モラトリアムハザード2
とにかく学校の美術の先生に美術とデザインの世界が自由でのびのびではないと教える人が誰もいないように思います。そのことが随所で大きな事故につながっています。
この世界が自由だと誤解してくる人には自由奔放な人が多いと思います。
必死に指導したことを簡単に反故にしたり、課題を無視したり、空気が読めなかったり。道具が無ければ絵を描くことはできないのに鉛筆すら持って来なかったり。
また、この世界が自由と誤解されているので美術とデザインの世界の人間が自由奔放に生きているので関わりたくないと思われて進路として嫌煙されたりします。 高校の進路指導の先生は美術の世界は自由奔放な世界で才能の世界なのでまともに頑張っても上手くいかない難しい世界だと考えて多くの先生が美術を学生に勧めません。
大抵の人は気づくので事故を回避します。
回避する人ははなから不用意にこの世界に近づきません。
美術とデザインの世界に興味があるので、近づいてはきますが、一歩づつ自分の眼で色んなことを確かめながら足を踏み込んできます。
「自由でのびのび」と言われても、その中にルールがあるということを頭に入れて、結局の所、自由にのびのびしないで、様子を確かめながら、少し緊張した面持ちでこの世界に足を踏み込んできます。
それが正解です。
普通は色んなことを確かめますが、そのようなことを読めないで、のんびり、のびのび、呑気な気分でこの世界に踏み込んだ人は、危険なので注意を受けますし、学生なら先生から厳しい指導を受けます。 先生の手に負えなければ全く実力が身につかずに何年もいたずらに時間を無駄にしてしまいます。
事故を起こす子はご家庭に何か難しい問題を抱えておられることが多いです。 そういった苦しみの中で苦しみを受け流したり、やり過ごしたりして精一杯耐える中で、いなす手段として身につけたのんびりした構えが、美術の「自由でのびのび」という言葉のイメージとマッチして、美術とデザインの世界に引き寄せられます。
美術とデザインの世界は収益を上げるために、このように問題を抱えている子がたくさん集まってくるように外へのイメージを作り上げています。
そのようなことに気づかず、なんのためらいもなくこの世界に足を踏み込んだ人の多くが事故を起こします。
ピュアな眼をして美術の世界に足を踏み入てきた人がこの手の事故によく遭遇します。
ピュアな人が事故に起きやすいのはなぜか?
それは美術とデザインの広告塔がこの世界がさも自由でのびのびできる世界のように歌っている歌を素直に信じているからです。
この世界には多くの政治家がいます。政治家たちは資金集めのために、「自由でのびのび」をコピーにキャンペーンを行なっています。
学校は授業料集めと受験料集め、美術館は出品料集め、画廊は都合のいい画家集めをして稼ぎます。
はじめから計画的に仕掛けられた罠。
「自由でのびのび」が原因で起こる問題の火種は美術の側にあります。
ピュアな子が悪いわけでは一切ありません。
空気が読めない子やのんびりしている子が愚かなわけでも一切ありません。
それは美術とデザインの世界が実情を隠して罠にかかるように演出しているからです。
かといって、罠を暴いても何にもなりません。何も変わりません。
変えるためには美術とデザインの世界にはれっきとしたルールがあり、厳しい制約があり、「自由でのびのび」ではけしてないことをしっかりと社会に認識してもらえばいいのです。 つまり、美術とデザインの世界の中の実情は実は、誤解を払拭できるほど社会に広まっていません。
社会全体に誤解されているのはなぜか?
それは学校教育によって美術とデザインの世界が「自由でのびのび」できる世界だと教育されているからです。
学校で教育されれば、ピュアな子は当然騙されます。家庭に問題を抱えた子は当然藁にもすがる思いで簡単に騙されます。
このような状況に反論もあると思いますが、間違いである部分は徹底的に私は駆逐します。そうしなければピュアな子はどうなりますか?問題を抱えた子はどうなりますか?救済されますか?
救済されませんよね。間違いなく。今後も騙され続けます。私のことをどう思われようと構いません。でも私は今の状況は一切許しません。
「自由にのびのび」という言葉を頻繁に発信しているのは美術の側の人間です。社会の皆んなよくわからないけど黙ってそれを受け入れているだけです。
「自由」は大切です。
「自由」や「モラトリアム」これらは不可欠です。
私は東京藝術大学に入るまでに7年浪人しています。
美術とデザインの世界が「自由」や「モラトリアム」でなければ、今の自分はなかった。 私は美術の本当の「自由」「モラトリアム」に心の底から感謝しています。
まず、不用意に起きる事故を徹底的に撲滅した後は、自由の必要性をわかりやすく話していきたいと思います。
でも今はまだそれができません。
間違った「自由」の使い方のお陰で美術とデザインの世界にはバックリと大きな傷ができてしまっています。つまり、今の美術とデザインの世界は健康ではないと私は思います。
自信を持って美術が「自由」と唱えることが許されるのは美術とデザインが健康な状態になってからです。
今の美術とデザインの世界に「自由」という言葉で多くの人を招き入れても怪我人を増やすだけです。 なんなら、「自由」で難なく成功できるイメージを現場で誰か説明できますか?誰もできませんよね。 「自由」を推奨することは簡単です。バカでもできます。問題は本当にそれで上手くいくんですか?ということです。
今の学校のやっていることは、「自由でのびのび」を信じさせることで多くの生徒が集まるので一生懸命「自由」を歌うことです。 そして、受け入れたはいいものの、自由にのびのびしていいと言いながら、後から色んな制約を押し付けます。そうなれば言われた人の頭の中では当然事故が起きます。ものすごく油断している状態なので大事故です。
課題を作れば、自由にのびのび制作していいと言いながら、しっかりと評価の傾向は偏っています。のびのび制作していいと言われながらしっかり評価の型にはめられるから意味不明です。
つまり、「自由でのびのび」制作していいと言われて制作して評価がされないのです。違いますよね?「自由でのびのび制作していいよ」と言ったわけですから、「自由でのびのび」制作した作品は最大限に評価されるべきですよね。
きわめつけは、のびのび制作して提出された多種多様な作品を見てから評価の仕方を検討することは一切ないこと。 完全に評価する側の都合で評価される作品は決まります。つまり、最初から評価する人間の評価の仕方で評価される作品は決まっている。 最初から言いなさいよ・・。というかそう言った状況に気づきなさい。これも本来なら立派な事故です。
これらの事故は美術の世界の外の皆んなから見れば大きな事故には見えないので外からは事件にならない、外からは取るに足らない小さな事故です。
でも実は、美術の中の人間から見れば全てが見えているので美術全体に広く行き渡るような大きな事故です。
美術とデザインの世界には多くのFランクの大学と無試験の多くの専門学校があります。少子化とともにFランクの大学が増え絶対的な比率はおそらく難関校1に対してFランクの大学と専門学校が9くらいの極端な差だと思います。
つまり、難関校1に努力して入れば美術とデザインの世界は十分に食べていくことが可能です。私の持論ですが、難関校以外の9割の学校は美術とデザインでは食べられないと考えられても仕方がないと思います。
Fランク校の実態はこれから少しずつリサーチして公開していきます。学校に来るだけでストレスの限界に達している学生が多いようです。 なので「自由でのびのび」はやり過ごす方法です。そのような精神状態では学習の機会を十分に与えることはできません。本当は実はほとんどの学生が然るべき努力をすれば食べていけます。 でもそのことをほとんどの学生が知らない。この世界は、努力次第で大きなチャンスがある世界なのです。
もちろん、美術とデザインの世界の学生全員が努力をしても食べていけるだけのパイはありません。 でも全体の1割程度の学生たちは皆んなが考えている以上に良い条件で、良い状況で生きています。 美術とデザインの世界で生きる人たちのリアルな状況を明るみに出すのはこの世界ではタブーとされています。自分の生き方を世の中に晒すのは巨匠に許されたことだった。なので皆んなおこがましいと思っています。
私は美術とデザインの世界で食べている皆んなにお願いしたいのです。どのように食べているのかをインターネットで教えて欲しい。 そうすると私が言っていることに反して「自由にのびのび」でずっとうまくいっている方のお話も出てくるかもしれません。その時は素直に謝罪します。そして喜びます。なので皆さんどんどん上げていただきたいのです。
この世界が自由だと誤解してくる人には自由奔放な人が多いと思います。
必死に指導したことを簡単に反故にしたり、課題を無視したり、空気が読めなかったり。道具が無ければ絵を描くことはできないのに鉛筆すら持って来なかったり。
また、この世界が自由と誤解されているので美術とデザインの世界の人間が自由奔放に生きているので関わりたくないと思われて進路として嫌煙されたりします。 高校の進路指導の先生は美術の世界は自由奔放な世界で才能の世界なのでまともに頑張っても上手くいかない難しい世界だと考えて多くの先生が美術を学生に勧めません。
大抵の人は気づくので事故を回避します。
回避する人ははなから不用意にこの世界に近づきません。
美術とデザインの世界に興味があるので、近づいてはきますが、一歩づつ自分の眼で色んなことを確かめながら足を踏み込んできます。
「自由でのびのび」と言われても、その中にルールがあるということを頭に入れて、結局の所、自由にのびのびしないで、様子を確かめながら、少し緊張した面持ちでこの世界に足を踏み込んできます。
それが正解です。
普通は色んなことを確かめますが、そのようなことを読めないで、のんびり、のびのび、呑気な気分でこの世界に踏み込んだ人は、危険なので注意を受けますし、学生なら先生から厳しい指導を受けます。 先生の手に負えなければ全く実力が身につかずに何年もいたずらに時間を無駄にしてしまいます。
事故を起こす子はご家庭に何か難しい問題を抱えておられることが多いです。 そういった苦しみの中で苦しみを受け流したり、やり過ごしたりして精一杯耐える中で、いなす手段として身につけたのんびりした構えが、美術の「自由でのびのび」という言葉のイメージとマッチして、美術とデザインの世界に引き寄せられます。
美術とデザインの世界は収益を上げるために、このように問題を抱えている子がたくさん集まってくるように外へのイメージを作り上げています。
そのようなことに気づかず、なんのためらいもなくこの世界に足を踏み込んだ人の多くが事故を起こします。
ピュアな眼をして美術の世界に足を踏み入てきた人がこの手の事故によく遭遇します。
ピュアな人が事故に起きやすいのはなぜか?
それは美術とデザインの広告塔がこの世界がさも自由でのびのびできる世界のように歌っている歌を素直に信じているからです。
この世界には多くの政治家がいます。政治家たちは資金集めのために、「自由でのびのび」をコピーにキャンペーンを行なっています。
学校は授業料集めと受験料集め、美術館は出品料集め、画廊は都合のいい画家集めをして稼ぎます。
はじめから計画的に仕掛けられた罠。
「自由でのびのび」が原因で起こる問題の火種は美術の側にあります。
ピュアな子が悪いわけでは一切ありません。
空気が読めない子やのんびりしている子が愚かなわけでも一切ありません。
それは美術とデザインの世界が実情を隠して罠にかかるように演出しているからです。
かといって、罠を暴いても何にもなりません。何も変わりません。
変えるためには美術とデザインの世界にはれっきとしたルールがあり、厳しい制約があり、「自由でのびのび」ではけしてないことをしっかりと社会に認識してもらえばいいのです。 つまり、美術とデザインの世界の中の実情は実は、誤解を払拭できるほど社会に広まっていません。
社会全体に誤解されているのはなぜか?
それは学校教育によって美術とデザインの世界が「自由でのびのび」できる世界だと教育されているからです。
学校で教育されれば、ピュアな子は当然騙されます。家庭に問題を抱えた子は当然藁にもすがる思いで簡単に騙されます。
このような状況に反論もあると思いますが、間違いである部分は徹底的に私は駆逐します。そうしなければピュアな子はどうなりますか?問題を抱えた子はどうなりますか?救済されますか?
救済されませんよね。間違いなく。今後も騙され続けます。私のことをどう思われようと構いません。でも私は今の状況は一切許しません。
「自由にのびのび」という言葉を頻繁に発信しているのは美術の側の人間です。社会の皆んなよくわからないけど黙ってそれを受け入れているだけです。
「自由」は大切です。
「自由」や「モラトリアム」これらは不可欠です。
私は東京藝術大学に入るまでに7年浪人しています。
美術とデザインの世界が「自由」や「モラトリアム」でなければ、今の自分はなかった。 私は美術の本当の「自由」「モラトリアム」に心の底から感謝しています。
まず、不用意に起きる事故を徹底的に撲滅した後は、自由の必要性をわかりやすく話していきたいと思います。
でも今はまだそれができません。
間違った「自由」の使い方のお陰で美術とデザインの世界にはバックリと大きな傷ができてしまっています。つまり、今の美術とデザインの世界は健康ではないと私は思います。
自信を持って美術が「自由」と唱えることが許されるのは美術とデザインが健康な状態になってからです。
今の美術とデザインの世界に「自由」という言葉で多くの人を招き入れても怪我人を増やすだけです。 なんなら、「自由」で難なく成功できるイメージを現場で誰か説明できますか?誰もできませんよね。 「自由」を推奨することは簡単です。バカでもできます。問題は本当にそれで上手くいくんですか?ということです。
今の学校のやっていることは、「自由でのびのび」を信じさせることで多くの生徒が集まるので一生懸命「自由」を歌うことです。 そして、受け入れたはいいものの、自由にのびのびしていいと言いながら、後から色んな制約を押し付けます。そうなれば言われた人の頭の中では当然事故が起きます。ものすごく油断している状態なので大事故です。
課題を作れば、自由にのびのび制作していいと言いながら、しっかりと評価の傾向は偏っています。のびのび制作していいと言われながらしっかり評価の型にはめられるから意味不明です。
つまり、「自由でのびのび」制作していいと言われて制作して評価がされないのです。違いますよね?「自由でのびのび制作していいよ」と言ったわけですから、「自由でのびのび」制作した作品は最大限に評価されるべきですよね。
きわめつけは、のびのび制作して提出された多種多様な作品を見てから評価の仕方を検討することは一切ないこと。 完全に評価する側の都合で評価される作品は決まります。つまり、最初から評価する人間の評価の仕方で評価される作品は決まっている。 最初から言いなさいよ・・。というかそう言った状況に気づきなさい。これも本来なら立派な事故です。
これらの事故は美術の世界の外の皆んなから見れば大きな事故には見えないので外からは事件にならない、外からは取るに足らない小さな事故です。
でも実は、美術の中の人間から見れば全てが見えているので美術全体に広く行き渡るような大きな事故です。
美術とデザインの世界には多くのFランクの大学と無試験の多くの専門学校があります。少子化とともにFランクの大学が増え絶対的な比率はおそらく難関校1に対してFランクの大学と専門学校が9くらいの極端な差だと思います。
つまり、難関校1に努力して入れば美術とデザインの世界は十分に食べていくことが可能です。私の持論ですが、難関校以外の9割の学校は美術とデザインでは食べられないと考えられても仕方がないと思います。
Fランク校の実態はこれから少しずつリサーチして公開していきます。学校に来るだけでストレスの限界に達している学生が多いようです。 なので「自由でのびのび」はやり過ごす方法です。そのような精神状態では学習の機会を十分に与えることはできません。本当は実はほとんどの学生が然るべき努力をすれば食べていけます。 でもそのことをほとんどの学生が知らない。この世界は、努力次第で大きなチャンスがある世界なのです。
もちろん、美術とデザインの世界の学生全員が努力をしても食べていけるだけのパイはありません。 でも全体の1割程度の学生たちは皆んなが考えている以上に良い条件で、良い状況で生きています。 美術とデザインの世界で生きる人たちのリアルな状況を明るみに出すのはこの世界ではタブーとされています。自分の生き方を世の中に晒すのは巨匠に許されたことだった。なので皆んなおこがましいと思っています。
私は美術とデザインの世界で食べている皆んなにお願いしたいのです。どのように食べているのかをインターネットで教えて欲しい。 そうすると私が言っていることに反して「自由にのびのび」でずっとうまくいっている方のお話も出てくるかもしれません。その時は素直に謝罪します。そして喜びます。なので皆さんどんどん上げていただきたいのです。