モラトリアムハザード2
美術とデザインの世界は閉鎖的です。
つまり、先生は「自由でのびのび」で一流の芸術家とデザイナーを輩出する前提でものを考えた時に、学生に十分にゆとりを持って自分でどのように制約の中で大きな壁を超えていけるか考えさせなければなりません。
一番の問題は「中途半端」です。なので全ての学生に対して「中途半端」にならないように可能性を信じてゆとりを持った指導をします。
ただし、一流の芸術家とデザイナーになれるのは一握りの人間です。
つまり、大学在学中にまず、大学在学中か卒業までの時点で勝負できるかどうかはわかるはず。在学中で勝負できる学生は東京藝術大学で学年に一人いるかいないかです。 卒業までに勝負できる学生は?それもいても数人です。全くいなくても不思議はありません。
つまり、私の考えですが、一流の芸術家とデザイナーの定義はこの際傍におきますが、大学の外の社会を一度も見たことのない学生に一流の芸術とデザインが本当に作れるのかといえば無理だろうと思います。 なので、一度社会に出て色んなものを見た経験を通じて考えさせることが大切だと思います。
大学を出た後に働かなくても食べていける人はそのままでいいと思います。
でも、現実的には殆どの学生は働かなくては食べていけません。
芸大美大は食べていけない学生のことを考えることに消極的です。
つまり、面倒なのです。大学の教員の多くが実社会でサバイバルをした経験に乏しいことも問題です。
余計なことを考えなくても大学の授業は今の所成立します。余計な仕事がかなり増えます。
現状では大学を出た後多くの学生がアルバイトをします。実際にアルバイトをしても生活するだけで精一杯です。 時給千円程度の稼ぎで作品を作る時間と費用まで稼ぐことは困難です。実家だとなんとかいけるかもしれませんが一人暮らしをしながらとなると非効率です。
そうすると私が思うのは何も大学卒業してすぐに活動しなくてもいいから一度企業に就職して社会を見てしっかりとビジョンが固まって、お金を溜めてから活動を始めるべきということです。
今の所多くの学生が皆んなが嫌煙する言い方をすれば「行方不明」になります。これを避けるには殆どの学生は一度企業に就職するべきです。 そして長い人生の中でじっくりと芸術とデザインを見つめさせていく。そのゆとりが今の芸大美大にはありません。
私が思うに「行方不明」になる学生を生み出す今のやり方は「自由でのびのび」とは思えません。本当のモラトリアムは学生それぞれが個々の状況に合わせた適切な生き方を選べるようにすることです。
現状では芸大美大の場合、学科によっては就職活動がしづらい。
「行方不明」は事故です。
誰も、何も言わないと思いますが、私はこれを事故として扱い、無くすために動きます。
東京藝術大学の卒業生は他の芸大美大の卒業生がどのように大学卒業後に社会に出て収入を得て生活しているのかを殆ど知りません。 大学が同じであっても自分の所属する専攻以外の人がどのように収入を得ているかを知りません。 美術系の人間は自分の専門分野の研究に集中するあまりに他の専門分野を覗く余裕もなく、必要性もないので他の専門分野のことと卒業後のことを全く知りません。
教育系の美術の先生や保育園や幼稚園の先生は教師として必要な勉強をしっかり突き詰めて学んだ人たちです。
教育の中の美術の世界しか見たことのない教師がメディアや学校で教わった情報を信じて美術とデザインの世界は「才能」がある人が「自由にのびのび」仕事をしてお金を稼いで生活していると、またいけると認識して生徒に指導しています。 でも、実際は「才能」ではなく「自由でのびのび」できないために「行方不明」になるのです。「自由でのびのび」の意味をよく考えて見直すべきです。 「行方不明=自由でのびのび」ではありません。冷やかしでそういう人もいますが、ごめんなさい私は許せません。
美術と芸術の世界は「自由でのびのび」ではありません。
本来制約でがんじがらめのこの世界は、それを前面に出してしまってはこの世界の外の人たちが近寄り難くなるので、少しでも柔らかくして、我々が寂しい思いをしないように「自由にのびのび」という空気を精一杯作っています。
あとは幼児教育から東京藝術大学まで「自由でのびのび」の言葉がそのまま通用するとようにカリキュラムはできています。でも現実的には美術予備校に全てのしわ寄せがきます。
本格的に美術とデザインの世界に踏み込まない人たちには「自由でのびのび」の空気の中で楽しんでもらえれば幸いです。
その場合は「美術=お遊戯」でいいのだと思います。
事実高校の先生方と親御さんに「美術=お遊戯」だと認識されていることは多いです。
問題はそこから足を踏み込む人がいて多くの場合が事故につながっていることです。それと「美術=お遊戯」ではない。そろそろ考え直さなければならない時期に来ています。
公の場にはルールがあります。それは美術とデザインの世界も同じです。そのような中で自由にうろちょろしたら事故が起きるのは当然です。間違いなく事故は起きます。
うろちょろした本人が大事故になることがほとんどですが、周りを巻き込むことは少なくありません。 友達を巻き込むこともありますし、特に多いのは親御さんと先生を巻き込むことです。本人が無傷で親御さんか先生が爆破されることは多いです。本人はのんびりのびのびしています。
ただやはり、いち教育者として思うのは事故が学生を壊すことです。
それと先生の皆さんが互いを傷つけないようにしているので、隣の畑の問題の指摘がされないこと。
例えば、美術教育系の大学と芸大美大の思想の完全な乖離によって起きる「自由でのびのび」の問題がこのままでは解決する見込みがないこと。
そう言った状況であるので外側から変えていくためにインターネットを使って美術の外の世界の皆さんに先にお話しして、大学内部ではなく世論から変えなければならないと考えています。
誤った思想で生徒を壊してしまう。この懸念が大きいのでこれをどうにか解決するために今日のお話を書いています。
この世界は自由でのびのびできる部分はあります。でもそれは美術とデザインの他の世界と同じように、制約があってその中の空間や時間で自由にのびのびできるだけであって、制約を全く気にしなくても良い世界ではありません。 制約の中で自由にのびのびできるという点では美術とデザイン以外の世界となんらかわりありません。
美術とデザインの世界が自由でのびのびできる世界だと学生に指導する先生は美術教育系の先生に多いです。 確かに、高校までのコンクールや部活では自由でのびのびが通用します。それに自由にのびのびさせることに大きな意味はあります。 美術教育の中では子供に自由にのびのびさせることで感性を養ったり、創造力を養うことは大切です。 しかし、絶対にしてはならないのは、美術とデザインを将来の職業にしようとする学生に、芸大美大の難関校や実際の作家活動やデザイナーとしての仕事の現場までも安易な認識の「自由でのびのび」が通用すると思わせてしまうことです。
Fランクの大学や専門学校の学生生活では問題にならないことがありますが、難関校と学校を出た後に自由でのびのびが通用することは絶対にありません。 強いて言えば小学校の図画工作、中学、高校の美術の教員になれば自由にのびのびさせる思想をそのまま受け継ぐことはできますが、それ以外の世界で自由でのびのびが通用する世界はありません。
このようなことをわざわざ書かなければならないのは、美術教育系の先生は小中学校の教員になる人がほとんどなので、他の世界のことを全くご存知ない先生が多いためです。 全く接点がないので仕方ありませんが、教員が実際のデザインの現場を知らなかったり、アーティストとしての現実を知らないのは、美術とデザインの世界に足を踏み込もうとする学生に対する指導としては問題があると思います。 現場に触れる機会が必要だと思います。先生たちの負担にならないようにインターネットで無理なく情報を得られるようにするなどのことも必要だと思います。
でも、忙しい教員生活の中で完全に教員としての日常に埋もれる限りアートやデザインの世界に関わることは難しいので、全く接点が作れないのは仕方ありません。 もともと、芸大美大ではなく、美術教育系の大学を選ぶ学生は、芸大美大は自由でのびのびしている学生が多いと認識している学生が多く、受験の時はほとんど実技の対策はする機会が持てずに学科の勉強しかしてこなかった学生です。 失礼かもしれませんが、何年も浪人する覚悟で受験に臨む芸大美大に対して、教育系の大学を受験する学生は受験している時点であまり無理をせず、無難に美術教師になることを考えています。 つまり、教員になってもフットワークが重い先生が多いと思います。それに輪をかけて教員としての仕事量はかなり多いようなので尚更重くなっても仕方ないのかもしれません。
つまり、先生は「自由でのびのび」で一流の芸術家とデザイナーを輩出する前提でものを考えた時に、学生に十分にゆとりを持って自分でどのように制約の中で大きな壁を超えていけるか考えさせなければなりません。
一番の問題は「中途半端」です。なので全ての学生に対して「中途半端」にならないように可能性を信じてゆとりを持った指導をします。
ただし、一流の芸術家とデザイナーになれるのは一握りの人間です。
つまり、大学在学中にまず、大学在学中か卒業までの時点で勝負できるかどうかはわかるはず。在学中で勝負できる学生は東京藝術大学で学年に一人いるかいないかです。 卒業までに勝負できる学生は?それもいても数人です。全くいなくても不思議はありません。
つまり、私の考えですが、一流の芸術家とデザイナーの定義はこの際傍におきますが、大学の外の社会を一度も見たことのない学生に一流の芸術とデザインが本当に作れるのかといえば無理だろうと思います。 なので、一度社会に出て色んなものを見た経験を通じて考えさせることが大切だと思います。
大学を出た後に働かなくても食べていける人はそのままでいいと思います。
でも、現実的には殆どの学生は働かなくては食べていけません。
芸大美大は食べていけない学生のことを考えることに消極的です。
つまり、面倒なのです。大学の教員の多くが実社会でサバイバルをした経験に乏しいことも問題です。
余計なことを考えなくても大学の授業は今の所成立します。余計な仕事がかなり増えます。
現状では大学を出た後多くの学生がアルバイトをします。実際にアルバイトをしても生活するだけで精一杯です。 時給千円程度の稼ぎで作品を作る時間と費用まで稼ぐことは困難です。実家だとなんとかいけるかもしれませんが一人暮らしをしながらとなると非効率です。
そうすると私が思うのは何も大学卒業してすぐに活動しなくてもいいから一度企業に就職して社会を見てしっかりとビジョンが固まって、お金を溜めてから活動を始めるべきということです。
今の所多くの学生が皆んなが嫌煙する言い方をすれば「行方不明」になります。これを避けるには殆どの学生は一度企業に就職するべきです。 そして長い人生の中でじっくりと芸術とデザインを見つめさせていく。そのゆとりが今の芸大美大にはありません。
私が思うに「行方不明」になる学生を生み出す今のやり方は「自由でのびのび」とは思えません。本当のモラトリアムは学生それぞれが個々の状況に合わせた適切な生き方を選べるようにすることです。
現状では芸大美大の場合、学科によっては就職活動がしづらい。
「行方不明」は事故です。
誰も、何も言わないと思いますが、私はこれを事故として扱い、無くすために動きます。
東京藝術大学の卒業生は他の芸大美大の卒業生がどのように大学卒業後に社会に出て収入を得て生活しているのかを殆ど知りません。 大学が同じであっても自分の所属する専攻以外の人がどのように収入を得ているかを知りません。 美術系の人間は自分の専門分野の研究に集中するあまりに他の専門分野を覗く余裕もなく、必要性もないので他の専門分野のことと卒業後のことを全く知りません。
教育系の美術の先生や保育園や幼稚園の先生は教師として必要な勉強をしっかり突き詰めて学んだ人たちです。
教育の中の美術の世界しか見たことのない教師がメディアや学校で教わった情報を信じて美術とデザインの世界は「才能」がある人が「自由にのびのび」仕事をしてお金を稼いで生活していると、またいけると認識して生徒に指導しています。 でも、実際は「才能」ではなく「自由でのびのび」できないために「行方不明」になるのです。「自由でのびのび」の意味をよく考えて見直すべきです。 「行方不明=自由でのびのび」ではありません。冷やかしでそういう人もいますが、ごめんなさい私は許せません。
美術と芸術の世界は「自由でのびのび」ではありません。
本来制約でがんじがらめのこの世界は、それを前面に出してしまってはこの世界の外の人たちが近寄り難くなるので、少しでも柔らかくして、我々が寂しい思いをしないように「自由にのびのび」という空気を精一杯作っています。
あとは幼児教育から東京藝術大学まで「自由でのびのび」の言葉がそのまま通用するとようにカリキュラムはできています。でも現実的には美術予備校に全てのしわ寄せがきます。
本格的に美術とデザインの世界に踏み込まない人たちには「自由でのびのび」の空気の中で楽しんでもらえれば幸いです。
その場合は「美術=お遊戯」でいいのだと思います。
事実高校の先生方と親御さんに「美術=お遊戯」だと認識されていることは多いです。
問題はそこから足を踏み込む人がいて多くの場合が事故につながっていることです。それと「美術=お遊戯」ではない。そろそろ考え直さなければならない時期に来ています。
公の場にはルールがあります。それは美術とデザインの世界も同じです。そのような中で自由にうろちょろしたら事故が起きるのは当然です。間違いなく事故は起きます。
うろちょろした本人が大事故になることがほとんどですが、周りを巻き込むことは少なくありません。 友達を巻き込むこともありますし、特に多いのは親御さんと先生を巻き込むことです。本人が無傷で親御さんか先生が爆破されることは多いです。本人はのんびりのびのびしています。
ただやはり、いち教育者として思うのは事故が学生を壊すことです。
それと先生の皆さんが互いを傷つけないようにしているので、隣の畑の問題の指摘がされないこと。
例えば、美術教育系の大学と芸大美大の思想の完全な乖離によって起きる「自由でのびのび」の問題がこのままでは解決する見込みがないこと。
そう言った状況であるので外側から変えていくためにインターネットを使って美術の外の世界の皆さんに先にお話しして、大学内部ではなく世論から変えなければならないと考えています。
誤った思想で生徒を壊してしまう。この懸念が大きいのでこれをどうにか解決するために今日のお話を書いています。
この世界は自由でのびのびできる部分はあります。でもそれは美術とデザインの他の世界と同じように、制約があってその中の空間や時間で自由にのびのびできるだけであって、制約を全く気にしなくても良い世界ではありません。 制約の中で自由にのびのびできるという点では美術とデザイン以外の世界となんらかわりありません。
美術とデザインの世界が自由でのびのびできる世界だと学生に指導する先生は美術教育系の先生に多いです。 確かに、高校までのコンクールや部活では自由でのびのびが通用します。それに自由にのびのびさせることに大きな意味はあります。 美術教育の中では子供に自由にのびのびさせることで感性を養ったり、創造力を養うことは大切です。 しかし、絶対にしてはならないのは、美術とデザインを将来の職業にしようとする学生に、芸大美大の難関校や実際の作家活動やデザイナーとしての仕事の現場までも安易な認識の「自由でのびのび」が通用すると思わせてしまうことです。
Fランクの大学や専門学校の学生生活では問題にならないことがありますが、難関校と学校を出た後に自由でのびのびが通用することは絶対にありません。 強いて言えば小学校の図画工作、中学、高校の美術の教員になれば自由にのびのびさせる思想をそのまま受け継ぐことはできますが、それ以外の世界で自由でのびのびが通用する世界はありません。
このようなことをわざわざ書かなければならないのは、美術教育系の先生は小中学校の教員になる人がほとんどなので、他の世界のことを全くご存知ない先生が多いためです。 全く接点がないので仕方ありませんが、教員が実際のデザインの現場を知らなかったり、アーティストとしての現実を知らないのは、美術とデザインの世界に足を踏み込もうとする学生に対する指導としては問題があると思います。 現場に触れる機会が必要だと思います。先生たちの負担にならないようにインターネットで無理なく情報を得られるようにするなどのことも必要だと思います。
でも、忙しい教員生活の中で完全に教員としての日常に埋もれる限りアートやデザインの世界に関わることは難しいので、全く接点が作れないのは仕方ありません。 もともと、芸大美大ではなく、美術教育系の大学を選ぶ学生は、芸大美大は自由でのびのびしている学生が多いと認識している学生が多く、受験の時はほとんど実技の対策はする機会が持てずに学科の勉強しかしてこなかった学生です。 失礼かもしれませんが、何年も浪人する覚悟で受験に臨む芸大美大に対して、教育系の大学を受験する学生は受験している時点であまり無理をせず、無難に美術教師になることを考えています。 つまり、教員になってもフットワークが重い先生が多いと思います。それに輪をかけて教員としての仕事量はかなり多いようなので尚更重くなっても仕方ないのかもしれません。