天育実験工房★幻想サミット「絵画の見方サミット」
● アカデミズム
アートの世界は元々アカデミズムの作り出した常識があり、認識の仕方があります。 物をどのように見れば良いか突き詰めた結果、アカデミズムは融通の聞かない偏執的なものになりました。 かつてデュシャンが嫌った網膜で何でもかんでも評価するとか何たらです。 でも本来のアカデミズムが確立した物の見方は私たちにとってわかりやすいものでした。 普通に本物そっくりに物が表現され、ぺったんこの壁に絵で手が入るように見える3次元的な空間が作られ、絵で華やかに装飾され、単純に絵の美しさを追求したものです。 古い言い方をすれば「審美眼」です。 「審美眼」が高尚なアートの中核を担う人間が持つ常識でした。 でもこの常識は哲学や科学や文学などの知識がなければ言葉にすることは難解なことでした。 言葉を知らない人には何かわからないけれど美しさを感じる。 その何かが言葉です。 自然発生的なものではなく人工的なものです。 夜を汚いと教育されれば夜が汚いものと認識される。 「汚い」とは認識の作法を教育することで生まれた人工的なものです。 汚いと言われるものの中に造形的に美しくないものはありません。 でも汚く見えてしまうのは作法を教育されたからです。 本当に危険なものであれば汚いものとして見ることは良いと思いますが「いじめ」のように中には無くさなければならないネガティブなものもあります。 いじめの認識の作法については後日改めてお話しします。 この審美眼で見る絵画の世界は予め認識の仕方の説明がいらないことの多い、誰もが普遍的に美しさを、慣れ親しんだ生活の中で、教育されて認識できるものです。 でもこの美しさは形式があります。 つまり、アカデミズムは、アカデミズムの用意した常識で理解できる形式で作られているので、その辞書にない美しさを認める機能がありませんでした。世の中にはあらゆる美しさがあります。 例えばみんながブサイクだという自分の顔をありがたいことにイケメンだと思う人がいるように・・。 例えば学校の中でごく少数の勝ち組の飛び抜けたイケメンと可愛い女の子が大切なように、私たちのような負け組のイケてないその他大勢のみんなの中からイケメンと可愛さをなんとか見出していくことは大切なことです。 そしてその活動の意識が高まれば革命が起き、クラスで一番のイケメンが一番モテる奴になるわけではないのです。クラスの認識の作法の逆転が生んだ下克上。 アートもこのような転覆を図る活動がたくさん見られます。 我々の、多くの人にとって、みんなの中から価値を見出すことの方がアカデミズムが示す価値に習い従うよりも大切なことは沢山あるのです。 そのような働きが進めば私は学校や職場でいじめがなくなると考えています。 高校を中退する女の子の中には美少女が多い。 そんなこんなでアートの世界は「自分で由とする。自分を由とする」いわゆる「自由」を大切にしてきました。 元々アカデミズムによって作られたアートは、今は権威ではなくみんなのためのアートになろうとしています。 ・・多分。 そうなろうとした時にアートは様々な美しさを許容することが求められるようになります。 アートの世界は少しづつ色んな価値観を取り込みながら今まできています。 でも、その価値観の多くはわかりずらいものです。 なぜこの子がイケメンなのか・・頭を悩ます時、その子をイケメンだという子の認識の仕方を学ぶと良いのです。 あ、確かにちょっと可愛く見える・・・といった発見や発明は人類にとって大切なのです。 そして新たな価値の多くはわかりずらいものです。予め説明がないから。説明できないから・・。 美少女でない子から美少女に見える見方を見出したとしたら、それを説明することはとても難解なことです。 でもそれができるのがアーティストなのです。 ここで1つ簡単に美少女にする方法をお教えします。 それは・・部屋を真っ暗な暗闇にすることです。 後、天育の暗闇図画工作にも同様の力があります。みんなの絵が傑作になる。
● マニエリスム
現代を生きる私たちにとってのアートが難解なイメージを纏ったのは日本で印象派が流行って以降、マニエリスムといって芸術対芸術、アートがアートと向かい合って作品を作り、アートを考え、深め、広げていく時代が続いたからです。 私はその流れを、アートが、特にアカデミズムが私たちの側に歩み寄るために必要だった流れだと見ています。 そして世の中のみんなが絵を描けるようになるまで後もう一歩・・かな・・と思っています。 単純にアートが私たちの側に歩み寄るためだけにここまできたとはいいません。 あくまでマニエリスムはみんなにとってわかりやすいファインアートに対抗する形で生まれた難解なコンテンポラリーアートです。 が、少しずつ側に近づいてきている感じがするのは確かです。 マニエリスムの関わりは「アートに詳しい人とアートの関わり」です。 そのため詳しくない人は作品の見方がわからなければわかりません。 そのような状況の中でアーティストはわかりやすい作品を作る人とわかりずらい、伝わることを最優先にすることに囚われないで独自の認識の仕方で作品を作る人に分かれました。 独自の認識の仕方で作品を作るアーティストは自分の認識の仕方を探ることで精一杯です。 そのような状況の中でアートは鑑賞者のことまで気が回らず、アーティストの認識の仕方を理解しようとすることだけで精一杯のように私には見えます。なぜこの子が美少女に見え、これがイケメンに見えるのか・・。 それでも運営するために展示はしなければならない。つまりアートの外の世界の人たちに向けてわかりやすく伝える努力をする余裕がないのです。 展示はするものの実際には作品の表面を見せるだけで本質は伝わりません。 本質が伝わらずに、いつしかそれが常識となり、今ではそれが慣習にもなってしまっていると思います。 私はこれが今の難解なアートの実態だと考えています。 でも、このような時期を経て少しずつアートが様々な認識の仕方を見つけていけば、みんなにとってわかりやすいアートになるとも思っています。そのため今はこのような話をみんなに向けてするべきなのだと思うのです。● 観客の多くが外国の方?
私が美術館に行く時、観客の過半数が外国の方です。 外国の方の多くはアートの見方を学んでいます。 その状況を見て日本人にはそれだけアートが伝わっていないのだと私は思います。 私が思うにその大きな原因は幼稚園、小学校、中学校、高校での図画工作と美術の授業でアートのことをわかるように教えていないからだと思います。 逆に海外の学校はアートと馴染み、国によっては幼稚園から美術の専門的な教育を実践しています。 日本は他の教科に比べてあまりにも指導内容の中に専門的な知識と専門的な造形が織り込まれていない。 あたかも作為的にアートを理解できない国民を育て上げようとしているかのようです。 専門性を高め高度な知識と造形力を身につけさせることに対して否定的なので、カリキュラムはおさなすぎます。 結果として学校で専門的な知識と技術を学ぶ機会がないために学校を出て大人になって美術館に行くこともままなりません。 幼稚園、小学校の体育の授業では少しずつ高度な運動能力を育てることができます。 でも、図画工作の造形能力に関しては低すぎます。 図画工作と美術の授業では、専門的な知識と技術指導がしやすいアカデミックな内容には触れず、入って行かず、難解な、「自由にのびのび」や「個性」や「才能」といったアートに詳しくない人にはわからない道に入り込んでしまいます。 また、「自由にのびのび」「個性」「才能」といったことを大切にしているからといっても、その内容はアカデミックではない現代美術などのアートとも似ていても常識として共通する部分があまりに少ないので、学校で学んだ常識がそのまま芸大美大に進学してアートの道に入ったとしてもそのままが上手く通用することはありません。 幼稚園から高校までの美術教育でアカデミックな指導を迂回してしまうことで、大学で教員を育てることが容易になっても、それが原因となって日本人がアートのアカデミズムから現代美術までのコンテクストを学ぶ機会を逸しています。 タレントと違ってアートを馴染ませる場所はテレビではありません。学校です。幼稚園から高校まで美術の授業を受けたとしてもモチーフの形すら取れない。 つまり、体育で言えば走れない。音楽で言えば譜面に合わせて歌すら歌えない状況です。
モチーフの形を取り、立体感を出し、色作りしながら色と形をどのように観るかを実感し、色と形の扱い方を覚える。少しずつ色んな物の見方、認識の仕方があることを知ることが大切です。 それを導入しなければ、急に自由な認識の仕方で図画工作しろと言われてもできませんし、自由なアートの話をされても誰もピンときません。
しっかりと形を取らなければ音楽で言えば譜面に合わせて歌うところを「奇声をあげている」にすぎません。 奇声をあげているだけだと異様ですし、それは楽しいとは思いますが、「感性を養う」ということでもありません。 図画工作の「自由にのびのび」は音楽で言えば「奇声をあげている」だけです。 体育で言えば、野球をしていてバットが球に当たってもいないのにグラウンド中を走り回ってしまう。 奇声をあげたり、グラウンド中を走り回ることは障害を抱えた子に対しては、それを寛容に受け止める思いを常識としてみんなが持つために大事な認識です。 しかし健常者は自由に叫んだり、駆けったりたりすることは苦痛です。できません。なんならあなた街中を奇声を上げながら走り回ってください。 幼稚園の年少さんで少しやるくらいで、年中さんになったらすぐにルールを教えて専門的な指導を行うべきです。 小学校低学年までに少なくとも形くらいは取れるように指導するべきだと考えます。 幼稚園の子たちにとって図画は異様なものです。子供たちにとっては、きったね〜色と形をぐちゃぐちゃやるだけのおぞましいものです。 大人に忖度して子供たちは何も言いませんが、本音を聞いてみるとみんなそんな感じです。 私は子供たちの声を聞いて健康的だな〜と思い、全員忖度しているんだな〜賢いな〜と安心します。 先生たちや親御さんも同じようなもんです。 学校でぐちゃぐちゃを推奨することを教えられたので、本音ではぐちゃぐちゃが「きたね〜」と思っていても空気を読んだり忖度して言いません。 ぐちゃぐちゃさせて美術が得をし、徳を高める時代は終わりました。もうやめませんか・・?と思うのですがどうでしょう?まだ・・忖度続けますか?あ、あなた教育委員会ですか・・あなたの顔汚いですよ。 鏡見た方がいいかも・・・。あなた方が目薬にしている神戸発の激辛カレーが顔についてますよ・・。