権力者蹂躙ハザード
子供は「自由にのびのび」落書きを描いて楽しそうにのめり込む様子を大人に見せて大人に安らぎを与えてくれます。
「自由にのびのび」落書きを描いている。そのような子供でも大抵の子供は「大人の振る舞い」をわきまえています。落書きを描きながらも完全に自由で解放された感覚で落書きを描いているのではなく、その場の制約を守り、大人に管理されて、悪い場合、蹂躙されているかのような感覚を抱いている場合もあります。
人間は絶えず制約の中で生きていかなければならない生き物です。
そして、子供の場合は大人と違い、絶えず大人に見守られて生きていかなければなりません。見守られている子供は、見守ってもらっているという実感を持っていますし、心のどこかで「蹂躙されている」という実感も持っています。
子供が落書きにのめり込むのは、落書きの中で蹂躙から解放される感覚を得られるからです。落書きは絵とも限りません。文字でもいいです。
つまり、絵や文字の表現とは、自分の外に出すわけですから、同時に自分の外の何かを蹂躙しいている感覚を得られるのです。
蹂躙している感覚を得ることによって動物本来の攻撃的な欲求を満たすことができます。それは子供に限ったことではありません。
美術とデザインの世界は文字や絵で何かを表現する世界です。
文字や絵で表現する世界では蹂躙する感覚をたくさん得る機会があるように思われるかもしれませんが、美術とデザインの世界は権力者がいて画家やデザイナーの多くは蹂躙されています。つまり、自分の想い通りできるのではなく、人の要求の通りにしなければならないのです。
事実、画家やデザイナーは「自由でのびのび」ではありません。
ごく稀にアーティストの中には落書きをそのまま作品にする人がいます。落書きを作品にして食べていけるのは日本ではおそらく20年に一人。ニューヨークで活動したとしても、死ぬまで食べていけるアーティストはほんの一握りです。
私の関わる芸大美大の卒業生の中では落書きをそのまま作品にしていく人はほぼいません。落書きをそのままお金にしていくのはとても困難です。例えば篠原有司男のように50代になってやっとコレクターがついて食べられるようになるといった具合に作品がお金に結びつきづらいものだからです。
つまり、美術とデザインの世界は落書きのような楽しい感覚で仕事をしている人はいません。
子供が落書きにのめり込むのは
親御さんが子供に美術とデザインの方向を目指させてはどうかと考えを巡らせる。そのお考えとしてよくあるのは、美術は「才能」があれば「自由にのびのび」仕事ができる。いつも子供が描いている落書きのように、美術の世界であれば子供は一生楽しいことで食べていくことができる。
子供に「自由にのびのび」させてあげたいというものです。仮に親御さんが世の中の仕事は大変だからストレスにまみれた自分たちのような生き方ではなく、美術の世界のような「自由にのびのび」できる世界で仕事をさせてストレスから解放されるような生き方をさせたいと、子供が一人で楽しそうにののびのび落書きをしている様子を見て、落書きを人生の仕事にできたらどれだけ幸せなことかと考えて美術とデザインの道をお子さんに進める親御さんがとても多いです。
楽しい時間をそのまま大人になっても続かせてあげられるように、好きな絵の道に進ませてあげようと多くの親御さんが考えます。そうすればずっとそれを自分の幸せのように見て楽しむことができる。
しかし、現実はとても厳しいものです。美術とデザインの世界は学校でも、職場でも「自由でのびのび」というわけではありません。ルールは守らなければならないし、解放感に溢れている空間ではありません。何よりも必ずその場を取り仕切る人がいます。
美術とデザインの世界の大人が子供に図画工作をさせる時は「自由にのびのび」させることで考える力を養い、ゆくゆくは大人になった時にその人のオリジナルの考えを引き出して、見事に社会で成功していくことを願って、様々なことを目論んで図画工作をさせています。「自由にのびのび」というコピーはそこに導くための子供に対する思いの表れだと考えます。
つまり、子供を美術とデザインの世界へと進ませようとする親御さんと美術とデザインの世界の大人との間には大きなイメージの違いがあります。この違いから誤解を招かないようにするためには詳しく親御さんたちに説明しなければなりません。
それともう一つ指摘しなければならないのは、親御さんの誤解に便乗して商売の道具にしている美術とデザインの世界の人間が大勢いることです。これは「辞めさせる」とか「させないようにする」ではなく。インターネットを通じて正しい情報を社会に認識してもらうことで、「できないようにする」ようにしなければなりません。
美術とデザインの世界の大人が考えるこの「自由でのびのび」は一時的な気持ちの解放感や安らぎを与えたいということはあっても、終始自由奔放でいいというものではなく、主には制約の中でいかに自分らしさや自分の判断を引き出したり、獲得していくかということを目的としています。実社会に出た時のことを想定してその力を身につけさせていく教育を目指しています。
もともとは正義から始まった物の見方や考えも、もとの思想を少し逸脱するだけで捻れを生んでしまいます。
捻れをそのままにしておくことで美術とデザインの世界では多くの問題が起きます。
自由過ぎれば、ただの伸びきったゴムのような子にしてしまいますし、制約にとらわれ過ぎれば下を悪戯に押さえつけるだけの権力者を生みます。
完全に伸びきったゴムのような生き方を容認させてもらえるご家庭であれば、ひょっとしたら、その子は将来大物に化けるかもしれません。でも、大抵は仕事も何もしない大人になってしまい困ります。
頑張って自分のオリジナルの作品やデザインができなかった場合、それでも自由でのびのびしていたいので、権力者にすり寄ったり、闘争に走り、作品や能力で勝負するのでなく政治的な実力行使に走ってしまい、いつの間にか完全に権力に染まってしまう人も多いです。
最初から美術とデザインの世界で権力者を目指す人は稀です。
権力者になりたければ、そもそも美術の世界ではなく、政治家や企業を目指した方がいいはずです。
この世界に入ってきた時には誰でも、「自由でのびのび」を目指した。
皆んなで「自由にのびのび」やりたかったけれど、生きていくためにそれが叶わなかったということが正直な所ではないかと思います。
権力者になってしまった者は次第に権力を行使することが自由だと錯覚します。
自由にのびのびやりたい人からするとその場を取り仕切っている人はわかりやすく言えば権力者です。普段は誰にも邪魔されずに自由にのびのび制作しているのに邪魔をするただの悪いやつとして眼に映ることと思います。
権力者はいつも境界線の先にいます。
最近はパワハラの問題が色んな業界で取り上げられていますが、美術とデザインの世界にも同じように昔からパワハラはたくさんあります。
私が経験してきたパワハラでは先生に作品を床に叩きつけられてことがありますし、先生に面白がって週末の満員の居酒屋で下半身を脱げと言われて裸にさせられたこともあります。今では大問題ですが、くだらない根性試しでこのようなつまらないことを要求する先生がいたのです。そうしなければ暴れ狂っている先生を落ち着かせることができないと考えたのでこんなくだらないことでおさまるならと思ってやりました。
あ、言っておきますが、そう言った先生には能力はありません。いつも生徒をシビリアンコントロールしておかなければ不安に追い込まれる哀れで可哀想な人です。なので今は無力です。違うなら今の私に同じことを強要してみてはどうですか❔
と、いいつつ私自身も生徒にかなり強く叱責したこともあります。私も例に漏れず哀れで小さな人間です。「弱い犬ほど良く吠える」この文章によく現れていますね。でも、歯型とまではいかなくとも、正義の爪痕一つでいいから残しておこうと思うのです。
それなりに美術の道を眺め続けて苦しい思いや楽しい思いをしてきました。反省も大いにありますが、今となっては美術を変えなければと言う思いで行動に移しても許されるのではないかと思います。権力者のそばの人は動けません。私は誰にも従わずに、求めずに生きてきたので、たまたま好きなことを言える状況にあります。このような生き方をしているので私のことを毛嫌いする人は多いですが、私は今誰からも全くのノーマークなので楽しく遊撃するような感覚で美術の世界にアプローチできるのです。これまで本能的に誰にも頼らず生きてきたのはこのためだったように思います。
世の中の常識は刻一刻と変わります。
言い訳ではありませんが、生徒に強く怒る指導はかつて常識だと考えて私自身何度もしたことがあります。
でも今ではかつて正しいと考えていたことは間違っているという頭に切り替わっています。
「自由にのびのび」落書きを描いている。そのような子供でも大抵の子供は「大人の振る舞い」をわきまえています。落書きを描きながらも完全に自由で解放された感覚で落書きを描いているのではなく、その場の制約を守り、大人に管理されて、悪い場合、蹂躙されているかのような感覚を抱いている場合もあります。
人間は絶えず制約の中で生きていかなければならない生き物です。
そして、子供の場合は大人と違い、絶えず大人に見守られて生きていかなければなりません。見守られている子供は、見守ってもらっているという実感を持っていますし、心のどこかで「蹂躙されている」という実感も持っています。
子供が落書きにのめり込むのは、落書きの中で蹂躙から解放される感覚を得られるからです。落書きは絵とも限りません。文字でもいいです。
つまり、絵や文字の表現とは、自分の外に出すわけですから、同時に自分の外の何かを蹂躙しいている感覚を得られるのです。
蹂躙している感覚を得ることによって動物本来の攻撃的な欲求を満たすことができます。それは子供に限ったことではありません。
美術とデザインの世界は文字や絵で何かを表現する世界です。
文字や絵で表現する世界では蹂躙する感覚をたくさん得る機会があるように思われるかもしれませんが、美術とデザインの世界は権力者がいて画家やデザイナーの多くは蹂躙されています。つまり、自分の想い通りできるのではなく、人の要求の通りにしなければならないのです。
事実、画家やデザイナーは「自由でのびのび」ではありません。
ごく稀にアーティストの中には落書きをそのまま作品にする人がいます。落書きを作品にして食べていけるのは日本ではおそらく20年に一人。ニューヨークで活動したとしても、死ぬまで食べていけるアーティストはほんの一握りです。
私の関わる芸大美大の卒業生の中では落書きをそのまま作品にしていく人はほぼいません。落書きをそのままお金にしていくのはとても困難です。例えば篠原有司男のように50代になってやっとコレクターがついて食べられるようになるといった具合に作品がお金に結びつきづらいものだからです。
つまり、美術とデザインの世界は落書きのような楽しい感覚で仕事をしている人はいません。
子供が落書きにのめり込むのは
親御さんが子供に美術とデザインの方向を目指させてはどうかと考えを巡らせる。そのお考えとしてよくあるのは、美術は「才能」があれば「自由にのびのび」仕事ができる。いつも子供が描いている落書きのように、美術の世界であれば子供は一生楽しいことで食べていくことができる。
子供に「自由にのびのび」させてあげたいというものです。仮に親御さんが世の中の仕事は大変だからストレスにまみれた自分たちのような生き方ではなく、美術の世界のような「自由にのびのび」できる世界で仕事をさせてストレスから解放されるような生き方をさせたいと、子供が一人で楽しそうにののびのび落書きをしている様子を見て、落書きを人生の仕事にできたらどれだけ幸せなことかと考えて美術とデザインの道をお子さんに進める親御さんがとても多いです。
楽しい時間をそのまま大人になっても続かせてあげられるように、好きな絵の道に進ませてあげようと多くの親御さんが考えます。そうすればずっとそれを自分の幸せのように見て楽しむことができる。
しかし、現実はとても厳しいものです。美術とデザインの世界は学校でも、職場でも「自由でのびのび」というわけではありません。ルールは守らなければならないし、解放感に溢れている空間ではありません。何よりも必ずその場を取り仕切る人がいます。
美術とデザインの世界の大人が子供に図画工作をさせる時は「自由にのびのび」させることで考える力を養い、ゆくゆくは大人になった時にその人のオリジナルの考えを引き出して、見事に社会で成功していくことを願って、様々なことを目論んで図画工作をさせています。「自由にのびのび」というコピーはそこに導くための子供に対する思いの表れだと考えます。
つまり、子供を美術とデザインの世界へと進ませようとする親御さんと美術とデザインの世界の大人との間には大きなイメージの違いがあります。この違いから誤解を招かないようにするためには詳しく親御さんたちに説明しなければなりません。
それともう一つ指摘しなければならないのは、親御さんの誤解に便乗して商売の道具にしている美術とデザインの世界の人間が大勢いることです。これは「辞めさせる」とか「させないようにする」ではなく。インターネットを通じて正しい情報を社会に認識してもらうことで、「できないようにする」ようにしなければなりません。
美術とデザインの世界の大人が考えるこの「自由でのびのび」は一時的な気持ちの解放感や安らぎを与えたいということはあっても、終始自由奔放でいいというものではなく、主には制約の中でいかに自分らしさや自分の判断を引き出したり、獲得していくかということを目的としています。実社会に出た時のことを想定してその力を身につけさせていく教育を目指しています。
もともとは正義から始まった物の見方や考えも、もとの思想を少し逸脱するだけで捻れを生んでしまいます。
捻れをそのままにしておくことで美術とデザインの世界では多くの問題が起きます。
自由過ぎれば、ただの伸びきったゴムのような子にしてしまいますし、制約にとらわれ過ぎれば下を悪戯に押さえつけるだけの権力者を生みます。
完全に伸びきったゴムのような生き方を容認させてもらえるご家庭であれば、ひょっとしたら、その子は将来大物に化けるかもしれません。でも、大抵は仕事も何もしない大人になってしまい困ります。
頑張って自分のオリジナルの作品やデザインができなかった場合、それでも自由でのびのびしていたいので、権力者にすり寄ったり、闘争に走り、作品や能力で勝負するのでなく政治的な実力行使に走ってしまい、いつの間にか完全に権力に染まってしまう人も多いです。
最初から美術とデザインの世界で権力者を目指す人は稀です。
権力者になりたければ、そもそも美術の世界ではなく、政治家や企業を目指した方がいいはずです。
この世界に入ってきた時には誰でも、「自由でのびのび」を目指した。
皆んなで「自由にのびのび」やりたかったけれど、生きていくためにそれが叶わなかったということが正直な所ではないかと思います。
権力者になってしまった者は次第に権力を行使することが自由だと錯覚します。
自由にのびのびやりたい人からするとその場を取り仕切っている人はわかりやすく言えば権力者です。普段は誰にも邪魔されずに自由にのびのび制作しているのに邪魔をするただの悪いやつとして眼に映ることと思います。
権力者はいつも境界線の先にいます。
最近はパワハラの問題が色んな業界で取り上げられていますが、美術とデザインの世界にも同じように昔からパワハラはたくさんあります。
私が経験してきたパワハラでは先生に作品を床に叩きつけられてことがありますし、先生に面白がって週末の満員の居酒屋で下半身を脱げと言われて裸にさせられたこともあります。今では大問題ですが、くだらない根性試しでこのようなつまらないことを要求する先生がいたのです。そうしなければ暴れ狂っている先生を落ち着かせることができないと考えたのでこんなくだらないことでおさまるならと思ってやりました。
あ、言っておきますが、そう言った先生には能力はありません。いつも生徒をシビリアンコントロールしておかなければ不安に追い込まれる哀れで可哀想な人です。なので今は無力です。違うなら今の私に同じことを強要してみてはどうですか❔
と、いいつつ私自身も生徒にかなり強く叱責したこともあります。私も例に漏れず哀れで小さな人間です。「弱い犬ほど良く吠える」この文章によく現れていますね。でも、歯型とまではいかなくとも、正義の爪痕一つでいいから残しておこうと思うのです。
それなりに美術の道を眺め続けて苦しい思いや楽しい思いをしてきました。反省も大いにありますが、今となっては美術を変えなければと言う思いで行動に移しても許されるのではないかと思います。権力者のそばの人は動けません。私は誰にも従わずに、求めずに生きてきたので、たまたま好きなことを言える状況にあります。このような生き方をしているので私のことを毛嫌いする人は多いですが、私は今誰からも全くのノーマークなので楽しく遊撃するような感覚で美術の世界にアプローチできるのです。これまで本能的に誰にも頼らず生きてきたのはこのためだったように思います。
世の中の常識は刻一刻と変わります。
言い訳ではありませんが、生徒に強く怒る指導はかつて常識だと考えて私自身何度もしたことがあります。
でも今ではかつて正しいと考えていたことは間違っているという頭に切り替わっています。