モラトリアムハザード2
権力者が権力を保持し続けることができるのは情報を遮断しているからです。
そして見えない部分を「才能」「天才」という虚構の言葉でごまかしています。何かおかしいという疑念が湧いても、「才能」というよくわからない言葉で疑念は綺麗に浄化されてしまう。
てんいくで行う私の仕事は私の知りうる隠蔽している情報の全てをインターネットを通じて公開すること。
そして、私がある程度日陰の世界に陽が当たるようにしたことが切欠となって、日陰の世界の風通しが良くなり、皆んなの知り得る情報の全てがインターネット上で掴めるようにすることです。
それには大勢の「ありんす」が必要です。そうすれば日向の持つ情報よりも日陰の世界の持つ情報が上回るのは時間の問題です。そうなった時、今の日向の世界を囲う巨大な虚構の壁は消滅します。
私が目論んでいるのは権力を打ち破る事ではありません。そうではなく、権力者が権力を保持するために隠蔽している情報を公開する事です。
隠蔽されている情報の中には「才能」「天才」の虚構を打ち消す貴重な情報が含まれています。つまり、芸大受験には「才能」「天才」は関係ない。皆んな当たり前のことを当たり前にしているだけです。
実はその後も当たり前のことを続けているだけ。当たり前という話にしてしまっては今現在その虚構で儲けている人が儲からなくなります。
でも、虚構が晴れて世の中に真実が伝わった時に美術とデザインの本当の価値を世の中のみんなに知ってもらうことができます。
つまり、隠蔽することと情報を公開することと、どちらが意義のあることなのかを考えた時、多くの人間は情報を公開することだと考えるようになります。
情報を公開した方が良いと考える人はほとんど日陰の人間です。日陰にいる私たちが頑張らなければならないのは権力者に取り入るためにしてしまう拍手の手を止めること。手を止めて冷静に状況を見つめた時に真実は透けて見えてくるはずです。
美術とデザインには人が物事を表現する絶大な力があります。今までは表現することは権力者にしか許されない行為でした。 「才能」のある「天才」でなければ表現することはできないと思われてきましたが、表現は誰もがして良い行為です。 それを何となく暗黙の了解で抑止しているのが「才能」「天才」という虚構です。謎が解ければ、絵を描くということは、せいぜい自転車や車の運転ができるようになる程度の、それほど難しくはないものです。 それを「才能」と称したり「天才」と称したりするのは、権力者がそれによって金儲けをするためです。
てんいくでは私が知りうる絵画の描き方、考え方、見方の全てを誰でもわかるように公開します。私が絵画の全てを知っているというわけではありません。 でも私の公開した情報を得ることでこれらがそれほど難しくないことは誰にでも理解していただけます。そうして誤解が解けさえすれば世の中の誰もが簡単に絵を描けるようになります。
今現在、美術とデザインの世界に影を生み出しているのは、「制約」「壁」「権力」です。
「制約」「壁」「権力」をなくすには美術の外部に「インターネット」によって情報を流すことが必要です。
表現は才能には関係なく誰もができることです。誰でもできることですが、肝心なことは表現する「内容」です。学生の多くは「表現する内容がない」という所で立ち止まります。
学生が「表現する内容がない」と感じるのは、まず、重い内容の多くはモラルなどの観念によって知らないうちに抑止していること。 つまり、内容とは自分の中にすでにあるこれまでの経験や記憶を指すことですから、それまでの膨大な経験を振り返って表現できる内容が全くないということはないわけです。 都合よくすぐには浮かばない記憶を探っていくために学生には十分に時間の猶予を与える必要があります。
学生たちに大切なものは「モラトリアム」です。 当面の間、日向と日陰の境界には巨大な権力の壁があります。それを超えるために学生たちは「モラトリアム」の時間と空間を大切にして、その間に難攻不落の壁をよじ登ったり、壊したりする方法を模索してもらわなければなりません。 それにはまず、学生は一度学校の権力に従い、制約を理解しなければなりません。
美術とデザインの世界は権力が一点に集中しています。芸大美大では東京藝術大学がそれに当たります。 つまり、芸大が情報を出さない。芸大は入試の情報を隠蔽し、巨大な壁を作り上げて、権力の行使をしています。つまり隠蔽している情報自体は大した事ではなくても、隠してしまえば皆んなが喉から手が出るほど貴重な情報になるのです。 例えば、ただの水道水でも全く水を与えなければ、皆んなは命がけでその水に飛びつくしかないのです。
芸大が隠蔽しているのは、入試の実技試験の評価の仕方の詳細な情報。出題の意図。採点の仕方。採点者の個々の見解。それぞれの学部が数多ある予備校の中でたった1つの予備校が定員の半数の合格者を出していること。 実技試験の問題や採点の状況などがリークされていること。
その他の私大とともに隠蔽しているのは、大学卒業後に日陰に進んだ生徒の具体的な動向。就職の実態です。
それによって芸大生たちは芸大に対して忖度せざるを得ない状況です。本当は全国の芸大美大の学生たち、美術予備校の生徒たちに情報を与えなければなりません。 全国の学生に情報を与えたのちに「モラトリアム」の時間と空間を与えて「制約」「壁」「権力」を超えられるチャンスを作ってやるべきです。 その後は学校に行けない人にも同じように情報を与えて超えられるようにするべきだと考えます。
越えようとする人がいるその一方で厄介なのは「自由にのびのび」という言葉によって美術とデザインの世界が楽に食べていける世界だと考えて、全く努力する気のない学生です。 そんな学生は放っておけばいいと考える人が多いと思いますが、そんな学生にそのように思わせているのは、美術とデザインの学校です。Fランクの芸大美大と専門学校にとにかく多い。 学生本人はケロっとしてることが多いですが、親御さんが憤りを感じていることが多いです。その影響が美術とデザインの世界に中学、高校の先生を通じてダイレクトに帰ってきています。
美術の世界で生きていくということには「権力や制約とどのように向かい合うか?」という問題がつきまといます。
美術の世界はこのようなことが全くない「自由」な世界ではありません。つまり、この話は楽をしたい人にとって、この時点で決着のついている話なのです。
そもそも楽に食べていけるから美術とデザインの世界を選んで足を踏み入れているわけで努力をして壁を登る気ははじめからないので、学校に高額な学費を払うだけで終わります。 後に残る問題は学校が営業で楽に食べていけるような誤解を与えていることです。
稀に、煩わしいことを一切考えなくても美術の世界を生きてきたという人はいます。でも、考えずに済む人は、制約の壁が見えないほど壁が自分と離れた所にある余裕のある人です。 そのような余裕がある人は稀で、言ってしまえばゆとりのある人。つまり、実名はあげませんが、親が美術の世界の権力者で子供の自分にはあらかじめ何の不自由もない縄張りが与えられていたり、一生食べていけるほどの財産があるということです。 そのようなタイプの人はエピソードがおもしろ話としてメディアに取り上げられるので、一般の人はそれが美術の全てのような感覚でエピソードを聞いてしまうのも問題です。
美術とデザインには人が物事を表現する絶大な力があります。今までは表現することは権力者にしか許されない行為でした。 「才能」のある「天才」でなければ表現することはできないと思われてきましたが、表現は誰もがして良い行為です。 それを何となく暗黙の了解で抑止しているのが「才能」「天才」という虚構です。謎が解ければ、絵を描くということは、せいぜい自転車や車の運転ができるようになる程度の、それほど難しくはないものです。 それを「才能」と称したり「天才」と称したりするのは、権力者がそれによって金儲けをするためです。
てんいくでは私が知りうる絵画の描き方、考え方、見方の全てを誰でもわかるように公開します。私が絵画の全てを知っているというわけではありません。 でも私の公開した情報を得ることでこれらがそれほど難しくないことは誰にでも理解していただけます。そうして誤解が解けさえすれば世の中の誰もが簡単に絵を描けるようになります。
今現在、美術とデザインの世界に影を生み出しているのは、「制約」「壁」「権力」です。
「制約」「壁」「権力」をなくすには美術の外部に「インターネット」によって情報を流すことが必要です。
表現は才能には関係なく誰もができることです。誰でもできることですが、肝心なことは表現する「内容」です。学生の多くは「表現する内容がない」という所で立ち止まります。
学生が「表現する内容がない」と感じるのは、まず、重い内容の多くはモラルなどの観念によって知らないうちに抑止していること。 つまり、内容とは自分の中にすでにあるこれまでの経験や記憶を指すことですから、それまでの膨大な経験を振り返って表現できる内容が全くないということはないわけです。 都合よくすぐには浮かばない記憶を探っていくために学生には十分に時間の猶予を与える必要があります。
学生たちに大切なものは「モラトリアム」です。 当面の間、日向と日陰の境界には巨大な権力の壁があります。それを超えるために学生たちは「モラトリアム」の時間と空間を大切にして、その間に難攻不落の壁をよじ登ったり、壊したりする方法を模索してもらわなければなりません。 それにはまず、学生は一度学校の権力に従い、制約を理解しなければなりません。
美術とデザインの世界は権力が一点に集中しています。芸大美大では東京藝術大学がそれに当たります。 つまり、芸大が情報を出さない。芸大は入試の情報を隠蔽し、巨大な壁を作り上げて、権力の行使をしています。つまり隠蔽している情報自体は大した事ではなくても、隠してしまえば皆んなが喉から手が出るほど貴重な情報になるのです。 例えば、ただの水道水でも全く水を与えなければ、皆んなは命がけでその水に飛びつくしかないのです。
芸大が隠蔽しているのは、入試の実技試験の評価の仕方の詳細な情報。出題の意図。採点の仕方。採点者の個々の見解。それぞれの学部が数多ある予備校の中でたった1つの予備校が定員の半数の合格者を出していること。 実技試験の問題や採点の状況などがリークされていること。
その他の私大とともに隠蔽しているのは、大学卒業後に日陰に進んだ生徒の具体的な動向。就職の実態です。
それによって芸大生たちは芸大に対して忖度せざるを得ない状況です。本当は全国の芸大美大の学生たち、美術予備校の生徒たちに情報を与えなければなりません。 全国の学生に情報を与えたのちに「モラトリアム」の時間と空間を与えて「制約」「壁」「権力」を超えられるチャンスを作ってやるべきです。 その後は学校に行けない人にも同じように情報を与えて超えられるようにするべきだと考えます。
越えようとする人がいるその一方で厄介なのは「自由にのびのび」という言葉によって美術とデザインの世界が楽に食べていける世界だと考えて、全く努力する気のない学生です。 そんな学生は放っておけばいいと考える人が多いと思いますが、そんな学生にそのように思わせているのは、美術とデザインの学校です。Fランクの芸大美大と専門学校にとにかく多い。 学生本人はケロっとしてることが多いですが、親御さんが憤りを感じていることが多いです。その影響が美術とデザインの世界に中学、高校の先生を通じてダイレクトに帰ってきています。
美術の世界で生きていくということには「権力や制約とどのように向かい合うか?」という問題がつきまといます。
美術の世界はこのようなことが全くない「自由」な世界ではありません。つまり、この話は楽をしたい人にとって、この時点で決着のついている話なのです。
そもそも楽に食べていけるから美術とデザインの世界を選んで足を踏み入れているわけで努力をして壁を登る気ははじめからないので、学校に高額な学費を払うだけで終わります。 後に残る問題は学校が営業で楽に食べていけるような誤解を与えていることです。
稀に、煩わしいことを一切考えなくても美術の世界を生きてきたという人はいます。でも、考えずに済む人は、制約の壁が見えないほど壁が自分と離れた所にある余裕のある人です。 そのような余裕がある人は稀で、言ってしまえばゆとりのある人。つまり、実名はあげませんが、親が美術の世界の権力者で子供の自分にはあらかじめ何の不自由もない縄張りが与えられていたり、一生食べていけるほどの財産があるということです。 そのようなタイプの人はエピソードがおもしろ話としてメディアに取り上げられるので、一般の人はそれが美術の全てのような感覚でエピソードを聞いてしまうのも問題です。