モラトリアムハザード2
美術の世界には「清貧」という概念があります。
私の言う日向と日陰の区別の中では「清貧」は日向に入ります。
豊かとは経済的な豊かさはもちろんですが、心の豊かさを得られていることが大切だと考えます。
収入に関係なく死ぬまで辞めたくならずにその仕事を楽しむことができれば日向と言っていいと思います。
逆に経済的に豊かでも心が貧しかったらどうか?ということがあるかと思いますが、経済的に豊かであれば心が貧しくても日向と考えます。 心は関係なく状況に対して学生が興味を持ちます。興味を持って目指すということは明るく見えているということです。 心の貧しさに対して考えてしまうことはあると思いますが、でもそれについては私は偉そうなことを言えません。 私自身自慢できるほど心が豊かではなく貧しい人間です。私自身がどのようにすれば幸福感が得られるか必死に悩んでいます。
つまり日陰とは経済的にも心も貧しい状況に陥った状態です。 学生たちが実態を知っていれば目指さない状況です。学生たちが騙されて目指してしまう場合の多くは日陰に入った後に心が貧しくなってしまうことが見えていません。 そして私が最も改善したいのは心という内的要因によって日陰に落ちるケースを避けることは勿論ですが、それ以上に、予定調和的に、未必の故意によって日陰に外的要因によって落とされるケースを生徒が自分の力で避けられるようにすることです。
経済的に豊かとは?年収にして一体どの程度?と疑問に思われると思います。 私が想定しているのは700万以上です。自分の子供を私立の美大に進めさせられる程度。 つまり、私が生徒に勧めるのは大学を卒業した後に700万円以上の年収を見込める道です。 700万という数字を示すのは美術とデザインの道に進む学生の多くが想定していないラインだと思うからです。 でも、実際にはそれ以上稼いでいる人はいるのです。このような話は露骨に外には出ません。でもなんとなく惰性で日陰に進んでしまう生徒の眼を覚まさせるために露骨な話はある程度必要だと思います。 学生の多くは皆んな、はなからそんなに稼げないと考えているので社会的なポジションに対する関心が薄く、ポジショニングの感覚が鈍く、戦略的に動かなくなります。 そして生徒たちの動きをさらに鈍くさせてしまうのが「清貧」の概念です。 つまり、美術とデザインの世界がそもそもそれほど稼げる世界でないと考えてしまった場合、本当に稼げるポジションは見えなくなり「清貧」に落ち着いた時点でアクティブに動く感覚は消失します。 「清貧」は「才能」「天才」と同様にもともと素敵な意味の言葉ですがごまかす時にも上手く使える言葉です。
「日向」と「日陰」 私の眼から見てこの2つの境界線ははっきりしています。でも、この境界線は長年この世界を見続けてきてやっと見極められたもので、通常はこの境界線はモヤモヤして誰にも見えません。 なので、自分の進む道が日向なのか日陰なのかわからずに皆んな日向か日陰のどちらかに進んでいきます。 日向に進んだ生徒も自分が日向に向かっていることはわかりません。日陰に進んでいる生徒も自分が日陰に進んでいることはわかりません。 自ら日陰を希望して進んでいく生徒はいませんから皆んな自分が日向に進んでいると信じて進んでいます。日向と日陰の境界線は一概に難関校を目指している受験生だから日向と言うわけではありません。 難関校を目指していても予備校を休んでばかりで作品が良くなければ日陰ですし、英語が全くできなければ日陰の可能性が高くなります。 難関校でなくFランクの大学を志望していても自分のやるべきことを十分にやっていれば日向にいる場合もあります。 東京藝術大学に入れれば全員が日向に進めるというわけではありませんので自分の進むべき道をしっかりと見極めながら行き先を選んでいくことが大切です。 美術とデザインの道は「天才」を生み出す可能性の満ちた世界です。「天才」になるには東京藝術大学に行けばいいという話に落ち着きません。 デザインの世界でも美術の世界でも学校を出ていない人はいますし、Fランクの学校を出た人もいます。 つまり、日向とは自分の心のあり方や精神の居場所も強く関係している自分の気のあり方をもっとも大切にするものなのです。 私の場合は東京藝術大学に入るために7年も浪人して結局東京藝術大学をドロップアウトしましたがそのお陰で大切なものを掴めたのでそれで正解だったと思います。人生は何かを目指して頑張ることは大切です。 美術系の学校に進むなら東京藝術大学に進むことをまず考えてみるべきだと思います。でも東京藝術大学に進むことが全てではありません。そのような中にあっても間違いなく日陰に進んでしまう生徒がいます。 私がなんとかしたいのは生徒を説得するのではなく自分の生徒が日陰の方へ進んでしまわないように生徒の目から少しでも日陰が見えるようにすることです。 決心してしまった生徒は私がいくら話しても止めることはできません。なので急ピッチでてんいくの話を書いています。
私の目標はてんいくを作り上げて自分の生徒のみならず美術とデザインに関わる人皆んなが日陰の前で立ち止まり、足を踏み入れなくなることです。
日向の世界からは日陰の世界は見えません。同じように日陰の世界からは日向の世界は見えません。私に日向と日陰の境界線がはっきりと見えるのは、私がこの境界線を何度も行ったり来たりしているからです。
日向と日陰はある組織の陰謀によって生まれした。
もともと美術とデザインの世界は社会に開かれた世界でした。でも、いつしか世界が大きくなり、その内にモヤモヤと実態のよく見えない形態になってしまいました。
モヤモヤとした形態になってきたのは、美術とデザインの世界の人口が増えていったからです。
美術の世界に住む人の多くは学校の先生になることで生活をしています。日本で最初の美術の学校は東京藝術大学の前身の東京美術学校です。 日本に美術系の学校が少なかった頃は日向と日陰の境界は見えていました。でも今は美術の学校の中にいる人間にも日向と日陰の境界は見えていません。
美術とデザインが世の中に広まるにつれて、美術系の学校は増えていきました。
美術とデザインの世界には、指導者と研究者と制作者が必要です。美術とデザインが社会に向けて提供するものは教育が8割、制作が1割、鑑賞が1割程度の割合で分けられると思います。 つまり、学校を通じて日本人は美術とデザインの教育が提供されます。美術作品に関心のある人が美術館と画廊に足を運び、趣味で制作します。美術とデザインのビジネスモデルは8割が教育によって収益を上げる構造になっています。
教育によって収益を上げるビジネスモデルは大学で教員を育てると同時に教員が就職するための就職口が必要になります。そのために学校は次々に作られ増えていきました。 美術とデザインの世界がモヤモヤしているのはいつどこに教員の就職口があって、就職するためにはどのようにすればいいかが公にされていないからです。 つまり、教員の就職口は明るく公募されているものではなく、外からは見えないベールに包まれたものなのです。
逆に経済的に豊かでも心が貧しかったらどうか?ということがあるかと思いますが、経済的に豊かであれば心が貧しくても日向と考えます。 心は関係なく状況に対して学生が興味を持ちます。興味を持って目指すということは明るく見えているということです。 心の貧しさに対して考えてしまうことはあると思いますが、でもそれについては私は偉そうなことを言えません。 私自身自慢できるほど心が豊かではなく貧しい人間です。私自身がどのようにすれば幸福感が得られるか必死に悩んでいます。
つまり日陰とは経済的にも心も貧しい状況に陥った状態です。 学生たちが実態を知っていれば目指さない状況です。学生たちが騙されて目指してしまう場合の多くは日陰に入った後に心が貧しくなってしまうことが見えていません。 そして私が最も改善したいのは心という内的要因によって日陰に落ちるケースを避けることは勿論ですが、それ以上に、予定調和的に、未必の故意によって日陰に外的要因によって落とされるケースを生徒が自分の力で避けられるようにすることです。
経済的に豊かとは?年収にして一体どの程度?と疑問に思われると思います。 私が想定しているのは700万以上です。自分の子供を私立の美大に進めさせられる程度。 つまり、私が生徒に勧めるのは大学を卒業した後に700万円以上の年収を見込める道です。 700万という数字を示すのは美術とデザインの道に進む学生の多くが想定していないラインだと思うからです。 でも、実際にはそれ以上稼いでいる人はいるのです。このような話は露骨に外には出ません。でもなんとなく惰性で日陰に進んでしまう生徒の眼を覚まさせるために露骨な話はある程度必要だと思います。 学生の多くは皆んな、はなからそんなに稼げないと考えているので社会的なポジションに対する関心が薄く、ポジショニングの感覚が鈍く、戦略的に動かなくなります。 そして生徒たちの動きをさらに鈍くさせてしまうのが「清貧」の概念です。 つまり、美術とデザインの世界がそもそもそれほど稼げる世界でないと考えてしまった場合、本当に稼げるポジションは見えなくなり「清貧」に落ち着いた時点でアクティブに動く感覚は消失します。 「清貧」は「才能」「天才」と同様にもともと素敵な意味の言葉ですがごまかす時にも上手く使える言葉です。
「日向」と「日陰」 私の眼から見てこの2つの境界線ははっきりしています。でも、この境界線は長年この世界を見続けてきてやっと見極められたもので、通常はこの境界線はモヤモヤして誰にも見えません。 なので、自分の進む道が日向なのか日陰なのかわからずに皆んな日向か日陰のどちらかに進んでいきます。 日向に進んだ生徒も自分が日向に向かっていることはわかりません。日陰に進んでいる生徒も自分が日陰に進んでいることはわかりません。 自ら日陰を希望して進んでいく生徒はいませんから皆んな自分が日向に進んでいると信じて進んでいます。日向と日陰の境界線は一概に難関校を目指している受験生だから日向と言うわけではありません。 難関校を目指していても予備校を休んでばかりで作品が良くなければ日陰ですし、英語が全くできなければ日陰の可能性が高くなります。 難関校でなくFランクの大学を志望していても自分のやるべきことを十分にやっていれば日向にいる場合もあります。 東京藝術大学に入れれば全員が日向に進めるというわけではありませんので自分の進むべき道をしっかりと見極めながら行き先を選んでいくことが大切です。 美術とデザインの道は「天才」を生み出す可能性の満ちた世界です。「天才」になるには東京藝術大学に行けばいいという話に落ち着きません。 デザインの世界でも美術の世界でも学校を出ていない人はいますし、Fランクの学校を出た人もいます。 つまり、日向とは自分の心のあり方や精神の居場所も強く関係している自分の気のあり方をもっとも大切にするものなのです。 私の場合は東京藝術大学に入るために7年も浪人して結局東京藝術大学をドロップアウトしましたがそのお陰で大切なものを掴めたのでそれで正解だったと思います。人生は何かを目指して頑張ることは大切です。 美術系の学校に進むなら東京藝術大学に進むことをまず考えてみるべきだと思います。でも東京藝術大学に進むことが全てではありません。そのような中にあっても間違いなく日陰に進んでしまう生徒がいます。 私がなんとかしたいのは生徒を説得するのではなく自分の生徒が日陰の方へ進んでしまわないように生徒の目から少しでも日陰が見えるようにすることです。 決心してしまった生徒は私がいくら話しても止めることはできません。なので急ピッチでてんいくの話を書いています。
私の目標はてんいくを作り上げて自分の生徒のみならず美術とデザインに関わる人皆んなが日陰の前で立ち止まり、足を踏み入れなくなることです。
日向の世界からは日陰の世界は見えません。同じように日陰の世界からは日向の世界は見えません。私に日向と日陰の境界線がはっきりと見えるのは、私がこの境界線を何度も行ったり来たりしているからです。
日向と日陰はある組織の陰謀によって生まれした。
もともと美術とデザインの世界は社会に開かれた世界でした。でも、いつしか世界が大きくなり、その内にモヤモヤと実態のよく見えない形態になってしまいました。
モヤモヤとした形態になってきたのは、美術とデザインの世界の人口が増えていったからです。
美術の世界に住む人の多くは学校の先生になることで生活をしています。日本で最初の美術の学校は東京藝術大学の前身の東京美術学校です。 日本に美術系の学校が少なかった頃は日向と日陰の境界は見えていました。でも今は美術の学校の中にいる人間にも日向と日陰の境界は見えていません。
美術とデザインが世の中に広まるにつれて、美術系の学校は増えていきました。
美術とデザインの世界には、指導者と研究者と制作者が必要です。美術とデザインが社会に向けて提供するものは教育が8割、制作が1割、鑑賞が1割程度の割合で分けられると思います。 つまり、学校を通じて日本人は美術とデザインの教育が提供されます。美術作品に関心のある人が美術館と画廊に足を運び、趣味で制作します。美術とデザインのビジネスモデルは8割が教育によって収益を上げる構造になっています。
教育によって収益を上げるビジネスモデルは大学で教員を育てると同時に教員が就職するための就職口が必要になります。そのために学校は次々に作られ増えていきました。 美術とデザインの世界がモヤモヤしているのはいつどこに教員の就職口があって、就職するためにはどのようにすればいいかが公にされていないからです。 つまり、教員の就職口は明るく公募されているものではなく、外からは見えないベールに包まれたものなのです。