モラトリアムハザード2
もともとは全て暗闇だった美術の世界に当たった光。
その正体は
情報です。
美術とデザインに関する情報のない、まだ概念のない社会に、ある時、美術またはデザインの話が情報として入ってきた瞬間、美術またはデザインの概念をもつ人の集まりは生まれた。 美術の始まりとはそんなものだと思います。つまり今の美術とデザインの根源的なエネルギーは人と情報なのです。 何かおかしいですよね。伝えることではなく。情報が根源的なエネルギー?つまり、人にとって美術とデザインは伝えるための手段ではない。 何かボタンを掛け違っているような気がしますが、本来、美術とは情報を伝える手段であったり、誰かが何かを伝えるためのものだったり、その精神性そのものなのです。でも実態は実はそうなってはいない。
今までの美術とデザインの情報は大学、美術館、画廊といった箱に入ってきました。つまり、情報を得る場である箱に権力者がいます。 これまで市民は情報を得るために権力者と関わるしかありませんでした。でも今はインターネットがあります。インターネットによって権力の構図は全く変わります。 箱が全く変わってしまうので情報を隠蔽して握り続ける権力者に媚びる必要がなくなります。ピンとこないかもしれませんが、芸大美大を崇め、美術館を崇め、画廊を崇める必要がないのです。 インターネットは人の権力を感じさせない箱です。これからは一部の人間にのみ情報が入るのではなく、市民の全てに情報が入り陽が当たるようになります。そうなった時点で大学、美術館、画廊などは必死に壁を持ち上げます。 でもいずれ日陰の世界に陽が当たらないようにしている権力者たちは気づいて、壁を持ち上げることがみっともなくなって、これまで日陰の人たちを苦しめてきた壁をすんなり捨ててくれるはずです。
つまりこの世界は誰かの叫びを権力者が堰き止めてしまいます。例えば小さな女の子の必死の叫びをコンクールや受験や美術館などの権力者がせき止めます。 せき止める行為は言い換えれば審査や採点や規制です。でも、人が考えてできたシステムの中にはそれに関わる人間の利害が働きます。
権力者が利益を守ることによって小さな女の子の叫びはエネルギーを奪われます。つまり情報は権力者が消滅されることができるのです。美術とデザインの世界は権力者の手によって多くの情報が隠蔽されています。
権力の壁が落とした影は巨大です。陽の世界の人間は権力の壁を知っています。 日陰の世界の人間は壁の存在を知りません。そして日陰の人間は美術とデザインが社会とつながっていることを知っていても、具体的にどのようにつながっているのかは知りません。 日向の世界の人間はお金の流れがどこからどのように流れて自分の所に入ってくるか知っています。しかし、日陰の人間は日向の人からわずかな賃金がもらえること以外はお金がどこからどのように流れて入ってくるのかが全くわかりません。 日陰の人間は美術とデザインの世界が能力の違いによって報酬が変わることをなんとなく知っています。そして日陰の人間は日向の世界の人間との能力差を「才能」の違いと信じています。
日向の世界には可愛い花が咲き誇り、日陰の世界には雑草一本生えていません。私が日陰にいる時は1日50円で3ヶ月生きながらえたことが3回ほどありました。 当時は牢獄よりも多分自分の方が苦しいのではないかと思っていました。日陰のそのような話と日陰に陥った経緯はこれからは多くの日陰の人間がインターネットによって詳細にわかるように情報を上げるようになります。
てんいくは日陰に陽を当てるプロジェクトです。このプロジェクトは民間の力によって未必の故意で作られている日陰の全てを取り払うものです。 日向の人間は日向からおしゃれなブラインドを垂らしています。てんいくは日陰の人間を貪り尽くすそのブラインドを手でそっと避けて日陰の世界に陽がさすようにします。
権力の壁の高さは美術とデザインの世界を志す多くの学生のプライドの高さよりもはるかに高いです。学生のプライドよりも高い壁を作ることは容易です。
学生のプライドよりも高い壁が容易に作れるのは、学生のプライドの根拠になる論法と切欠と自信を持つまでの展開の全てのシナリオを日向の世界の人間が詳細に作っているからです。 つまり、美術とデザインの学生が信じていた「才能」は実は持って生まれた「才能」ではないのです。その「才能」と称されているものは美術とデザインの世界に人を引き込むための演出です。 美術とデザインの世界が学校のシラバスや図画工作や絵画のコンクールによるシナリオを作っています。そしてこの時演出された才能は芸大美大受験と美術とデザインの世界で通用することはありません。
この高い壁によって学生は筋書き通りに挫折します。
学生を挫折させるのは簡単です。それはプライドの根拠になるものが実は自然に自分だけが生まれ持った特別なものではなく、特別な才能のように演出されているだけのものだからです。 人を攻撃できる武器や力だと思っていたものは実は全く攻撃力のない空気のようなものだったのです。美術予備校では「才能」があると思っていた学生全員が自分の考えていた「才能」が全く通用しない挫折を経験します。 そうした学生を上手く拾い上げるシナリオも美術予備校にはあるのです。
自然に生まれ持った「才能」と考えられていたものは実は誰にでも起こりうる作画の上での現象にすぎません。 その現象が起きた時に「才能」のように評価して「才能」があると思い込ませるシナリオが美術とデザインの世界にあります。誰の絵にでも起こりうる現象を「才能」と称する論法が完全な形で構築されているのです。 誰にでも起こりうる現象であり、特別なものではないことは、それが芸大美大の難関校の受験と美術とデザインの世界で食べていく道で全く通用することがないから証明することができます。 そしてこれは全ての美術予備校と芸大美大がわかっていることです。てんいくではこのシナリオの正体を全て暴いて駆逐します。
学生がプライドを持つに至る仕組まれた論法があります。つまりプライドとはロジックなものです。 そのロジックを指導すれば自ずとプライドは身に着けることができます。学生にプライドを指導すると同時に裏では権力の壁が待ち構えています。権力の壁の正体は実は実態のないロジックです。 つまり予め学生にプライドを持たせてそのプライドでは権力の壁は超えられないように仕組まれています。壁を構築する論法は実はプライドを構築する論法と完全一致しているからです。これは美術に昔からある洗脳の手法です。 洗脳の手法についてはてんいくで詳細に説明します。
美術とデザインの世界では権力者に服従することによって自分の目の前にある壁を超えられることが担保されています。担保されるのはそのプライドの根拠となるものを権力者が握っているからです。 その壁を超えても次の壁が用意されています。そしてその罠にはまってしまうと美術とデザインの世界で本当の「天才」になる可能性はありません。「天才」とは壁の中で活動するものではなく、言うなれば新しい壁を作ったり、壊す人だからです。
洗脳された人は賞などの薬によって気持ちが高揚し、薬を断たれたら、また薬が欲しくなり、薬を求めます。
その正体は
情報です。
美術とデザインに関する情報のない、まだ概念のない社会に、ある時、美術またはデザインの話が情報として入ってきた瞬間、美術またはデザインの概念をもつ人の集まりは生まれた。 美術の始まりとはそんなものだと思います。つまり今の美術とデザインの根源的なエネルギーは人と情報なのです。 何かおかしいですよね。伝えることではなく。情報が根源的なエネルギー?つまり、人にとって美術とデザインは伝えるための手段ではない。 何かボタンを掛け違っているような気がしますが、本来、美術とは情報を伝える手段であったり、誰かが何かを伝えるためのものだったり、その精神性そのものなのです。でも実態は実はそうなってはいない。
今までの美術とデザインの情報は大学、美術館、画廊といった箱に入ってきました。つまり、情報を得る場である箱に権力者がいます。 これまで市民は情報を得るために権力者と関わるしかありませんでした。でも今はインターネットがあります。インターネットによって権力の構図は全く変わります。 箱が全く変わってしまうので情報を隠蔽して握り続ける権力者に媚びる必要がなくなります。ピンとこないかもしれませんが、芸大美大を崇め、美術館を崇め、画廊を崇める必要がないのです。 インターネットは人の権力を感じさせない箱です。これからは一部の人間にのみ情報が入るのではなく、市民の全てに情報が入り陽が当たるようになります。そうなった時点で大学、美術館、画廊などは必死に壁を持ち上げます。 でもいずれ日陰の世界に陽が当たらないようにしている権力者たちは気づいて、壁を持ち上げることがみっともなくなって、これまで日陰の人たちを苦しめてきた壁をすんなり捨ててくれるはずです。
つまりこの世界は誰かの叫びを権力者が堰き止めてしまいます。例えば小さな女の子の必死の叫びをコンクールや受験や美術館などの権力者がせき止めます。 せき止める行為は言い換えれば審査や採点や規制です。でも、人が考えてできたシステムの中にはそれに関わる人間の利害が働きます。
権力者が利益を守ることによって小さな女の子の叫びはエネルギーを奪われます。つまり情報は権力者が消滅されることができるのです。美術とデザインの世界は権力者の手によって多くの情報が隠蔽されています。
権力の壁が落とした影は巨大です。陽の世界の人間は権力の壁を知っています。 日陰の世界の人間は壁の存在を知りません。そして日陰の人間は美術とデザインが社会とつながっていることを知っていても、具体的にどのようにつながっているのかは知りません。 日向の世界の人間はお金の流れがどこからどのように流れて自分の所に入ってくるか知っています。しかし、日陰の人間は日向の人からわずかな賃金がもらえること以外はお金がどこからどのように流れて入ってくるのかが全くわかりません。 日陰の人間は美術とデザインの世界が能力の違いによって報酬が変わることをなんとなく知っています。そして日陰の人間は日向の世界の人間との能力差を「才能」の違いと信じています。
日向の世界には可愛い花が咲き誇り、日陰の世界には雑草一本生えていません。私が日陰にいる時は1日50円で3ヶ月生きながらえたことが3回ほどありました。 当時は牢獄よりも多分自分の方が苦しいのではないかと思っていました。日陰のそのような話と日陰に陥った経緯はこれからは多くの日陰の人間がインターネットによって詳細にわかるように情報を上げるようになります。
てんいくは日陰に陽を当てるプロジェクトです。このプロジェクトは民間の力によって未必の故意で作られている日陰の全てを取り払うものです。 日向の人間は日向からおしゃれなブラインドを垂らしています。てんいくは日陰の人間を貪り尽くすそのブラインドを手でそっと避けて日陰の世界に陽がさすようにします。
権力の壁の高さは美術とデザインの世界を志す多くの学生のプライドの高さよりもはるかに高いです。学生のプライドよりも高い壁を作ることは容易です。
学生のプライドよりも高い壁が容易に作れるのは、学生のプライドの根拠になる論法と切欠と自信を持つまでの展開の全てのシナリオを日向の世界の人間が詳細に作っているからです。 つまり、美術とデザインの学生が信じていた「才能」は実は持って生まれた「才能」ではないのです。その「才能」と称されているものは美術とデザインの世界に人を引き込むための演出です。 美術とデザインの世界が学校のシラバスや図画工作や絵画のコンクールによるシナリオを作っています。そしてこの時演出された才能は芸大美大受験と美術とデザインの世界で通用することはありません。
この高い壁によって学生は筋書き通りに挫折します。
学生を挫折させるのは簡単です。それはプライドの根拠になるものが実は自然に自分だけが生まれ持った特別なものではなく、特別な才能のように演出されているだけのものだからです。 人を攻撃できる武器や力だと思っていたものは実は全く攻撃力のない空気のようなものだったのです。美術予備校では「才能」があると思っていた学生全員が自分の考えていた「才能」が全く通用しない挫折を経験します。 そうした学生を上手く拾い上げるシナリオも美術予備校にはあるのです。
自然に生まれ持った「才能」と考えられていたものは実は誰にでも起こりうる作画の上での現象にすぎません。 その現象が起きた時に「才能」のように評価して「才能」があると思い込ませるシナリオが美術とデザインの世界にあります。誰の絵にでも起こりうる現象を「才能」と称する論法が完全な形で構築されているのです。 誰にでも起こりうる現象であり、特別なものではないことは、それが芸大美大の難関校の受験と美術とデザインの世界で食べていく道で全く通用することがないから証明することができます。 そしてこれは全ての美術予備校と芸大美大がわかっていることです。てんいくではこのシナリオの正体を全て暴いて駆逐します。
学生がプライドを持つに至る仕組まれた論法があります。つまりプライドとはロジックなものです。 そのロジックを指導すれば自ずとプライドは身に着けることができます。学生にプライドを指導すると同時に裏では権力の壁が待ち構えています。権力の壁の正体は実は実態のないロジックです。 つまり予め学生にプライドを持たせてそのプライドでは権力の壁は超えられないように仕組まれています。壁を構築する論法は実はプライドを構築する論法と完全一致しているからです。これは美術に昔からある洗脳の手法です。 洗脳の手法についてはてんいくで詳細に説明します。
美術とデザインの世界では権力者に服従することによって自分の目の前にある壁を超えられることが担保されています。担保されるのはそのプライドの根拠となるものを権力者が握っているからです。 その壁を超えても次の壁が用意されています。そしてその罠にはまってしまうと美術とデザインの世界で本当の「天才」になる可能性はありません。「天才」とは壁の中で活動するものではなく、言うなれば新しい壁を作ったり、壊す人だからです。
洗脳された人は賞などの薬によって気持ちが高揚し、薬を断たれたら、また薬が欲しくなり、薬を求めます。