権力者蹂躙ハザード
「自由にのびのび」は権力者が美しい行いをしていることを世の中に示したいと考えてうたっている言葉です。
自由にのびのびを笑顔でうたう世界は幼児教育に多いです。ですが、幼児が本当に一番描きたいモチーフは「うんこ」です。
それはもう「うんこ」を描いている時の子供は絵画の本当の価値を実感して生き生き絵を描きます。
でも、現場をコントロールする図画工作の先生などの大人は子供が「うんこ」の絵を描こうとすることを阻止しますよね。
現場で阻止とは言いませんよね、教育とか指導と言いますね。でもそれは阻止です。
でも一度想像してみてください。幼児たちに「うんこ」を自由に描かせたらどうなるか❔私はそこに美術の目指すべき形があると思います。権力者の支配から解放される瞬間があるとすればそれは「うんこ」かもしれません。
多くの幼児にとって、トイレットトレーニングである「うんこ」を使った大人との駆け引きで、大人に負けて「うんこ」を描くことを辞めた時、それが、幼児にとって絵画、美術、「自由にのびのび」との今生の別れとなるのです。
「うんこ」から引き離された子供は眼が死んだ魚のような眼になります。眼が死んだ瞬間は子供が自由を無くした瞬間。
大人が大人げなく幼児にとどめを刺してしまい、幼児はその瞬間に図画工作の自由と絶縁します。それからの図画工作は偽りの自由を演じてみせる造形力でも想像力でもない演技力が最も大切な大人との駆け引きの道具でしかありません。
実は美術に対するその眼は幼児の時に身につけ、大人になっても、何歳になっても消えるものではないのです。美術とはクソつまらないもの「うんこ」だけに。
幼児が死んだ魚の眼になった時に次に考えるのは、クソつまんないけど大人の喜ぶ作り笑いを大人に対してするかどうかです。美術はクソつまんないけど、何か別の報酬をもらえるかもしれない。気持ちは全く別の目的に向いています。事実、図画工作に参加する幼児の思惑のほとんどは良い子でいた後にもらえる報酬です。
笑顔を作れるのはストレス耐性の強い躾のできた子です。でもこういった子は英語や運動や音楽を選ぶので美術の道は選びません。
図画工作の先生はストレス耐性の弱い子を引き込むために本来規定された制約を最大限にゆるくして「自由にのびのび」を歌います。
「自由にのびのび」は本来このような使い方をするものではありません。
幼稚園の年中さんまでの間のストレス耐性が身につくまでの間に本能の赴くままに絵の具遊びやねんど遊びをさせてあげて体や感覚を養い満足させることで情緒の安定を測るものです。
年中さんくらいになると幼児は十分に物心がついてきます。絵の上手い下手がわかってくる。その時がきたら制約を守ることをしっかりと教えなければなりません。乱雑に描いていては上手に描くことはできないからです。ただ、残念ながらこの時の幼児に高度な技術指導ができる環境は今の日本にはありません。海外の幼児と日本の幼児の図画工作を比較して日本の幼児の絵が極端に下手なのはそのためです。
さらには、肝心なストレス耐性を身につけている幼児を、大人になった時に美術とデザインで食べていけることを指導できないので、英語や体育やお勉強との引き合いに勝てる先生がいません。呼び込むべき子を呼び込めず、弱い子ばかりを呼び込むことしかできない。弱い子は高度な指導を受ける美術予備校や職場で初めて現実を知り失望しその時点で美術を心底嫌いになる。この負の連鎖が今の美術とデザインに対する不信感を生んでいます。
日本では「自由にのびのび」は勉強、体育、音楽、が苦手な子や生活面で問題を抱える子を勧誘するためのコピーになっています。勉強、体育、音楽が苦手な子のために、図画工作は制約を緩められるだけ緩めて、その子たちの窓口になります。それによって人気のない図画工作の人数を増やすことになり社会の中でその場しのぎのウィンウィンの関係を築いています。
問題は、勧誘してきた子が大きくなって美術とデザインの世界で生きていこうとする時です。つまり、思いっきり緩めるだけ緩めた制約の中で過ごしてきた子に務まる仕事は残念ながら全くないのです。このことを幼稚園の先生にも親御さんにも理解していただきたいですし、もちろん幼稚園以外の全ての学校の先生に理解して頂きたいのです。現状では美術予備校で現実を知ることになるか、Fランクの大学に進学したり、無試験で入学できる専門学校を卒業して制作会社に就職するか、高卒で採用してもらえる制作会社に入ってから現実を知ることになります。
本来美術とデザインの世界に向いている子は「大人の振る舞い」ができている子です。それ以外は普通に向きません。
ただし、例外として「自由にのびのび」を貫いて「天才」が生まれることがあります。天才育成計画はそのことを実証する計画です。この計画は本当の天才を生み出すために大切なことを示します。
示すことは今の社会にとって大切です。示すことで「大人の振る舞い」をして心に蓋をすることで、健全な社会生活をおくる代わりに少しずつ天才の眼は蝕まれることを実証します。
美術以外の社会全体に「大人の振る舞い」によって深い、とても深い心の奥底にストレスを溜めてしまう構図があること。そのストレスを解放することによって得られる幸福感があること。絵画や彫刻の制作がその解放の鍵になること。
本来「天才を育てる」ことと世の中の皆んなが「幸福感を得る」ことはつながります。美術の真価が社会に認知されていないのは今の学校のシステムが問題です。
今の教員に天才を育てられるわけがないのです。なぜなら「自由にのびのび」と「高度な造形教育」の両方を指導できないわけですから。つまり、「自由でのびのび」だけでは「天才」は育ちません。それが今の全ての学校で行う美術教育の根本的な欠陥です。
「自由でのびのび」は子供を緩みっぱなしのゴムのように育てることではありません。「大人の振る舞い」をしっかりと身につけさせながら、大人に媚びることなく、正直にやりたいことを美術の制作を通じて実現させることです。場合によっては「うんこ」も堂々と制作できるように折衝力をしっかりと養ってあげることが大切です。
現状では、美術とは言うなれば「大人の振る舞いそのもの」です。
躾けそのものでもある美術が自由にのびのびと発言するのだから不可解以外の何物でもないと考える大人は多いですよね。
幼児にとっては「自由にのびのび」ではない。でも権力者である先生は「自由にのびのび」描かせていると言っている。
幼児にものを言うことは許されません。
「うんこ」を止められて自由も何もあったものではない。それが真実です。
「自由にのびのび」描いて良いと言われながら、うんこを描かせてもらえない。
不可解以外の何物でもないですよね。
美術の世界にある全ての組織は完全に統率されています。
この中のどこに「自由にのびのび」できる場があるのでしょうか?
そろそろ辞めませんか。
社会的な批判を恐れず子供に好きなものを描かせましょう。
それが本当の自由です。
「自由でのびのび」を歌うのであれば、子供に本当に自由にのびのびできる時間と場所を用意してあげましょう。
そうすれば美術とデザインに対する不信感は徐々に消えていくと思います。
「うんこ」を思う存分描いていい時間を作ってあげればいいのでは?
権力者ファーストではなく。
大人の都合で描くものをコントロールするのではなく。
幼児に思う存分「うんこ」を描かせましょう。
「うんこ」はよくないものかもしれません。でも価値のないものではありません。
「うんこ」はまだいいです。
幼児に本当に自由にのびのび絵を描かせたら程なくして攻撃的な表現が出てきます。
嫌いな友達を死ねとか、殺すとか。
でも、そこに美術の本当の価値があるんです。
例えば、自分の子供が、いや自分自身でもいいです。いじめやパワハラを受けて、でも、それを外に表現することは親や先生から「大人の振る舞い」として良くないことなので「徹底的に」止められている。だから絶対に表現しない。そして自らを追い込む。言えばいいのに、言わずに「自死」する。どうですか❔良くないですよね。表現とはなんですか?
つまり、「うんこ」「殺す」と言ったことを完全に封じてしまうのは問題があるのです。どこかで表現できるようにしなければならない。そこが課題です。
攻撃をされている子が絶対に自分を追い込むことのないように。美術は表現するためのものなのですから。それでなければ何のための美術ですか?
自分の奥底にある物事を言わなければならない時に表現できること。
それを実現するのが美術です。
そのツールになるのがトイレットトレーニングの中心にある「うんこ」です。
要は「うんこ」で子供に絶望させてはならない。
「こいつ言うこと全く聞いてくんねー」と言った具合に子供に失望させてはダメなんです。
美術とデザインは物事をうまく表現する折衝力が大切な世界です。ですから美術とデザインにはいわゆるタブーとされていることでも上手く外に表現したりさせたりできる真価があります。今はまだその力が発揮できていません。
「スリリング」な所に美術とデザインの真価があります。社会全体がそのことに気づいていません。
学校の中には図画工作の本当の力を引き出せる機会があります。
でも弊害になっているのは学校のシステムです。
それには力を立証して学校運営のシステムの中に問題なく取り込めるようにしなければなりません。立証されれば社会がそれに反応するのは時間の問題です。なので天才育成計画は立証するところまで実行していきます。
子供と大人を繋ぐのは「うんこ」です。
今の時代は権力者ファーストです。
つまり、強者の論理でルールができています。
いじめられていたり、我慢したりしている人たちは、言いたいことをグッとこらえて耐えるしかありません。
弱い立場の人たちが自由に物を言えない。
弱い人とは幼児もそうです。
幼児の本音は大人がねじふせています。
それが大きな問題の元になっている。幼児の美術離れ。
自由にできるのはその場を蹂躙している権力者です。
自分の排泄した「うんこ」と同じようにその場の人を蹂躙します。
美術が人に嫌煙されるのは蹂躙されていることを肌で感じてしまうからです。
美術には自分を解放する力があります。
他のことではできない美術にしかない力。
その美術の力を抑止しているのは何を隠そう美術の世界の権力者だと私は考えています。
権力者が強者のためのルールで作った社会に未来はありません。
弱者を蹂躙するためのルール。
どんな権力者でも完全にコントロールできないものがあります。
それはパーソナルスペース「うんこ」です
自由にのびのびを笑顔でうたう世界は幼児教育に多いです。ですが、幼児が本当に一番描きたいモチーフは「うんこ」です。
それはもう「うんこ」を描いている時の子供は絵画の本当の価値を実感して生き生き絵を描きます。
でも、現場をコントロールする図画工作の先生などの大人は子供が「うんこ」の絵を描こうとすることを阻止しますよね。
現場で阻止とは言いませんよね、教育とか指導と言いますね。でもそれは阻止です。
でも一度想像してみてください。幼児たちに「うんこ」を自由に描かせたらどうなるか❔私はそこに美術の目指すべき形があると思います。権力者の支配から解放される瞬間があるとすればそれは「うんこ」かもしれません。
多くの幼児にとって、トイレットトレーニングである「うんこ」を使った大人との駆け引きで、大人に負けて「うんこ」を描くことを辞めた時、それが、幼児にとって絵画、美術、「自由にのびのび」との今生の別れとなるのです。
「うんこ」から引き離された子供は眼が死んだ魚のような眼になります。眼が死んだ瞬間は子供が自由を無くした瞬間。
大人が大人げなく幼児にとどめを刺してしまい、幼児はその瞬間に図画工作の自由と絶縁します。それからの図画工作は偽りの自由を演じてみせる造形力でも想像力でもない演技力が最も大切な大人との駆け引きの道具でしかありません。
実は美術に対するその眼は幼児の時に身につけ、大人になっても、何歳になっても消えるものではないのです。美術とはクソつまらないもの「うんこ」だけに。
幼児が死んだ魚の眼になった時に次に考えるのは、クソつまんないけど大人の喜ぶ作り笑いを大人に対してするかどうかです。美術はクソつまんないけど、何か別の報酬をもらえるかもしれない。気持ちは全く別の目的に向いています。事実、図画工作に参加する幼児の思惑のほとんどは良い子でいた後にもらえる報酬です。
笑顔を作れるのはストレス耐性の強い躾のできた子です。でもこういった子は英語や運動や音楽を選ぶので美術の道は選びません。
図画工作の先生はストレス耐性の弱い子を引き込むために本来規定された制約を最大限にゆるくして「自由にのびのび」を歌います。
「自由にのびのび」は本来このような使い方をするものではありません。
幼稚園の年中さんまでの間のストレス耐性が身につくまでの間に本能の赴くままに絵の具遊びやねんど遊びをさせてあげて体や感覚を養い満足させることで情緒の安定を測るものです。
年中さんくらいになると幼児は十分に物心がついてきます。絵の上手い下手がわかってくる。その時がきたら制約を守ることをしっかりと教えなければなりません。乱雑に描いていては上手に描くことはできないからです。ただ、残念ながらこの時の幼児に高度な技術指導ができる環境は今の日本にはありません。海外の幼児と日本の幼児の図画工作を比較して日本の幼児の絵が極端に下手なのはそのためです。
さらには、肝心なストレス耐性を身につけている幼児を、大人になった時に美術とデザインで食べていけることを指導できないので、英語や体育やお勉強との引き合いに勝てる先生がいません。呼び込むべき子を呼び込めず、弱い子ばかりを呼び込むことしかできない。弱い子は高度な指導を受ける美術予備校や職場で初めて現実を知り失望しその時点で美術を心底嫌いになる。この負の連鎖が今の美術とデザインに対する不信感を生んでいます。
日本では「自由にのびのび」は勉強、体育、音楽、が苦手な子や生活面で問題を抱える子を勧誘するためのコピーになっています。勉強、体育、音楽が苦手な子のために、図画工作は制約を緩められるだけ緩めて、その子たちの窓口になります。それによって人気のない図画工作の人数を増やすことになり社会の中でその場しのぎのウィンウィンの関係を築いています。
問題は、勧誘してきた子が大きくなって美術とデザインの世界で生きていこうとする時です。つまり、思いっきり緩めるだけ緩めた制約の中で過ごしてきた子に務まる仕事は残念ながら全くないのです。このことを幼稚園の先生にも親御さんにも理解していただきたいですし、もちろん幼稚園以外の全ての学校の先生に理解して頂きたいのです。現状では美術予備校で現実を知ることになるか、Fランクの大学に進学したり、無試験で入学できる専門学校を卒業して制作会社に就職するか、高卒で採用してもらえる制作会社に入ってから現実を知ることになります。
本来美術とデザインの世界に向いている子は「大人の振る舞い」ができている子です。それ以外は普通に向きません。
ただし、例外として「自由にのびのび」を貫いて「天才」が生まれることがあります。天才育成計画はそのことを実証する計画です。この計画は本当の天才を生み出すために大切なことを示します。
示すことは今の社会にとって大切です。示すことで「大人の振る舞い」をして心に蓋をすることで、健全な社会生活をおくる代わりに少しずつ天才の眼は蝕まれることを実証します。
美術以外の社会全体に「大人の振る舞い」によって深い、とても深い心の奥底にストレスを溜めてしまう構図があること。そのストレスを解放することによって得られる幸福感があること。絵画や彫刻の制作がその解放の鍵になること。
本来「天才を育てる」ことと世の中の皆んなが「幸福感を得る」ことはつながります。美術の真価が社会に認知されていないのは今の学校のシステムが問題です。
今の教員に天才を育てられるわけがないのです。なぜなら「自由にのびのび」と「高度な造形教育」の両方を指導できないわけですから。つまり、「自由でのびのび」だけでは「天才」は育ちません。それが今の全ての学校で行う美術教育の根本的な欠陥です。
「自由でのびのび」は子供を緩みっぱなしのゴムのように育てることではありません。「大人の振る舞い」をしっかりと身につけさせながら、大人に媚びることなく、正直にやりたいことを美術の制作を通じて実現させることです。場合によっては「うんこ」も堂々と制作できるように折衝力をしっかりと養ってあげることが大切です。
現状では、美術とは言うなれば「大人の振る舞いそのもの」です。
躾けそのものでもある美術が自由にのびのびと発言するのだから不可解以外の何物でもないと考える大人は多いですよね。
幼児にとっては「自由にのびのび」ではない。でも権力者である先生は「自由にのびのび」描かせていると言っている。
幼児にものを言うことは許されません。
「うんこ」を止められて自由も何もあったものではない。それが真実です。
「自由にのびのび」描いて良いと言われながら、うんこを描かせてもらえない。
不可解以外の何物でもないですよね。
美術の世界にある全ての組織は完全に統率されています。
この中のどこに「自由にのびのび」できる場があるのでしょうか?
そろそろ辞めませんか。
社会的な批判を恐れず子供に好きなものを描かせましょう。
それが本当の自由です。
「自由でのびのび」を歌うのであれば、子供に本当に自由にのびのびできる時間と場所を用意してあげましょう。
そうすれば美術とデザインに対する不信感は徐々に消えていくと思います。
「うんこ」を思う存分描いていい時間を作ってあげればいいのでは?
権力者ファーストではなく。
大人の都合で描くものをコントロールするのではなく。
幼児に思う存分「うんこ」を描かせましょう。
「うんこ」はよくないものかもしれません。でも価値のないものではありません。
「うんこ」はまだいいです。
幼児に本当に自由にのびのび絵を描かせたら程なくして攻撃的な表現が出てきます。
嫌いな友達を死ねとか、殺すとか。
でも、そこに美術の本当の価値があるんです。
例えば、自分の子供が、いや自分自身でもいいです。いじめやパワハラを受けて、でも、それを外に表現することは親や先生から「大人の振る舞い」として良くないことなので「徹底的に」止められている。だから絶対に表現しない。そして自らを追い込む。言えばいいのに、言わずに「自死」する。どうですか❔良くないですよね。表現とはなんですか?
つまり、「うんこ」「殺す」と言ったことを完全に封じてしまうのは問題があるのです。どこかで表現できるようにしなければならない。そこが課題です。
攻撃をされている子が絶対に自分を追い込むことのないように。美術は表現するためのものなのですから。それでなければ何のための美術ですか?
自分の奥底にある物事を言わなければならない時に表現できること。
それを実現するのが美術です。
そのツールになるのがトイレットトレーニングの中心にある「うんこ」です。
要は「うんこ」で子供に絶望させてはならない。
「こいつ言うこと全く聞いてくんねー」と言った具合に子供に失望させてはダメなんです。
美術とデザインは物事をうまく表現する折衝力が大切な世界です。ですから美術とデザインにはいわゆるタブーとされていることでも上手く外に表現したりさせたりできる真価があります。今はまだその力が発揮できていません。
「スリリング」な所に美術とデザインの真価があります。社会全体がそのことに気づいていません。
学校の中には図画工作の本当の力を引き出せる機会があります。
でも弊害になっているのは学校のシステムです。
それには力を立証して学校運営のシステムの中に問題なく取り込めるようにしなければなりません。立証されれば社会がそれに反応するのは時間の問題です。なので天才育成計画は立証するところまで実行していきます。
子供と大人を繋ぐのは「うんこ」です。
今の時代は権力者ファーストです。
つまり、強者の論理でルールができています。
いじめられていたり、我慢したりしている人たちは、言いたいことをグッとこらえて耐えるしかありません。
弱い立場の人たちが自由に物を言えない。
弱い人とは幼児もそうです。
幼児の本音は大人がねじふせています。
それが大きな問題の元になっている。幼児の美術離れ。
自由にできるのはその場を蹂躙している権力者です。
自分の排泄した「うんこ」と同じようにその場の人を蹂躙します。
美術が人に嫌煙されるのは蹂躙されていることを肌で感じてしまうからです。
美術には自分を解放する力があります。
他のことではできない美術にしかない力。
その美術の力を抑止しているのは何を隠そう美術の世界の権力者だと私は考えています。
権力者が強者のためのルールで作った社会に未来はありません。
弱者を蹂躙するためのルール。
どんな権力者でも完全にコントロールできないものがあります。
それはパーソナルスペース「うんこ」です