モラトリアムハザード2
美術の世界で生きていくには殆どの人が権力と制約とどのように向かい合うか考えなければなりません。
ある人は権力に従い、ある人は権力と戦います。東京藝術大学の卒業生を見てみると、卒業後は殆どの人が誰かに雇われて生きて行かざるをえないようです。雇われている以上、権力の支配下にあり、制約があります。
東京藝術大学の学生の多くは作家として生きる道を考えます。ただし、それが叶わないのはつまり、この世界で雇われずに生きていくことはそれだけ難しいということです。
大学にいる間は社会に出た時に誰かの支配下に降る前の猶予期間です。猶予=つまり「モラトリアム」。先生は学生の自由を望みます。ただし、貫けば手にすることができるその自由を実際に手にする教え子は稀です。
掴むか?掴まないか?の差は主にメンタリティーだと私は考えます。
なので可能性のある学生には半ば強引とも言える方法で学生の背中を押し、励まし、応援するのです。
東京藝術大学は学生に大きな、というか巨大な猶予を与えようとします。
それを受けて学生はモヤモヤ。多くの学生は急に大きな自由を与えられれば方向感覚を失います。大きな自由を与えても機敏に動ける学生は、その程度の自由では壁や道が見えてしまう事前に状況がわかる程度に知識を得ている経験者です。 そうすれば先生はさらに巨大な自由を学生に与えます。そうなると学生と先生との知恵比べです。先生が持て余すほどの巨大な自由を飲み込める学生は稀です。そうなるには知識や経験で先生を上回らなければならない。
でも実際は、それくらいでなければ社会に出た後に誰からも支配されずにこの世界で自由に生きていくことは不可能なのだと私は考えています。
巨大な猶予を与える理由は、学生たちそれぞれが固定概念として抱いている制約のイメージを巨大な自由という液体の中に入れて溶解を試みるためです。
学生たちの大半は大人たちが思っている以上に狭い価値観で物事を判断しようとします。それをもっと広げていくには、学生の姿勢を軟化させ、その時に囚われている物事を一度冷静に捉え直させる必要があります。
軟化させながら生まれた気持ちの隙間を見つけながら、その隙間に丁度良い様々な情報を与えたり、話をしたり、学生たちを退屈させないように、学生たちの興味関心を高められるような話をします。
学生たちが自問自答して答えを出す間は答えを強要することはありません。個々の学生が答えを出すスピードは地頭に関係なく早かったり、遅かったりします。それぞれの関心の強さの違いで考え込む深さも違います。
一見同じものを見ているように見えても、視力や気分や心拍数や様々な影響で見えるものは変わります。
猶予を与えれば与えるほど、未来を大きく切り開く力を養うことができます。その猶予の時間と空間の中で学生たちは世の中のみんなが気づいていない問題とその答えを見つけるかもしれません。 先生たちが思うのは、限りある猶予の時間と空間の中で学生それぞれが納得のいく形で答えを出してくれることです。
保護者の皆さんからすると答えを見つけるかもしれないという点にひっかかりを感じると思います。私も同様です。つまり、答えを見つけられなかった場合は未来を大きく切り開くことができないと言っているようなものだからです。
ただし、実はこれには処方箋があるのです。
私はこの処方箋が本当の「自由にのびのび」だと思います。
つまり「自由にのびのび」は相当な覚悟が必要なものなのです。
そしてその覚悟があれば可能性を切り開くことができます。
元はこの可能性を知っている先生が「自由にのびのび」と唱え始めたのだと私は思います。しかし、言葉が拡散すると同時に覚悟のない人に誤解を与え、営業で利用するものが現れたのだと思います。
多くの先生は作家になることを強要するつもりはないはずです。
つまり、多くの先生は先輩としてじっくりと取り組めば取り組むほど大きな可能性を切り開くことができるということを学生たちに教えなければならないと考えるのだと思います。全ての学生に大きな可能性があることは確信を持って言えます。
「モラトリアム」によって人は大きく変わることができます。
例えば、私自身は散々、バカだの、才能ないだの、貧乏人だの罵られたり、色々と言われてきました。確かに私は、バカで、才能はなくて、ど貧乏人です。そのような人間でさえも「モラトリアム」によってある程度の成長ができるのです。 私はど貧乏人ですが私にだって成長する権利はあります。勿論皆さんにはもっとあります。
大学の先生たちの多くは学生の大きな成長を願います。学生が美術とデザインの世界で残っていける方策を考えます。しかし、生き残っていける方策を考えて生まれるアイデアの多くは元々パイの見えているものです。 つまり掴むポジションが見えていることなのでそれを狙って的を射るように学生をそこに収める方策が成り立つのです。 仮に新しい道を開拓して自分の立つ場所を作って身を立てるとなるとこれはもはや先生の仕事ではなく、学生が自分で研究して努力して掴み取ることです。 先生たちは学生たちが自ら運命を掴み取ることを期待しながら、手を差し伸べる必要性も模索しています。つまり先生はその状況を注意深くよく観察し続けなければなりません。 そうすると現状では多くの先生が学生の就職のことまで見る気持ちになれないのです。先生たちが学生を収めるパイはあらかじめ見えています。そして自ら開拓してポジションを掴む学生が卒業すぐに何人現れるかも予測できます。 問題はいずれにしろ各科で1割程度の人数しか残れないことが見えていて他のほとんどの生徒は就職活動を積極的に行い卒業後の道を掴むことに専念させるべきで、それがモヤモヤした空気の中でうやむやにされていることです。 このような感覚なのでデザイン科以外の学部があまり就職をすることを勧めません。
実は就職を勧めないという所に芸大美大の大きな問題が眠っています。
それが今回お話する「モラトリアムハザード」のメインテーマです。
つまり、大学在学中に多くの学生が就職活動の機会を逸しているので、永い眼で将来を見据えた時に大きな可能性を生む大手企業への就職の可能性を逃しています。つまり、多くの芸大生にとって大学在学中では足りなかった猶予期間の補填が大手企業への就職が代用できるのです。
東京藝術大学の学生の多くは作家として生きる道を考えます。ただし、それが叶わないのはつまり、この世界で雇われずに生きていくことはそれだけ難しいということです。
大学にいる間は社会に出た時に誰かの支配下に降る前の猶予期間です。猶予=つまり「モラトリアム」。先生は学生の自由を望みます。ただし、貫けば手にすることができるその自由を実際に手にする教え子は稀です。
掴むか?掴まないか?の差は主にメンタリティーだと私は考えます。
なので可能性のある学生には半ば強引とも言える方法で学生の背中を押し、励まし、応援するのです。
東京藝術大学は学生に大きな、というか巨大な猶予を与えようとします。
それを受けて学生はモヤモヤ。多くの学生は急に大きな自由を与えられれば方向感覚を失います。大きな自由を与えても機敏に動ける学生は、その程度の自由では壁や道が見えてしまう事前に状況がわかる程度に知識を得ている経験者です。 そうすれば先生はさらに巨大な自由を学生に与えます。そうなると学生と先生との知恵比べです。先生が持て余すほどの巨大な自由を飲み込める学生は稀です。そうなるには知識や経験で先生を上回らなければならない。
でも実際は、それくらいでなければ社会に出た後に誰からも支配されずにこの世界で自由に生きていくことは不可能なのだと私は考えています。
巨大な猶予を与える理由は、学生たちそれぞれが固定概念として抱いている制約のイメージを巨大な自由という液体の中に入れて溶解を試みるためです。
学生たちの大半は大人たちが思っている以上に狭い価値観で物事を判断しようとします。それをもっと広げていくには、学生の姿勢を軟化させ、その時に囚われている物事を一度冷静に捉え直させる必要があります。
軟化させながら生まれた気持ちの隙間を見つけながら、その隙間に丁度良い様々な情報を与えたり、話をしたり、学生たちを退屈させないように、学生たちの興味関心を高められるような話をします。
学生たちが自問自答して答えを出す間は答えを強要することはありません。個々の学生が答えを出すスピードは地頭に関係なく早かったり、遅かったりします。それぞれの関心の強さの違いで考え込む深さも違います。
一見同じものを見ているように見えても、視力や気分や心拍数や様々な影響で見えるものは変わります。
猶予を与えれば与えるほど、未来を大きく切り開く力を養うことができます。その猶予の時間と空間の中で学生たちは世の中のみんなが気づいていない問題とその答えを見つけるかもしれません。 先生たちが思うのは、限りある猶予の時間と空間の中で学生それぞれが納得のいく形で答えを出してくれることです。
保護者の皆さんからすると答えを見つけるかもしれないという点にひっかかりを感じると思います。私も同様です。つまり、答えを見つけられなかった場合は未来を大きく切り開くことができないと言っているようなものだからです。
ただし、実はこれには処方箋があるのです。
私はこの処方箋が本当の「自由にのびのび」だと思います。
つまり「自由にのびのび」は相当な覚悟が必要なものなのです。
そしてその覚悟があれば可能性を切り開くことができます。
元はこの可能性を知っている先生が「自由にのびのび」と唱え始めたのだと私は思います。しかし、言葉が拡散すると同時に覚悟のない人に誤解を与え、営業で利用するものが現れたのだと思います。
多くの先生は作家になることを強要するつもりはないはずです。
つまり、多くの先生は先輩としてじっくりと取り組めば取り組むほど大きな可能性を切り開くことができるということを学生たちに教えなければならないと考えるのだと思います。全ての学生に大きな可能性があることは確信を持って言えます。
「モラトリアム」によって人は大きく変わることができます。
例えば、私自身は散々、バカだの、才能ないだの、貧乏人だの罵られたり、色々と言われてきました。確かに私は、バカで、才能はなくて、ど貧乏人です。そのような人間でさえも「モラトリアム」によってある程度の成長ができるのです。 私はど貧乏人ですが私にだって成長する権利はあります。勿論皆さんにはもっとあります。
大学の先生たちの多くは学生の大きな成長を願います。学生が美術とデザインの世界で残っていける方策を考えます。しかし、生き残っていける方策を考えて生まれるアイデアの多くは元々パイの見えているものです。 つまり掴むポジションが見えていることなのでそれを狙って的を射るように学生をそこに収める方策が成り立つのです。 仮に新しい道を開拓して自分の立つ場所を作って身を立てるとなるとこれはもはや先生の仕事ではなく、学生が自分で研究して努力して掴み取ることです。 先生たちは学生たちが自ら運命を掴み取ることを期待しながら、手を差し伸べる必要性も模索しています。つまり先生はその状況を注意深くよく観察し続けなければなりません。 そうすると現状では多くの先生が学生の就職のことまで見る気持ちになれないのです。先生たちが学生を収めるパイはあらかじめ見えています。そして自ら開拓してポジションを掴む学生が卒業すぐに何人現れるかも予測できます。 問題はいずれにしろ各科で1割程度の人数しか残れないことが見えていて他のほとんどの生徒は就職活動を積極的に行い卒業後の道を掴むことに専念させるべきで、それがモヤモヤした空気の中でうやむやにされていることです。 このような感覚なのでデザイン科以外の学部があまり就職をすることを勧めません。
実は就職を勧めないという所に芸大美大の大きな問題が眠っています。
それが今回お話する「モラトリアムハザード」のメインテーマです。
つまり、大学在学中に多くの学生が就職活動の機会を逸しているので、永い眼で将来を見据えた時に大きな可能性を生む大手企業への就職の可能性を逃しています。つまり、多くの芸大生にとって大学在学中では足りなかった猶予期間の補填が大手企業への就職が代用できるのです。