天育実験工房★幻想公開講座「超簡単にできる天才的超細密絵画」
● コンクールという悪用ポイント
美術とデザインと図画工作が「面白くともなんともないもの」だと賞をもらったり賞品をもらったりしなければ盛り上げることはできません。 私は基本的に賞や賞品やお金で図画工作を盛り上げることには反対です。 そもそも図画工作の作品すべてが面白いし、綺麗だし、カッコいいものです。 それに意味のない賞を与えてしまえば意味のない優劣が生まれます。 実際にその優劣にはなんの意味もありません。 図画工作を鑑賞する際の認識の作法を正しく理解すれば図画工作の作品の全ての価値や意味が見えてくるのです。 でもその鑑賞ができる先生がいません。 そして芸大美大受験で学ぶ認識の作法をほとんどの先生が理解していないことも問題です。 つまり、図画工作を造形能力の優劣において評価する際にほとんどの先生が高度な認証の作法を理解していないのです。 つまり図画工作の評価のすべてがその場にいる先生の能力と偏見で評価されているもので、精度の低い評価のため評価する先生が変われば確実に受賞する作品が変わってしまいます。 図画工作の評価を根底から覆す概念は「自由にのびのび」です。 自由な感性、想像力、個性などでのびのび制作させた場合、優劣はつきません。 本来であればこの時点で話が詰んでいます。 図画工作のコンクールの評価に中身はないのです。 子供の立場から考えてみてください。 自由に描いていいと言われて、誰ちゃんの作品が賞をとって素晴らしいと賞賛されて、その他のお友達と自分が全員賞をもらえないし、賞賛されない。 なぜ?と先生に尋ねるとわからないとしか言わない。 賞を与えた人たちが口にするのは「喜び」「才能」「天才」。 つまり賞をとった子には才能があり、天才であり、喜んでいると言いたいのだと思います。 でも、他の子達と才能の差、天才かどうかの違い、喜びながら描いているかどうかの違いはありません。 小学校の先生方は分かっているはずですよね?みなさんの多くは大学で図画工作の授業が苦痛だったはずです。 理由は図画工作のコンクールで「才能がない」「天才ではない」「絵が下手」ということをコンクールによって散々刷り込まれたからです。 コンクールの愚かな点はごく一握りの子に褒賞を与えるために「才能がない」「天才ではない」「絵が下手」ということを暗黙知の了解で刷り込んでいることに気づいていないことです。 評価をしている人間が才能があると感じてしまうかのような錯覚に陥っているのは、その場で優劣をつけなければならないから、その場合で直感的に都合のいい優劣のつけ方を考えて評価をつけてしまっているからです。 そうすればその人がたくさん描いている作品が素晴らしいとバカなことを言い出せばたくさん描いている作品が才能があって素晴らしい作品ということになります。 実にくだらない行為です。子供に「自由にのびのび」ではなく絵はたくさん描いているものが素晴らしい。 そしてたった一本の線しか引かれていない絵は醜いもので、汚いもので、才能のない、馬鹿の描いた作品だと事前に教えていれば、一番たくさん描いている作品を評価してもいいと思います。 そのような指導が一切なく、「自由にのびのび」描いていいと言っておきながら、寝耳に水の大惨事が起こる。こんな馬鹿な話はないのです。コンクールには賞や商品やお金が出ます。 賞と商品とお金に頼れば頼るほど先生の指導力は落ちます。 コンクール自体がさらに虚構になります。 挙げ句の果てはメソッドが出てきてしまう。 他社様で「賞をとるよ!!」と言って生徒を勧誘される先生がおられます。 コンクールはお手本を写せば賞を取る。 読書感想画は自分で創造されると困るからあまり読ませないか、できれば全く本を読ませずお手本を写させる。 私はこれは悪だと考えています。 そしてこれを善としてまかり通っている実情があります。 その実情を私は直接攻める気にはなりません。 理由は確かに「喜び」を与えている点においては善になっているからです。 事実親御さんと子供は大喜びです。 でも同時にあまりに美術とデザインの本当の価値が認知されていない・・目の前の現実にとても悲しくなります。 本を読まずにあらゆるお手本を網羅して写させて読書感想画を描かせることを長年続けてこられて賞賛される。
このままでは長い目で見れば図画工作の全てがダメになります。 そもそも本当に賞と商品とお金に頼らなければ盛り上がらないものであれば本当は価値のないもので実はそこで終わっているものなのです。 逆に言えば図画工作の本質を見たいなら賞など与えずそのまま全ての作品を展示するだけでいいのです。 賞を与えるよりも本当にじっくり読書をさせることの方が私は大切だと思います。 賞など与えず作品は展示するだけでいい。 ただ残念ながらそれでそれぞれの作品の素晴らしさを理解して話せる先生がいない。 いないから賞を出すのです。 賞を与えた作品の素晴らしさも誰も説明できない。 だから評価を聞いた人の心が動かないのです。 繰り返しになりますが私は賞や賞品やお金で美術とデザインと図画工作を盛り上げようとするのは「悪」だと考えています。 それをやればやるほど虚構が膨らんで中身がさらに空っぽになる。 つまりコンクールは「デマゴーグ」です。 どうかお願いです。 美術とデザインと図画工作の真実に近づいていきたいなら一切やめてください。 それは「悪」の道です。悪に足を踏み込めば真実は見えません。 だからあなたの美術とデザインと図画工作はモヤモヤしているのです。 もしあなたが美術とデザインの世界を目指す人で本当にこの世界で成功したければ悪の道には進まないでください。 そしてどうか子供の頃にとった賞や取れなかった賞のことは忘れてください。 私の周りで賞によって人生を狂わしてしまう人間があまりに多いのです。 かつての私のように。賞のことは忘れてください。 そうして本質を焦らず眺め続けていけばこの世界の価値が少しずつ見え始めて、いずれ手に取れるようになるはずです。 賞や賞品やお金に美術とデザインの本質はありません。 お金で煽ればたくさん描きこむかもしれません。 でも、それ・・「スポーツ」ですか?じゃあ障害のある子が描いた1本の線には美しさはないのですか?それでは普通の子が普通に描いた絵には美しさはないのですか?答えがわからない人には教えましょう。 描きこんだ作品、1本の線、普通の子の描いた絵の全てに素晴らしい意味や価値があります。 くだらない優劣が偏見を生み作品の本質を見えなくさせてしまいます。 特に賞をとった子たちの全員が賞をとったことを念頭において絵を考えた時に強い錯覚によって何も見えなくなる。 これが「悪」でなくてなんですか?東京藝術大学の実技試験の一部ように高度な造形能力などの認識の作法を基準にして、それにおいて優劣をつけるのであれば、それは正当性の高い評価と言えます。 事実、認識の作法によって美術やデザインをすることは社会にとって必要なことです。 でも、図画工作のコンクールの基準は崩壊しています。 というかそもそもスタンダードな認識の作法が1つもありません。 そろそろいい加減なことするのやめませんか?賞を取らなかった子供たちや親御さんは才能や能力がないと誤解をして美術とデザインの世界から離れていきます。 私の目から見て心と体が健康な人で才能と能力がない人は一人もいません。 賞は賞を取らなかった人の興味関心をざっくりと削ぎ落とし、才能がないとの愚かな錯覚を与え、美術とデザインの世界に災害とも言える実害を与えています。 後、図画工作と美術の成績も全く関係ありません。 賞を与えていること以上に賞を与えなかった人たちへ与えている悪影響とそれによる美術とデザインの損失は気づけば災害レベルと言えるほどの大きなものになってしまっています。 そういった風景が美術予備校からは手に取るように見えるのです。 難関校の合格は持ち前の能力のままで通用することはありません。 つまりゼロベースで叩き上げなければならない能力がいくつか出てきます。 それを合格レベルまで高められるかが合格の鍵になります。 私の経験上、才能があると思ってそれに依存して難関校を目指す子には粘りがない子が多いです。 そういった子は自分の能力の深刻な問題に気づいた時点で前に進めなくなります。 そこで挫折する子が多い。 一方で元から「才能」を気にしていないなんでもこいの覚悟で腹をくくれている子は出だしがどれだけ不器用で問題だらけであってもそのまま伸びて難関校に合格することが多いです。 例えば男の子の多くは不器用です。女の子は割合手先が器用な子が多い。 でも出だしの能力差が影響するのはFランクの芸大美大です。 東京芸術大学には通用しません。 このことは必ず問題になるので受験対策を始める最初に必ず話すようにしています。 一番困るのは才能を信じる錯覚が強すぎる子です。 才能に依存しているのでその間全く成長しない。 前に進ませるには才能があるという思い込みを一度完全に捨てさせなければならない。 本当に厄介な大仕事です。 図画工作と学校の美術の授業や部活で学んだ認識の作法の一切が通用しないことが露見する厄介な問題です。多くの人間が気づいているが誰もまだ動けない。
● 美術と図画工作の先生について
図画工作は本当の力があります。賞と商品とお金に頼らない本当の力です。
図画工作を本当に指導できれば賞と商品とお金はいりません。
先生がもし賞と商品とお金に頼らなければならないのであれば、それは先生に指導の力がないということです。 いちいち改めて私に指摘されなくてもほとんどの先生からわかっていると言われるかもしれません。 申し訳ない。 だったらお前この状況をどうにかしろよとお叱りの声が聞こえてきそうです・・。 それで、微力ながら私はこの状況をどうにかするために動きます。 「誰かどうにかしろよ」先生たちの心の声。 これが図画工作のスタンダードです。 実はこのような状態はこの世界ではタブーとして伏せられているのです。
ほとんどの保育園と幼稚園と小学校の先生は美術が専門の先生ではありません。 ただでさえ不可解な美術ですから専門ではない先生たちにわかるわけありません。 事実多くの先生が図画工作は苦痛です。 苦痛であることを伏せていただけているのは美術にとっては有難いことです。 散々「天才」「才能」と歌っておいて誰一人としてわかりやすい説明をしない。 というかできない。 ぶっちゃけやらなくて良いならやりたくないのが先生たちの図画工作です。 このような状況を招いているのは美術の側の人間です。 私はこの状況をくるっと回転させて変えます。 天才育成計画はそのための長い能書です。 でも必ずやりますので我慢してください。 これが私にできることなのです。 ただただ時間がかかります。
「中学と高校の先生になっている人はどんな人?」
中学校と高校の美術の先生の多くは先生になりたくて先生になったわけではありません。 先生たちは芸大美大か教育系の大学を出ています。 芸大美大は難関校は作家と大学の教員と大手優良企業を目指します。 その中で東京藝術大学はデザイン科の学生の多くは就職します。 油画科の数人が中学か高校の先生になります。 彫刻科と日本画科は割合多くが中学か高校の先生になります。 多摩美術大学と武蔵野美術大学のデザイン系の学部の生徒の多くは就職します。 多摩美術大学グラフィックデザイン学科と武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科の学生は多くが大手優良企業に就職します。 多摩美術大学と武蔵野美術大学の美術系の専攻はほとんどが作家を目指します。しかしほとんど全員卒業してすぐに作家として生活することはできません。 そのため念のために保険として教員免許を取っておいて、卒業後に「でもしか」(先生でもなるか・・先生しかないか・・・)で先生になります。 東京芸術大学、多摩美術大学、武蔵野美術大学以外の私立大学はほぼFランク校(受験勉強せずともフリーで入れる)です。Fランク校ではデザイン系も大手優良企業に就職することは困難です。 いわゆるブラック企業か中小デザイン事務所に就職することが多くなります。 そのような状況ではでもしかで先生になる人も多くなります。 何とか専任になれればいいですが、非常勤の口しかない人が多くなるのが現実です。 非常勤講師の採用は学歴が大きく作用します。採用する学校側もできれば東京藝術大学を出た先生を取りたいという考えで選びます。 少ない募集に多くの志望者が集まるので、その中に東京藝術大学の卒業生がいるかどうか期待されます。 大抵の場合は東京藝術大学であれば採用されやすく、多摩美術大学、武蔵野美術大学の場合はコネクションか運がなければ1ヶ月十分に生活できる収入を得るだけの授業数を獲得するのは困難です。 非常勤の収入は一校で平均月5万程度。生活するには4校程度採用されなければなりません。 さらに私立の場合非常勤講師は勤続10年で専任講師として採用されるように法で定められていますが、それが守られる学校はありません。 生活していくためには複数の学校に採用されなければなりません。 でも現実的に採用される学校の数は大体頑張って2校です。 私は非常勤の先生から生活が楽だという話を聞いたことがありません。 自然に口から出てくるのはいつも困窮している話です。 このような話は大学に入る前に知っておくべきですがタブーにされているので多くの人が知りません。 大学を出て苦労するよりも受験勉強を頑張っていた方がはるかに楽なので知っている人は難関校を目指します。
教育系の美術の先生は美術の専門的なことがわかりません。 東京藝術大学に入るには2〜3年又それ以上美術予備校でデッサンとその他の専門的な基礎力を高めます。 この機会にアナログを通じた高度な認識の作法を学びます。 そしてこの認識の作法は大学に入って学ぶことはできません。 学べない理由は1日3から9時間、週6で毎日何年も続けてはじめて見えてきて、上手くいけば稀に掴める難解なあまりに高度かつ感覚的なことだからです。 大学では基礎的なことに集中して感覚を養う時間はありません。 大学では大学に入るとデッサンなどの基礎的な授業はありません。 武蔵野美術大学では視覚伝達デザイン学科ではデッサンなどの基礎的な授業はありません(2019年現在)。 多摩美術大学ではデッサン等の授業はありますがさほど時間はかけません。 教育系大学の美術の先生たちは受験で実技の勉強はほとんどしていません。 推薦入試で大学に入った人には全くしていない人もいますし、した人でもセンター試験(2019年現在)の後のひと月です。 まず美術予備校で基礎力を要請する時間が完全に抜け落ちています。 これにより観察力、造形力、理解力、創造力、想像力、表現力、構成力、技術、心、精神、情報などすべての「専門的な力を鍛え上げる」機会がなく実際にかなり弱いです。 教育系の先生の強みは先生として、先生とはどのようなものかをしっかりと勉強している点です。 美術系の先生たちは専門的な力を持っていますが、先生としての勉強は積極的にしていないので先生としての立ち振る舞いとしては頼りなく人間的に先生らしくありません。 教育系の先生たちは人間性、話し方、板書、文字の書き順、報告書の書き方、声の出し方、文科省の学習指導要領にきちんとそった授業、思想、哲学、教育法、発育段階、心理学などをしっかりと学んでいます。 学習指導要領にしっかりとそったキチッとした先生です。 私にとっては雲の上の立派な人格の方々です。 教育法や心理学や発育段階については私も大学時代に少しかじりましたが、先生をするなら不可欠ではないかと思える生徒を指導する上でとても大切なものです。 これらの勉強をせずに教壇に立っている私などはいい加減と言われても仕方がありません。 事実私は専門的な所にしか眼が向いておらず先生として全体を見れば多くの面でいい加減です。