美術の「闇」と闇が作る言葉のハザード(災害)
美術の闇と光。
闇、闇と言いながら、美術の中にも光はさしています。
ですが、光のあたる場所がある、その一方で闇の大きさはケタ違いです。
私がいるのは光のあたる場所です。
なので私にとっては美術の世界は食べていけるし、楽しいし、明るい世界です。
食べていける世界ということを美術の世界が隠しているのは、
気まずいから。
競争が激しくなるから。
稼げない人が減るのは困るから。
美術の世界で仕事をする、又は手に職をつけることを目指す、殆どの方がいるのは光の当たらない場所です。
光の当たらない場所は美術の闇の部分です。
美術の外の世界からは美術の世界の光のあたる場所とあたらない場所の境界は見えません。
そして、見えないから美術の外の世界からは「才能」のある人が食べていくことができていると誤解されています。
実はそうではありません。
美術の世界は「才能」「天才」という言葉を利用しています。
具体的に言えば、
就職する際に
光があたっているのは一部の優良企業です。
光があたらないのはわずかな優良企業以外のいわゆるブラック企業です。
どうすれば優良企業に入れるかは明確です。
但し、この明確な事実を大学と専門学校は公開することができません。
公開することができない理由は、ブラック企業に就職していく大多数の生徒で美術全体が収益を上げているからです。
一部の専門学校生と大学生の中で優良企業に就職した人は40代50代60代まで企業に残る場合がありますが、
ブラック企業に入った人の殆どが数年で体と精神がもたずに辞めていきます。
多くの人が辞めていきますが「才能がなかった」と誤解して納得するようにしています。
このような状況ですが、中学や高校の先生たちが知らず知らずに勧めている進路先の多くは進学のスムーズな闇の方です。
私は生徒たちに毎日進路指導をしています。
進路指導しながら、少しでも生徒たちに真実が伝わるように
大学や他の予備校さんでは呼ばないような美術の先輩たちを呼んで話をしてもらいます。
先輩たちに大学ではできない優良企業かどうかだとか、企業についての話などの予備校でしかできない話をしてもらっています。
そうすることで何とか生徒たちが闇の方へ流れて行かないように配慮しています。
進路指導の際に私が示す光はかなり狭く、小さく、範囲が限定的です。
もっと広く示してやれるものなら、そうしたいのですが、できません。
進路指導しながら闇の広さを思い知らされます。
そして、闇と知らないで突き進んでいく生徒を見ながら、早くどうにかしなければと思い悩みます。
今の美術の状況は言うなれば、朝~昼~夜の1日の変化の中で夜にあると私は思っています。
私が美術の世界に入ってからこの世界はずっと夜です。
私にとっては随分長い夜。
けっして楽に楽しく、明るい中でわかりやすく簡単に今の状況に落ち着いたわけではありません。
美術の世界で生活をしている私は「才能」があるとよく言われます。
でも実際は才能とは程遠い、人が想像を絶するような過酷な苦労を重ねて、一歩ずつ踏み外さないように慎重に足元を確かめて踏みしめながら前に進んできて得た成果です。
これは私に限った話ではありません。
皆苦労しています。
この世界では皆が、楽に、のんびり、ボーとして成果を上げるのは不可能です。
楽な世界だと誤解されている方が多いですが、
夢を壊すようでごめんなさい。
過酷な世界です。
私の経営する美術予備校の親御さんにさんざん美術の世界の厳しさをお話した後に、
それでものんびり楽な会社とか、好きな絵を描いてのんびり食べていけないですか?
と聞かれますが、不可能です。
親御さんたちが美術にそういったイメージを持つのは子供や自分たちが小さい時に図画のコンクールでなんの苦労もせずに華々しい賞を受賞した経験をしたり、
周りの子が受賞したりしている姿を見て、美術は「才能」だと誤解しているからです。
美術が簡単に才能で受賞できるという誤解がそのまま美術の世界が楽に、のんびりしながら楽しく食べていけるという間違った認識につながっています。
ごめんなさい。
それが地獄の入り口なんです。
私自身、保護者の方のために知り合いに、楽にのんびりできる会社があるか?
だめもとで呆れられるのを覚悟で、聞きます。
でも、苦悶の表情をされて、「ない」と言われます。
私自身、今までに楽な会社を見つけたことはあります。
でも、苦労して得た情報ですが役に立ちません。
そのような会社は誰も辞めないのです。
あなたが就職活動をする時にそういったごくわずかな会社に空がある可能性はありません。
そのため、努力をせずに、楽に食べていくことは諦めてください。
楽に、のんびり、ボーとして成果を上げる場合が本当に稀にあります。
でも才能ではありません。
完全な運です。
このケースが才能によるものではないということは科学的根拠に基づいて立証しなければ多くの人が楽が出来ると勘違いして騙され続けます。
誰もやらないのでやらなければ。
と私が勝手に計画しています。
というのは楽だと勘違いして来る子たちは油絵科を専攻する可能性が高いのです。
私は、自分が経営する美術予備校の進路指導で、生徒たちに光が当たるように難関校に進むように指導をしています。
そうしなければならないのは例えば難関校に行かずに優良企業に入れなかった場合は殆どの生徒が過酷な労働条件の職場につくほかなく、
受験で努力ができなかった生徒たちに耐えられるわけがないことが眼に見えているからです。
将来楽をしたいと考える人は、芸大美大受験を勝ち抜いて難関校に入るために美術予備校で浪人しながら頑張ります。
一方で美術は楽な世界だと誤解して、受験は大変だからしないで楽をして、
専門学校か、入りやすい一般入試の大学か、楽な推薦で大学に入って、
就職した後に楽できるだろうと思っていたら、想像を絶するブラック企業だった。
そして現実を知って半数が2年以内に会社を辞める。
という形は定番です。
私の人生の中で美術はずっと夜でした。
夜の闇の中にはわずかな光が見えます。
私は必至にその光を目指して、なんとか、わずかばかりの光の当たる場所を陣取りました。
陣取れたので、いつも光の当たる場所にいられていると思っています。
まあ、言うなれば美術の世界は陣取りゲームみたいなもので、陣取りゲーム自体がみっともないので、多くの人はそれに参加しません。
多くの人が実態をしったら、参加せずに美術の世界で生きていこうとは考えません。
私自身、サバイバルとかハングリー精神だとかの類は、ずば抜けて強い方だと思います。
そんな私が思うのは、美術の闇がかなり過酷なサバイバルをさせているということです。
美術の闇がなければ陣取りゲームで何人が生き残れるのかわかります。
ようは美術の闇は人為的に生き残れる席の数を外の世界から見えないようにして、その差で儲けようとしている人達が生んでいる闇で、
そこに関わって実態を見抜けなかった多くの人がモヤモヤとした不快感と疑念を抱いて美術の世界に立ち止まらずに通り過ぎていってしまっています。
「美術の世界は生きづらい」ということはあります。
でも「美術の世界が食べていけない」ということではありません。
十分に食べていけます。
只、普通に考えていては無理だと思います。
ちょっとした工夫が必要です。
そのちょっと、を、しっかりと説明するために天才ハザードみたいな長い話が必要なのです。
長い話をするのは、
夜は朝に変わる予感がするからです。
この機運を、
社会が変わりそうな気分の、このチャンスを逃さないために
今、話します。
それと今光の中にいる人は自分の胸に手を当てて、
朝日が昇ろうとしている今をどう生きるべきか考えてください。
美術が朝を迎えるのは皆の力にかかっています。
人は人の作ったものを簡単に壊します。
何が言いたいかというと、これまでの積み重ねなど簡単に消えていくのです。
今、目の前にある美術の流行が30年後には跡形もなくなっている。
私はそう考えています。
今市場で価値のある作品。
団体で評価されている作品。
学校で評価されている作品。
画廊で評価されている作品。
美術館で評価されている作品。
これらの全てが30年後はまったく違う姿で作品を評価しています。
闇の中にはたくさんの人のたくさんの思惑があります。
でもそれは闇の外の意見を取り入れずに、闇を構成するメンバーだけで強引に成立させているものです。
外の意見は強い。
もともとは、思惑のほとんどが善意から生まれたものです。
でもその全てが、世代が変わるごとに間違いなく劣化する。
それに、人がたとえ善意をもってしても、そこには金銭、名誉といったなにかしらの利益が生じるわけで、
利益を得るということは欲求を満たす目的と善意の双方をあわせもっているものということを考えておかなければなりません。
物事に取り組んだ最初の人間は善意と利益の双方を追及します。
でも、受け継いだ人間の多くは最初の人間の利益は受け継げても、善意は同じように受け継ぐことは難しいものです。
人が利益を求めるのは悪いことではありません。
当然のことです。
私が言いたいのは利益が正を生むと同時に負を生むということです。
その負の在り方が美術は美術以外のスポーツや音楽や文学などと違ってあまりに稚拙だと感じます。
あまりに稚拙なのでこままま黙っていると利益が完全に消えてしまいそうな、
そんな気がします。
受験生は減り、
市場は小さくなり、
団体と画廊からは利益が消失し趣味の集まりと化す。
これまでの美術世界は大きな体をしながらも、
市場、団体、学校、画廊、美術館といったコレクティブのちいさな針の先にいる一部の正で動いていました。
これまで美術の世界が針の先で働いてきたのは、
狭いアトリエに籠って切磋琢磨しなければならなかったからだと思います。
籠らなければならなかったのは表現をするには大きなお金がかかったから。
たくさんお金がかかる世界は、よほどの物好きでなければ足を踏み込みません。
たくさんお金のかかる世界は下手に周りの人を巻き込めません。
そのような体質の美術は物好きの集まりで引きこもりの集団です。
これからの美術は誰もが表現することが可能です。
結論を言えばこれからの美術は針の先のコレクティブな体質とは全く似ても似つかない質の別ものに変わっていく。
インターネットで薄く広くつながっている。
これからの美術は積極的に誰もが表現できる世界に変わっていくことが大切だと思います。
私の想像するこの先の美術は皆が表現できることが重要で、
しばらく賞は必要ない。
作品が売れる必要もない。
ただ、いつでも絵を描けて、皆の表現の欲求に応えられるようになっている。
絵には皆さんが気付いていない大きな力があります。
闇が撃ち払われた後に絵の本当の力がスッと出てきます。
「天才」「才能」
ではない、皆が会話をするようにすばらしい「想い」を表現してくれる絵です。
自らを変えること。
体質を変えるには質のもととなる考え方を根本から見つめ直す必要があります。
これまでの考え方は針の先の正を成立させ、同時に全体の負を生んできました。
美術の世界の針の先にいる人は納得して、美術の外の社会全体は美術を良くわからない。
アトリエに籠るのは今後も必要です。
これから変わるのはお金をかけずに社会の人すべてが表現の機会を得るということ。
銀座の貸し画廊に何十万も払って発表する必要がどこにあるんですか?
ネットで発表しましょう。
そして自分の部屋とか近所のカフェにお客さんを招いて絵をみせましょう。
お茶しながら。
ずっと夜の闇で隠されているという幻想は恥を生みます。
闇がさっと払われた時、その恥はあらわになります。
小さな恥はさておき、大きな組織の恥は問題です。
天才、才能という言葉が生む幻想。
この幻想が生む闇は、美術が朝を迎えた時に一瞬にして消毒されるでしょう。
闇、闇と言いながら、美術の中にも光はさしています。
ですが、光のあたる場所がある、その一方で闇の大きさはケタ違いです。
私がいるのは光のあたる場所です。
なので私にとっては美術の世界は食べていけるし、楽しいし、明るい世界です。
食べていける世界ということを美術の世界が隠しているのは、
気まずいから。
競争が激しくなるから。
稼げない人が減るのは困るから。
美術の世界で仕事をする、又は手に職をつけることを目指す、殆どの方がいるのは光の当たらない場所です。
光の当たらない場所は美術の闇の部分です。
美術の外の世界からは美術の世界の光のあたる場所とあたらない場所の境界は見えません。
そして、見えないから美術の外の世界からは「才能」のある人が食べていくことができていると誤解されています。
実はそうではありません。
美術の世界は「才能」「天才」という言葉を利用しています。
具体的に言えば、
就職する際に
光があたっているのは一部の優良企業です。
光があたらないのはわずかな優良企業以外のいわゆるブラック企業です。
どうすれば優良企業に入れるかは明確です。
但し、この明確な事実を大学と専門学校は公開することができません。
公開することができない理由は、ブラック企業に就職していく大多数の生徒で美術全体が収益を上げているからです。
一部の専門学校生と大学生の中で優良企業に就職した人は40代50代60代まで企業に残る場合がありますが、
ブラック企業に入った人の殆どが数年で体と精神がもたずに辞めていきます。
多くの人が辞めていきますが「才能がなかった」と誤解して納得するようにしています。
このような状況ですが、中学や高校の先生たちが知らず知らずに勧めている進路先の多くは進学のスムーズな闇の方です。
私は生徒たちに毎日進路指導をしています。
進路指導しながら、少しでも生徒たちに真実が伝わるように
大学や他の予備校さんでは呼ばないような美術の先輩たちを呼んで話をしてもらいます。
先輩たちに大学ではできない優良企業かどうかだとか、企業についての話などの予備校でしかできない話をしてもらっています。
そうすることで何とか生徒たちが闇の方へ流れて行かないように配慮しています。
進路指導の際に私が示す光はかなり狭く、小さく、範囲が限定的です。
もっと広く示してやれるものなら、そうしたいのですが、できません。
進路指導しながら闇の広さを思い知らされます。
そして、闇と知らないで突き進んでいく生徒を見ながら、早くどうにかしなければと思い悩みます。
今の美術の状況は言うなれば、朝~昼~夜の1日の変化の中で夜にあると私は思っています。
私が美術の世界に入ってからこの世界はずっと夜です。
私にとっては随分長い夜。
けっして楽に楽しく、明るい中でわかりやすく簡単に今の状況に落ち着いたわけではありません。
美術の世界で生活をしている私は「才能」があるとよく言われます。
でも実際は才能とは程遠い、人が想像を絶するような過酷な苦労を重ねて、一歩ずつ踏み外さないように慎重に足元を確かめて踏みしめながら前に進んできて得た成果です。
これは私に限った話ではありません。
皆苦労しています。
この世界では皆が、楽に、のんびり、ボーとして成果を上げるのは不可能です。
楽な世界だと誤解されている方が多いですが、
夢を壊すようでごめんなさい。
過酷な世界です。
私の経営する美術予備校の親御さんにさんざん美術の世界の厳しさをお話した後に、
それでものんびり楽な会社とか、好きな絵を描いてのんびり食べていけないですか?
と聞かれますが、不可能です。
親御さんたちが美術にそういったイメージを持つのは子供や自分たちが小さい時に図画のコンクールでなんの苦労もせずに華々しい賞を受賞した経験をしたり、
周りの子が受賞したりしている姿を見て、美術は「才能」だと誤解しているからです。
美術が簡単に才能で受賞できるという誤解がそのまま美術の世界が楽に、のんびりしながら楽しく食べていけるという間違った認識につながっています。
ごめんなさい。
それが地獄の入り口なんです。
私自身、保護者の方のために知り合いに、楽にのんびりできる会社があるか?
だめもとで呆れられるのを覚悟で、聞きます。
でも、苦悶の表情をされて、「ない」と言われます。
私自身、今までに楽な会社を見つけたことはあります。
でも、苦労して得た情報ですが役に立ちません。
そのような会社は誰も辞めないのです。
あなたが就職活動をする時にそういったごくわずかな会社に空がある可能性はありません。
そのため、努力をせずに、楽に食べていくことは諦めてください。
楽に、のんびり、ボーとして成果を上げる場合が本当に稀にあります。
でも才能ではありません。
完全な運です。
このケースが才能によるものではないということは科学的根拠に基づいて立証しなければ多くの人が楽が出来ると勘違いして騙され続けます。
誰もやらないのでやらなければ。
と私が勝手に計画しています。
というのは楽だと勘違いして来る子たちは油絵科を専攻する可能性が高いのです。
私は、自分が経営する美術予備校の進路指導で、生徒たちに光が当たるように難関校に進むように指導をしています。
そうしなければならないのは例えば難関校に行かずに優良企業に入れなかった場合は殆どの生徒が過酷な労働条件の職場につくほかなく、
受験で努力ができなかった生徒たちに耐えられるわけがないことが眼に見えているからです。
将来楽をしたいと考える人は、芸大美大受験を勝ち抜いて難関校に入るために美術予備校で浪人しながら頑張ります。
一方で美術は楽な世界だと誤解して、受験は大変だからしないで楽をして、
専門学校か、入りやすい一般入試の大学か、楽な推薦で大学に入って、
就職した後に楽できるだろうと思っていたら、想像を絶するブラック企業だった。
そして現実を知って半数が2年以内に会社を辞める。
という形は定番です。
私の人生の中で美術はずっと夜でした。
夜の闇の中にはわずかな光が見えます。
私は必至にその光を目指して、なんとか、わずかばかりの光の当たる場所を陣取りました。
陣取れたので、いつも光の当たる場所にいられていると思っています。
まあ、言うなれば美術の世界は陣取りゲームみたいなもので、陣取りゲーム自体がみっともないので、多くの人はそれに参加しません。
多くの人が実態をしったら、参加せずに美術の世界で生きていこうとは考えません。
私自身、サバイバルとかハングリー精神だとかの類は、ずば抜けて強い方だと思います。
そんな私が思うのは、美術の闇がかなり過酷なサバイバルをさせているということです。
美術の闇がなければ陣取りゲームで何人が生き残れるのかわかります。
ようは美術の闇は人為的に生き残れる席の数を外の世界から見えないようにして、その差で儲けようとしている人達が生んでいる闇で、
そこに関わって実態を見抜けなかった多くの人がモヤモヤとした不快感と疑念を抱いて美術の世界に立ち止まらずに通り過ぎていってしまっています。
「美術の世界は生きづらい」ということはあります。
でも「美術の世界が食べていけない」ということではありません。
十分に食べていけます。
只、普通に考えていては無理だと思います。
ちょっとした工夫が必要です。
そのちょっと、を、しっかりと説明するために天才ハザードみたいな長い話が必要なのです。
長い話をするのは、
夜は朝に変わる予感がするからです。
この機運を、
社会が変わりそうな気分の、このチャンスを逃さないために
今、話します。
それと今光の中にいる人は自分の胸に手を当てて、
朝日が昇ろうとしている今をどう生きるべきか考えてください。
美術が朝を迎えるのは皆の力にかかっています。
人は人の作ったものを簡単に壊します。
何が言いたいかというと、これまでの積み重ねなど簡単に消えていくのです。
今、目の前にある美術の流行が30年後には跡形もなくなっている。
私はそう考えています。
今市場で価値のある作品。
団体で評価されている作品。
学校で評価されている作品。
画廊で評価されている作品。
美術館で評価されている作品。
これらの全てが30年後はまったく違う姿で作品を評価しています。
闇の中にはたくさんの人のたくさんの思惑があります。
でもそれは闇の外の意見を取り入れずに、闇を構成するメンバーだけで強引に成立させているものです。
外の意見は強い。
もともとは、思惑のほとんどが善意から生まれたものです。
でもその全てが、世代が変わるごとに間違いなく劣化する。
それに、人がたとえ善意をもってしても、そこには金銭、名誉といったなにかしらの利益が生じるわけで、
利益を得るということは欲求を満たす目的と善意の双方をあわせもっているものということを考えておかなければなりません。
物事に取り組んだ最初の人間は善意と利益の双方を追及します。
でも、受け継いだ人間の多くは最初の人間の利益は受け継げても、善意は同じように受け継ぐことは難しいものです。
人が利益を求めるのは悪いことではありません。
当然のことです。
私が言いたいのは利益が正を生むと同時に負を生むということです。
その負の在り方が美術は美術以外のスポーツや音楽や文学などと違ってあまりに稚拙だと感じます。
あまりに稚拙なのでこままま黙っていると利益が完全に消えてしまいそうな、
そんな気がします。
受験生は減り、
市場は小さくなり、
団体と画廊からは利益が消失し趣味の集まりと化す。
これまでの美術世界は大きな体をしながらも、
市場、団体、学校、画廊、美術館といったコレクティブのちいさな針の先にいる一部の正で動いていました。
これまで美術の世界が針の先で働いてきたのは、
狭いアトリエに籠って切磋琢磨しなければならなかったからだと思います。
籠らなければならなかったのは表現をするには大きなお金がかかったから。
たくさんお金がかかる世界は、よほどの物好きでなければ足を踏み込みません。
たくさんお金のかかる世界は下手に周りの人を巻き込めません。
そのような体質の美術は物好きの集まりで引きこもりの集団です。
これからの美術は誰もが表現することが可能です。
結論を言えばこれからの美術は針の先のコレクティブな体質とは全く似ても似つかない質の別ものに変わっていく。
インターネットで薄く広くつながっている。
これからの美術は積極的に誰もが表現できる世界に変わっていくことが大切だと思います。
私の想像するこの先の美術は皆が表現できることが重要で、
しばらく賞は必要ない。
作品が売れる必要もない。
ただ、いつでも絵を描けて、皆の表現の欲求に応えられるようになっている。
絵には皆さんが気付いていない大きな力があります。
闇が撃ち払われた後に絵の本当の力がスッと出てきます。
「天才」「才能」
ではない、皆が会話をするようにすばらしい「想い」を表現してくれる絵です。
自らを変えること。
体質を変えるには質のもととなる考え方を根本から見つめ直す必要があります。
これまでの考え方は針の先の正を成立させ、同時に全体の負を生んできました。
美術の世界の針の先にいる人は納得して、美術の外の社会全体は美術を良くわからない。
アトリエに籠るのは今後も必要です。
これから変わるのはお金をかけずに社会の人すべてが表現の機会を得るということ。
銀座の貸し画廊に何十万も払って発表する必要がどこにあるんですか?
ネットで発表しましょう。
そして自分の部屋とか近所のカフェにお客さんを招いて絵をみせましょう。
お茶しながら。
ずっと夜の闇で隠されているという幻想は恥を生みます。
闇がさっと払われた時、その恥はあらわになります。
小さな恥はさておき、大きな組織の恥は問題です。
天才、才能という言葉が生む幻想。
この幻想が生む闇は、美術が朝を迎えた時に一瞬にして消毒されるでしょう。