美術の脱教育資源のすすめ
「美術の脱教育資源」今回からこのようなお話で解決のための提案をさせてください。
私が学生だった頃の話をさせてください。
大学受験を考える高校生の時、東京芸術大学を目指すなら油絵科という教えを多数頂きました。
なるほど当時は油絵科が「THE芸大」とも言えるほど東京芸術大学の根幹のようなイメージがありました。
当初私は東京芸術大学のデザイン学科を志望しようと考えていましたが芸大の中では後発のデザイン科はまだイメージが定着しておらず、ダサいという意見が当時は多かったのです。
今ではデザインの人気が膨れ上がり、個人的には人気が逆転していると思います。
でも私が高校生だった30年前は油絵の人気が絶頂の頃でした。
私が東京芸術大学に入れたのは7浪目の時です。
当時の倍率は50倍でした。
3000人受験して私の順位は極秘に聞いた話2番だったらしいです。
今となってはどうでもいいことですが、それだけ私が受験に力を入れていたということが今回のお話に関係あるので引き合いに出します。
私が浪人生だった当時の油絵科ではどこに行っても川俣正というアーティストの話があがりました。
なので彼の存在を無視して油絵の世界を歩くことはできないといった空気で充満していたのです。
今となっては無視すればよかったと思うこともあります。
でも私は話を聞き入れる道を選びました。
当時の油絵科の受験生は先生から川俣正の話をよく聞かされました。
その中でも代表的な話題は川俣が浪人中に芸大に入ったらどのような作家活動を行うかのビジョンが出来ていたという話です。
なので大学に入るまでに大学に入ったらどのような作家活動を行うかのイメージを固めておくといい。
というありがたい先生たちの勧めがいつもありました。一方で現代美術全盛の中で「油絵を描いていても仕方がない」という話も聞かされました。
その中には当時私の予備校の担任だった保科豊臣がいます。
例にならって私も浪人時代に大学に入ったらどのような活動を行うか必死に考えました。
それで自分が決めたのは油絵を描く道でした。
世の中のどこにもない油絵のイメージが出来ていたのでそれを引っ提げて大学に入りました。
大学に入ると待ちに待ったとばかりに先生たちの洗礼を受けました。
所謂「絵なんか描いても仕方がない」という話です。
ここでファインアートの世界を目指すかコンテンポラリーの世界を目指すかの選択を迫られました。
その時私は最終的にはコンテンポラリーの道で油絵の道を確立するという考えに至りました。
そもそも売れっ子になることに興味はありませんでした。
芸大の中には先生たちの話を聞きすぎるとだめという話があります。
その話も正しいと思います。
まともに聞いていては制作が出来なくなるからです。
でも、私はそれを承知の上でいったん筆を置くことにした。
「絵なんか描いても仕方がない」と油絵科の中で公言出来てしまえる状況を変えなければと考えたからです。
その方がひっそりと油絵を描き続けて何となく地味に現代の油絵の画家としてコアな東京芸術大学の油画科や一部のギャラリーからお決まりの一定の評価を受けてもつまらないと考えました。
今からでも筆をとれば油絵の世界で一定のポジションを確立する自信はあります。
でもそれをすることに興味が湧きません。
私のような想いの画家は東京芸術大学の卒業生には多いと思います。
自分が制作をすること以上に「油絵なんか描いても仕方がない」という状況を塗りかえることの方がよほど面白いと思うのです。
このように私の生き方は決まりました。
話は変わります。
受験生は油絵を描きます。
「油絵なんか描いても仕方がない」という時代に油絵を描かせるのはなぜでしょうか?
芸大に入るまでに油絵を基礎とすると言えば聞こえはいいですが、受験生に油絵を描かせるのはまず受験生が沢山集まるからです。
そして卒業生の多くが務める美術予備校に多くの生徒が集まることにつながります。
すなわち、東京芸術大学の油画科に入る学生にとってそれほど油絵を描く必要は実際ないのだが、生徒が沢山集まるから油絵を描かせているのです。
東京芸術大学の油画専攻に入学したらすぐにコンテンポラリーの洗礼を受けます。
それは高校までの美術教育と芸大美大の1年時のシラバスが完全に乖離していることも表しています。
「油絵なんか描いていても仕方がない」ということは現代の美術の状況を如実に表しているので間違っていません。
大事な真実なのでこれは教科書を使って中学生や高校生に教えておかなければならないことなのです。
そうしなければ「油絵なんか描いても仕方がない」ということを知らないで高校生が美術予備校の門をくぐってしまうことになります。
油絵科を専攻する受験生は受験生の時に全員が油絵を描きます。
芸大に入ると殆どの芸大生が油絵を描かなくなる。
芸大を卒業した後に油絵を描く人は1割もいません。
ようするに最初からそのくらいの人数で十分なのです。
美術は教育資源によって成り立っています。
受験の時に全員に油絵を描かせて卒業後にはほぼ全員が油絵を描かない。
私が東京芸術大学に入学した時の受験生は3000人です。
卒業生で油絵を描いているのは多分片手で足りる人数です。
つまり東京芸術大学を受験した2990人は受験する必要がなかったと私は見ています。
そう見た方が頭に面白い答えが浮かび上がってくるのです。
高校の美術の授業で高校生が美術をしっかりと認識して技芸指導の質が高ければ芸大美大受験と高校の美術の授業との乖離が解消し、巨大な垣根は消え、東京芸術大学の実技試験と高校の美術の授業や部活とのギャップは無くなります。
ギャップが無くなれば美術の授業の中で東京芸術大学の合格レベルが高校生にわかるので本当に力のある受験生だけが入試に集まります。
そして美術の意味が、油絵の価値が美術の世界に来ない多くの高校生たちに伝わります。
そうすれば美術は怪しいものではなくなってきます。
仮に東京芸術大学の油画専攻の定員が5名になったとします。
そうすると適性のある出願者は実際50名くらいでしょうか?
高校の授業で実力が正確にわかれば無駄に3000人も受験生が集まることはなくなります。
50名の出願者はどのような高校生でしょうか?
各都道府県の美術部で本当の技芸を身に付けた強者ではないでしょうか?
県展で県知事賞をとったり、高校美術展で全国に行くような強者です。
現在の高校美術展で全国に行く高校生は東京芸術大学に現役合格できませんよね。
一生懸命頑張って東京芸術大学に通用しないとなると面白くはないですよね。
そういった状況は不気味です。なんとも無様な大人の都合ですね。
油絵は社会にとって大切なものです。
でも、東京芸術大学の油画専攻の学生の人数は一学年に5名程度で十分です。
理由は簡単です。社会に受け皿が最初からないのですから。
今の形はない受け皿をあるように見せかけてしまっています。
芸大の油画専攻の定員は55名ですが油絵を描く学生を対象にした場合、残りの50名をとる理由が見当たりません。
壁画専攻や版画専攻がありますがこれらが必要であれば油画専攻と別の名称で募集をかけるべきです。
そうしなければ不気味です。
でも実際にそうすると壁画などはおそらく受験生は集まりません。
そう言い切れる理由は実際に壁画の研究室で壁画のモザイクやフレスコを描いている生徒がいないからです。
高校生に向けた受験で生徒が出願しない専攻は大学にはいらないです。
壁画という名前を現状に合った適切な名前に変えるといいのではないでしょうか?
美術の世界には「才能」「天才」というモヤモヤしたあやふやな言葉があります。
美術はモヤモヤした言葉でさまざまな状況を誤魔化しています。
美術の教育資源はまだ大きくなり続けています。
入り口は細りながらです。
高校の先生、美術予備校の先生、大学の先生。
教育資源のパイは最大限に大きく膨らむようによく計算されています。
全体が計画的によく働いている。
でもそれが美術の怪しさとなって人離れを起こしています。
解決策を話しておきます。
油画専攻の定員が5名になれば油画専攻の怪しさは払しょくされます。
あとは、美術の本当の力を社会にはっきり示せば教育を資源に頼る必要はない。
と私は考えています。
なぜならば東京芸術大学に行かなくても高校で美術が学べるようになり、社会全体に美術の価値が浸透するからです。
話の続きは後日また・・。
私が学生だった頃の話をさせてください。
大学受験を考える高校生の時、東京芸術大学を目指すなら油絵科という教えを多数頂きました。
なるほど当時は油絵科が「THE芸大」とも言えるほど東京芸術大学の根幹のようなイメージがありました。
当初私は東京芸術大学のデザイン学科を志望しようと考えていましたが芸大の中では後発のデザイン科はまだイメージが定着しておらず、ダサいという意見が当時は多かったのです。
今ではデザインの人気が膨れ上がり、個人的には人気が逆転していると思います。
でも私が高校生だった30年前は油絵の人気が絶頂の頃でした。
私が東京芸術大学に入れたのは7浪目の時です。
当時の倍率は50倍でした。
3000人受験して私の順位は極秘に聞いた話2番だったらしいです。
今となってはどうでもいいことですが、それだけ私が受験に力を入れていたということが今回のお話に関係あるので引き合いに出します。
私が浪人生だった当時の油絵科ではどこに行っても川俣正というアーティストの話があがりました。
なので彼の存在を無視して油絵の世界を歩くことはできないといった空気で充満していたのです。
今となっては無視すればよかったと思うこともあります。
でも私は話を聞き入れる道を選びました。
当時の油絵科の受験生は先生から川俣正の話をよく聞かされました。
その中でも代表的な話題は川俣が浪人中に芸大に入ったらどのような作家活動を行うかのビジョンが出来ていたという話です。
なので大学に入るまでに大学に入ったらどのような作家活動を行うかのイメージを固めておくといい。
というありがたい先生たちの勧めがいつもありました。一方で現代美術全盛の中で「油絵を描いていても仕方がない」という話も聞かされました。
その中には当時私の予備校の担任だった保科豊臣がいます。
例にならって私も浪人時代に大学に入ったらどのような活動を行うか必死に考えました。
それで自分が決めたのは油絵を描く道でした。
世の中のどこにもない油絵のイメージが出来ていたのでそれを引っ提げて大学に入りました。
大学に入ると待ちに待ったとばかりに先生たちの洗礼を受けました。
所謂「絵なんか描いても仕方がない」という話です。
ここでファインアートの世界を目指すかコンテンポラリーの世界を目指すかの選択を迫られました。
その時私は最終的にはコンテンポラリーの道で油絵の道を確立するという考えに至りました。
そもそも売れっ子になることに興味はありませんでした。
芸大の中には先生たちの話を聞きすぎるとだめという話があります。
その話も正しいと思います。
まともに聞いていては制作が出来なくなるからです。
でも、私はそれを承知の上でいったん筆を置くことにした。
「絵なんか描いても仕方がない」と油絵科の中で公言出来てしまえる状況を変えなければと考えたからです。
その方がひっそりと油絵を描き続けて何となく地味に現代の油絵の画家としてコアな東京芸術大学の油画科や一部のギャラリーからお決まりの一定の評価を受けてもつまらないと考えました。
今からでも筆をとれば油絵の世界で一定のポジションを確立する自信はあります。
でもそれをすることに興味が湧きません。
私のような想いの画家は東京芸術大学の卒業生には多いと思います。
自分が制作をすること以上に「油絵なんか描いても仕方がない」という状況を塗りかえることの方がよほど面白いと思うのです。
このように私の生き方は決まりました。
話は変わります。
受験生は油絵を描きます。
「油絵なんか描いても仕方がない」という時代に油絵を描かせるのはなぜでしょうか?
芸大に入るまでに油絵を基礎とすると言えば聞こえはいいですが、受験生に油絵を描かせるのはまず受験生が沢山集まるからです。
そして卒業生の多くが務める美術予備校に多くの生徒が集まることにつながります。
すなわち、東京芸術大学の油画科に入る学生にとってそれほど油絵を描く必要は実際ないのだが、生徒が沢山集まるから油絵を描かせているのです。
東京芸術大学の油画専攻に入学したらすぐにコンテンポラリーの洗礼を受けます。
それは高校までの美術教育と芸大美大の1年時のシラバスが完全に乖離していることも表しています。
「油絵なんか描いていても仕方がない」ということは現代の美術の状況を如実に表しているので間違っていません。
大事な真実なのでこれは教科書を使って中学生や高校生に教えておかなければならないことなのです。
そうしなければ「油絵なんか描いても仕方がない」ということを知らないで高校生が美術予備校の門をくぐってしまうことになります。
油絵科を専攻する受験生は受験生の時に全員が油絵を描きます。
芸大に入ると殆どの芸大生が油絵を描かなくなる。
芸大を卒業した後に油絵を描く人は1割もいません。
ようするに最初からそのくらいの人数で十分なのです。
美術は教育資源によって成り立っています。
受験の時に全員に油絵を描かせて卒業後にはほぼ全員が油絵を描かない。
私が東京芸術大学に入学した時の受験生は3000人です。
卒業生で油絵を描いているのは多分片手で足りる人数です。
つまり東京芸術大学を受験した2990人は受験する必要がなかったと私は見ています。
そう見た方が頭に面白い答えが浮かび上がってくるのです。
高校の美術の授業で高校生が美術をしっかりと認識して技芸指導の質が高ければ芸大美大受験と高校の美術の授業との乖離が解消し、巨大な垣根は消え、東京芸術大学の実技試験と高校の美術の授業や部活とのギャップは無くなります。
ギャップが無くなれば美術の授業の中で東京芸術大学の合格レベルが高校生にわかるので本当に力のある受験生だけが入試に集まります。
そして美術の意味が、油絵の価値が美術の世界に来ない多くの高校生たちに伝わります。
そうすれば美術は怪しいものではなくなってきます。
仮に東京芸術大学の油画専攻の定員が5名になったとします。
そうすると適性のある出願者は実際50名くらいでしょうか?
高校の授業で実力が正確にわかれば無駄に3000人も受験生が集まることはなくなります。
50名の出願者はどのような高校生でしょうか?
各都道府県の美術部で本当の技芸を身に付けた強者ではないでしょうか?
県展で県知事賞をとったり、高校美術展で全国に行くような強者です。
現在の高校美術展で全国に行く高校生は東京芸術大学に現役合格できませんよね。
一生懸命頑張って東京芸術大学に通用しないとなると面白くはないですよね。
そういった状況は不気味です。なんとも無様な大人の都合ですね。
油絵は社会にとって大切なものです。
でも、東京芸術大学の油画専攻の学生の人数は一学年に5名程度で十分です。
理由は簡単です。社会に受け皿が最初からないのですから。
今の形はない受け皿をあるように見せかけてしまっています。
芸大の油画専攻の定員は55名ですが油絵を描く学生を対象にした場合、残りの50名をとる理由が見当たりません。
壁画専攻や版画専攻がありますがこれらが必要であれば油画専攻と別の名称で募集をかけるべきです。
そうしなければ不気味です。
でも実際にそうすると壁画などはおそらく受験生は集まりません。
そう言い切れる理由は実際に壁画の研究室で壁画のモザイクやフレスコを描いている生徒がいないからです。
高校生に向けた受験で生徒が出願しない専攻は大学にはいらないです。
壁画という名前を現状に合った適切な名前に変えるといいのではないでしょうか?
美術の世界には「才能」「天才」というモヤモヤしたあやふやな言葉があります。
美術はモヤモヤした言葉でさまざまな状況を誤魔化しています。
美術の教育資源はまだ大きくなり続けています。
入り口は細りながらです。
高校の先生、美術予備校の先生、大学の先生。
教育資源のパイは最大限に大きく膨らむようによく計算されています。
全体が計画的によく働いている。
でもそれが美術の怪しさとなって人離れを起こしています。
解決策を話しておきます。
油画専攻の定員が5名になれば油画専攻の怪しさは払しょくされます。
あとは、美術の本当の力を社会にはっきり示せば教育を資源に頼る必要はない。
と私は考えています。
なぜならば東京芸術大学に行かなくても高校で美術が学べるようになり、社会全体に美術の価値が浸透するからです。
話の続きは後日また・・。