絵を書く
これから解決するべき絵画の課題
小平 崇史
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はじめに
「絵を書く」は書籍を出版するために書き続けた原稿をHPにあげたものです。本書の出版は営利目的ではないのでこのままHPにもあげようと思います。また私自身日本語能力がとても拙いので書籍にしたところで誰も買わない、読まないので損得勘定も成り立たないとの考えもあります。でも拙いからこそ反応する人もいるとも考えてHPで公開することにしました。拙いとは私も含め画家はもともと文章は苦手です。美術評論家の書いていることも正直よくわからないことだらけでほとんどが頭に入らないのが実のところです。でもそのような状況の中、現代の絵画の世界を支配しているのは美術評論家の書いた概念です。つまり拙い画家の概念は置いてけぼりになっている。つまり拙いもの同士の世界で成立する物事が今の絵画の世界には反映されていません。その損失を考えてみたときに画家が書くことを思ったのです。
本書の執筆は筆者が運営している美術予備校熊谷美術研究所のHPからはじまりました。HPでは絵画の学校では知り得ないことや本でも書かれないことを書き連ねていきました。
もとはと言えば本書を書きはじめたのは一人でも生徒を増やすためです。保守的に、これまでの慣習に合わせて、先人たちの言う通りにしていても絵画はなんの発展もないと考えました。上の人間のいうことを荒立てないために黙って聞いて、組織のために献身的に務めたとしても平和に生きていけるのであれば何の問題もありませんでした。でもそれで食べていけるのは本当にその組織で一人くらい。そのような状況が長年続き、見続けてきたのは先細る状況だけで、このままでは流される河の中でかろうじて足を踏ん張っている状態で、自分の画家としての存続が本当に危ぶまれる状況なので、根本的な所から変えるために行動にうつすことにしました。絵の世界は長年辛抱強く我慢していると思います。なるほど私も耐え難きを耐え忍び難きを忍んでいます。この世界はそのような状況でも受け入れられるような人が勧誘されて存続しています。高校の美術部では怒鳴り散らされながら自由に描くことを強制されました。予備校に通い始めた時は自由に描いていても何もならないという知識を得ました。大学では絵を描いているだけで否定の的となり、大学教授には絵画科で絵画を志望する生徒を集めて運営しておきながら、絵を描くことを肯定できる者はひとりもいませんでした。そしてアート全体は作者の考えではなく、評論家の考えに支配されています。今の大学は大学で絵を描くことを勧める者はいても、未だに教員の誰一人として絵を描き続けて収入を得られるように指導できる者はいません。あるのはほんのわずかな地方の大学教授のポストのみ。他には本当になんの役にも立たないのです。未だに自由だと言われながら本当は自由などどこにもない。それが真実です。自由を声高々に歌いながら自由などどこにもない世界。そして自由という言葉によって支配できる人を支配して利用することでギリギリの状態で成り立っている世界。画家の置かれている状況は何一つ変わらない。真実を何も知らされない状態でひたすら耐え忍ぶ、この世界の人間の忍耐強さはいつみてもやはりさすがです。本書は自分もさることながら、耐え忍ぶ描き手を救うために書いています。それは前にも述べたように私の運営する学校の生徒集めのためでもありますし、教え子たちが食べていけるようにするためでもあります。
後に詳述しますが、画家はもともと「自由のない職人であるギルド」から、工業の発展による時代の変化と、豊かになる世界に合わせて同調させるように教養を養わせようとするリベラルアートの考えをもとに自由を目指すようになりました。そのような自由を叫ばれる中で我々は「画家は自由」だと言われてこの世界に入ってきた。実際にそこに自由があるかと言われれば自由などどこにもなかった。自由を叫んだ時代のもっとも致命的な過ちはそれ以前にすでに、誰にでも簡単に絵が描ける方法が完成しているにも関わらず、世界に向けてその方法の導入を怠った点にあります。誰でも絵が描ける方法が導入されていれば、今頃は誰でも学校でそれを習い、アニメを作っていたでしょう。誰でもアニメで物事を表現できるようになればあらゆる情報は格段にわかりやすいものになります。アニメーションの表現力を駆使すればアートや絵画が説明に苦心してきた内面の描写も今のアニメの力を持ってすればスムーズに世界中の老若男女全ての人に説明できてしまうはずです。それを阻止しているのは特別な存在であり続けたいアートと絵画の保守層の既得権益を守る人間だけです。そうそうアニメが本領を発揮すれば何よりも教科書がわかりやすく面白いものになるはずです。ポンコツの文科省がやらなくて普通の人がすでに作り始めている。アートと絵画の力を解放したい。世界中の老若男女全ての人と絵を描こうというのが本書の狙いです。
私ごとですが、30年前、もともと何もできない自分の場合は絵の世界に足を踏み入れる以外に選択の余地はなかった。昔から美術を勧められる人は何か困っているような人が多かった。引き込みやすい、どこか困っている風の人を積極的に狙って勧誘している。恵まれず耐えしのいで生きている人は耐え難いことにまみれた状況が当たり前で、それがどれだけ続こうが慣れている。そしてそれに歯向かう術を知らない。美術の世界に入ってくる人はほとんどの人が口下手です。そして心に問題を抱えている人が多い。不幸から不幸への移り変わりはもとから不幸な私たちにはさして何も変わりはない。そういった不幸な人はだまり続けます。それを見ながらほくそえむ既得権益を持つ一握りの権力者は、今の状況が変わらないことこそが安泰が続く安全基地なので自分のご都合よろしく何も語りません。でも我々はやはりどこかで願っています。本当に報われるときが来るように願っています。絵の世界が本当に自由になるように。実際はこんな状況ですが、こんな状況とは裏腹に我々の置かれている立場は自由だといわれています。それは自由だと勧誘している既得権益を持つ者が自由な感じで勧誘のテクニックを仕掛けているだけのことです。実際は自由などどこにもない。全く違う。本来なら自由に絵を描いてそれで収入を得て、称賛されて、画家たちに参考にされて、若い画家たちはそれに習う。健全に機能している世界であればそれが連鎖し普通に常識になっているはずです。でもそんな絵の世界はどこにもない。絵の組織の中で偉くなるために大事なことはいかに自分を殺し続けるかです。私は大学院の入試で不毛な我慢を辞めました。当然あるだろうと自由が担保されシステムとして想定されている自由の連鎖、さもあるかのように世の中で語られているような自由が連鎖する仕組みは実は全くありません。このことは絵の世界の外からは全く見ることはできない現実です。
このような絵の世界の現実を変えるには誰かが口火を切らなければならない。残念ながらこのままでは何も変わらない、なので私が口火を切ります。秘密を暴き、問題を解決するために大げさに言えば革命を起こそうと思います。変えることを恐れてはならない。恐れず革新的に活動しなければ何も変わりません。そしてこの状況を作り上げたカラクリを打ち崩せばきっと画家は変わります。少なくともペテン師の仕掛けた自由は消え失せる。画家が絵について「書く」こと。画家が書けるようになれば変わるのです。本書では画家がなぜ書けないのかお話します。その後に絵の書き方を書こうと思います。
絵のことについて書いた後は活動することが大事です。絵を描かない画家を卒業することができれば私も絵を描こうと思います。騙される前のように胸を高鳴らせながら描ければいいのですが、色々と知った今はもう難しいと思います。画家が真の自由を手にするためには革命が必要です。実際行動にうつすとなれば恐れず活動できる人は世界中に何万人もいると思います。ただし純粋な我々画家の頭の中を支配しているのは前に出てはならないという考えです。ひたすら控えているだけ、画家はきまってそれが正しいと教育されています。もし静観することが正しいと言う論理が変われば皆動き始めると思います。それにはまず黙ってじっとしている必要がないことを説かなければならないでしょう。それが洗脳を解くことになると思います。洗脳を解いた後は、活動するべきことを具体的にあげなければなりません。そもそも画家は描くことが仕事です。本来なんのために描くのかといったことや、絵をどのように評価するか?とか、どうみせるか?といった理屈を画家にやたらとふるべきではありません。画家は内的必然性をたよりに描く画家がほとんどです。外的必然性はたいていの画家が苦手です。もともと静かに描くことだけに専念していてよいのであればそれにこしたことはない。右脳だけを使って描くことのみに専念させる世の中の仕組みを作ることが大切です。でも時代がそれを許してはくれなかった。スポーツ選手はどうですか?理屈がわからなくても良いプレイをすれば評価されるはずです。音楽はどうですか?理屈はわからなくとも評価されているはずです。画家はどうですか?私の知る限り理屈を抜きに評価されている人は一人もいない。画家が、今おかれている現実が、思うまま描くことを許してくれない。描くことを誰も許してはくれないわけで黙って描くことができないのです。これが画家のおかれるしられざる状況なのです。そもそも見たことのない絵を描かなければならないと徹底されればその時点で未来はないことはわかりきっているわけです。今の状況は予定調和されたように、絵を描き続ける世界とは違う世界の住人が理屈によって作り上げたものです。実際に今は絵を描き続けることは不可能です。音楽やスポーツの世界とは違い、絵の世界は見たことのない絵しか評価しないという手法で駆逐されています。画家を弾圧して頭一つ出ることができるのは画家のかわりに世にはびこる美術評論家です。他の研究分野で仕事ができなかった評論家が美術に流れ依代にする。能力の低い評論家が垂れ流される絵画の世界の程度は実に低い。絵が描くことよりも評論することに目が向けられる原因がここにあります。この状況は画家が「書く」ことができないために起きています。この状況を改善するために画家の誰かが書かなければならないのです。そして美術評論家の支配から解放されるために一人でも多くの画家が書くべきです。画家のみんなが書けるようになればその時は美術評論家の支配から解放されるでしょう。
私は書こうと思います。皆が書けるようになるために。そして理屈ではなく感覚で「描ける」ように世界中の画家が永久に絵を描ける課題を出そうと思います。その課題を網羅すれば概念を考えずに描くことが担保されるはずです。そこに美術評論家が侵略行為を働けば書ける画家がそれを防衛します。音楽やスポーツの世界にあるように「描ける」仕組みが機能すれば画家は食べられるようになるはずです。課題は描けるようになるための課題を沢山つくりました。美術評論家のご高説にある社会的な必然性がなくとも課題があれば絵は描き続けることができるのです。その際の評価に評論家を挟む必要はありません。審査員すらいらなくなります。なぜならば世界中の全ての人が絵を見れるようになるからです。絵のルールは一部の人間が日本であれば文教族に支配され、美術評論家に支配され、画廊の顔色を伺いながら決まるものではなく、絵の外の世界の全員で決められるようにすればいいのです。そうすれば課題は永久に生き続けます。皆さんのためにたくさんの課題を考えました。描くための絵画の道になるように絵画の問題をあげました。絵画には確かな道があります。しかし絵画の描く道を示す人は世界中に誰もいないのです。スポーツや音楽のように絵も描くことができるのです。
私が見る限り今の絵の世界は黙ってじっと大人しくしているように教育されています。じっとしていることが正義のように教育されているのでそうせざる得ない状況です。指を咥えて見ているだけでは我が身が細り朽ちていくばかり。じっとしていても何もはじまらないので何かしなければならない。絵画には問題が沢山あります。皆に解決して欲しいことがたくさんあります。これを切っ掛けにして画家が画家の力によって完全に立ち直るために絵画の課題を考えました。これまでは口をつぐむことが正義だった。しかし今は正直に全てを話さなければならない時だと思います。遠慮なく動いていい。遠慮なく動けるように論理を書きました。「絵画は終わった」という具合に絵画に対するネガティブキャンペーンは世界中で積極的に行われています。一方で絵画に対するポジティブキャンペーンを行うことは少ない。人目を気にせず絵画のポジティブキャンペーンを行おうと思います。絵画のネガティブな状況を変えるには多くの誤解を解かなければならない。そもそも絵画は終わるとか消えるという類のものではない。そのようなものに見えてしまうのも評論家によって仕掛けられた誤解の一つです。張り巡らされたネガティブな論理で雁字搦めになった絵画を解放するために、一つでも多く誤解を解き、ひとりでも多くの人に改めて絵に興味を持ってもらえるようにしようと思います。
ここに今書いたような思いが本書の執筆の根底にあります。絵の世界を変えたいという思いが私の活動の原動力です。その原動力から出てくるエネルギーを向ける対象は美術予備校です。つまり壮大なイメージを持ちながら結局私は美術予備校の仕事をしています。そのため本書は善意も勿論ありますが、広い意味で営業利益を上げるために書き始めたものです。埼玉の小さな町から、芸大美大受験という小さなフィールドから、世界中の絵画を本気で動かそうと思っています。世界を動かせば小さな町で生きていけて細々儲かる。芸大美大受験産業は起死回生のアクションを起こさなければじきに消滅します。事実、年を追うごとに生徒を減らし続けている。クマビの予測では今の半分かそれ以上減少は続くと考えています。具体的な数字で言えば東京芸術大学美術学部の受験者数は現在3000人程度。これが1000人まで減少し下げ止まる。減少の続く理由は下げ止める手立てがないからです。ネガティブな方に向かう論理が定着しそれを穿ち対抗する論理は彼らの中にはもはやありません。それもそのはず、そもそも今の時点で10倍以上の倍率があり、それを存続させる論理の方が異常なことで、適切な倍率まで下がり続けることの方が明らかに健全だからです。クマビはそのような中で必ず成功する確信があってはじめた美術予備校です。次々と美術予備校が倒産する最中でこの状況を垣間見ながら予備校を立ち上げる人はいません。おこがましいですがクマビはその中で唯一勝算を持って立ち上げた予備校です。アクティブに活動しなければ、ただでさえ全般的に斜陽の美術と絵画の世界です。本来であれば埼玉の熊谷の小さな学校が存続することはできません。生き残るために受験生の減少の理由を考え、その問題の根本を理解し、根こそぎ解決するために、なんだかんだ長い間一心不乱に書き続けてきたのが本書です。このファイルだけでも話したいことが積もりに積もってすでに17万文字あります。章にして68章。それを少しずつ公開していきます。HPで最初の話を公開して何年か立ちました。現在執筆活動に入ったので2年余り更新されていませんが、それでもたまにですが長々書いている文章を「全部読んでいますよ」との声をいただけるようになりました。そして一連の執筆を読んで頂いている皆様のお陰でほそぼそですが日本全国から生徒が集まるようになり今日まだまだ運営できています。ありがたいことに本書を書いている令和3年は近隣の生徒と遠方からきて一人暮らしをしながら通う生徒と半々になるまでになっています。近隣の高校と中学に向けた営業努力を怠っていると言えばそれまでですが、クマビはポリシーとして他社様のように高校を訪問する高校周りの営業は致しません。そのような営業をかけずにクマビが遠くから生徒を集めながらほそぼそでも存続していることは少し自慢です。都内の大手予備校に行かずにクマビを選んでくれる。それだけでありがたいことです。それが続くように努力を続けなければなりません。そしてその輪が全国に広がるように。我が校は小さいながらも全国区。うちのような美術予備校は他にはないと自負しております。これは予言ですがクマビは全国1位の結果を出す予備校になります。今はその前夜。でもこれはクマビだけでなく他の予備校でも起こることです。小人数の予備校が大手を凌ぐ合格者数を出し始める。近い将来クマビは未来の美術予備校のモデルになると考えています。美術予備校で働く先生方は年々報酬が減少し、とても少ない報酬で働いています。美術予備校では以前は時給10,000円で働いていた先生もいましたが今では高くともその3分の1程度です。ほとんどの予備校はもっと低い。そのような中で時給10,000円貰え年収1000万円を超える収入を得る先生がいるのはクマビしかないでしょう。規模の大きい予備校で講師の報酬を上げることはこの時代の今の状況では不可能です。ですがクマビのビジネスモデルならそれが可能です。時期が来たら小規模予備校のビジネスモデルを公開したいと思います。その時から美術予備校は全国に展開し多くの美術大学を卒業したOBが個人で経営し生活してくことが可能になるはずです。本書はそう思い至った時に執筆を始めました。 -
絵の課題の前に〜1真実をお伝えするため「天才育成計画」というものを考えました
絵やデザインの世界はもともと閉鎖的です。もとはと言えば画家はギルドというメモ書き一つ残さないようにしていた職人からきている・・乱暴ですがそうともみれます。もとはと言えば、クラスでコミュ障で一人で絵を描くことが好きだからこの世界に入ってきたと正直に告白すれば多くの人がそうだと言えます。もとはと言えば、先生は教えてくれません。なので、技法やタッチやスタイルは自分で出来るようにしたり、編み出したりして、自分で新しい発明をしてきたのですからやすやすと暴かれてはならないといった感じをみんな抱いています。そんなこんなで絵とデザインの世界の人間は全般的にペラペラと喋るようなタイプの人間ではありません。20年ほど前からコミュニケーションが大切だと言う声が聞こえ、常識として定着してきて、格好つけてみんなコミュニケートできているようなことを言いますが、いやいやどうして全く交流できていないので隣の話になると全く何のことやら理解していないのが実情です。そもそもそれほどオープンならこれほどわからないことだらけで色んなことに困らないわけで、絵やデザインと言えば本質的に昔から何も変わっておらず閉鎖的な体質は今も全く同じです。例えば隣の科のことになれば何にもわからないのが実情です。全くコミュニケートできていません。どこそこ大学様いかがですか?
絵の世界は秘密にされていることが多くあります。そのせいで絵は自分の身を隠してしまっているせいで、絵そのもののポテンシャルはほとんど発揮されていないと筆者は思います。この問題を解けばもっともっと絵に人が集まるはずです。絵の世界は人に不可解な印象を与えることが多いと思います。その不可解を解消し皆さんに少しでも多くの真実をお伝えするため筆者はこれまで「天才育成計画」(=天育)と称してHPで知られざる絵のことを書きました。
筆者は絵の世界で今の有様が続けば絵の天才は生まれてこれないと考えています。逆に天才にとってはチャンスかもしれないとも考えていますが・・。少なくとも日本では・・生まれてはこれません。天育は筆者が絵画の天才が育ちようのない今の世界中のアートの状況を憂いて改善するために書いています。天育は本編に入る前の導入に何章も費やしました。なぜなら天育の内容が本題の技法書の章に入る際に技法書の必要性をしっかりと説く導入が必要だと考えたからです。誰でも絵が描けるようになるための技法があります。でもそれを導入する前に立ちはだかる壁は「才能神話」でした。技法の話の前に絵は才能がなければ描けないという誤解を説かなければならなかったのです。 -
絵の課題の前に〜2「才能神話」
絵画や絵画のみならずデザインなどの絵に関係する世界には多くの才能神話があります。才能神話によって才能がなければ絵が描けないと考えてしまい多くの学生が絵の道を諦めてしまいます。才能神話を作ったのは絵画の世界とメディアです。今の日本において大きな損失はアニメと漫画に興味のある子供達が才能神話によって目指すまで思い至れずに諦めてしまうことです。絵は誰でも描けるようになります。
自分たちのために自分たちの巻いた種によって功罪は巡り巡って、現在、人離れという形で降り掛かってきています。本来誰でも描けるほど簡単にできている絵画技法を絵が売れ入場料を取って鑑賞させるために特別なものに仕立て上げた。誰でも簡単に描ける絵画技法が表に出る機会は奪われ、出しても信じてもらえない状況が作られました。重ね重ね言いますが絵は誰でも描くことができます。
世界はAIの時代に入りスマホのアプリで誰でも映像を作る技術を手にしています。今足りないのは絵を描く能力です。本来なら誰でも描ける絵の描き方を知られていない。そのため誰にでもアニメや漫画を作れるのにその機会に恵まれず絵が世の中で役立つ機会は完全に失われています。
世界中の人が絵を描けるようになった時に才能神話は崩壊します。そして特別な才能と称して売買されていた作品は全て売れなくなります。しかしその代わりに偽りは解けて世界中の皆の手でアニメや漫画が描かれるようになり、わずかながら油絵が描かれるようになるのだと思います。
才能神話が生んでいる誤解を解くために執筆を思い至ったのも本書を描く動機の1つです。天育は最初HPで公開していましたが、本書から書籍の出版へ移行することにしました。執筆開始は平成の終わり頃でした。平成から令和に入り、コロナになりました。AIにより様相が変化する世界の時代の流れとともに絵の世界も前人未到の局面に入ろうとしていると思います。ひょっとしたらこのトリガーが引かれた時に後世に語り継がれる本当の天才が生み出されるのかもしれません。
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絵の課題の前に〜3「第2次産業革命の中で画家は洗脳された」
時代は今、AIによる第3次産業革命に入ろうとしています。第2次産業革命のもとで絵画は絵の具の量産を可能にし、大きな飛躍を遂げました。腸詰めやガラスの容器を使った絵の具の保存方法から絵の具のチューブに変わったことで屋外で制作可能になり、それを切欠に印象派が生まれました。絵の具を自分で製造できなくとも絵が描けるようになったことは絵画にとって革新的な変化です。しかしその時に捨てられたのは絵を描く技術そのものです。それ以前は絵の具の製造方法とともに絵の描き方が伝搬されました。絵の具の製造はすなわち絵を描くことそのものだったのです。例えば何万年も前、壁に捕らえて食した動物の血液で絵を描いたように、絵を描く都合を踏まえて製造方法を改良し続けた製造のノウハウは制作のノウハウそのものと言えるものでした。絵の具のチューブの開発と工業化による量産は絵の具をみんなのもとに届けることを可能にしたものの、描き方までは届けてはくれませんでした。その状況に蓋をするように上書きされたのは自由にのびのび描けばよいという考え方です。この考え方は場合によって正しく、場合によって誤りです。自由に描きたい人にとってはいい。しかし私の知る限り大半の人が絵の描き方を知りたい、でも実際には誰も知る機会がなく本来教育を受けなければ身につかない技術まで誰にも教わらずに身につく能力とされてしまったことで不可解な才能神話が生まれました。おかげで絵描きも鑑賞者などの周りの人たちもみんな首をかしげることとなります。結局現代でも絵の描き方を正しく知る人は相変わらず少ない。絵の具があっても思うように絵が描けない。描きたくても描けないというジレンマは病的な様相を作り上げていると私は考えています。軽い、いや軽くはないか・・重い詐欺だと私は思います。道具を与えてやり方を教えないとは詐欺以外の何物でもないと思います。筆者の親の世代は第2次産業革命の世代ですが、うちの親を見る限り、我が家では電源を入れるだけで動かせないパソコン。誰も弾かないピアノのように高価なオブジェを買うだけで満足する人は多かったように思います。使い方がわからないけれども購入するだけで満足、そういう感覚があったと思います。ピアジェや発達心理学などのことも語られますがそういう問題ではないと考えています。絵の描き方を教えなければ五感を働かせることは確かです。ただそこでは使わなくても良い感覚を働かせていることも認めておかなければなりません。幼児でなくてもやり方のわからない道具を与えられれば五感をフル動員してなんとか使えるようにしようと試みます。でもそれは困惑の最中にいる精神的にはとても不安定な状態になることも認めておかなければなりません。情緒が不安定であればのびのび描くとは程遠いことをさせていることも偽りなく認める必要があります。事実やり方を教えずに絵を描かせて困惑しない人はいません。車の運転はまず車の操作を教えなければ車は動きません。教えなければ五感を総動員するでしょう。そして無理に動かしても動かず失意のどん底に落ちるか、万が一動いてしまったらおそらくその人が運よくブレーキのかけ方に気づかなければ人は死ぬでしょう。絵の世界はこれと同じことをしています。動かせても運転の技術と道路交通法を教えなければ公道を走れないように、描けても無意味なものです。車と同じように絵の造形技術は技術を教えなければらくがきはかけても高度なものは身につきません。それにアートの世界での絵画のルールを教えなければ事故なく発表することはできません。単純に絵の描き方を教えていないということは問題なのです。
私がこれまで30年間生きている間に肌で感じてきた絵画は日の目を浴びることはありませんでした。工業化の時代の流れを背景に持つこれまでの絵画は手わざであるがために世の中から大きな注目を浴びることはなかったと思います。手わざよりも工業。工業化の風潮の中で絵画をどのように見て考えるべきかがただ闇雲に絵を描くより誰もが先決だと思っていました。芸術のための芸術というマニエリスムの時代に入り、絵画は存続しつつも、少しずつ着実に、工業に力を吸い取られたように思います。工業の影響で絵画の手わざの力は弱まっていったと思います。
本書の狙いの1つは「人は描く」ということが本質であることを説明することです。工業化の猛威が衰えてきたこの機会に絵画の復興を試みたいと思っています。
私がこれまで見てきた絵画は工業化の時代の流れの中にありました。私がそれを感じたのは高校の美術部に入部してすぐでした。入部してすぐ油絵を描く時代ではないと話されました。油絵を描く時代でないことは30年経った今でも変わりません。それでも私は油絵の世界に入った。私が幼い頃はテレビがまだ白黒でした。白黒のテレビが見られなくなったように油絵を描く時代は過ぎ去りました。工業化が進みどんどん生活が変わる。絵の時代ではないなんてことは少なくとも大人であれば誰もが認識していたことです。当然私もそうでした。私自身はもとはといえばそもそも油絵に興味があったわけではなく、興味があったのはテレビで鶴の線画を動かして飛び立つ様子を描いた当時まだ目新しいCGでした。何もない田舎に育った私にとってCGも油絵もどちらも自分には遠い存在でした。田舎者の私にとって遠い存在のものは全て憧れの対象となりえるものでした。
時代は農業や漁業、林業、手工業から工業へ。アナログから機械へ。私が高校生の時はデジタルへ突入するその前夜でした。我が家にはパソコンがありました。高校の入学金も払えなかった父は私が中学生の時にパソコンを買ったのでした。ビデオがまだ一家に一台なかった当時、パソコンは高価で家にある家庭は稀でした。貧乏な我が家でも新しい物好きの父が思いつきでパソコンを買った。そんなような我が家の家風もあって何がどうなることかさっぱりわからない油絵の道に高校生の私は飛び込みました。その感じは50歳を目前にした今でも変わっていないように思います。まあ思えば極貧だからなんでもかんでも買えないので思い切って買えるものを買える時に1つだけ買う。そして何にもないから守るものがなく保守的になる感覚など持ち合わせておらず別になんのためらいもなく絵の世界に平気で飛び込めたのだと思います。
アートのもとの意味は技術です。世の中での視覚表現としての技術のお株を絵はご承知の通りカメラに取って代わられています。世の中の興味関心はアナログで物を作ることから離れ、次第に人々からものづくりの技芸への関心は薄れる。そのような意識は今に続きます。絵の世界は技術ではなく感性や発想や考える力で新たな道を切り開こうとしていたと思います。世の中に響かなくともよいというのは建前で必死に足掻いてきた。どのような道にも正しい面があるのは確かですが、私は先人たちの切り開こうとした道とは別の所に絵が通れる道があるように思います。
絵にはけしてなくならない形があります。時代がどうなろうと絵が失わない形があります。それは絵を描くことそのものです。絵を描くということ自体に輪郭があります。その輪郭が写し出している形は未来永劫なくなることはありません。絵を描くということ自体は、どれほど工業が発展しようと、AIが進化しようと、人間の本質として最初から淘汰されようのないものがあります。その形が多分我々が気づかなければならない絵です。
そのような油絵の世界を理解しながらも私の周りでは多くの学生が油絵を描いて将来の進むべき道を模索していました。それからそれぞれの歩む道に進みました。
私が生まれた時はすでに絵の世界の力は衰え目にするものはアニメと漫画でした。あいかわらずアニメや漫画の世界は人気があります。しかしアニメや漫画はアカデミックな世界には今でも受け入れられていません。今の美術史家の書く本の年表に刻まれるのは油絵や日本画や現代美術の中に見られる絵画です。敷居が高いところから低俗といわんばかりに見下し、必要のない敷居を設置してそこに登るシステムを作りせかせか登ってからアニメと漫画の世界を見下ろすようにしてアカデミシャンというか評論家はアニメや漫画と絵画は絵画とひとくくりにはしてはならない別の絵として扱います。本来は絵はアニメであれ、漫画であれ、油絵であれ、日本画であれ何でも絵です。でも私のいる絵画の世界ではそれぞれ自分たちの扱っているものが「絵」で「絵になっている」と称して、自分の絵と違うものを「絵ではない」とか「絵になってない」といった表現で遠ざけます。その選ぶ行為が優性遺伝的なとか選民思想的な錯覚を生み、半ば間違いと気付きながらも徒党を組み同調することで得られる権威を傘に言葉遊びをして愚かでおぞましい悦に浸りそのゾーンに浸っていながらアニメや漫画を気にするようにしています。他の世界には機能しない自慰が人気のない絵画の世界にいる「自分」という自らを一度井の中の蛙のように心の深い所まで落とし込み、深い深層で都合の良い論理はないかまさぐり、まさぐりながら自慰をして、悦に浸ることがいろんな社会的不安を取り払ってくれて、これでいいんだという気にさせてくれる。やがてそれは錯覚の自己肯定感を生み、その錯覚を抱きなから仲間と絡みみんなでゾーンに何度も入り、楽しいので一人でいる時も妄想してループする機会を沢山作り、知らないうちに洗脳され、自分たちの根拠のない自信である「絵になっている」という錯覚に没入しています。このような集団催眠は絵画の随所で行われていることです。冷静に見ればサッカー選手が野球はスポーツではないと言っているのと同じです。実にくだらない。
油絵の世界では今、油絵の姿が薄れ、だんだん薄れ、薄れに薄れて、油絵そのものをやる気配がなくなっているように思います。それは問題で、どんなに生活が便利になろうとも、アニメが面白かろうと、それは油絵には直接関係のない話で、油絵というもの自体で切磋琢磨し、研鑽をつみ、人に感動を与え、プロとして評価される。油絵そのものの姿はいつも我々の世界のどこかにかっことした形としてあるべきです。さりとてこれは油絵だけを「絵になっている」と錯覚することとは違います。油絵の輪郭をはっきりさせるために洗脳から目を冷まし見極めるべきです。敷居の高いところから周りを見下ろすように油絵の世界を見ようとしていてはいつまでたっても油絵の輪郭は見えてきません。油絵の世界が外の世界の人に理解されないのはそのためです。輪郭をぼかすことで成り立っている世界、この輪郭をはっきりとさせることが油絵の本当の力を発揮させる唯一の方法です。
スポーツや音楽の世界にはプロがいます。油絵の世界ではプロと言えるプロはいません。プロはいますが、少なくとも私の周りはそのプロを嫌煙しています。実は絵は売ろうと思えば簡単に売れます。コレクターが望むものを描くことは簡単ですし、コレクターはある程度、動産として作品を割り切って購入しているので動産として売りつけてしまえば買います。そこで描かれる絵に参考にする物の見方や考え方や感性や技法はあまりありません。その証拠にそれを大学で授業しようとしてもあまりに簡単で、それでは授業が成り立たないのでどこの大学もやりません。画廊やそこで描いている画家はそれでも自分たちを肯定しますが、それならば民間で授業をすると良いと思います。簡単にできてしまうことなので受講している生徒たちはなんなくそれができてしまう。それも油絵の輪郭を鮮明にすることに役立つでしょう。民間に誰でも簡単にできることが伝わる日が早くなる。授業をすれば真価がしっかりと浮き彫りになるはずです。
私は油絵の指導をはじめて20年が立ちましたが私は具体的に生徒に油絵のプロとはこのようなもので、このように目指しなさいと指導することができません。本当に勧められるようなプロの形がないのです。スポーツや音楽の世界のように油絵で年間数億円を稼ぐような画家が日本にはいません。この状況は世界中で同じでこれを変えなければならないのです。
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絵の課題の前に〜4「人類の描くことのはじまりをみれば今の絵画の問題が見えます」
私は画家なのでふと人が絵を描くということについて考える時があります。何度考えてみても、絵を描くということは本当に不思議で謎だらけです。
これまでたくさん考えてきて、それでもなお「なぜ人間に絵が描けるのか?」わからない。アートの世界の中では絵を描くことを否定している人が多く、特に私の周りでは大半です。ですが、絵を描くことをどれだけ否定してみてもイラストを描くことが好きな人は一向に描くことを辞めないし、描くことを否定している人の多くは子どもたちに自由に描かせることを勧めているし、きまってその子達が本格的に絵を描く道に進む気になったと同時に絵を描くことを否定するのです。
しかし、イラストを描く人がいなくなることはありません。子供や大人でさえもらくがきすることはなくなりません。絵の世界は絵を描くことが好きな人によって支えられています。そして絵を描くことが好きな人達によって絵を描くということは未来永劫なくなることはありません。それが美術評論家が辟易し最も毛嫌いする絵を描くことがなくならない本質的な理由です。美術評論家の人に頭の悪い筆者の私がいいことをひとつ教えてしんぜようと思います。「あなた方が絵を描くことをいくらやめさせようとしても絵を描く人がいなくなることは、永久に、ない。」
絵は理屈ではなく、自然に描いてしまうものなのです。これを無くそうとしても不可能というもの。絵を否定する思惑は感覚的に描く世界を論理的に支配し思い通りに操作したい人たちの都合で生まれたものです。この論理は絵を描くことの未来のために生まれているものではありません。美術評論家がどれだけ絵を描くことを否定してみても、人に絵を描かせないようにすることは無理だと断言できます。そしてお粗末で無能極まりない評論。美術評論家の中に絵を描くことを肯定し時代を揺るがすような力のある人はかわいそうですがいません。人が自然に描く落書きで食べていけないのはなぜか?好きな絵やイラストで食べていく道筋がぼんやりしていて見えてこないのはなぜか?それはスポーツや音楽のようにそれぞれの絵やイラストを愛好する者たちが集まりを作って完全な市場を作り上げていないからです。今あるマーケットはゲリラ的な様相です。そうではなく誰もが信じて疑わない規模の市場にまで成長しなければなりません。そのためには自然に絵を描くことを美術評論家や流行のために作品を作るモードやコードで制作する輩を跳ね除けて押し通していかなければならないのです。
人が絵を描くことは自然の摂理です。人が絵を描いてしまうことは手を動かしてしまうことそのもの、体を動かすことや動かす際にイメージすることそのものが絵です。絵は体を使う軌道そのもののイメージを痕跡として残すようなもので、そもそも手と脳をもつ人にははじめから組み込まれていることです。脳で手を動かすことそのものが絵。美術評論家が絵を描いている人間をみてどれだけ辟易しても無限増殖的に後からあとから絵を描く人は現れます。それは人が動くことそのものが「絵」だからです。今の問題は時代がそれをただ受け入れれば済むことです。今は第2次産業革命から第3次産業革命へと時代が移り変わろうとしています。工業ではない手仕事の絵は第2次産業革命では時代から積極的な要請を受けませんでした。世界中が手で物を作ることに消極的になった。それが体を動かすことが絵そのものであっても人が絵から離れた原因だと思います。一方でこれから訪れる第3次産業革命では個人にスポットの当たる時代です。自分自身をカメラで映し、その場で放送できる。身体からできる絵は描いている姿を動画に撮影しながら撮影した映像と合わせて絵を発表するといいでしょう。そうした方が体を動かすイメージが絵そのものであることが伝わりやすい。小さなお子さんとか絵を描いている様子を撮影して絵と動画を両方残して欲しいです。年配の方も子供やお孫さんたちに絵とその動画を残すといいと思います。映像は虚像ですから絵は実物そのものなので映像の良さもありますが映像には持ち得ない現実に目の前にある物質とまぎれもなくその方が体を使って描いた痕跡がそこには延々と残り続けます。美術評論家が辟易する絵ですが私は美術評論家の方にも片意地を張らずに絵を描いて欲しいと思います。個人が自由に発信できる時代では個人の価値や考えや感性が本当の意味で尊重されるようになります。社会が個人を見るシステムを手にした時に絵が活きる時代に入るように思います。その時代ではきっと今以上に個人の意見が政治にも反映されるようになっているはずです。現代は残念ながら個人の意見や思いはねじ伏せられている世界です。そんな個人に蓋をして当たり前の世界では絵も流行らないわけです。
絵を描くことをアートの最前をいく評論家が毛嫌いしても、否定しても、権力闘争に打ち勝ち、周りの画家の生命線をことごとく絶っても、人類から絵を描く人間がいなくなることはありません。駆逐し、滅ぼしたはずの画家がしょうこりもなく目の前に現れると美術評論家は絵を描くことを辞めない人を見てゾンビのように感じ、悍ましいものを見るかのような毛嫌いの仕方をします。美術評論家は絵を描きません。文字を愛し文字を書きます。絵を憎み、絵を描くことを否定します。でもどれだけ美術評論家が絵を描くことを否定しても、どうしても描いてしまうものは仕方がないのです。絵を描いてしまうことは美術評論家がいうようにリベラルアートを理解しておらず教養がないということではなく、自然なことなのです。美術評論家が思い描いている正義は今より100年も前の奴隷のように奴隷に絵を強制的に描かせていた時代に通用した話。時代錯誤な感を誰もが感じながらもこの惰性を止められず、既得権益を守るために止めないでいます。一言で言えば「大人気ない。」これまでの時代では多くの画家が美術評論家の指示に従順に従いました。それでも評論家に全ての画家が付き従うかと言われればそんなことはありません。出世を捨て一線から身を置くことを選択する画家もいるのです。というか、私の目から見て、ほとんどの人がこのような絵の世界からは距離を置いていると思います。実際の所、黙って距離を取る人の中に優秀な人は多い。
今日も美術評論家は「アーティストは嘘をつく。」と美術評論家の卵に指導しています。そもそも嘘もなにも絵を描く人はなぜ描くのかわからないのです。体を動かすこと自体が絵なのですから動いている人に例えば「なぜ息をしているんだ貴様は説明しろ」と攻めても困るのです。それを説明しろと言われてもできないだけ。そこに当てはまる言葉がはじめからないのです。言葉から始まって言葉に終わることで喜ぶのは美術評論家。絵描きは絵を描くことから始まっているものです。そもそもロジックなことから始めているわけではありません。活字とは別の営みで動いている。それを世の中にない言語で表現しろと言われても無理というもの。評論の世界は活字の世界です。そこは活字の中だけの、絵の世界とは全く別の場所の世界です。脳の中にある活字がイメージとして構築した世界は絵の世界ではありません。活字になることがらの中の世界です。活字にならない世界はそこには全く重なりません。評論家が絵の世界だと思いこんでいるそれは多分哲学や何かの世界を絵の世界に当てはめて作り上げられた絵の実体験を通じて見える世界とは別の想像の虚構の世界です。そのため絵が好きでイラストを描いたり、心から楽しんで落描きを描いている人の感覚を共有し、考えを正しく書ける評論家は一人もいません。彼らが書いているのはあくまで、評論の世界で書かれた絵の話なのです。
美術評論家並びに絵の世界の権力者の致命的な誤りは絵をスポーツや音楽のようにプロとして描く道筋を壊してしまった点です。歌ったり、踊ったり、走ったりすることと同じように「描く」ということには価値があります。絵の価値を社会的に認める機能を世界は持つべきです。走る人になぜ走るのか?答えを求める必要はありません。歌う人になぜ歌うのか理由を求めることもナンセンスです。少なくとも絵を描かせることを辞めるように、走るのを辞めさせるために、歌うことを辞めさせるために理由を聞くことはナンセンスです。でも絵の世界にはなぜ描くのか?という愚問を投げかけるのが常識となっています。これらの仕組みを作り上げたのはもとはといえば自由を求めた人たちです。年月が本末転倒な状況を作り上げてしまった。もとの鞘に収めることができないのは今の形で力を得ている権力者が権力を守って硬く蓋をしてしまっているからです。私が絵と向かい合ってきた30年。この間にじっと我慢していましたが、いっこうに前向きなことを何一つ言わないおろかな美術評論家。私はこのままでは自分の人生が終わってしまうので、このおろかな過ちを打ち崩してみようと思います。
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絵の課題の前に〜5「絵のはじまり」
私はよく絵のことを考えます。自分の描く絵のことや、普通は考えすぎだからといって考えない方がいいと言われそうな様々な懸念や、理想を妄想したりします。私は最近国会で野党が与党を責め立てることとその必要性がやっとわかったような気がします。今の私は野に下る道を選んだ野党です。画家として美術館や美術評論家や芸大美大、画廊、オークションなどの矛盾に手当たり次第に声をぶつけていかなければならないと最近よく思います。
そんな調子で毎日絵のことを考えているわけですが、この章を書いている時は人類の絵の始まりのことを想像していました。人類初めての絵はきっと世界中の至るところで描かれ、意外と同じような題材で、同じような描き方で、きっと同じようにみんながすごく面白がりながら、描く喜びに満ち溢れ、地面に這いつくばって絵を描いたり、壁に絵を描いて壁の前に立って絵を見ながらみんなが歓喜をあげているような、そんな様子で始まったのではないかと思います。そこには才能という概念はなかった。全員で絵を描き誰でも絵が描ける自信を持っていたと思います。誰かを画家として祭り上げるようなこともなかった。ここで言いたいことは「描いている絵が他の人と同じでいい。」ということです。何故ならば違う絵を描こうとすることや違うことを評価することは歓喜を奪うからです。「みんなと違うことをしなければならない」という縛りは必ず自滅の道を辿ります。絵の世界ではどこの誰を見ても間違いなく目が死んでいる。それはみんなと違うことをしなければならないということによって絵を描く概念そのものが構造的に破壊されているからです。その縛りのせいで絵は簡単に描けなくなりました。それはスポーツや音楽が盛り上がる中で絵画が盛り上がらない理由です。みんなで同じ絵を描くことを受け入れればスポーツのように細かい差異に注目して話題にすることができます。これがどれだけ盛り上がるものか。でもこれを怪訝に思うのは美術評論家です。絵の世界が細かい差異を問題に取り上げるようになれば美術評論家はアプローチの仕方を180度変えなければならなくなります。美術評論家がどれだけ困ろうが知ったこっちゃありませんが。みんなが同じように描くのではなく逆に誰も描かない絵を描こうとすると程なく全員が描けなくなります。誰でも安易に描けなくなることによって潤うのは絵の世界を描く世界から考える世界に変えた美術評論家です。こんな自殺行為をするのは画家ではありません。みんなと同じことをやる中に歓喜をあげるヒントがあります。そんな絵の歓喜の声を現在は大人から聴く機会はありません。歓喜を奪った主な原因は評論家以外には工業化の流れの影響が大きいと思います。土いじりや漁をしたり絵の具をいじっていられなくなった。漁や土いじりがどれだけ面白いか・・。私は毎日釣りをしているのでよくわかります。工業化によって人類の仕事は自然から離れていきました。そこで絵の世界は人との関わり方を大きく変えてしまったと私は考えています。今では太古の昔の人が絵の前で歓喜したように美術館の前で歓喜の声をあげて大喜びするようなことはどこの美術館にもないと思います。そのようなみんながシンクロするようなことはそのような遊びがなくなったので不可能です。唯一あるのは小さなお子さんが絵を描く時です。ちなみにこの最後の砦はなんとしてでも死守しなければならない。美術評論家は人が絵を描いていることに辟易します。美術評論家の矛先を子供に向けさせてはなりません。かつてピアジェは絵を生業にするために訓練している大工の子供がみんな同じ絵を描いているといって攻撃しました。でも実際は子供たちはみんなでスポーツしたり歌を歌うように絵を描いて遊んでいたのです。みんなで遊ぶ遊びはみんなと同じことをすることが楽しいものです。それをピアジェは発達心理学の見地から根底から否定しました。そこからの切り口でいまだに幼児教育の中での絵は根本的に大きな問題を抱えています。みんなで絵を描いて歓喜の声をあげるその声を奪う仕掛けは実はピアジェが仕掛けたと私は考えています。みんなと「違う絵を描かなければならない」この概念によって絵は容易に描けないものになり全ての人から描く楽しみを奪い歓喜の声を奪いました。みんなで同じような絵を描いて遊んでいた職人の子たちは歓喜の声をあげて楽しんでいたと想像します。
日本は幼児のこの砦を守ることでさえ危ういと思います。理由は自由を推奨する派閥に忖度しているからです。私が子供たちの内心を探っている限り子供達は絵の描き方がわからない時点で絵を描くことが嫌になります。それは幼稚園の年中さんともなればほぼ全員が経験します。まず水彩絵の具で綺麗で本物みたいな風景や人を描きたいのにぐちゃぐちゃになってとてもストレスで、先生はぐちゃぐちゃを褒めるので得体がしれず、それを機に絵から距離をとります。子供たちは全員絵が嫌いです。子供達には授業だからと言って描くことを強制することなく本音を聴くようにしてもらいたい。そうすれば全員が「上手に描けないから描きたくない。」というはずです。無理やり自由にのびのびぐちゃぐちゃ描かせるのはストレスにストレスを擦り付けるだけなのでもう辞めた方がいい。それによって心が病みます。それによって先生の大好きな協調性や大人らしい振る舞いは身につきますが、誰も気づいていないようですが「心に闇を作る問題」の方が大きいです。期待通りにならない絵を描いて歓喜をあげる人がどこにいるでしょうか?絵の世界には子供を見ていればよくわかるのですが嘲笑はあります。この嘲笑や冷やかしは絶対にやってはなりません。必ず絵が嫌いになります。「喜び」とは忖度で起きる感情ではありません。忖度で起きている喜びは褒賞はあっても絵を描くことそのものにはありません。日本の絵画の世界では「ご活躍」という忖度の言葉があります。「ご活躍」を連呼する姿は野にいる私から見ると本当に醜くおぞましい。いっている人は全員言わされており誰一人として目が喜んでいません。「ご活躍」というワードを使うのは公募団体ですが芸大美大でも、美術館でも、画廊でも目から喜ぶことは絵を見る時にはありません。目から喜ぶ時は褒賞を得た時です。それは絵を見ることによって喜んでいることとは全く別です。「褒賞で喜ぶ」ということは大人の作り上げたシステムに乗った時に大人に褒められるということです。それは同時に絵を前にして歓喜することから完全に乖離することを意味します。忖度で情動を押し殺したままでは歓喜の声をあげることはできません。もしできるならやってみてください、できませんよね?今のやり方では絵を前にして歓喜の声をあげることは絶対にできない。絵画の世界で歓喜をあげるには「強情」にならなければならない。これが唯一の方法です。
強情に美術館やアトリエではみんなで集まって歓喜の声をあげることはあるでしょうか?それもないと思います。スポーツの観戦だとありますね。楽しいです。そして何より価値があります。スポーツも工業化の影響は受けているのですが絵画のように大事なものを削いで消していくように消極的ではありませんね?これには美術館ができたことと美術評論家によって絵画が考える側面に大きく舵を切ったことが大きく影響していると思います。スポーツと同じような歓喜は音楽や文学でもあがります。アートや絵画には鑑賞者が歓喜の声をあげることはありません。あるとすれば自分や家族が賞をとったりオークションで高額で落札されるようなことがあればあるでしょう。それ以外であるとしたら心の問題か、脳の問題か、演技と考えて間違いありません。偽の歓喜は間違いなく作品の内容についての歓喜ではなく、完全に出世や金銭を得た幸運に対して歓喜しているのです。あるとしたら幼稚園で絵を描いたり、お子さんがお家で絵を描く時くらいです?美術館では絵は絵の鑑賞はありがたいものということにされています。お陰でかしこまって見なければなりません。かしこまるのはいいのですが、そのせいで白けてしまい感動はどこへやらです。絵は学校の朝礼のように軍隊のように整列して校長先生を大上段に掲げて平伏するように見なければならないとされているように思います。だからすごく権威的です。実際に美術館は殆どの画家を屠殺する生殺与奪の権利を持っています。学校では校長を崇めると学校を崇めることに繋がり、先生を崇めることに繋がります。そうすれば学校は生徒を管理しやすいのです。美術館も絵を崇めるようにさせれば鑑賞者を簡単に管理できます。そのおかげで絵は校長先生の朝礼の話のようにつまらないものになり下がりました。私は大人が絵を前にして歓喜をあげる様子は世界中のどこを探してもないと思います。また、今回の章でお話ししたいのはそこが今のアートと絵画の最大の懸念だということです。絵には歴史的にも世界的にも大問題です。アートから「喜び」を奪ったのは誰でしょう・・?それはそれで利益を得ている人です。
何万年も前の人たちが狩をして絵を残したように、今の時代に生きる私も釣りをして絵に残しています。きっと今に生きる人も太古の人も本質は変わりません。本当の「絵を描く喜び」を知る機会があれば今の時代に生きる人も太古の人と同じように楽しく絵を描けます。そしてそこには明らかな「絵を描く価値」があり、価値への揺るぎない理解が生まれるはずです。その価値はアートの世界を作る美術館や美術評論家や大学教授がなんと言おうとあなたの中にある価値観に完全にフィックスした揺るぎない価値です。本当は今のアートの世界で聞こえてくるモードとかコードなど気にせず絵を描いて評価したい人がいたとすれば勝手に評価させて勝手に有名になったりお金になればお金にすればいい話です。そのような自然な成り行きではなく自分から評価されるように売れるように向けていくことによって大事なものは簡単に失うものです。「絵を描く喜び」とは本当に壊れやすいもので、大半の人が失ってしまっていると思います。偉い人でもよく絵がわからないと言っていることがありますがおそらくはどこかに大事なものを置いてきてしまったのだと考えます。
今の人たちは従順な人ばかり、従順を強いる場所ばかりです。従順の反対は強情ですが、絵を描くには強情でなければ心は死にます。理性で従順を徹して出世したり、評価されたりすることはできても、それは絵を描くことそのものの楽しみを感じていません。楽しみを封印し、結果を得ることに徹しています。アートの世界は今、コードとモードを理解しそれに即して制作しなければならないとされています。それはコードとモード、つまりわかりやすく言えば美術館という箱を使う時のルールと美術評論家が作り上げたジャンル分けと評価の仕方に従順に従わなければならないことを意味します。このモードとコードの働きは絵を「考える」本質を追求させてくれるものの、絵を「描く」ことの本質とは明らかに異なり、筆を止めさせてしまうものです。さらに「考える世界」はジャンル分けをし尽くして、もうほとんど残っていない概念の隙間をほじくり返そうと躍起になっています。そこで働いても十分な禄を与えられず、誰も潤わず、飢えてどうにもならないところまで堕ちています。
これまでは美術館と美術評論家の権力は絶対でした。彼らに受け入れられなければ作品を外に出して評価されることはできませんでした。でもこの構図は近い将来必ず変わります。彼らに従順でなくても、素直で、強情でいても、作品を発表したり、この文章のように書くことができます。私の書いていることは今までであれば彼らにメディアから滅却される内容です。今の時代は彼らに従順になることなんてなく、強情でいられるのです。是非みなさんもご自身の思うがままに作品を作り、書いてください。きっと太古の人たちと同じように楽しいはずです。
私の理想ですがキャンバスは家で何をどんな風に描いても怒られない自由に表現できる場になるといいと考えています。それが私が思っている新しい絵画です。一家に一台車があったり、一人一つ携帯を持っているように一人一枚キャンバスが家にある。美術館がことごとく作品の発表の機会を奪っているうちは表現する気も失せますが今はネットがあるのでいつでも簡単に描いたり書いたものが出せるのであれば描くことと書くことは楽しいはずです。みなさんの強い情を引き出す。もっとわかりやすく言えば「嫌いなこと」「嫌なこと」をキャンバスは遠慮なく吐き出せる「場」になって欲しいと思います。
自分の体を使って絵を描くことには意味があります。細かいことはここでは描きませんが街中にはどこでも自由に絵を描いていい所はありません。パソコンや携帯の中に絵を描いてもそれは太古の人たちのように体を使って描いていることとは身体感覚的に違います。身体を使って描くことを、取り外し可能な壁であるキャンバスは可能にしてくれるのです。
残念ながら今の時代に生きる人の多くが絵を描くことを好みません。好まないのは苦手意識や天才でしか描けない誤解、難解なイメージや劣等感などのヴァイアスがかかるからです。みんなが会話をするように、カメラで写真を撮るように実は絵は手軽に描けるものです。これをガチガチにしてしまって、ガチガチのイメージを作り上げているアートの世界は実は「絵を描く」というこれほど面白い人類の貴重な財産をダメにしてしまっています。私は「釣り」を描いています。よく絵のことを考えながら釣りの絵を描きますが、釣りという狩を絵にすると太古の人と気持ちで繋がれるのです。これが私の知る密かな絵のダイナミズムです。評論家や美術館との繋がりは私はどうでもいいです。小さい。しょぼい。汚い。何より無駄。評論家と美術館に従順になる気は毛頭ありません。それよりも強情さを前面に出して攻撃した方がこれからのアートのために建設的です。評論家と美術館が築いた誤った構造は根底から駆逐するべきだと思います。太古の昔は今のアートのように誰が最初だなんてどうでも良かったとよく思って見たりします。この世界を思うなら絵の起源から絵を描くことが人類に広まっていく様を妄想することが大事だと思います。その状況を再び作り出すために、今の現状でボトルネックに引っかかって絵が広がっていかない状況を悩み、これから首をどのように広げていけばいいか創造してみたりします。
定説ではもう長い間「絵は終わった」といわれています。評論家の書く活字の上ではなるほどそのように解釈できる絵もあります。でも太古の人に「鼻で笑われるな〜」と思います。絵が終わったなんてカッコいいですが、それはあくまで机上の中の絵の話です。空論とまでは言いませんが、机の上でなく画家が、画家というか人が画用紙やキャンバスに絵を描くことからは目を背けた上で書かれた理屈です。絵の世界は終わっているかのように語られますが、そんなことはないと思います。変わったのは絵が向かう課題です。懸念は無限にあります。
評論家が絵が終わったと称するのは評論家の見る絵の形を定義し、定義の仕事を探し尽くし掘り起こし、探り倒したからです。なるほど終わったと言えるほど隙間もないような状態であることは間違いありません。しかしそれはあくまで評論家から見ることができる絵のカテゴライズの限界なり飽和であり、絵描きが描くことに目を向け見続けている絵ではありません。評論家が扱うのは絵のアウトラインというかジャンルの輪郭というか境界の問題。それと絵画の外の科学や工業や精神分析学や哲学、教養、教育などとの繋がりの問題。絵がどのようなスタイルに定義されるのか?新しいジャンルなのか?新しい概念なのか?新しい技法か?云々。これらは、ご丁寧にアウトラインを作ってくださった中で淡々と営む我々には何の関係もないことです。評論家の話の中には絵を描く最中の絵が出てくることはありません。絵の中の話は彼らにとって全く興味のないもの。絵を描いている最中の筋肉の動き、神経の反射、見方や気分の移り変わり、イメージやモチベーションの変化、体調など絵を描いている時は実に様々なことを問題にして取り組んでいます。つまり美術評論家とは絵の中身には全く興味がないのです。評論家が話題にするのはオークションの値段それを肯定するための歴史的な背景、画家の日常、人間関係、学歴、受賞歴、絵のスタイル、画材、題材、題材の人物の人間関係の話です。これらは全て評論家が活字にできる物事。その中に絵を描く時の話は出てきません。例えば野球とサッカーの違いを語られても正直困ります。野球をしてればいいし、サッカーをしていればいい。相手にする必要はない。無視して野球をやったりすればいいのです。無視して絵を描けばいい。私は絵のはじまりを想像しうらやましく思います。その頃は評論家がいなかったのでみんなが楽しんで絵を描いていたはずです。今はそこに戻る時です。
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絵の課題の前に〜6「世渡りしたい下の従順とそれを守りたい上の愛」
絵の世界は世渡りが大切です。残念ながらこう言うしかありません。絵の世界は一部の人が言うように「自由」などと無責任なことを声高に叫べる状況では絶対にありません。
私のこれまで見てきた画家の全てが先生のいうことをよく聞いて。美術館のルールに忠実に従い。美術館を神と崇め奉り。画廊を崇め。コレクターの前でへこへこし。公募団体を崇め。公募団体の会員に上納金を払い、媚びへつらい。芸大美大の先生に従い守ってもらう。というのが画家の姿です。奴隷のように疲れ果てた顔つきの彼らが外では「自由」と称される。美術館や画廊や大学に従順に従うことは利益ですから良いと思います。しかしそれをどこにも自由などないにも関わらず、この世界の外にのうのうと自由と偽るのだけは許せません。私の見る限りどこからどう見ても自由に描いたり、行動してきた人間など一人もいない。自由という集団幻想は1日も早く無くさなければならない。この世界の悪癖は「自由でないことを恥じる」ことにあります。皆さんはどうか「自由」でないことを恥じないようにしてください。そうすれば絵画の世界は次第に自由でないことを少しずつ打ち明けられるはずです。自由ではないのに「自由」と言っている人を私は詐欺師だと思います。それをよく考えてください。
絵を描く時実際に自由にのびのび描いてしまったら内的必然性によってバランスを取ろうとしてしまい無意識の内につまらない形を描いたり、つまらない色をのっけてしまうものです。絵画ではこれが御法度になることが多い。「上手いのに評価されない」という恵まれない画家を生んでしまいます。無意識の働きのそれを個性と称するのはいいでしょう。その通り反射的に体質や感性が出てくるのは個性の賜物です。でもその個性の賜物を絵画の世界はつまらないと称して全て否定します。見たことのないような面白いものでなければ評価しない。そこに予め約束された万民に対して公平に与えられたフラットな自由はないのです。画家はつまらない絵にならないように逐一「面白いかどうか?」というフィルターにかけるのであってその瞬間瞬間に自由も個性のへったくれもありません。生徒がつまらない絵を描かないようにクマビでは日々指導していることです。
個性と言えば障害がある人のことが頭をよぎる方もおられると思いますが彼らも暗黙知に法則に沿って形を描いて色を塗っています。歩くことや咀嚼と同じように脳は普段の連動で、zoonに入り集中する神経と筋肉を動かすシステムを持っていますから、持っていなければ死んでいます。筆を同じように脊髄反射的に使ってしまいます。その人が普段行なっている脊髄反射の動作を絵筆や鉛筆やペンに応用して描いています。健常者とされている人と同じ動きが困難である場合に特殊なストロークが確認できることはありますがこれは間違っても視覚的な感性が絵に現れているのではありません。障害のある方が絵を描く所を見ることがあります。冷静にいつもですが私の見る限りどこからどう見ても手前にあるペンを手に取ったり、手前にある楽な絵の具を次の絵の具に選んで筆に付けて塗っています。これを個性やら感性と賞賛し褒め称え商売に利用している輩がいますがバケの皮が剥がれるのは時間の問題です。客の哀れみを誘い口八丁手八丁でたぶらかして絵を買わせていますがこれがバレた時に惨めな思いをするのは描いた本人たちです。彼らの中に気づいてやめた人も大勢います。気づくのは大抵奴隷のような劣悪な労働条件(最低賃金以下)に置かれ何年も経ってからです。輩は普通に儲けて人並みかそれ以上の生活(障害者が低賃金で作品を上げてくれる分で利益が出ます)を送っていることに疑問を感じた時(大抵何年も経って、障害のある方は意外に辛抱強い面があり、長年耐え凌いだ後にやっとストレス耐性の限界に達し、怒りが頂点に達して・・おそいです)。何だかんだありますが、気づいてやめた彼らがこの問題を根本から解決するトリガーになるべきです。
この世界の中を見てきて、美術館や画廊や芸大美大のやっていることを見てきて、一体この世界のどこに「自由」があるのか?と疑問に思います。つまり「自由」など見たこと、触れたことは一度もありません。自由という言葉から連想されるユートピアのようなイメージは美術館の来場者と出品者、貸画廊を借りる画家と作品を買うコレクター、芸大美大の受験生を勧誘するために作られた偽りの妄想です。裏腹を証明しているのは、この世界の人間の誰一人として目が笑っていない、本当に自由であればみんなが幸せで嬉しそうに満たされた顔をしているはずです。でもそのような顔をしている人は誰ひとりいない。この世界に幸せがないとは言いませんが言い切れることは自由奔放とは全く無縁の世界が絵の世界だということです。これは絵の世界という狭い括りではなくアートという広い括りとなってもアートの方が多少ましにはなりますが、でも大差ないかな・・。
絵の世界、私の関わっている絵の世界なのでつまり「絵画の世界」はうまく世渡りできる感覚が必要です。特に日本は敗戦国であり、世界から見れば圧倒的な弱者である日本では圧倒的な弱者である立場を十二分にわきまえて渡れないものを無理矢理に渡れるように工夫をし尽くさなければ絶対にアートの世界で世界的な活躍をするのは無理です。当然食べていくことも無理です。
皆さんが想像している以上にあらゆる表現をやり尽くされた泡の世界です、言うなれば権力闘争の果てに波の慣性の働いた惰性でかすかに動く泥沼の上の泡のような泡沫(うたかた)の世界です。中の誰が何をやってもダメな状況に陥っている世界です。下は惨憺たる状況です。下にも中にもどちらにも進まなくて済むように生徒に指導しなければならないのはこの世界があまりにひどい有様だからです。私が指を指しているのは泥から抜け出た泡か泡の弾けた空気です。私はみんながやっているような泥の中に「自由」と称してユートピアがあるかのような勘違いをして泥沼に指を指すことは到底できません。また、この世界に全く可能性がないようなことも言いたくないのです。正解はやはりある。上に行くかそうでなければ上にも中にも下にも行かずに別の空間に絵の世界を作ることが正解です。例えば美術の外の空間で漫画やアニメは大きな世界を作り上げることに成功しています。未来の新しい絵画の世界も漫画とアニメを見習うべきです。漫画とアニメの成功の後、絵画とアートは「漫画とアニメに敗北」していることを認めるべきです。後はそのタイミングを待つばかりです。又は泡がもうじき跡形もなく消えるのでそれを待ってもいいと思います。絵画の、アートの美術評論家が残している歴史の多くは残らない歴史となるはずです。作品のくだらない時代背景など後々の絵を正しく書かれるようになった未来からすれば失笑されるようなお粗末なものばかりです。作品の内容についてはほとんど触れられず、書くことができず、時代背景やエピソードなどの作品の周りの話をただただだらだら書き連ねるだけの無駄な話。
絵の世界は基本的に強気では戦えず戦々恐々としながら周りの出方をよく見て上の顔色を伺いながら、最初から最後までずっと注意深くよく見て世渡りをしていく世界です。自由とは無縁の世界。上は「モードとコード」とよく言いますが下々は上のやり方を十分に理解し即して行動しなければなりません。そして上は自由と称してモードもコードも詳細に教えません。戦略などもってのほか・・。というより戦略が立てられるほどの力はありません。とにかく「モードとコード」という表現は「自由」とは無縁なことをよく表しています。
よくこの世界に入ってきたばかりの人で意気込んで強気の発言する人がいますが、何をしても必ず秒殺されます。秒殺してあげないと危険です。見過ごせば必ず事故ります。これまでに賞をとったり、才能があると思っていたり、知識があると思っていたりしている人は間違いなく最初に事故ります。このような事故を起こして自尊心を傷つけてしまうのはこの世界やメディアや学校が誤解をして、誤解させるような誤った情報を流し、誤った教育を続けているからです。世渡りをせずに強気に押し切れる人が稀にいます。でも私の知っているアーティストの中でも本当に一人ふたりです。知り合いではないですが私の中では川俣正、でも彼がモードやコードを無視していたかと言えば全く違います。完全に即している。
日本のアートの世界は欧米の新しい作風が日本に輸入、つまりわかりやすくストレートに言えば誰かがパクったら、それまでの日本の絵画の作風の全てが古いものと一掃されてきました。それが日本の絵画の歴史の正体です。その歴史の変遷というかパクリの変遷を冷静に紐解いてください。見えてくるのに時間はかからないはずです。そして完全に欧米に媚びています。ちなみにこれは東京芸大の受験でも言えます。欧米の流行に合わせて日本の絵画は変わってきた。その逆は歴史上で浮世絵の起こしたセンセーショナルただ一つです。つまり近代以降の日本の画家で自由にのびのび描いて評価された人は誰一人としていない。世渡りのために欧米の真似をしてきた画家しかいません。そうでない者が残念ながら一人もいない。その事実が一般の人には見えないだけです。そしてそのパクリをさも自分で創造し作り上げたかのように錯覚し、どこで目にしたのかの出所は都合よく忘れ、ごく自然に頭に表出したかのように思えてしまう。この人間最大の学習能力である模倣性をフルに発揮させたパクリの通過儀礼は暗黙の了解で行われ、誰でも完全な形で無意識のうちに無自覚にしてしまった後にそれを個性と称して出所は毎回誤魔化せてしまうほどよく仕上がっている。平気でパクパク肉を食いながらさも自分は動物を殺せないからといって動物の命を奪うことに全く関わっていないかのような「都合の良い錯覚」を平然と抱いていることと同じように日本の画家の全てが欧米をパクパクパクッているのです。
日本の絵画は欧米に対して脆弱です。欧米の正しい技法が輸入、つまり導入されたのはほんの少し前の話です。昭和の終わり。正しい技法が入った時点でそれまであった日本の絵画(洋画)は全て否定されました。それから日本の油絵は病んだ。その状況を知る絵画に精通し、つまり歴史を正しく学び、正しく翻訳された文献に触れ、世界の最先端の絵画の動向を理解している学生は全員油絵を描けなくなりました。正しいと称する技法を用いなければおかしなものとされる概念に完全に汚染されてしまった。状況がわかる学生は戦略的に油絵の具から離れるしかない。技法の話を持ち出すことが全ての作品を否定するための論法になりました。そして一部の人間を出世させた。馬鹿な話だと思います。これは東京藝術大学の油画専攻で実際に起きた話です。私の認識している限り50年病み続けた。そろそろなかったことのようにパタリと音を立てて証拠隠滅される話です。このような話はどさくさに紛れて亡きものにされた無数の話のほんの一部です。とにもかくにも日本の絵画の脆弱さは本物です。こんな脆弱な組織の中にとてもではないが入る気にはならない、自殺行為です。大々的に歌う公募団体も中身は空っぽです。公募団体の出品者の誰一人としてここに書いていることは知らないと思います。それだけ独りよがりで真実を学んでいない。美術館が巨額のお金を出して催す美術展もろくなものがありません。何にもない中でなんかやらなきゃ指を咥えて赤字が続くだけで何も始まらないので無理やり展示している。そうすれば給料はもらい続けられる。これで個性だの才能だのほざいているのだから始末におえない。全て作り変えるべきです。
とまあ・・絵画の世界はいうなれば世渡りだけで成り立っているともいえるような状況です。どのように生き抜けばいいか考え抜ける人だけが生き残っているのは間違いありません。内部ではこのあたりの状況を見越して生きることが賢いとされていますが本当は馬鹿そのものです。生き残っているとは言え実際に誰も目が笑っていない。聞こえてくるのは全て敗者の論理です。気持ち悪い。私はそれを賢いとは全く感じないし見えないし思えません。
クマビの生徒にはそれを踏まえて上手く行動して欲しい。絵の世界には何も考えずにただ作品を作るだけで生きていけるような音楽やスポーツの世界に構築されているシステムは何も存在しないのです。あなた方が健全なシステムを作り上げるべきです。そのために真実を書かなければならないし、絵画の世界を作り上げる創造力を指導しなければならないと思います。
絵の世界では組織自体も大きな社会に対峙する様々な手を尽くしながら世渡りで生き残っています。そしてそこに社会に絵画の必要性を十分に訴えられるだけの力や頭脳や活動の内容は一つもなく、ただただ自分たちが存続するだけ綱渡りのために、口八丁手八丁で世渡りすることによってのみ生き残り、バレている社会からはジワジワ格下げされ続けています。格下げされ続けているのは芸大美大、美術館、画廊、市場です。大学の権力にはなかなかメスが入らなかったのが最近では後で少し触れますが日大を例に見るようにメスが入るようになりました。残念ながらこの世界は絵画で実力を上げることや評価をされることを第一に考えて行動すると生き残ることは無理と言える状況です。絵画の世界も社会も絵画を見る眼は壊れています。そのため絵画の中はやりたい放題。日大の理事会を想像するとわかりやすいと思いますが同じでやりたい放題です。「自由」と称して、既成概念や組織を解体していったおかげで、社会が絵画をどう受け止めればいいのか理解しようがない状態に陥りました。なので世の中での絵画の社会的な地位は根底から崩れていく一方です。現存する絵画の組織は形骸化し、絵画の価値を支える構造が完全に崩壊しているので今の絵画は実力社会ではありません。それでも芸大美大、美術館、画廊、美術評論家、マーケットという組織が存在し「上」という概念が存続してしまっています。それは最悪の事態でありそれ自体が今の状況が確実に崩壊する原因となるはずです。今の組織は元はと言えば革命を起こして作られたものです。つまり画壇を打ち崩しアカデミズムや公募団体をねじ伏せ「自由」を標榜しながらそのように活動してきた集まりです。その人間が結局「上」になってしまっています。本当は上も下もないのです。組織の上を一度壊して根本から見直せば正しい絵画の世界は構築されます。それにはこれから新しく生み出す組織は今のようなブラックボックスには絶対にしてはなりません。脆弱な絵画の世界の中に新しく生まれた組織は必ず日大の理事会のようになります。今は社会からすれば開かれていることが最もいいと思います。それが理想ですが「上」がそれを許しません。
現場にいる人間のほとんどが「自由」を実現するために切磋琢磨していても状況が一向に改善されないのは組織を立ち上げる時に文教族が利益を得るために作られた美術館であり、大学であり、大学の校舎であったり、団体であるからです。結局は何をしても文教族が約束した会社が利益を得るようになっている。美術館が赤字になろうが大学が赤字になろうがその間に組織の中の人間が利益を獲られていればそれで目的は果たされているのです。文教族とそれを取り巻く会社は組織なり建物といった箱が作れた時点で利益を得ている。絵画の世界やアートが自由と歌いながら自由でないのはそのような「上」が君臨するからです。そういったことを全て計算に入れながら自分がどうのように行動するか?何が「正義」か?を考えていかなければこの世界で生き残ることはできません。絵画の集まりはこのような偽りの自由という土台の上に城を構えている組織なので組織の上の誰にも今の絵画で世界的に歴史的に評価するべき作品がわからないのです。とにかく日本は欧米をパクるしかない。欧米をパクっている様子は芸大美大の卒業制作を見るとすぐにわかります。敗戦国として欧米に従い続けるしかない。そういった構図を知った彼らの大事にしているのは自分たちの「既得権益」本当にそれだけです。この構図を壊すのは若い作家たちが利益を得る構図(システム)を変えることです。画廊や美術館を通さず独自に利益を得られる形を作り上げれば今ある無数の魔の手を消し去ることができます。
絵画において問題を解決して絵画が復興するための答えは誰もが自由に絵が描けるようにすればいいだけの話です。簡単なこと。それには自由に絵を描ける課題を出せばいいのです。課題では個性で絵を描くことを許します。つまり脊髄反射的にタッチを入れていって構いません。その中にスポーツや音楽と同じくスピードや音色(形と色のバランス)等の差異の全てを項目としてあげ尽くし評価の基準を作り上げてしまえば実は個性によって自由に、そしてのびのび伸びやかに絵を描いて評価され生活していける形を作ることが可能なのです。その時は勿論障害者の作品も正当に評価することが可能です。パラリンピックと同じように平等に正当に評価することができます。そこに輩が入る余地はない。
課題はまず手始めに「花」の絵を描くことから始めるといいでしょう。障害者も我々も「花」を描けばいいと思います。
今の絵画の組織の多くは「花」を手始めに「よく描かれる題材」を一つずつ否定しながら「社会」と乖離する論理を構築して実践してきました。その逆を行けばいいのです。
絵画は改めて自由を受け入れることから始める必要があります。そこには文教族を絶対に立ち入らせてはなりません。絵画の世界に描いてはいけないモチーフや絵はあってはなりません。絵を販売する場所は画廊ではダメです。輩というか反社会勢力が近く遠くから関わっている画廊があります。絵画は野菜の即売所のようにガレージで売ればいいのです。売るというよりも配るといいでしょう。私は自分の絵を売らずに自宅のガレージで配ろうと思います。配る相手は近所の子が理想です。近所の子に何百枚も配ろうと考えています。それが正しい絵画のあり方だと思います。
政治の世界には保守と革新があります。与党と野党です。私の生徒には実際の所文教族の存在を知りつつその傘下の組織に、みんな与党に行って欲しいと考えています。でも野党に進みたいのであればそれもいいと思います。野に下り世渡りをしないのであれば私のように事業を起こして経済的な体力を身につけたりしなければなりません。その覚悟があればそれもいいでしょう。絵画の世界は単純な努力や評価では、つまり実力行使だけで生きていける世界ではありません。このようなことであることに気づかず戦いに敗れていった人は大勢います。彼らの敗因の多くはこの世界が平らかだと誤解したり、自分には特別な才能があると誤解したり、諸々騙されてこの世界に入ったからです。そして彼らの多くは実は私の知る限り残っている人よりもはるかに優秀です。彼らは小細工を一切しなかった。真っ向勝負したので残れなかったのです。真っ向勝負している人材を拾う気がないのに運営している組織を許すことはできない。こういったことをよく踏まえて絵画の世界に足を踏み入れなければ上手くいきません。今の絵画の世界で生き抜くには絵画の世界で生き残ることに特別に固執すればいいだけのことです。ちなみにこの世界を与党でも野党でもいいのでどのように作るべきかを考え抜くのであれば、そのように絵画に人生を捧げる人は少ないのでこの世界は逆に生きやすい世界だと思います。
既得権益を持っている人に付いていこうとすると従順でなければなりません。その代わり色んな理不尽にも耐えなければなりません。何か書こうものなら「そんなこと書かれると困るんだよ」(そんなこと書かれると困るんだよハザード)と言われます。身内が犯罪を犯す訳です。社会の眼から逃れられている今は既得権益を握る権力者の天下です。つまり「上」。でもそれが今変わろうとしています。今標的にされたのは日大です。日大であるような理不尽は他でもあります。彼らが共通するのは「可愛がり」をやることです。それは「愛」と言われることもあります。いずれも自分を絶対的強者と思い込み惨めな下々に手を差し伸べてしんぜようと誤解した時に起こる感情です。これは残念ながら東京芸術大学にもある。これから変わっていくのだと思います。
本来は上も下もなく、区別をする、人間の選別をする以上は「愛」ではなく、正しく厳正な評価の基準が必要なのです。媚びる奴を選ぶような、弱いものに強者が愛の手を差し伸べるかのような考えや感覚は一切持ち合わせてはならない。「愛」という言葉はいらないのです。
人の幸せとは単純ではありません。仮に理不尽が社会から標的にされるようであれば愛で守られた従順の努力は水の泡と消えると思います。上は絶対的強者のそぶりで「愛」を口にしますが、それに心から従っては絶対になりません。上があなたを確実に選ぶならいいでしょう。その愛の代償として身も体も捧げてください。それであなたがいいのであればそれでいいでしょう。でもその愛はあなた以外には注がれないはずです。「愛」とは特定の人を選別する言葉です。誰にも平等に与えられるものではありません。
不幸は自分の中にある全てを否定するものではありません。つまり全てにおいて不幸とは言えません。努力が水の泡になった時、泡になった代わりにとても晴れやかな清々しさを感じるかもしれません。それであればそれは幸せなことでもあり、本当は出せなかった本音がやっと出ているのだと思います。表現者としては大事にしたいところです。
あなたがもし「自由」を大事にしたいなら、既得権益を持っている人の言うことを全く気にしない生き方をすることが最も自由な姿だと思います。いわゆる天才とはこのような生き方を貫き既得権益を生み出す構造を根こそぎ破壊して、根底から物事を覆す結果を出せる人のことです。天才の姿勢は従順ではなく強情です。
私は正直昔から日大は馬鹿だな〜と思っています。少し前のアメフトの監督が学生に他校の学生にタックルして怪我を負わせるように命令したようなことをしていることは昔からわかっていたことです。そして最近日大理事長(原稿を修正している今は元理事長)が馬鹿なことをしています。これは従順が生んでいることです。この従順は絵画やアートの中にもある、というかそれしかないようなとても悪い状況です。これを根底から覆すには権力者に従わない勇気を持たなければならないのです。でも残念ながら絵画の世界は従順な人しか生き残れないし、その結果従順な人しかいません。「自由」はそこにはなくあるのは「上」です。とても長い間権力者の既得権益は細々と守られています。
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絵の課題の前に〜7「絵画はやり尽くされていない、描いている時のことは全く書いていないのだから」
アートの世界では「絵画はやり尽くされた」と言われていますがそれは全くの間違いです。正しくは「絵画のジャンル分けの作業が完成した」、又は「絵画のカテゴライズの作業が一通り終わった」です。絵画がやり尽くされたのではなく分類の作業が終わったにすぎません。それがわかっていても先人達は、特に日本の先人達は全く声を上げることなく従い続けてきた。「東京芸術大学など外から見れば雲の上の存在のどれも誰も何一つできずにただただ大人しく従うしかなかった。」というのは雲の上を見てきた私のいる雲の下への報告です。このことがアートや絵画の世界が外や内側から見て外の人も内側の人も意味がわからなくなってしまっている大きな原因だと思います。外にいてずっと疑問に思っていたことも内側にいて誰も、東京芸大の教授ですら腑に落ちていない状態であることも最近になってやっと理解できた。結論は「大昔から、おそらく何千年も前から何も変わっていない」です。
かつてエジプト文明では絵画の様式は3000年変わらなかったと言います。今の状況はそれとさして変わりません。最近まで漫画やイラストはアートの世界では認められていなかった。今でも芸大美大受験ではイラストを描くのは御法度です。どんなにいいイラストでも受かりません。それは分類しているからです。これは絵画であればいいというものではありません。
公平公正と表向きは歌っても全く公平ではなく、公平公正であるべき入試を例にあげてみますが東京芸大の根本的な問題は入試の出題をリークする教官がいることです。私自身入試前に出題を知っていることは多いです。もちろん東京芸大の内部の人間もリークしていたりかつてリークを受けてきたのですからリークの事実は承知しています。入試に関して予備校と芸大との水掛け論に折り合いがつかないのはこの事実があるから。この事実を伏して解決しようのない不毛な遠吠えを続けています。都合が悪いので両者ともにここから始まる問題に手が出せないのです。これによって被害を受けているのは東京芸大とリークされている予備校ではありません。情報の入らない予備校と受験生を抱える高校です。私の高校生の時からの悲願は全国のどこからでも東京芸大を目指せることです。
入試を公平公正にするのは簡単です。リークを完全に無くすことです。東京芸大の内部の人間は誰がリークしているかは知っています。でもそれを改善するでもなく隠蔽するしかない。東京芸大は合格者がひとつの予備校に偏る状況を予備校のせいにします。でもこのことはリークから始まっていることなのです。東京芸大が本気になればいつでもなくせること。ここに東京芸大の心が現れています。リークが無くなればひとつの予備校に合格者が偏ることはなくなります。でも東京芸大は善意として個人的な「愛」であるリークをするのです。一時期は毎年試験問題がわかりました。その時に担当している生徒のことを思えば試験問題がわかっていることは助かる。でも頭の隅に九州の高校で芸大一本で何もできなかった自分の苦しみの部分が当時のままの悲鳴を挙げます。リークされた情報を知らない大多数のことを考えてください。東京芸大にとって何が一番大切なのか?それは知り合いと自分に利益をもたらすことではなく入試に関わる全ての人に公平であることです。
東京芸大の公平でなくても構わないという横暴な体質を生む緩みは入試の評価を都合よく適当に決めて良い所から生まれています。評価の仕方をしっかり公開するか固めることができれば横暴を許す隙間は限りなく狭まります。油画専攻では合格させる作品はその時の都合で決まっており一貫性は全くありません。都合の悪いことの全てを隠蔽していることも緩みを生んでいます。大学院の入試ではイラストでも教官の都合が良ければ合格します。よくある例では他に受験者がいなければ合格です。この都合は東京芸大の教官や他大学の教官を決めるまでに至ります。全ては教官の都合で決まっていることなのです。教官がどう動くか?それを踏まえて動かなければ物事が上手く運ばないことを知っていてください。
入試でなくとも、これまで絵画の中では一部の画風やスタイルしか認められていませんでした。あらゆる絵の中でこれは認めるがこれは認めないと言う選択をすることで選民思想的な上流感覚に興じ、自分たちのみが正しいや価値があると悦に浸り、自分たちだけの利益になるように自分以外の組織を否定しながら儲かる方程式を作り上げ、根底にある自分たちさえ得すればいいと言うエゴを満たしてきた。このような偏執的な状況は考えられるだけのスタイルを創造し尽くした今はなんとか少しずつ変わるようになってきた。近年では絵画らしい絵画こそ全く日の目を見ることはないにしても、これまで絵画の世界では全く認められていなかったイラストチックな絵は受け入れられるようになってきている。
これまで絵画の中では絵を描くと言う仕事は新しいスタイルの確立に完全に偏ってきた。「ただ描くこと」を一切認めなかったと言っていい。私なんかは本当はただひたすら描きたかった。でもそれを認めてはもらえなかった。私以外にも公募団体などで描くことを主体としている画家は全く認められてこなかった。でも不思議なのはなぜか東京芸大が団体を否定せず守っている場面もある。美術評論家からしてみれば描くことを認めれば評論家の立ち入ることができない狭い範疇の中の出来事を肯定することに繋がる。つまり「描く」ことを肯定することになる。狭い絵画の世界をなんとか広げさせようとする懸念を解決し広げることに際して湧き上がる心配の種を潰すこと以外の話は一切タブーとなった。やがて画家の仕事として推奨されるのは「絵を描くこと」ではなく、絵画の外の「現代美術」の世界の仕事になりました。学校で絵に触れ、賞をとったり良い成績をとって自信を持ち、絵に興味を持った学生の多くは絵を餌にこの世界に集められ、そして上手く集まった後は逆らえない状況に立たされ絵の外の現代美術の世界に進むように教育(洗脳)されてきました。タブーとされる中で絵を描く組織は形骸化し力を失いました。形骸化したお陰で硬かった絵の世界の壁は溶けていきました。そのお陰でもうじきイラストが絵画の世界に受け入れられそうな気配を感じます。
そんな仕事の中で生まれた論理が「絵画はやり尽くされた」です。その言葉は同時に「絵なんか描いてもしょうがない」と言う状況に陥ることを簡単に想像させました。なので東京芸大の教授の一部は「絵なんか描いてもしょうがない」と連呼した。当時の声は25年経った今でも私の頭の中で鳴り響いています。どいつもこいつも絵を描くことを否定することしか言わない。絵のジャンルを増やしていく、発想していく水平思考の脳はいとも簡単に画家の「絵」への執着心を消失させ「絵」から人を引き離しました。
我々は風潮に合わせて空気を読み無自覚に「絵」から離れた。そして難しいことはよくわからないが何となく「絵画はやり尽くされた」と思ってしまう。よく仕上がっていますが私はそんな気がする人は「上」に巧みに洗脳されていると思います。
新しいジャンルをカテゴライズしていくゲームとしての絵画は本来一部の人間がやればいいだけのことです。カテゴライズされた中で絵を描く人はそんなことを考える必要はありません。スポーツに例えるなら「野球」が生まれて西洋ではなくアメリカで流行らせると言うのは一部の人間が考えればいいこと。野球をする人たちはその辺りは考える必要はありません。しかしアートの世界、絵画の世界はその後すんなり絵を描かせなかった。絵を描かせなかった所に一部の人間の余計な都合があるのです。野球をさせたくない一部の人間によって行われたこれは「洗脳」です。
かなりよく仕上がった洗脳なので実感は全くないと思います。無自覚に、そして何となく。実際には「絵画はやり尽くされた」全くそんなことはありません。これは美術評論家の都合ではじき出される考えです。絵を描くこととは関係ありません。これをスポーツや音楽にあてはめて想像してみてください。「スポーツはやり尽くされた」「音楽はやり尽くされた」当てはまりませんよね?これはスポーツをやる側、音楽をやる側からすればスポーツすることに終わりがないこと、それは言うまでもないことですし、演奏することに終わりがないことも言うまでもありません。スポーツと音楽には「洗脳」がかかっていない。絵を描く側ではなく、スポーツをする側ではなく、音楽を演奏する側ではなく主催者が主導権を握りたい時に「やり尽くされた」と言う言葉がどうやら出てくるようです。事実絵画の世界で主導権を握ったのは美術評論家、キュレーター、美術館、画廊です。彼らにコントロールされている絵画の世界は「やり尽くされた」と言われるようになった後に絵を描くことが終わったかと思えるような空虚な時間が続いています。しかし描くことに終わりはありません。このおかしなことは権力闘争の中で迷走する内に混乱に乗じて誰もが気づかないうちに論理のすり替えが行われて起こってしまいました。この洗脳を受けた人は絵をやめた。今日は洗脳を解いて絵をやる話です。
「絵画はやり尽くされた」はほどなく「絵なんか描いていても仕方がない」という誤解と錯覚を生んでしまいます。事実世界中の画家が筆を置きました。そして本当に絵を描いても評価されない仕組みに変わった。私の通った東京芸術大学でも絵が描けない状況が続いた。絵画はやり尽くされたと言う言葉は絵画のやることがなくなり、描かなくてもよくなったと言っているように聞こえますが、実際には絵を描く画家の立場からすればまだ何にも始まってはいません。完璧とも言える強力な洗脳がかかっているため始めることがとてもひと苦労。相当豪腕で大きな鉈を振るわなければことが動き始めません。「絵を描いている時のことを書く」これは近年全くやってこられなかったことです。書かれなかったのは絵を描く論理は洗脳のために封じ込まれたパンドラの箱を開ける鍵となり、「上」をブスッと綺麗に綺麗に貫くロンギヌスの槍となるからです。
画家は自分の描いている絵を描き始めから描き終わりまでず〜と見続けています。この時間は美術評論家によって全く価値のないものとされています。描くことの意味を否定し描くことを無価値にして、「絵について考えること」を最も大事なことにしています。でも洗脳を解いて描くことを再認識しなければなりません。描き始めから終わりまで見続けることは大事なことです。誰がなんといおうとこの時間が大事。画家はこの時のことを「書く」べきです。これは美術評論家に書くことはできません。この期に及んで文章が苦手だからといって彼らに甘えても仕方ないでしょう。今の状況は半分書けなかった画家のせいです。何も書けない画家のために美術評論家が代筆した、そうなれば描いている時のことなど美術評論家にわかるわけはないので絵を描き終わって鑑賞する時の話や作品の時代背景などの話になるのは当然と言えば当然です。
絵を描いている時間は画家が作品に最も長く触れる時間です。画家でない方でも描いている時が最も長く触れる時間だと思います。描く時間に最も長く触れている人同士は同じ価値観を共有しています。そこで共有している価値観の体力は社会に対して非常に脆弱で社会で権力を振るう学校や美術館などに簡単に吹き消されてしまいます。でも本当はそこにある価値が最も大事なものなのです。絵画の世界が確立して来なかったのは描く時にある様々なことを言葉にし、その言葉を要素としてお互いが繋がっていくことです。共有することができれば絵画の価値として成立していきます。スポーツではほんのコンマ何秒の差のことを共有できます。その瞬間について世界中の人と繋がることができる。そしてその瞬間には無限の可能性がある。音楽も同じです。絵画や絵はその点全く手付かずで未熟な状態です。強いてアニメや漫画の世界は繋がろうとしていますがコンマ何秒で繋がれる術をあまり知りません。あるにはありますが例えば「バルス」です。絵で繋がる価値は未来で必ず確立される。確かに存在する大事な要素。要素について徹底的に書かなければならないでしょう。美術評論家と美術館の権力を簡単にねじ伏せられるように徹底的に書かなければなりません。絵について考えることの時間は絵を描くことに重点をおいている人たちの中では少ないはずです。一方でその人たちとは違う時間を過ごしている人たちがいます。それは美術評論家です。絵を描く時間よりも絵について考える時間の方が長い、ほとんどが考える時間です。今社会で確立されている絵の概念と価値観は美術評論家が作り上げた論理です。そこには描いている時の脆弱な描く感覚は一切含まれていません。
美術館と美術評論家は見る時間と考える時間は最大限に評価しても描く時間のことを全く評価しません。見向きもしない。見てもよくわからない。見てしまうと自分たちの都合よく作り上げた構造が根底から崩れるのが直感的にわかるから反射的に嫌厭する。そして学校の先生もこの絵を描いている時間のことを評価しません。彼らは真っ白で加筆する手の入らない絵に、又は真剣に消してしまった絵に、必死に描いて真っ黒に潰してしまった絵にどんな意味があり価値が見いだせるかわかりません。そこには絵画の無限の可能性があるのです。真っ白に消された絵の制作途中には意味があります。大事です。しかし美術館は意味があるという話になってしまっては困るのです。学校も困ります。権威が揺らぐ可能性があります。成績のつけ方と評価の仕方がわかりません。両方ともポンコツです。絵画は真剣に取り組むほど描けなくなることがある、そんなことも踏まえられないポンコツちゃんです。特にポンコツなのは美術館です。美術館は絵を展示させることで支配が完成します。だから描き途中の話は都合が悪い損するばかりの辟易する話です。描くことの話になってしまえば顔で笑っていても心が泣いています。美術館は画家が絵を展示することにどれだけ執着するかが大事です。展示が画家の餌ですから。画家が美術館にすがれば美術館はそれだけ権力を保てます。美術館の努力は権威を守ることです。美術館は画家と鑑賞者を徹底的に管理します。学校もしかりです。
完成された絵からは制作途中にある価値はほとんど見えてきません。途中の行程の詳細がどれだけ見てわかるのか?美術館と学校は手に取るようにわかるとほくそ笑みながら言うでしょう。でも実際にはさっぱりわかりません。そのため絵画を破壊する無謀な保存修復がなんのためらいもなく施されます。修復の終わった作品の全てが全くの別物です。それは描くということに対する興味が欠落しているために起きています。別物になっていることを見てみぬふりするのは見てしまっては描き途中のことが何一つわからない素人であることがバレてしまうからです。別物でも書類上は本物です。これが保存修復です。
絵の制作途中には価値があります。実際問題、完成された作品からは制作途中にある絵の価値のほとんどが見ることができません。でもこれは動画撮影が変えてくれるはずです。美術の、美術館の盛り上がる可能性は実はここにあります。動画撮影で記録をするべきです。現状で私は「絵を描かない画家」なので今現在絵を描いている画家のみなさんには動画撮影をしてネットにあげてほしいと思います。絵画が描くこと自体の意味を認めれば、ダンスに負けないくらい、漫画に負けないくらい価値を持ちます。美術を扱う美術館も今の不毛な採算の取れない馬鹿げた企画ではなく初めて世が認める価値を持つと思います。これを書いている今、森美術館で鬼滅の刃の原画展を行なっていますが、美術の側が一線を画して必死に差別し軽蔑している漫画の展示は長蛇の列。その一方女性アーティストを集めたTHE美術と言える展示の方は私が原画展に並んでいた多分200名程度入場した30分間で1人も入場者はいません。この件に関してはいつか詳しく書こうと思っていますが、簡単に言えば漫画の世界の方が権威で人を見下ろし、管理することなく人の目線に立って価値あるものを提供し続けている素晴らしいものだということです。一方で美術は権威を祭り上げてから、上から下々を見下ろす構図を作り、その構図を最も大切にしながら、「下々」にお金を払わせ、絵を鑑賞させる。そして下々には自由に好きなように見るように命令し学校などで下々は下々なのだからありがたい美術館に行くように命令される。いかに命令と言えど人は本当の自由になった時に本当に価値のあるものを選びます。その結果が原画展とTHE美術の展示です。美術館の関係者が言い放つのは「教養がない人は見にこない。来るのは海外の方ばかりだ。」です。これは根本的な誤りです。日本人もそこそこ教養があります。そこまで馬鹿ではないです。学校では年月をかけて教育をしています。教育のシステムに構造的な間違いがあるからこのような問題が起きるのであって一般の人の誰にも非はありません。一般の人たちに教えるべきものがあるのであれば幼稚園、小学校、中学校、高校でしっかりと責任を持って与えておくべきです。でも教えるべきものを並べてみてください。冷静にそれを見ればそれを教育する必要が実はないことが見えてきます。今のままでいいのです。見えてくるものは既得権益を得るものたちの利益を守る構図です。それを美術館やアートは教養と称しています。本来みなさんは真面目に学校に通い学校の与える絵画の教養を与えられています。その教養をフル動員してもさっぱり訳がわからないのです。つまり学校では偽の教養を与えて誤魔化している。美術館や指導要領を作っている人間に教養がない訳ではありません。でもこの矛盾や問題を知りながら無視をしています。無視をする理由は既得権益を第一に自分たちの都合よく動かしているからです。そうするとみなさんはわからないものは切り捨てていい。学校に通って教養と称するものは真面目に授業を受けて勉強しているのですから。それでも教養がないというのであればそれは指導要領を徹底的に叩き壊して正しいものに作り変えるべきです。みなさんは教養を得た上で正当に選ぶべきものを選んでいるのです。本当は絵にも美術にも大きな価値があります。ただこの価値の教え方を誰もが間違っている。この価値が花開かないのは仕上がった作品でなおかつ賞を取らせた本当に数少ない作品しか取り上げないという支配のための構図を壊さないからです。壊さない理由は権力、特に利益を手放せないからです。芸術作品はしばしば国益のために利用されてきました。日本では千利休が二束三文の茶器を高額で売り秀吉に儲けさせた。ドイツの美術館はユダヤ人を虐殺し死体から剥ぎ取った宝飾品で作られた。このようなことに利用されることで構造が壊れるのです。
「絵」において描くことは最も大切なことです。一握りの巨匠ならいざ知らず、美術の外の世界の一般の皆さんにとっては完成された作品を評価されることよりも絵を描くことの方が自分と絵との関わりの中では大事です。美術館と美術評論家と学校の先生が描くことの意味を深く考え評価しないことによって描くことにある多くの意味は気づかれていません。斜陽にあり誰もが指を咥えてどうすることもできずにアホ面下げて死んだ魚の眼をして鼻水垂らしている最中で「絵を描くこと」の意味を誰も語れずにいます。これは画家が美術評論家と美術館に平伏し支配されているから起きる事態です。美術館よりも画家のアトリエの方が大事です。美術館よりもご家庭の方が大事です。美術館はただの倉庫。倉庫を素晴らしいもののように化けさせているのは美術評論家と美術館です。美術館はただの倉庫です。騙されないでください。美術の世界において大々的に話題にすることはありません。このことは美術の世界の本当に残念な過ちだと思います。画家のみならず絵を描くことに触れたことのある人の多くが最も実感を持って感じている絵の価値は絵を描くことです。でも美術評論家はこの最も大切な「描くこと」を評価する力がありません。美術評論家は絵の世界を考える世界に置き換えることで生業としています。そして描く世界から考える世界に塗り替え支配し続けています。若い美術評論家の多くは描くことの素晴らしさに気づいています。しかし出世をすると今の絵を考える世界を守らなければ自分の利益にならないので描くことから目を背け仕上がった作品のしかも画廊と美術館に展示されている作品にしか見向きしなくなります。この姿を見るたびに私は「絵を描かない画家」であり続けたいと思ってしまいます。自分の中の美学というか真実に向かってただひたすら真直ぐ進むとなればそのような美術評論家のいうことには未来の無さから関わる意味をひとかけらも見出せないのです。全く評価されていない、何よりほとんどの画家は出来上がった絵を鑑賞する時間より全然長い時間描き途中の絵を見続けています。描いている時間も観ている時間です。飾っている時間よりも観ている時間の方が圧倒的に長いものです。それが観ている時間の話ばかりされる。描いている時に観ていることの話は全て無視。画家にとって描いている時は最も大事な時間。そして画家でなくとも全ての人間の絵を描いている時間がどれだけ大事なことか。我々が描き途中を話題にしないのは、描き途中の話をする論法を持たないからです。それは美術館などの権威が完成されたものしか話題にする機能を持たないからです。絵画は鑑賞と販売で成り立っている。そこに描いている時の話はありません。美術館は大昔と変わらず沢山ある作品の全てを見れないために1つに選んでそれ以外は流すといういかにも乱暴極まりないシステムを惰性で運用しています。「馬鹿か?」と思います。スポーツはスポーツしている時を大事に考えています。音楽は演奏している時を大事にしています。動物園は動物が生きている様子を大事にしています。美術館は完成した作品しか扱いません。馬鹿そのものです。動物園であれば死んだ動物の剥製しか鑑賞しないようなもの。「馬鹿か?」と思います。いや間違いなく馬鹿そのものでありポンコツです。絵には数秒で描き終わるものもありますし、数分かかるものも、1時間程度かかったり、10時間程度かかったり、100時間、1000時間かかったり、一生描き続ける作品もあり様々です。それぞれに生きています。それぞれに全く違う素晴らしさがある。「そこ」だと思います。えらい美術評論家は「絵画の時代は終わった」とさもそれらしいことを言ったみたいです。「馬鹿か?」と本当に思います。いや「馬鹿だ」と断定できると思います。そうすることで絵画の世界は大きく発展するのですから。
便利というところでしょうか。でもその便利さの陰で絵画の世界は大事な本質を見逃し絵画が大きく発展する機会を掴み損ねています。絵画が完成されたものしか扱われないのは、絵画を販売する権利を持つ者の都合と鑑賞させることによって利益を得る権利を持つ者の都合を中心に絵画の世界が回ってしまっているからです。この世界では美術館の権力が大上段に掲げられて画家は支配下に置かれ美術館の権力が行使されています。この状況が一向に変わらないのは美術館に代表する権力者が画家を奴隷と考えているからです。多くの画家の制作の労力には見向きもしない。奴隷はどれだけ働こうが作業しようが奴隷の作業時間など美術館は評価する必要などありません。仮に評価してしまえば今の立場が揺らぎ、既得権益が永遠に得られ続ける立場を失いかねない。本音を言えば我が金が全て「下賤の者の労働など知ったことか。」そんな感じだと思います。画家が出来上がりの作品などの形と評価など結果といった形に残るものだけを大人しく静かに出しさえしてくれれば権力者はそれでいいのです。権力者は画家に奴隷と直接言うことはありませんが、コレクターやギャラリストは奴隷なり、「早く死ねばいい」と言い放つ馬鹿が今まで何人かいました。美術館はしたたかだと思います。画家が「奴隷」という感覚は確かな慣習として根強く残っています。奴隷の作業の経過などどうでもいいし、ねぎらいや評価など一切する必要はないと権力者は考えています。下賤の者に労いなどそんな振る舞いは権力者には似合わないし、権力者が下賤の者の作業などの汚いものに触れれば権力者ではなくなると考えています。特に美術館という権威の横柄さ、横暴さはひどいもんで、一切制作途中を評価したり取り上げようとはしません。扱うのは出来上がりの作品ばかりです。このことは画家ではない一般の人たちに大きな影響を与えています。何よりも発表をする必要のない人たちが制作することの価値を、大上段から美術館は否定しています。それによる絵画の被害はどれほどのものか、暗黙の了解で絵を描くこと、描いている時のこと、感じや考えていることなど全て切り捨てているので、描くことが主体の発表しない一般の人たちの目で見たり、手で触れたり、聞こえてくる筆の音や絵の具の匂いなどの全ては取り上げるようなたいしたことではなく「つまらないこと」だと考えています。画家にとって最もリアリティーのある絵は制作している時に目の前にある絵の出来上がるまでの絵です。画家でなくても同じことです。美術館はこの最も大切な「出来上がるまでの絵」を全く無視します。これはつたなかろうが完成した作品の評価がどうだろうがそんなことよりも個人としての絵では最も取り上げるべきことなのです。絵を描く労力が見向きされないことは2000年前に滅びたエジプト文明から何も変わっていないのです。「画家という奴隷を管理する権力者が王から美術館に変わった」それだけの話です。私はこの構図をブッ壊そうと思います。
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絵の課題の前に〜8「へっぽこ美術館は絵の価値を偏見で決めるのを直ちにやめ個人が描く全ての絵の価値に目を向け広めることに専念しなさい」
「へっぽこ美術館」
「美術館が来場者を増やす唯一の方法」
「絵がどのように評価されているのか?」
「美術館が怠慢だから画家が食べられない」
「美術館のパワー」
「才能屠殺」
「落選者展」
「絵が語る真実」
「テリー」
「描き途中の絵」
「絵を見る」
「色」
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絵の課題の前に〜9「私のコンプレックスのはじまり」
「コンプレックス」
「私のコンプレックスのはじまり」
「絵画コンプレックス」
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絵の課題の前に〜10「真の絵の褒賞は絵の眠らされている価値を解放した先にある」
「アンチエレガント」
「先生と絵画に対する神格化はあってはならない」
「教員免許と同じように画家も免許を発行すればいい」
「黒は汚い色ではない」
「神のような思いやりとその中にある汚い黒と絵の中の反社」
「新絵画」
「歴史を揺るがす画家が生まれてくる」
「天才の卵」
「評価された作品にしか目をやらないシステム」
「美術史は絵画史ではない〜アフターインプレッショニズム」
「宣戦布告」
「祭り上げられた虚構の価値」
「絵を描くための出題」
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絵の課題の前に〜11「絵で食べていけないことはない」
「絵では食べていけない」
「絵は売れる」
「優劣ではなく普通の良さを語る」
「歴史以上に普通の普遍的な絵の素晴らしき世界」
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絵の課題の前に〜12「新絵画という絵画の革命」
絵が売れるかどうかと言われれば私は売れるという側です。絵には色んな金銭的な価値があります。まずは絵の、商品としての金銭的な価値。その他には、絵の描き方、見方、考え方を教えることもお金になります。評価することもなります。これからお金に変わっていくことは描くことを見せることです。そして描いて競技すること。競技することは私が新絵画を起こす中で計画していることです。私よりも早くやりたい人はぜひ!どうぞ初めてください。私がここで構想を公開すれば自然発生的に色んな場所で事が始まることはもうわかっています。私の方が遅れるかもしれませんが、でもそれなりに私も絶対に成功する温めた考えがあります。言い忘れましたが芸術的な価値。歴史的な価値もあります。ただし、芸術的な価値と歴史的な価値はその多くがこれから必ず廃れます。これは新絵画で私が書く予言です。
絵の金銭的な価値が今まで社会的に機能していないのはそれぞれの境界線をぼかしてモヤモヤさせてきたからです。境界線をケムに巻き隠すことで、黙って入ってはならない領域までなんとなく、騙し騙し横断できるようにしています。領域侵犯し、そのことで悪徳商法のように利益を得ている仕組みがあります。領域侵犯はみんなわかっています。でもそれを規制する力がアートと絵の世界には存在しないのです。暗黙の了解を得て成立しているその距離感、煙い空気感を読む事がこの世界で生きていく上では才能のように必要なことと言えます。例えば画廊は美術館から価値を認められていなくとも芸術的な価値があるかのように市場やコレクターに売り込むことが可能です。この世界は基本、名乗ってしまえばいい。素人でも画廊の看板を立てて営業することが可能です。そのような世界なので第三者の目はさほど気にすることはありません。そのためインサイダー取引まがいのものも往々にしてありますし、試験問題も簡単に漏洩しています。このような形になってしまっているのは、そもそも国家がアートによって権威を保ったり、利益を上げてきたからです。社会はお金によって成り立っていますから、国はお金によって力を得ていますから、お金を得ていく事情と密接に関係しているのです。お金をどのようにして生み出すか?戦争をしたり侵略できる内は困りまらなかっただろうと思いますが、戦争が終わった後は発明をしたりで、錬金術としてアートは金儲けには不可欠な存在です。どうにかして力を生む方法の1つとしてアートがあるのです。ただの紙切れを大金に変える力が芸術性にはあります。芸術性というものをモヤモヤとした実態のないものにしておけば、アートなり絵画は権力者がお金に変える力を作り上げるのに都合がいいのです。それによって絵の本来の商品価値はほぼ喪失している状況です。そのためほとんどの画家が絵を描いて利益を上げることができません。商品価値の上に芸術的な価値をつけようと宣伝し、商品に芸術的な価値があたかもついている風になってしまっています。風なので誰でも気づくので売り方次第では売れることはないです。売れるとすれば高いから買う人が気分で買う時だけです。本当は歴史的にも芸術的にも誰も認めていなくても、ドラマを作って流したりバンバン宣伝してしまえば売れてしまいます。市場や公募団体や画廊や美術館でさえもそれぞれが独自の判断で領域を超えてあれこれ付け加えてしまっています。例えば公募団体の中では高校生は我が団体に出品すれば東京芸大に合格する力が身につくと営業してしまう。当然箸にも棒にもかからないのですが団体の中では神話ができていますから普通にまかり通ってしまいます。私も若い頃何度も団体の人に怒鳴られて洗脳されたことがあります。市場ではオークションで釣り上げを行い、団体は外で通用しない賞を与えます。画廊は意味のない個展を、美術館は意味がなくとも大々的に展覧会をすれば芸術的な価値があるように見えてしまい、力技で既成事実を捏造することができます。何がいいのかさっぱりわからない作品でも、実際に意味のない作品でも、美術館が力技でゴリ押しの評価をしてしまえばそれは歴史に残る絵になってしまいます。そこはいずれ廃れる部分ではありますが。
それによって困るのは、他とそう違わないわけですから、他の画家の絵が良く見えなくなってしまうことです。これがアートや絵画の世界がモヤモヤしている2つ目の原因です。この功罪は画家が食べられなくなってしまっているということです。美術館が良くても画家が困る。描くだけで音楽家やスポーツ選手のように食べていけるところをその価値に目が向かないように仕掛けられている。見向きもされないようになってしまえば売れるわけがありません。人の目を向かせる仕掛けがあるために画家が勝手に営業しても理解されなくされています。画家がパン屋さんと同じように自分で看板を出して営業できないのです。アートと絵画の世界はこのディシプリンで完全に支配されているのです。
画家がこのような状況に陥っている理由は、そもそも画家は奴隷のような扱いから始まったものだからです。わかりやすく書けば大昔絵はそもそも奴隷に書かせていたということです。そのためディシプリン、いわゆる規律に画家は従順なため規律を設けられてしまえばそこに簡単に迎合してしまいます。支配する側は大昔からいかにして奴隷を支配し続け、既得権益を守り続けるかに思慮し続けています。それが今の美術館にも繋がっている。そのやりとりは将棋やチェス、実際の戦争とそう変わらないと思います。あまりに徹底的に管理され成功してしまっているので市場に対して反旗を翻そうという画家は今では見たことはありません。
ですが時代の節目はもう目の前に近づいていると思います。そして絵画の革命とは画家が独自に市場を形成してしまうことで簡単に成ると考えます。宣伝をして、販売する。それだけの営業をやってしまえばいいのです。画家が独自に営業する新しい絵画の営みが生まれれば絵画の世界に革命は起き、これまでの絵画の常識は簡単にひっくりかえります。現状では画家は奴隷ですから、ディシプリン、いわゆる監獄の囚人のようにガチガチに管理されている。そのためその手綱が切れるのであれば切ることを選択する画家は自然発生的に世界中から現れるはずです。今大事なことは切ることを肯定する論理を徹底的に作り上げて、切ることに対する不安感を完全に払拭することです。私はここでそれをやっていきますが、ネットで世界中で、やってみたい人がどんどん革命の論理を書いてくれれば新絵画はスムーズに現れるはずです。それが私の計画している(ありんす)計画です。その時には美術館も画廊もなすすべはありません。美術評論家も何もできないでしょう。美術評論家は画家の立場から歴史を紡ぐ力がありません。なぜならば彼らの興味は絵の世界にはないからです。画家の描くこと、教えること、売ること、見方、考え方はこの50年正しく書かれてきませんでした。全てないがしろです。
書かれなかった理由はディシプリン、つまり監獄を作るためのコードとモードを構築し新しい作品でなければ価値がないという論法による支配を完成させているためです。そうしてずっと今まできました。新しいものしか意味がないとされてしまったために画家は本当はある絵の価値がないように錯覚してしまいました。これがこの世界にある完全な洗脳です。音楽やスポーツがプレイすること自体に価値があるように絵は描くことに価値があります。この50年は描くことの価値を剥奪され続けた時代でした。しかし本当は絵は売れるのです。監獄を破壊し、コードとモードを無視し無効化させ、画家が自分で独自に営業すればいいのです。そうすれば間違いなく絵は売れるようになります。あなたの手で新絵画の革命を起こしてください。
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絵の課題の前に〜13「新絵画の革命は必ず起きる」
絵は売れます。ただし今のやり方は間違っています。今のやり方には大反対です。だから現状のまま安易に売れると言ったり、今のやり方に同調して売れると発言する気は一切ありません。絵は売れるとは思いますが腹に一物がある条件付きの売れるという考えです。絵の売り方は画家の力によって変えなければなりません。それと絵を売るだけではなく「描くこと」で収入が得られるようにしなければなりません。その他には「画家が正当に評価すること」「教えること」でも収入を得られるようにする必要があります。これが新絵画の革命です。
新絵画の革命は美術館にやらせてはなりません。美術評論家にやらせてもなりません。市場にやらせてもいけませんし、画廊に手出しさせてもなりません。キュレーターにもアートディレクターにも一切関わらせてはならないと思います。画家を金儲けの道具として利用しようとする輩を一切排して革命は全て画家の手によってのみ実行するべきです。
多くの画家はディシプリンという躾の中で美徳を教育され、美しい画家としての在り方というひとの形をした呪縛。アトリエという監獄。美術館という監獄の中で縛られ、画家はひたすらこもっています。画家は人知れずこもり、表に出ず、この数十年採算度外視で描いてきました。私もそうですし世界中の画家が無償の奉仕の精神でディシプリンの中で生きることを余儀なくされてきました。この監獄は既得権益を持つ看守が神のような仮面を被り厳しく管理しています。画家は無償の奉仕の精神で利用されながら利用している神の側はいくらでも湧いて出てくる美術館や市場という泉で利益を貪っています。私がこれまで成功した日本の画家を見る限り全員がこの美徳の幻想を打ち破り洗脳を自力で解いて、監獄では悪いこととされていることをやってみて成功しています。絵の世界では言うことを聞かない方が成功する。私の生きた時代ではこれは間違いないことだと考えます。幸い私の世代を支配する輩はdegeneration、つまり退化しています。私世代は絵を描けるようになってきている様子もわずかながら見ています。しかし大半は縛られていて相変わらず収入が得られていない。
「絵には価値がある」
今でも私は無償の奉仕の精神で描いています。周りもそうです。そんな絵の世界の中で絵を見る限り、絵が売れなくとも「描いたこと自体」に絶対的な価値があると手に取るようにわかります。それははっきりと握りしめた手の平の中にいつもしっかりとあるのです。問題はこれを世に出すことは禁じられてきている点です。私はこのルールを破ろうと思います。そしてそれを世界中の画家に勧めようと思います。私の手の平の中でギュッと固められている信念の中にはこれが大革命となり必ず成功する確信があるのです。
絵の価値に絵の世界は目をくれようとせず、これを表に出すことを悪いこととして表に出してきませんでした。そこで気をつけなければならないのは、無償の奉仕の精神で生き抜いている画家の目を盗んで画家に奴隷のような生活を押し付けながら画廊はしっかりと利益を得ていることです。美術館は弱体化した画家達を尻目に権力を手にし、コレクターは画家が死ぬのを待っています。このような無様な実態が表に出なかったのは既存の価値に「描くこと」自体が含まれていなかったためです。描くこと自体がコードにされてこなかった。ここに絵の世界が大きく変われる可能性があります。描くことをコード化するのです。これは絵を描くことを知り尽くしている画家の仕事です。
力のある画家の多くはただただじっと手を見つめて絵を描かずに静観している時代です。この状況を打破するには「絵では食べていけない」という問題をなんとか改善しなければなりません。「絵では食べていけない」という状況で評価されている画家は本当に実力が評価されているわけではありません。看守に都合の良い画家が評価されている。それはこの世界を知る人間の中で腑に落ちない人はいないはずです。このような状況は誰もが疑問に思っているわけで、どうすることもできずにただただ年月が過ぎています。そのためどのように変われば良いか?をしっかりと提案できれば自ずと変われるはずです。
これが私の画家としてのモチベーションで作品のモチーフであり活動です。これは私でなくとも誰でもできることです。世界中で皆がはじめて欲しいと考えています。やれる人はぜひはじめて下さい。新絵画の革命を起こすのは皆です。私はその考え方を提供しようと思います。
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絵の課題の前に〜14「美術館の絶望から新絵画が生まれる」
「絵なんか描いてもしょうがない」と言われる既存の絵の概念や評価の方法、つまり「これまでの歴史になかった絵を生み出せ」と言われとうにやり尽くされて、評価するべきものをし尽くされ評価のしようがなくなった絵の世界でも、物の考え方を変えて、絵の見方を変えれば新しい絵が無限に成長していく姿が見え絵画が進むべき大きな道が見えてきます。
この道の行手を阻んでいるのは可能性のなくなった既存の絵画に固執する既得権益をもつ美術館と画廊と市場と美術評論家です。またその背景にはそれらに出資した企業やそれを仲介した政治家も見え隠れしています。それらの都合の考えれば全く採算の取れていない惨状を無視して画家の都合だけを考えて行動することは当事者にはできないのも納得です。つまりしがらみと関わっている人は画家のために、画家ファーストで行動することはできない。彼らの心配の中心はこれまでの絵画に協力してくれた諸々に少しでも返せるものは返そうというもの。そもそも無償の奉仕の精神で始まりいずれ淘汰されることもどこかで覚悟しているはずのこと。そもそも構造的に欠陥のある今の設計は私は崩れ行こうとしているとどこからどう見ても見えます。画家の生きる設計図そのものをゼロから書き直さなければならない時期にとっくにきているのです。しがらみと戦っている彼らはもう画家のために動くことはありません。それらの輩にとって画家はすでに贄。食い物であり奴隷です。その支配を完成させるために考え出されたものが絵を評価する箱である美術館と画廊です。その箱の中に評価方法を組み込んでいるのが美術評論家です。美術評論家が作った餌に飛びつくしかない構図を作り飛び付かせ飛びついた画家を美術館と画廊がおいしく食す。作品の評価をいかがわしいものにしているのが金です。作品をガラクタでも大金に変えてしまう錬金術を編み出し実践しているのが市場です。そして錬金術よりも先に顕になるのは画家を遊び道具にして性の奴隷に変えてきたことです。これらの如何わしさは少しずつ世の中に露わになってきています。ガラクタを大金に変える下世話な都合の正体がバレた時にそれらの価値は瞬く間に消滅します。それはそれが画家を美味しい贄になり食すために平気で殺す誤った論理で生きているからです。画家が生きるとは画家が音楽やスポーツのように描くことで生きていけることです。彼らは描くことの価値を一切否定し殺します。描くことに価値が生まれると画家は良くても彼らは困るのです。仮に描くことに価値が生まれれば画家は生きます。画家が生きてしまったら画家が贄にならないわけですから彼らは絶望するのです。
既得権益者は自分の利益の思惑を背景に既存の今の方法は描くだけのことを否定することで存続しています。無理やり権力を行使し存続させ、無理な論理を押し通すにも、とうに限界を超えて数十年たつ今、誰もが惰性で画家の世界が存続していることが容易にわかる今、もう目の前にそれらが淘汰されて「新絵画」が生まれる時は来ているのです。
新絵画の必要性は美術館、画廊、市場、何より美術評論家にはありません。あるのは画家です。新しい「新絵画」を作るには既存のものを守ろうとする美術館、画廊、市場、美術評論家と訣別するほかありません。
画家が生きていくためには美術館は潰れていいですし、画廊も潰れて構わない。市場も潰せていいですし、美術評論家は頭の中を全て入れ替えてもらった方がいい。あ、その前に画家を性の奴隷にしてきた美術評論家は全て消えると思います。というと私の知る限り美術評論家で新絵画の世界で残れる人はいません。そもそも美術評論家は画家がやった後にそれを評価するもの。それが今や美術評論家に受けるように絵を描き、出世のために美術評論家に抱かれ、食べていくために必死に読めない本を読み美術評論家の考えや見方に即して絵を描くことが常識とされ、よく仕上がっているので誰も疑うものはいません。あまりにおかしな道理を画家が受け入れているのは権力行使されパワーで抑えつけられているからです。結果画家の生きる道はうまく閉ざされ、美術館と画廊と市場と美術評論家たち輩が作り上げた金儲けの錬金術にハマり画家は綺麗に奴隷にされています。
問題は利害。今の絵なんか描いてもしょうがないという人たちはそのような状況の中で必死に自分が生きていけるように、ない畑を耕して生き抜き、自分についてくる人が食べられるようにしてきたわけで、その執着心たるや相当なものです。これまでの絵の世界ではこれまでの常識を根底から覆す新しい物の見方と考え方は許されず美術館や画廊や市場や大学は保守的に形成されてきました。これを変えるのは一苦労ですが、先細り続けて既存の精力の衰え切っている今はチャンスです。
既存の物の考え方を捨て、新しい物の見方を導入すれば画家には描くことで収入が得られるようになる可能性があります。それはおそらくアートそのものが淘汰されて本質が露わになった時実現すると思います。本質が露わになるには間違っている既存の形がはっきりと見えなければなりません。既存の形を作り上げている人間の思惑の全てが手に取るようにわかった時にアートは淘汰されると思います。既存の形は既にごく個人の都合でしか動かなくなってしまったいわゆるコネの世界。それが外の世界が視認できてはっきりした時にその瞬間完全に消えると思います。それはそれを知る人が話せばそう時間はかからないことだと思います。私はそのトリガーになるようにこれを書いています。それが消えることが画家にとっていいことだと思います。異常に高値に引き上げられたアート作品は値段が下がり金銭的な価値がなくなります。コネの中で釣り上げられたことが露わになれば釣り上げられた価値は一瞬になくなります。残るのは描かれたこと自体が残す価値です。描かれたこと自体の価値に目が向かい正当に評価するべきことに世の中が気づいた時に今のヤクザなやり方を選ぶ理由が画家にはなくなり、ヤクザな美術館や画廊や美術評論家を間に介さずとも画家は絵を販売することができます。これからは所場代を払うこともなくなる。これが画家の目指すべき新絵画の形です。
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絵の課題の前に〜15「新絵画の天才は受験絵画から生まれる」
私が見てきたこれまでの絵画の世界は絵を描くことを前向きに捉え発展させる気がありませんでした。絵画を建設的に捉えて発展させていかなければならないはずの美術館にはその気は全くありません。日本に美術館は数あれどひとつひとつの美術館が若い画家を売り出すことなどただの一度もありません。美術館は画家を育てるようなそぶりをしながら子供たちのコンクールや大人の公募展を催しますがそこから名だたる画家が生まれたことはこの30年全ての美術館でありません。あるのは催し物をした既成事実ができたというだけです。それに共謀している美術評論家も画家を育てる気は当然ありません。画廊には市場で育てる気が少し垣間見れますがその力は脆弱です。アート全体が仕掛けたマネーゲームによって、絵画が普通にコツコツ描いて、研鑽を積んで、技術などを積み上げて発展させていく道筋にお金が落ちてくることは無くなりました。
絵画の世界には、日々切磋琢磨しながら編み出されたことの全てを建設的に構築する設計思想はありません。結論を先にいえばそれが残っているのは唯一受験の世界だけなのです。
受験の世界は公には認められていません。でも密かに進化し続けているのです。そこで発見されたり積み上がってきたことはきっと絵画の世界に貢献する時が来ると思います。そこにはとても素晴らしい技術や物の見方と考え方が有るのです。そこに美術館が慌てて反応してくるのはそう遠くない未来だと思います。でもまだ行手を阻んでいるものが多いのです。画家には思い切って描くことに尽力を尽くせる時間と空間が必要です。その場は日本では受験の世界だけなのです。お金を得て制作に没頭できるシステムはその後にはありません。
画家にはスポーツの例えば野球のように描くこと自体で広告収入を得られるような大規模なシステムが必要です。現状では描かれた作品の希少価値を判断し骨董品と並べて作品自体を物販してお金に変えるしかありません。美術館は言うなれば骨董品をしまうただの蔵です。蔵の中の作品の値段が全てで画家が描くことなど興味はありません。美術館に描くこと自体の価値を見出す思想や物の考え方はないしできないのです。そもそもその能力が世間からすれば意外にも欠落している。美術館と画廊は画家が生き生きと絵を描いている様子など微塵も興味ありません。彼らの思いを言葉にすると「早く死ねばいい」です。
ルネサンスの時代にチェンニーノが全てが消える前に絵画の書を書き記したことからも伺えるように絵画の世界で編み出されてきたものは何かに残していかなければ泡のように簡単に消失します。絵画の組織や集団として残されていないので個人が残していなければ完全になくなります。その損失に目を向ける時はもうきているように思います。
私の生まれる前から今の美術館や画廊や美術評論家は絵画が一度完成され技術的にこれ以上進歩することはないと考えていました。でもそれは外から見える表層の話。当事者は新たな発見を目の当たりにしながらめくるめく発展している様子を実感しています。絵画の外からは絵画は見えません。物の見方と考え方が根本的に違うのです。彼らは現状を覆す作品は出てこないだろうと考え疑うことを知りません。画家として生きている人間として違和感を感じるのはこれまでになかったことが沢山生まれてきていることを知りながら隠し続けなければならないことです。画家は長いものに巻かれて見て見ぬふりするように教育されています。絵画を突き詰めていくには出世を諦めるほかありません。私だけでなく大勢がそういった道を選んでいます。絵画の営みの中にはわかるものにはわかる大発明もあり、それを感じながらもそれを評価する意識は外の美術館や画廊や美術評論家には全くありません。絵が進化し続けていることは画家であれば誰でもわかっていることだと思います。絵を描く人間の目の前では様々なことが起こっています。でもそれを外に話すことがいかにナンセンスなことであるかは誰もがしっかりと教育されてわかっていることなのです。
画家が直面している現実の外の世界にある美術館と画廊と美術評論家は画家から見える絵画の中のことなど眼中にありません。彼らの中に絵に対する心配は全くないのです。
画家は外部から物の考え方と見方を都合よく操作されました。彼らの言うことを真面目に聞いていればそれによって本当にこれ以上の可能性は見えないような気が私でさえします。彼らの行ったことは洗脳です。音楽やスポーツの世界とは違い絵画の世界は分かりずらい世界です。分かりずらいことは錬金術を仕掛けるには好都合。都合よく全く意味のない作品を作っても好きなだけ金額を釣り上げられる始末です。これまでの絵画は音楽やスポーツと違って分かりずらいことがいいように利用され、輩は調子にのりマネーゲームに拍車をかけたと私は考えています。音楽は譜面を無視して掻き鳴らしても誰も振り向きませんし、現代音楽として確立させながら元の音楽の形態は保っています。スポーツはルールを無視して好きなところにボールを暴投しても誰も興味は持ちません。スポーツでも現代スポーツを編み出せばいいと思いますが、スポーツの世界では馬鹿げていることが普通にわかるので大儲けすることができないことがわかるのでアホな美術評論家ですらもわかるので手出しはしません。これが絵画の世界ではバレないので、スポーツでルール無視でボールを投げたり走ったりするようなアーティストの作品に野球の大谷さんのような何十億もの金額をつけられるのです。適当にボールを投げて儲かるシステムが仕上がったので今の美術館と画廊と美術評論家は譜面を無視し暴投することに尽力しルールに沿って競技するように絵を描いたり、競技でなくともただ描くことには全く無関心です。
日本では受験絵画の世界だけが絵に人生を賭けた競技をして勝てば利益を得られる構図が生き残っています。美術館と画廊と市場と美術評論家の介在しない受験絵画の世界は実は健康的に日々新しいことが次々に起こり続けているのです。
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絵の課題の前に〜16「受験絵画を純粋に描くための処方箋」
私は受験絵画で描かれる絵は作品だと考えています。少なくとも私はそのつもりで描いていましたし教えています。受験絵画は作品です。傾向も対策をするでもなく良いものや面白いものを作ってきたつもりですし教えてきました。
東京芸大の教員が受験生の描いた受験の絵を変な目で見えしまうのは偏見を持った、いかがわしい考えがある、卑しい考え方からくる、ねじ曲がった目になってしまっている偏執的な目からです。東京芸大は傾向と対策を気にせず受験に臨むように受験生に向けて声を上げます。それは予備校的ではない純粋な作品を見たいということだと思います。そして評価されるのはそのお眼鏡に叶った作品です。しかし入学後に東京芸大が上げる声はこれまでの絵は「受験絵画だ」という全否定です。この曲がった目を打ち破らなければ正義は獲得できないと私は思います。我々が純粋に描いた絵を受験絵画と称してそれが絵画ではないパチもんのような偏見で物を見てしまう。そんな節穴でも教員が正しい考え方を謙虚に学べば受験絵画は東京芸大にとって作品になりうると教員は気付けると思います。但しその薬が何でどうすればいいのかが自分達ではわからないようです。そのため仕方ないので外の私が処方します。それによって東京芸大の病の1つだけ治るでしょう。受験絵画と称してパチもんのように毛嫌いしなければならないのは明確な原因があるのです。それが芸大自身で治せないのはいかがわしい考えを実行した事実と卑しい欲望を満たしてきた事実を隠し続けなければならない教員個人と東京芸大全体の事情があるからです。自分では治せない受験絵画の悩み、それを私がここで1つ処方してあげようと思います。そうしなければ受験絵画の世界で純粋に描いている人は学部で完全に洗脳又は淘汰され続けるのです。
私が処方しなければ改善しないのは採点している人間が自らの犯している過ちを隠し続けそのせいで疑心暗鬼になる重篤な病におかされているからです。それは今巷で話題のジャニーさんの問題と似た体質です。健康になることを妨げているのは何を隠そう受験生ではなく出題している雲の上の天井人や神です。神は本当に親切で求めに応じて作品を買ってあげたり仲良くしていれば試験問題すら教えてくれます。教えてくれなくともわかってしまう距離にいさせてくれます。お祈りすればあり得ないような願いを叶えてくれるまさしくジャニーズでいう所のジャニーさんのような神なのです。お願いは密室で行われます。神に愛されれば密室に入れます。密室には学生でも簡単に入れる時があります。でもその行為は芸大の中では神の行為ですが外の社会から見れば犯罪なのです。
神にはそう、表の顔と密室の顔があるのです。神は神にも悪魔にもなります。裏に隠れた密室の中の神は表の世界から見れば悪魔なのです。大学には表と裏があるのです。相変わらず試験中の様子はアルバイトからだだ漏れです。
悪魔がいるから受験の絵は絵画になり得ないのです。神と悪魔は同一人物です。ジギルとハイドのように時と場合、対面する人に応じて人格が入れ替わります。どんな時にも共通しているのはどこにいても自分の認識としては絶対的な神であることです。顔が変わっても自分は神の顔であり続けていると思い込んでいて気づきません。神の顔を神に見せる鏡はジャニーさんのように暴露されてから現れます。試験の問題から始まる情報の全てを外に漏らさないようにするにはどこでどう漏れているのか自分達が漏らしているわけですからはっきりわかっています。それを公にすれば鏡に映った自分の本当の姿が見れるのです。相変わらず科によっては簡単なことは電話したらすぐ教えてくれます。それを入試説明会やパンフレットで全て公開すればいいのです。傾向と対策というよりもそんなことに対する手を講じなければなりません。その先にしか純粋に絵を描く道はないのです。
一般的に受験絵画の世界はアートでありアートでない世界です。外の世界から切り離された美術評論家も美術館も立ち入らないアートと別世界の受験絵画の世界はその世界を支配している人間の都合のいいようにデザインされ利用され続けています。
受験絵画の世界は圧倒的な力で洗脳されたので絵画科でありながら受験絵画の外でも中でも絵画の可能性に見向きをする人はいなくなりました。
受験の世界ではデザイン科や日本画とそれに工芸や彫刻で描かれている受験絵画は習作としてみていいかもしれません多分当事者はその感覚です。見るからに受験で描く絵は習作と判断できるものです。しかし油画専攻に関しては習作として描いている人ももちろんいますが、中には純粋に作品として描いている人もいます。そもそも受験絵画の世界の神は入試の傾向や対策に捉われず純粋に描くことを推奨しています。でもこの推奨は面子というか対外的なパフォーマンスのために行なっているものです。仲の良い人間に入試の情報を漏らし、又は漏らす気がなくても漏れる状況を完全に封じる気はなく、隙間を見せて実際には色々と漏れるようにしている。又は無自覚に漏れたり悟られたりしている。場合によっては授業中に予測できるような話をしたり、ヒントを与え、それらを授かった予備校が事前に対策をして大量合格をさせる。神は率先して可愛い身内であるそれを合格させるので相変わらず合格者は一部の予備校に偏る。身内に愛を振り撒けば自分に分かりやすく愛が返ってくるので辞められない。仲の良いグループの中で行われていることなので予備校にいる時に授けられながらやがて神に繰り上がった時にはそのような実情を具体的に知っていながら、その事実には蓋をして純粋に描くことを外に向けて発信するのです。事実そのようなことを読んで対策を講じなければ合格者はなかなか出ません。クマビではそこを逆手にとって生徒に純粋に描ける環境を作っているのです。汚らわしいバイキンに汚染されないための予防接種として生徒にはこれまで漏洩してきた試験問題の歴史を話せる範囲で話しています。実際に漏洩した時にはその年の生徒に話してきているわけですから、事前に試験問題を聞いていた生徒の数は私以外の先生から聞いた数も含めると相当な数です。時が来たらネットでそれを聞いた人たちにひとつひとつの事例を書いてもらうアンケートを取ろうと思います。それでことがようやく動きます。今のところ私が単独で動いても文科省と厚生労働省は残念ながら動きません。文科省と厚生労働省はこちらの伝えた事実を東京芸大に問い合わせて本当ですか?いや違いますよ!いやそうですよねそうだと思いました。というアホな会話を交わして終わりです。このようにして多くの問題は消されています。なので絶対に消せない状態にするために事実を知っている大勢のみなさんに協力していただこうと思います。予備校は神がそのような行動をとる前提で対策を講じるのです。そうしなければ純粋に絵など描けはしません。でもこのように人間である神の事情を読み取って隙間で純粋に絵を描こうとした時に確実な道筋は見えてくるものなのです。受験絵画から天才が生まれる可能性はそこにあります。絵画の天才は受験の段階と1年生の時と卒業までかけて学部で全て消されてきました。そもそもカリキュラムからしてアートを理解させていくプロセスが画家を消していくことに繋がります。画家が消えると同時に現代美術、すなわちアートを理解した教育したとされているのです。
そもそも芸大は作品を描くことを本気で求めているように思います。求められている絵は習作とは言い難いものです。石膏デッサンでも物の見方と考え方を変えれば立派な作品になります。でも石膏デッサンならまだ習作と言われてもすっと腑に落ちます。これが「絵を描きなさい」などと言われながら、合格した後にこれは「受験絵画だ」と言われても困ってしまうのです。純粋に描くことを本気で求めるなら合格した後に純粋に作品であると見て考えさせていくことが正解です。但しそのように行動する神はいません。そこに綻びがあるのです。その綻びが何となく受験生にも感じ取れるからそこをはっきりと解析できない人はとてもまともな神経では純粋に描けないのです。
神は昔から「合格者の作品を見せない」だとか「参考作品は見ないで欲しい」などと指導し自分で考え、想像し、開発させておきながら受験という偏見から受験生の絵は受験絵画と見なし事前に用意しておいた論法を持ち出して全て否定します。毎年恒例の儀式によって受験絵画の世界は見向きをする価値のないものとされてきました。この儀式はまた神の都合によってデザインされているので絵画を否定する洗脳の方法でもあります。学生にあれ?と思わせておいて、そこで生まれた隙間に現代美術をスリこませます。現代美術でなければ自分達の立場的に都合のいい絵画です。学生の頭をかき混ぜることは一概に悪いこととは言いません。但し絵画や絵を描くことを完全に否定したり、実質支配してしまえばこれは立派な洗脳です。完全に否定するのではなくそこには自分の意志で選択する余地が必要です。本当に必要なことは自由。でもそこにあるのはたいていが受験生と神双方の傾向と対策の化かし合いです。勝つのは地図を広く深く理解し道筋が組み立てられている人間です。まあチョロいです。学部の1年生でも力のある人は十分勝てます。化かし合いの中に純粋な物の見方や考え方などどこにもありません。
一時期は絵を描く学生は学部から根絶やしにされました。それは権力闘争において絵画系の教員の力を削ぐために現代美術系の教員が団結して行ったことでした。その結果学部から絵を描く学生は完全に排除できた。絵画系の教授は他の大学から絵を志望する学生を大学院に入れるほかなかった。画家を育てる余地を一切残さなかった神のそれは残念ながら洗脳に他ならないと思います。このようにして受験絵画の世界の可能性は閉ざされてきたのです。
受験絵画の世界は日本で最も絵が研究され描き出されている世界です。その世界は東京芸大の学部で消し去られ続けています。
日本で純粋に絵を描くには受験絵画の世界で純粋に絵を描けるようにし、学部でそれを継続させ、大学院並びに大学院を出ずとも画廊や美術館、市場と連携させて純粋に描かれた世界を守り持続させることです。守るには自分で抗体を攻撃してしまうアレルギーを抑え、神を人間から神たるところまで押し上げたこの仲良しの連鎖を断ち切ることが重要です。そして芸大の外の世界を、人を介入させる。そうすれば受験絵画で傾向と対策にとらわれない純粋な作品は生まれます。仲良しのバカちんがずっとやるから悟られるのです。仕組みが正しくなれば純粋な作品が学部で生き続け、美術館や画廊や市場にも繋がります。これらの問題を解決する手がかりは入試問題の漏洩の事実を具体的に公開することです。今はまだ文科省も厚生省に持ちかけても残念ながら門前払いされます。もっと広く世の中を取り込んでジャニーズのように解決していかなければなりません。それが私の処方する薬です。
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絵の課題の前に〜17「近い将来画廊と美術館は沈みます」
私が絵を始めてから35年経ちました。私は巨匠を目指しています。その間ただの1つとして画家の役に立った美術館はありません。東京芸術大学では絵なんか描いてもしょうがないという指導を受けました。実際にその通り、いわゆる絵画らしい絵画を描いて世界的に評価を得られた画家は日本に私はいないと思います。この35年の間に海外ではバルセロなど絵を描き続け評価されてきた画家はいます。日本は弱いというか長いものに巻かれるので、現代美術という長いものに巻かれるしか能のない美術館は画家にとってただの箱であって、存在意義の全くないポンコツでした。
長いものに巻かれるのだけは上手い美術館ですが奇妙にも絵なんか描いてもしょうがないと言われる状況を理解しつつも、何事もなかったかのように頻繁にコンクールを開催しています。その先に何の可能性もないのに華やからしい賞だけはバラまいている。バルセロのような画家は日本にもいます。ですがそれに受賞させることはありませんし、ましてやプロデュースし世の中や世界に認知させる力は全くないのです。やれやれと思うのは日本の画家をさておきバルセロを輸入し、日本の画家に対して恥を晒していることです。日本の美術館から世界に飛び出したり我々を納得させられるような画家が出てくることはないのです。
日本の美術館の賞は全て我々にとっては全く響かずなんの役にも立ちません。あるのは趣味の世界には通用し、玄人には全く通用しない、何の影響も与えない、身内に通用する見栄、やってます感を出す建前、美術館が運営するための金儲けです。
絵なんか描いてもしょうがないと言う状況を打破できるような作品を評価するのは美術館の使命です。でも1枚もなく。美術館にいる人間にそのような力はなく。ただあるのは美術館が絶対的な権力を持ち日本の美術の世界を支配している事だけです。美術館に乗るか反るか。多くの画家は発表せざる得ないので未だに何の役にも立たないポンコツ美術館に平伏するしかない状況です。この不健全な状況は壊し、誤った正しい考えと心を迎え入れ、不毛な道ではなく正しく実りある道を切り開く必要があります。それができるのは美術館ではありません画家です。正しく綺麗な道は汚れた心の今の美術館にはできません。絵画の多くの問題を解決するには正しい道。つまり正しい美術館を作り上げる必要があるのです。この懸念を解決する構想をここに書こうと思います。
あと数年後構想を完成させ時が来たら天才育成計画presents新美術館を設立します。国立新美術館と名前が同じなので勝負し勝ちます。正直既存の美術館があまりにチープなので簡単に勝ててしまいます。しかも美術館の意義としてあまりにも差がありすぎるので新美術館もすぐに白旗をあげて負けを認めるでしょう。天才とはこういうことをいうのだと思います。第一回目の展覧会は「東京芸術大学入試問題漏洩展」を予定しています。日本において唯一健全に経済が周り、日本人が人知れず熱狂し、人生をかけ、制作が最も盛んに行われている受験の実技試験の絵について触れようと思います。受験以外の絵の世界はまあ死んでいます。
伏線としては受験の絵は受験絵画として低俗で下等なものとして揶揄される状況を変える狙いがあります。受験絵画が辟易されている原因は入試の問題が漏洩しているからです。そのことを隠蔽し続けなければならない事情があるから目立っては困るのです。スポットが当たらないことをいいことに入試の問題を漏洩させることによって不当に利益を得ている輩がいます。そこに世の中の目が向かないように受験の絵は見る価値のないものとされ続けています。ここに光を与える目的がこの展覧会にはあります。きっと日本の展覧会を変える大きなものとなるでしょう。
こちらの新美術館は国立新美術館ではありません。言うなれば私立新美術館です。最初はここの場所から、国立美術館の出せないような作品を出していこうと思います。世界中の美術館がここの美術館から学ぶようになるでしょう。
伏線はさておきメインのコンセプトは別にあります。おかしなもので絵は美術館で展示されなければ認められません。内容はともかく美術館に展示されさえすればいいとされています。そのため画家はこぞって美術館を目指すのです。それでいて私が絵を描き始めてからこれまで美術館に現存の画家の名画が展示されたことがあるかと言えば一度もありません。私の進学した東京芸術大学ではあまりにひどいので絵なんか描いてもしょうがないと教育されていた始末。それでも美術館ファーストですから美術館で展示されない絵は絵ではないような感覚を抱き、体質がこびり着いて残っています。私は正直しょうもないと思いますし、私のみならず志のある画家の多くは今も昔も美術館を見限っています。問題はまともな美術館が一つもないということです。だから我々サイドで使える美術館を作ってしまおうというのが新美術館のコンセプトです。
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絵の課題の前に〜18「天才育成計画が贈る新美術の新美術館」
絵の出品の場は画廊か美術館がお決まりです。画廊と美術館に認められなければ絵を出品することはできません。これが実は巨匠や天才泣かせで私は本当に本懐を遂げるためには画廊様と美術館様の意向に沿う訳にいかず悩んでいます。美術館のやっていることに従わなければ目先のメリットには全くあやかれないのに無視しなければならないのは本当に辛いです。天才の悩みというやつです。お決まり。お決まりが規則や規律や物の考え方となってめでたく世の中では画廊と美術館の見方の範疇でしか絵は語られてきませんでした。一般との認識に齟齬が生まれ、社会から倦厭される原因にもなっています。物事には人の数だけ道理がある所を画廊と美術館の考えだけを認めて他を結果的に排除しています。やれマネだの、デュシャンだのほざいても昔も今も本質は何も変わっていません。
画廊と美術館の見方はとても狭いものです。元々ポンコツなので仕方ありませんが、でも画家にとって画廊と美術館に歴史に争う力がなければ絶望的なのです。後、日本の画廊と美術館は世界に争う気など微塵もありません。画家には七難八苦を与えておきながら海外には媚びへつらうばかりです。日本の画廊と美術館に歴史にも世界にも渡り合える力のあるところは1つもありません。上海、ニューヨーク、シンガポール・・いや外国のほとんどの国に日本は勝てません。そうすると唯一残された道は自分の力で切り開くことしかありません。不安ですが日本の画廊や美術館や市場を見れば見るほど首が閉まる思いがしますので殺されるよりマシです。本当に迷惑な話です。
画家にとって不利な背景を背負いながら画家の世界では表に出て来ることなく吐き捨てられ続けている深く広い知見が存在します。つまり画家の手や眼からは歴史的にも世界的にも重要なことが毎日溢れ続けているのです。画廊や美術館が致命的なのは今をレポートし価値を与える力がないことです。もし心があるなら目の前にいる画家をレポートしてみてください。そこには無限の可能性があります。それを引き出す力がなければあなたは無能です。画廊も美術館も元々骨董から始まっている設計なので仕方ありません。そもそも生きている画家とは反りが合わないのです。
可能性に溢れている源泉は数ありますが1つ例に挙げるとするなら手や眼にまつわる脳内の身体的記憶に注目するといいでしょう。画家の身体に宿った記憶を公開する様はスポーツ選手と違い表に出ることはありません。まずこのことにおいてもいつも吐き捨てられている数多の新奇性はありますがここに取り組む根性のある画廊と美術館はありません。どれもポンコツです。そしてスポーツ選手が自身の身体に眠る記憶の全てを言葉化できないように、画家にも概ね身体に感じていることを翻訳する力はないのです。言ってしまえば画家が身体で感じていることはこれまで表に出ることはありませんでした。一般の人たちがスポーツで熱狂するように私は受験絵画の世界で熱狂しています。これを低俗な物だとするアホがいますがそれは違います。人が全身全霊をかけて熱狂できることに低俗な物などありません。このことを考えれば私はいつも絵の世界が残念でならないのです。
私のいる受験絵画の世界では表に出ることのない絵の見方や考え方が日の目を見ることなく捨てられ続けています。それは私が思うにチェンニーノが絵画の書を執筆した時と何ら変わりはないのです。
私が見る限り画廊と美術館にそれほど見る力があるとは思えません。その根拠は我々が見ている絵の世界が画廊と美術館には全く見えてないからです。我々が熱狂するように絵を描く時のことに対して彼らが熱狂することはありません。売れればいいから、とか新奇性があって評価されればいいからと言った具合に取り合いません。これから絵が発展したり、絵が生きる時代を想像する限り、画廊と美術館の見る力のなさがボトルネックとなり、画家が不毛を確信した時に画廊と美術館と画家が自然に訣別すると考えます。これまで画廊と美術館が認知できず反故にされてきたことはネットに余すところなく公開すれば、それを拾わなかった画廊と美術館の愚かさは露呈すると思います。画家の鬱憤は溜まりに溜まり画家の魂の中に焦げ付き燻り続けています。それらが噴出される切欠さえあれば今の画廊と美術館が支配する絵の世界は簡単にひっくり返り転覆するでしょう。画廊と美術館の成り立ちや構造を考える限り、画廊と美術館はいつでも簡単に転覆してしまうほど華奢で危うい存在だと私は考えています。
これまで美術館での絵の出品は大きな権力を持つ美術館に認められなければ叶いませんでした。美術館では美術館にマウントを取らせた作品しか展示されません。そのため、とにかく美術館に媚びへつらい認められる方法を考えなければなりません。平たく言えば美術館の考えることを無視して展示するなどあり得ないことです。それ自体がいかに愚かなものかを誰もが理解しながらどうすることもできずにただ指を咥えて呆然としています。
挙句の果てにモードなりコードなりのかっこいい言い方が生まれ、美術館ライクの浅い考えが横行しています。モードコードはいかに暗黙のルールを見抜きそれを審美眼のように誇りを持つかが大事なようです。私から言わせれば暗黙にせずオープンにするべき所を諸所の黒い都合でできないだけでカッコつけるなです。大人の都合を理解し露骨にせずに伏せて、伏せる信頼を得た者が美術館との関わりを認められます。馬鹿げた話ですが美術館信仰とでもいいましょうかそれを高尚なものと勘違いしてしまう輩は実に多いものです。ジャニーズが性加害を伏せてきたように暗闇の中で全てが決められ黒い儀式が美術館では行われています。本当はコンクールの審査は様子を全て動画で公開し、評価を全て詳細に書面であらわさなければなりません。それを全て隠すこと自体がよくよく考えればとても悪なのです。そこから出てきた答えを正義だと誤解し、勘違いした見方と考え方が絵画の全てのように錯覚する。錯覚して完全に洗脳されることが重要で美術館に展示されるにはそのような画家になりきれなければなりません。大学ではそのような実態を学び、学べば当然距離をとる。出品するには真実に目を瞑り、自分を騙し、画廊と美術館からの抑圧の事実を全て隠し、ストレスを抑え込みながらも画廊様並びに美術館様には表向き自由にのびのびやらせて貰えていると感謝しているそぶりを見せなければなりません。まあ本当のところ宗教団体のしていることと何一つ変わりはありません。一つひとつを丁寧に確かめてみてください。わかるはずです。
そのような団体の考えることは浅いものです。美術館はビックモーターと同じように生殺与奪の権利を持っています。ビックモーターの社員のように画家を簡単に切ります。たいていの画家は生殺与奪の権利を持っている人に向かって誰も文句は言えません。馬鹿なことだと理解していても絶対的な力の前に屈する他ないのです。これを覆すのが天才。それをここで育てたいと思っているクマビです。時が来ればビックモーターのような黒い会社は完膚なきまでに正義の鉄槌をくらわし跡形もなく叩き潰されるはずです。画廊と美術館が沈む日は近いと思います。
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絵の課題の前に〜19「私立新美術館」
画家は美術館に媚びなければ美術館で絵は展示されません。美術館を敬い考えや好みに従い媚びる。全く媚びずにいることは出品を諦めることを意味します。絵画に歴史的新規性のある作品が描かれる可能性がないと考えられている状況で作品を発表するにはその中でテンプレとなった美術館の気に入るコンテンポラリー風の作品のコンセプトを自分の頭に下ろして、美術館推奨の時代の画家を演じながら馬鹿馬鹿しいとどこかで思いながら押し殺して美術館の言いなりになるしかありません。これらは画家を支配するために新規性を利用した美術館が真綿で首を絞めるように仕掛けたことです。そういった厳しい状況の中で画家は活動していかなければならない。と学校で私が習ったことを要約するとこうなります。実際絵画は何をしても当たりがないので孤高で生き抜くというわけにいかず、どこかの組織に属しその組織を通じて美術館に展示されることを目指すしかありません。団体かイベントか画廊もしくは大学に属することを目指す。少しでもましな組織に属することを目標とするプランにならざる得ないので最初からそこを踏まえなさいというのが内々の話です。このようになるのは画家に独自の発信力がないからです。ネットに作品をあげるだけでは足りません。必要なのは既存の画廊や団体や美術館を上回る強力な発信力を持つ美術館を自分のために造ることです。強度は最強でなければなりません。それがわかれば苦労しないでしょうからここではその一例を紹介しますので参考にしてください。大学等々一撃で粉砕できる強力なものを1つ引き出しから出します。画家並びに巨匠だとかアーティストはこのように革命を起こす生き物ですし、その際は美術館など全く相手にする必要ない無用の長物ですのでみなさんも自分を安売りしないようにどうか絵と真正面から向かい合って属するのではなくそこから自分の道があることに気づいて開拓してください。
本書では私の活動を見本にできるように活字として公開します。私の私立新美術館で「東京芸術大学入試問題漏洩展」を開催しますのでみなさん参考にしてください。ジャニーズやビックモーターと同じように注目を集めようと思います。全て真実を基にしていますので誰にも邪魔されることなく滞りなく進めていきます。みなさんも表に出さなければならない事実を勇気を持って発信してください。宗教や歴史やモードやコードではなくあなたのことを描いて発信していいのです。既存の画廊や美術館に規制されることも媚びてキュレーターや学芸員が光るようにする気遣いも無用です。
学校で習うのは画家不遇の時代に入っていることと画家の悲壮です。世界中の誰もまだこの状況を抜け出せない(私抜けますが)でいる。学校ではまずリアリズムを否定し本物そっくりに描くことがみんなが目指すべき本線ではないと教わります。みんなは絵が上手くなることはそっくりに描けることだと思って学校に来ますから、よくそこで齟齬があります。本来リアリズムはもはや時代の潮流には乗れないので教えることではないのですが、描写は教えやすいので描写を教えているところは多いです。ただその他の時代を踏まえている他校からはかなり時代錯誤であり必ずと言っていいほど良くはならないので問題視されます。リアリズムは簡単なので指導しないことが常識ですが、でも抜け道はあります。市場では誰でもできるので誰も目指さないため写実の供給不足が起きているので歓迎され重宝されます。写実は難しそうに見えますが根気があれば誰でもできるので学校では特に教えることがなく独学で描けるようになります。東京芸術大学では1人で黙々と写実をしている人をたまに見かけます。
写実が画家の目指す時代の本線ではないので亜流に生きることを受け入れて学生は個人的に本線からドロップアウトすれば画廊に売ることは簡単ですし写実ブームも来ているので来客が多くなれば美術館で展覧会を開くことができます。
学校では200年前のリアリズムの終わりと共に絵画の世界にモダニズムの流れが来たことを習い遠い過去に「絵画にできることを考える時代」があったことを習います。で、同時に絵画にできることはやり尽くされたと習います。そこもそれが本線ですが本線からドロップアウトすればモダニズムで絵は描けます。
そんな状況ながら美術館では新規性のない新しく描かれた絵が展示されます。絵がやり尽くされた上で美術館に絵が展示されるのはいかにも奇妙な話ですが現実はさておき展示しています。それはでもやはり理想的ではありません。新規性のない絵なので本来評価に値する作品ではないですが美術館の都合で展示されテンプレをなぞっただけなのになぜか評価されます。で学校ではリアリズムとモダニズムは終わっていると習い絵なんか描かないコンテンポラリーアートを習います。でこれもやり尽くされたということです。それでこれらは言われ始めて40年は過ぎていますので、すでに錆びついているため教えて生徒が教えを養っても全て不毛なテンプレ概念ですし無用なコンテンポラリーの余計な心配を生徒にさせるだけなので私が学校で教えることはしません。この手の話はしても本当に不毛なのでしません。大事なのは実る話なので実らない話はこれからの未来ある生徒にしてはならないと考えます。東京芸術大学で授業を受けても全く新しい画家が出てこないのは指導しているのは過去に実った過去であってこれからは実らない話をしているからです。する先生は不毛な世界に迎合し実質媚びろと言っていることと同じです。大事なのは少し先の未来に向けた話です。それが創造できるかが問題です。私はリアリズムもモダニズムもコンテンポラリーもどれでもない、描く意味がある世界の話を提案します。生徒はそれを気に入れば趣くまま自分の精神に従って描けばいい。そこに私が目の前や上にいてはこれまでのお高くとまった画家と同じなので、日頃から少し軽蔑されるように心掛けて取るに足らない存在でいるようにしています。生徒はできれば偉そうなだけで何の役にもたたない先生や画家にならないように人を下に見る画家でなく対等に見れる画家に育って欲しいと思っています。それが未来の画家には大切な実りある地位なり立場です。
私は絵には実りある未来がありますから未来の部分を教えます。ヒントは描く意味です。言ってしまえば今のアートの世界はザルです。つまり実は隙間だらけなのです。くどいですがヒントは描く側から見ることです。ただ生徒達はとてもザルには見えないでしょうから私の見えている穴の先から除いている絵を個々に教えるのです。万が一ですがもしそこに乗る気になったなら乗ってください、そうすればきっと天才になれるでしょう。ヒントは上からものを見ないことです。
この不毛な状況を変えることは絵画全体の課題です。画廊も美術館も残念ながら人を下に見ている。美術評論家となると画家を性の捌け口にもしています。たいていの学生は社会に伏することを学び、人の話を聞く準備をして気持ちを整えています。絵の学校はリアリズム、モダニズム、ファインアート、コンテンポラリーアートなどの耳慣れない言葉とその言葉を使ってアートの様相を教えます。そして何と言っても世紀を超えて不毛の続く厳しい状況なので最初に導入として処世術をたいてい教えるのです。その際に話を聞く準備のできていない人はレールからそれます。話に乗れた者の中から生き残れる人が一握り現れます。さて問題はそれぞれの学校が行う導入には一癖も二癖もあることです。私の経験上既存の美術館を目標に導入する学校にまともなところは一つもありません。やっていることは全て形骸化して新規性から見ればとっくに腐ったテンプレです。美術館で展示しなければならないのに美術館を目標にしてはならないのです。あ、つまり学校が目標にしている展覧会で画家として道が開けるものはなく、ですがそれを承知の上で逆手に取って、イージーなことを伏せて騙し騙し社会的にはすごいと偽ってプロパガンダし目指して騙しています。その癖を見抜く人は多いですがわからない人はいますからそれでその学校はなりたっています。簡単なところでその筋くらいは見抜けなければその先の希望に繋がる話にはなりません。天才はその先の世界に踏み込み他とは違う軸で行動し反れた者と乗った者の双方を凌駕する存在になります。天才ははるか先を見越して先取りし諸々踏まえて、乗る反る話でなく、より良いアートの世界を自分で設計し作り上げるのです。本書は自分で設計できる天才へ導入を行います。そのために掲げられてしくじり続ける美術館を否定するところから始めなければならないのです。クソミソに言ってすみません。
美術館では誰も表現したい物事をテーマにしていません。あるのは全てテンプレです。社会にルールがあるように絵にもルールがあります。社会にルールがあるため本音を抑えたり、律することは、ストレスや苦痛を顔に出すことはある意味表現ですから日常的に表現を抑制する練習になっていると思います。それは暗黙のうちに絵の世界で自分を抑えることに役立っています。つまり誰も本音で描いてはいないのです。
展示のルールに合わせるのは当然ですがその他は不要です。流行やコンセプトやテーマ、展示の意図などに同調すること、させることは本当に不要です。画家は通過儀礼を経て初めて作品を人目につく場所に出せますが作品はその儀式で間違いなく劣化します。同調圧力という言葉が世の中に浸透していますが最も強い圧力がかかっていると思われて仕方ないのが絵の世界です。
作品は物質として鑑賞するために生まれてくるのではありません。戦国時代の刀が展示していたとしてそこにあるのは骨董としてあるのであって、そこにあるのは物質で単なる質量でしかありません。質量を眺めても殺し合いの場は経験できません。刀は実際に使われていた時のその場の状況や使われていた時に意味をなしているのです。戦や元々の持ち主の手にあった時までが生きる時間です。刀が生きたのは振るった人の手に握られていた時です。絵は描かれていた時です。絵も誰かに伝えるために最も生きる時間があり場所があります。絵は生きる場所が美術館であればいいですがその多くは美術館ではなく制作された場所にあります。そう考えるとそもそも目指す場所が違うのです。生きる場所を間違えれば生き物は死にます。美術館で全ての絵が死ぬと思います。それに対して制作場所では全ての絵は生き生きと生きています。残念ながら美術館的な絵の認識は骨董に始まり骨董に終わっていると思います。だから骨董として価値が与えられてきた経緯がわからなければ既存の美術館の絵は意味不明なのです。それは絵がただの物質として成り下がり骨董の一つとして美術館に完全に支配されている姿です。
作家は通過儀礼により自分の中にある作品の生々しさは抑制され、心は疲弊し、本当に表現したいことは伏せて美術館に受け入れられそうな骨董になりやすい表現をするほかありません。ストレス脆弱性の限界と相談しながら受け入れられそうな作品を描くしかありません。だから画家は面白さや生きがいはとっくにどこかに起き忘れています。でもここ私立新美術館ではそんな馬鹿なことを一切する必要はありません。本当の表現とは相手を惹き、引き寄せるものです。男女が惹き合うように引き寄せるものが表現です。人が生まれ持っている力は真理です。真理の力に従い作品を生み出し、それを余すことなく表現できる場を生み出すことで全く劣化しない本物を展示することができます。本物は強い。画家は描く時絵に惹きつけられています。画家ならその引力を知っている者は多いはずです。ですがそれを知りつつ、それを美術館で表現しないのです。まあこれからは表現してください。
人間には生まれながらに人と繋がり、惹かれる力が備わっています。同様に絵と繋がる力を持っている。その能力を余す所なく引き出すのが新美術館です。どうですこの可能性に気づいた人も多いでしょう?つまり鑑賞の時を間違えなければ作品とは生まれながらにして人を惹きつける力があるのです。骨董としてはさておき描くことです。全ての作品に人を惹く力はあります。それでは困るのが公の美術館です。
新美術館は公の美術館ではありません。個人の美術館ですから特定の人に向けて機能する美術館です。また人の惹かれる力には好みがあります。つまり全ての人に惹かれる必要はなく一握りの人を惹き寄せればそれでいいのです。人生を揺るがすような大地震を絵は起こすことができます。
美術館には個の美を認める機能がありません。美術館は数人を惹きつける作品では採算が取れません。美術館は大勢の全体の美を定義し従わせることしかできません。だから美術館の作品は薄まって薄いのです。うっすいうっすいのに無理やり人と作品をくっつけようと押しつけて政略結婚のように従わせるのが愚かな美術館です。美とはなんでしょうか?それは強烈な引力です。
美とは残念ながら人に教わる概念であり考え方です。私の考える美はそれはきっと生得的な個性として全ての人にあるものです。私はそれを教えたい。生まれながらにしてみんな絵の天才なのです。赤ちゃんでお母さんの容姿を気にする子はいません。容姿を気にするのは美術館のような愚かな価値観を教育された後です。親子が繋がることは美しいと思います。そこに介入することは許されません。個の美は作られたものではありませんし作れるものではありません。親子が惹かれる力は作れるものではありません。それと同じで絵にある惹く力は作れるものではないのです。そもそも気にする必要もありません。美が作れるように錯覚しているのは考え方を先に押し出して固定概念を植え付けた結果、つまり洗脳です。作られたものに価値を与えて儲けようとしている輩が美を企画して企てているにすぎません。
公の美は作られた美です。作られた美には装いがあります。装いには装いかたのルールを作りルールに従う美しさもあるにはあります。作られた美を重んじる美術館はモデルさんのような細い人しか認めないでしょう。少なくとも全ての人の中に美を見出し表現する力はありません。全ての絵にかけがえのない美しさがあるのですがテンプレにしか目が行かないので認識できません。なんと非力で下らないのでしょう。全ての人が美しいように全ての作品に美しさはあるのです。生得的な美しさとは命に結びついてものです。絵は人の命を引き出し親子が弾きあうように人を強力な引力で引きつけ完全に呼応するものです。絵の命を殺すのが美術館です。美術館は絵の全体評価を下す時に大多数の絵の命を殺します。無惨な光景は子供のコンクールを見れば一目瞭然です。選ぶ必要は全くないのに子供の絵を選別し落選を選び出します。落選させられた子供の多くは断末魔の声をあげながら嗚咽しながら涙を流すのです。決まってその子は絵を見限ります。悪いことは何もしていないのに恥辱を受けるわけですから精神衛生上当然の仕打ちです。美術館の愚かな行為のようにテンプレで命の選別をする必要は全くありません。個の美の強さが皆さんに認識される時に美術の世界は一歩前に踏み出せるのです。大昔の絵は王やパトロンから愛され呼応しました。それはそうでしょう。そう言った絵は王には愛されるでしょう。でもそれは個々には全く関係のない絵なのです。王が自分の絵を愛でたようにその絵を愛でろと言われても無理というものです。私の命は私のものです。私の絵は私のものです。その普遍的な価値に踏み込むことは一切してはなりません。それに気づかないことが絵の世界の誤りです。全ての人に絵が見直される時はそう遠くない未来に来ると思います。近い将来人を作品に引き合わせることが自分の家に人を招き入れるように個人的に可能になります。私立新美術館はそれを実験するものです。
新美術館はそのうち日本中の至る所に生まれる美術館です。新美術館は公立ではなく私立です。絵画を排除し汚職に塗れた政治家が絡んでいる(正しい政治家さんもしいたらごめんなさい)公立の美術館ではなく綺麗な心で美しい目の人が作る私立の美術館です。落書きが楽しかったらそれでいいですし、自分の子供の絵が良かったらそれで十分です。そして私はその絵を評価しようと思います。
新美術館は展示の記録を残しません。それは表現、つまり伝えることが目的の美術館だからです。そして私は骨董になりたくありません。何十年後先の未来の人を今の特定の対象のように強烈な引力で惹きつけることは不可能です。既存の美術館は伝えることに対する熱はとても冷めています。だからだめなのです。バカな美術館が熱を入れるのは骨董と歴史的な記録です。それによって画家はバカから認定され人知れず出世するシステムに乗り同時に上手く行けば所蔵している作品の値が上がります。そんな所に全力を傾けているから美術館はつまらないのです。これで観客が集まらないと嘆いているのですからやれやれです。
公で抑制している私を気軽に頭に思い描いて表に出せる。真の私の表現を実現するために自分が設立する私立美術館。公をスタンダードにするのではなく自分や目の前の大事な人をスタンダードにするのです。公ではなく私を表現するために文字や絵や彫刻や映像をどうすればいいか考えればいい美術館。美術館の顔色を伺わなくていい美術館。
私を社会に出すことがとても大切です。隠すことなく私の本当の姿を社会に出すことができれば人との本物の関係を築くことができます。真の私を表に出し社会と関わることで私立の美術館は成立します。大事な時に自分で私の世界に人を呼ぶのです。同調した表現しか許さない美術館は本当の美術館ではありません。トイレットトレーニングから始まる社会への同調は自分をどこかに置いて来させわからなくさせます。私は実はこうなんだということを取り戻しありのままを表現していい美術館。既存の美術館は私を出すことはできません。同調できない人が既存の美術館で展示することは許されません。ポンコツの既存の美術館はラフな絵でなければ認めないとか、暗い絵は認めないとか色々偏っています。そういう美術館の話を聞くたびに私は美術館は頭が腐っていると思います。認識的複雑性の欠落した既存の美術館は誰が決めたかそのような万能なルールはないはずなのにルールを決めて作品を選別します。その様がどう見ても不器用でチープなのです。選別した後は絶大な権力でアートの世界で実力行使し政治家を利用して汚れていきます。作品も心もどんどん濁っていきます。結局金なので考えを曲げることはありません。美術館は美術館の権威に同調しない人は足蹴にします。真っ白なお気に入りの壁を汚す人は汚物として排除します。というか実際は関係を持ちません。美術館は壁の色を見れば分かる通り白い世界なのです。沢山ある絵からお気に入りの絵だけを選ぶ。それが美術館です。美術館が大事にしているのは壁や柱であり、彼らがいやらしい顔で愛でているのは絵ではなく壁なのです。
天才育成計画では私立美術館の作り方を公開していきます。既存の表現力の弱い美術館とは区別するために新の文字を冠した美術館。私立美術館の作品はポンコツ美術評論家が認めた作品でなくて構いません。自分が人生を賭けた大事な物事を表現するのであればそれで十分です。例えば死ぬまで隠していたことを1枚のメモに書き上げてそれを大事な人に見せる。それだけで構いません。例えば学校で散々いじめられて死のうと思う前に文字は書けないので全てを描いた絵を特定の人に見せる。それだけで構いません。そういったことを絶対に止めない美術館です。既存の美術館は多くの表現に対して相殺し合うことを薦め、連帯感を作り上げ、まとめたことを成果とすることで個々の作家ではなく、キュレーターや美術館そのものや、展覧会に目が集まるようにします。私を蔑ろにするので個々に対して負の存在ですが、新美術館は個人に対して正義の存在です。美術館の例えば県展では落選するでしょうが新美術館ではそのような馬鹿なことはありません。例えば誰もがまだ価値に気づいていない作品を展示するなど新美術館では可能です。新美術館はこれまでにない全く新しい形の美術館です。新美術館の新は新しいという意味はもちろんですがこれまで叶わなかった希望を叶える革新という意味の美術館です。
団体に合わせるでも他者性を特別大切な家宝のように重んじるでもなくこれまで実現不可能だった私を主体に展示します。新美術館を知ってしまったら既存の美術館にはもう行けません。国立新美術館のようななんの変化ももたらさないただ建物が新しくなっただけのちゃっちい新ではありません。私の問題においてあちらは無能、こちらは私という個人と向かい合い、私において本当の価値がある本物です。本物の革新、改革の新美術館。あらゆる制約を超える美術館です。これまでのどの美術館とも違う。これまでの美術館を超越しています。これまでは絶対に表現するべきことでも全て伏され表現できなかったことがたくさんありました。誰も積極的にそれを越えようとはしてきませんでした。その難局を越えるために新美術館は設計されます。設立に後もう数年。これまで表現できなかったことが表現可能になる価値のある美術館。表現の弊害になる物事を1つずつ考え尽くし解決していけばなんでも表現できる。表現の可能性が最大限に広がった美術館です。新美術館は表現しなければならない事案が生まれればその都度デザインされます。表現が生まれるたびに全く新しい形で生まれる美術館です。あなたの新美術館はあなたが作ります。既存の美術館は建物が威張りすぎ。本来建物は2の次です。人工的で潔癖な白い壁ではなく色んな色が混ざり合う色んな人が展示していい美術館です。
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絵の課題の前に〜20「絵の行き先」
自分が生まれる前の絵の歴史のことは目の当たりにしていませんので本で読んだことしか知りませんが、人類が始まってからこれまで絵画の歴史は大きく変遷してきました。目の当たりにして実感のわく最も大きな変遷は、画家の時代の終わり、と今に続く凪のような歴史的に描くこと、書くことのない「停滞」です。一方、私の目の当たりにしてきた絵画は全く本には書かれていません。本とはそういうものですし、歴史とはそういうものです。
「停滞」と表現しましたが私は画家として生きている以上、本当は泥の中で画家として生き生き生きてきた訳で、私のような画家は世界中にいるわけですから、本当の絵画の歴史は事実として本当は何も語られていないのです。美術評論家的に書くような出来事が起きていない。美術評論家ファーストの絵の世界は歴史的に書くことがなくなったら描く、書く必要がないものと定義されてしまいました。評論家からすれば停滞でも画家からすれば停滞ではなく正しくは評論家的歴史の記述が全くない「記述の空白」です。歴史的に空白と錯覚されているこの間も私は絵の世界を目の当たりにしてきました。ここで1つ。長い絵の歴史の中で天才は画家の立場を評論家に書かせ少しずつ認めさせてきました。なので誰か興味のある人は空白の画家の立場を美術評論家に認めさせ書かせてみてください。そうすればあなたは一人の立派な天才として歴史に名を残すと思います。現代美術の歴史的な天才とは評論家の目の前にいる人間をいいます。空白、ここを見ずに歴史を語り評価する美術評論家を私はおこがましいと思います。画家は生存するわけです。それを全て亡き者にするのはビルケナウで行われた人の存在を認めない殺戮と同じです。少なくとも画家に対する重大なハラスメントといっていいでしょう。ハラスメントを前提として画家の営みの真実をなんだと思っているのか聞いてみたいものです。画家を性の対象か飯の種としか見ていないからこんな状況になるのです。
もう30年以上も前、私が高校生の時に安井賞展が終わり、それを機に日本でも完全な停滞に入ったと肌で感じます。美術評論家から言わせれば画家は全滅した。少しでも描いている画家を見つければ「辟易する」。「辟易する」は美術評論家の口癖で本気で吐いていますが絵の世界を上っ面でしか見ていません。
一方で画家の世界では美術評論家の教育や命令に背き画家はサバイブし生き残り続けました。その根幹にあるのは美術評論家が「辟易」と称して忌み嫌う「没頭」です。言ってしまえば美術評論家の手も脚も出ない、人の心の奥底にある絵画の本質的な力がそこにあるのです。
気やエネルギーといった底知れない力を置いておいてヴァザルリで画業が終わりだと言われても困ります。画家が土の中に潜ったので世界中で同時に「画家の時代が終わった」と言われました。美術評論家は言うことを聞かない画家を煙たがり、もの派の後のインスタが流行るなか、市場は市場で物故作家ばかり扱っていても困るのでハイリターンがワンチャンある青田狩りのために冬眠中の画家を泥の中から無理やりほじくり返しました。ほじくり出したはいいがどうにもならずに泥だらけのまんまカピカピになり展示させられて片付ける場所がないからそのまま泥に戻すようなことを繰り返しています。湿り気の戻る泥の中はやはり居心地がいいのです。簡単に言えばノープランで展示だけしている格好です。身も心も渇くのは当然です。
さりとて画家からしてみれば、それらの規模は神の掌のように大きく、画家はまるで神の掌で踊らされているようでした。神の意向に素早く従い反応することが、その後の生き残りには必須とされ、美術史を揺るがす新規性が認められない中で画力の実力行使という概念はない状況で、画家の努力が何も通用しない掌では実力でなく従うものの順に出世しました。つまりほとんどが殺される訳で、その様子はやはりまるでビルケナウです。
当然真面目な人や強い人間はそのような理不尽なレールに乗るわけはなく掌から降ります。大多数の人が安心な道に反応しない様子を傍で見てきました。「辟易」という言葉は美術評論家がその様子を見て我が身を心配する心の弱さの表れです。つまり画家が絵を描けば描くほど、それだけで美術評論家は脅威なのです。心配は最大の武器です。「辟易」とは美術評論家が自分の身を守る最大の武器であり、自分の身を脅かす心配なのです。つまり美術評論家を叩きのめす最大の武器は「絵を描くこと」なのです。美術評論家の入り込む余地のない徹底的に描く世界をスポーツや音楽のように作り上げればいいのです。
東京芸大では試すかのように儀式が行われます。あそこもディシプリン、いわゆる躾と称して可愛がりを行い都合の悪い学生を排除するビルケナウです。教授は卒業式後の学部4年生を前にして全員に対して「君名前なんだっけ?」と聞いて周り、一人も名前を覚えていないパフォーマンスを行い、それでも媚びる学生を人選し選民として選びました。その様子はとてもエレガントです。選民は大学の教員のポストにつけられるのですからとってもエレガントです。でもそこに生粋の東京芸大の学生は少なく、たいていが芸大ロンダリングの学生です。生意気な実力のある芸大生を遠ざけ、他大学の、特にFランクの大学生を引き抜いて芸大ロンダリングする権力はとてもエレガントですが、真っ当にみればクリエイティブのかけらもない愚かな行為でした。自分の名前を冠したコンクールを催し、受賞者を選び出世させます。これが安井賞展で出世し公募団体を支配している輩の姿なのですから美術評論家が駆逐するのも納得できるには納得できます。画家と美術評論家はこんなお互い様のいたちごっこを繰り返してきているのです。そんな具体的な事例を挙げると、かいつまんだ話ができないのでここでははしょります。エレガントな神を冒涜してすみません、私はきっと東京芸大の教授とその信派を全員敵に回すでしょう。でももし教授と信派が攻撃してくれたら、私は軽快な音と共に世に轟く実弾を弾くチャンスが得られるのです。
でも未だに絵の世界全体で実は「画家の時代が終わった」と言われているのはほんの中心部だけで、絵の世界の端までは伝播されていません。アートの中心からほんの少し離れた所まで情報が広がっただけで、全く知らない所がほとんどだと感じます。そうなってしまうのは日本の学校教育に問題があるからです。絵画の真実を何一つ学校教育に落とし込んでいない、学校で指導する教員に適切な教育をされていないのが致命的です。絵を教える小学校から高校までの美術の先生のほとんどが知らない。美術高校ですら明後日の指導をしています。これは日本の美術教育の本当に愚かな所です。ちなみに私の思うに教員を養成する教育系の大学の教員のほとんどが何もわかっていません。
このような状況下で知る人ぞ知るその掃討作戦に掃討される側として、歴史に書かれる現実に触れられて画家の好きな選民思想が刺激され少し光栄な気もします。でもさすがに長すぎる停滞(空白)と、ツッコミどころ満載で明らかにおかしい今のやり口、どれもゲリラ的で切ない小さな火花、言っていることとやっていることが全く違っていたり、等々見ていると、どれも完全に着床し花開かないのは見ての通りだし、やり口の隙間から、やり口ではない絵の可能性がいつもチラッと見えているので、可能性から感じている強みを考える限りそろそろ絵は脆弱な火花を跳ね除けて「復権する」と考えています。
そもそも画家の時代が終わったという考えは、画家の立場から出てきたものではありません。画家の都合で始まったわけではないのです。そんな時代は多分もう終わろうとしています。考え方を立ち上げた人たちの気持ちが萎えて放置されているのです。放置されてからずいぶん長い年月が経つのです。凪が続いているのは逆の論理を考え出せていないから。画家の世界は散々弄ばれて陵辱され壊滅し放置されています。ここで書きませんがパワハラ、セクハラが当然の世界でしたから駆逐されて当たり前だと思います。生き残っている画家は大抵どこかに属しています。どこかに属していると自分の立場を守ることが先決で逆の考えで行動はできません。それが凪の原因です。誰もやれないから恩顧を顧みず、裏切り、私が書いています。神の掌から降りたとはいうものの私は東京芸術大学の入学試験の問題が漏洩し毎年のように事前に知っていました。
おそらく今の逆の論理を考え、実行し、一番目立った人が後の世では天才と称されることになるでしょう。それがこれからの絵の行き先です。私はこれからの人たちにそこを指差して示唆しようと思います。
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絵の課題の前に〜21「絵は人に没頭させる」
私は美術予備校の先生を始めて30年経ちます。とうとう近しい人は予備校の先生を辞めました。私は自分の受験で色々苦しんだので受験に対して思うことが沢山あります。残りの人生がそれほど長くはないことを考えると、今私がこの仕事を続けていることは運命のような気がして、受験が正しくなるためにやらなければならないことがある気がします。受験を通じて絵を見てきて、受験の表に出せない問題も沢山知っていますが、受験に限らず絵の世界は裏側を綺麗に隠しているのです。それは表に出さなければならないことではないかと思います。
絵画の最大の問題は信頼できないことだと考えます。
絵を信じられる人が世の中にどれだけいるでしょうか?詭弁ではなく本当に信じられる人はいないと思います。東京芸大の教授でさえ絵を信じていないし、そもそも絵がわかっていない。私の知る限り東京芸大の教員の中に絵を学生に全力で推せる人はいません。それは絵を信頼していないからです。そのような絵を本当に信じて、絵に人生の全てを捧げられる人は絵の天才だと思います。絵を頼れる人が絵に頼られ愛される天才です。
絵に全てを捧げられる人は絵の本質に気づいています。それをなんとか伝えようとするから人生を捧げられるのだと思います。それは損得などとは違います。絵で得をするから絵で生きているのは絵ではなくお金のために生きているのです。
絵の本質の1つは絵を描くことが人を絵に没頭させることです。絵に没頭できる人はつまり全て絵の天才なのです。絵を描く力は誰もが生得的に持っています。その時は誰でも絵を信頼しているのです。社会はその力に気づき生かさなければなりません。社会がより良くなるためにいずれ絵を頼るようになると思います。それほど絵が人に没頭させる力は強力なのです。そんなことは昔から気づいている人はいましたが、ただしそれを世界中に伝播させる道筋はまだ誰も気づいていないと思います。
生まれてからある時まで人は絵に没頭することができます。しかしそれぞれのタイミングで世間やアートの世界は人にその没頭の邪魔をして、間違った教育をしてしまい、絵と訣別させ、絵に対する不信感を抱かせます。そこに、とても難しいですが、単純な齟齬があるのです。
物を壊したりすることは悪いことです。それを悪いと躾けながら、絵の中ではそれをやっていいので区別させ続けさせることが必要です。テーブルの上にオレンジジュースをぶちまけて手でぐちゃぐちゃかき混ぜるのはダメですが、絵の中でそれはやっていいのです。絵の中は感覚的でいいという区別を躾けとはっきり区別することが必要です。絵を描くことと躾を見分けることを社会はずっとできないでいます。社会にそれができないのはアートと絵の世界が正しく理解していないからです。
絵を描き続けることが許されたなら、人間は生得的な感覚を大人になっても表に出し、押し殺すことなく生かし続けることができます。没頭している時はそのゾーンに入っている時です。生得的な衝動を抑制しなくてもよい、絵という場について誰もが正しく理解しなければません。絵の世界でこれが壊れる時はその行為や絵を評価した時です。
生得的な感覚を第一に考えた時、当然ですが絵は上手くなくて構いません。まず、この説明に誰もが失敗しているのです。
子供がもし下手に見えても没頭して描いていたらそのまま描かせてください。大人でも同じです。上手く描く必要など全くありません。評価しないでください。
学校はその絵を評価してしまいます。その点において学校は何もわかっていないと言わざるを得ず間違いなく愚かです。人にはそれぞれ全く違った知見があります。その知見は論理的に言葉で表せるとは限りません。食べ物をどれのどこからいつ食べるか決めるように個々に違います。それを他人と合わせる必要は全くありません。合わせれば気持ち悪いです。評価はそれをさせてしまいます。またテーブルマナーの類は感覚的に生きる人間をコントロールする手段に利用される場合があります。美術評論家や画廊が画家を支配するときの手法もそうですが、それはモードやコードと称される時があります。感覚的な人間をコントロールするには織田信長が武将に茶の湯を学ばせたように、特定の道を学ばせれば、その道のテンプレはその道の初心者のダメ出しをする都合の良い道具になるのです。アートの世界ではモードとコードがそれです。
人の感覚はそれぞれで全く違います。一言で「青」と言っても青に対する感覚や認識や触れてきた経験や感じ方は誰一人同じ人はいないのです。そこに良いも悪いもありません。描きながら想像することは、知見が溢れています。そこではそれが全てですから絵は赴くまま誰でも没頭できるのです。そこに個性があるのです。
個人の個性は工業化された第2次産業革命の時、物が量産されるついでに人間もテンプレ通りの働き方生き方が推奨され失われたと思っています。
知見は言葉になるものばかりではありません。言葉にならない身体感覚や身体記憶、頭に浮かぶイメージも知識だと思います。その知見を分析し一つづつ紐解いていくことが本来必要な評価です。ですがそれができる先生は学校には一人も存在しません。団体の評価のテンプレで評価しますが、それは全く意味をなさない物です。全ての先生がテンプレにはめてしまいます。東京芸大でもそうです。誰にでもある知見から描かれる絵の機能を横槍を刺すように、評価は全て壊してしまいます。その時に誰もが絵に対する不信感を抱き人間が作り上げた粗末な絵の評価や見方、考え方、感じ方に対して疑問を抱くのです。学校は天才の芽を摘んでしまっているのです。これは美術教育の功罪です。ピカソもその子の絵もなんら大差ありません。ピカソの絵を美術館と美術評論家は特別なものとして掲げますが、それは愚かな過ちです。その過ちを正せないことが絵の世界が停滞している原因なのです。
一般的に絵画が理解されていない1番の原因は信用できないからです。世間が抱いている不信感は全て当たっています。不信感を払拭して受け入れられるには見抜かれている偽りを全て正直に話して解決することです。誰も動かないのでここで全ての偽りと解決方法を書いていこうと思います。
例えばピカソやバスキア、クレー、ベンシャーンなどなどラフな作品は誰にでも描ける絵です。そもそも誰にでも描けることを前提に誰もがその効果を理解して描くようになることが本来彼らの活動と作品を評価するに値する評価の意味です。それを美術館と画廊と美術評論家は利益のために神格化し、正しい手続きを踏まず、特別な才能がなければ描けないと偽って広告しています。誰でも描けると言ってしまうと大金を払おうとするお客さんの購買意欲が削がれるからです。ピカソの若い頃の写実的な作品も全て、誰でも相応の練習をすればみんなが描けるようになります。ベルベデーレの模写から始めればいいのです。史実の通り当時はみんなやっていたことですし、これも特別な才能は1つも必要ありません。写実が誰にでも描けることを隠すことによって、世界中の人が描画能力を身につける機会を逸し、画家は競技によって生きていける機会を失いました。そういった齟齬、偽りがたくさんあるのです。
画家として生きてきて、生徒を集めて指導しながら収入を得ている身分としては本当に言いたくないのですが、心配していることとして隠すことができないので書きます。
改めて絵画は信頼されていません。
生徒達にこの状況を伝えなければならないし、認めなければならないし、信頼できるわずかないところに確実に気づいて欲しいので書かなければなりません。
絶対安心安全のように謳っているものの全てが偽りです。
動産としての信頼。ビジネスとしての信頼。教育としての信頼。才能としての信頼。
いずれも信じて頼れる存在ではありません。絵画の世界は人が作っています。間違っても神様でも仏様でもありません。その作っている人から見た絵画はスカスカで利用できるものです。スカスカの空間に美術館を建ててみたり、スカスカの場所に絵を売る市場を作ってみたり。売りながら眺めてみたりしてそれでお金をとってみたり。ずっと見ながら法則が見つかったので評論家してみたり。スカスカの中に作っていく人にとっては絵は信頼というより、どこまで利用できるかわからないけど利益が出る間利用してみようという存在です。
今は利益が出なくなり利用できなくなってきました。スカスカではなく飽和したパンパンの状態です。美術館も画廊もたくさんあります。そしてほとんど赤字です。どうなるかわからないけどとりあえず作ってみようという感覚でお金をバンバン使ってみたのがこれまでです。立ち上げで儲かる道具に利用されました。彼らはランニングには興味がありません。美術館1個建てれば誰が儲かるかわかりますよね。そのために作られています。ランニングしてみて、それで、あれ?これ実際こうだよねとおかしなことがだんだんわかってきました。あれっ?という状態、それが今です。みんなやっとわかってきました。そこで何にも起きず他に興味が移り人が離れています。でもこれは新しい絵が始めやすい状態になってきたなんでもできるタイミングでもあるのです。
絵は見せるためものから描くためのものになります。かならず道が開かれます。
今のところ絵の道は閉ざされています。
信じるか信じないかはあなた次第です。
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絵の課題の前に〜22「シン・エ」
目の前の白い紙を見て何かを感じたり思ったり考えたりすることがあります。「感じる」「思う」「考える」この3つは全く違うものです。残念ながら絵の評価でそこを理解して評価をくだされてるものは世界中どこを探してもありません。ポンコツです。これがどれだけ愚かなことか考えてみてください。言葉の意味がわかるなら誰でもわかります。
白い紙の前で浮かんでくるものは美しく綺麗なものばかりではありません。どちらかと言えば悪いイメージの方が多いはずです。美術の授業では間違いなく美しく綺麗な表現以外は認めません。そこで都合よくコントロールできる人間をアートの内外問わず育てています。学校での図画工作と美術の授業はその程度のものです。大学も同じです。
白い紙を見て何を感じ、考え、思うかは自由です。ただし、それを表に出すことは簡単ではありません。出してはならないバイアスが働いているからです。本来絵は他のメディアに先んじて「自由」であることを世界や世間に表明しています。自由の先駆けであるように世界にブランディングしていると思います。アートも同様です。しかし実際はどうかといえば、かなり乖離していて自由とは程遠い状況です。世間に露出している画家は美術評論家なり画廊なり美術館の顔色を伺った絵しか描いていません。本当の意味で出世しているのはやはり世間という美術館を問題にはしていないと思います。絵やアートは悟りのように言えば出世間、つまり世間から出て出世できていないものです。主にお金の都合を軸に動いています。一方で自由に表現できない状況に反して、伝えなければならないことは噴出しています。絵やアートはさておきS N Sは自由度で言えば遥かに先行しています。例えばジャニーズの性加害です。子供にこれだけの災いが起きているのに黙らせてしまっていたのは社会の問題です。当然アートや絵画の問題でもあります。アートや絵画のしていることはどちらかと言えば子供を黙らせる側です。ジャニーズと同じように褒章を与えてコントロールしています。性加害もあります。ジャニー喜多川にペニスを咥えさせられたりしていたのだとすれば何の壁もなくサッと絵に描けたり、発言できるような開けた社会や絵画、アートの世界でなければなりません。それができないのであれば「自由」などと公言できません。おこがましいです。
自由とは本来正しいとされていることとは別に悪いことも表に出せることを意味します。
紙を目の前にして何かすることも、しないときもあります。そこでやるやらないは別として、感じ、思い、考えることは自由です。そして人の優劣はありません。誰も平等です。才能も関係ありません。優劣があったとしたら、それはまだまだ時代がついてきていないからです。昔は子供なら全否定かもしれませんし、年配の人の意見が絶対だったり、年配の人ならなんでも肯定されているように思います。あとは先生であったり、哲学者や芸術家でなければ全否定されていると思います。今はそのような偏見は減ってきたと思います。今1日も早く世の中が認識できなければならないのは人の感じ方や思いや考え方に優劣はないということだと考えます。
これが絵の話であった場合、目の前のそこで感じたり、思ったり、考えたりしたことの全てを絵は肯定しなければなりません。その全てが人の全てであり、ひとつも劣るものなどありません。仮に優劣を付けたとしたら、それは絵ではなく政治です。絵としてではなく政治的な絵の判断です。絵の政治や絵を利用した政治なので、自分の都合を優先して相手を潰す戦争や権力闘争に他なりません。絵の世界で起きた戦争や権力闘争を絵と称したいのは美術評論家です。そもそも美術評論家に絵はわかりません。彼らが絵にしたいのは歴史的な記述や絵の闘争の歴史です。それは正確には絵ではありません。でもアートの世界で権力闘争に勝ったのは美術評論家です。画家で表に出ているのは美術評論家に近づいて、そばにいて、平伏し、羊のような面持ちで媚びへつらって、絵の思いを捨て、感じ方を捨て、考え方を合わせて逆撫でしないようにした、ほんの一部のものです。これは全て戦争なのです。全てが正しい状況の中で自分が得をするために自分だけが正しいということにして、自分以外の全てを殺したから、「絵画は終わった」という風に見えてしまっただけです。最初から何も終わっていません。戦争に従いなどしません。戦争は愚かな人間のすることです。戦争は人を人と想わず屠殺しますが同じようなことが絵の世界でも起きていたにすぎません。最初から何も終わっていませんし、変わっていません。
仮にそこに何も描かなかったとしても肯定されるべきです。そこと向かい合うことで人の中にある可能性の源泉は開かれます。生産性のないものを肯定することは難しいかもしれませんが、人間は基本やらない判断がベースでほんのわずかな物事に限って生産します。ものを作る以上に大切なことが世の中にはあります。何でもかんでもやればいいと言うものではない。暴虐無人ではダメです。可能性がないように誤解されている絵画の源泉もまた人類の可能性と共に開くのです。
絵画の可能性はこれからさらに開かれていきます。絵画は終わったなどと言われていますが違います。絵画は終わっていません。可能性は一つには細かな差異を丁寧に見極めて認めていくことから見えてきます。
白い紙の前で起きる1つひとつの現象を丁寧に読み取り、分析して、言葉に置き換えて、カテゴライズしていく。その中から今までにない発見、進歩があれば評価し、場合によって賞賛し賞を与えてもいいでしょう。しかし現時点で与えられる評価は発見や進歩といった中身はなく形式だけが一人歩きしています。そういったことに陥っているのは丁寧に評価すると都合が悪いからです。大抵の評価は最大限に利益が得られるにはどれにどのように評価を与えればいいか?と言う論理で下されています。評価されている作品がなぜ評価されたのかを客観的に考える際にそのように見方を合わせればスルスルとどのように考え方を積み上げたかが見えてきます。損得が第一で、信念に沿って評価していることも稀にありますがとても珍しいです。信念に沿っていれば正しい評価ができているかといえばそうではありませんが損得よりは少しマシです。
発見でもなんでもないものを評価し受賞させている。評価しなければならないものに目をくれる気は全くない。全ては自分の利益のために評価や賞は与えられるのです。評価と賞のほとんど全ては実態がないので絵の評価や価値や賞は得体のしれないものになっています。得体の知れないものになっているのは実体があるにも関わらず無視して得体の知れないものにしたからです。価値のないものに価値を与えられるようにすれば都合いい。名前が売れている画家の作品は適当に描いても1000万くらいにはなります。名前のある例えば千利休は露店で適当に買ったものを高額で大名に買わせました。それによって未だに画廊や美術館、マーケット、国は金欠から免れています。コンクールは目まぐるしい評価とは無縁の特に秀でた作品がなくてもどれかに賞を出さなければならないので賞を出します。それで面子は保たれます。これらは作品を適当な考え方で否定し、その反対の考え方が優れて見えるようにして、優れて見えるようにする手法で成り立ちます。つまり否定から始めなければ成り立たないやり方です。多くはこれです。そもそも否定は必要ありません。全て肯定できます。さらにおかしい絵の世界は大きければ大きいほど絵はいいと決めていますが、小さな絵に悪い絵はありません、そもそも大きさで絵は決まりません。全ての大きさに意味はありますがその差異を認め、そこにある可能性を引き出していかなければなりません。そこに源泉はあります。現状マーケットでは絵は大きさで値段が決まります。得体が知れない訳です。
絵の指導では白い紙の前ですることをどう考えるかがとても重要です。決して大きさがどうとお茶を濁してはなりません。そこで起きていることの全てに無限の可能性があります。そこを認めず否定しながら都合のいい作品を選別してしまっているから絵は停滞しているのです。媚びへつらわなければ出世はあり得ない世界です。残念ながら多くの人がそこで肯定は無駄な努力と諦め、すぐに否定に参加してしまいます。いじめが生まれ、なくならない社会の心理と同じです。程度が低い。そうではないのです。いじめの対象として相応しい人はいません。否定やいじめを恥るべきです。
それをどう見て、考えるかで可能性は無限にあります。少なくともやり続ければ必ず新しい色と形は現れます。見れば見るほど新しいものが見えてきます。見えれば見るほど発見があるのです。否定が気になる評価に困った先人は、テンプレを作りました。それは安心安全を手に入れた一方で画家から探り続ける姿勢を奪い新しい絵画の可能性を潰したのです。
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絵の課題の前に〜23「絵の世界は新しい発見に満ち溢れています」
絵の世界は発見の宝庫です。新しい発見があるということは成功のチャンスに溢れているといえます。様々な人間の思惑によって絵の世界は手付かずのまま置いておかれました。そんな中で絵の世界の常識は「絵はやり尽くされた」です。ほとんどの人がそれを受け入れて信じました。でも思惑を透かしてみて、絵を見続けていくと星の数ほどの新しい発見が見つかるではないですか。このような状況に陥ったのはその言葉が頻発された当時の絵の世界はまだまだ物事や絵の見方や考え方が少なく狭かったからです。やがて絵の世界はアートの世界に飲み込まれ絵という枠組みは崩れ、絵の世界は忘れられました。その忘れられた、今も忘れられ続けいている空白の時間と空間の中で人知れず枠のなくなった絵の概念は残り、絵の物事の見方や考え方は進化し続けていました。一昔前であればこの進化は風化していたと思います。でも今ではえらいものでsnsがあるので容易に発信することができ風化することはありません。また、今までなら絵の世界を管理する支配者「美術評論家」や「大学教授」、「コンクールの審査員」などが認め、彼らの利益を担保しなければ新しい発見を外に出すことは許されませんでした。これもsnsのお陰で支配者をスルーして外に発信することができます。そのため私はここに様々な発見を書こうと思います。たまたまこれを読んだ画家や絵の世界で仕事をしている人たちはここに書かれたことで美味しいと思うことがあれば、自分の発見ということにして世の中に出していくといいと思います。そうすれば発見は表に出ます、出した人は成功し出世できると思います。私の思惑は1つ、このように絵の世界は成功に満ち溢れているということを知って、いつか絵の世界を見直して欲しいのです。いずれ宝の山にみんなが群がると思います。そうすれば自分の中にいる25歳の時の自分が納得してくれると思います。あの言葉が常識だった頃の当時の私は世の中が絵に関心のある状況であれば歴史に名を残し世界的に有名になって活躍していたはずです。残念ながらいまだに絵はまともに発表できる信頼できる場所が1つもない。だからその場を作るのが私のやらなければならないことです。まずは絵に対する関心を高めsnsから次第に伝播させたいと思います。
少し宣伝じみたことをすると熊谷美術研究所では最先端の物の見方、考え方、技法を教えています。教え方も最先端です。美術予備校では講評をするのが常識ですがクマビでは講評は必要ないのでしません。生徒も全く必要ないことは理解できています。実はクマビの外の世界とクマビでは相当な時差があるのです。クマビの生徒は何十年かしたら時差がわかります。私は外の世界を見ると時差ボケを起こすのでギャップが辛いです。
とはいえ絵で真の成功を収めるのは本当に難しいです。誰がみてもカッコ悪い成功ばかり。真似したいとは思えません。理想を追求し、あまりこだわりすぎると絵は描けなくなるので誰でもどこかで妥協するのです。でも実際は徹底的にこだわれるならそうした方がいいです。
私の生徒なら心が折れないのであれば諦めずこだわり続けるように指導します。でもそんな指導は誰かれ構わずではありません。その気が本当にある生徒だけです。絵の世界は可能性に満ちているのでそれを指導しています。絵がわかる人ほど具体的にはっきりと絵の成功の形が見えます。そして明確に実行プランが見えます。それで実行します。日本にいろんな絵の学校がありますが絵の成功の形を指導できるところは多分クマビ以外にはありません。おこがましいようですがやはりそうです。
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絵の課題の前に〜24「絵の成功」
誰でも少なからず理想を追っているので誰もが前に進むのが難しいのが絵の世界です。カッコ悪いのは、そんな絵の世界で理想を追求することを止めて、難しい世界だからこそ割り切って出世や金儲けに走れば簡単に成功できる世界が絵の世界です。それが透けて見えるのがカッコ悪い成功です。
真の成功とは誰もが認める実力で勝ち取った成功です。苦労などが透けて見えます。理想を追求してやり切った姿は本当にカッコ良いものです。
誰もが認める実力の「誰もが」とはある程度絵がわかる人たちが評価した実力です。そこには一般の人もいます。逆に言えば誰でもわかる絵の成功の話です。
本当に実力のある画家がその力の通りに評価されないのが絵の世界です。そして絵の実力が本当にわかる人はあまりいません。
わかりづらい絵の世界では、真の成功に見せかけたカッコ悪い成功をした画家が沢山います。それをわかる人はわかります。私がこんな他人事にこだわるのは私の生徒に本物を目指す生徒が出てきた時のためです。
絵の世界の成功はほとんどカッコ悪いものです。絵の世界にはカッコ悪い成功をした画家がたくさんいるのです。絵の世界で認められている評価のほとんどは政治的な理由で評価されていたり、市場の絵を販売しなければならない理由で評価されていたり、大学教授などは適任者がいない中で評価されているものです。いずれも「絵なんか描いてもしょうがない」という状況を飛び越えて新しい絵の世界を更新して評価されているものではありません。程遠いということにカッコ悪さが見えてきます。
さらに天才はこれから現れます。それがここで書く一つの成功です。絵の世界の更新の仕方を変える画家です。今まで通り新しい主義やコンセプトや、技法を生み出す可能性はあります。でもそれは本当に重箱の隅をさらにつつくというより、スカンプリングを続けてほじくり倒すような行為です。ほじくって出てくるのは出がらしですから本当に世界で数人の一握りの人が出てくる可能性しかないでしょう。「絵なんか描いてもしょうがない」とされている認識の通りです。一方で絵の世界はこの新しさを求めて評価していく方針を変えられないでいます。これをシフトチェンジさせる画家が見方をぐるりと変えて、少し先の未来の時代の要請に応える真の成功を手にするカッコイイ画家です。そしてその画家はそれを支援するパトロンをも歴史に名を残すでしょう。