天育実験工房★幻想公開講座「うんこの図画工作教室」
「うんこの図画工作講座の失敗」
そもそも「うんこ」を題材に扱うことに眼を向けた切っ掛けはみんな「うんこ」が好きだからでした。 「うんこ」を使って図画工作の技術を学ぶことと心と体がうまく合致してフィックスすることを目論んでいました。 でも、まだ答えが見えなかったのは、女子から嫌がる子が出てくるということ。 当然です。 人前で物心のついた女の子が「うんこ」を描いてくれるわけはありません。 又、男の子は「うんこ」を描いてくれるとしても、自由にのびのび「うんこ」を描かせるうちに必ず調子に乗りすぎる子が出てきます。 そうすればそれを止めるしかなく、その時点で「自由にのびのび」の理想は崩れてしまいます。 本当は「自由にのびのび」図画工作をさせたい。でもそれができないのです。 私がしていることは「自由にのびのび」の不可能性を証明しているに過ぎないのかもしれません。 本当はワイワイギャハハと笑いながらみんなに「うんこ」を描かせる所から始めたかった・・。 でもできません。
ただ「うんこ」は全ての子供の内面とうまく繋がることができるモチーフの1つだと思います。 「うんこ」のイメージと概念を利用して図画工作と社会と子供が自然に繋がることを試みることはまだまだ続けます。 問題は女の子が「うんこ」の絵を描くことを心から受け入れてくれることです。 そのためにはジェンダー問題、セクハラの問題も考えなければなりません。 多分答えは「うんこ」をジェンダーでもセクハラでもない物事にしてしまうことにあると思います。 もっとその先に行かなければならない。 なのでアーティストとしてさらに本質を見続けようと思います。 答えを考えるのはこれからの課題です。
子供が制作することの技術を通じて、学びと心と体がフィックスすること。 そうすることで図画工作は真価を発揮します。発達障害や心身症の解決に力を発揮してくれるはずです。 私にとってそうであったように。 それには図画工作が権威や誤解を捨て社会に歩み寄らなければなりません。
「うんこ教室」「今日のうんこ」は私が長年温めてきた天才を育てる計画の1つです。
クマビは天才を育てる計画を成功させるためには2つのシステムを完成させなければならないと考えています。
1つは「自由にのびのび」で天才を育てるシステム。
もう1つは「芸大美大受験」を通じて天才を育てるシステムです。
「うんこ教室」は「自由にのびのび」で天才を育てるシステムの内の1つです。 「自由にのびのび」の弊害はルールです。 何を自由に、何をのびのびやるにしてもルールの壁が立ちはだかります。 でもそのほとんどが必要なルールです。 ルールの壁を壊すのは、人の目線を瞬時に内面に移してくれる「うんこ」です。 つまり、目線を外に向けると同時に必ず壁に当たるのではないか?と私は考えています。 絵画教室で「自由にのびのび」させるために最強のパーソナルスペースである「トイレ」にいるかのような空間を絵画教室の中に作りたいと考えています。
「うんこ教室」の課題にはカリキュラムがあります。 今の日本の美術教育は2つの異なる子供の適性を同じ環境とカリキュラムを使った授業で混同して指導してしまっています。 これは双方の生まれ持った天性の才能を瞬時に相殺してしまう大きな過ちです。双方を傷つけ合わないようにトイレで仕切らなければなりません。
混同しているカリキュラムの結果生まれた話の落とし所には、どちらにも馴染まない独自の型が生まれ、子供を最終的にその型に、最後は押し込んでしまいます。 その型が有効なのは学校を出た後に美術との関わりがほぼない人です。 学校を通じて知識として美術に触れることができた。それは素晴らしいものです。 事実私も含めて多くの美術の世界の人間は学校で美術に触れる切欠を得ています。 兎に角全ての日本人に美術に触れさせる。それは素晴らしいものです。 でも、そのリビングによって全ての美術がそぎ落とされもしているのです。
彫刻は一番繊細だと思います。 彫刻専用の生活空間を設計して与えていかなければ生きていくことはできません。 普通のリビングでは無理なのです。油画科はほとんどみんな油絵を販売して生活しようとは考えません。 油絵科のみんなにも専用の生活空間を設計して与えていかなければダメです。
うんこの図画工作講座の開講の目的の1つは、混同による弊害を静かに立証することです。
私が実践する2つのシステムとは、2つの異なる適性を綺麗に棲み分けること。 棲み分けのカリキュラムの正しさが立証されれば、静かに受け入れられると思います。 そしてそれぞれのシステムが棲み分けられた後に子供が問題なく育つ環境と設備と指導を与え、才能を潰してしまわないように注意して育てることです。 棲み分けられる先は「自由にのびのび」と「仕事」です。 「自由にのびのび」は普通、仕事になりません。 その代わり図画工作や美術が人の本来の「感性」「心」を守ってくれます。 でも、例外があって、おそらく100年にひとりくらいの割合で世界に出て、歴史に名を残す「天才」が生まれます。でもその子にはもっとも特殊な生活空間を設計して与えてあげなければなりません。 普通のリビングだと間違いなくダメになります。 「自由にのびのびによる天才」を育てることが天才育成計画で計画していることでもあります。 つまり、「自由にのびのび」を生涯徹すればそれが仕事になり、「天才」となる。実はこのような生き方は多くの人が心のどこかで憧れ、求めていることでもあります。 なので最強パーソナルスペース「うんこ教室」で天才を生み出すことを構想しています。
一方で「仕事」は楽しいものではありません。 その代わり夢に見た仕事を現実にしてくれます。 普通のリビングが与えてくれるものは「仕事」と繋がる生活空間です。 つまり、就職する子たちにとっては最適なリビングなのです。 現状の芸大美大がOBに与えているのは実は普通のリビングです。 それぞれの専門分野に適したリビングを設計して提供している専攻は1つもありません。 なので生活に破綻が起きてみんな玉砕します。
「自由にのびのび」と「仕事」は似て非なるものです。 絶対に混同してはいけません。 わかりづらいものなのでつい混同してしまいがちですが、絶対に分けなければ子供の将来を壊す事故が起きます。 実際に年間に何千、何万件という事故が起きています。 それを1日も早く立証しなければなりません。
子供は絵を描くときに、2つの反応を示します。 1つには絵を描く紙を前にして手が止まる。 もう1つは手が止まらない。
「自由にのびのび」というと後者の方だと考えられがちですが実は違います。 この2つの違いは「慣れ」を表しています。 この「慣れ」は実は「自由にのびのび」を最もつまらないものにしてしまう大敵なのです。
手が止まらない場合はすでにそのことについて経験があり知っています。 知識で描いているということです。 知っていることを同じように繰り返すのは普通はあまり面白いものではありません。 面白いものは新鮮です。
わからないことをする時「注意力」は働きます。 人間の感性が働く瞬間です。 私はそれがこれまで美術が大切にしてきたことだと考えています。 でもその多くは世の中に伝わっていないのです。
さて、とにかく天育実験工房★幻想公開講座「うんこの図画工作教室」
のはじまりはじまり〜
そもそも「うんこ」を題材に扱うことに眼を向けた切っ掛けはみんな「うんこ」が好きだからでした。 「うんこ」を使って図画工作の技術を学ぶことと心と体がうまく合致してフィックスすることを目論んでいました。 でも、まだ答えが見えなかったのは、女子から嫌がる子が出てくるということ。 当然です。 人前で物心のついた女の子が「うんこ」を描いてくれるわけはありません。 又、男の子は「うんこ」を描いてくれるとしても、自由にのびのび「うんこ」を描かせるうちに必ず調子に乗りすぎる子が出てきます。 そうすればそれを止めるしかなく、その時点で「自由にのびのび」の理想は崩れてしまいます。 本当は「自由にのびのび」図画工作をさせたい。でもそれができないのです。 私がしていることは「自由にのびのび」の不可能性を証明しているに過ぎないのかもしれません。 本当はワイワイギャハハと笑いながらみんなに「うんこ」を描かせる所から始めたかった・・。 でもできません。
ただ「うんこ」は全ての子供の内面とうまく繋がることができるモチーフの1つだと思います。 「うんこ」のイメージと概念を利用して図画工作と社会と子供が自然に繋がることを試みることはまだまだ続けます。 問題は女の子が「うんこ」の絵を描くことを心から受け入れてくれることです。 そのためにはジェンダー問題、セクハラの問題も考えなければなりません。 多分答えは「うんこ」をジェンダーでもセクハラでもない物事にしてしまうことにあると思います。 もっとその先に行かなければならない。 なのでアーティストとしてさらに本質を見続けようと思います。 答えを考えるのはこれからの課題です。
子供が制作することの技術を通じて、学びと心と体がフィックスすること。 そうすることで図画工作は真価を発揮します。発達障害や心身症の解決に力を発揮してくれるはずです。 私にとってそうであったように。 それには図画工作が権威や誤解を捨て社会に歩み寄らなければなりません。
● 場外の話
私のやりたいことは、絵の天才を育てることです。「うんこ教室」「今日のうんこ」は私が長年温めてきた天才を育てる計画の1つです。
クマビは天才を育てる計画を成功させるためには2つのシステムを完成させなければならないと考えています。
1つは「自由にのびのび」で天才を育てるシステム。
もう1つは「芸大美大受験」を通じて天才を育てるシステムです。
「うんこ教室」は「自由にのびのび」で天才を育てるシステムの内の1つです。 「自由にのびのび」の弊害はルールです。 何を自由に、何をのびのびやるにしてもルールの壁が立ちはだかります。 でもそのほとんどが必要なルールです。 ルールの壁を壊すのは、人の目線を瞬時に内面に移してくれる「うんこ」です。 つまり、目線を外に向けると同時に必ず壁に当たるのではないか?と私は考えています。 絵画教室で「自由にのびのび」させるために最強のパーソナルスペースである「トイレ」にいるかのような空間を絵画教室の中に作りたいと考えています。
「うんこ教室」の課題にはカリキュラムがあります。 今の日本の美術教育は2つの異なる子供の適性を同じ環境とカリキュラムを使った授業で混同して指導してしまっています。 これは双方の生まれ持った天性の才能を瞬時に相殺してしまう大きな過ちです。双方を傷つけ合わないようにトイレで仕切らなければなりません。
混同しているカリキュラムの結果生まれた話の落とし所には、どちらにも馴染まない独自の型が生まれ、子供を最終的にその型に、最後は押し込んでしまいます。 その型が有効なのは学校を出た後に美術との関わりがほぼない人です。 学校を通じて知識として美術に触れることができた。それは素晴らしいものです。 事実私も含めて多くの美術の世界の人間は学校で美術に触れる切欠を得ています。 兎に角全ての日本人に美術に触れさせる。それは素晴らしいものです。 でも、そのリビングによって全ての美術がそぎ落とされもしているのです。
彫刻は一番繊細だと思います。 彫刻専用の生活空間を設計して与えていかなければ生きていくことはできません。 普通のリビングでは無理なのです。油画科はほとんどみんな油絵を販売して生活しようとは考えません。 油絵科のみんなにも専用の生活空間を設計して与えていかなければダメです。
うんこの図画工作講座の開講の目的の1つは、混同による弊害を静かに立証することです。
私が実践する2つのシステムとは、2つの異なる適性を綺麗に棲み分けること。 棲み分けのカリキュラムの正しさが立証されれば、静かに受け入れられると思います。 そしてそれぞれのシステムが棲み分けられた後に子供が問題なく育つ環境と設備と指導を与え、才能を潰してしまわないように注意して育てることです。 棲み分けられる先は「自由にのびのび」と「仕事」です。 「自由にのびのび」は普通、仕事になりません。 その代わり図画工作や美術が人の本来の「感性」「心」を守ってくれます。 でも、例外があって、おそらく100年にひとりくらいの割合で世界に出て、歴史に名を残す「天才」が生まれます。でもその子にはもっとも特殊な生活空間を設計して与えてあげなければなりません。 普通のリビングだと間違いなくダメになります。 「自由にのびのびによる天才」を育てることが天才育成計画で計画していることでもあります。 つまり、「自由にのびのび」を生涯徹すればそれが仕事になり、「天才」となる。実はこのような生き方は多くの人が心のどこかで憧れ、求めていることでもあります。 なので最強パーソナルスペース「うんこ教室」で天才を生み出すことを構想しています。
一方で「仕事」は楽しいものではありません。 その代わり夢に見た仕事を現実にしてくれます。 普通のリビングが与えてくれるものは「仕事」と繋がる生活空間です。 つまり、就職する子たちにとっては最適なリビングなのです。 現状の芸大美大がOBに与えているのは実は普通のリビングです。 それぞれの専門分野に適したリビングを設計して提供している専攻は1つもありません。 なので生活に破綻が起きてみんな玉砕します。
「自由にのびのび」と「仕事」は似て非なるものです。 絶対に混同してはいけません。 わかりづらいものなのでつい混同してしまいがちですが、絶対に分けなければ子供の将来を壊す事故が起きます。 実際に年間に何千、何万件という事故が起きています。 それを1日も早く立証しなければなりません。
● 注意力
人は様々な物事を感じとったり、言葉にして考えたりします。 人は瞬きをしながら、気づいては忘れ、考えては忘れを繰り返します。 昔の人は瞬きの度に物事を忘れていると考えたようです。 忘れることが多いので「切ない」。 瞬きによって物事を忘れることを刹那滅と言います。 見たものを瞬時に記憶し、眼に映った残像を瞬時に消さなければ、眼に映った残像が眼から離れなければ生きていけずに死にます。子供は絵を描くときに、2つの反応を示します。 1つには絵を描く紙を前にして手が止まる。 もう1つは手が止まらない。
「自由にのびのび」というと後者の方だと考えられがちですが実は違います。 この2つの違いは「慣れ」を表しています。 この「慣れ」は実は「自由にのびのび」を最もつまらないものにしてしまう大敵なのです。
手が止まらない場合はすでにそのことについて経験があり知っています。 知識で描いているということです。 知っていることを同じように繰り返すのは普通はあまり面白いものではありません。 面白いものは新鮮です。
わからないことをする時「注意力」は働きます。 人間の感性が働く瞬間です。 私はそれがこれまで美術が大切にしてきたことだと考えています。 でもその多くは世の中に伝わっていないのです。
さて、とにかく天育実験工房★幻想公開講座「うんこの図画工作教室」
のはじまりはじまり〜