東京芸大生特攻ハザード
東京藝術大学、それと武蔵野美術大学、多摩美術大学の一部の学部は入試が高倍率になります。
武蔵野美術大学と多摩美術大学の受験生は経済的に私立の美大に通うことができる受験生です。
東京藝術大学の受験生の中には経済的に私立の美大に通うことができない受験生がいます。
彼らの中には私立の美大に通うことができないために東京藝術大学に合格できなかったら他に行くあてのない人がいます。
彼らの多くは受験生の中では優秀です。
でも、彼らの多くは大学に行くことができません。
彼らは大学に行けなかった場合、将来美術とデザインの世界で仕事をする時の多くはFランクの美大に進んだ人たちの下につくことになります。
受験の時に見下ろしていたFランクの人たちが上司になるのです。
大学に行かなくても美術とデザインの世界に入り込めた人はまだいいと思います。
彼らの多くは受験を断念した後は美術とデザインの世界から離れてしまいます。
離れた後に待っているのはファミレスなどのアルバイトです。
これは美術とデザインの世界にとっては大きな損失です。
そして、このような事態が容易に想定できることは芸大美大受験が嫌煙される理由の一つでもあります。
彼らの生きる道が今見えているというわけではありませんが、でも、もしこの問題について考えて、解決に取り組めるとしたらそれに取り組むのは「美術予備校」に他ならないのかもしれません。
彼らに対するアフターケアーはこれまで一切何もされてきませんでした。なのでこれについて向かい合ってみたいと思います。
彼らは大手優良企業に勤めることはできません。つまり就職するとなるとブラック企業に入らざるを得ないことが多くなると思います。
そうすると私としてはブラック企業に勧めるわけにはいきません。残る道はフリーで生きる道を開拓することかもしれません。
東京藝術大学を受験する〜ダメだったらフリーで頑張れば大丈夫。 そのようなイメージが完全に定着できれば、受験生は今よりも安心して受験にのぞめるのかもしれません。 また、それを避けようとする動きも活発になると思います。 実際に多浪している彼らは優秀です。 無理な話でもないかもしれません。 これが形になれば彼らは芸大受験に失敗しても美術やデザインの人として玉砕することがなくなります。 なのでじっくりと考えていこうと思います。
「マウント」
難関校の受験生の健康的な態度は美術予備校や芸大に対してマウントをとることです。 受験はあくまで「大学に入るため」のものですが、相手があまりにも大きいと話が少しずれてしまうこともあるようです。 滅多に巡り会えない強敵を眼の前にして最高潮に胸が高まる。 日常で抑えている闘争心を最大限に解放して戦えるのですから快感以外の何物でもありません。 入試はそのような楽しみがあります。 美術予備校と芸大は彼らのその楽しみの邪魔をしてはなりません。 つまり、彼らにマウンティングしてしまう先生がいます。 彼らが芸大と美術予備校にマウントを仕掛けたのだとすれば、それで受験に勝てたら人生最高の喜びを知ることになるでしょう。 そして仮に負けたとしても敗北感の中にもどこかやり切れた清々しさがあるのではないでしょうか?
私の好きな物語に「白鯨」(LDなのでちゃんと読めてないのですが・・)があります。 「白鯨」は神に勝てないことがわかっていても戦いを挑んでしまう勇敢な人間の物語です。 芸大の受験生はこの物語の人たちのように巨大な敵と戦うことを楽しんでいると思います。 美術予備校にできることは彼らを最大限に支援すること。 そしてこれからの課題は敗れた人のアフターケアーではないか?と思います。 アフターケアーについては今の所あまり良いと言えるようなアイデアがありません。
その昔、戦時中に「神風特攻隊」と言って多くの学生が特攻服を着て、帰りのガソリンを戦闘機(飛行機)に積まずに、敵艦目指して戦闘機ごと突っ込んで行きました。
「お国のため」
自分の命を省みず多くの若者が命を落としました。
まず、私はこの思想に大反対です。(たいていそうですよね)
「自己犠牲」
芸大美大の世界にはこれと同じ思想があります。
この思想を持つ若者が悪いわけではありません。悪いのはその若者がそのような考えに至るような窮地に立たせた大人です。
私が東京藝術大学の学生だった20年前と比べると今は随分「自己犠牲」の意識は学生から薄れているようですが、いまだに教員の中には学生が犠牲になればいいという考え方があるように思います。
学生一人ひとりを見て、アーティストになれるか?〜なれない〜犠牲になる。 といった単純な思考の流れで犠牲への道へと橋渡ししています。「10年に一人の逸材」を輩出するための犠牲。各専攻のほとんどの学生は教員にとって犠牲です。 薄れてはいても根強く残る概念。この概念は今ではもう必要ありません。 「自己犠牲」という概念は「日本に10年に一人の逸材を輩出する」という使命感からきています。 東京藝術大学として逸材を輩出しなければならない。輩出できれば、それによって学生たちも日本も教員の皆さん全員が誇りを持てる。 その意識は正しい面もあります。でも間違いです。それが間違いであるのは、まず10年に一人の逸材をそのような方法では生み出すことはできないこと。 そして、10年に一人の逸材は自らの力で生まれてくること。 東京藝術大学はその箱になればそれでよくてそれ以上は何もできないこと。 東京藝術大学にできることは学生全員が10年に一人の逸材に成りうるので、その可能性を最大限に広げる努力をすることです。 「10年に一人の逸材」を生み出すという発想は学生の中の一人に眼を向け、それ以外の学生に向かう眼を無くします。経済的に不安定な戦後ならともかく、今は一人に絞る必要は全くありません。 戦後ならその一人を選び出す根拠はあったと思われます。 バタバタと同級生が戦争で命を落とす時代。そのような時代であれば友を想い自分を犠牲にしようとする考えは十分わかります。 でも今はそのような時代ではありません。 「10年に一人の逸材」を輩出するためにその他の学生が「犠牲」という考えは全く意味をなさない考えです。 それを捨てて、新たに持ち得なければならない考え方は「全ての学生を生かす」というものです。 繰り返しますが今は全ての学生が「逸材」となる可能性があります。 逆に言えば誰が光るかわかりません。 その大きな可能性を今の東京藝術大学は、いや正確には科によってという言い方が正しいのかもしれません「10年に一人の逸材」の概念によって失っています。 一人ひとりの学生を生かすにはどうすれば良いか?その方法を想像すれば自ずと道は見えてきます。 ざっくり言えば30年くらい・・というか一生のスパンをかけて「逸材」に仕上げる計画を立てること。今の芸大にはその発想が欠けています。 東京藝術大学の学生は実は一生を美術とデザインに捧げるだけの使命感を持っています。黙って「犠牲」を受け入れ文句ひとつ言わない人間力の強さは相当なものです。 その力を生かせるのは今の世の中だからできることです。と、呼びかけて動きそうもないので外部の私が芸大生の生きる道を作り出すために動いています。 私でもできることなので、そっちでとっとと、ささっとやりましょうよ・・。
世の中には「英雄志向」があります。 戦争では「英雄志向」に答えるだけの十分な舞台があります。 美術とデザインも同様に舞台はあります。 ただし、美術とデザインの世界には「死」はないので特攻のように美しく散るようなことはありません。 美術としての「死」は向かえても、その後に自分の人生は特攻の前には想像しなかったはっきりとしたダサい形が残り、無様に続きます。
「英雄志向」を持つ者は芸大の中でもほんの一握りです。 それを貫ける強い精神の持ち主はそのまま貫くと良いと思います。 問題はそこまでの強靭な精神の持ち主ではない人間をそこに押し込んでしまうことです。 芸大に限らず美術とデザインの世界全般はそこに押し込むことで儲けてきました。 でも、もうそれはこれからの時代では通用しません。 なぜなら、押し込むことは隠蔽体質の世の中、つまり情報がない世の中で成し得てきたことで、情報がインターネットによって出回るこれから隠蔽はできません。 実際に美術とデザインの世界で儲けている人は「特攻」のような無理はしていません。 ゆっくりとじっくりと落ち着いて時期をまち、少しづつ形にしていった人たちです。 彼らは「特攻」などと自滅してしまうかもしれないような危なっかしい道は自分に対しては選びません。人にやらせます。
またの機会に詳細にお話ししますが、天才育成計画で進める計画の一つに「芸大美大の受験倍率を下げ止める」があります。 現在(2019年)の芸大美大の受験生の数は3000人程度です。 これは私が大学に入学した1996年の東京藝術大学絵画科油画専攻たった一つの受験者数と同等です。 私はこのまま受験生の減少傾向は続いて1500名程度まで落ち込むと考えています。 その時点で倒産する大学や統合する学科が出てきます。 美術予備校は現在既に歪な状態です。 歪な状態から角が取れて将来は新たなビジネスモデルに変わっているはずです。 つまり、大手予備校は今の形で運営していくことは不可能です。 クマビのような小回りの効くビジネスモデルでなければ運営は絶望的だと思います。 今の減少傾向の要因の一つが愚かな「特攻」です。 これからは情報が出回るので愚かな「特攻」をする受験生はさらに減ります。 受験生が「特攻」を余儀なくされる機会は受験だけではありません。 大学を出る時にもう一度「特攻」させられます。 受験倍率を下げどまらせるには幾つかの方法があります。 一つをお話しすると大学を出る時の美術とデザインのパイを受験生に逐一公開して信頼回復に努め無謀な「特攻」の一切をなくすこと。 そして適性のある受験生が落ち着いて美術とデザインの世界を志望できる下地を作ること。大学を出た後に美術とデザインの世界で残っている人には明らかな適性があります。 まず、情緒が安定して心身ともに健康であること。学力が偏差値60程度はあることです。 又はそれを補う地頭の良さや体育会系でスポーツの世界などで優秀な結果を残していることやひたすら真面目であることなども適性として見えてくると思います。 つまり、適性のある人が手堅く仕事をして生活できる世界だということがわかれば、訳のわからない「特攻」のおかげで美術とデザインに興味はあるけれども嫌煙している学生たちが芸大美大を受験するようになります。 彼らが芸大美大を受験するようになった時の数が本当の芸大美大受験の実数です。 その実数は数千人ということはないと思います。 1万人は超える規模です。 1万人規模の受験生を集めるには従来の東京藝術大学の受験倍率のように倍率を異常に高騰させてはなりません。 そして各科でたったひとつの予備校に生徒が集まる状況でもありません。 全国から受験生が出てくるはずです。 これについては後日改めて詳細にお話しします。
東京藝術大学を受験する〜ダメだったらフリーで頑張れば大丈夫。 そのようなイメージが完全に定着できれば、受験生は今よりも安心して受験にのぞめるのかもしれません。 また、それを避けようとする動きも活発になると思います。 実際に多浪している彼らは優秀です。 無理な話でもないかもしれません。 これが形になれば彼らは芸大受験に失敗しても美術やデザインの人として玉砕することがなくなります。 なのでじっくりと考えていこうと思います。
「マウント」
難関校の受験生の健康的な態度は美術予備校や芸大に対してマウントをとることです。 受験はあくまで「大学に入るため」のものですが、相手があまりにも大きいと話が少しずれてしまうこともあるようです。 滅多に巡り会えない強敵を眼の前にして最高潮に胸が高まる。 日常で抑えている闘争心を最大限に解放して戦えるのですから快感以外の何物でもありません。 入試はそのような楽しみがあります。 美術予備校と芸大は彼らのその楽しみの邪魔をしてはなりません。 つまり、彼らにマウンティングしてしまう先生がいます。 彼らが芸大と美術予備校にマウントを仕掛けたのだとすれば、それで受験に勝てたら人生最高の喜びを知ることになるでしょう。 そして仮に負けたとしても敗北感の中にもどこかやり切れた清々しさがあるのではないでしょうか?
私の好きな物語に「白鯨」(LDなのでちゃんと読めてないのですが・・)があります。 「白鯨」は神に勝てないことがわかっていても戦いを挑んでしまう勇敢な人間の物語です。 芸大の受験生はこの物語の人たちのように巨大な敵と戦うことを楽しんでいると思います。 美術予備校にできることは彼らを最大限に支援すること。 そしてこれからの課題は敗れた人のアフターケアーではないか?と思います。 アフターケアーについては今の所あまり良いと言えるようなアイデアがありません。
その昔、戦時中に「神風特攻隊」と言って多くの学生が特攻服を着て、帰りのガソリンを戦闘機(飛行機)に積まずに、敵艦目指して戦闘機ごと突っ込んで行きました。
「お国のため」
自分の命を省みず多くの若者が命を落としました。
まず、私はこの思想に大反対です。(たいていそうですよね)
「自己犠牲」
芸大美大の世界にはこれと同じ思想があります。
この思想を持つ若者が悪いわけではありません。悪いのはその若者がそのような考えに至るような窮地に立たせた大人です。
私が東京藝術大学の学生だった20年前と比べると今は随分「自己犠牲」の意識は学生から薄れているようですが、いまだに教員の中には学生が犠牲になればいいという考え方があるように思います。
学生一人ひとりを見て、アーティストになれるか?〜なれない〜犠牲になる。 といった単純な思考の流れで犠牲への道へと橋渡ししています。「10年に一人の逸材」を輩出するための犠牲。各専攻のほとんどの学生は教員にとって犠牲です。 薄れてはいても根強く残る概念。この概念は今ではもう必要ありません。 「自己犠牲」という概念は「日本に10年に一人の逸材を輩出する」という使命感からきています。 東京藝術大学として逸材を輩出しなければならない。輩出できれば、それによって学生たちも日本も教員の皆さん全員が誇りを持てる。 その意識は正しい面もあります。でも間違いです。それが間違いであるのは、まず10年に一人の逸材をそのような方法では生み出すことはできないこと。 そして、10年に一人の逸材は自らの力で生まれてくること。 東京藝術大学はその箱になればそれでよくてそれ以上は何もできないこと。 東京藝術大学にできることは学生全員が10年に一人の逸材に成りうるので、その可能性を最大限に広げる努力をすることです。 「10年に一人の逸材」を生み出すという発想は学生の中の一人に眼を向け、それ以外の学生に向かう眼を無くします。経済的に不安定な戦後ならともかく、今は一人に絞る必要は全くありません。 戦後ならその一人を選び出す根拠はあったと思われます。 バタバタと同級生が戦争で命を落とす時代。そのような時代であれば友を想い自分を犠牲にしようとする考えは十分わかります。 でも今はそのような時代ではありません。 「10年に一人の逸材」を輩出するためにその他の学生が「犠牲」という考えは全く意味をなさない考えです。 それを捨てて、新たに持ち得なければならない考え方は「全ての学生を生かす」というものです。 繰り返しますが今は全ての学生が「逸材」となる可能性があります。 逆に言えば誰が光るかわかりません。 その大きな可能性を今の東京藝術大学は、いや正確には科によってという言い方が正しいのかもしれません「10年に一人の逸材」の概念によって失っています。 一人ひとりの学生を生かすにはどうすれば良いか?その方法を想像すれば自ずと道は見えてきます。 ざっくり言えば30年くらい・・というか一生のスパンをかけて「逸材」に仕上げる計画を立てること。今の芸大にはその発想が欠けています。 東京藝術大学の学生は実は一生を美術とデザインに捧げるだけの使命感を持っています。黙って「犠牲」を受け入れ文句ひとつ言わない人間力の強さは相当なものです。 その力を生かせるのは今の世の中だからできることです。と、呼びかけて動きそうもないので外部の私が芸大生の生きる道を作り出すために動いています。 私でもできることなので、そっちでとっとと、ささっとやりましょうよ・・。
世の中には「英雄志向」があります。 戦争では「英雄志向」に答えるだけの十分な舞台があります。 美術とデザインも同様に舞台はあります。 ただし、美術とデザインの世界には「死」はないので特攻のように美しく散るようなことはありません。 美術としての「死」は向かえても、その後に自分の人生は特攻の前には想像しなかったはっきりとしたダサい形が残り、無様に続きます。
「英雄志向」を持つ者は芸大の中でもほんの一握りです。 それを貫ける強い精神の持ち主はそのまま貫くと良いと思います。 問題はそこまでの強靭な精神の持ち主ではない人間をそこに押し込んでしまうことです。 芸大に限らず美術とデザインの世界全般はそこに押し込むことで儲けてきました。 でも、もうそれはこれからの時代では通用しません。 なぜなら、押し込むことは隠蔽体質の世の中、つまり情報がない世の中で成し得てきたことで、情報がインターネットによって出回るこれから隠蔽はできません。 実際に美術とデザインの世界で儲けている人は「特攻」のような無理はしていません。 ゆっくりとじっくりと落ち着いて時期をまち、少しづつ形にしていった人たちです。 彼らは「特攻」などと自滅してしまうかもしれないような危なっかしい道は自分に対しては選びません。人にやらせます。
またの機会に詳細にお話ししますが、天才育成計画で進める計画の一つに「芸大美大の受験倍率を下げ止める」があります。 現在(2019年)の芸大美大の受験生の数は3000人程度です。 これは私が大学に入学した1996年の東京藝術大学絵画科油画専攻たった一つの受験者数と同等です。 私はこのまま受験生の減少傾向は続いて1500名程度まで落ち込むと考えています。 その時点で倒産する大学や統合する学科が出てきます。 美術予備校は現在既に歪な状態です。 歪な状態から角が取れて将来は新たなビジネスモデルに変わっているはずです。 つまり、大手予備校は今の形で運営していくことは不可能です。 クマビのような小回りの効くビジネスモデルでなければ運営は絶望的だと思います。 今の減少傾向の要因の一つが愚かな「特攻」です。 これからは情報が出回るので愚かな「特攻」をする受験生はさらに減ります。 受験生が「特攻」を余儀なくされる機会は受験だけではありません。 大学を出る時にもう一度「特攻」させられます。 受験倍率を下げどまらせるには幾つかの方法があります。 一つをお話しすると大学を出る時の美術とデザインのパイを受験生に逐一公開して信頼回復に努め無謀な「特攻」の一切をなくすこと。 そして適性のある受験生が落ち着いて美術とデザインの世界を志望できる下地を作ること。大学を出た後に美術とデザインの世界で残っている人には明らかな適性があります。 まず、情緒が安定して心身ともに健康であること。学力が偏差値60程度はあることです。 又はそれを補う地頭の良さや体育会系でスポーツの世界などで優秀な結果を残していることやひたすら真面目であることなども適性として見えてくると思います。 つまり、適性のある人が手堅く仕事をして生活できる世界だということがわかれば、訳のわからない「特攻」のおかげで美術とデザインに興味はあるけれども嫌煙している学生たちが芸大美大を受験するようになります。 彼らが芸大美大を受験するようになった時の数が本当の芸大美大受験の実数です。 その実数は数千人ということはないと思います。 1万人は超える規模です。 1万人規模の受験生を集めるには従来の東京藝術大学の受験倍率のように倍率を異常に高騰させてはなりません。 そして各科でたったひとつの予備校に生徒が集まる状況でもありません。 全国から受験生が出てくるはずです。 これについては後日改めて詳細にお話しします。