クマビの図画工作への取組み
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図画工作は日本人にとってはアートの入り口
日本で図画工作は日本人が最初にアートや美術に触れるアートや美術にとって日本人との最初の出会いとなる「大事な入り口」です。
そこで絵の具の面白さに触れたり、絵の具が嫌いになったりします。
初めて絵の具に触れる時、その時は誰しも五感で絵の具に触れているはずです。
それから自然に絵が好きになったり、自然に嫌いになったりします。 -
処世術
絵の具と出会ってから私のようにアートや美術の世界で生きていく人間が出てきます。
私たちのようなアートの世界の人間は自然に生きていけることが理想です。
本当の天才的なアーティストは「自然」に生きています。
しかし、私の知る知り合いの中にはこの世界で自然に生きていると言えるような「自由にのびのび」して生きていける人はいません。
アートの世界に入ると最初に生きていくことができないという話を聞かされます。
そこで飛びつくのがそこで教わる処世術です。
それでいつしか「手」だけで物を考えるようになったり、「頭」だけで物を考えるようになったりします。
五感から離れてしまったアートの世界の中の人は、アートの世界に入らなかった自然のままでいる人から見るときっと「不可解」に見えるのだろうと思います。
「皆感覚から離れてしまう」そのようになってしまうのは処世術に手を伸ばしたその時に生き残りの手法に頭が染まってしまい、考え方がまるで変わってしまうからです。
「頭」の世界で生きるアーティストは新しいアートの中で新たなアートの形を生み出そうとします。 でもそれはすでに普通に絵の具を好きになったり、嫌いになったりした時の物とは全くの別の物になっているのです。
「頭」のアーティストはよく「脳神経」と言う言い方をします。
「脳神経」とは「No神経」と言う意味です。
つまり感覚を使わず頭で論理的に考える・・。
これは美術史や芸術学、マーケットや批評、翻訳などの状況を考えると正解です。
しかしそれが裏づけているのは感覚から完全に乖離しているということです。
このことが如実に表しているのは「脳神経的」にアートで仕事をしている者の全てに感覚の世界が見えていないということです。
つまり現状では感覚の世界にいる人間にとっては感覚の世界こそ無限の可能性があり、未開発の荒野が広がっているのです。 言葉を使わない動物の中にも世界がある。
感覚を使わず頭で論理的に考える・・。
感覚で楽しむということではなく。
沢山描かないと受験に合格しない・・とか、
美術史を学び歴史が一歩前に進める「考え方」を発明しなければ評価されないとか・・。
これは実はアートではなく只のゲームです。
食べ物で考えると現状がわかりやすいような気がします。
皆が食べたことのない料理を生み出すゲームにはまってしまい、毎回の食事を楽しむことを忘れてしまった。
少なくとも今のアートが気づかなければならないことは、食べ物は皆楽しんで食べています。 その傍らで皆を驚かせるために一生懸命皆の食べたことのない料理を開発することはとても意味のあるものです。 しかし、絵は、皆が描いたり、飾ったりしていません。 その傍らで未だに開発ばかりに精を出すことが如何に不毛なことか・・。
かつては匂いや手触りや音にも敏感に反応していたのに、世の中の常識に則り「手」か「頭」ばかりになってしまいます。
絵には匂いもあったり、手触りもあったりします。
鑑賞するばかりではなく、描くこともあります。
アーティストが皆「手」か「頭」ばかりになってしまいます。
そうなってしまうのはアートの世界で生きていこうとするからです。
それはアートの世界で生きない人には関係のないこと。
そしてアーティストが中々浮かばれないのは皆がアートから離れてすぎているからです。
いつまでも人が自然でいられるように。
そのような理念がそもそものアートの中にはあるように思います。
それが壊れてしまうのは何故か?よく考えていかなければならないと思います。
新しいアートを生み出す。その人たちの作品に皆が無理に触れなくてもいいのでは?
アートの世界で食べていくことを基準に物事を見てしまうとアートの世界は歪んでしまいます。
つまり、アートで食べていくことを考えない所に正解はあるのではないかと思います。
そうすることで世の中の皆がアートに触れ合えると思います。
今のアートの世界が皆に見せているアートは皆に馴染まない物、者ばかりです。
幼児期のアートの体験が、多くの日本人のアートの認識の「基本」を作ります。
日本人の認識の多くはこの時の体験を土台として大人になってからのアートとの関わりを決定しています。
残念ながら、日本人の中でアートとの関わりが深い方はわずかです。人が自然に触れて描いた絵を部屋に飾る人は少ない。
部屋に絵を飾っている人の絵は有名な人の絵とか輝かしい賞を受賞した人の絵ばかり。
本当に自然に絵と感性で触れ合えているのなら有名である必要も賞も全く関係ないはずです。自分が感じる絵を選んでそれを飾る。
そのようなことが日本に殆どのないことが残念で仕方がないです。
日本がこのような状況に陥るのは感性でアートに入るのではなく、頭で入るからです。
つまり、早すぎる褒賞の持ち出しによって感覚の喪失が起こります。 こうしなければこうならない。 という否定から入ります。 賞が取れない。 食べていけない・・。 そうではありません。 感覚を十二分に育んで、十分な作品ができて、その後に褒賞があるのです。 日本人はアートに十分に触れ合って馴染む前に褒賞を与えてしまうから感覚の喪失が起こるのです。
感覚の喪失が起きていなければ、綺麗な色や形を楽しみ、自然に絵を描いて、家に飾ります。
家に沢山の絵を飾って足りなければ、素敵な絵を買って飾ります。
日本人が絵を描いたり、飾らないのは、感性でポジティブに感じていないからです。
頭でこうでなければならないのかな〜と悩んで否定から入るので絵を飾らないのです。 つまり、楽しんでいないのでつまらない。つまらないのですから飾らないのは当然です。
これじゃ絵なんか売れないですよね・・。
海外の感性豊かな国のように皆が描いた絵を沢山飾ってその中に少し名画が混ざっている。
日本は感性で飾っているのではなく飾らされているように思います。
大金持ちが金の使い方に困って苦し紛れに高額な絵画を買って慣れない鑑賞をする。
そういったことではないのです。 -
幼児期のアートの体験が、多くの日本人のアートの認識の「基本」を作ります。
幼児期のアートの体験が、多くの日本人のアートの認識の「基本」を作ります。
日本人の認識の多くはこの時の体験を土台として大人になってからのアートとの関わりを決定しています。
子供の頃に褒賞を得られなかった人の多くはアートと深く関わることはありません。
殆どの日本人が「アートの劣等感難民」になります。
そして多くの日本人は褒賞を得ていない絵には目もくれません。
このことは日本のアートが本当に考えなければならない問題です。
褒賞にしか目が行かないのは、褒賞には本当の意味があるけれども、その意味自体も誰も具体的に理解できていないことを意味します。
アートの世界に生きる人間として私はご褒美がなければ素通りされてしまうなんてなんとも寂しいことだな・・と思います。 -
アートに触れる機会
皆にとって最も大事なことは「アートに触れる機会がある」ことです。
アートはその幼児期の機会にどのように触れさせるかがとても大事なことです。
最初が肝心、そこではまだまだ極力褒賞に触れさせない方がいい。 褒賞に触れさせるのは本質が十分に理解できた何十年も先の話でいいと思います。
日本の幼児教育は実技主体です。 実技も多くの問題を抱えていながら、「鑑賞」「脳神経的」な面が欠落しています。 つまり、大人や子供、アーティストの作品を鑑賞させながら、作品の考え方も教えるべきなのです。 -
アートの世界に向いた気質の人「日本のアートの財産」
最初にアートに触れる機会を設ける。 日本の図画工作はその役割は果たしていると考えます。
私は昔図画工作によって、アートに触れ、幸運にもこの世界に足を踏み入れることができた人間です。 但し私が生きてこれたのは処世術を人並み以上に駆使してきたからです。 これは本来アートの世界に生きる人の気質ではなく、別の、私でいうと低所得者層に生まれて、生き抜く知恵がこびりついた人間の気質です。 そのためあまり褒められたものではありません。 本来アートの世界に向いた気質の人は処世術などには目もくれない人です。
そのため、私の周りで殆どの人がアートの世界に残らずに消えて行きました。
消えていった彼らを「行方不明」と称してほくそ笑む輩はいますが、私は違うと思います。 本来は消えていった彼らが正解なのです。
私は彼らを再び呼び起こしたい。
何故ならば「彼らこそがアートの豊かさを知っている日本のアートの財産」だからです。
日本のアートが育てた子供の正解例は処世術で生き残った人間ではありません。処世術を使わない彼らなのです。 アートの世界では逆と考えられている人が多いのが残念です。 念のため言っておきますが「才能」ではありません。 殆ど皆処世術です。
そのためにはアートの世界の人間の眼に本当に大切なものが見えるようにしなければならないと思います。
処世術ではなく、忖度ではなく、金儲けでもなく、出世でもない。
私のようなアートや美術の世界の人間は図画工作のお陰で今があると言えると思います。
そういった意味では先人たちや皆さんに感謝の気持ちは尽きません。
でも残念ながら私は褒賞で興味を持ち処世術でこれまで生き抜いてきた人間です。
私はよく物思いにふけりながら、未来の図画工作をイメージします。
そして当面の図画工作がどのようにあるべきか考えます。
素晴らしいアートや美術ですが、発育途中のそれはとても弱く脆弱です。 まだまだ時代と呼応しながらより良い姿形へと成長し続けることが必要です。
ずっと関わっている私が言うのも何ですがやはりアートと美術は素晴らしいものです。
様々なご指摘はありますが、やはりこの素晴らしさは世界から無くなることはありません。
現代のアート?と美術?は皆さんの意識の中では希薄です。
そのことは多くの問題を示唆していると私は思っています。
私は皆さんに伝えるべきアートと美術の素晴らしさを知っています。
だからその良さを皆に伝えなければならない。
アートの良さは確かにあるものです。 そして確かな手応えで掴めるもの。だから具体的な説明もできるものです。
今の所、残念ながらその素晴らしさを皆さんにお伺いしても、一般の皆さんから私たちに具体的な答えを返して頂くことができません。 -
私の答え
皆さんがアートと美術の素晴らしさをスッと語れないのは「馴染みがない」からです。
そして馴染めないのは「難しい」からだと考えます。
「難しい」と感じさせてしまう今の状況には、私のようなアートや美術の世界の人間で、しかも長年生かしてもらっている人間が、皆さんにわかるように具体的に説明する責任があると思うのです。
最初にお答えしておくと、
「皆さんが五感で感じたそのままでいい」
ということが私の皆さんへの答えです。
でもそれを「難しい」にさせているのが「褒賞」だと思います。
「褒賞」は褒賞を受けたお子さんや親御さんにとっては「才能の証明」なのかもしれません。 でも、申し訳ないのですが、私から見て褒賞を得ているお子さんとそうでないお子さんの作品の素晴らしさはどれも全く変わらないものです。
それについては具体的に詳細な批評を添えて証明しようと思っています。
コンクールの受賞の概念は簡単に壊れる脆いものです。 展覧会に出品された全ての作品を正しく正当に評価することで既存のコンクールの評価の全ては脆く崩れ去ります。
私にはどうしても褒賞が作品の本当の素晴らしさを皆に見えなくさせてしまっているようにしか見えません。 褒賞を得られなかった子や親御さんは胸を貼って作品の素晴らしさを人に見せたり、自分で楽しんだりしづらくなります。 それはとても良くないことです。
褒賞を得たお子さんと親御さんは「才能が認められた」と考えてしまいます。 でも褒賞を与えている全ての関係者に問いたい。 「本当ですか?」
私には全くそのように見えないのです。 そして褒賞を与えた方には申し訳ないのですが、その評価が付けた作品の優劣の全てを覆す正当な評価の仕方を私は持っています。 嫌、正確には私以外にもできる方は大勢いますよね、でもそれをしないのは「忖度」ではないですか? -
私の理念
偉そうなことを言って申し訳ないと思います。
偉そうな顔をしている暇があったら一人でも多くの人に素晴らしさを伝えないと・・。
それが私の図画工作の指導の奥底にすごく強くある理念です。
私がやらなければならないのはクマビを通じて皆さんにアートと美術がわかるように指導させて頂くことです。
最初にもお話ししたように、日本で図画工作はアートや美術に最初に触れる大事な入り口です。 その入り口で皆さんにどのようにアプローチするべきかは日本のアートの生命線にかかるとても重要なポイントだと考えています。
今のアートの致命的な問題は「アートの劣等感難民」を生み出していることです。
この状況を一変させる手立ては、褒賞を与える暇があったら、全ての作品の素晴らしさを詳細に論じることです。 それによって多くの人が絵の見方、考え方、感じ方を知ることができます。 -
チップスの公開
図画工作は日本人がアートに最初に触れる大事な入り口です。
そのためクマビはこれまでそのことについてじっと考えてきました。
生徒の募集は少し控えてクマビが取るべき姿勢と皆さんに向けて必要な具体的なアプローチの仕方を考えています。
考えは天才育成計画という形になりました。
入り口に向けたクマビのアプローチは「自由にのびのび」と「上手」の明確な住み分けを行うことです。 それとそれぞれについて皆さんに十分なご理解を頂けるように1つづつ丁寧にチップスを書き上げることです。
チップスはクマビのHPで全て公開します。