天育実験工房★幻想公開講座「立体感の出し方/絵画技法の導入の章1」
この文章を読んで頂ければ、人が暗黙の了解で、8つの問題を認識しながら立体感を出している以上、立体感という技芸について自己評価する際は8つの診断を下さなければ正しい評価が出せないということがよくお分かり頂けます。
これのいずれかに問題があれば立体感は出せないのですから評価するのは当然ですよね。
後は、コンクールの評価ですが、私は目も当てられない程可笑しな評価が下されていると思っています。
そして権力者ファーストの既得権益のアートの世界ではコンクールの評価の仕方を内部から変えることは不可能。
そのため、コンクールの外の皆さんが評価をする人を圧倒的に凌駕する評価の眼を持って頂き、時間をかけて解決したいと考えています。
圧倒的に凌駕するのは簡単です。
ここで私が詳細にお話します。
このお話を通読して頂いた時点で既に凌駕されているのです。
後日改めてお話しすることになる内容ですが、上の8つは「絵画の見方」にも繋がる話です。 絵画は実は語られることのない高度な認識の作法があります。 (正確にはコードと表現することが正しいのですが、今認識されているコードとの混同を避けるために認識の作法と表現させて頂きます。) 高度な認識の作法は「頭」ではなく「手」を優先する我々の中では常識です。 但し世界中のどこを探しても言葉化されていない事なのです。
「誰でも」と言うのは「立体感を出すという理屈が認識できる全ての人を対象にしている」と言う意味です。 つまり、身体に障害がある方でも、目と脳が認識できればおそらく可能だと思います。 障害がある方で情動に問題がある方はこの方法を実践することが情動のコントロールに役立ち、情動指数を上げる訓練になるはずです。 情動の訓練はこれまで生徒に対して実践してきたことです。 実は絵画の世界は情動に問題のある子が多く入ってきます。 芸大美大受験に情動は最も大きく影響します。 つまり人一倍落ち着いて制作できる人が向いている。 逆に落ち着けない人は向いていません。 図画工作のコンクールでは自由にのびのびを推奨し、情動指数の低い子が評価されることが良くあります。 その流れで芸大美大受験の世界には情動指数の低い子が大勢入ってくるのです。
下の方で書いていますが、今回は立体感を出すためのメカニズムを詳細にお話ししています。 巧緻性、視認性、筋肉、骨格、神経、脳、情動、気分について可能な限り深く掘り下げています。 限界まで掘り下げることによって「誰でも」と発言することが可能になりました。 読んで頂ければ納得して頂けるはずです。 それでもし読んで納得して頂けた方はこの文章のことを世の中に広めてください。 この文章はご覧の通り長いです。 読んで頂ける人はほんのわずかだと思います。 そのわずかなあなたに広めて頂けなければこの計画は頓挫します。
8つについて深く掘り下げることで、立体感が出せないということが誰にでも起こりうるということもはっきりお伝えすることができると思います。 特に大きな問題は情動です。 情動に問題のない場合が殆どですが、絵画にのめり込み、強く依存している人ほど情動に問題を抱えていることがあります。 思いが強い人ほど立体感が出せない場合がある。 そのような状況にある人を助けるために今回のお話は一人でも多くの人に聞いて頂きたいのです。 昔の私が克服したように。 絵画は感性で100%描かれていると考えている人が多く、立体感を出す際に感覚だけでスイスイ出せるものと考えている人は多いです。 かく言う昔の私もその1人。 感覚を信じて頭で考えずに立体感を出そうとします。 思いは強いのでガンガン殴り描きします。 何時間も何年も。 必死にやればやるほど形は潰れ、画面全体はぺったんこになります。 受験も成功しません。 残念ながら立体感を出すこと、その他の絵画技法は感性ではありません。 頭が必要です。 このことは学校でも誰も教えてくれません。 つまり、この際の衝動的な感覚のコード、認識の作法。 立体感を出す際のコード、認識の作法を具体的な指導に落とし込めるほど具体的に理解している先生は日本にはどこにもいないのです。 おそらく世界のどこを探しても。 だから同様の事故が日本中で至る所で起きています。 私の指導するクマビでもそうです。 誤解があるので必死に生徒と親御さんを説得します。 そして多分近隣の中学、高校の先生方には嫌われています。 情動指数が低く絵画にのめり込んでいる子は必死です。 その子を嫌われようが何をしようが私は止めなければならない。
情動のようにボタンのかけ違いがあると、立体感を出す際の様々な仕事、例えば視認性や神経などなど。 それらのどれを取っても深読みするとよく分からなくなるという事態が誰にでも起こり得ます。 私の経験ではスッとスムーズに空気を読む感覚で理解できなかった場合、ある人はさっと流すところを、流さずに真面目に深読みし真剣に取り組もうと意気込む人ほど深みにはまり迷走することが増える傾向があります。 迷走を解く鍵は、世の中のどこを見てもこれまでありませんでしたが、今回の話は鍵になることがあるはずです。 そのため「誰でも」ということを可能にするために様々なメカニズムを深く、限界まで掘り下げました。深く掘り下げなければ「誰でも」とはならないのです。 つまり「誰でも」が本当に価値や意味を発揮するのは深読みして、手がかりを見失って、現状では自力で這い上がるしか手立てがない人たちに対してですから。 深読みしない人は結果を想定し、話の落とし所を想定し、現実的に、クレバーに物事を、絵画の制作を考えられる人です。 ここに学校やアートが推奨する「自由にのびのび」はないのです。
巧緻性、視認性、筋肉、骨格、神経、脳、情動、気分について可能な限り深く掘り下げています。
限界まで掘り下げて考えるにあたり、立体感を出そうとする人たちが、それぞれ自分(巧緻性、視認性、筋肉、骨格、神経、脳、情動、気分)の認識の作法を正しく理解しなければなりません。 例えば健常者でも今あげたそれぞれの中のいくつかが未発達である場合にはそれに気づかなければ立体感は出せるようになりません。
出せるようになった人はそれを何となく暗黙の了解でできるようになった人です。 でもそれがロジックに理解できていなければできていても何となくぼんやりした感じで、ある日突然できなくなるということがないわけではありません。 できなくなる場合は8つがフィックスしていないからです。 特に脳が脊髄反射的に覚えた仕事を忘れてしまうことが良くあります。 それと、立体感以外の問題、固有色、質感、空間、量、光、陰影、マチエール、構成などの概念を混同せずに明確に言葉化し区別して認識できていなければなりません。 そうでなければ、感覚的な理解だけだと、これらは複合的に複雑に絡み合った問題なのでぼんやりとしていつしか立体感が出せなくなるということはよくあることです。
立体感を出すことができない人には未発達な所を指摘して気付かせてあげることが大切です。 それを考えていく作業はとても細かいことです。 何となく大変な作業であることがわかるので誰も手を出していません。 そもそも問題が生徒である場合、情動指数が低ければストレス耐性も低いことが多く、先生が分析してもその結果を聞き入れる気持ちの余裕がないことが多いのです。
でも立体感を出す際の問題を限界まで掘り下げたことで限界を理解しながら作業すれば立体感を出すと言うことは技術的に誰でも可能であることがわかるのです。
健常者でない場合は立体感を出せるようになるために健常者の何倍も時間を要するかもしれません。 普通の鉛筆の持ち方ができなければ口を使ったり足を使っても構いません。 それだけの覚悟で臨んで頂ければ誰でもできるようになります。 少なくとも私の所に来ていただければ可能です。 逆に手がないのに手で立体感を出すことにこだわられては流石に私でも無理です。当たり前ですね・・。 つまり私自身一般的な常識に拘っていません。 常識を曲げて新しい常識を作ろうとしています。 技術が必要なのであれば習得できることが何よりも大切なことだと思います。 常識を曲げることも踏まえて「誰でも」とさせて頂きます。
私が立体感の出し方に拘るのはこれが絵画のコードを理解する上で非常に重要なことだからです。 絵画のコード、正確にはアートの世界にはまだまだコードが足りません。正しいコードを作るためにとても重要なことです。 「手」で考える画家の多くは感覚的な働きのほぼ全てを言葉化することはできません。 鑑賞者が作品を見て不可解と思うのは画家の感覚的な働きを言葉として理解することができないからです。 皮肉にも私はLD(学習障害)です。 その私だから多分言葉にすることが人一倍大切なことで、必死に言葉の重要性と正面から向かい合ったのだと思います。 結果的に他の人が言葉にしない所まで言葉にすることになったのだと思います。 つまり私は情動指数が誰よりも低かったので、誰よりも深みにはまり、必死にやっているのに抜け出せないそれを解決するために、全て言葉化して、そうすることで這い上がれたのです。 普通の皆はそこまで馬鹿なことをする必要はありません。 私が学習障害だから気が遠くなるような言葉化の周り道をしました。 今はそれが少しだけ皆の役に立つのでセッセとさらに言葉化してこの文章を書いています。
「絵画の美しさ」
絵画の美しさの要因は1つに「立体感」です。 光学的な作用によって絵の具が絵の具ではなく光に見える。 光として認識されると同時に描かれているものが絵の具でも平面でもなく立体的に見える。
従来の絵画のコードには問題が沢山あります。 問題とはまず、詳細な感覚のコードが言葉化されていないこと。 言葉化されていないので絵画の世界の内外でよく分からないという状況があること。 よく分かるようにすれば絵画がより身近なものになることです。
絵画を本当に気軽に毎日触れ合える身近なものにするには日本では日本人がアートと絵画に触れる保育園や幼稚園や小学校の先生たちが簡単に短期間に確実に立体感を出すことができて分かるようにしてあげなければならないと考えます。 それを実現するための口火を切る仕事はおそらく私にしかできないことだと考えます。 今小学校までに先生たちが指導している上手や褒賞は幼児や親御さんにとって本心から上手と思えるものではありません。
画家は認識の作法(感覚のコード)を使って様々な仕事をしています。でもその多くは言葉にされていないのです。 そのことは美術史を大きく塗り替えることに繋がるはずです。 バカみたいな話ですが埼玉の端っこの熊谷で世界を変えるつもりで仕事をしています。
これでやっと「立体感の出し方/絵画技法の導入の章1」の終わりです。
次は章2です。
その後やっと本題に入ります。
第一末節骨の細かい形状からどうのこうのと話します・・・。
私は普段クマビ生に骨格筋肉の話は一切しません。でもここでは細かくお話しさせて頂きます。
後日改めてお話しすることになる内容ですが、上の8つは「絵画の見方」にも繋がる話です。 絵画は実は語られることのない高度な認識の作法があります。 (正確にはコードと表現することが正しいのですが、今認識されているコードとの混同を避けるために認識の作法と表現させて頂きます。) 高度な認識の作法は「頭」ではなく「手」を優先する我々の中では常識です。 但し世界中のどこを探しても言葉化されていない事なのです。
「誰でも」と言うのは「立体感を出すという理屈が認識できる全ての人を対象にしている」と言う意味です。 つまり、身体に障害がある方でも、目と脳が認識できればおそらく可能だと思います。 障害がある方で情動に問題がある方はこの方法を実践することが情動のコントロールに役立ち、情動指数を上げる訓練になるはずです。 情動の訓練はこれまで生徒に対して実践してきたことです。 実は絵画の世界は情動に問題のある子が多く入ってきます。 芸大美大受験に情動は最も大きく影響します。 つまり人一倍落ち着いて制作できる人が向いている。 逆に落ち着けない人は向いていません。 図画工作のコンクールでは自由にのびのびを推奨し、情動指数の低い子が評価されることが良くあります。 その流れで芸大美大受験の世界には情動指数の低い子が大勢入ってくるのです。
下の方で書いていますが、今回は立体感を出すためのメカニズムを詳細にお話ししています。 巧緻性、視認性、筋肉、骨格、神経、脳、情動、気分について可能な限り深く掘り下げています。 限界まで掘り下げることによって「誰でも」と発言することが可能になりました。 読んで頂ければ納得して頂けるはずです。 それでもし読んで納得して頂けた方はこの文章のことを世の中に広めてください。 この文章はご覧の通り長いです。 読んで頂ける人はほんのわずかだと思います。 そのわずかなあなたに広めて頂けなければこの計画は頓挫します。
8つについて深く掘り下げることで、立体感が出せないということが誰にでも起こりうるということもはっきりお伝えすることができると思います。 特に大きな問題は情動です。 情動に問題のない場合が殆どですが、絵画にのめり込み、強く依存している人ほど情動に問題を抱えていることがあります。 思いが強い人ほど立体感が出せない場合がある。 そのような状況にある人を助けるために今回のお話は一人でも多くの人に聞いて頂きたいのです。 昔の私が克服したように。 絵画は感性で100%描かれていると考えている人が多く、立体感を出す際に感覚だけでスイスイ出せるものと考えている人は多いです。 かく言う昔の私もその1人。 感覚を信じて頭で考えずに立体感を出そうとします。 思いは強いのでガンガン殴り描きします。 何時間も何年も。 必死にやればやるほど形は潰れ、画面全体はぺったんこになります。 受験も成功しません。 残念ながら立体感を出すこと、その他の絵画技法は感性ではありません。 頭が必要です。 このことは学校でも誰も教えてくれません。 つまり、この際の衝動的な感覚のコード、認識の作法。 立体感を出す際のコード、認識の作法を具体的な指導に落とし込めるほど具体的に理解している先生は日本にはどこにもいないのです。 おそらく世界のどこを探しても。 だから同様の事故が日本中で至る所で起きています。 私の指導するクマビでもそうです。 誤解があるので必死に生徒と親御さんを説得します。 そして多分近隣の中学、高校の先生方には嫌われています。 情動指数が低く絵画にのめり込んでいる子は必死です。 その子を嫌われようが何をしようが私は止めなければならない。
情動のようにボタンのかけ違いがあると、立体感を出す際の様々な仕事、例えば視認性や神経などなど。 それらのどれを取っても深読みするとよく分からなくなるという事態が誰にでも起こり得ます。 私の経験ではスッとスムーズに空気を読む感覚で理解できなかった場合、ある人はさっと流すところを、流さずに真面目に深読みし真剣に取り組もうと意気込む人ほど深みにはまり迷走することが増える傾向があります。 迷走を解く鍵は、世の中のどこを見てもこれまでありませんでしたが、今回の話は鍵になることがあるはずです。 そのため「誰でも」ということを可能にするために様々なメカニズムを深く、限界まで掘り下げました。深く掘り下げなければ「誰でも」とはならないのです。 つまり「誰でも」が本当に価値や意味を発揮するのは深読みして、手がかりを見失って、現状では自力で這い上がるしか手立てがない人たちに対してですから。 深読みしない人は結果を想定し、話の落とし所を想定し、現実的に、クレバーに物事を、絵画の制作を考えられる人です。 ここに学校やアートが推奨する「自由にのびのび」はないのです。
巧緻性、視認性、筋肉、骨格、神経、脳、情動、気分について可能な限り深く掘り下げています。
限界まで掘り下げて考えるにあたり、立体感を出そうとする人たちが、それぞれ自分(巧緻性、視認性、筋肉、骨格、神経、脳、情動、気分)の認識の作法を正しく理解しなければなりません。 例えば健常者でも今あげたそれぞれの中のいくつかが未発達である場合にはそれに気づかなければ立体感は出せるようになりません。
出せるようになった人はそれを何となく暗黙の了解でできるようになった人です。 でもそれがロジックに理解できていなければできていても何となくぼんやりした感じで、ある日突然できなくなるということがないわけではありません。 できなくなる場合は8つがフィックスしていないからです。 特に脳が脊髄反射的に覚えた仕事を忘れてしまうことが良くあります。 それと、立体感以外の問題、固有色、質感、空間、量、光、陰影、マチエール、構成などの概念を混同せずに明確に言葉化し区別して認識できていなければなりません。 そうでなければ、感覚的な理解だけだと、これらは複合的に複雑に絡み合った問題なのでぼんやりとしていつしか立体感が出せなくなるということはよくあることです。
立体感を出すことができない人には未発達な所を指摘して気付かせてあげることが大切です。 それを考えていく作業はとても細かいことです。 何となく大変な作業であることがわかるので誰も手を出していません。 そもそも問題が生徒である場合、情動指数が低ければストレス耐性も低いことが多く、先生が分析してもその結果を聞き入れる気持ちの余裕がないことが多いのです。
でも立体感を出す際の問題を限界まで掘り下げたことで限界を理解しながら作業すれば立体感を出すと言うことは技術的に誰でも可能であることがわかるのです。
健常者でない場合は立体感を出せるようになるために健常者の何倍も時間を要するかもしれません。 普通の鉛筆の持ち方ができなければ口を使ったり足を使っても構いません。 それだけの覚悟で臨んで頂ければ誰でもできるようになります。 少なくとも私の所に来ていただければ可能です。 逆に手がないのに手で立体感を出すことにこだわられては流石に私でも無理です。当たり前ですね・・。 つまり私自身一般的な常識に拘っていません。 常識を曲げて新しい常識を作ろうとしています。 技術が必要なのであれば習得できることが何よりも大切なことだと思います。 常識を曲げることも踏まえて「誰でも」とさせて頂きます。
私が立体感の出し方に拘るのはこれが絵画のコードを理解する上で非常に重要なことだからです。 絵画のコード、正確にはアートの世界にはまだまだコードが足りません。正しいコードを作るためにとても重要なことです。 「手」で考える画家の多くは感覚的な働きのほぼ全てを言葉化することはできません。 鑑賞者が作品を見て不可解と思うのは画家の感覚的な働きを言葉として理解することができないからです。 皮肉にも私はLD(学習障害)です。 その私だから多分言葉にすることが人一倍大切なことで、必死に言葉の重要性と正面から向かい合ったのだと思います。 結果的に他の人が言葉にしない所まで言葉にすることになったのだと思います。 つまり私は情動指数が誰よりも低かったので、誰よりも深みにはまり、必死にやっているのに抜け出せないそれを解決するために、全て言葉化して、そうすることで這い上がれたのです。 普通の皆はそこまで馬鹿なことをする必要はありません。 私が学習障害だから気が遠くなるような言葉化の周り道をしました。 今はそれが少しだけ皆の役に立つのでセッセとさらに言葉化してこの文章を書いています。
「絵画の美しさ」
絵画の美しさの要因は1つに「立体感」です。 光学的な作用によって絵の具が絵の具ではなく光に見える。 光として認識されると同時に描かれているものが絵の具でも平面でもなく立体的に見える。
従来の絵画のコードには問題が沢山あります。 問題とはまず、詳細な感覚のコードが言葉化されていないこと。 言葉化されていないので絵画の世界の内外でよく分からないという状況があること。 よく分かるようにすれば絵画がより身近なものになることです。
絵画を本当に気軽に毎日触れ合える身近なものにするには日本では日本人がアートと絵画に触れる保育園や幼稚園や小学校の先生たちが簡単に短期間に確実に立体感を出すことができて分かるようにしてあげなければならないと考えます。 それを実現するための口火を切る仕事はおそらく私にしかできないことだと考えます。 今小学校までに先生たちが指導している上手や褒賞は幼児や親御さんにとって本心から上手と思えるものではありません。
画家は認識の作法(感覚のコード)を使って様々な仕事をしています。でもその多くは言葉にされていないのです。 そのことは美術史を大きく塗り替えることに繋がるはずです。 バカみたいな話ですが埼玉の端っこの熊谷で世界を変えるつもりで仕事をしています。
これでやっと「立体感の出し方/絵画技法の導入の章1」の終わりです。
次は章2です。
その後やっと本題に入ります。
第一末節骨の細かい形状からどうのこうのと話します・・・。
私は普段クマビ生に骨格筋肉の話は一切しません。でもここでは細かくお話しさせて頂きます。