美術の「闇」と闇が作る言葉のハザード(災害)
絵画の「写実」の本当のところの「真の価値」は社会のみんながその価値を知り、必要な時、描きたい時に「写実」をすることで初めて見えてきます。
親や子が亡くなった時など特別に記録しておかなければならない時はその真価を実感しやすいと思います。
それを公にしない美術の世界は本当に愚かだな〜と私は思います。
写真には映らない、絵画にしか表せないものがあります。
自分の見たものを自分の手で描くもの。
亡くなった家族や友人があなたを描いたとしたら、その絵を見てあなたはどんな感じがしますか?
(描き方はまるかいてちょんじゃない方がいいな・・・。)
それはとても強い力です・・。
いずれ改めて絵画の本当の力についてもっとわかりやすくお話しします。絵画はみんなにとって素晴らしいものなのです。
絵画はその力を世の中に出さないでおきながら、「世の中に受け入れられない・・」と言って「美術」や「絵画」について悩みます。意味不明です。
(バカじゃねーの?ごめんなさい言い方が汚いですね、あ、でも本音です・・。忖度しなくてすみません。あ、でも、私忖度しません・・。)
意味不明なので天才育成計画の中で計画しているものの一つとして私が動かなければと考えています。
絵画の世界はこれから忙しくなりますよ・・。
覚悟していますが・・。
「絵画の世界の絵画」はもともと職人ギルドが仕事として報酬を得るために描いているものでした。 それから時代が移り変わりカメラの印画紙ができ、絵画は仕事ではなくなっていきました。
これからはさらに絵画で報酬を得ることはなくなります。 そして「絵画の世界の絵画」(造語です)は無くなります。 私の勝手に言う、伝わるかな・・「絵画の世界の絵画」は絵画の創世記から今まで絵画の世界が脆弱だったからそれを守るために必要だった考え方だと思います。 絵画を守り、広めることは、それはそれでとても大変なことだったと思います。 でも、もう「絵画の世界の絵画」は卒業です。 「絵画の世界の絵画」は無くなり、新しく生まれる概念は「みんなの絵画」とか「社会の絵画」とかだと思います。 それはこれからの人たちが腑に落ちる表現を当てはめて、考えてみれば良いのだと思います。 みんなが考えるようになっていればそれはとても楽しい作業になるでしょう。 絵画の強さをみんなに知ってもらえればそれはなると思います。
大学の絵画科の受験者数はこれから益々減っていくことと思います。 絵画科の生徒数の減少を止めるとしたら大学卒業後に絵画で生計を立てていく卒業生ではありません。 (・・恥ずかしい話、東京藝術大学の油画専攻で販売目的ではない油画を描いて生計を立てているOBは1人くらい・・・いる?・・いませんよね?) それは大学で絵画を学んだ知識と制作を通じて養った感性や創造力を企業に就職して役立てる卒業生です。
絵画は誰にでも描けるものです。 それをいまだに伏せていることで色んな所で歪みが生まれています。 美術市場に向けて絵画を制作して画廊に描いた作品を卸している画家とギャラリストは絵画が誰でも描けるものだと知っていてもそれを公言することはありません。 画家でもギャラリストでも絵画が誰にでも描けるものだと知らない人もいます。 勉強不足ですね・・・。 彼らは画家を特別な存在で「才能」があり、中には「天才」だと信じています。 その作品を買うコレクターも同様に信じています。 早く気づかせなければなりません。 理由は絵画の市場の価値の全てが今後は骨董としての価値以外なくなるからです。 誰にでもできるということが世の中の全ての人に立証されれば、自分でも誰でも描けるものにお金を払う必要性は全くありませんよね? 今の美術市場の中では世界初の技法で制作された作品やスタイルやコンセプトの作品は歴史的な美術史的な価値で残ると思います。 でも焼き直しや重複する作品の全ての価値はありません。 そのため焼き直しや重複する無名の作家の作品の全ては買ってはなりません。 必ず近い将来買ったは良いものの誰も買い取ってくれない作品になります。 画廊で販売されている作品のほとんどは買ってもその後自分の手元にきてその後誰も買わない作品です。 私は絵画の世界にいる人間なのでよく「家にある作品を売りたいのだけれど・・どうにかならないか?」と聞かれます。 でも、そうして聞かれる作品の全てが売れるような価値のあるものではないのです。 あなたが買った時に画廊が儲けてそれで終わり・・です。 あくどいですね。
今の絵画の世界は「才能」を信じたいという人の思いによって成り立っています。 でも実際は誰にでも描けるものを特別な人にしか描けないと自他共に誤解し続けることで絵画は自分の身と他人の身を貶めています。 画廊の人にも画家にも悪気はないのです。
絵画には社会を大きく変える力があります。 それは誰もが絵を描くことでなります。 天才育成計画は絵画が「才能」「天才」ではなく誰にでも描けるものだという認識を社会に広げていきます。 社会に完全に浸透した後に絵画の世界の本当の「才能」があらわになります。 そしてその中から本当の「天才」が生まれます。 そこまでがてんいくの仕事だと思っています。
今の絵画の世界で「才能」が認められたり、「天才」と称されたりしている画家の中に本当に「才能」があり「天才」である人はいません。
世の中の人の中には絵画を見て「これは誰でも描けるんじゃないか?」と疑問に思われることがよくあります。 これまではそれは否定されてきましたが、実際はみなさんが思っていることは「正解」です。 いずれ詳細に立証します。
天才育成計画の活動の中で世の中の「才能」がなければできないと誤解されている絵画の技法や物の見方や考え方などを全て解いていきます。 絵画の世界はやり尽くされていると言われていますが、実は絵画の世界はやらなければならない仕事が山積みなのです。
美術とデザインの世界は「天才ファースト」です。 少なくとも私はそうです。 天才ファーストであるからこそ、今の誰でもできることを「天才」と称して、「才能」と称して間違ってしまっている状況には問題があるのです。 本当の天才を生み出さなければならないからこそ、その下地をしっかりと作るために誰にでもできることの全てを社会に公開しなければならないと考えます。 しっかりと下地を作り上げた後に本当の「天才」が絵画の世界から出てきます。 その天才は社会に広く深く認識された絵画の世界で誰もが価値のわかる、認める「天才」です。 今の絵画の世界は夢を持てない世界です。 社会に大きく取り上げられることはない。
私もおこがましいですが画家の天才だと思っています。 作品のイメージは20年前からありました。 でも、20年前、残念ながら、今の美術の世界は私が作品を発表しても、その価値のわかる人間がいません。 大学はインスタレーション一色で油画専攻でありながら絵画に対する関心がなく、大学で制作する意味も大学に残る意味もありませんでした。 ただ時を待つしかない。 そんな状態なので私が油画で評価を得るには絵画の世界が本当に作品の価値を判断できるようにする所から始めなければならなかったのです。 長い年月をかけてでもやる意味はあると考えたので私は事業を起こす所から始めました。 私が作品を発表できる所まで天才育成計画を進めることができるかどうかわかりませんが、やるだけやってみます。 今、作品を発表しても誰も評価できないのです・・・。 絵画がメジャーになりみんながものすごく絵画の細かいところまでわかるようになれば、やっと作品を発表することができます。 野球やサッカーくらいにならないとわかってもらえませんね・・。 今の絵画の世界は世界一早い球をガンガン投げても誰にもわかりません・・。
人は生きていくためには仕事をしていかなければなりません。
私が知る限り、私が知り合った美術とデザインに関係している人の全員が仕事をしなければ生きてはいけない人です。
つまり、このようなことをわざわざ言わなければならないのは芸大美大の特に東京藝術大学は仕事をすることを前向きに考えづらい思想で、それによって学生のほぼ全員が潰れています。
現実的に考えていかなければ前に進めない。これは真実です。
でも、現実を直視せずに、ただただ盲目的に前に進むことを賞賛し、一度就職など仕事をすることを口にしようものなら、「勿体無い」といった反響が起こり、思いとどまるように周囲は働きかけます。 「勿体無い」という声かけの陰に現実的に生きていける具体的な話があるのならなんの問題もありません。 でも、そのような話は一切なく、「勿体無い」という一見輝かしい言葉の陰にあるのは「希望的な観測」と誰にもどうすることもできない「悲愴」です。
「希望的な観測」には未来はありません。 「夢」でもありません。 「幻想」です。
「夢」とは追うものです。 現実的に「夢」を追うには、実際に追うわけですから現実的に地に足をつけて「夢」に近づいていきます。 つまり現実です。 でも、東京藝術大学の中にはそのような思想はありません。 つまり、現実の中にある複雑に絡み合った問題の一つひとつを紐解いて解決して前に向かって進んで行った人間がおそらくいないのです。 なのでそのような具体的な指導ができない。
芸大には大学卒業のタイミングで千載一隅のチャンスで数千万の支援を個人から受けてそれを生徒に話すことしかできない「ど阿呆」はいます。
現実的に「夢」に向かっていくことは可能です。 でもその夢を現実的に掴むには企業に就職することを考えるしかありません。
千載一隅のチャンスを現実的に狙うのは「馬鹿」です。
そして実力でどうにもならない大学の教員を目指すのは現実的な努力でどうなるものでもありません。
自分の実力で現実を良くする方法は優良企業への就職です。
「絵画の世界の絵画」はもともと職人ギルドが仕事として報酬を得るために描いているものでした。 それから時代が移り変わりカメラの印画紙ができ、絵画は仕事ではなくなっていきました。
これからはさらに絵画で報酬を得ることはなくなります。 そして「絵画の世界の絵画」(造語です)は無くなります。 私の勝手に言う、伝わるかな・・「絵画の世界の絵画」は絵画の創世記から今まで絵画の世界が脆弱だったからそれを守るために必要だった考え方だと思います。 絵画を守り、広めることは、それはそれでとても大変なことだったと思います。 でも、もう「絵画の世界の絵画」は卒業です。 「絵画の世界の絵画」は無くなり、新しく生まれる概念は「みんなの絵画」とか「社会の絵画」とかだと思います。 それはこれからの人たちが腑に落ちる表現を当てはめて、考えてみれば良いのだと思います。 みんなが考えるようになっていればそれはとても楽しい作業になるでしょう。 絵画の強さをみんなに知ってもらえればそれはなると思います。
大学の絵画科の受験者数はこれから益々減っていくことと思います。 絵画科の生徒数の減少を止めるとしたら大学卒業後に絵画で生計を立てていく卒業生ではありません。 (・・恥ずかしい話、東京藝術大学の油画専攻で販売目的ではない油画を描いて生計を立てているOBは1人くらい・・・いる?・・いませんよね?) それは大学で絵画を学んだ知識と制作を通じて養った感性や創造力を企業に就職して役立てる卒業生です。
絵画は誰にでも描けるものです。 それをいまだに伏せていることで色んな所で歪みが生まれています。 美術市場に向けて絵画を制作して画廊に描いた作品を卸している画家とギャラリストは絵画が誰でも描けるものだと知っていてもそれを公言することはありません。 画家でもギャラリストでも絵画が誰にでも描けるものだと知らない人もいます。 勉強不足ですね・・・。 彼らは画家を特別な存在で「才能」があり、中には「天才」だと信じています。 その作品を買うコレクターも同様に信じています。 早く気づかせなければなりません。 理由は絵画の市場の価値の全てが今後は骨董としての価値以外なくなるからです。 誰にでもできるということが世の中の全ての人に立証されれば、自分でも誰でも描けるものにお金を払う必要性は全くありませんよね? 今の美術市場の中では世界初の技法で制作された作品やスタイルやコンセプトの作品は歴史的な美術史的な価値で残ると思います。 でも焼き直しや重複する作品の全ての価値はありません。 そのため焼き直しや重複する無名の作家の作品の全ては買ってはなりません。 必ず近い将来買ったは良いものの誰も買い取ってくれない作品になります。 画廊で販売されている作品のほとんどは買ってもその後自分の手元にきてその後誰も買わない作品です。 私は絵画の世界にいる人間なのでよく「家にある作品を売りたいのだけれど・・どうにかならないか?」と聞かれます。 でも、そうして聞かれる作品の全てが売れるような価値のあるものではないのです。 あなたが買った時に画廊が儲けてそれで終わり・・です。 あくどいですね。
今の絵画の世界は「才能」を信じたいという人の思いによって成り立っています。 でも実際は誰にでも描けるものを特別な人にしか描けないと自他共に誤解し続けることで絵画は自分の身と他人の身を貶めています。 画廊の人にも画家にも悪気はないのです。
絵画には社会を大きく変える力があります。 それは誰もが絵を描くことでなります。 天才育成計画は絵画が「才能」「天才」ではなく誰にでも描けるものだという認識を社会に広げていきます。 社会に完全に浸透した後に絵画の世界の本当の「才能」があらわになります。 そしてその中から本当の「天才」が生まれます。 そこまでがてんいくの仕事だと思っています。
今の絵画の世界で「才能」が認められたり、「天才」と称されたりしている画家の中に本当に「才能」があり「天才」である人はいません。
世の中の人の中には絵画を見て「これは誰でも描けるんじゃないか?」と疑問に思われることがよくあります。 これまではそれは否定されてきましたが、実際はみなさんが思っていることは「正解」です。 いずれ詳細に立証します。
天才育成計画の活動の中で世の中の「才能」がなければできないと誤解されている絵画の技法や物の見方や考え方などを全て解いていきます。 絵画の世界はやり尽くされていると言われていますが、実は絵画の世界はやらなければならない仕事が山積みなのです。
美術とデザインの世界は「天才ファースト」です。 少なくとも私はそうです。 天才ファーストであるからこそ、今の誰でもできることを「天才」と称して、「才能」と称して間違ってしまっている状況には問題があるのです。 本当の天才を生み出さなければならないからこそ、その下地をしっかりと作るために誰にでもできることの全てを社会に公開しなければならないと考えます。 しっかりと下地を作り上げた後に本当の「天才」が絵画の世界から出てきます。 その天才は社会に広く深く認識された絵画の世界で誰もが価値のわかる、認める「天才」です。 今の絵画の世界は夢を持てない世界です。 社会に大きく取り上げられることはない。
私もおこがましいですが画家の天才だと思っています。 作品のイメージは20年前からありました。 でも、20年前、残念ながら、今の美術の世界は私が作品を発表しても、その価値のわかる人間がいません。 大学はインスタレーション一色で油画専攻でありながら絵画に対する関心がなく、大学で制作する意味も大学に残る意味もありませんでした。 ただ時を待つしかない。 そんな状態なので私が油画で評価を得るには絵画の世界が本当に作品の価値を判断できるようにする所から始めなければならなかったのです。 長い年月をかけてでもやる意味はあると考えたので私は事業を起こす所から始めました。 私が作品を発表できる所まで天才育成計画を進めることができるかどうかわかりませんが、やるだけやってみます。 今、作品を発表しても誰も評価できないのです・・・。 絵画がメジャーになりみんながものすごく絵画の細かいところまでわかるようになれば、やっと作品を発表することができます。 野球やサッカーくらいにならないとわかってもらえませんね・・。 今の絵画の世界は世界一早い球をガンガン投げても誰にもわかりません・・。
人は生きていくためには仕事をしていかなければなりません。
私が知る限り、私が知り合った美術とデザインに関係している人の全員が仕事をしなければ生きてはいけない人です。
つまり、このようなことをわざわざ言わなければならないのは芸大美大の特に東京藝術大学は仕事をすることを前向きに考えづらい思想で、それによって学生のほぼ全員が潰れています。
現実的に考えていかなければ前に進めない。これは真実です。
でも、現実を直視せずに、ただただ盲目的に前に進むことを賞賛し、一度就職など仕事をすることを口にしようものなら、「勿体無い」といった反響が起こり、思いとどまるように周囲は働きかけます。 「勿体無い」という声かけの陰に現実的に生きていける具体的な話があるのならなんの問題もありません。 でも、そのような話は一切なく、「勿体無い」という一見輝かしい言葉の陰にあるのは「希望的な観測」と誰にもどうすることもできない「悲愴」です。
「希望的な観測」には未来はありません。 「夢」でもありません。 「幻想」です。
「夢」とは追うものです。 現実的に「夢」を追うには、実際に追うわけですから現実的に地に足をつけて「夢」に近づいていきます。 つまり現実です。 でも、東京藝術大学の中にはそのような思想はありません。 つまり、現実の中にある複雑に絡み合った問題の一つひとつを紐解いて解決して前に向かって進んで行った人間がおそらくいないのです。 なのでそのような具体的な指導ができない。
芸大には大学卒業のタイミングで千載一隅のチャンスで数千万の支援を個人から受けてそれを生徒に話すことしかできない「ど阿呆」はいます。
現実的に「夢」に向かっていくことは可能です。 でもその夢を現実的に掴むには企業に就職することを考えるしかありません。
千載一隅のチャンスを現実的に狙うのは「馬鹿」です。
そして実力でどうにもならない大学の教員を目指すのは現実的な努力でどうなるものでもありません。
自分の実力で現実を良くする方法は優良企業への就職です。