モラトリアムハザード2
日向と日陰の境界にわけられ、日陰に入って、作家になれずに、大学の教員にもなれずに大学を出た後最も有利にことを進める方法は私は大手企業に就職することだと思います。
わざわざこのようなことを言わなければならないのは、芸大の多くの学部が企業への就職活動をとてもやりづらい空気で、実際の学生たちの就職活動も消極的だからです。
それによって学内のいるときはなんとかなるだろう。とか、あまり考えたくないと言った感覚で、大学を出た後数年で現実を知り、後悔する学生が多いのです。
彼らは、学内にいる時は「恥」「学部内で作家を目指そうとする連帯感」「先生との繋がり」などの意識が強いと思います。 でも、学部を出た後すぐに問題なく成功するには、大学を出た後の自由な空間で何をどのように立ち回れば上手くいくのかがはっきりと手に取るように見えている学生です。 実はこれは大学に残るよりも難しく、レアな話なのです。手探りをしなければならない状況であればすぐに上手くいくことは絶対にありません。そこがボヤけてしまっている所です。希望的な観測は絶対にしてはいけません。
手探りをしなければならないほど、まだ具体的なヴィジョンが持てていない場合は大手企業に就職するべきです。焦らず、時期を待ては40代にもなれば明確なビジョンは自ずと持てます。 その時にジリ貧なのと、十分な準備ができているのでは雲泥の差だと思うのです。
タイミングをみて自分の意思で学内のモラトリアムの空間を抜けて就職活動をして大手の優良企業に勤める学生がいます。 デザイン科以外の学部は企業への就職は望まないことが多いです。デザイン系以外の先生たちの多くは企業よりも作家を目指して欲しいと思います。 企業への就職を抑えつけて止めるため芸大美大は「就職はもったいない」というようなネガティブな話によって、目に見えない空気の蟻の巣のような制約を作ります。この時学部によっては学生にプレッシャーを与えて権力を行使します。
つまり、作家を目指すなら猶予を、ドロップアウトするならプレッシャーを。という構図が残念ながらある学部もあります。
これは具体的に実例を公表すればパワハラに認定することが可能なことです。学生の可能性を広げるにはパワハラとして認定させるべきかもしれませんね・・。
意思の強い学生は空気の蟻の巣を粉砕し、就職活動をして優良企業に勤めます。でも、多くの意思の弱い学生は就職活動の機会を逸してしまいます。この時の判断の差は20年もすれば大きな差に現れます。
40代になった時にボロボロになっているのか、大きな力を得ているのか?この現実は今の所現役の学生たちの眼には映りません。
私は一度大手企業に就職して社会を見続けてからアーティストとしての活動を始めるのが本当は健康的な有り方ではないかと思います。
就職活動の機会を逃してしまうと、つまり、大学を出てから就職活動をした場合は東京藝術大学といえども、大手企業、例えば電通/博報堂/NHK/TBS/フジ/大日本印刷・・・などのいわゆる一流企業への就職は困難になります。
大学を出てから就職口を探して見つかるのは美術と関係ない仕事か、美術職であれば中小企業です。そう言った場合の多くはブラック企業です。
大学を出た後にアルバイトをしながら作家活動をするという学生がいますが、在学中にそのように語れば美談のように胸を晴れますが、現実問題大学を出た後困窮するのは自分です。 困窮した状態が持続できるのは10年程度。その困窮した10年を大手企業で過ごすことで可能性は大きく膨らみます。
企業に勤めた人間は安定した生活を手に入れ、少しづつ貯金をしながら世の中を見て、学び、アートのために何が必要なのか、社会人の視点で見続けることができます。
私の偏見ですが、多くの学生は、社会を身をもって見ていません。社会を知らない人間が本当に社会のためになる活動をすることは不可能だと考えます。
学生としては歯がゆいかもしれませんが、社会に出て、落ち着いて社会人として社会を冷静に見てから、アートを考えるべきなのではないか?と思います。
モラトリアムは大切な環境です。
しかし、それのポジティブキャンペーンを学内で展開する一方で、負の遺産が相対的な問題として大きく膨らんでいます。
これからの大学に必要なのは学生に無理をさせないことです。
一方方向の直線的な指導ではなく、大多数の学生が社会を出た後も、学内の延長のように模索し続けていけるように周り道させる考えをもつことが大切です。
大学では多くの先生が基本的に杓子定規に大学を出てすぐに作家活動をし、就職しないように指導しますが、それによって多くの学生が実際には可能性を断たれてしまっています。
モラトリアムな環境は学生を育てます。
美術系の学生は学校で社会に出た後に役立つ様々な能力を養います。
美術とデザインの世界に進む学生は感性や技術や考える力の習得が必要です。
そのどれか一つがかければその子は苦労をすることになるかもしれません。
「眼」と「手」と「頭」のバランスは大切です。
まず、基本は「手」です。
手を動かすことで色んな物事が見えてきますし、見えてくることで「頭」が働く切っ掛けが生まれます。
先生は生徒に自分で物事を考えられる機会を与えて、考えさせることが大切だと私は思います。地頭の良さというより、考えさせること。 地頭の良さを先生にはどうすることもできませんので、それよりも地頭が悪いならそれはそれでわかるまで考えさせればいいことだと思います。
地頭が良ければどんな物事にも機敏に反応するかと言えばそうはなりません。
個性によって、見えているものは違うので気付くものが違います。
「眼」は視力のことを言っているのではありません。色弱なども関係ありません。問題は自分の眼に映っているものをどうのように捉えるかということです。それには頭が必要です。
生徒に考えさせるのは大変です。
授業が嫌われればダメですし。
モチベーションの低い生徒は考えることをもっとも嫌います。
考えさせなければならない。
そのためには生徒はまず、「本気」でなければなりません。
「本気」ではない生徒は受け身です。
何をどのように器用に教えようとも結局は生徒がどれだけ「本気」か?によって話は変わります。この世界で極限まで突き詰めてきた人間はどこまで「本気」になればいいかわかります。 興味がある人は東京藝術大学に進学してください。そんな奴が一人くらいは必ずいますから。
次にどれだけ徹底的に「真面目」になれるか。
世界中の芸術家やデザイナーの誰にも負けないくらい何十年も真面目に向かい合います。そうすれば面白いチャンスの一度や二度はあるものです。
生徒は本気になって真面目を貫いたら最後は思いっきり「遊び」をしてください。 つまり、先生のいいなりでは最後の遊びでつまづきます。急に遊べと言われても、キョトンとしてしまいます。それはそれで不幸ですよね。
「本気」も「遊び」も余裕があってはじめてできることです。
つまり、切迫して悲観的になって逃げたい気持ちでは物事と真正面に向かい合うことはできないでしょうし、遊ぶ気分には到底なれません。
学生たちの中には少なからず悲観的なイメージがあります。
それを少しでも消していくために「モラトリアム」はあるのだと私は思います。
彼らは、学内にいる時は「恥」「学部内で作家を目指そうとする連帯感」「先生との繋がり」などの意識が強いと思います。 でも、学部を出た後すぐに問題なく成功するには、大学を出た後の自由な空間で何をどのように立ち回れば上手くいくのかがはっきりと手に取るように見えている学生です。 実はこれは大学に残るよりも難しく、レアな話なのです。手探りをしなければならない状況であればすぐに上手くいくことは絶対にありません。そこがボヤけてしまっている所です。希望的な観測は絶対にしてはいけません。
手探りをしなければならないほど、まだ具体的なヴィジョンが持てていない場合は大手企業に就職するべきです。焦らず、時期を待ては40代にもなれば明確なビジョンは自ずと持てます。 その時にジリ貧なのと、十分な準備ができているのでは雲泥の差だと思うのです。
タイミングをみて自分の意思で学内のモラトリアムの空間を抜けて就職活動をして大手の優良企業に勤める学生がいます。 デザイン科以外の学部は企業への就職は望まないことが多いです。デザイン系以外の先生たちの多くは企業よりも作家を目指して欲しいと思います。 企業への就職を抑えつけて止めるため芸大美大は「就職はもったいない」というようなネガティブな話によって、目に見えない空気の蟻の巣のような制約を作ります。この時学部によっては学生にプレッシャーを与えて権力を行使します。
つまり、作家を目指すなら猶予を、ドロップアウトするならプレッシャーを。という構図が残念ながらある学部もあります。
これは具体的に実例を公表すればパワハラに認定することが可能なことです。学生の可能性を広げるにはパワハラとして認定させるべきかもしれませんね・・。
意思の強い学生は空気の蟻の巣を粉砕し、就職活動をして優良企業に勤めます。でも、多くの意思の弱い学生は就職活動の機会を逸してしまいます。この時の判断の差は20年もすれば大きな差に現れます。
40代になった時にボロボロになっているのか、大きな力を得ているのか?この現実は今の所現役の学生たちの眼には映りません。
私は一度大手企業に就職して社会を見続けてからアーティストとしての活動を始めるのが本当は健康的な有り方ではないかと思います。
就職活動の機会を逃してしまうと、つまり、大学を出てから就職活動をした場合は東京藝術大学といえども、大手企業、例えば電通/博報堂/NHK/TBS/フジ/大日本印刷・・・などのいわゆる一流企業への就職は困難になります。
大学を出てから就職口を探して見つかるのは美術と関係ない仕事か、美術職であれば中小企業です。そう言った場合の多くはブラック企業です。
大学を出た後にアルバイトをしながら作家活動をするという学生がいますが、在学中にそのように語れば美談のように胸を晴れますが、現実問題大学を出た後困窮するのは自分です。 困窮した状態が持続できるのは10年程度。その困窮した10年を大手企業で過ごすことで可能性は大きく膨らみます。
企業に勤めた人間は安定した生活を手に入れ、少しづつ貯金をしながら世の中を見て、学び、アートのために何が必要なのか、社会人の視点で見続けることができます。
私の偏見ですが、多くの学生は、社会を身をもって見ていません。社会を知らない人間が本当に社会のためになる活動をすることは不可能だと考えます。
学生としては歯がゆいかもしれませんが、社会に出て、落ち着いて社会人として社会を冷静に見てから、アートを考えるべきなのではないか?と思います。
モラトリアムは大切な環境です。
しかし、それのポジティブキャンペーンを学内で展開する一方で、負の遺産が相対的な問題として大きく膨らんでいます。
これからの大学に必要なのは学生に無理をさせないことです。
一方方向の直線的な指導ではなく、大多数の学生が社会を出た後も、学内の延長のように模索し続けていけるように周り道させる考えをもつことが大切です。
大学では多くの先生が基本的に杓子定規に大学を出てすぐに作家活動をし、就職しないように指導しますが、それによって多くの学生が実際には可能性を断たれてしまっています。
モラトリアムな環境は学生を育てます。
美術系の学生は学校で社会に出た後に役立つ様々な能力を養います。
美術とデザインの世界に進む学生は感性や技術や考える力の習得が必要です。
そのどれか一つがかければその子は苦労をすることになるかもしれません。
「眼」と「手」と「頭」のバランスは大切です。
まず、基本は「手」です。
手を動かすことで色んな物事が見えてきますし、見えてくることで「頭」が働く切っ掛けが生まれます。
先生は生徒に自分で物事を考えられる機会を与えて、考えさせることが大切だと私は思います。地頭の良さというより、考えさせること。 地頭の良さを先生にはどうすることもできませんので、それよりも地頭が悪いならそれはそれでわかるまで考えさせればいいことだと思います。
地頭が良ければどんな物事にも機敏に反応するかと言えばそうはなりません。
個性によって、見えているものは違うので気付くものが違います。
「眼」は視力のことを言っているのではありません。色弱なども関係ありません。問題は自分の眼に映っているものをどうのように捉えるかということです。それには頭が必要です。
生徒に考えさせるのは大変です。
授業が嫌われればダメですし。
モチベーションの低い生徒は考えることをもっとも嫌います。
考えさせなければならない。
そのためには生徒はまず、「本気」でなければなりません。
「本気」ではない生徒は受け身です。
何をどのように器用に教えようとも結局は生徒がどれだけ「本気」か?によって話は変わります。この世界で極限まで突き詰めてきた人間はどこまで「本気」になればいいかわかります。 興味がある人は東京藝術大学に進学してください。そんな奴が一人くらいは必ずいますから。
次にどれだけ徹底的に「真面目」になれるか。
世界中の芸術家やデザイナーの誰にも負けないくらい何十年も真面目に向かい合います。そうすれば面白いチャンスの一度や二度はあるものです。
生徒は本気になって真面目を貫いたら最後は思いっきり「遊び」をしてください。 つまり、先生のいいなりでは最後の遊びでつまづきます。急に遊べと言われても、キョトンとしてしまいます。それはそれで不幸ですよね。
「本気」も「遊び」も余裕があってはじめてできることです。
つまり、切迫して悲観的になって逃げたい気持ちでは物事と真正面に向かい合うことはできないでしょうし、遊ぶ気分には到底なれません。
学生たちの中には少なからず悲観的なイメージがあります。
それを少しでも消していくために「モラトリアム」はあるのだと私は思います。