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天才育成計画てんいく「洗脳ハザード」

美術の世界に長年いると、たまに危ないな~と感じる人に会うことがあります。
危ないな~と思う人は老若男女問いません。
心配になり、どうにかしてあげないと、と思います。

心配な人には今回のようなお話をします。
話の後は殆どの人がしらけて私から離れていきます。
でもそれで良かった。と思います。
面接、お電話、HPの問い合わせで昨年は年間50件程度ですか・・・。
受験生が半分くらいいますので黙って受け入れれば儲けにすると・・・。
経済的損失はかなりです。
私はケチな人間なのでかなり後悔しています。

私はケチで小さな人間ですが、でも、表情が変わって良かったと心の底から思えます。
それでも、お金が入ってこないと少し後悔しますが、正しい道を歩いていけば必ずお金は後からついてくると信じて自分に言い聞かせています。
なので半分は稼ぐために自分が正しいと考える道を歩いています。

心配そうな人はたいてい色んな問題を抱えています。
経済的、心、身体・・。
これらは全て美術の外で生じた問題です。
でも、今回の問題は少し違います。
美術が招いた問題のお話です。
これを解決しなければ美術はどんどん社会から見放されていく。
もうすでに尻尾がバレて人は離れています。
美術の中の人間なら誰でも気づいているはずです。

今回のお話は簡単にいうと、美術の中にある洗脳の問題です。


美術の中には闇があります。
深い、とても深い暗闇です。

洗脳もその一つ。

この深い暗闇を作ったのは美術の世界の人。そして問題にもともとあったのは作った人の善意です。
「天才」「才能」というあいまいな言葉が生み出してしまった誤解。
もしくは悪用。

闇の中にもほんのわずかな光があります。
その光の当たる場所にいる人の一部が残念ながら洗脳している人間です。
闇の中にいる人の中には洗脳されて美術の外の世界から闇にひきこまれた人が沢山います。
まず、言っておきます。
洗脳された人が光の当たる場に行けることはありません。
それは洗脳した人が自分の利益のために作品の内容から場合によって生活まで蹂躙して支配しコントロールしているからです。

「天才」「才能」「内閣総理大臣賞」「県知事賞」「市長賞」などの素敵な言葉を並べながら美術の最下層に人の流れを作り、
沢山の人が闇の中に手をひかれてきますが、素敵な言葉で手をひかれた人が光の当たる場に来ることはありません。

手をひかれた人が光の当たる場に来れないのは本質がまるで違うからです。
光の当たる場にいる人は冷静に美術を見据えて人と関わりながら進んできました。
そこには過剰な金銭のやり取りや輝かしい賞のやりとりはありません。
地味です。
地道に落ち着いて制作して評価されて結果として後から金銭や場合によって賞がもらえる。
その逆は注意してください。
先に賞があって気持ちが高揚し、お祭りが好きで美術の世界へ・・その後地味なことを受け入れられない。
そして失敗するという人があまりに多すぎる。
そういった方々はそのコレクティブの収益になったにすぎません。


光の中にいる人の多くは賞をもっていません。
言ってしまえば実は賞は必要ないのです。
光の中の人の全員が興味もありません。

賞は闇の中にいる人の興味を引くための道具でしかありません。
そして、そのような賞は受賞をしても光の側に行けることはないのです。
そもそも本質が違うのですから。

本質とは、賞から美術への興味関心が始まるのではなく、美術の問題と本気で向かい合ったり、表現しなければならないことと本気で向かい合うことです。
本気で美術と向かい合い美術を本質的に、冷静に見れる人に光は当たります。
そこに金銭や輝かしい賞は本来不要です。
賞が切欠になり、やがて美術の本質に興味をもち、本気で向かい合えるようになるのは悪くはありません。
でも、そこにはすでに最初に味わった単なる気持ちの高揚感はすでにないのです。
なので、光の中に瞳孔が開いたままの人は一人もいません。

善意が招いた闇は表面では正義であるがゆえにとても深い深刻な闇を生んでしまいました。

表向きは正義であるがゆえに洗脳が洗脳と考えられることはありません。
教育や指導と認識されることが一般的です。


深い暗闇は美学によって守られています。
問題として社会に扱われることはありません。
ひとたび闇が表に出たとすれば、闇は消毒されたかの用に一瞬で消滅します。

責任の痕跡を残すのは不味いので、気づいた人は皆さっと手を放します。
拡散しないように、そして自分に感染しないように。

放たれた問題は気化するかのように消滅します。
あまりも見事に気化するので、多分誰も気づきません。

消滅する問題は皆が正しいと考えていたことです。
なので悪。
という認識が完全にありません。
悪という認識に切り替わった瞬間に全ての人がその行為を辞めます。

これから美術の世界では正しいと考えられてきたことの多くが悪という認識に変わります。
正と負が綺麗に入れ替わる。


美術の世界に洗脳はあります。
でも、美術の世界に関わる全ての人に洗脳という認識はありません。
ただ、具体的に例をあげれば誰もがこれは洗脳だ。
と認識することができます。

たまに私の眼の前に現れる人。

洗脳を受けた人についてお話します。
洗脳を受けた人は、瞳孔が開き、美術を敬い、敬う美術に自分を重ね合わせています。

実態を知らない美術というものは現実を超越した神のような存在と想像して、崇拝し、そこに自分を重ね合わせて、心頭することで、
上手く重なった自分を俯瞰して確認できたら、その自分を崇め、自分自身を超越した存在だと認識した時点で、
目の前にある全ての不安やストレスから解放され、気持ちは最高潮に高揚します。


さて、このような最高潮に揚がる高揚は美術の本質とはかけ離れているものです。
皆が盛り上がること自体はけっして悪いことではない。
でも美術はお祭り騒ぎではないのです。
お祭り騒ぎは必要ない。
少なくとも一番の目的になる話ではない。

気持ちが最高潮に高揚する。
このような状態に入ると人間は現実が見えなくなります。
これが生徒の場合、指導の声は全く心に届きません。

受験生であればFランクならいざしらず、難関校の受験は成功することはありません。
社会人であれば、洗脳した人間の作ったコレクティブの外で通用する本当の実力はつきません。

趣味でおさまるならそれでいいかもしれません。
ただ、美術の世界に本気で飛び込むなら大問題です。

洗脳にかかりながらも、薄々どこかで気づいていて、どこかで冷静さを保っている場合は大事にはいたりません。

後、気づいても、例えば学生であれば美術部の間楽しめればそれでいいという認識があれば自由にのびのびさせてあげることが正解だと思います。


私が問題だと考えるのは、
洗脳があること自体。
それとそこから深みにはまる人がいて洗脳ハザードにはまってしまう人がいることです。
私のいる芸大美大受験の世界だと、作品はまったく変わらないまま、何浪もしてしまう。

美術の世界には人を洗脳する場が沢山あります。
洗脳の場の多くはコンクールです。

コンクールで洗脳にかかりやすいタイプの人は美術以外の物事が上手くいかずに困っている人が多いです。
経済的に余裕のない方もおられますし、中には芸能人のような裕福な方もおられます。

洗脳にかからないタイプの人は美術の本質をとらえてコンクールへの出品や結果は二の次と考えている人です。
何か表現したいことがあって、しっかりと表現したいことと向かい合って、落ち着いてずっと見据えて、見えてきたことを何かの表現方法を使って表現する。
その表現方法は何も油絵などのいつもの方法に限ったものではありません。
その時の都合に合わせて適当な方法で表現するべきです。


洗脳にかかるタイプの人は人生に焦っている人です。
焦っている人を勧誘するとひっかかりやすいので、ひっかける方法を考えて洗脳します。
なので「焦っている人をひっかける方法でひっかかる人」が洗脳にかかるタイプの人です。

ひっかける方法は、「賞を与えること」「先生」と呼ぶこと。
後は、「才能がある」「個性がある」「天才」といいタイミングで声掛けすることです。
ひっかけた後はグループであればコレクティブで共有するワードを作り、ワードを積極的にやまびこすることを推奨します。
コンビニだと「いらっしゃいませ」美術の世界だと「ご活躍」です。
「ご活躍」のやまびこが上手いグループのそばにいると10秒に一度くらいのペースで「ご活躍」という言葉を聞くことが出来ます。
試しに一度1分間で何回聞けるか数えてみたことがありますが、なんと20回でした。
若い女性でそのグループに入ったばかりのようで一生懸命「ご活躍」と言われていました。
なので言われていることを文にするとまるで意味がないことがわかります。
でも、その方の頑張りでその場の空気は成立していました。
でも、完全に言葉を支配し、脳を「ご活躍」という言葉で洗浄してしまった典型的な洗脳です。


洗脳にひっかかったかどうかの判断は、わけもわからずにコレクティブや団体に所属すること。
又は学校に入学することです。

具体的な被害は金額に関わらずお金を納めること。
想像や思考錯誤する頭の自由を奪われること。
作品のスタイルや描き方を制限されることです。

よく考えてみて下さい。
美術の作品を作るために、想像や思考やスタイルや描き方を制限する必要は一切ないですよね?


洗脳にひっかかっていない場合は、
冷静に暇つぶしのために絵を描いている。か、
表現したいことが明確にある場合。
表現の自由が担保されている場合です。

完全に洗脳状態に入ってしまっている人は絶えず瞳孔が開いたまま。
具体的に何かを表現したいという目的はない。


最後に、美術の世界では実は天才、才能という言葉を使う必要はありません。
もっと具体的でわかりやすい言葉を使うことが大切です。
言葉を知らない人が「天才」「個性」「才能」極めつけは「ご活躍」を使います。
美術の世界はよくわからない時は天才か才能と言っておけば会話が成立してしまうのです。
それが洗脳の隙間を生みます。


天才と才能、ご活躍という言葉でその場をおさめるのは趣味の世界では問題ありません。
ただし、多額の金銭や人の人生がかかる時に天才と才能という言葉でわかったような感じにしてしまうことは絶対にしてはいけません。

美術にはもともと人の瞳孔を開かせる力があります。
本来のその力が今の時代では上手く機能しておらず、悪用されています。

年少さんくらいまでの幼児は瞳孔が開いた状態で図画工作をします。
幼児の自由にのびのび、年中さんまでの間に思う存分やらせる。
脳が出来上がる年中さん以降は高度な技芸を見せながら真似て学ばせる。
このような美術の指導が実際に実践できるとしたら経済的にかなりの余裕がある裕福な家庭の子供です。

仮に、現在の美術教育が裕福なご家庭の美術教育を真似て作られているのだとしたら、教えたという結果は残るもののその効果のほどはあまり期待できるようなしろものではありません。 でも学校教育として子供たちに不十分ながらも図画工作を実践しなければならない。
ここに洗脳の元があると私は考えています。
そしてこの洗脳ハザードを私は壊します。


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