先生細菌ハザード
先生細菌は子供個々の幼児性と出会うことで上手くフィックスされます。
この時のフィックスが強ければ強いほど子供の中に先生細菌が深く浸透します。
「自由にのびのび」の効果の一つは子供の幼児性に強くフィックスさせて人間が本能的に持っている動物的な衝動や直感的な感覚を制作に引き出すこと。 攻撃的な衝動を存分に解放してストレスと発散させること。勢いのある絵画表現を学ばせることなどがあります。 でも、「自由にのびのび」の指導の重大なエラーは動物的な衝動や直感的な感覚を引き出した後にデッサンなどの描写やデザインなどの平面構成まで展開させる指導力を持つ指導者がいないことです。 つまり、幼児にさせるスクリブルから受験生にさせる石膏デッサンや平面構成まではカリキュラムで綺麗につながるはずのものです。でもそれができる先生は私の知る限りいません。
「自由でのびのび」の思想は素晴らしいものです。でもその授業の実態は「自由にのびのび」
させて終わり。そこでプツっと途切れます。その後は何とか誤魔化す。その誤魔化しが先生細菌の正体です。
浸透が強くなればなるほど子供は「内面の美術」を想像し膨らませて興味関心を高めます。 問題は子供はそこから高度な造形活動にまで展開させる力を持っていないために、然るべき指導をしなければプツっと途切れてしまい、先生細菌は子供の能力を育てるのではなく、発育を止めて幼児性が抜けることを阻害してしまうことです。 美術系の学校に足を踏み入れた時に生じる先生細菌によって引き起こされる大事故は生徒個々に抜けていない幼児性によって引き起こされます。
先生細菌は子供の眠ろうとしている幼児性をいたずらに覚醒させて定着させて離れないようにしてしまいます。 子供の頃に処方された先生細菌とのフィックスの強さに比例して幼児性が抜けない症状は現れ、美術系の学校に来た時点で大きな問題を起こすのです。 具体的に言えば処方された後のフィックスが弱い生徒ほど幼児性が簡単に抜けて指導が上手くいきます。 逆に先生細菌がしっかりと湿潤してしまって、侵され完全に幼児性にのめり込んでいる生徒は美術系の学校に入って確実に失敗、又は挫折します。絵に対する思い入れが強い子ほど絵がぐちゃぐちゃになって美術予備校では思いに反して受験に失敗するのはこのためです。 このことは日を改めて実例を挙げながら説明します。 先ほど挙げた篠原有司男さん、後は大竹伸朗さんは私が彼らのエピソードを聞く限り幼児性に完全に湿潤されてしまって大事故にあったタイプです。 私自身もその一人。作品はドロドロぐちゃぐちゃ、それしかできず何浪もして、私自身は無理やり幼児性のフィックスを解いて乗り越えました。 フィックスが解けたのは自死を決めて自死しようとした寸前です。 自死しようとした瞬間に全てが解放されてそれならもう一度やり直そうと言う気になりました。 つまり、美術系の学校に入った時点で幼児性は弊害となるのです。 学校に入る時点で大人になれていなければならない。 その認識が欠落していることが至る所で災害とも言える規模の大事故を起こしています。 事故は美術とデザインの現場に対する先生の不認識や未必の故意によっておきています。 そのことが大問題です。
学校に入る前に「自由にのびのび」は捨てさせなければならない。 「自由にのびのび」は高校の美術部までの遊びです。
先生細菌によって壊れる生徒が出てくることは実は計算づくのことです。 計算通りに壊れていなくなった生徒をみて先生は「行方不明」と言いながらほくそ笑みます。
先生は消えた子供を「行方不明」と言って楽しみます。 子供に対して「行方不明」という瞬間は先生にとって最も快感を感じる至福のひとときです。 先生は消えた子供を「行方不明」と言い放つことで自分だけが生き残ったことを実感してゾクゾクします。 そして先生が「行方不明」と発言するのは学生の前です。 学生はその言葉を聞いてひれ伏します。 学生のひれ伏す姿を見て、また快感を感じ、自分の権力を再確認するとともに安心します。
先生細菌を撒き散らす先生は「怪物クリエーチャー」(=造語です)です。
実は美術とデザインの世界はこのクリエーチャーが多いのです。大学の教員のほとんどがそうかもしれません。 社会的にはまず認められないことですが実は外から見えない内側で美術とでデザインの世界ではまかり通っています。
さてこれからは「クリエーチャー」をやっつけるゲームの始まりです。「クリエーチャー」をやっつけるのは真の「天才」です。
私はクリエーチャーを心の底から憎むとともに撲滅します。子供が「行方不明」になってほくそ笑む怪物なので遠慮なくやっつけましょう。(やっつける=改心させるです。)
誰も何も言わないので、今後二度と「行方不明」などと口にはできないように外から変えていかないと美術とデザインの世界は社会から嫌煙されて本当に不味のです。
皆さんの周りで「自由でのびのび」を信じて「才能」「天才」という言葉を信じて実際に美術とデザインの世界で成功している人間が1人でもいますか?1人もいませんよね?
「自由でのびのび」「才能」「天才」などのよくわからない言葉を無視して必死に努力をして成功している人は身のまわりにいるかもしれません。
逆に「自由にのびのび」「才能」「天才」を信じて美術とデザインの世界で行方不明になった人はいるのではないですか?
誰一人として成功していないことと行方不明者が出ていることは美術とデザインの世界では誰も口にしません。 それは相手が大きすぎて怖くて誰も口出しできないからです。クリエーチャーは巨大です。 そしてクリエーチャーは学生たちへの「愛」を語ります。でもその「愛」という言葉は、具体的なことは何も語らず、実態のない漠然とした、ただただ大きな存在感を示し学生の恐怖心をイタヅラに煽るためだけのものなのです。 クリエーチャーの内面にはご満悦という手応えが残ります。
本来なら「愛」などと語らず、行方不明者は1人でもいいから出さないようにするために尽力するべきです。 本来なら尽力して具体的に苦労している所について真剣に話すべきです。 「愛」などという言葉は努力の姿勢の陰に示唆するものであって露骨に口にするものではありません。 「愛」などという言葉が先に出るときは上っ面でイチャイチャしたいだけの時か、学生をたらしこみたいときです。 尽力をせず、結果を出さずに「愛」「才能」「天才」「自由にのびのび」という困窮している人間に対して「負」しか生まない細菌を撒き散らす。 発達障害などの多くの問題を抱え、貧困と戦い苦しんでいる人間に平気で「愛」を語れるナンセンスな感覚があってはならない巨悪を生み育みます。
「愛」は学生の中に「行方不明」という言葉を育む。
もしナンセンスでこのことがわからないなら「行方不明」になった学生を見つけ出して開口一番で「自由にのびのび」「愛」「才能」「天才」と順番に連呼してみればいい。 言った瞬間に言われた人間は生涯忘れられない「恨み」をもつと思います。場合によっては殴られます。
美術とデザインの世界は本当に1人でも多くの行方不明者を救い上げ、出さないように尽力をつくさなければならないタイミングに来ています。 それが本当の「愛」です。無償の奉仕の精神で「愛」などと語らずとも黙って実行するべきことです。
愛情たっぷりのように触れてきて「自由にのびのび」と言いながら子供を取り込み、殆どの子供が大きくなった時に「行方不明」に仕上げられてしまう。 子供が大人になった時に「自由にのびのび」美術とデザインの世界で成功し、「才能」を高く評価されて「天才」と称されている日本人はこの30年の間に1人もいません。 ひとりもいないのに「自由にのびのび」「才能」「天才」と美術とでデザインと図画工作が唱え続けるのは、誰も指摘しないこの世界の大きなエラーです。
「自由にのびのび」の効果の一つは子供の幼児性に強くフィックスさせて人間が本能的に持っている動物的な衝動や直感的な感覚を制作に引き出すこと。 攻撃的な衝動を存分に解放してストレスと発散させること。勢いのある絵画表現を学ばせることなどがあります。 でも、「自由にのびのび」の指導の重大なエラーは動物的な衝動や直感的な感覚を引き出した後にデッサンなどの描写やデザインなどの平面構成まで展開させる指導力を持つ指導者がいないことです。 つまり、幼児にさせるスクリブルから受験生にさせる石膏デッサンや平面構成まではカリキュラムで綺麗につながるはずのものです。でもそれができる先生は私の知る限りいません。
「自由でのびのび」の思想は素晴らしいものです。でもその授業の実態は「自由にのびのび」
させて終わり。そこでプツっと途切れます。その後は何とか誤魔化す。その誤魔化しが先生細菌の正体です。
浸透が強くなればなるほど子供は「内面の美術」を想像し膨らませて興味関心を高めます。 問題は子供はそこから高度な造形活動にまで展開させる力を持っていないために、然るべき指導をしなければプツっと途切れてしまい、先生細菌は子供の能力を育てるのではなく、発育を止めて幼児性が抜けることを阻害してしまうことです。 美術系の学校に足を踏み入れた時に生じる先生細菌によって引き起こされる大事故は生徒個々に抜けていない幼児性によって引き起こされます。
先生細菌は子供の眠ろうとしている幼児性をいたずらに覚醒させて定着させて離れないようにしてしまいます。 子供の頃に処方された先生細菌とのフィックスの強さに比例して幼児性が抜けない症状は現れ、美術系の学校に来た時点で大きな問題を起こすのです。 具体的に言えば処方された後のフィックスが弱い生徒ほど幼児性が簡単に抜けて指導が上手くいきます。 逆に先生細菌がしっかりと湿潤してしまって、侵され完全に幼児性にのめり込んでいる生徒は美術系の学校に入って確実に失敗、又は挫折します。絵に対する思い入れが強い子ほど絵がぐちゃぐちゃになって美術予備校では思いに反して受験に失敗するのはこのためです。 このことは日を改めて実例を挙げながら説明します。 先ほど挙げた篠原有司男さん、後は大竹伸朗さんは私が彼らのエピソードを聞く限り幼児性に完全に湿潤されてしまって大事故にあったタイプです。 私自身もその一人。作品はドロドロぐちゃぐちゃ、それしかできず何浪もして、私自身は無理やり幼児性のフィックスを解いて乗り越えました。 フィックスが解けたのは自死を決めて自死しようとした寸前です。 自死しようとした瞬間に全てが解放されてそれならもう一度やり直そうと言う気になりました。 つまり、美術系の学校に入った時点で幼児性は弊害となるのです。 学校に入る時点で大人になれていなければならない。 その認識が欠落していることが至る所で災害とも言える規模の大事故を起こしています。 事故は美術とデザインの現場に対する先生の不認識や未必の故意によっておきています。 そのことが大問題です。
学校に入る前に「自由にのびのび」は捨てさせなければならない。 「自由にのびのび」は高校の美術部までの遊びです。
先生細菌によって壊れる生徒が出てくることは実は計算づくのことです。 計算通りに壊れていなくなった生徒をみて先生は「行方不明」と言いながらほくそ笑みます。
先生は消えた子供を「行方不明」と言って楽しみます。 子供に対して「行方不明」という瞬間は先生にとって最も快感を感じる至福のひとときです。 先生は消えた子供を「行方不明」と言い放つことで自分だけが生き残ったことを実感してゾクゾクします。 そして先生が「行方不明」と発言するのは学生の前です。 学生はその言葉を聞いてひれ伏します。 学生のひれ伏す姿を見て、また快感を感じ、自分の権力を再確認するとともに安心します。
先生細菌を撒き散らす先生は「怪物クリエーチャー」(=造語です)です。
実は美術とデザインの世界はこのクリエーチャーが多いのです。大学の教員のほとんどがそうかもしれません。 社会的にはまず認められないことですが実は外から見えない内側で美術とでデザインの世界ではまかり通っています。
さてこれからは「クリエーチャー」をやっつけるゲームの始まりです。「クリエーチャー」をやっつけるのは真の「天才」です。
私はクリエーチャーを心の底から憎むとともに撲滅します。子供が「行方不明」になってほくそ笑む怪物なので遠慮なくやっつけましょう。(やっつける=改心させるです。)
誰も何も言わないので、今後二度と「行方不明」などと口にはできないように外から変えていかないと美術とデザインの世界は社会から嫌煙されて本当に不味のです。
皆さんの周りで「自由でのびのび」を信じて「才能」「天才」という言葉を信じて実際に美術とデザインの世界で成功している人間が1人でもいますか?1人もいませんよね?
「自由でのびのび」「才能」「天才」などのよくわからない言葉を無視して必死に努力をして成功している人は身のまわりにいるかもしれません。
逆に「自由にのびのび」「才能」「天才」を信じて美術とデザインの世界で行方不明になった人はいるのではないですか?
誰一人として成功していないことと行方不明者が出ていることは美術とデザインの世界では誰も口にしません。 それは相手が大きすぎて怖くて誰も口出しできないからです。クリエーチャーは巨大です。 そしてクリエーチャーは学生たちへの「愛」を語ります。でもその「愛」という言葉は、具体的なことは何も語らず、実態のない漠然とした、ただただ大きな存在感を示し学生の恐怖心をイタヅラに煽るためだけのものなのです。 クリエーチャーの内面にはご満悦という手応えが残ります。
本来なら「愛」などと語らず、行方不明者は1人でもいいから出さないようにするために尽力するべきです。 本来なら尽力して具体的に苦労している所について真剣に話すべきです。 「愛」などという言葉は努力の姿勢の陰に示唆するものであって露骨に口にするものではありません。 「愛」などという言葉が先に出るときは上っ面でイチャイチャしたいだけの時か、学生をたらしこみたいときです。 尽力をせず、結果を出さずに「愛」「才能」「天才」「自由にのびのび」という困窮している人間に対して「負」しか生まない細菌を撒き散らす。 発達障害などの多くの問題を抱え、貧困と戦い苦しんでいる人間に平気で「愛」を語れるナンセンスな感覚があってはならない巨悪を生み育みます。
「愛」は学生の中に「行方不明」という言葉を育む。
もしナンセンスでこのことがわからないなら「行方不明」になった学生を見つけ出して開口一番で「自由にのびのび」「愛」「才能」「天才」と順番に連呼してみればいい。 言った瞬間に言われた人間は生涯忘れられない「恨み」をもつと思います。場合によっては殴られます。
美術とデザインの世界は本当に1人でも多くの行方不明者を救い上げ、出さないように尽力をつくさなければならないタイミングに来ています。 それが本当の「愛」です。無償の奉仕の精神で「愛」などと語らずとも黙って実行するべきことです。
愛情たっぷりのように触れてきて「自由にのびのび」と言いながら子供を取り込み、殆どの子供が大きくなった時に「行方不明」に仕上げられてしまう。 子供が大人になった時に「自由にのびのび」美術とデザインの世界で成功し、「才能」を高く評価されて「天才」と称されている日本人はこの30年の間に1人もいません。 ひとりもいないのに「自由にのびのび」「才能」「天才」と美術とでデザインと図画工作が唱え続けるのは、誰も指摘しないこの世界の大きなエラーです。