人によって仕掛けられた美術の罠/美術の誤解ハザード
「発達障害と学習障害のある人特有の誤解ハザード」
自由にのびのび絵を描かせることは必要です。
でもそれに賞を与えてしまうことには私は反対です。
賞をもらった時点で子供の目的は賞狙いのための制作に変わります。
そして無欲な時と打って変わってのびのび描けなくなります。
絵を描くことに興味があるのではなく、数うちゃ当たるの要領でコンクールに出品しまくります。
そのまま高校生になって芸大美大も同じ要領で「チャンスが増える」と考えて臨んでしまいます。
芸大美大の難関校は数うちゃ当たるで当たりません。
多くの親御さんとお子さんが「数うちゃ当たる」で大失敗します。
賞を取った子供たちが大きくなって高校生になり、中には高校を卒業してそのまま美術系の道で就職する子がいます。
障害のある子でも採用してくれるのはアニメの制作会社では聞いたことがあります。
間違いないブラック会社に入社してしまい自由にのびのびではなく、想像を絶する過酷な重労働の職場を目の当りにして早々に退職します。
このことは美術教育の悪い部分が招いた功罪です。
世の中に明るみになっていませんがクマビはリサーチして公にします。
全国の保育園と幼稚園にリサーチして集めた悲痛な声をお届けします。
幼稚園の先生たちは子供たちが高校を卒業した後どうなるか?全くわかりません。
やっかいなのは、殆どの幼稚園の先生は美術は良くわからないので距離を取ります。
近づいた先生にはある意味感謝ですが、その近づいて来て頂けた先生に誤解を与えてしまい、殆どの先生が誤解ハザードにはまります。
全く悪意はない・・・。
正しいと思っていたことが実際は悪になっている。
早く正と負を逆転させなければなりません。
専門学校に行く子がいます。
私は10年ほど専門学校でデッサンの指導をしていましたが、無試験で入学できる専門学校には明らかに授業が成立しない程度の障害を持った子が2~3割います。
その子たちの全員が教えたことを覚えられません。
そしてもっとも顕著なことが、自由にのびのび描かせれば描けるけれど、いざ、課題を与えられると描けません。
すなわち授業が全て形にならないのです。
年間150万程度の学費を納めて、障害のある子の家庭の多くは低所得です。
奨学金を使っている場合専門学校を卒業した後のことは想像に容易いですよね。
親御さんと本人と先生の多くが自由にのびのび描ければバリバリ学校の課題に取り組めるとお考えですがそうではありません。
どうかお願いです。
冷静にこの話を聞いてください。
但し、美術の世界が厳しい世界であることをお子さんと親御さんと良く承知の上で・・。
というケースも多いです。
ご承知の場合は問題ではありません。
自由にのびのび描く時は、すでに自分の記憶の中に深く根付いた馴染みのある図を自分の気分やペースで気持ち良く描くことができます。
自分の安心の形、安心の色を描くことで自分を感じます。
自分を感じる感覚に没入できるので何時間でも飽きません。
自分の馴染みのある図や安心の形とは自分の好きなキャラクターの正面の顔などです。
漫画のキャラクターに多いですが、それは子供たちにわかり易く詳細にキャラクターの説明が成立していて子供が持っている動物本来の感覚、例えば攻撃的な欲求とか恋愛とかの感覚を想像や創造の世界で満たしてくれるからです。
大人たちが反省しなければならないのは漫画と比較して我々が話す話は精度にかけ、わかりやすさに欠け、面白さに欠け、深さ、広さに欠けている点です。
一方で例えばデッサンは自分の記憶にはない、全くなじみのないものをじっくりと観察することを通じて自分の頭の中に入れていきます。
まず、馴染みのないものを長時間じっくりと観察したりすることは障害の有無にかかわらず嫌いです。
その嫌いな作業を我慢して実行できるかどうかをどれだけできるかはどれだけ教養があるかにかかります。
例えば読書感想画は読書の時点で大きく差が出ます。
教養があればあるほどその場の苦痛を頭の中で想像するメリットが上回り作業に手が伸びます。
障害のある子の多くは手が伸びません。
手が伸びたとしても脳が反応せず記憶に残りません。
それでそれを解決するためのアプローチは教養を深めることです。
デッサンではまず対象を自分の頭の中にインプットしなければなりません。
障害のある子の多くは情緒が不安定なため訳のわからないものをインプットする気持ちの余裕はありません。
情緒の不安定な子の内面は荒れているので荒れた内面を癒すことに精一杯で、そこに新しい物事を受け入れる余地はありません。
そのため障害がある子にデッサンを描かせると殴り描きになるか、停滞するか、放心状態になります。
障害のある子にデッサンの指導をする場合はいきなり絵を描かせるのではなく、このような事情を話して気持ちの余裕をつくり、観察した物事を受け入れられるだけの気持ちの余裕を作るリハビリーから始めてもらいます。
リハビリーは落書などから始めます。私自身心を病んだ時に落書きすら描けなくなったことがあります。
4浪目の時ですね・・。
なので落書から描けるようにリハビリーを始めました。
じっくりと時間をかけられるのであればかならず超えられます。
障害の自覚のある子はリハビリーから始めてある程度の成果があったことはあります。
但し、私の教え子の中には東京芸術大学に合格した子はいません。
障害があり、コンクールで輝かしい賞を受賞し、気持ちの高揚を味わった子の多くが、自分には才能があり、自分は美術の世界では誰にも負けないので東京芸術大学に行けると考えてしまいます。
心を癒す方法に殴り描きのスクリブルがあります。
落書きすらできない場合は殴り描きならできます。
子供の図画工作の作品はこのスクリブルに近いので子供たちはもくもくと集中して描けるのです。
子供や生徒に障害の自覚がない場合、リハビリーからはじめましょうといった話が出来ないためにそのまま課題を与えることになります。
その場合作品は殴り描きになります。
自分に才能があると信じている子は課題を上手く描けるはずだと信じているので物を観察することができずに殴り描きから抜け出すことができません。
ちなみに芸大美大受験の実技試験の課題の多くが3~12時間集中して物を観察して丁寧にはみ出さないように綺麗に色を塗り続けるような作業を繰り返します。
出来上がった作品は職人技ともいうべき技巧を駆使したものです。
障害のある子の作品は殴り描きになるので線はぐにゃりと曲がり、色はぐちゃぐちゃで線をはみ出しています。
コンクール受賞による気持ちの高揚は実際の実力を度外視し、現実と乖離した想像が働き、それによる想像上の実力の飛躍を生みます。
すみません言いたくはないですが所謂「幻想」です。
普通の人でさえ、この高揚の後はたいていの人が作品の劣化を招きます。
障害のある人の場合、周りの想像を超えた強い幻想を生み、実際自分の描いた絵を主観的に都合のいいように見てしまい、客観的に見れなくなります。
評価が低い場合は自分の力はそんなものではないと思えて話が聞けなかったり、作品が上手くいかなかった自覚があったとしても具体的な問題点を分析することなくもう一度リセットしてやり直したら上手くいくような気がして解決することのない仕事を延々と繰り返してしまいます。
私はこの状況をチック病の患者と似た症状と考えています。
本人は意味があると考えている動作に実は意味はないので、他の人からみると意味のない動作を繰り返しているように見えます。
私はこれまで多くの障害を抱えた子と障害の認定を受けていないまでも著しく学力が低かったり、実技で教えることが何度教えても覚えられなかったり、出来なかったりするためにどう考えても障害があると考えられる子を見てきました。
日本中の保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、そして芸大美大の先生方にお伺いします。皆さんは障害を持った子の指導をしたことがありませんか?
でもそれに賞を与えてしまうことには私は反対です。
賞をもらった時点で子供の目的は賞狙いのための制作に変わります。
そして無欲な時と打って変わってのびのび描けなくなります。
絵を描くことに興味があるのではなく、数うちゃ当たるの要領でコンクールに出品しまくります。
そのまま高校生になって芸大美大も同じ要領で「チャンスが増える」と考えて臨んでしまいます。
芸大美大の難関校は数うちゃ当たるで当たりません。
多くの親御さんとお子さんが「数うちゃ当たる」で大失敗します。
賞を取った子供たちが大きくなって高校生になり、中には高校を卒業してそのまま美術系の道で就職する子がいます。
障害のある子でも採用してくれるのはアニメの制作会社では聞いたことがあります。
間違いないブラック会社に入社してしまい自由にのびのびではなく、想像を絶する過酷な重労働の職場を目の当りにして早々に退職します。
このことは美術教育の悪い部分が招いた功罪です。
世の中に明るみになっていませんがクマビはリサーチして公にします。
全国の保育園と幼稚園にリサーチして集めた悲痛な声をお届けします。
幼稚園の先生たちは子供たちが高校を卒業した後どうなるか?全くわかりません。
やっかいなのは、殆どの幼稚園の先生は美術は良くわからないので距離を取ります。
近づいた先生にはある意味感謝ですが、その近づいて来て頂けた先生に誤解を与えてしまい、殆どの先生が誤解ハザードにはまります。
全く悪意はない・・・。
正しいと思っていたことが実際は悪になっている。
早く正と負を逆転させなければなりません。
専門学校に行く子がいます。
私は10年ほど専門学校でデッサンの指導をしていましたが、無試験で入学できる専門学校には明らかに授業が成立しない程度の障害を持った子が2~3割います。
その子たちの全員が教えたことを覚えられません。
そしてもっとも顕著なことが、自由にのびのび描かせれば描けるけれど、いざ、課題を与えられると描けません。
すなわち授業が全て形にならないのです。
年間150万程度の学費を納めて、障害のある子の家庭の多くは低所得です。
奨学金を使っている場合専門学校を卒業した後のことは想像に容易いですよね。
親御さんと本人と先生の多くが自由にのびのび描ければバリバリ学校の課題に取り組めるとお考えですがそうではありません。
どうかお願いです。
冷静にこの話を聞いてください。
但し、美術の世界が厳しい世界であることをお子さんと親御さんと良く承知の上で・・。
というケースも多いです。
ご承知の場合は問題ではありません。
自由にのびのび描く時は、すでに自分の記憶の中に深く根付いた馴染みのある図を自分の気分やペースで気持ち良く描くことができます。
自分の安心の形、安心の色を描くことで自分を感じます。
自分を感じる感覚に没入できるので何時間でも飽きません。
自分の馴染みのある図や安心の形とは自分の好きなキャラクターの正面の顔などです。
漫画のキャラクターに多いですが、それは子供たちにわかり易く詳細にキャラクターの説明が成立していて子供が持っている動物本来の感覚、例えば攻撃的な欲求とか恋愛とかの感覚を想像や創造の世界で満たしてくれるからです。
大人たちが反省しなければならないのは漫画と比較して我々が話す話は精度にかけ、わかりやすさに欠け、面白さに欠け、深さ、広さに欠けている点です。
一方で例えばデッサンは自分の記憶にはない、全くなじみのないものをじっくりと観察することを通じて自分の頭の中に入れていきます。
まず、馴染みのないものを長時間じっくりと観察したりすることは障害の有無にかかわらず嫌いです。
その嫌いな作業を我慢して実行できるかどうかをどれだけできるかはどれだけ教養があるかにかかります。
例えば読書感想画は読書の時点で大きく差が出ます。
教養があればあるほどその場の苦痛を頭の中で想像するメリットが上回り作業に手が伸びます。
障害のある子の多くは手が伸びません。
手が伸びたとしても脳が反応せず記憶に残りません。
それでそれを解決するためのアプローチは教養を深めることです。
デッサンではまず対象を自分の頭の中にインプットしなければなりません。
障害のある子の多くは情緒が不安定なため訳のわからないものをインプットする気持ちの余裕はありません。
情緒の不安定な子の内面は荒れているので荒れた内面を癒すことに精一杯で、そこに新しい物事を受け入れる余地はありません。
そのため障害がある子にデッサンを描かせると殴り描きになるか、停滞するか、放心状態になります。
障害のある子にデッサンの指導をする場合はいきなり絵を描かせるのではなく、このような事情を話して気持ちの余裕をつくり、観察した物事を受け入れられるだけの気持ちの余裕を作るリハビリーから始めてもらいます。
リハビリーは落書などから始めます。私自身心を病んだ時に落書きすら描けなくなったことがあります。
4浪目の時ですね・・。
なので落書から描けるようにリハビリーを始めました。
じっくりと時間をかけられるのであればかならず超えられます。
障害の自覚のある子はリハビリーから始めてある程度の成果があったことはあります。
但し、私の教え子の中には東京芸術大学に合格した子はいません。
障害があり、コンクールで輝かしい賞を受賞し、気持ちの高揚を味わった子の多くが、自分には才能があり、自分は美術の世界では誰にも負けないので東京芸術大学に行けると考えてしまいます。
心を癒す方法に殴り描きのスクリブルがあります。
落書きすらできない場合は殴り描きならできます。
子供の図画工作の作品はこのスクリブルに近いので子供たちはもくもくと集中して描けるのです。
子供や生徒に障害の自覚がない場合、リハビリーからはじめましょうといった話が出来ないためにそのまま課題を与えることになります。
その場合作品は殴り描きになります。
自分に才能があると信じている子は課題を上手く描けるはずだと信じているので物を観察することができずに殴り描きから抜け出すことができません。
ちなみに芸大美大受験の実技試験の課題の多くが3~12時間集中して物を観察して丁寧にはみ出さないように綺麗に色を塗り続けるような作業を繰り返します。
出来上がった作品は職人技ともいうべき技巧を駆使したものです。
障害のある子の作品は殴り描きになるので線はぐにゃりと曲がり、色はぐちゃぐちゃで線をはみ出しています。
コンクール受賞による気持ちの高揚は実際の実力を度外視し、現実と乖離した想像が働き、それによる想像上の実力の飛躍を生みます。
すみません言いたくはないですが所謂「幻想」です。
普通の人でさえ、この高揚の後はたいていの人が作品の劣化を招きます。
障害のある人の場合、周りの想像を超えた強い幻想を生み、実際自分の描いた絵を主観的に都合のいいように見てしまい、客観的に見れなくなります。
評価が低い場合は自分の力はそんなものではないと思えて話が聞けなかったり、作品が上手くいかなかった自覚があったとしても具体的な問題点を分析することなくもう一度リセットしてやり直したら上手くいくような気がして解決することのない仕事を延々と繰り返してしまいます。
私はこの状況をチック病の患者と似た症状と考えています。
本人は意味があると考えている動作に実は意味はないので、他の人からみると意味のない動作を繰り返しているように見えます。
私はこれまで多くの障害を抱えた子と障害の認定を受けていないまでも著しく学力が低かったり、実技で教えることが何度教えても覚えられなかったり、出来なかったりするためにどう考えても障害があると考えられる子を見てきました。
日本中の保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、そして芸大美大の先生方にお伺いします。皆さんは障害を持った子の指導をしたことがありませんか?