美術の「闇」と闇が作る言葉のハザード(災害)
美術の世界は「天才」「才能」という言葉を誤った使い方で悪用します。
つまり、「天才」「才能」という言葉を免罪符にしています。
人を育てるということは、それは大変なことです。
その大変な手間の多くを「天才」「才能」という言葉で省いています。
美術の世界に「天才」はいません。 それに「天才」に対しても就職についてしっかりと考えてやるべきです。 なぜならば「天才」もお腹が空けばご飯を食べるし、お金がなくなればお金が必要だからです。 お金が必要になっても自分で稼がなくても良い学生が稀にいます。 でも学校は人を育てる所なので、仕事をしなくてもお金が入ってくる学生に対しても、いつでもお金が稼げるように準備はしてやっておくべきです。 仕事をしなくても人が育つというイメージは幻想です。 仕事をしなくても、「天才」「才能」で生きていけるというイメージは幻想以外の何物でもありません。 芸大美大ではその幻想が通用します。 そしてその幻想が大きな災害を起こし続けています。
芸大美大が推奨するアーティストとしての生き方。
アーティストが作品を販売する時は多くの場合、画廊に作品を卸します。
今後、画家の仕事は必ず変わります。
絵画の世界には市場があります。 市場では画家の作品が販売されています。 販売される作品には色んな絵がありますが、中でも人気は花や人物や風景が描かれた作品です。 その中でも売れやすい作品は本物そっくりに描かれた作品です。 これらの多くは写真を見ながら描かれています。 でもこれらの作品の多くは近い将来販売されなくなります。 それは写真を見ながら描くことは誰にでもできる簡単なことだからです。 その事実が社会に広まり、近い将来みんなが絵を描くようになれば絵を買う必要がなくなります。 写真を見ながら絵を描く人が増えてくれば、現在の市場の価値は少しづつ下がります。 そして、写真を見ながら描くことがとても簡単なことが世の中に完全に認知された時に写真を見ながら描いただけで他に付加価値のない絵は誰でわかるようになるので市場価値は完全になくなります。 誰でも動画や写真が撮れてダンスが踊れるようになった現在。これからは絵が動画や写真を撮ることと同じように誰でも描けるようになります。 絵画が社会に働きかける当面の仕事は絵を販売することではなく、誰でも絵が描けることを広めていくことです。
勿論、写真を使いながら描かれた作品の中にも特別な技巧や感性やコンセプトなどで描かれた素晴らしい作品もあります。 それらはこれからも評価され続けて販売され続けます。 でも、今までとこれからの違いはそれがどのように特別なものなのかをしっかりと判断できるように誰もがなることです。 今でも販売されている作品の多くは「特別な才能」と称されて販売されています。 でも実際はほとんどの作品が特別なものでもなんでもありません。 本当に特別なもの、つまり「本物」はあります。 でも、残念ながらその「本物」は本当にごく稀な人にしかわからないのです。 そして作り手には大きな意味のある「本物」を仮に制作できるようになったとしても、その価値を見抜ける人間が今の美術の世界にはいないために、実際に「本物」を作れる作り手の多くはこの状況を前に静観せざるを得ません。 静観し状況を変える所から仕事をしなければならない。 このような状況に直面して私のような「絵を描かない画家」が世界中で静かに状況が変わる節目をひっそりとアトリエの片隅から覗き見ているのです。 今の何でもかんでも特別な才能と称されている作品は、野球で例えるならせいぜい時速120km程度の球を投げられたら速球でそれを特別なものとして売り込んでいるようなものです。 つまり、本当の特別な才能とは160km程度の球を投げられるようなことをいいます。 今の時代は残念ながら絵画の世界で165kmの球を投げても誰もそれを評価できないのです。 社会のみんなが絵を描くようになれば社会のみんなが165kmの球がどれだけ素晴らしい球速なのかがわかります。 そうすれば165kmの球を投げれば食べていくことができます。 でも今の絵画の世界で食べていくのは「本物」ではなく、画廊の扱いやすい都合の良い画家なのです。 私は165km程度の速球にあたいする絵を描くことができます。 でも誰にも伝わらない状況に陥ってしまっているので、そのためにとても遠い周り道をしています。 かなり寄り道しながら呑気にやっているので苦しくも楽しいですが・・・。
私がお話しすることは、写真を使いながら絵を本物そっくりに描けることが自分にしかない特別な才能と信じていたり、それで食べていくことを夢見ている人たちを傷つけます。 でも、私のお話は真実なのです。
私がこのお話しをするのは営業妨害をしたいからではありません。 自分の描いた絵画を販売して生活していこうとして失敗する人を止めたいからです。 そして絵は誰でも描けるということを社会に広めることが絵画にとって一番有意義だと考えるからです。
私はいずれ絵画の世界の画家が作品で収入を得ることを考えなくなる。 そして絵で食べていかなくなるし、食べていくことすら考えなくなると思っています。 少なくともそのような必要が一時的になくなる。 それか一時的にやめる必要があると考えています。 理由は絵画が特別な才能のある人間のみが描けるものではなく、その誤解が解ければ絵画は人により身近なものになり、そうなることでこれまで隠されていた絵画の本当の姿とその価値がみんなに伝わり、誰もが絵を描くようになるからです。 私を含めて、今活動(私は絵を描かない画家ですが・・。)している画家の今為すべき一番大切な仕事は、誰もが絵を描ける社会に作り変える変革を起こすための仕事をすることです。 私たちの前にはこれまでしばらくなかったような「大義」があります。 これは私たちにとって魚が水を得るような大きなチャンスなのです。
「絵は誰でも描けます。」
そのことは長い絵画の歴史の中で隠されてきました。
ひと昔前、マイクの前で歌を歌うことは特別な才能のある人に許されるものでした。 でもカラオケボックスができてから歌うことが好きな人であれば気軽にいつでもマイクを使って歌うことができるようになりました。 (カラオケボックスならぬ絵の具遊びがいつでもできるスクリブルボックス(造語です。それで勝手に考案したものです)を早く作らねば・・・各幼稚園に1台。ご家庭に一台・・。) 音楽の世界はインターネットで音楽をダウンロードできるようになりました。 パソコンが普及し作曲も可能です。 それによってかつて美術の世界が写真の印画紙が発明されたことで誰でも映像を記録できるようになり、絵画が売れずらくなったことと同じような現象が音楽の世界で起きると思います。 私が言うまでもありませんが・・。
映画の世界も音楽と同様に誰でも簡単に動画が撮影できるようになったために同じ現象が起きると思います。 誰でも映画が作れる。 そうなれば映画の価値の形が代わり絵画と同じように映画がこれまでのような売れ方をしなくなります。 アニメも同じです。
歌うことは誰でもできる。映像を作ることも誰にでもできる。 それと同じように誰にでも絵を描くことができます。
絵は高度な訓練によって能力や感覚の養成しなければできない技術がほんの少しあります。 でも絵を描く時のほとんどが誰にでもできる簡単なものです。
絵は技術的に描くことは画材屋さんに行って絵の具を買えば誰でも可能です。 しかし、画材を買ってもみんな絵を描くことができないのは、第一に「才能」がなければ絵は描けないと思い込んでしまっているからです。 そして、第二に多少のコツを知れば誰でも描けるようになるのに、その方法の出し惜しみをしているため簡単に描けるということが世の中に知られていないからです。 例えば見えるものを本物そっくりに描く「写実」は心と精神が健康な人であれば100パーセント誰にでも描くことができます。 でもそのことをおおっぴろげにしないのは、それを公言して大々的に広めるキャンペーンを打ってしまうと「写実」で収入を得ている画家と画廊の営業妨害になるからです。 誰にも「写実」ができることが社会に認知された時点で「写実」を特別な才能として売り出している全ての絵画の価値が無くなります。
つまり、「天才」「才能」という言葉を免罪符にしています。
人を育てるということは、それは大変なことです。
その大変な手間の多くを「天才」「才能」という言葉で省いています。
美術の世界に「天才」はいません。 それに「天才」に対しても就職についてしっかりと考えてやるべきです。 なぜならば「天才」もお腹が空けばご飯を食べるし、お金がなくなればお金が必要だからです。 お金が必要になっても自分で稼がなくても良い学生が稀にいます。 でも学校は人を育てる所なので、仕事をしなくてもお金が入ってくる学生に対しても、いつでもお金が稼げるように準備はしてやっておくべきです。 仕事をしなくても人が育つというイメージは幻想です。 仕事をしなくても、「天才」「才能」で生きていけるというイメージは幻想以外の何物でもありません。 芸大美大ではその幻想が通用します。 そしてその幻想が大きな災害を起こし続けています。
芸大美大が推奨するアーティストとしての生き方。
アーティストが作品を販売する時は多くの場合、画廊に作品を卸します。
今後、画家の仕事は必ず変わります。
絵画の世界には市場があります。 市場では画家の作品が販売されています。 販売される作品には色んな絵がありますが、中でも人気は花や人物や風景が描かれた作品です。 その中でも売れやすい作品は本物そっくりに描かれた作品です。 これらの多くは写真を見ながら描かれています。 でもこれらの作品の多くは近い将来販売されなくなります。 それは写真を見ながら描くことは誰にでもできる簡単なことだからです。 その事実が社会に広まり、近い将来みんなが絵を描くようになれば絵を買う必要がなくなります。 写真を見ながら絵を描く人が増えてくれば、現在の市場の価値は少しづつ下がります。 そして、写真を見ながら描くことがとても簡単なことが世の中に完全に認知された時に写真を見ながら描いただけで他に付加価値のない絵は誰でわかるようになるので市場価値は完全になくなります。 誰でも動画や写真が撮れてダンスが踊れるようになった現在。これからは絵が動画や写真を撮ることと同じように誰でも描けるようになります。 絵画が社会に働きかける当面の仕事は絵を販売することではなく、誰でも絵が描けることを広めていくことです。
勿論、写真を使いながら描かれた作品の中にも特別な技巧や感性やコンセプトなどで描かれた素晴らしい作品もあります。 それらはこれからも評価され続けて販売され続けます。 でも、今までとこれからの違いはそれがどのように特別なものなのかをしっかりと判断できるように誰もがなることです。 今でも販売されている作品の多くは「特別な才能」と称されて販売されています。 でも実際はほとんどの作品が特別なものでもなんでもありません。 本当に特別なもの、つまり「本物」はあります。 でも、残念ながらその「本物」は本当にごく稀な人にしかわからないのです。 そして作り手には大きな意味のある「本物」を仮に制作できるようになったとしても、その価値を見抜ける人間が今の美術の世界にはいないために、実際に「本物」を作れる作り手の多くはこの状況を前に静観せざるを得ません。 静観し状況を変える所から仕事をしなければならない。 このような状況に直面して私のような「絵を描かない画家」が世界中で静かに状況が変わる節目をひっそりとアトリエの片隅から覗き見ているのです。 今の何でもかんでも特別な才能と称されている作品は、野球で例えるならせいぜい時速120km程度の球を投げられたら速球でそれを特別なものとして売り込んでいるようなものです。 つまり、本当の特別な才能とは160km程度の球を投げられるようなことをいいます。 今の時代は残念ながら絵画の世界で165kmの球を投げても誰もそれを評価できないのです。 社会のみんなが絵を描くようになれば社会のみんなが165kmの球がどれだけ素晴らしい球速なのかがわかります。 そうすれば165kmの球を投げれば食べていくことができます。 でも今の絵画の世界で食べていくのは「本物」ではなく、画廊の扱いやすい都合の良い画家なのです。 私は165km程度の速球にあたいする絵を描くことができます。 でも誰にも伝わらない状況に陥ってしまっているので、そのためにとても遠い周り道をしています。 かなり寄り道しながら呑気にやっているので苦しくも楽しいですが・・・。
私がお話しすることは、写真を使いながら絵を本物そっくりに描けることが自分にしかない特別な才能と信じていたり、それで食べていくことを夢見ている人たちを傷つけます。 でも、私のお話は真実なのです。
私がこのお話しをするのは営業妨害をしたいからではありません。 自分の描いた絵画を販売して生活していこうとして失敗する人を止めたいからです。 そして絵は誰でも描けるということを社会に広めることが絵画にとって一番有意義だと考えるからです。
私はいずれ絵画の世界の画家が作品で収入を得ることを考えなくなる。 そして絵で食べていかなくなるし、食べていくことすら考えなくなると思っています。 少なくともそのような必要が一時的になくなる。 それか一時的にやめる必要があると考えています。 理由は絵画が特別な才能のある人間のみが描けるものではなく、その誤解が解ければ絵画は人により身近なものになり、そうなることでこれまで隠されていた絵画の本当の姿とその価値がみんなに伝わり、誰もが絵を描くようになるからです。 私を含めて、今活動(私は絵を描かない画家ですが・・。)している画家の今為すべき一番大切な仕事は、誰もが絵を描ける社会に作り変える変革を起こすための仕事をすることです。 私たちの前にはこれまでしばらくなかったような「大義」があります。 これは私たちにとって魚が水を得るような大きなチャンスなのです。
「絵は誰でも描けます。」
そのことは長い絵画の歴史の中で隠されてきました。
ひと昔前、マイクの前で歌を歌うことは特別な才能のある人に許されるものでした。 でもカラオケボックスができてから歌うことが好きな人であれば気軽にいつでもマイクを使って歌うことができるようになりました。 (カラオケボックスならぬ絵の具遊びがいつでもできるスクリブルボックス(造語です。それで勝手に考案したものです)を早く作らねば・・・各幼稚園に1台。ご家庭に一台・・。) 音楽の世界はインターネットで音楽をダウンロードできるようになりました。 パソコンが普及し作曲も可能です。 それによってかつて美術の世界が写真の印画紙が発明されたことで誰でも映像を記録できるようになり、絵画が売れずらくなったことと同じような現象が音楽の世界で起きると思います。 私が言うまでもありませんが・・。
映画の世界も音楽と同様に誰でも簡単に動画が撮影できるようになったために同じ現象が起きると思います。 誰でも映画が作れる。 そうなれば映画の価値の形が代わり絵画と同じように映画がこれまでのような売れ方をしなくなります。 アニメも同じです。
歌うことは誰でもできる。映像を作ることも誰にでもできる。 それと同じように誰にでも絵を描くことができます。
絵は高度な訓練によって能力や感覚の養成しなければできない技術がほんの少しあります。 でも絵を描く時のほとんどが誰にでもできる簡単なものです。
絵は技術的に描くことは画材屋さんに行って絵の具を買えば誰でも可能です。 しかし、画材を買ってもみんな絵を描くことができないのは、第一に「才能」がなければ絵は描けないと思い込んでしまっているからです。 そして、第二に多少のコツを知れば誰でも描けるようになるのに、その方法の出し惜しみをしているため簡単に描けるということが世の中に知られていないからです。 例えば見えるものを本物そっくりに描く「写実」は心と精神が健康な人であれば100パーセント誰にでも描くことができます。 でもそのことをおおっぴろげにしないのは、それを公言して大々的に広めるキャンペーンを打ってしまうと「写実」で収入を得ている画家と画廊の営業妨害になるからです。 誰にも「写実」ができることが社会に認知された時点で「写実」を特別な才能として売り出している全ての絵画の価値が無くなります。