東京芸大生特攻ハザード
東京藝術大学の学生が「特攻癖」を身につけてしまうのは、芸大受験です。
芸大受験では周りの多くの受験生が東京藝術大学に合格することができずに玉砕する光景
を目の当たりにします。 その中で玉砕が当たり前のことになってしまいます。
それともう一つ、自らすすんで「犠牲」になることを肯定する言動と、「男はひもになれ」という言動が一部の教員の中で伝統として根強くあり、多くの教員の脳裏にまだその残像があることです。 つまり、東京藝術大学には「犠牲」になることが美しいことであり、「ひも」として他人を利用することが勇ましいことという思想があるのです。
「犠牲」ではなく、学生の目指す先にある美術とデザインにその学生にとっての「夢」が本当にある場合はハイリスクハイリターンで特攻しても、それは個々の学生が自らの目の前にあるチャンスに向かうことなので全く問題はありません。 でも、実際はそうではなく、お前は「才能」がないからせめて私のために「犠牲になれ」という考えがあるのです。 学生をコマとしか見ていないあさましい思想です。 最近の○大アメフト部のようなあさましい思想は残念ながら東京藝術大学にもあります。
問題は「特攻」した先に確実に「敗戦」という現実があることを知りながらそれを止めない大人と自分たちが儲けるためにしらばっくれて勧める「大人」の存在があることです。
美術とデザインの世界は人の「幼児性」に漬け込んで悪巧みをする輩が大勢います。 彼らにとって大人になりきれない弱い幼児は利用するには都合のいい存在です。 輩に利用されないためには、簡単に「特攻」を賞賛するのではなく冷静に状況を見つめて幼児から大人に学生を育て上げなければなりません。
多くの大人が美術とデザインの世界をハイリスクハイリターンだと誤解しています。 なので、備えが疎かな状態でも「勇気」だけを武器に「特攻」する姿が無意味に賞賛されてしまいます。 (美術とデザインの世界には前例のない面白いものを作り出そうとする考えがあります 。それは例えばみんなが反対しても自分がいけるという確信が持てれば実力行使していいという考えです。 でも、これと闇雲で無謀な「特攻」とは全く違います。) 非常識が常識として通用してしまう誤った認識があります。 お酒の弱い人に無理やり飲ませてしまうような愚かな認識です。 東京芸術大学の異常な入試倍率はその典型だと思います。 芸大美大の世界には特攻しなければ「夢」が実現しない。 そのような幻想があるのです。 実際は適性があれば東京藝術大学に行かなくてもデザイナーやアーティストにはなれます。 成功している人ほど意外に特攻などという無謀なことはしていません。 成功するのであれば身の破滅は意味ありませんよね?勝機でなければ特攻ではなく「温存」するべきですよね?
「特攻」は戦争マニアや美術館や画廊は喜びます。 でも彼らが喜ぶようなエピソードや武勇伝の成功例は実際ほぼないのです。 このような状況に陥ったのは誰かが儲けるために考えている陰謀です。 戦争マニアによって美術予備校は「特攻」する生徒数を増やし、美術館は「特攻」する出品者を増やし、貸画廊は「特攻」する高額なレンタル料を支払う作家と「特攻」する売れるわけがない作品を購入してくれるコレクターを増やします。
「特攻」しても長く生きていると九死に一生を得るような状況はあります。 でも、私が思うのは実際に若者たちがチャンスを掴むのは、落ち着いて、十分にゆとりを与えて、冷静さを保てる状況で掴むものだと思います。 つまり、私は焦らせて成功することはないと思います。
まだ戦う時期ではない未成熟の学生に「夢」をけしかける輩がいます。 「オレオレ詐欺」のようなものです。 その思惑には大勢の学生を入学させて多くの学生を玉砕させて不問にした方が都合いいとの考えもあります。 そのような考えはFランクの学校に多いと思います。 玉砕させてその姿を賞賛しつつ納得させ、黙らせて一般職なりファミレスのアルバイトなりに、ササっと納めてしまう。 学生に虚構のプライドを与えておいてプライドを高めておけばファミレスでアルバイトをしたり敗戦した現状を恥じるので大ぴろげに騒ぎ立てることはありません。
学生が自ら「特攻」を志願する場合があります。 特攻を自ら志願した場合でも志願するに至った切欠や物の考え方を与えてしまったことが問題です。 つまり、現代で言えば大人の誰かが積極的に「テロリスト」を育てることにとても近いようなことが美術の世界では行われています。 学生には特攻させておきながら、自分たちはぬくぬくと温床に居座り続けようとして自分の子供や縁故の学生を大学の教員のポジションに据える。 愚かであさましく恥ずべきことです。 芸大美大では特攻を知りながら周りの大人が全力で阻止すること。 阻止するすべがないことが問題です。 周りの大人も悪いと思います。 なんでもかんでも突っ込んで行きゃあいいというものではない。
特攻を阻止することは何も学生の夢を諦めさせるということではありません。 夢を諦めさせるというのではなく、可能性のある者やタイミングを見極めて、的確な助言を行うということです。 可能性とは例えば我々大人がパイを決める決定権のあるものであれば予め何名その中に入れるのかはすでにわかっていることなので、なんとかそれを公のルールに則りながら無謀な「特攻」に走る前に公開できるようにすることです。
科によっては大学の教員にならなければ生き残ることが難しいところもあるのでそのような状況を大学生ではなく、志望校を選択する前の受験生に確実に伝わるようにすること。 今の所公開しないことで多くの利益を上げていたり、その科の卒業生の生きるすべともなっていることなので大学内部では公開することに対して消極的・・というより隠蔽に近い状態だと思います。 パイが小さく実は数人分しかないことははっきりと学生には言いません。 でももう限界にきています。大学が動かないので外部が動き始めました。 私もその一人です。 ある科の大学院生にアンケートを取ったことがあります。 大学の中に入って知った現実を予備校にいる時に知っていればこの科を選ぶことはなかった。 アンケートを取った全員が口を揃えて言ったことです。 なんと愚かで馬鹿げたことでしょう。 彼らは在学中なので動くことはできません。 ただ、他の大学では学生がとうとう声を上げてしまいました。 それを止めることもできない我々も彼らにとって無用で愚かで自分の都合しか考えない馬鹿な生き物です。 そう思われているから自らのリスクを省みず大学に「特攻」したのです。 我われが彼らに勧めたい矛先はそこではないのに・・・。 愚かなのは「私たち」です。 その自覚がない状況が美術とデザインにとって実はまずいのだと思います。 我々のように受験生に向けて言いたかったことを胸にしまっているOBが大勢います。 私は彼らOBに大学を変える力があると思います。
我々は日陰にいる人間です。 実は日陰の中にも「美術とデザイン」はあります。 日陰の中の美術とデザインは巨大です。 その巨大な美術とデザインを日向の人間は知りません。 日陰にいる我々は大学と美術とデザインの世界を変える力を持っています。 つまり、今の日向の世界は限界に来ている。 ごく小さな一部に光を与える今のあり方はこれからの世の中で通用することはありません。 もうじき壊れます。 壊れた後、大学の教員の中でリストラされる者が出てきます。 リストラされた教員のほとんどがサバイバルする力はないのでアーティストとしての活動で生計を立てることができません。 実家の仕事を手伝ったり、高校の先生になったりするのでしょう。 おかしいですね?学生やOBにはあれほど仕事をせずにアーティストとしての活動を続けるように言うのに・・。 自分は「特攻」しないなんて・・・。
芸大受験では周りの多くの受験生が東京藝術大学に合格することができずに玉砕する光景
を目の当たりにします。 その中で玉砕が当たり前のことになってしまいます。
それともう一つ、自らすすんで「犠牲」になることを肯定する言動と、「男はひもになれ」という言動が一部の教員の中で伝統として根強くあり、多くの教員の脳裏にまだその残像があることです。 つまり、東京藝術大学には「犠牲」になることが美しいことであり、「ひも」として他人を利用することが勇ましいことという思想があるのです。
「犠牲」ではなく、学生の目指す先にある美術とデザインにその学生にとっての「夢」が本当にある場合はハイリスクハイリターンで特攻しても、それは個々の学生が自らの目の前にあるチャンスに向かうことなので全く問題はありません。 でも、実際はそうではなく、お前は「才能」がないからせめて私のために「犠牲になれ」という考えがあるのです。 学生をコマとしか見ていないあさましい思想です。 最近の○大アメフト部のようなあさましい思想は残念ながら東京藝術大学にもあります。
問題は「特攻」した先に確実に「敗戦」という現実があることを知りながらそれを止めない大人と自分たちが儲けるためにしらばっくれて勧める「大人」の存在があることです。
美術とデザインの世界は人の「幼児性」に漬け込んで悪巧みをする輩が大勢います。 彼らにとって大人になりきれない弱い幼児は利用するには都合のいい存在です。 輩に利用されないためには、簡単に「特攻」を賞賛するのではなく冷静に状況を見つめて幼児から大人に学生を育て上げなければなりません。
多くの大人が美術とデザインの世界をハイリスクハイリターンだと誤解しています。 なので、備えが疎かな状態でも「勇気」だけを武器に「特攻」する姿が無意味に賞賛されてしまいます。 (美術とデザインの世界には前例のない面白いものを作り出そうとする考えがあります 。それは例えばみんなが反対しても自分がいけるという確信が持てれば実力行使していいという考えです。 でも、これと闇雲で無謀な「特攻」とは全く違います。) 非常識が常識として通用してしまう誤った認識があります。 お酒の弱い人に無理やり飲ませてしまうような愚かな認識です。 東京芸術大学の異常な入試倍率はその典型だと思います。 芸大美大の世界には特攻しなければ「夢」が実現しない。 そのような幻想があるのです。 実際は適性があれば東京藝術大学に行かなくてもデザイナーやアーティストにはなれます。 成功している人ほど意外に特攻などという無謀なことはしていません。 成功するのであれば身の破滅は意味ありませんよね?勝機でなければ特攻ではなく「温存」するべきですよね?
「特攻」は戦争マニアや美術館や画廊は喜びます。 でも彼らが喜ぶようなエピソードや武勇伝の成功例は実際ほぼないのです。 このような状況に陥ったのは誰かが儲けるために考えている陰謀です。 戦争マニアによって美術予備校は「特攻」する生徒数を増やし、美術館は「特攻」する出品者を増やし、貸画廊は「特攻」する高額なレンタル料を支払う作家と「特攻」する売れるわけがない作品を購入してくれるコレクターを増やします。
「特攻」しても長く生きていると九死に一生を得るような状況はあります。 でも、私が思うのは実際に若者たちがチャンスを掴むのは、落ち着いて、十分にゆとりを与えて、冷静さを保てる状況で掴むものだと思います。 つまり、私は焦らせて成功することはないと思います。
まだ戦う時期ではない未成熟の学生に「夢」をけしかける輩がいます。 「オレオレ詐欺」のようなものです。 その思惑には大勢の学生を入学させて多くの学生を玉砕させて不問にした方が都合いいとの考えもあります。 そのような考えはFランクの学校に多いと思います。 玉砕させてその姿を賞賛しつつ納得させ、黙らせて一般職なりファミレスのアルバイトなりに、ササっと納めてしまう。 学生に虚構のプライドを与えておいてプライドを高めておけばファミレスでアルバイトをしたり敗戦した現状を恥じるので大ぴろげに騒ぎ立てることはありません。
学生が自ら「特攻」を志願する場合があります。 特攻を自ら志願した場合でも志願するに至った切欠や物の考え方を与えてしまったことが問題です。 つまり、現代で言えば大人の誰かが積極的に「テロリスト」を育てることにとても近いようなことが美術の世界では行われています。 学生には特攻させておきながら、自分たちはぬくぬくと温床に居座り続けようとして自分の子供や縁故の学生を大学の教員のポジションに据える。 愚かであさましく恥ずべきことです。 芸大美大では特攻を知りながら周りの大人が全力で阻止すること。 阻止するすべがないことが問題です。 周りの大人も悪いと思います。 なんでもかんでも突っ込んで行きゃあいいというものではない。
特攻を阻止することは何も学生の夢を諦めさせるということではありません。 夢を諦めさせるというのではなく、可能性のある者やタイミングを見極めて、的確な助言を行うということです。 可能性とは例えば我々大人がパイを決める決定権のあるものであれば予め何名その中に入れるのかはすでにわかっていることなので、なんとかそれを公のルールに則りながら無謀な「特攻」に走る前に公開できるようにすることです。
科によっては大学の教員にならなければ生き残ることが難しいところもあるのでそのような状況を大学生ではなく、志望校を選択する前の受験生に確実に伝わるようにすること。 今の所公開しないことで多くの利益を上げていたり、その科の卒業生の生きるすべともなっていることなので大学内部では公開することに対して消極的・・というより隠蔽に近い状態だと思います。 パイが小さく実は数人分しかないことははっきりと学生には言いません。 でももう限界にきています。大学が動かないので外部が動き始めました。 私もその一人です。 ある科の大学院生にアンケートを取ったことがあります。 大学の中に入って知った現実を予備校にいる時に知っていればこの科を選ぶことはなかった。 アンケートを取った全員が口を揃えて言ったことです。 なんと愚かで馬鹿げたことでしょう。 彼らは在学中なので動くことはできません。 ただ、他の大学では学生がとうとう声を上げてしまいました。 それを止めることもできない我々も彼らにとって無用で愚かで自分の都合しか考えない馬鹿な生き物です。 そう思われているから自らのリスクを省みず大学に「特攻」したのです。 我われが彼らに勧めたい矛先はそこではないのに・・・。 愚かなのは「私たち」です。 その自覚がない状況が美術とデザインにとって実はまずいのだと思います。 我々のように受験生に向けて言いたかったことを胸にしまっているOBが大勢います。 私は彼らOBに大学を変える力があると思います。
我々は日陰にいる人間です。 実は日陰の中にも「美術とデザイン」はあります。 日陰の中の美術とデザインは巨大です。 その巨大な美術とデザインを日向の人間は知りません。 日陰にいる我々は大学と美術とデザインの世界を変える力を持っています。 つまり、今の日向の世界は限界に来ている。 ごく小さな一部に光を与える今のあり方はこれからの世の中で通用することはありません。 もうじき壊れます。 壊れた後、大学の教員の中でリストラされる者が出てきます。 リストラされた教員のほとんどがサバイバルする力はないのでアーティストとしての活動で生計を立てることができません。 実家の仕事を手伝ったり、高校の先生になったりするのでしょう。 おかしいですね?学生やOBにはあれほど仕事をせずにアーティストとしての活動を続けるように言うのに・・。 自分は「特攻」しないなんて・・・。