天才育成計画てんいく「奇人変人エピソードハザード」
美術とデザインの世界の中は地味です。
目標に向かって辛抱強く毎日コツコツと地道に進んでいきます。
毎日毎日飾り気のないアトリエで制作して地味に過ごす派手さのない生活を送ります。
淡々とものを作っていればいい。
というか作らなければならない。
ものつくりの姿勢は基本そのようなものです。
私の知る限り大手企業ではなく、下請けの制作会社であれば罵声が飛び交う日々です。
この現実を考える時、私は高校生に、進路を決定する前の大事な時に、制作現場の真実を見せておくべきなのになあ〜と思います。
罵声が飛び交うということは、毎日それだけ沢山の仕事があるということです。
人手が足りないということも、給料が安くなるということなんかも想像に容易いと思います。
ただ、現実的には、何も知らない高校生をそのような制作現場に連れていき本当の姿を見せることは現場にとって邪魔以外の何物でもないので今の所不可能です。
制作現場を目指す高校生の多くはあまり勉強が得意ではありません。
毎日の勉強が計画的に進めるのが難しくなる原因は主に生活のリズムが不規則だからで、いわゆるルーティーンワークが自主的にできません。
人から強要されれば重い腰を動かすことができるので、厳しい制作会社の環境に身を置くことも一考ですが、実際は規則的な生活を自主的におくれない人ほど、他人から強要されると強いストレスを伴います。
つまり、厳しい制作現場に向いているのはストレス耐性のある人ということになります。実際、わずかに生き残れるのははじめからストレス耐性のある人です。
日々の生活をしっかりと送り、ストレス耐性のできている人に奇人変人はいません。概ね奇人変人の多くは著しく情緒不安定な人です。
後は、希少ですが物事を超越した人。
そしてアーティストが華美である必要はないと言えると思いますし、アーティストは普通の人で良いと言えると思います。
生徒にはまず、気が大切だと指導します。
まず、本気になること。
本気になった後は、徹底的に真面目になること。
誰より真面目に徹した後は、最後に徹底的に遊ぶこと。
私は正直、ごめんなさい、徹底的に真面目になれないのは最低だと思っています。
そしてその前に本気になれないのはもっと最低だと。
でも、まだそれはいいです。
もっと最悪なのは徹底的にガリ勉して最後に遊べないことです。
大抵の生徒は最初の「本気」の所であの手のこの手の指導が必要になります。
生徒自身がどれだけ本気になっているかどうかで、どれだけ良いものができるかは決まります。
気が足りない生徒は、毎日の道具の準備もままなりません。
鉛筆デッサンの日に鉛筆を毎日忘れる生徒もいます。
その子にとって鉛筆を用意するだけで気持ち的に精一杯なのです。
誰でも勉強しなければならないと頭でわかっていても教科書を目の前に開いて机の前に出しただけで気力の限界に達して勉強は教科書を開かずに終わるなんて経験はありますよね。
つまり、ダルいから寝てたいのに寝ないで机に座って教科書を開くだけでもかなりの気力を消耗してしまうのです。
芸大に何年も受からなくて浪人を重ねると段々と本気度が上っていきます。
これまで妥協していた細かな問題の全てに目を向けられるようになっていきます。
精神的な機微の反応が高まり、少しの形の狂いも見逃さないようになります。
ダルさの一切を排除した無我の境地に近づいた状態です。
限界まで本気になり、問題と真摯に向かい合って真面目を貫いた人間は、最後に遊ぶことが大切です。
何も辛い思いをするために苦労を重ねてきたわけではないですから、自分が幸福感を感じる遊びを探して遊ぶことが大切です。
また、仕事や作品自体が遊べるものになります。仕事や作品は遊べなければつまらないものになります。
どこにでもあるようなものを作ってしまうのではなく、どこにもないもの。
ただ、真面目なだけでは前例のあるものをなぞってしまいます。
冒険心をもって最後に博打を打つことは大切です。
その博打を成功に導くのは最初の本気と徹底的な真面目なのだと考えます。
なのでこの世界は真面目で終わるのではなく、最後は遊ぶことが大切だと思います。
最後に遊ぶ美術とデザインの世界は、最後の遊びの所だけを掻い摘んで面白 エピソードとして利用されることがあります。
奇人変人エピソードはそのような所から生まれてしまいました。
高度な技芸や誰も思いつかないような発想、感性などすべては、どれだけ気持ちを高められるかにかかります。
世界中のアーティストが切磋琢磨する美術とデザイン。
この世界で訓練する前の、持ち前の技芸や才能や想像力、感性が通用することはありません。
美術とデザインの世界の日常は地味で派手さのない世界です。
そのため少しでも人の興味を引くために、奇人変人のようなエピソードを捏造する人がいます。
でも、実際は奇人変人はこの世界にいません。
少なくとも私自身これまで何万人とこの世界の人と接してきましたが、奇人変人にあったことはなく、そんな人がいる噂すら聞いたことはありません。
過去にはゴッホなど変わった人がいたかもしれませんが、少なくとも現代には全くあてはまらないイメージです。
アーティストが普通の人です。
と表現して困るのはギャラリストです。
作品はものを言わずに憮然とそこにいます。
作品はそれで良いのです。
そしてそれを作ったアーティストは地味に真面目に制作している真面目な人です。
でも画廊や美術館で、これを作った人は地味で真面目ないたって普通の人で、作品もどんと置かれているだけだと、まずもって誰も作品を買わなくなるので、言葉たくみに営業的な努力をします。
作品に売れるように手を加えることはできませんから、いじれるのはアーティストの人間像です。
ただの普通の人ではなく、才能があるとか、センスがいいとか、天才とか、場合によって奇人変人のような面白エピソードを捏造します。
作品の内容はさておき、そのような話で画廊は作品が売れますし、美術館は観客が集まって潤います。
このような営業によって社会に刷り込まれたイメージは、アーティストにとって息が詰まる迷惑なことです。
我々は普通の人間ですから。
美術系の学校の場合、生徒が少しでも多く集まるために、自由にのびのびのイメージを前面に打ち出します。
画廊は、少しでも多くの作品を販売するために画家の面白エピソードを捏造してコレクターを釣ります。
そうして美術とデザインの世界では至る所でイメージの食い違いの事故が起きます。このままでは永遠に真実は伝わらない。
奇人変人エピソードハザード。
目標に向かって辛抱強く毎日コツコツと地道に進んでいきます。
毎日毎日飾り気のないアトリエで制作して地味に過ごす派手さのない生活を送ります。
淡々とものを作っていればいい。
というか作らなければならない。
ものつくりの姿勢は基本そのようなものです。
私の知る限り大手企業ではなく、下請けの制作会社であれば罵声が飛び交う日々です。
この現実を考える時、私は高校生に、進路を決定する前の大事な時に、制作現場の真実を見せておくべきなのになあ〜と思います。
罵声が飛び交うということは、毎日それだけ沢山の仕事があるということです。
人手が足りないということも、給料が安くなるということなんかも想像に容易いと思います。
ただ、現実的には、何も知らない高校生をそのような制作現場に連れていき本当の姿を見せることは現場にとって邪魔以外の何物でもないので今の所不可能です。
制作現場を目指す高校生の多くはあまり勉強が得意ではありません。
毎日の勉強が計画的に進めるのが難しくなる原因は主に生活のリズムが不規則だからで、いわゆるルーティーンワークが自主的にできません。
人から強要されれば重い腰を動かすことができるので、厳しい制作会社の環境に身を置くことも一考ですが、実際は規則的な生活を自主的におくれない人ほど、他人から強要されると強いストレスを伴います。
つまり、厳しい制作現場に向いているのはストレス耐性のある人ということになります。実際、わずかに生き残れるのははじめからストレス耐性のある人です。
日々の生活をしっかりと送り、ストレス耐性のできている人に奇人変人はいません。概ね奇人変人の多くは著しく情緒不安定な人です。
後は、希少ですが物事を超越した人。
そしてアーティストが華美である必要はないと言えると思いますし、アーティストは普通の人で良いと言えると思います。
生徒にはまず、気が大切だと指導します。
まず、本気になること。
本気になった後は、徹底的に真面目になること。
誰より真面目に徹した後は、最後に徹底的に遊ぶこと。
私は正直、ごめんなさい、徹底的に真面目になれないのは最低だと思っています。
そしてその前に本気になれないのはもっと最低だと。
でも、まだそれはいいです。
もっと最悪なのは徹底的にガリ勉して最後に遊べないことです。
大抵の生徒は最初の「本気」の所であの手のこの手の指導が必要になります。
生徒自身がどれだけ本気になっているかどうかで、どれだけ良いものができるかは決まります。
気が足りない生徒は、毎日の道具の準備もままなりません。
鉛筆デッサンの日に鉛筆を毎日忘れる生徒もいます。
その子にとって鉛筆を用意するだけで気持ち的に精一杯なのです。
誰でも勉強しなければならないと頭でわかっていても教科書を目の前に開いて机の前に出しただけで気力の限界に達して勉強は教科書を開かずに終わるなんて経験はありますよね。
つまり、ダルいから寝てたいのに寝ないで机に座って教科書を開くだけでもかなりの気力を消耗してしまうのです。
芸大に何年も受からなくて浪人を重ねると段々と本気度が上っていきます。
これまで妥協していた細かな問題の全てに目を向けられるようになっていきます。
精神的な機微の反応が高まり、少しの形の狂いも見逃さないようになります。
ダルさの一切を排除した無我の境地に近づいた状態です。
限界まで本気になり、問題と真摯に向かい合って真面目を貫いた人間は、最後に遊ぶことが大切です。
何も辛い思いをするために苦労を重ねてきたわけではないですから、自分が幸福感を感じる遊びを探して遊ぶことが大切です。
また、仕事や作品自体が遊べるものになります。仕事や作品は遊べなければつまらないものになります。
どこにでもあるようなものを作ってしまうのではなく、どこにもないもの。
ただ、真面目なだけでは前例のあるものをなぞってしまいます。
冒険心をもって最後に博打を打つことは大切です。
その博打を成功に導くのは最初の本気と徹底的な真面目なのだと考えます。
なのでこの世界は真面目で終わるのではなく、最後は遊ぶことが大切だと思います。
最後に遊ぶ美術とデザインの世界は、最後の遊びの所だけを掻い摘んで面白 エピソードとして利用されることがあります。
奇人変人エピソードはそのような所から生まれてしまいました。
高度な技芸や誰も思いつかないような発想、感性などすべては、どれだけ気持ちを高められるかにかかります。
世界中のアーティストが切磋琢磨する美術とデザイン。
この世界で訓練する前の、持ち前の技芸や才能や想像力、感性が通用することはありません。
美術とデザインの世界の日常は地味で派手さのない世界です。
そのため少しでも人の興味を引くために、奇人変人のようなエピソードを捏造する人がいます。
でも、実際は奇人変人はこの世界にいません。
少なくとも私自身これまで何万人とこの世界の人と接してきましたが、奇人変人にあったことはなく、そんな人がいる噂すら聞いたことはありません。
過去にはゴッホなど変わった人がいたかもしれませんが、少なくとも現代には全くあてはまらないイメージです。
アーティストが普通の人です。
と表現して困るのはギャラリストです。
作品はものを言わずに憮然とそこにいます。
作品はそれで良いのです。
そしてそれを作ったアーティストは地味に真面目に制作している真面目な人です。
でも画廊や美術館で、これを作った人は地味で真面目ないたって普通の人で、作品もどんと置かれているだけだと、まずもって誰も作品を買わなくなるので、言葉たくみに営業的な努力をします。
作品に売れるように手を加えることはできませんから、いじれるのはアーティストの人間像です。
ただの普通の人ではなく、才能があるとか、センスがいいとか、天才とか、場合によって奇人変人のような面白エピソードを捏造します。
作品の内容はさておき、そのような話で画廊は作品が売れますし、美術館は観客が集まって潤います。
このような営業によって社会に刷り込まれたイメージは、アーティストにとって息が詰まる迷惑なことです。
我々は普通の人間ですから。
美術系の学校の場合、生徒が少しでも多く集まるために、自由にのびのびのイメージを前面に打ち出します。
画廊は、少しでも多くの作品を販売するために画家の面白エピソードを捏造してコレクターを釣ります。
そうして美術とデザインの世界では至る所でイメージの食い違いの事故が起きます。このままでは永遠に真実は伝わらない。
奇人変人エピソードハザード。