はないと考えています。これが絵の機能不全の原因だとも考えているのでこのような文章を書いています。絵を見れないものが絵を見れると称され実際に見れる者がいても今の状況が覆されることを懸念する利害関係者によって火消しされている。火消しの手が及ばないここから火種を起こそうと考えて書いています。

    「美術館のパワー」

     美術館は絵の価値を決める力があります。ただし世の中にある全ての価値を決める力は美術館にはありません。世の中にある全ての絵の価値を美術館に決めさせることはおこがましいことです。美術館にできることは一般的に価値が理解し難い絵の価値を正しいかどうかわからないけれどみんな困っているからとりあえず決めてみようというものだと思います。しかしそのような謙虚な姿勢とは裏腹に実際に決定した決め事は暴虐武人に人をコントロールし影響力を行使しています。やんわりとそっと評価を出しながら実際のその評価は絶対的なものとして社会に機能しているのです。例えば幼児は授賞すれば朝礼で登壇し表彰されます。それで美術館の魂胆は十二分に成立するのです。それさえなければ絵は本当の力を発揮します。権力を全ての人に与えることで全ての絵は生きるのです。その機会をすぐさま奪う機能を確立し実権を握り権力を行使しているのが何を隠そう美術館なのです。つまり価値ある絵とは選ばれるものではなくそもそも全ての絵に素晴らしい価値がありそれを気付き大事にすることこそに絵は価値があるのであってほとんど全ての絵の価値を否定し盲目にさせることによって美術館が選んだ本の数枚の絵のみに価値があるように錯覚させ同時に美術館が社会でかけがえのない存在と思わせる。美術館が絵に与えている価値は造られた価値であって造られた経緯がなければ元々なかった苦しいものです。ひとつひとつ苦しさを露呈させれば脆くも崩れ去るものです。人がその気になれないのは最も早い段階で我々の絵を否定しつくし感服させられているからです。幼い頃に植え付けられた敗者の論理は根底に残り日本を支配しています。これを打ち崩さなければ絵に未来はないですし、価値の捏造という無理が祟って荒廃し尽くしつつある絵画の世界の利害も、絵の復権が現状の既得権益を持つ輩たちの利益を守ることにつながる点において利害は一致していると言えるものなのです。そして絵の復権はここに書いたように全ての絵の価値を公開し全ての絵の価値に人が気づくことでなります。ここに書いたことはそのトリガーになると考えています。熊谷美術研究所は生徒に何を研究しているんですか?と聞かれまあ予備校は研究所と名乗ると言っておきますがクマビはここに書いたことのような色んなことを研究しています。大昔に絵画の書を書いたチェンニーノ・チェンニーニのようになんでもない人間こそが社会のしがらみに関係なく絵の大事な物事を正直に書けるのだととても実感します。といったまあ昔のチェンニーノのように書き残さなければならないことが山ほどあるのでせっせと書いています。これがクマビの誰もやらない馬鹿な研究です。ただここに書いていることは全てのしがらみを貫通し消し去るロンギヌスの槍になると思います。それほど威力のある面白いことをドキドキしながら書いているのでとても楽しんでいます。日本中から生徒が来てくれてどこかで読んでくれる人が読んでいるので後々の絵の世界に少しでも書いたことが残ることがわかるのでこれは私の画家としての集大成として書き上げます。

    「才能屠殺」

     美術館は美術館が絵の価値を決める全権を握っていることを社会に流布するキャンペーンを行っています。日本国民には刷り込みの最も効果の上がる一番早い時期の幼稚園で行います。美術館は日本の国民に物心をつく前の幼稚園年長さんを脳が未成熟なタイミングを狙って、すかさず親御さんともども絵の価値を決め絵を評価される選民を選らぶ全権は絵の世界の神である我「美術館」にあると知らしめます。
     美術館によって幼稚園年中さんの時に訳がわからず絵の世界からほとんどの園児は除外されます。コンクールという大量虐殺による大多数の絵の世界からの排除、才能があると思わせる子と親御さんを作るために才能がないとは断定不可能で可能性が満ち溢れている才能の塊の子たちを才能がないと認定させる「才能の屠殺」によってほんの一握りの選民を残す園児にとって全く無意味の儀式を行います。儀式を行うことで選民は稀に見る幸運を授けられた錯覚を抱きます。実際はこの時に虚栄心を育ててしまい、根拠のない自信を持たせてしまいます。この時に掴める幸運など隣近所と幼稚園で表彰され表彰台に立てることだけで実際にコンクールで才能を実証することは何ひとつありません。
     この儀式は公然と行われていますが実質何が起きているのかを公にすればこれはインチキ宗教団体が行っていることと全く同じであることが証明できます。神がいないところにいるかのように見える儀式を行えば何もなくともインチキ宗教団体は簡単に作れます。美術館はその手法を公に行っているに過ぎません。何もないところにないのだけれど選べないけど無理矢理選ぶ。場合によって大学生のアルバイトに選ばせます。絵を選ぶ権力者の中には子供の描いた絵が汚いし沢山あるのを選ぶ手間が面倒でそのような労働を普段していない権力者なので周りもごまを擦り擦りこびへつらいながらアルバイトに選ばせます。私はこいつらを叩き潰したいのです。賞をもらった子は権力を持つ豚を神と崇めてしまうと思いますがこれは間違った教育です。仮に手間を惜しまず選んだとしても善意を持って選んだとしても豚が選んだ結果と明確に違うと言える身のある評価の仕方はしていません。身のある評価であればスポーツの世界と同じく、幼児に人気のあるサッカーのように幼児の時の評価の延長線上にそのままプロの世界が見えてきます。そうでなければならないはずの絵の世界では高校からプロになれる絵以外のサッカーなどのスポーツや音楽や文学と違い絵の世界は高校からプロになれるどころか偽りの評価なので箸にも棒にもかからないのです。
     美術館の与える虚構の褒賞は惨殺された大多数の幼児の無限の可能性を全て打ち崩します。実は日本人の多くはこの時に絵と離れ二度と近づかないと心に決め疎遠になります。この時に受けた不快な感覚はトラウマとして死ぬまで消えることはないのです。ある意味美術館がいかに無能でも全幅の信頼を得ていると考えていいでしょう。
     美術館は大した根拠もなく報償を与える作品を選んでいます。厳選とは程遠い確立されていない評価の基準と選び方で浅い知識を深いと誤解して堂々と選んでしまいます。美術館は評価の基準と選び方を詳細に公開することはありません。それはいかにいい加減なものかが公にバレてしまうからです。逆に言えば正しいものであれば公開してしまえば誤解から生じている問題は全て解消され絵の人気は跳ね上がるのです。今行われているコンクールなどの評価はわかりやすく言えば採点し直せば結果が著しく変わってしまうものです。それは細かく採点すればするほど激しく変わります。また、仮にいいと思う作品を1枚だけ選ばせてもその時の気分と全く整理されていない評価の仕方とその時に初めてどう選ぶか考えている場当たり的な対応により変わります。変わり方は選び方が定まっていないのでお腹が減っていたり、脂っこいものを食べた後はさっぱりした絵がよく見えてしまうといったくらいに生理現象や体調や感情、気分、前に見た作品などに影響されるほどいい加減なものです。美術館がこれを読んだとしていい加減なことに影響されてしまう素人であり図星だと心の中では思うはずです。もし良心があるのだとすれば「まともになれ」と言いたいです。胸に手を当ててよく考えて欲しいと思います。選ばれてしまった選民となった幼児にない実力があるかのような錯覚を与えてしまいます。実質的な損失を受けるのは選民であればそこから本格的に絵の世界に入ってきた時です。日本では美術予備校に来たときに初めて真実を告げられそれまで授けられた栄誉の全てに何の価値もなく実力の証明でなかったことが理解されます。同時に惨殺された人たちから運良くそれまでの評価が過ちではないかと懐疑し自然に洗脳が解かれた人は美術予備校に来ることができます。ただ惨殺された人のほとんどが絵の世界に大きな嫌悪感を抱き眼もくれなくなるのです。偽りの選民を選び出すことは絵の価値を説けない幼児教育と美術全体の苦肉の策です。幼児の時に勉強やスポーツ、音楽などの競合他社への興味関心を払拭できるようなカンフル剤を打たなければ絵の世界に引き込むことができないという大きな功罪が伴う馬鹿げた愚策です。
     でも私の見る限り美術館に絵の価値を見極めたりましてや決める力などありはしません。仮に美術館に絵の価値を決める力があるのであれば美術館は絵の価値を理解し絵の価値を明確にわかりやすく私たちに教える力があるはずです。でもみなさんご存知のように美術館にそんなことはできません。絵はそれぞれかけがえのない価値があります。誰の絵も全て素晴らしいのです。一つひとつ説明し価値を紐解くことは簡単です。でも美術館にそれができないのは、正確に言えば彼らにとって絵の価値の説明が難しく、難しくされているのは知識や経験がないことが半分、もう半分は絵は特別な才能がなければ描けないと彼ら自身洗脳され正確には集団幻想とでも言いましょうか病的な状態に陥っているからです。また、彼らは絵は誰が描いた絵でも素晴らしい物であり一つとして価値のないものなどあり得ない物だと思いそうになり洗脳が冷めそうな瞬間があっても「いかんいかん」と頭を振りながら振り払い思わないようにしています。それは公僕として自分の意見をねじ伏せていることもありますし、やはり自分ではどこかわからないような気もして美術評論家に任せてしまった方がいいと謙虚に控えなければならないという自己判断を抑制する負のプロフェッショナルイズムも働いているのだ思います。そこには運営上の都合で美術館にある絵が特別で巷にある絵がくだらないものでなければ商売が成り立たないということがあります。巷にある絵の価値を説かないのは巷の絵への積極的なネガティブキャンペーンです。そんな苦し紛れの常識を社会に浸透させても美術館の多くは採算が取れません。採算が取れない理由は美術館にそれだけの価値がないからです。私はバスキアとバンクシーの隣に子供やおじさんが描いた絵をおいて対等に価値があると解いた方が美術館は生き残れると考えています。でもそれができないのは美術館にそれだけの気概や意志や勇気などの人間としての魅力や力はないからです。

    「落選者展」

     美術館にそれだけの価値がないのは美術館に置かれた作品がそもそもそれほどでもないことが一番の原因です。巷の人々は暗黙知に美術館の価値のなさを認識している。価値のない美術館に来場者が溢れるような価値を捏造することは不可能です。そんな不毛なことを創造してみる時間は不毛の中の不毛「不毛 オブ ザ 不毛」なので日々それを創造し美術館の運営に固執する学芸員は置いておいて、巷は本当の絵の価値に目を向けるべきです。美術館に対して無関係の我々「人」が謙虚である必要は全くありません。そもそも我々は騙されているのですからそのような騙しに乗る必要はありません。私たちに彼らの生活の心配をしてあげる必要はないのです。彼らなんかどうでもいいから画家を救済し全ての人の絵の価値を救済するべきです。
     これが大掛かりな騙しである証明は簡単です。美術館に人々の絵を否定させるのです。絵を知らない彼らは無勉強に証明に乗ってくるかもしれません。こちらの思惑通り絵を否定したならそれは絶好の機会です。その苦しい否定を根底から覆し完膚なきまで叩きのめすのは簡単なのでその機会に叩きのめしましょう。でもそれを美術館は想定しています。理解している美術館は通常逃げ続けます。保身のために賢い美術館は逃げ続けているのです。どこまで逃げ続けられるか?いつまで逃げ恥を晒すのか?どこかで逃げ道を封じて絵の価値ある姿を世界に解放し絵の市民権を取り戻さなければなりません。これは落選者展以上の革命になると思います。明治の頃から世界中に増えた美術館は自由と称しアカデミズムから画家を解放したかのように見せかけて実際は権力を手中に納め美術館という新たな支配者になりかわっただけで絵に画家に自由などありはしません。今絵の自由の前に立ちはだかっているのは何を隠そう美術館なのです。

     私は美術館に展示されている絵に興味がありません。そんなものよりも私の目の前にある今描いている絵の方に興味があります。私はアートスクールを経営していますからここで描いているみんなの絵に興味があります。この絵に囲まれた人生が私ですしとても素晴らしい人生だと思います。私の人生は絵によってできています。私は美術館に出品することは全く考えませんし、出品に未来があるとは到底思えません。何をどう考えても美術館に未来はありません。考えるのは目の前にある絵を生かすことばかりです。
     絵を生かすには目の前にある全ての絵を生かすことが必要です。それにはまず美術館に出品することによる屠殺をなくさなければなりません。そして目の前にある絵を生かすには目の前にある状態そのままの絵を世の中に注目してもらう必要があります。美術館に落選させられた作品を全て公開する落選者展をどんどん開催するといいでしょう。その落選者展で徹底的に落選した作品を肯定するのです。そうすることでみんなのエネルギーは最大限に引き出され絵は真の価値を持ち光り輝き始めるはずです。絵が光り輝くと同時に美術館は堕落し荒廃すると思います。それが美術館の本来あるべき姿です。人を騙し続けている美術館に価値はありません。遠慮なく落選者展を開催してください。落選者展こそ正義です。

    「絵が語る真実」

     私たちの日常は簡単にインターネットで公開できるようになりました。これはこれまで見せられなかったものが見せられるようになったということです。見せられなかった物事が見せられるようになった可能性は絵画に大きな影響を与えます。このことが絵に及ぼす変化は絵の世界をこれまでにない豊かなものへと変えてくれるはずです。その豊かさを今の時代に生きる画家は創造しなければならないと思います。私は目の前にあるそのままの状態の絵に目を向けてみようと思います。きっと目の前にある絵が注目される時代が来ると考えます。
     ネットが絵に与える変化によって絵は豊かなものに変わります。例えば絵は単なる記録ではなく描く過程で表出していった軌跡を問題視するようになるでしょう。それが痕跡として残ることも大事なことだと思います。例えば何も言わずに自死した人が絵を残してくれていたら私たちは必死にその絵を紐解こうとすると思います。これまでの絵画は痕跡や軌跡は鮮明に見えないためにそれほど関心を持たれずにきています。ですからこれからは痕跡や軌跡を映像で残せるので考えや感覚や衝動の変化が注目されると思います。何も言えずに墓まで黙って死んでいく人は多いと思います。そこを解き放つ鍵に言葉を使わない絵はなれるはずです。言葉しか評価できない世の中も変われると思います。写真と違い絵は想像を形にできると思います。絵は才能など必要なくても誰でも描けるものです。それは誰でも絵を描いていいということです。誰でも描ける描いていいものですからその寛容さを絵が持ちえれば誰もが想像を形にできるようになります。誰もが想像を描き起こせるようになった時にこれまで特殊な才能だと考えられていた絵を描くということはなんでもないことに変わります。描くことがなんでもないことになれば絵の本来のパフォーマンスがようやく生かされるようになるのです。インターネットは目の前にある絵に価値を吹き込みます。これまでは目の前にある絵の意味や価値を問うことができなかった。でも今なら美術館にある絵よりも私たちの目の前にある絵を大切にできると考えています。私たちが実際に話をして盛り上がるのは身近にある絵です。

     私にとっては日本で忌み嫌われる受験絵画も立派な絵です。私は受験絵画を見続けその絵を見て生きてきたわけですから私にとって美術館にある絵よりも受験絵画の方が当然リアリティーがあります。我々を豊かにしてくれるのは美術館の手の届かないところにある絵ではなく身近な存在の絵のはずです。価値のある絵は美術館にある絵の一択ではなく様々なところで機能して生きている全ての絵です。その全ての絵は美術館の評価の基準に沿わせる必要は全くありません。そしてそのことは美術館と美術評論家のでっちあげた基準を崩壊させるトリガーになると考えています。私のこの考えに反論がある美術館と美術評論家がいたら遠慮なく反論してもらえればと思います。ですが無理だと思います。

     これからの絵画にとって皆さんの目の前にある描き途中の絵は絵画にとって何事にも変えられない重要なものになると私は考えています。これまで作品は画廊や美術館で発表するしかなかった。でもこれからはインターネットで誰でもいつでも発表できるようになっています。これまで美術館と画廊が権威を維持できたのは発表の手段がそれ以外になかったからです。そして美術館と画廊はアカデミックの権威から自由を獲得し市民に歩み寄るかのような雰囲気に見せながらも実際は自分が権力の座に座っています。現在画家を支配し権威の中心にいるのは美術館と画廊です。発表の場を支配し画家の生命線を握ることで美術館と画廊は成り立っています。画家に自由の手を差し伸べるかに見せかけて誰にも気づかれないように支配者になっているのです。これから画家が自由を手にするためには美術館と画廊の権力を打ち崩さなければなりません。彼らは羊の皮を被っているので気づきづらいですが、よく考えてみてください、画家が食えない原因を作っているのは見たことのないようなスタイルやコンセプトの絵だけが評価しうる対象だとしている美術館です。見たことのないような作品だけを評価していれば全ての作品を否定し尽くすのは時間の問題です。画家のほぼ全員の可能性を無くす構図を描いた選民思想的な美術館。我々画家は生きています。そして見たことのないような絵でなくても価値がある。我々の矛先を向ける先ははっきりとしているのです。

    「テリー」

     私は画家として絵を見続けています。これまで見なかった日はありません。私は画家なので40年近くずっと油絵を見続けています。絵との出会いで言えばかれこれ44年が経ちます。私は絵を見続けながら絵の価値を確信しています。自画自賛というわけではないですが子供でも大人でも誰が特別というわけではなく全ての人が絵を描くことにとても大きな絵の価値があると思えるのです。絵の世界はその価値を認めず流して運営されているように思います。描くことの価値を貶めているのは残念ながら完成された絵のみを評価することです。完成された絵だけを評価することによって絵の価値の大半は社会で認知される機会を失っています。絵の存在意義は薄れ、多くの人が肌でありありと感じたはずの絵を描くという身体的な感覚は完成した作品を発表し評価を得られなければ意味がないようなことを言われるためあっさり捨てます。描く時に感じた身体感覚は親や先生によくないことのように言われるので放棄せざるを得ません。全ての人が評価という自分にない感覚を理性で受け入れ絵を描く際の感覚と主観の全ての価値を何も考えずに捨てている。絵は本来生得的に持っている絵の社会的役割を誤解によって十分に果たせないでいます。社会における絵という財産を私は解き放ちたいとずっと悩み続けこの文章を書くことにしたのです。
     誰でも絵を見続けた経験があるでしょう。絵は絵画と限りません、ミッキーマウスもあり、キン肉マンでも炭治郎でもいいと思います。私が最初に絵に感動したのはラーメン屋で見たジャンプのテリーマンでした。テリーが超人オリンピックで子犬を助けるために列車を手で停めるシーン、私は絵でこれ以上の感動を現代美術でも絵画でも受けたことはありません。私はテリーマンは崇拝しています。ですが油絵の画家でテリーほど崇拝している人はいません。私のようにキン肉マンでもなんでも絵を描く入り口になりますし絵を見るということは人にとって大事なことだと思います。今のアートや絵画は機能不全を起こしていると思います。何をやっても空回りしている。それは自分達の都合を中心に絵の世界を動かしているため絵の本質から目を背けているからだと思います。私の身の回りにある絵はモナリザではありません。キン肉マンや炭治郎です。私にとって絵の本質はキン肉マンや炭治郎から感じるものです。私にとって絵が機能しているのはモナリザではありません。キン肉マンや炭治郎です。絵の世界はこの事実を正面から受け止めるべきです。美術館も画廊も芸大美大もこの事実を受け入れてから全ての物事を考え直すべきです。それが絵画を再興しうる唯一の方法だと思います。
     アートの世界や絵画の世界は残念ながらキン肉マンを見続けることを肯定しない空気が強いです。例えば東京芸術大学の油画(油絵)専攻の入試でキン肉マンを描くのは気が引けます。合格する気がしない。うまくやればいいですが、私が実際に合格した時のようにウルトラマンを描きましたが、受け入れられるように策を講じなければ受け入れさせることができません。それはかなり器用な変化球で私のようなひねくれた人間ならいざ知らず健全な神経の人にできるとは思えません。素直にそのまま描いたのではキン肉マンは受け入れてはもらえません。でも日本において日本人のみんなが最初から絵に興味を持つのは漫画だと思います。絵に対する造形を深め浸透し内に潜め絵をカテゴライズしその人たちからこの世界に足を踏み入れようとする人を生み出しているのは紛れもなく漫画によるものです。特に私よりも若い世代の生徒たちとなると間違いなく油絵や日本画ということはありえません。油絵や日本画は敷居の高いところから下々を見下ろしているのでどちらかと言えば煙たい存在で日本人の興味から外れ人に寄り添わず必要とされていません。若い世代に寄り添い受け入れられ影響を与えているのは漫画やアニメです。これは明白な事実です。その事実は伏せられ、漫画やアニメに徹底的に押されてもはや見る影もなく社会のどこで役に立っているのかいないのか役に立つことはどこにもなく社会に居場所がなくなり姿形が見えなくなっている。それでも絵画の価値を標榜する美術館が存続しているのは人の人目につかないところに隠れバックで日本の絵画は絵画に関わる者の権力によって無理やり成立させ存続させているからです。世の中には面から全く見えないところで社会に全く必要ない負の力が暗躍しています。言ってしまえば目の前にある現実は一部の人間によって、本当に大切な物を、大事にすべきものを、価値あるものの価値を歪められている世界なのです。絵に関してそれを行なっているのは美術館です。私は油絵を真正面から描こうとするT H E油絵画家です。このように歪められているお陰で油絵らしい油絵は全く評価されることがなく、捩れが邪魔をして社会の表舞台に出られずにいます。私の知る限り私の生きている50年もの間油絵と社会との接点は消え続けている。漫画同様に油絵や日本画や水彩や版画や絵には本当の価値があります。この価値の全ては残念ながら日本に輸入されて以来いまだに社会に伝わっていないのです。伝えることに長けていなければならないはずの表現者である画家として、絵の価値が伝えられないという表現が下手だという事実はなんとも情けなく不甲斐なく思います。奥歯に物が挟まったような言い方しかできない美術館や画家を見ると致命的だと思います。

    「描き途中の絵」

     画家も含めて人が絵を見る時間はそのほとんどが絵を描いている時間です。絵を見る時間を過ごす空間は美術館ではありません。画廊でもありません。美術館と画廊で何十時間も絵を鑑賞し続けることはありません。美術館は居心地が悪過ぎて何十時間もいることは誰にとっても拷問です。こんな意味のない空間にいるのは関係者でも長くてほんの数分だと思います。一方で画家はアトリエで何十、何百・・何万時間も絵を見続けているのです。絵を見る空間に最も適しているのは自分のホームグラウンドです。絵はそこに存在するものです。でも美術館の学芸員と美術評論家は違います。この二者は絵を描くことはほとんどなく絵を見ることを生業とし絵を見続ける時間の方が描く時間よりも圧倒的に長いです。彼らにとって絵を描くことに価値はなく絵を見ることに興味を持ち絵を見ることの土俵で絵の世界の物事が動いた方が都合がいい。そのような都合で絵の世界は彼らに言葉のやり取りで完敗し彼らは絵の世界を理屈で支配することに成功しました。そして今でも絵の世界を牛耳り支配し続けています。これが話がおかしくなるねじれの原因です。

     小さな子供が黙々と絵を何時間も描き続けることには特別な意味があります。これが社会的に評価されないのは美術評論家がねじれを生んでいるからです。絵の世界の不可解なことはさておき描くことの意味を勘で察知しているのは絵を描くことが好きな子の親御さんです。絵は大人になっても死ぬまで続けていいものです。でも社会はこれを幼児の内に消失させます。勉強をすること、一つでも多くの教科書に書かれていることを丸暗記させるために絵を描く世界に入る感覚を幼児教育によって根こそぎ取り除きます。そうだ今ウクライナで戦争が起きていますがウクライナの子供たちにはこの戦争のことを一生描かせてあげましょう。彼らは画家として意味のある価値のある人生を送れるはずです。絵を描けば彼らのおった傷が解消されるとはいいませんがもしかすると絵で真実を表現し続けることは彼らのカタルシスになるかもしれません。もしウクライナがロシアに支配されてしまったら絵の世界が美術館に支配されているのと同じように自由に戦争のことは描けないでしょう。でも少なくとも彼らが描けば作品は我々に鑑賞の意味を与え我々に人と絵の正しい関わりを取り戻させてくれるはずです。親御さんの感じる勘、今はまだ実現できない絵を描き続ける行為から感じるその勘は実は正しいのです。
     その勘の先にある可能性を全て駆逐しているのが美術館と美術評論家です。駆逐を実行する最初の場は幼稚園の図画工作です。授業で上がった作品を速やかに美術館に差し出し選民をひとつまみ選び出しその他に刑を容赦なく実行する。うまくいけば刑を受けた子供はほとんど反吐が出るほど絵が嫌いになります。そうして未来の画家を幼児の内に屠殺し絵を描く世界ではなく理屈の世界へ進むよう意識を作り替えているのです。美術館によってお子さんと親御さんは絵に興味をなくすか受賞にしか興味がなくなります。ここに絵が流行らない、画家が流行らず人が絵から離れる原因と構図があります。
     美術館と美術評論家はショッカーのようなもので子供たちの前では善人ぶっていますが実は腹黒い悪魔です。ショッカーは絵を描く世界では困るので観賞と考えることと褒賞の世界に変えてしまいます。彼らは実は悪の中の悪、最悪の代名詞ショッカーです。彼らが絵には描くこと自体に価値がある事実を社会が認識しそうになったら躍起になって火消しのように絵の価値が描かれるだけで成立することがないよう「ヒーッヒーッ」と言いながら阻害します。美術館と美術評論家は絵が美術館に差し出されなければ価値のないものでなければ困ります。我々の誰もが困りませんが彼らは困るのです。そしてよくキャンペーンされて社会への洗脳は完成されています。今の絵の世界はショッカーが完全に洗脳を完成させた世界です。だから我々は彼らをやっつけるために立ち上がらなければならない。洗脳を完成させたショッカーの怪人美術館は美術館に差し出されなかった絵に絶対に価値が生まれることのないように悪の組織のイベントであるコンクールを数多主催し美術館と美術評論家が評価した絵と画家のみが評価されるようにキャンペーンしそれ以外に目が向けられないように火消しに努めます。それによってまんまと親御さんも子供も先生も受賞も何もしていない作品とただ描くことに対する価値を無くします。もし受賞しなかった作品を思い切って肯定しようものなら隣近所や洗脳されている先生にヒーッと徹底的に否定されて火消しされます。残念ながら勇気と自信と正しい物の見方と考え方を持ってショッカーを徹底否定できる先生は学校には一人もいません。先生という生き物は大きめの組織には完全に媚びへつらうのです。
     ショッカーは絵のことを具体的に語ることは絶対にしません。作品の内容について具体的に語ってしまえばそれ以外の作品との差異がないこととコンクールのたびに評価している作品が違うことがバレてしまい、それによって折角仕上がった洗脳が解けてしまうので作品の内容を細かく話すことは絶対にしません。それに具体的に話すだけの知識はなく経験も感性も興味もそもそも最初からありません。そういった諸々によって絵の世界は悪の組織によって都合のいいシステムを作り上げられ動かされているのです。
     社会の人類の絵の価値を歪め貶めているのは美術館と美術評論家という悪魔であり、彼らが作り上げた選民思想です。美術館と美術評論家が認めた画家と作品は苦しいながらも少し良いところはあります、しかしそれによって無視している絵と画家の方が圧倒的に拾いきれない程の星の数ほどの無限の良さがあります。この無限の良さを社会も人類も理解してしまった時に一瞬にして愚かでポンコツがこそっと作り上げたチンケなショッカーの野望は脆くも潰えるのです。人類はそろそろ絵を選び画家を選ぶ選民思想の愚かさに気づき、これまでのシステムを全て捨てるべきです。選ばれたものと選ばれていないものに絵としての価値としての差が全くない。このシステムは古い美術品を収集し倉庫として運営していく手段として鑑賞会を開き売上で倉庫の運営が成り立つように明治時代に立ち上げてみた美術館が元になって始まったことです。さて結局採算が取れないこの苦しいシステム。これを取り壊すトリガー(絵としての価値としての差が全くない。)がこれまでなかったから惰性で続けられてきただけで、ここに書いたことに社会が気づくことは時間の問題であり、機会が来たら自然にトリガーが引かれるはずです。この機会は早い方がいい。できることならば美術館が世の中のために自主的に動くことを期待します。でもないかな・・・。

     ショッカーによりアートの世界は家で黙々と絵を描く子供たちの世界を隅々まで生かして社会に発信することが全くできなくなっています。同じように子供から大人の画家になった絵描きたちはアトリエで黙々と絵を描けなくなりました。でも一部の画家はまだ描いています。ショッカーの目を盗みテロリストのように描いています。このテロリストの絵描きが黙々と何時間でも絵を描き続けている間のことは何一つ語られないのです。それはその間を話題にすることにアートの世界の権力者の利益になることが何一つないからです。アートの世界の権力は絵の軸足を制作とアトリエではなく展示と美術館に置かせています。制作すること自体に価値はなく完成した作品を鑑賞させることにおいてのみ絵は価値があるとする。絵を描く我々の側からすれば横暴です。このことが子供が絵を描き続けることに最大の価値をおき社会に結びつけ才能を花開かせることの弊害になっている第一の原因です。またこれは画家の力が封印され世に出られない原因でもあります。ショッカーは市場に介入し絵の制作時間は作品の値段には全く関係ないものとしてしまいました。命懸けで絵を描いている画家ほどほとんどの時間を描いて費やしているにも関わらずです。全ての絵に意味と価値があってもそこは伏され今の世の中では賞を取った作品にしか価値がないとされています。それはそうしなければ明確な尺度のない絵に金銭的な価値を与えることが現状ではできないからです。そして権力と結びつけることができない。今の価値を与えるシステムに乗せることによって結局、賞を取った作品の賞自体が理解され作品の内容については全く触れられず分析もされず引き出せない状態が続いています。全ての公募とコンクールや展示がそうです。身近な例でいえば県知事賞です。具体的かつ詳細に作品の価値を分かりやすく語られることはないので作品の内容に感動し記憶に残るのではなく、残るのは県知事賞自体と県知事賞をとった作品の表面を覚えておくという話題のたねとして記憶されるだけの役割しか与えられない県知事賞の絵です。絵には価値があります。その価値は全ての絵にあります。それを語る術を知らないから絵が盛り上がらないのです。美術館は無能です。その根拠は絵の価値を語れず、語ることにすら興味がないからです。美の術を語る力のない美術館のどこに能力があるのでしょうか?ありはしません。賞を取った作品の周りに飾られた無数の作品は一つひとつ吟味し鑑賞できる時間の猶予は与えられていません。それぞれの作品に無限の価値がある中で美術館が選んだたった一枚の作品のみが内容はともかく選ばれたことにおいてのみ価値が生まれる手法によって目立ち鑑賞する機会を与えられるのです。絵はそもそも目立つ必要がない。目の前に紙があったらその時点で絵の価値は成立しているのです。だからこそ白紙の下に県知事と書けば箔も成立する。実際は絵の価値において美術館は無用の長物であり弊害以外の何者でもなく絵にとって美術館は全く必要ないのです。描き途中の絵もさることながら白紙の絵にも価値はあるのです。デュシャンの泉を知りながらよくやれるなと感心します。

    「絵を見る」

     画家はこれまでアトリエで絵を見続けていることについて問題にはしてきませんでした。あくまで外で評価されることを問題にして内側で色んなことがあるにも関わらずそれを話題にすることはおこがましいと思って口にしないできた。
     私は画家と人が絵を見続けていること自体にこれまでアートや社会で理解されてこなかった画家、絵、描くことの真の価値が眠っていると考えています。人が絵を描き続けたり、見続けたり、その家族がその様子を見ていることも絵の無限の価値が眠っていると思います。そこを確認すべきだと思います。目の前のここにある価値を引き出せないのはそれを堂々と翻訳する人がこれまでいなかったからです。その原因はアートの世界が絵の本質を大事にする世界ではなく、あくまで金と権力を軸に物を考えシステムを作り上げているからだと思います。絵に関わるすべての人が金という力と出世や有名になること、権力に執着してきたと思います。金と権力に結びつかなくとも絵が目に写るすべての瞬間に絵の価値はあります。絵を見続けることにはそれ自体に色んな意味があると思います。
     絵は工芸と違って道具ではありません。絵はデザインと違って広告ではありません。絵は「絵」です。道具でも広告でもない絵には「描く」「見る」こと自体に価値があります。「描く」「見る」こと自体の絵の価値は軽視されているように思います。「ただ描く」「ただ見る」という絵はつまらないものというイメージがあるように思います。賞を取らなければならないと思えていたり、金にならなければならないと思われていると思います。絵の力はほんの一部しか生かされていません。それは絵が金と権力に利用されたからです。絵のポテンシャルを最大限に引き出すことは誰も考えてこなかったことです。絵はこれまでポジティブな題材しか描いてはならないという前提において展示され鑑賞され販売されてきました。それが常識とされていますがそれが絵の真価に蓋をする一番の原因です。受験でもそうですし、公募でも、学校の授業でもネガティブな絵を描くことはタブーとされています。それが自然なことと教育されていますが絵の世界が斜陽にあり存続が危ぶまれ、存在意義自体誰も問えない状況の中で画家や学芸員や美術評論家やコレクターなど絵に関係する全ての人が頭を抱えたまま何もできないでいるのですから正直私は滑稽に思えてなりません。

     人目を気にし媚びている絵はつまらないものです。ネガティブな題材、例えば親からのネグレクトや性的虐待、学校でのいじめ、職場でのパワハラなど外に公言してはならないと言われていることで言葉にできないことを絵に表すことによって絵は最大限に能力を発揮でき、世の中に「描く」「見る」ことの価値の理解が得られるようになるのです。絵は表現すること自体です。そして絵が市民権を得ていないのは市民が自分の中で押さえている不条理を外に出すことを許されていないことがわかっているからです。そこで絵も終わっている。つまり絵が力を得ることと市民が自由を手に入れることは同義なのだと私は思います。美術館とコンクールは許されないことを教育する場としてしか機能していません。そして手本となる作品に賞を与えます。
     絵は場合によってお金になったり、箔が付いたりします。絵はこれまで商売や権力を得る手段にされてきました。絵は社会の上層でセレブの金儲けと権力者が権力やステータスを得る手段に利用されてきました。それに同調しているのは政治家や政治家に付き従わなければ設立から運営から自分の生活さえも成り立たない愚かな美術館と学芸員です。そしてそこと繋がる画廊、コレクター。画家が絵を教えることをビジネスにしている芸大美大、美術予備校、画塾、カルチャーセンターなどなど。
     絵がお金になることは最初にあるものではありません。絵の世界は話題になりそうなものが先のように話題作りのことばかり考えて動きがちですが、そんなことの前にあるのはつい描いてしまう、つい見てしまう、つい考えてしまったり、感じてしまうといったことです。そのような絵は実は自分の傍にいつもあるものです。傘で地面をなぞったり、体を撫でてみたり、石を投げたくなったりすることも私は絵だと思います。美術評論家はそんなことが重要になってしまっては自分たちが儲からないので面白くないのでそのような絵を否定します。でも絵を描く画家からすればそんな些細なこと自体がとても重要なのです。絵と乖離してしまっている今の世の中を考えると本当にそう思います。絵はいつもあなたの傍にあります。

     人にとって絵を見続ける場所として最も適しているのは自宅です。間違っても美術館や画廊ではありません。人が必要で見る絵は立派な絵画である必要はありません。ペットの肉球で押した手形とか好きなキャラの落書きで十分です。ピカソが自分の食べた魚の骨をねんどに押し付けて焼いて作品を作ったのはそれを言いたいからだと私は解釈しています。そしてそれ以来なんの進歩もしていない。私が言うのもなんですが落書きとモナリザを比べて落書きを見たいならモナリザなんか見続けなくて良いので落書きを見てください。落書きの方がはるかに重要です。それが人が絶対に手放してはならなかった絵の価値です。私自身美術館や画廊で絵を見た時間は人生の中で何百万分の1の時間です。そういった意味では美術館と画廊は人生の中のほんのひとかけらのアトラクションやアクティビティーにすぎません。生きている人にとって美術館と画廊はその程度の価値しかありません。美術館と画廊はただのアトラクションやアクティビティーなのでその宣伝にはタレントを使います。テレビでは展示の内容は隅に置いておいてずっとイケメンや美少女をカメラの中心に写し続け内容はともかく客が来るように演出過多に徹するのが適しています。つまり美術館の広告を眺めていても絵にとって何の意味もありませんし、そのような美術館に足を運んでも意味はありません。美術館に本物のイケメンと美少女がいれば作品など吹き飛びます。それが展示されている作品の真の価値です。絵は実物には敵いません、人も風景も絵は実物にかなわないと知りながら描くのです。それをほくそ笑みながら金を取るのが面白いのでしょう。皆さんの記憶に残り頭をよぎるのは自分の気を引いた可愛い美少女の広告かイケメンの姿そのものです。そこに絵の価値はないのです。人は美術館に足を運ぶと美少女かイケメンと同じ空気を吸って少し近づけたような気がします。その楽しみの中では絵は邪魔以外の何物でもありません。美術館にとっても絵は二の次で展示に客が来て金を落としてくれることこそ重要なので絵なんてどうでもいい不要なものです。一番大事なのは札束。私自身美術館や画廊に行った時に綺麗な壁や屋外の風景が頭に残っています。特に美術館の壁が綺麗だということは頭に残ります。きっと高貴なお方やハイソな人は綺麗な壁が好きなんだな〜と思います。私とは違うな・・と思います。私のアトリエなんて汚い壁ですからそのアトリエの中の絵など高貴な方々や美術館からすれば汚物そのものです。お金をかけていないもの(正確には私の買い取ったアトリエのビルと土地など諸々1億以上はかかっていますが)には価値はありません。そんな高貴な方々のように何百億もお金をかけていない私自身が絵を見ているのは汚い壁の中です。それが絵を見る時の画家の真実だと思います。東京芸大にいた時、学内の展示を見に来た外部のお客さんに壁や床があまりに汚いのでどうしてこんなに汚いのか?と聞かれましたが、その理由を述べれば建築につきものの文教族と教授たちが遊興費のために多額の利益を得ているためで学内の設備や清掃に回す予算が全くないからでした。現在は新校舎ができて綺麗になって(文教族と建築家と教員が多額のお金を儲けほくそ笑みましたが、こんなことを書くと友達に建築家もいるので複雑ですが)いますがその前は、例えば私が高校生だった40年前(バブル絶頂期)は廊下に住み着いた鳩が糞をしてそれの上にベニアを重ねて歩けるようにしてその糞をサンドしたベニアが幾重にも重ねられていました。それほど上は金に目が眩んでおり、そのようなことからアトリエは汚いと言われてもその通りとしか言いようない状態でした。しかし大学に限らず私の見てきた絵を描く場は全て美術館の壁のように綺麗ではありません。絵はそのような場にあるものではない。本当の絵は汚いというか、少くなくとも美術館のように真っ白ではなく普通の、家などの壁にあり、そのような状況で見るものです。美術館のような虚構が世の中の人たちに絵を見る場所は高貴な美術館のような綺麗な真っ白な壁で見なければならないというおぞましい虚像を植え付けています。本当に事実に反するのでおぞましい。それによって世の中の人たちは家で気軽に絵を描いて気軽に飾って絵を見続けることができないのです。絵を飾る時は画鋲とかガムテープで貼ればいいじゃないですか。ガムテープ便利ですよ。虚勢や見栄ではなく絵をみてください。壁が絵との関わりを否定してしまう。何ともお粗末で愚かな絵の認識です。このようなお粗末な認識を与えているのは美術館や画廊です。美術館と画廊が急に汚い壁にしてしまっては、これまでその偽って来場者を集めてきたのですから急に汚い壁に変えるのは都合が悪いので急に変わる必要はありませんが、心を入れ替えて、絵の置かれる正しい真実を来場者には徹底的に伝える努力をするべきです。本当に絵を思い、人を思うなら美術館の損得は置いておいて人と絵を繋ぐことに尽力するべきです。でもそのような志を持った学芸員、美術評論家、ギャラリスト、コレクターに私は残念ながら出会ったことがありません。会ったことのある人間は見事にクソのような輩です。

    「色」

     画家ではない普通の人は日頃から色を画家ほど気にしたり認識して生きていません。そして形もそれほど気にして生きていません。絵の指導をしていると特に絵を見る時に色の反応が弱いことがよくわかります。大抵は初歩的な話しかしていないので色に対する反応の弱さがいかに社会に絵が受け入れられていないかの現状を表していると私は感じます。形は立体も動画もありますが色は動いていようが止まっていようが信号として眼に飛び込んでくるものです。色とともに絵が社会に受け入れられないと思えてなりません。特に日本では馴染んでいない。カラオケは社会に浸透しています。そのため音程を外す外さないは誰でも気にされます。でも色においては話題に上がらないどころか意識すらされません。

     人間は情報の多くを視覚に頼っています。そのため人間にとって色と形、特に視覚を通じて認識する色はとても大事なものだと考えます。人間としても生物本来の生き物としてもとても重要なものだと思います。言ってしまえば人間は色をそれほど利用せずに生きてしまえています。それが勿体無い。人が絵を描くことは泳ぐことや言葉を発し書くことと同じように生得的な能力ではありません。しかし、泳いだり、読み書きと同じように人の世界を飛躍的に広げてくれるものです。今の画家などの視覚に関わる人の使命は社会に色を伝えていくことです。手始めとして色と形の力にどのようにして気づいてもらうかが重要。色と形に対する感覚を育てていく上で自宅で手軽に絵を描くことはとても大事なことです。そして毎日絵をみ続けることで色の感覚は少しずつ身についてきます。英語の発音や歌の音程が聞き取れるようになることと同じように色もだんだん見えてくるのです。でもそれを妨げることがあります。

     誰もが自宅で絵を描くことを妨げているのは絵を主催し既得権益を持つ人間です。具体的に言えば美術館、画廊、芸大美大、市場、美術評論家です。彼らは絵が皆さんの手元にあっては困ります。誰でも手軽に描くようになっては困ります。絵は特別な高貴な方が描くものでなければ困ります。そうでなければ倉庫に眠るお宝がただのガラクタに成り下がってしまうのです。自分の金がただの紙くずになる。彼らはそれを最も恐れています。そして彼らのやってきたことは、ただのゴミや安価なものを評価し高額で販売できるようにし国を豊かにすることです。古くは千利休は露店で二束三文で買った陶器を織田信長に高額で売りつけた。秀吉は利休によって巨万の富を得たと言われています。現代でも巨匠と言われるアーティストによって国は莫大な利益を得ています。皆さんに馴染みのあるのは音楽になりますがビートルズです。コンシュマーエンジニアリングによって何を買えばいいか勧められた人々はビートルズに熱狂しイギリスは外貨を得ました。今でもアーティストによってなんとか稼げないか?オークションや美術館や画廊やコレクターはそれに乗っかりなんとか儲けようとしか考えていません。

     美術館にとって絵は皆さんの手元にあるようなものでは困ります。そのような下等なものではなく、少しでも高額で売られるものでなければなりません。高貴な方が扱い高尚な世界を妄想し、一般の市民は下で、絵は美術館の考える下々の汚らわしい下賤の者の手にあってはならないものなのです。絵は高貴な方の手元になければならないものだと美術館は考えています。そして何より下々を見下し自分が高貴な人間でいたいのです。美術館にある絵は高貴な色をしています。だから私は美術館にある絵を長時間見ていられません。
     美術館は高貴な方の作品とそうでない下々の下賤の者の作品を選別して保管する倉庫として存在価値を獲得しています。物を特別な物として扱うことで美術館は成り立っています。そのため美術館は物とそれを評価したり所蔵作品というガラクタやそれを作った巨匠を高貴な特別な存在に認定させる機能を持っています。問題はそのやり方によって実際には絵が誰でも描けるものだということがバレていないことです。絵は本当は誰でも自宅で絵を描き見続けられるものです。でも美術館が人間本来の生得的な色と形に対する感性を引き出すことを著しく阻害しています。くどいようですが美術館にある作品の全ては特別な人間でなくても誰にでも描けて作れるものです。本書はそれを証明するために技術書を書き上げていこうとするものです。暴くのは私にはできないかもしれない、でもこの本を残しておくことで将来誰かが実現してくれると考えています。私は彼らを天才と称し「ありんす」と名付けます。私の夢は全て「ありんす」に託します。一番の障害は美術館です。

  • 絵の課題の前に〜9「私のコンプレックスのはじまり」

    「コンプレックス」

     コンプレックスとは抑圧されながら無意識のうちに存在し現実の行動に影響力があることを意味します。コンプレックスの定義が確立され原因や症状が解明されている訳ではありません。でもコンプレックスが存在することは容易に認められますし、その定義はそれほど広義ではなく自分のいる世界のコンプレックスは自分達で存在を認めて解消されるように務める必要があると思います。私たち戦後の日本人にとって一般的に抱いているコンプレックスの概念は概ね近親の関係において生まれる相手からの圧力やそれに対する心の壁のようなものが多いと思います。私が近親の関係に着目するのは人の基本は生まれ育った家庭で育まれるからだと考えるからです。今日におけるコンプレックスの研究が主に展開しているのは家族間の抑圧に留まっているようです。実際には家庭の外の学校や職場などで生じるコンプレックスはあります。しかし、家庭の外のコンプレックスの解消を考えて調べても特段何も出てこないと同時に、当然ですが私のいる絵画の世界のコンプレックスを調べようとしても何も出てきません。私は画家ですから絵画のコンプレックスの要因となる抑圧の所在をいくつか知っていますし見過ごすことは到底できません。既存の概念がない以上絵画のコンプレックスについて独自に考えていくしかありません。
     絵画のコンプレックスの原因を考えるにあたり、コンプレックスの元をたどれば家族間にあるコンプレックスの影響が色濃く出ている場合が多いように思います。実際問題の根本が家庭にあることは多いでしょう。絵画の世界のコンプレックスの解消を考えた時、絵画の世界の中と同等に家族間の問題も考える必要があると思います。私は精神が複雑に絡み合う中で幾つもの抑圧があると思います。それは気分や健康状態の変化に影響され、いかようにも様変わりします。一つの物事を考える時、例えばそれが絵画なら、絵画の概念を頭に思い描き、思い描く周期の波が最高潮に達した時それがピリオドになり、ピリオドを言葉化すれば概念となり同時に概念が点になり、その点は幾重に重なった壁に抑圧されている、というような様子を俯瞰すれば点で構成される図式が見えます。その抑圧が作るのは論理の壁だと思います。そしてそれを溶解させるのも論理だと思います。論理の壁を溶かす論理を1つずつ創造していけばコンプレックスはいずれ解消されると思います。本書では絵画のコンプレックスの溶解を試みるものです。

    「私のコンプレックスのはじまり」

     私の最初の美術予備校の時の担任で私の初の恩師に後の東京芸術大学の副学長になる保科豊巳がいます。彼とのファーストコンタクトは授業を普通に受けていたのにそれを怒られるというとてもユニークなものでした。それは予備校の1年が始まる初日の朝、最初の課題を始めてすぐの時でした。
    私の後ろに来た保科先生は
    「小平お前なんでマルス(予備校の課題の定番の石膏像のデッサン)なんか描いてんだ」
    「俺はマルスなんか描けとかいってないぞ」
    「壁に課題文なんか貼ってんのか」
    「ああ、貼ってんのか?」(貼っていました)
    と言われました。それが一番最初の出会いです。予備校では朝アトリエに入ると課題が用意されています。例にもれずそのように言われていたのでアトリエに入って真面目に準備をしていました。でも遅れて(遅刻して、というか当時の先生は芸大TIMEというものがあって誰でも当然のように遅刻します)アトリエに来た先生が私に言ったのは真面目に課題に取り掛かろうとする私を諭すような小声の叱責でした。

     当時から今でも油絵の世界は普通に絵を描いていたのでは評価を得ることはできません。殆どやり尽くされた絵画の世界で普通に課題をこなす感覚でいるのではだめなのです。私が自分の予備校で課題をあまり出さなかったりこだわらないのもそのためです。実際この30年を見てきて、絵画の中で当時ではイラストと言われて評価されなかった絵がカテゴライズされ評価の対象になる変化はあったものの、THE絵画と言えるようなスタンダードな油絵の中で眼を見張るような評価をされる画家は日本では出てきていません。保科先生はそのような絵画の現状の話の切り口にマルスを描けとはいっていないと言ったのでした。

     その後諦めたかのようにアトリエから去ったので空気を読んでマルスを描き始めた訳ですが、保科先生を流石だな〜と思ったのはあの時の最初の数日間にあった出来事です。私が絵が描けるようになる切欠にもなったのは彼の言葉でした。
    「小平コンプレックスがあると絵は描けないぞ」
    です。悲観的になると絵は描けません。目の前の物事を否定する悲観的なモードでは最初の一歩を否定してしまい二歩目三歩目と作業工程を設計する建設的な思考ができない絵は形になりません。先に書いたピロオドが全て否定の論理になれば人間はいとも簡単に身動きできなくなるのです。創作もそうですが行動全般は行動する瞬間に楽観視して「出来る」という仮定を前提にしなければ動けません。保科先生が言ったコンプレックスには他の意味も含まれていますが、そのようなことを彼がすでに(その後数十年指導し続けて同様の気づきに至っている先生を他に知りません)知っていたことは驚きです。又、それ以上に私の描いては消し、描いては消しを延々と繰り返している姿をひと目見て問題を見抜いたことが私にとって大きな驚きでした。それに指導の仕方としては薄々感づいている者への示唆としてその指摘の仕方は今考えても最適な指導だと思います。

     絵の世界には透視者がいます。私の人生の中で瞬時に私のことを見抜いた透視者は2名いました。保科豊巳と後に私の予備校の担任になる関口雅文です。保科先生は当時の私にスランプを克服するためのヒントを投げてくれました。実際にあの時の言葉が裏付けになったお陰で、悲観的な物の考え方から楽観的な考え方へと切り替える方法を自ら編み出して絵を描けるようになります。そして私はスランプの克服を期に一生一画家でいることを決意しました。

     保科さんは私に2度言葉を投げることになります。あ、そうそう、彼は予備校では保科先生、芸大では保科さんと呼ばれていました。保科さんは私の担任だった1年を最後に芸大の講師になります。私はそれから6年浪人して結局7浪して東京芸大に入るわけですが、芸大に入学した際のこれも久しぶりのファーストコンタクトの時でした。
    その時言われたのは
    「絵なんか描いてもしょうがない」
    でした。その御蔭で私はあれ以来今現在、23年後(この記事を書いたのは2年前です。このタイミングで出すのが良いと思い温めている中から引っ張り出しました。)の今日まで筆を置くことになります。コンプレックスを克服するヒントをもらいながらコンプレックスに逆戻りです。当時の私は7浪して入学したものの、絵を描く制作を続けるために芸大を辞めるかどうか本当に迷いました。結局芸大に残ると同時に筆を置くことに決めました。(私は今silentというテーマで油絵を描き始めました25年前芸大の合格を掲示板で確認した日からこれを続ければ作家として生きていけるというイメージを形にし始めました。画廊と契約してこの一件があり筆を置き最近やっと筆を取りあの時中断した絵を25年越しに描き始めました。死ぬ前でよかった。)

     当時のアートの世界はファインアートの世界とコンテンポラリーアートの世界に2分されていました。私のいた油画専攻でコンテンポラリー系の主導権を握っていたのは保科さんでした。ファインアートは平たく言えばアートの問題点に眼を向けるのではなく楽観的に制作を続けるスタンスです。この世界で絵を描き続けるには悲観的ではできません。入学当時はそれで良いと思っていました。一方でアートの問題と向かい合うのがコンテンポラリーアートのスタンスです。今は私がどちらかと言えばこちらなのかもしれませんが、実際は狭間で何処にも属さず宙ぶらりんで浮いているような存在です。保科さんには1浪の時にポジショニングの話をされました。アーティストとしての自分のポジションを確立するという話です。ファインにもコンテンポラリーにもいたくなかったので結局どちらにも属さない空間に自分の場所を作って今はそこにいます。私はそこを「新絵画」ということにしようと考えています。

     コンテンポラリー系はファインの逆に楽観的に絵を描くことはできません。今この場で本書を書いているのはあの時に保科さんから「絵なんか描いてもしょうがない」と言われたからです。ファインアートの世界に残った時に後ろ髪を惹かれるものがあります。それはアートの世界を大きく変えるチャンスから眼を背けなければならないことです。

     ファインの世界はひたすら制作に打ち込む世界、その世界は市場や団体や画廊が形成している価値に則って描き続けなければなりません。新しい価値を提案出来ない世界です。多少の矛盾は飲み込まなければならない。それを引き換えに社会的な地位や財産を残すことができます。楽観的に見ればどんどん絵が描けます。そして有名になったり一財産築けるチャンスがある。一方で悲観的に見れば疑問が吹き出します。疑問と向かい合い歴史を覆せるような結果が出せればこれ以上ない気分の高揚を得られるかもしれない。所謂保守か革新かです。芸大に入って筆を置くまでに描いた作品は全て画廊が買取っています。あのまま絵を描き続ければ絵の世界のヒエラルキーにのって出世していたかもしれません。その一方で筆をおいた私は大きなチャンスの前にいるのかもしれません。絵には30年以上たってからようやく巡ってきたチャンスがあります。これは「絵なんか描いても仕方がない」というコンプレックスと向かい合ってきたからこそ手を伸ばすことができる好機です。

     コンプレックスは劣等感と言い換えることができます。でもこれは優越感を味わうチャンスが有ることも意味します。劣等感がもよおす大きな卑屈と大きな渇望は制作に気持ちを向かわせるために不可欠なものなのかもしれません。保科さんは私にコンプレックスがあってはだめだとは言っていませんでした。コンプレックスはアーティストにとってあった方がいいものなのかもしれません。

    「絵画コンプレックス」

     世の中には絵に対してコンプレックスを抱いている人が大勢います。そのコンプレックスの大半は「絵が描けない」ことからきています。そのため絵が描けるようになれば大半は解決できると思います。絵が描けるようになっても解決しないコンプレックスがあります。例えば描けても「才能がない」と思ってしまうものです。せっかく描けるようになってもコンプレックスが残る場合があります。コンプレックスの原因は絵の世界の側の論理にあります。絵の世界にある技法系の人達と非技法系の人達との対立によって技法的に描けても、非技法系の人達から見ると評価されない。それは絵の外の世界の人達に不可解さを抱かせます。不可解は絵の外の世界に「わからない」「難解だ」というコンプレックスを生みます。この不可解さは世界中に蔓延し、どんどん人を絵から特に絵画から遠ざけています。絵の外の人達は絵が不可解なら遠ざければ済む話です。しかしそれは絵の中の世界にとっては致命的なことなのです。絵の世界には絵の世界が生んだ論理による劣等感コンプレックスがあります。本書ではこれを一般の劣等感コンプレックスと区別するために絵画コンプレックスと称してお話ししていきたいと思います。

     絵画コンプレックスは絵が描けないと思っている人、才能がないと思っている人、技術系の人、非技術系の人にあります。絵画コンプレックスを持つと絵を描こう、見ようとする時に悲観的になります。絵を描こうとしても描けないと思えば描けませんし、観方がわからない、見れないと思うと見れなくなります。才能がないと思っても描くことができません。
     絵画コンプレックスには、成績が悪かったことによる成績系。才能がないと言われたり思っている才能系。描いたり見たりすることが難しいと思っている難問系。描けないことによる下手系の4つに分類できます。

    ●成績系絵画コンプレックス
    ・図画工作の成績が悪かった
    ・美術の成績が悪かった
    ・コンクールで賞を取ったことがない
    ・身近に(家庭に)絵が得意な人がいて全く認められなかった。
    ●才能ない系絵画コンプレックス
    ・親に絵の才能がないと言われた
    ・兄弟に絵の才能がないと言われた
    ・先生に絵の才能がないと言われた
    ・自分で才能がないと思っている
    ・自分で才能があるように思えない
    ・自分なんかにできるわけないと思っている
    ●難問系コンプレックス
    ・絵を描くことが難しいと思っている
    ・絵を見ることが難しいと思っている
    ●下手系絵画コンプレックス
    ・下手
    ・不器用
    ・デッサン力がない
    ・デッサンが下手
    ・きれいな線が描けない
    ・イラストが描けない
    ・イラストが下手
    ・キャラクター以外描きたくない
    ・キャラクターの正面の顔と側面の顔以外描けない
    ・漫画の背景が描けない
    ・漫画が下手
    ・風景が描けない
    ・人物が描けない
    ・本物そっくりに描写できない
    ・物を見ながらそっくりに描けない
    ・線が曲がる
    ・色がはみ出す
    ・水彩絵の具がぐちゃぐちゃになる

     この文章に続きがありますが温めている文章の中の順番をかなり飛ばして引っ張り出したので続きは順番が回ってきた時に出そうと思います。

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