天育実験工房★幻想サミット「絵画の見方サミット」
作品を見る時、あなたは、何も考えていない・・。
そうですか!いやそれは良かった!!
アートはよく人に恐怖を与えます。 馴染む前に恐怖を与えてしまってはアート的に不味いのです。 何もない時点で既に怖がって構えてもらっては困ります。 絵やアートの世界は散々人を「才能」「天才」という言葉で馬鹿にして、劣等感を植え付けた上で、「輝かしい賞」「庶民には到底たどり着かない高額な値段」などでしたり顔でジョジョ立ちを決めながら人を見下した上で、権力を行使することで儲けようとするもさほど儲からず、ただ怖がらせてしまうだけで終わるお馬鹿ちゃんな所があります。 画壇や先生様のコネとか忖度とか、法外という言葉で、もはやおさまらないオークションで、意味なく釣り上ったアートのアホな値段で嫌悪させてきていて、人に構えさせてしまうことが多いので、まだあなたが先入観なく何も考えていない状態であることが助かります。 もし何かあればその時は絵やアートの世界の人間が予めみなさんに考える材料を説明するべきなのです。 具体的かつ詳細になぜ100億もの金額になるのか・・。 それがなければ如何わしいにもほどがあります。 説明が必要なものに対する説明がないのは「不遜」です。 というか実際はオークションのその現象を論理的にわかりやすく説明できる者がおらず、全員脳が未熟なのです。 現象に誰もついていけない。 買っている人間でさえ。 説明がない時は当然、構えずにそのまま自然に・・自然に・・流してもいいですし、自由に鑑賞してください。 不遜な態度を貫こうとする奴に大した奴はいません。 中身がないのに偉そうにしようとする。 100億の具体的な中身はありません。 そのようなつまらん輩がこの世界では多いのです。 そういう奴には白目むいてやってください。 見ているけれど見ていない新手の無視です。 私は生徒にやられたことがあるのでどれほどの威力かわかります。 そしてその後にちょっとだけそいつのことを考えてやってください。 不思議とそういったことから馴染んでいくこともあるのです。 アホな高額な値段に踊っている奴らを助けないと・・と思うのは私だけでしょうか・・。
あなたは、そうですか・・見方があるのでそれを勉強してから見ますか。
勉強熱心ですね、確かに色んな作品があって見方がわかると作者の意図がよくわかることがありますね。 面白いものも多いですね。 作者の中にははっきりとわかりやすく説明できる人もいます。 そういった作者の作品に触れてみるのもいいですね。 後、でも、その後に馴染むものと、それでも馴染まないものが沢山ありますね・・。
何の手がかりもなく、わからないものだらけの時はどうしましょう・・・。
そうですか・・自由に見ますか。
私もみなさんにお勧めするのは自由に見る見方です。これが基本だと思います。
だったらこんな話必要ないのでは・・好きに見させてくれ・・。
そうですよね、みなさんにとってはそれで良い話です。 しかしみなさんと向かい合う私たちの方に、私は大きな問題があって、心配とか、懸念を抱いていて私は私たちの問題をおこがましいですが私の問題として解決したいのです。 私の問題とはつまり、作家として作品を発表する気になれない。 そしてアート全体が脳が未熟でその状況で騒乱が起きないように権力でねじ伏せているので、萎縮した生徒が自由に発言できるようにならない。
解決とはつまり、私たちの側の人の多くが気づいていないことがあって、今回の話をきっかけに気づいて頂いて解決する・・気づくだけでもアートがより良い形へと大きく変われる気がするのです。 私にとっては深く馴染んでいるアートですから、その素晴らしさや未来の社会にとって具体的に機能することが良く分かるのです。
「気づくべきこと」は、ざっくり言えば、見せる側が見る人に予め作品の見方を伝えるべきということです。 現場でがっかりさせないように出来れば事前に馴染ませておくべきです。
馴染ませるとはつまり映画を例に挙げると映画に出てくるタレントはテレビで日頃から馴染んでいます。 これは芸能事務所の努力です。 なので映画を見た時にスッと入ってくる。 それに比べて絵画は題材の多くは馴染みがない・・。 それを事前にパンフレットか何かで馴染ませておくなどすれば絵画を見た時の入り方が変わります。 場合によって導入が上手くいけばスッと馴染むことができます。 絵画の題材を馴染ませる・・・そのような必要を考える作家は少ないですよね・・。 つまりそれはそれだけ鑑賞者ファーストではないということなのです。 そしてそれは作家の導入が下手ということです。 「伝える」ことが作家の仕事である以上、導入の下手な作家はもはや作家として成立していないですよね?偉そうな態度をとる暇があったら「自由に見てくれ」ぐらい言えませんか?
「見方」として自由に見て欲しい場合は自由に見てくださいと一言添えておくべきです。 そうしなければアートは見方を予め予習しておかなければならないとか、自由に見ていいとか色んなことを言われているのでそのような雑音を小耳に挟んだ人たちが混乱しています。 作者がどのように物事を認識して制作したのかを説明しなければならない場合は、自分がどのように物事を認識したのかを言葉などでわかりやすく、見る人に表現できるようにしておかなければなりません。 現状では説明するべきことがかすかで見つけにくいものなので気づかなくて、説明できない、又はしないで流すことが当たり前の感覚でいます。 説明できないというか、もっと正確にいうとかすかすぎて説明するべきとも思わない。 かすかなことはとても繊細でささやかです。 精神の機微を敏感に、毎日それに向かい合うなどしなければわかる瞬間はきません。 「気づかなくても当然のこと」です。 でもそれを流してしまえば鑑賞者も流すしかないので自由に鑑賞させる以外の表現は成立しないのです。 でも、決まってそういった伝わらない時には鑑賞者を悪者にする。そのような意味のない愚痴のような論調ばかり聞こえてきます。 鑑賞者に一切非はありません。 鑑賞者はアートと馴染んでいないから反論しないだけです。 一番怖いのは世の中のアートに対する無関心です。
表現にはコミュニケーションの基礎が必要です。 基礎とは常識です。 つまりあなたの中にある、言葉になっている常識の全てを洗ってみれば、その作業のどこかのタイミングでこれまでかすかに感じていた認識と合致する言葉が見つかるのです。 その言葉はあなたが常に心のどこかで大事にしている認識=常識です。 おこがましいですがそれを知らない人が多いので言わせて頂きます。
今日の話の・・「気づかなくても当然のこと」とは、人の、眼で物を見る時の認識には、予め用意した作法があるということです。 眼の前には複雑な情報が溢れています。 その一切にとらわれずにスッと必要な情報だけを狙って辿り着く作法を我々は知っています。 作法はスッと常識にたどり着く方法です。 馴染みのタレントの顔がテレビに映るとスッと入りますが知らない人の顔が映ると?と一瞬困惑します。 作者は暗黙の了解で鑑賞者も同じ作法を持っていることに淡い期待を抱きます。 つまりこの場合に気づかなければならないのは無意識の内に自分が用意している、観る瞬間に採用している「作法」のことです。 作法の用意があれば主観と主観が通じ間主観性が働きます。 作品の鑑賞者とその方法を共有しなければ共通認識を持つことはできません。 共通認識を持たなければ鑑賞者は独自に用意した認識の仕方を持ち出して、独自に認識します。 鑑賞者が独自に用意した認識の作法を持ち出した時点で、作者と鑑賞者は常識を共有することができません。 一緒にテレビを見ているご老人がタレントの名前を完全に間違えて別人を勘違いしている場合、ご老人と感覚を共有することはできません。 この瞬間の常識とはつまりお互いに共有する知識のこと。歴史観であったり、生活観であったり、美術史観であったりします。 常識が2人のコミュニケーションの基礎となるのです。コマネチは1000年後の人にはおそらく通じません。 でも白目は通じます。 私はお菓子のパックンチョが好きです。 でもだからと言ってあなたの作ったチョコレートのお菓子を好きになるかどうかはわからないのです。 仮にあなたが同じチョコレートだからと言って好きになることを強要しても、パックンチョで常に認識できるものがなければ無理なものは無理なのです。 あなたがパックンチョの常識を理解し、あなたの作ったお菓子がパックンチョの常識を・・例えば食感とか・・甘味とか、口に入れた時の大きさとか、側の硬さや厚みを表現していれば好きになる可能性はあります。 作品は鑑賞者が見たり、触れたりした瞬間に常識を表出するように作られています。パックンチョのように・・。 パックンチョという常識が作品を紐解き、作者の主観の中で複雑に絡み合った紐の間から垣間見れる作者のパックンチョを見つけることで表現は成立します。 作者と鑑賞者の間に本当に伝わって欲しい常識は美術史でも歴史でもありません、作者と鑑賞者が共に感じた感覚です。 パックンチョを食べたことのない鑑賞者は素通りして頂いた方がいいのです。逆にパックンチョを食べたことがある人にパックンチョのことを事前に話さないのはチャンスロスです。
そうですか!いやそれは良かった!!
アートはよく人に恐怖を与えます。 馴染む前に恐怖を与えてしまってはアート的に不味いのです。 何もない時点で既に怖がって構えてもらっては困ります。 絵やアートの世界は散々人を「才能」「天才」という言葉で馬鹿にして、劣等感を植え付けた上で、「輝かしい賞」「庶民には到底たどり着かない高額な値段」などでしたり顔でジョジョ立ちを決めながら人を見下した上で、権力を行使することで儲けようとするもさほど儲からず、ただ怖がらせてしまうだけで終わるお馬鹿ちゃんな所があります。 画壇や先生様のコネとか忖度とか、法外という言葉で、もはやおさまらないオークションで、意味なく釣り上ったアートのアホな値段で嫌悪させてきていて、人に構えさせてしまうことが多いので、まだあなたが先入観なく何も考えていない状態であることが助かります。 もし何かあればその時は絵やアートの世界の人間が予めみなさんに考える材料を説明するべきなのです。 具体的かつ詳細になぜ100億もの金額になるのか・・。 それがなければ如何わしいにもほどがあります。 説明が必要なものに対する説明がないのは「不遜」です。 というか実際はオークションのその現象を論理的にわかりやすく説明できる者がおらず、全員脳が未熟なのです。 現象に誰もついていけない。 買っている人間でさえ。 説明がない時は当然、構えずにそのまま自然に・・自然に・・流してもいいですし、自由に鑑賞してください。 不遜な態度を貫こうとする奴に大した奴はいません。 中身がないのに偉そうにしようとする。 100億の具体的な中身はありません。 そのようなつまらん輩がこの世界では多いのです。 そういう奴には白目むいてやってください。 見ているけれど見ていない新手の無視です。 私は生徒にやられたことがあるのでどれほどの威力かわかります。 そしてその後にちょっとだけそいつのことを考えてやってください。 不思議とそういったことから馴染んでいくこともあるのです。 アホな高額な値段に踊っている奴らを助けないと・・と思うのは私だけでしょうか・・。
あなたは、そうですか・・見方があるのでそれを勉強してから見ますか。
勉強熱心ですね、確かに色んな作品があって見方がわかると作者の意図がよくわかることがありますね。 面白いものも多いですね。 作者の中にははっきりとわかりやすく説明できる人もいます。 そういった作者の作品に触れてみるのもいいですね。 後、でも、その後に馴染むものと、それでも馴染まないものが沢山ありますね・・。
何の手がかりもなく、わからないものだらけの時はどうしましょう・・・。
そうですか・・自由に見ますか。
私もみなさんにお勧めするのは自由に見る見方です。これが基本だと思います。
だったらこんな話必要ないのでは・・好きに見させてくれ・・。
そうですよね、みなさんにとってはそれで良い話です。 しかしみなさんと向かい合う私たちの方に、私は大きな問題があって、心配とか、懸念を抱いていて私は私たちの問題をおこがましいですが私の問題として解決したいのです。 私の問題とはつまり、作家として作品を発表する気になれない。 そしてアート全体が脳が未熟でその状況で騒乱が起きないように権力でねじ伏せているので、萎縮した生徒が自由に発言できるようにならない。
解決とはつまり、私たちの側の人の多くが気づいていないことがあって、今回の話をきっかけに気づいて頂いて解決する・・気づくだけでもアートがより良い形へと大きく変われる気がするのです。 私にとっては深く馴染んでいるアートですから、その素晴らしさや未来の社会にとって具体的に機能することが良く分かるのです。
「気づくべきこと」は、ざっくり言えば、見せる側が見る人に予め作品の見方を伝えるべきということです。 現場でがっかりさせないように出来れば事前に馴染ませておくべきです。
馴染ませるとはつまり映画を例に挙げると映画に出てくるタレントはテレビで日頃から馴染んでいます。 これは芸能事務所の努力です。 なので映画を見た時にスッと入ってくる。 それに比べて絵画は題材の多くは馴染みがない・・。 それを事前にパンフレットか何かで馴染ませておくなどすれば絵画を見た時の入り方が変わります。 場合によって導入が上手くいけばスッと馴染むことができます。 絵画の題材を馴染ませる・・・そのような必要を考える作家は少ないですよね・・。 つまりそれはそれだけ鑑賞者ファーストではないということなのです。 そしてそれは作家の導入が下手ということです。 「伝える」ことが作家の仕事である以上、導入の下手な作家はもはや作家として成立していないですよね?偉そうな態度をとる暇があったら「自由に見てくれ」ぐらい言えませんか?
「見方」として自由に見て欲しい場合は自由に見てくださいと一言添えておくべきです。 そうしなければアートは見方を予め予習しておかなければならないとか、自由に見ていいとか色んなことを言われているのでそのような雑音を小耳に挟んだ人たちが混乱しています。 作者がどのように物事を認識して制作したのかを説明しなければならない場合は、自分がどのように物事を認識したのかを言葉などでわかりやすく、見る人に表現できるようにしておかなければなりません。 現状では説明するべきことがかすかで見つけにくいものなので気づかなくて、説明できない、又はしないで流すことが当たり前の感覚でいます。 説明できないというか、もっと正確にいうとかすかすぎて説明するべきとも思わない。 かすかなことはとても繊細でささやかです。 精神の機微を敏感に、毎日それに向かい合うなどしなければわかる瞬間はきません。 「気づかなくても当然のこと」です。 でもそれを流してしまえば鑑賞者も流すしかないので自由に鑑賞させる以外の表現は成立しないのです。 でも、決まってそういった伝わらない時には鑑賞者を悪者にする。そのような意味のない愚痴のような論調ばかり聞こえてきます。 鑑賞者に一切非はありません。 鑑賞者はアートと馴染んでいないから反論しないだけです。 一番怖いのは世の中のアートに対する無関心です。
表現にはコミュニケーションの基礎が必要です。 基礎とは常識です。 つまりあなたの中にある、言葉になっている常識の全てを洗ってみれば、その作業のどこかのタイミングでこれまでかすかに感じていた認識と合致する言葉が見つかるのです。 その言葉はあなたが常に心のどこかで大事にしている認識=常識です。 おこがましいですがそれを知らない人が多いので言わせて頂きます。
今日の話の・・「気づかなくても当然のこと」とは、人の、眼で物を見る時の認識には、予め用意した作法があるということです。 眼の前には複雑な情報が溢れています。 その一切にとらわれずにスッと必要な情報だけを狙って辿り着く作法を我々は知っています。 作法はスッと常識にたどり着く方法です。 馴染みのタレントの顔がテレビに映るとスッと入りますが知らない人の顔が映ると?と一瞬困惑します。 作者は暗黙の了解で鑑賞者も同じ作法を持っていることに淡い期待を抱きます。 つまりこの場合に気づかなければならないのは無意識の内に自分が用意している、観る瞬間に採用している「作法」のことです。 作法の用意があれば主観と主観が通じ間主観性が働きます。 作品の鑑賞者とその方法を共有しなければ共通認識を持つことはできません。 共通認識を持たなければ鑑賞者は独自に用意した認識の仕方を持ち出して、独自に認識します。 鑑賞者が独自に用意した認識の作法を持ち出した時点で、作者と鑑賞者は常識を共有することができません。 一緒にテレビを見ているご老人がタレントの名前を完全に間違えて別人を勘違いしている場合、ご老人と感覚を共有することはできません。 この瞬間の常識とはつまりお互いに共有する知識のこと。歴史観であったり、生活観であったり、美術史観であったりします。 常識が2人のコミュニケーションの基礎となるのです。コマネチは1000年後の人にはおそらく通じません。 でも白目は通じます。 私はお菓子のパックンチョが好きです。 でもだからと言ってあなたの作ったチョコレートのお菓子を好きになるかどうかはわからないのです。 仮にあなたが同じチョコレートだからと言って好きになることを強要しても、パックンチョで常に認識できるものがなければ無理なものは無理なのです。 あなたがパックンチョの常識を理解し、あなたの作ったお菓子がパックンチョの常識を・・例えば食感とか・・甘味とか、口に入れた時の大きさとか、側の硬さや厚みを表現していれば好きになる可能性はあります。 作品は鑑賞者が見たり、触れたりした瞬間に常識を表出するように作られています。パックンチョのように・・。 パックンチョという常識が作品を紐解き、作者の主観の中で複雑に絡み合った紐の間から垣間見れる作者のパックンチョを見つけることで表現は成立します。 作者と鑑賞者の間に本当に伝わって欲しい常識は美術史でも歴史でもありません、作者と鑑賞者が共に感じた感覚です。 パックンチョを食べたことのない鑑賞者は素通りして頂いた方がいいのです。逆にパックンチョを食べたことがある人にパックンチョのことを事前に話さないのはチャンスロスです。