モラトリアムハザード
子供に「想い」は早すぎると言われる大人は多いかと思います。
でも、子供はすでに立派な人生経験を積んでいます。
つまり、恋愛をしたり、いじめを受けたり、家庭内に問題があったりするような外に伝えなければならないような経験をすでにしています。
子供が伝えるべき内容を考えた時に、実際に優先順位の高い上位にたつような発想の内容を思い浮かべても、実はそれを外に出すことを暗黙の了解で抑止しているのは大人です。
抑止し、蹂躙し、制約を与えておきながら表向きは「自由」「のびのび」と発言するのですから子供にとっては「ふざけている」としか言いようのない不愉快な話です。
子供は「大人の振る舞い」として、家庭内の問題やいじめなどの本当に打ち明けなければならないことは絶対に言わないように強く強制されています。
つまり、すでに「自由」が担保されていないのです。
そんな状況でお膳に並べられる「自由」「のびのび」は子供にとって残酷で皮肉以外の何物でもないのです。
そこで「自由にのびのび」の仕事はつまづいて終わっています。
「自由にのびのび」は辛い問題を抱えて萎縮してる子供には必要ない言葉でしょうか?違います。
そのような子供の表現を大人は受け止めますよね?
まさか都合が悪いので抑えるわけはありませんよね?
ましてやこのような事態で「モラル」を持ち出すことはなですよね?
「自由にのびのび」という言葉は不機嫌な子供を垂らし込むために懐柔し「伸び切ったゴム」のようにして都合よくコントロールするためのものではありません。 子供に「自由にのびのび」させるには、それ相応の覚悟が大人にも必要です。 仮に子供が「いじめ」について絵を使って表現した時、予測される反発を乗り切るために矢面に立って全力でその子を守るくらいのことをしなければなりません。 それができないなら「自由にのびのび」などと浮ついた言葉は使うべきではないです。 本当に苦しんでいる状態にある子供から深刻に打ち明けたいと思って伝えられた「想い」を抱えた子供からすれば、「大人が想いを無視して素通りする自由にのびのび」は「安く」「陳腐な」それこそペテンの言葉です。 深刻な悩みにもがき苦しんでいる子供に大人が喜ぶような「答え」を予測させて、「自由でのびのびの忖度」をさせるのは紛れもなくペテンです。 中身のない言葉は使えば使うほど子供の心は美術と離れます。 これ以上しらける話はないです。 深刻に悩んでいる子供に向けた言葉は「自由でのびのび」とか「愛」とか、そう言った言葉ではないのです。 大切なのは具体的な解決です。気づかないかな・・。 美術とデザインと図画工作は具体的な問題と絡めないから弱いのです。
はっきり言って図画の授業でよく出題される「運動会」「遠足」などは、わざわざ絵にして伝えたいと思うほど面白味のあるものではありません。 正直「運動会」をテーマに描いた子供の作品を見てすごいと思ったことはありませんし、子供たちも眼が死んでいます。 「運動会」の絵を描こうと言って眼を爛々と輝かせる子供は見たことはないです。 全員眼が死んでいます。 「運動会」の絵を描いて子供たちの眼が輝いていると捏造したいのは悪の組織〇〇委員会とそのシラバスを考えた大学教授です。 子供は一人として喜んでいないのに、書面でさも子供が喜んでいるかのようなことを書く・・・。 凶悪犯です。 〇〇委員会は仕方ないですね・・・そうしなければ給料がもらえなくなるのですから。 親御さんたちはどうですか? 皆さんも一緒に「運動会」の絵を描きませんか? 親御さんも眼を爛々と輝かせながら描きますか? 私は今までに「運動会」の絵を眼を爛々と輝かせながら描く人を見たことがないので、是非見せてください。 どうですか?嫌ですよね?その嫌なことを子供に強要しなければなりませんか?勇気を持って辞めてみてはどうかな?
表現をするということは、かなり強い精神力が必要です。 作品とはそれほど人を強く揺さぶるものですし、それなりに自分もダメージを負う諸刃の剣です。
仮に「想い」があったとしても、精神力が弱い、情緒が安定していない人が無理をして社会に向けてこの言葉を使って、実行しようとしてまった場合、間違いなく人生を狂わすような大きな事故を起こすと思います。 弱い人がこの世界に向いていないというわけではありません。 でも、落ち着いて冷静に物事に取り組める精神状態にして、落ち着いて形を作っていけるようになるための十分な周り道を受け入れてもらう必要があります。 表現には必ず跳ね返ってくるものがあります。 それによって自分が壊れないように心構えをしておくことは大切です。 十分な心構えとして「自由にのびのび」できる精神状態にすることが大切です。 そしてその後は、「想い」を形にするために「モラトリアム」を受け入れること。 「想い」を形にするためには時間制限を設けないことが大切です。 つまり、強い「想い」のある人の多くは時間が足りなくなって「想い」を形にすることができないのです 。 芸大生の場合、「モラトリアム」の期間は大学在学中なので大学を出なければならない時と同時に殆どの学生が期限切れを迎えます。
「自由にのびのび」という言葉は不機嫌な子供を垂らし込むために懐柔し「伸び切ったゴム」のようにして都合よくコントロールするためのものではありません。 子供に「自由にのびのび」させるには、それ相応の覚悟が大人にも必要です。 仮に子供が「いじめ」について絵を使って表現した時、予測される反発を乗り切るために矢面に立って全力でその子を守るくらいのことをしなければなりません。 それができないなら「自由にのびのび」などと浮ついた言葉は使うべきではないです。 本当に苦しんでいる状態にある子供から深刻に打ち明けたいと思って伝えられた「想い」を抱えた子供からすれば、「大人が想いを無視して素通りする自由にのびのび」は「安く」「陳腐な」それこそペテンの言葉です。 深刻な悩みにもがき苦しんでいる子供に大人が喜ぶような「答え」を予測させて、「自由でのびのびの忖度」をさせるのは紛れもなくペテンです。 中身のない言葉は使えば使うほど子供の心は美術と離れます。 これ以上しらける話はないです。 深刻に悩んでいる子供に向けた言葉は「自由でのびのび」とか「愛」とか、そう言った言葉ではないのです。 大切なのは具体的な解決です。気づかないかな・・。 美術とデザインと図画工作は具体的な問題と絡めないから弱いのです。
はっきり言って図画の授業でよく出題される「運動会」「遠足」などは、わざわざ絵にして伝えたいと思うほど面白味のあるものではありません。 正直「運動会」をテーマに描いた子供の作品を見てすごいと思ったことはありませんし、子供たちも眼が死んでいます。 「運動会」の絵を描こうと言って眼を爛々と輝かせる子供は見たことはないです。 全員眼が死んでいます。 「運動会」の絵を描いて子供たちの眼が輝いていると捏造したいのは悪の組織〇〇委員会とそのシラバスを考えた大学教授です。 子供は一人として喜んでいないのに、書面でさも子供が喜んでいるかのようなことを書く・・・。 凶悪犯です。 〇〇委員会は仕方ないですね・・・そうしなければ給料がもらえなくなるのですから。 親御さんたちはどうですか? 皆さんも一緒に「運動会」の絵を描きませんか? 親御さんも眼を爛々と輝かせながら描きますか? 私は今までに「運動会」の絵を眼を爛々と輝かせながら描く人を見たことがないので、是非見せてください。 どうですか?嫌ですよね?その嫌なことを子供に強要しなければなりませんか?勇気を持って辞めてみてはどうかな?
表現をするということは、かなり強い精神力が必要です。 作品とはそれほど人を強く揺さぶるものですし、それなりに自分もダメージを負う諸刃の剣です。
仮に「想い」があったとしても、精神力が弱い、情緒が安定していない人が無理をして社会に向けてこの言葉を使って、実行しようとしてまった場合、間違いなく人生を狂わすような大きな事故を起こすと思います。 弱い人がこの世界に向いていないというわけではありません。 でも、落ち着いて冷静に物事に取り組める精神状態にして、落ち着いて形を作っていけるようになるための十分な周り道を受け入れてもらう必要があります。 表現には必ず跳ね返ってくるものがあります。 それによって自分が壊れないように心構えをしておくことは大切です。 十分な心構えとして「自由にのびのび」できる精神状態にすることが大切です。 そしてその後は、「想い」を形にするために「モラトリアム」を受け入れること。 「想い」を形にするためには時間制限を設けないことが大切です。 つまり、強い「想い」のある人の多くは時間が足りなくなって「想い」を形にすることができないのです 。 芸大生の場合、「モラトリアム」の期間は大学在学中なので大学を出なければならない時と同時に殆どの学生が期限切れを迎えます。