美術の「闇」と闇が作る言葉のハザード(災害)
闇を正っぽく見せる言葉「天才」と「才能」
どうですか?皆さん心当たりはありませんか?
幼稚園、小学校、中学校、高校で発達障害や学習障害などで勉強も体育もできなかった子が美術の「才能」があると誤解して、
専門学校と入りやすい芸大美大に流れ、ブラック企業へと流れます。
そのような子たちがブラック企業に耐えられますか?
無理ですよね。
「天才」と「才能」という言葉で人を躍らせれば、負は最大限の広がりを見せるので最大公約数的に儲かるのです。
言葉で躍らせる闇を率先して生んでいるのは大学と美術館と画廊と市場と企業です。
誰も公に口にしませんが、大きな問題です。
他にも問題はあります。
東京芸術大学の受験。
異常に高い倍率。
受験生の力量を誰もわかりやすく示さないために大半が無理なことが大学や予備校はわかっているのに、
受験生は可能性があると信じて受験をする。
受験していい人は、
予備校などで十分な対策をこうじている人。
予備校などである程度の対策をこうじてわずかにでも可能性がある人。
今は実力が足りないことはわかっているが来年以降のために受験しておきたい人。
受験をしない方がいい人は
予備校などの然るべき場所で対策をこうじていない人。
「才能」だけで受かる可能性があると思っている人。
運で数うちゃ当たると思っている人。
予備校などで対策をこうじてわずかにでも可能性がある人は定員の10倍程度に収まる人数です。
それ以外は一目瞭然で箸にも棒にもかかりません。
受験は「才能」ではないです。
また「くじ運」「運」ではなく、ひたすら努力です。
芸大美大の受験でおきている現象は異常です。
一般大学に置き換えて考えてみませんか?
受験勉強を全くしていない人が遊びでなくて本気で東大を受けている。
どうですか?
異常ですよね?
全く勉強しない自分を天才だと思う受験生が全員、東大を受けたら問題ですよね!
問題は受験費用ですが、東大などの一般大の場合不必要な受験費用がかかっていることが社会問題になると思います。
芸大も同じく問題ですよね。
「天才」「才能」などの言葉を使って、実態を闇にしているから芸大受験は常識では考えられない状況になっています。
かつては50倍今も油画は20倍程度です。
実技試験の評価を科学的な根拠に基づいてきちんと規定し、公開すればいいのですが、
儲かるし、そんなことをするのが面倒くさいのだと思います。
負の側の人権は無視です。
でも、これが大きな問題になると思っています。
正と負が逆転します。
負の人たちの人数が膨れ上がっているからです。
美術の世界は簡単に言えば良くわからない「天才」「才能」という言葉でなんでも誤魔化しています。
美術の世界の光は一部の人間にのみ降り注ぎ、大多数の人間は闇の中です。
優良企業に入る人や東京芸術大学の実技試験のように。
なので、未だにそうですが、今は世界のひとかけらの正を皆が目指します。
私自身もそうですし、生徒たちにも確実に正の側になれるように指導しています。
それが伝わらないからこの長い文章も作っています。
ブラックに進まさせられない。
強靭な子はいいですが、そういう子に限って逆のタイプです。
私が動かなくても美術は変われると確信を持って言えます。
私の生きた時代の精神は、これまでの時代と違い、
これからの時代の大きな波に淘汰され、跡形もなく消え果ていくと私は考えています。
これまでかなりつらい思いをして、苦労も重ねてきたので悔しいな~と思います。
まあ私のエゴなんかどうでもいいんですけどね~。
何にも残らない。
後世に残るのは漫画とゲームかな~。
淘汰は外的な要因によってなります。
すなわち、美術の世界が内部で自重しなければ、美術の外の組織の力によって淘汰がなされます。
問答無用に。
私の生きた時代にも素晴らしいものがあります。
私はそれをなるべくなら残したいと考えています。
でもあまりに未来のことについて配慮に欠けるナンセンスなことばかりしていたら、
今後の未来の人たちにとって、今の時代の財産を言葉として残す意義は見当たりません。
ようは今の時代の人間が未来の人が残してくれるように誠心誠意努力しなければ何も残らないだろうと思います。
所謂、功績です。
淘汰を免れれば連綿と続き後世に残るものがあります。
この30年ほどの惰性で進んだ日本の美術の中で後世に残せる功績が見つかりません。
ありますか?
例えば油絵だと何ですか?・・。
後世に残るのは・・・?
絵具くらいかな~。
未来には未来の時代の精神があります。
未来の人が我々の時代の精神に生きるのは時代錯誤でしょう。
今の時代の精神を次の世代につなぐには次の時代への変化を私たちが手伝うことです。
まあ、簡単に言えば、やられ役になることかな。
間違っても今の惰性のモヤモヤした感じを、この嫌な思いを次の世代に持ち込ませない方がいいと思います。
いたたまれない。
今闇の中で埋もれているものを少しでも後世に残したければ、
厄介以外の何物でもない、闇を撃ち払い、闇の中の正しい物事をあらわにして、
綺麗に洗い流しておくことが大切です。
汚れたものは消毒されます。
消毒されたら消えますよね。
美術の世界には闇があります。
私はこの闇の部分を変えたいのです。
闇を変えて残りの人生を気持ち良く仕事がしたい。
そう願います。
美術の世界には言葉の災害があります。
美術の世界に限らず、社会全体の人間の生きる姿勢としては、世の中を前向きにポジティブに生きていくべきで、
基本的にはネガティブなことを前面に出して話しかけるようなことは普通しません。
美術の世界でも、普通はポジティブな話を最初にします。
でも、それをずっと続けていけば、悪い部分の話をするタイミングがなくなり、
そういったことを続けていく内に、悪い部分は皆の暗黙の了解になり、誰も解決しようとはしなくなります。
物事の節目で悪い問題について話し合う機会を設けて解決していけばいいのですが、
ないですね。
国会のように選挙で大学教授、美術館の学芸員、団体、市場の人間が入れ替わればいいのですが、
無理ですね。
美術の世界には誰も手を付けなくなった問題が山ほどあります。
美術はその山を闇の中に隠し、隠し続けるために多くの論法を生み出しました。
私が考えるに、
「天才」「才能」
は問題を隠すために都合よく利用されている代表的な言葉です。
これを使えばあまり美術に詳しくない人でもデマゴーグ。
所謂中身は、実は空っぽだけど外見は紳士的な綺麗な話や指導ができる。
指導力のない先生ほど才能と口にされるような気がします。
東京芸大では聞いたことなかったな~。
私がここのお話でやりたいのは中身のない論法をひとつずつ壊すこと。
論法を壊せば、それで儲けている人が困ります。
でも、論法を壊せば新鮮な空気が吹き込み美術全体が活気づくと考えています。
絵を褒める時に「才能」という言葉を使えばその場の空気は成立します。
でも、それはその場の空気感がそれでいいような気分を生んでいるだけで、
絵の正当な評価がなされているわけではありません。
例えばお母さんが自分の子供の絵を見て才能がある。と言ってあげる姿は微笑ましい光景です。
しかし、美術にとってはそれが実態のない評価の連鎖の入り口なのです。
その連鎖が大学まで続いています。
その場限りで済む話にはならずに、子供のその瞬間の気持ちの高揚は潜在的に残ります。
美術は良いもの、といった具合に、
でもそれが間違いです。
仮にそれを切掛けにして美術の道に足を踏み込んだ後に、才能を否定される瞬間があるのは、美術の道を選択した子供たちです。
思っていたのと違った。という具合に。
そこから這い上がれるか、
立ち尽くすかが運命の分かれ道なんです。
本当に美術の道を歩かせるなら「才能」という言葉は必要ありません。
必要な言葉は具体的で本当に芸大美大入試などで通用する正確な評価です。
「才能」という神秘的な言葉にすがって、美術の世界では、具体的な目的がなく、努力ができない子の全員が
何をしたらいいかもわからず、ボーと立ちすくんで挫折します。
立ちすくむのは当たり前です。
学習能力も、精神力も、体力もないのですから。
挫折するのはこの世界には才能ではなく正真正銘の努力が必須だからです。
子供たちは美術の世界に憧れがあって、具体的な目標があって、努力ができるならいいです。
でも、美術の世界の誰かに才能があると褒められて、特に美術に具体的にやりたいことがあるわけではないのに、
あの気持ちの高揚する感覚をまた味わいたかったり、親御さんの期待に応えるために入ってくる子が大勢います。
そういった子たちの全員が上手くいきません。
努力ができない子が成功することは、「ない」ということと、
美術の世界は才能ではなく、努力が必要だということを社会が正しく認識することが大切です。
「才能」という言葉に騙されて立ちすくむ子を生み出すのは「災害」天才ハザードです。
子供に「才能」があるということは今の美術の世界では「正」ですが、真実は「負」です。
これは今後かならず「負」に変わります。
まず、「才能」があると言われるその立ちすくんだ子に、
東京芸術大学の彫刻科とデザイン科と工芸科に合格できるかどうかの科学的な分析を行います。
簡単なので私よりも先に誰かできる人がいたらどうぞ。
美術の世界の人間が、現場で山積みになっている問題を見て見ぬふりをして、放置し続けているのは
それが今の美術のビジネスモデルを作る稼ぎ方だからです。
お母さんたちが「才能」という言葉で子供の絵を褒めれば絵に興味のある子供が増える。
問題を放置し続けているために、美術は美術の本当の力を認知されることなく、本当の力は影を潜め、
よくわからない幻想を生む「天才」「才能」という言葉だけが悪い後味を残し、
美術の本当の力は徐々に弱ってきているように思います。
本当の力の科学的な証明は簡単です。
簡単ですがビジネスモデルが壊れるので誰も手を付けないのです。
今回の話は美術の問題を解決しなければ・・。という思いから、
ポジティブな話を後ろに下げて、ネガティブな話を前面に押し出す格好になりました。
でも、前に出した問題が解決すれば美術は大きな社会的な役割を果たせる世界に生まれ変われると思っています。
どうですか?皆さん心当たりはありませんか?
幼稚園、小学校、中学校、高校で発達障害や学習障害などで勉強も体育もできなかった子が美術の「才能」があると誤解して、
専門学校と入りやすい芸大美大に流れ、ブラック企業へと流れます。
そのような子たちがブラック企業に耐えられますか?
無理ですよね。
「天才」と「才能」という言葉で人を躍らせれば、負は最大限の広がりを見せるので最大公約数的に儲かるのです。
言葉で躍らせる闇を率先して生んでいるのは大学と美術館と画廊と市場と企業です。
誰も公に口にしませんが、大きな問題です。
他にも問題はあります。
東京芸術大学の受験。
異常に高い倍率。
受験生の力量を誰もわかりやすく示さないために大半が無理なことが大学や予備校はわかっているのに、
受験生は可能性があると信じて受験をする。
受験していい人は、
予備校などで十分な対策をこうじている人。
予備校などである程度の対策をこうじてわずかにでも可能性がある人。
今は実力が足りないことはわかっているが来年以降のために受験しておきたい人。
受験をしない方がいい人は
予備校などの然るべき場所で対策をこうじていない人。
「才能」だけで受かる可能性があると思っている人。
運で数うちゃ当たると思っている人。
予備校などで対策をこうじてわずかにでも可能性がある人は定員の10倍程度に収まる人数です。
それ以外は一目瞭然で箸にも棒にもかかりません。
受験は「才能」ではないです。
また「くじ運」「運」ではなく、ひたすら努力です。
芸大美大の受験でおきている現象は異常です。
一般大学に置き換えて考えてみませんか?
受験勉強を全くしていない人が遊びでなくて本気で東大を受けている。
どうですか?
異常ですよね?
全く勉強しない自分を天才だと思う受験生が全員、東大を受けたら問題ですよね!
問題は受験費用ですが、東大などの一般大の場合不必要な受験費用がかかっていることが社会問題になると思います。
芸大も同じく問題ですよね。
「天才」「才能」などの言葉を使って、実態を闇にしているから芸大受験は常識では考えられない状況になっています。
かつては50倍今も油画は20倍程度です。
実技試験の評価を科学的な根拠に基づいてきちんと規定し、公開すればいいのですが、
儲かるし、そんなことをするのが面倒くさいのだと思います。
負の側の人権は無視です。
でも、これが大きな問題になると思っています。
正と負が逆転します。
負の人たちの人数が膨れ上がっているからです。
美術の世界は簡単に言えば良くわからない「天才」「才能」という言葉でなんでも誤魔化しています。
美術の世界の光は一部の人間にのみ降り注ぎ、大多数の人間は闇の中です。
優良企業に入る人や東京芸術大学の実技試験のように。
なので、未だにそうですが、今は世界のひとかけらの正を皆が目指します。
私自身もそうですし、生徒たちにも確実に正の側になれるように指導しています。
それが伝わらないからこの長い文章も作っています。
ブラックに進まさせられない。
強靭な子はいいですが、そういう子に限って逆のタイプです。
私が動かなくても美術は変われると確信を持って言えます。
私の生きた時代の精神は、これまでの時代と違い、
これからの時代の大きな波に淘汰され、跡形もなく消え果ていくと私は考えています。
これまでかなりつらい思いをして、苦労も重ねてきたので悔しいな~と思います。
まあ私のエゴなんかどうでもいいんですけどね~。
何にも残らない。
後世に残るのは漫画とゲームかな~。
淘汰は外的な要因によってなります。
すなわち、美術の世界が内部で自重しなければ、美術の外の組織の力によって淘汰がなされます。
問答無用に。
私の生きた時代にも素晴らしいものがあります。
私はそれをなるべくなら残したいと考えています。
でもあまりに未来のことについて配慮に欠けるナンセンスなことばかりしていたら、
今後の未来の人たちにとって、今の時代の財産を言葉として残す意義は見当たりません。
ようは今の時代の人間が未来の人が残してくれるように誠心誠意努力しなければ何も残らないだろうと思います。
所謂、功績です。
淘汰を免れれば連綿と続き後世に残るものがあります。
この30年ほどの惰性で進んだ日本の美術の中で後世に残せる功績が見つかりません。
ありますか?
例えば油絵だと何ですか?・・。
後世に残るのは・・・?
絵具くらいかな~。
未来には未来の時代の精神があります。
未来の人が我々の時代の精神に生きるのは時代錯誤でしょう。
今の時代の精神を次の世代につなぐには次の時代への変化を私たちが手伝うことです。
まあ、簡単に言えば、やられ役になることかな。
間違っても今の惰性のモヤモヤした感じを、この嫌な思いを次の世代に持ち込ませない方がいいと思います。
いたたまれない。
今闇の中で埋もれているものを少しでも後世に残したければ、
厄介以外の何物でもない、闇を撃ち払い、闇の中の正しい物事をあらわにして、
綺麗に洗い流しておくことが大切です。
汚れたものは消毒されます。
消毒されたら消えますよね。
美術の世界には闇があります。
私はこの闇の部分を変えたいのです。
闇を変えて残りの人生を気持ち良く仕事がしたい。
そう願います。
美術の世界には言葉の災害があります。
美術の世界に限らず、社会全体の人間の生きる姿勢としては、世の中を前向きにポジティブに生きていくべきで、
基本的にはネガティブなことを前面に出して話しかけるようなことは普通しません。
美術の世界でも、普通はポジティブな話を最初にします。
でも、それをずっと続けていけば、悪い部分の話をするタイミングがなくなり、
そういったことを続けていく内に、悪い部分は皆の暗黙の了解になり、誰も解決しようとはしなくなります。
物事の節目で悪い問題について話し合う機会を設けて解決していけばいいのですが、
ないですね。
国会のように選挙で大学教授、美術館の学芸員、団体、市場の人間が入れ替わればいいのですが、
無理ですね。
美術の世界には誰も手を付けなくなった問題が山ほどあります。
美術はその山を闇の中に隠し、隠し続けるために多くの論法を生み出しました。
私が考えるに、
「天才」「才能」
は問題を隠すために都合よく利用されている代表的な言葉です。
これを使えばあまり美術に詳しくない人でもデマゴーグ。
所謂中身は、実は空っぽだけど外見は紳士的な綺麗な話や指導ができる。
指導力のない先生ほど才能と口にされるような気がします。
東京芸大では聞いたことなかったな~。
私がここのお話でやりたいのは中身のない論法をひとつずつ壊すこと。
論法を壊せば、それで儲けている人が困ります。
でも、論法を壊せば新鮮な空気が吹き込み美術全体が活気づくと考えています。
絵を褒める時に「才能」という言葉を使えばその場の空気は成立します。
でも、それはその場の空気感がそれでいいような気分を生んでいるだけで、
絵の正当な評価がなされているわけではありません。
例えばお母さんが自分の子供の絵を見て才能がある。と言ってあげる姿は微笑ましい光景です。
しかし、美術にとってはそれが実態のない評価の連鎖の入り口なのです。
その連鎖が大学まで続いています。
その場限りで済む話にはならずに、子供のその瞬間の気持ちの高揚は潜在的に残ります。
美術は良いもの、といった具合に、
でもそれが間違いです。
仮にそれを切掛けにして美術の道に足を踏み込んだ後に、才能を否定される瞬間があるのは、美術の道を選択した子供たちです。
思っていたのと違った。という具合に。
そこから這い上がれるか、
立ち尽くすかが運命の分かれ道なんです。
本当に美術の道を歩かせるなら「才能」という言葉は必要ありません。
必要な言葉は具体的で本当に芸大美大入試などで通用する正確な評価です。
「才能」という神秘的な言葉にすがって、美術の世界では、具体的な目的がなく、努力ができない子の全員が
何をしたらいいかもわからず、ボーと立ちすくんで挫折します。
立ちすくむのは当たり前です。
学習能力も、精神力も、体力もないのですから。
挫折するのはこの世界には才能ではなく正真正銘の努力が必須だからです。
子供たちは美術の世界に憧れがあって、具体的な目標があって、努力ができるならいいです。
でも、美術の世界の誰かに才能があると褒められて、特に美術に具体的にやりたいことがあるわけではないのに、
あの気持ちの高揚する感覚をまた味わいたかったり、親御さんの期待に応えるために入ってくる子が大勢います。
そういった子たちの全員が上手くいきません。
努力ができない子が成功することは、「ない」ということと、
美術の世界は才能ではなく、努力が必要だということを社会が正しく認識することが大切です。
「才能」という言葉に騙されて立ちすくむ子を生み出すのは「災害」天才ハザードです。
子供に「才能」があるということは今の美術の世界では「正」ですが、真実は「負」です。
これは今後かならず「負」に変わります。
まず、「才能」があると言われるその立ちすくんだ子に、
東京芸術大学の彫刻科とデザイン科と工芸科に合格できるかどうかの科学的な分析を行います。
簡単なので私よりも先に誰かできる人がいたらどうぞ。
美術の世界の人間が、現場で山積みになっている問題を見て見ぬふりをして、放置し続けているのは
それが今の美術のビジネスモデルを作る稼ぎ方だからです。
お母さんたちが「才能」という言葉で子供の絵を褒めれば絵に興味のある子供が増える。
問題を放置し続けているために、美術は美術の本当の力を認知されることなく、本当の力は影を潜め、
よくわからない幻想を生む「天才」「才能」という言葉だけが悪い後味を残し、
美術の本当の力は徐々に弱ってきているように思います。
本当の力の科学的な証明は簡単です。
簡単ですがビジネスモデルが壊れるので誰も手を付けないのです。
今回の話は美術の問題を解決しなければ・・。という思いから、
ポジティブな話を後ろに下げて、ネガティブな話を前面に押し出す格好になりました。
でも、前に出した問題が解決すれば美術は大きな社会的な役割を果たせる世界に生まれ変われると思っています。