天育実験工房★幻想サミット「絵画の見方サミット」
● 認識の作法〜絵画を見る見せる瞬間について
みなさんは絵やアートを見る時どのような見方をしますか?・・・
あ、もしかすると・・これってあなたにとって「キラーパス」ですか・・そうならないことを願います・・。
すみません。 突然聞かれても困る方が多いかもしれませんね・・答え方がわからないと言葉に詰まってしまいます・・。 答え方がわからないと芸大生でも言葉に詰まります。
かく言う私自身他の人とこのような話をすることはありません。 生徒ともしませんね・・。 生徒にもしない理由は核心をつく話にたどり着くまでに様々な話を挟む必要があり、話が長くなりすぎて現実的に無理だと思うからです。 多くの先生が中途半端になることを懸念して話さないと思います。 今回のお話をする意図には生徒に話せるようにするためもあります。 あ、私このHP見てもおわかりの通り生徒に対して相当口数多いです。うざいです。生徒は迷惑です。それでもこのお話はしません。
どのように作品を見たりしているか。 その他には考えているかといったことは意外と同業者同士でも話さないものです。 主な理由は日本人がみんな控えめだから・・。 そして仮に話したとしたら衝突になることも予想されるからです。 衝突が予想されるのは意見を出しあえる場がなく、あらゆる考え方を出し切ってまとめる機会が未だかつてないからです。 なので今回幻想公開講座で行います。つまり全員が手探りなのです。 一般の方は芸大美大生は授業で習うように思われるかもしれませんが、そのような気の利いた授業は芸大美大にはありません。 こんな面倒なだけで出世につながらないことは奴らはやりません。奴らにとって生徒は黙っていた方が楽。
一般的には絵をどのように見るか話さない理由は「馴染みがない」からだと思います。 珍しい話題に盛り上がる機会もあるかもしれませんが、大抵採用しても特に盛り上がりそうもない話題なので話すことは少ないでしょう。 鑑賞者のことなどどうでもいいという感覚もあると思います。 利益がそこにないのですから。 不遜ですね。 それを突く者は組織の中にいません。
今日のお話のキーワードは「馴染みがない」です。 このことは今後の天育の話にちらほら出すつもりです。 今回のお話で「馴染みがない」ということについて考えてみる切っ掛けになればいいかな〜と思います。
すみません・・・「絵をどのように見るか・・」
私からお答えしなければなりませんね・・。楽に聞いて頂ければと思います。
えっと・・私は適当です・・後、サーッと作品の前を素通りする感じでパーッと観ちゃいます。あの、1つずつはよく観ません。パッと気になったものだけよく観ます。他は流します。
気になった作品は見方のわかる作品です。後は正直何にもわかりません。そんなもんです。 なんとなくわかったような感じがして作った本人に聞いてみたら全然違ってた!なんてことが多いのであんまり深く考えないようにして、あえて勝手に解釈するようにしています。 勝手に解釈しないと作者も困ります。 作者の多くはわかりやすく説明できないんで見る側が一方的に正しい解釈に拘っても困るし、拘った所で結局の所で誰も何もわかりません。 多くの場合、本気で作者に追求するといじめてるみたいになるのでそれもできませんし・・・。 アーティストの多くは自分の作品の説明ができません。そのため適当に解釈してくれて、買ってくれたり賞をくれたりすることを望んでいます。 「何にもわからない」そういう時は取り合わないでアートはなんでも「自由にのびのび」「才能」ということで流してしまわれて結構です。 そのように忖度することがこの世界の常識、追求することが非常識という感覚はあります。 とにかく作品の値段が上がったり儲かればいいのです。 なので値段は吊り上げ放題です。 建前。 建前がいつしか常識となり、良識のように扱われるようになりました。 それを肯定する論調が増え、その度にアートは理解不可能なものになりました。 作者が説明できないことも表現の自由として受け入れているのがアートです。 そうするとその時点で鑑賞者に理解を強要したり強制する権利はアートの側にありません。 あ、そうそう、学生の作品を見る時も同じような感覚があります。 ただ、指導では流せないので意地悪にならないように配慮しながら追求します。 それで少しずつロジックなボキャブラリーをインプットして語彙を増やし脳を育てていますが、それでも論理的に物事を考えられる思考が持てるまでに育つ学生はほんの一握りです。
そしてその様相はアート全体を見ても同様だと思います。
つまり、ほとんどのアーティストが論理的な思考で作品を考えていないので説明することはできないのです。 そしてその現象が表す大切なことは多くのアーティストの問題は論理的な思考が未成熟であること。 つまり脳を育てることで今まで伝わらなかったことが伝わるようになるのです。
話が長いですが、もう少し付け加えれば、絵を見る時は、学校の中で人の顔を見る時みたいな感じに似ていると思います。 知らない人かどうかの判断は一瞬でします。人の眼や記憶とは素晴らしいものです。 それで知らない人の顔はいつまで見ても知り合いにはならないので見ません。知らない人で気になる人は、気になったからといってすぐに声をかけることはしないで、あえてどのような人か勝手に解釈するようにしています。 こいつは危なそうだとか・・。私には関わらずに相手のことを見透かすだけの眼力はないのでパッと見ただけでは人のことも作品のこともよくわかりません。 知り合いである程度関わったことがあればわかりますが、仲良くなければ大抵コミュニケーションが成立しないのです。街中で知らない人と映画を見に行ったりしませんよね? それと同じで日頃から常識のすり合わせをしてコミュニケーションが成立することがわかっている人としか絡まないのです。 作品もそれと同じです。 作者が鑑賞者を取り合わないのもそういった感覚からきています。 名画を見ても関わりがなければスーッと入っていかない。 人間にはそのような認識のエントリープラグがあると思います。 馴染んでいるものでなければエントリープラグが接続されない。 新しい車に乗っても、絵画や美人と同じように綺麗でかっこいいと思ってもすぐには馴染まない。 知らない人と突然映画を見に行くような感じって不味いですよね? 「鑑賞」には「馴染み」が必要なのです。 そしてアートの鑑賞とはただ見て終わるだけの浅いものではなく、人を巻き込む深いものだと思います。 つまり、私の場合、少ないけれども私の人生を巻き込む絵画があったと思います。 そしてそれは決して多くはない。 馴染みのない違和感は作品を鑑賞する時に誰もが抱いているはずです。 知り合いと会ったらそれぞれの知り合い別に「おきまり」のコミュニケーションの基礎的な動作をします。 コマネチしたり、ハイタッチしたり、白目むいたり・・。 「おきまり」がなければキョトンとなります。 鑑賞した後に何か虚しいのはキョトンとなっているからです。 コマネチしたりする作法があればキョトンとはならないのです。 コミュニケーションには基礎としてそのような作法があるのです。 余談ですが私は天育の文章を書き終えたら作品を発表しようと考えています。 それは今発表してもみんなには馴染まないからです。そして私自身も自分自身の作品に馴染まない。 馴染まない発表ほど虚しいものはないと私は思っています。 天育の中で十分に私の作品のコンセプトと認識の作法の話をさせて頂いてから発表した時にはキョトンとする方も少ないのではないかな〜と思っています。 それで今の所私の作品は私の所で基礎的なコミュニケーションの作法で対話中です。 作品と対峙する時は独特の波長でコミュニケーションをとる対話がある。 そして私にはその対話の認識の作法を詳細に説明する準備がある。 で、発表は死んだ後する予定です。 多分。