天育実験工房★幻想サミット「絵画の見方サミット」
● 新しい時代の精神
図画工作と美術の授業に対して本当に納得している親御さんと子供と先生は少ないです。?ではない方は多分いません。いるの?あ、いたの?え、え、なんで???心のどこかで「不可解」だとかすかに感じたり、具体的に思ったりしています?。 アートだから、私は才能ないから・・といった感じで流して誤魔化しています?とこんな感じです。
これが、本当は良くない?状況です。少し病んでいる?ような感じだと私は考えます。つまり混乱している。
闇はしっかりと専門的な知識や技術を指導することで払われます。
正確に形が観れる認識の仕方を教える。正確に観れたと実感できることで初めて観ることに自信を持てます。
観れると実感させる。そうすることで初めて多様なアートに目を配る気持ちや切っ掛けが生まれ美術館に足を運ぶのだと思います。
正確に色と形が見れない状態では「自由でのびのび」も何もあったものではありません。 自由でもないし、のびのびでもありません。ただ未成熟なだけです。 車の運転で言うなら運転の仕方を教わらないで、昨今の高齢者と同じように人の命を奪うような事故を起こすような運転をしているのと同じです。 子供で言えば発達障害が起きているのと同じです。色と形が見れない人は自由にのびのび楽しく描いているわけではありません。 彼らなりに必死に思い通りの色と形にしようともがき苦しんでいます。もがき苦しんだ挙句に全く思い通りにならないから始末が悪いです。 残るのは嫌悪感と嫌気です。それを払拭するのはコンクールで「輝かしい賞」を与えることです。そうすればモヤモヤしていてもとりあえず誤魔化せます。 真実は輝かしい賞で真実を隠蔽する前の、大人と子供と先生の心の中にあります。新しい時代では図画工作と美術をこのような病的な状態から抜け出させることが大切です。 コンクールで入った誤った認識は高校の授業と美術部が出品するコンクールまでしか通用しません。芸大美大入試では途端に靄が晴れて真実に触れます。 靄が晴れた時に、空気を読んで、「黙って頭の中を全てリセットして切り替えられる子」しかそれから先に進むことはできません。 その時に、なんで?と納得しなかったり、冗談じゃない?と反発しようとしたり、そんなはずはないと固執すると100%確実に立ち往生します。 誰も声を挙げませんが由々しき事態です。
真実に目を向けて正しく教育すること。これが新しい時代が持たなければならない時代の精神だと思います。 「自由にのびのび」の中には大切な部分もあります。 しかし偏執的になりすぎるあまりに間違った使われ方をされています。 間違った使われ方とは、「専門的な教育を先生ができないことを誤魔化す」ために使われていることです。 「自由にのびのび」は専門的な教育の中のほんの一部に収まるべき概念です。 それを全体に蔓延させることで指導できないことを誤魔化してきました。 「自由にのびのび」=「免罪符」は幼稚園や小学校の先生を指導する時にはとても助かる神の光のような概念ですが、教育を受ける子供と親御さん、芸大美大にとっては心の闇を生むの悪の影です。 とても大きな功罪を生む、とても不味いことです。幼稚園と小学校の先生になろうとする教育学部の大学生の多くは美術が苦手です。 とても難解で恐ろしく、不安で、ストレスを感じるものだと思います。でもそこに問題の根源があるのです。 つまり、専門的な知識と造形力を身につけるのは指導方法が進歩した今はさほど難しいことではありません。 テコでも動かないと思いますが大学で教員をしっかり育てればいいだけの話です。 でも私の知る限り教育系の大学にそれができる教員がいませんし、そういった能力を持った教員が教育系の大学に流れていきません。
● ラグビー
最近終わってしまいましたが、これを書いている2019年の現在はラグビーのW杯の真っ只中でした。 私は基本ラグビーに興味がありませんが、一度だけ試合をテレビで見ました。 その時に感心したのが、試合の前に簡潔にラグビーのルールを知らない人のための説明が入ったことでした。 ラグビーのルールを知らない人が多いのは周知の通りです。 しかし、絵やアートもルールを知らない人が多いのも周知の通りです。 絵やアートがラグビーように鑑賞者が作品を眼にする前に作品の見方を簡潔にわかりやすく上手に説明することはありません。 説明しない理由には様々あると思います。まず、知っていて当然という態度の人もいるでしょう。 見方を説明しなければ伝わる可能性がない作品でも作品は自由に見るべきだという先入観が優位に立って説明を怠っている人もいます。 そのような特権階級的な意識でへりくだった気遣いをしない人もいます。 そのような気持ち悪い状況と比較してラグビーの鑑賞者の立場に立った親切なルールの説明に関心してしまうのです。● 絵の説明をするには・・
絵を見る時のルール。 絵を見る時の認識の仕方。 絵の認識の作法を説明するには自分が感じていることを言葉化する必要があります。 言葉化にはすぐにできるものとすぐにはできないものがあります。 言葉化の様子は物事を思い出すことに似ています。 例えば人の名前をすぐに思い出せる時と何日もかかってしまうことがあるように・・。 言葉化は頭の中にイメージや感触といった感覚の記憶を表出させ、そのイメージに合致する言葉を当てはめます。 表出された感覚の記憶は人類の長い歴史の中で、日本人であれば日本語として言葉化されています。 中々細かい物事や感覚でも調べてみると誰かが大昔に言葉化して言葉があるものです。 それを調べていくことで感覚の記憶は言葉になります。稀に言葉になっていないものは造語や文で表現します。 表現できないものは表現する努力が大切です。 表現しなければ作者の意図していることは鑑賞者に正しく伝わりません。言葉化の例で言うと、私の場合、私がこれまで暗黙の了解でカッコいい形としてきたものは幼い時、小2の時に初めてカッコいいというものを知ったガンダムのプラモデルのフォルムの記憶と合致する形です。
美しさとは何かと何かの輪郭がぴったりと合致し無駄のない整合性が認められる時に「美しい」という言葉が頭に表出されます。 無駄がないのは自然現象ではなく頭の中にある図式、シェマー、キーマ、私的に言うと「認識の作法」だからです。
クマビの生徒にはある部族の話をよくします。 北極圏にいるほぼ裸族の話です。 裸族と称して良いかどうか迷うのは、彼らの装いはヘソの下1センチの所に紐1本巻いているだけで他は何も身につけていないからです。 でも、彼らにとって、その紐をそこに1本だけ巻くことは絶対に必要なことで不可欠な装いなのです。彼らにとって「美しい」とはヘソの下に紐を1本巻くことです。 その認識の作法は無駄の一切ない綺麗な図式です。
既存のルールに関係なく、作者の独自の認識の作法が無駄のない図式としてあるのであれば、それは言葉化して簡潔にプレゼンするべきです。 プレゼンは鑑賞者が作品を眼にする前です。 そうしないのであれば鑑賞者には作品を自由に見て頂くしかありません。 それに説明できない以上、鑑賞者に既存のルールにも従わせないで自由を委ねておきながら、作品の見方があるということは言ってはならないでしょう。 それほど作者の思っている以上に作者の認識の作法や図式は綺麗には伝わらないものです。 綺麗に伝わらなかったら鑑賞者の中にはモヤモヤとした後味の悪さが残ります。 それは決して面白いものでもなく、綺麗なものでもなく、美しくもありません。 不快なものです。
このような状況を招いているのは鑑賞者ではありません。 作品を提示する側が招いている問題です。 デュシャンが網膜でなんたらと否定したのはアカデミズムです。 そのアカデミズムは網膜で見ただけでわかる伝わりやすいものです。 その伝わりやすいものを否定して伝わりにくいものを作って観客を呼び込んでおきながら、観客に網膜で見せるだけで何の説明もしないのは・・・。 言葉にならないような展示が多い。 そんな提示の仕方に対して鑑賞者は作品を自由に見て構わない・・と私は思います。