天才育成計画てんいく「古いパンハザード」
教育って押さえつけることではないです。
「大人の振る舞い」を教えながら、自由にのびのび生きていくことができる力を育ててあげることです。
高校で習った化学式より私はメロンパンの方が大事です。
多分私以外の多くの人にとっても。
日本人に公平に学ぶ機会を与えるように早急にシステムを確立しなければならなかった戦前の大昔や戦後の学校教育ならまだしも、現代では、もっと学ぶ内容をみんなの身近なものにするべきだと思います。
化学式からは何もうかびませんが、身近なものからはいろんなことが浮かびます。
ある程度の幅広い知識を持つことは大切です。
でも、過剰に知識を詰め込むことに意味はありません。
余計な知識を詰め込むのはやめて、身近な問題に目を向けて、思いや考えをぽんぽん発想してスイスイ出せるようになることの方が皆んなにとって大切なことのように思います。
現在はネットで好きな知識がえられます。そして自分の思いや考えを発信することができます。
今までは学識のあるものでなければ学んだり、発信することはできませんでした。
それが正負を作り、空気のような見えない政府を作りました。
でもこれからは違います。
なので、ネットでえられる情報が学校教育の内容を上回ればいい。と思っています。
無駄な知識の詰め込みを続ける学校を尻目に、必要な知識を皆んなはネットでえて勉強します。
ネットでは自分の思いや考えを自由に発言することができます。
そして意見もえることができます。
学校はどうですか❔
例えば先生に向かって自由に発言できますか?
学校の先生、大学でも高校でも、中学、幼稚園でもいいです。発言できませんよね❔
これって実はすごく間違っていると思うんです。
私はこれは教育ではないと考えています。
といって私のクマビもそうですが・・・。
生徒が授業中に自由に発言し始めれば授業は頓挫します。
大人と先生の言うことを無条件に聞き入れるということが大事なこともあります。
でも大きな弊害もあると思います。
美術に限らず。
でも、特に、こと美術に至っては、実は致命的な問題とも言えるのではないかと思います。
美術の学生は本当に自由に発言していますか?
していませんよね❔
美術の学生は本当に表現していますか?
大切なことを表現できたら歓喜の声をあげて喜んでいるはずです。
あなたは本当に歓喜の声を上げて表現できたことを喜んでいますか?
していませんよね❔
今、この話を聞いて、自分にとって都合の悪い発言はしなくていいです。
自分の内に秘めてください。
でも、良く考えてください。
私はよく、美術の本質を生徒に話す時、美術には人に感動を与えて、人の歓喜の声を呼び起こす力があるといいます。
例えば、学校ではできない遊びだけれど、彫刻の本質、デザインの本質、デッサンの本質を話す時に粘土遊びの話をします。
パパッと粘土で人の形を作る。
それを子供に見せる。
そしてそれを指差して「これ小平」と言って首をちょん切る。
すると大抵の子供も大人も歓喜の声を挙げて喜びます。
それが本質が伝わった瞬間です。
死んだ魚の眼をして無感動に向かい合うものに真実はありません。
輪切りのサメとか・・。
死んだ魚の眼であることが学ぶことと勘違いしていませんか?
私の眼の前には今まだ、メロンパンがあります。
300年前のパンです。
このパンは貴重です。
このような遊びが魚の眼を取り払う通過儀礼です。
遊びを続けます。
この貴重なパンに興味を持ったとします。 そのうち誰かが価値をはかります。
価値をはかるためには色々と調べなければなりません。
このパンが一体誰のものなのか?
もしかしたら歴史に名を残した誰かのものかもしれませんね。
どうして300年前のパンが今まで残っていたのか?
古物としての金銭的な価値はどのくらいになるのか?
さて、結論から言います。
私は300年前のパンにやっぱり興味はありません。
そんな食ったら腹を壊しそうなパンよりも
今の時代のパンの方が大切です。
現実の空気を大切にすることの方が大切。
いくら英語が大切と言われても私の身の周りには英語はありません。
もし英語が大切なら私の隣に英語の日常を用意してください。
英語は私にとって300年前のメロンパンと同じです。
肌として全く価値はありません。
300年前のパンが1億円で売れたとします。
それをすごいという人はいるでしょうね・・。
パンが一億円。
確かにそのパン自体はすごいです。
でも、美術が気をつけなければならないのは、
たったひとつの一億円の価値にばかり眼が言ってしまい、世の中にある今の時代のパンの価値に眼がいかなくなることです。
先ほども申し上げた通り、私は一億円のパンに全く興味はありません。
でも目の前のパンには興味があります。
それと同じように私は1億円の絵に全く興味はありません。
微塵も。お金は好きですが。
気を付けなければならないのは冷やかしを恐れて気持ちが流されないようにすることです。
一億円のパンを賞賛しなければ冷やかされるのではないか?という強迫観念が美術の世界にはあります。
でも実はこれがくだらない正と負。政府を作っているのだと私は考えます。
冷やかしによって社会全体の美術のイメージを操作する空気の政府。
私は自分の眼の前の絵に興味があります。
離れた所にある絵には全く興味はありません。
わざわざ足を運んでみる気にもなりません。
一億円の絵。私には関係ないです。
300年前のパンは大切です。
でも、そのパンと私は関係ありません。
そのパンはどこかの倉庫の奥に箱にしまって放っておけばいいのです。
世の中で仮に一億円のパンが発見されたとします。
そうすると一瞬みんな「え~すごいね~」と思います。
でも、すぐに忘れます。
パンと言えば日頃から慣れ親しんでいるパンが一番。
一億円のパンのことはみんなすぐに忘れると思います。
でも、これがこと美術となると違います。
一億円の絵がメディアで取り上げられて、それから身近な所にある絵の方に気持ちが行きません。
自分の子供の頃の絵とか・・・。
一億円のパンは一度メディアで取り上げられたら、それ以降は旬ではないので取り上げられることはありません。
でも、絵の場合は他に挙げられるものがないので、何度も一億円の絵を取り上げます。
世の中の皆は一億円の絵の相場感覚はないので、どうしてその絵が一億円になるのかよくわかりません。
仮に300年前のパンは300年前幾らくらいだったか皆想像つきます。
それはパンの価値がわかるからです。
パンの価値はわかりますが、絵の価値はわかりません。
言ってしまえばそもそも最初から絵の金銭的な価値はないのです。
つまり、みんなが日常で売買するような価値のないもの。
お父さんが絵を描いてどこかに売る。
そのような価値が最初からないのです。
一億円の絵の価値。具体性がない泡銭なので説明が成り立ちません。
良い言い方で落書き、悪い言い方でゴミと一緒です。
でもそれでいいのだと思います。
ゴミでも価値があります。
300年前の人が捨てたゴミ。
興味湧きませんか❔
300年前の人が書いて捨てた落書き。
私は興味が湧きます。
多分今の人の落書きと大差ないんだろうな~。
と思うと思います。
そして絵は大切なものだな~。
と思います。
絵はパンよりも大切と思える時もあるというか。
私はこれでも絵描きなので、
正直メロンパンよりも絵の方が興味あります。
絵は消費されるために生み出されたものよりも大切なものというか。
本来は空気みたいにお金にはならないけれど大切なもの。
なので、空気を一億円と言われても私にはよくわかりません。
300年前の空気。一億円。
よくわかりません。
よくわかろうとも思いません。
何故ならばそこに皆んなにとって大切な本質はないからです。
ZO○○TO○Nみてください。
中身は見えますか❔
絵が一億円というのは美術の市場では一応泡ですが価値があります。
空気を水の膜で覆った綺麗な泡。
泡は軽いので良く飛びます。
そしてすぐに割れます。
美術市場で流通している作品の殆どが泡のように割れて価値がなくなります。
儲かるのは割れる事を知らない客に販売した画廊です。
一億円という価値はマネーゲームでつり上がった金額であって、ゲーム以外の価値はありません。
まあ、ゲームを無くす必要はないと思います。
金持ちが見栄のために行きつくゲーム。
でも、ゲームに参加しない人にとっては不可解以外の何物でもないので、関わる必要は一切ないものです。
絵が一億円というのは空気のようにスッと聞き流せばいいことだと思います。
マネーゲームをするなら株の方が良いと思います。
美術の正と負は綺麗に入れ代わります。
正と負、政府。
身の回りにあるメロンパンの大切さは言わずと知れています。
でも絵は知られていません。
正確に言えば、絵は嫌煙されているもの、不可解なもの。よくわからないものという認識だと思います。
一部の正が冷やかしているのですから社会のみんなから冷たく扱われても文句は言えないですよね。
自業自得です。
絵が人から嫌煙されるのは美術の一部の正が身の周りの絵を大切に扱わないからです。
一億絵の絵ばかりを話題にする。
一億円の絵を話題にして儲かるのは美術館、画廊、学校です。
一億円を大事にするのが今の時代の正。
みんなの身の周りの絵を大事にするのは負という認識だから、今のみんなは絵を嫌煙するんです。
一部の正を正当化することで、みんなは自分の絵を価値のないものと見てしまいます。だから才能のない、下手な絵という風に見てしまいます。
そのように教育されてしまっているので、自分の絵を才能というくだらないことを気にせず見たり、考えたりすることはできません。
正を否定し、負を肯定する。ネットでそれは可能です。
これから必ず起きるムーヴ。
例えばz○z○の買ったバスキア
あの作品を悪くいうつもりはありませんが、あのような絵は誰でも描けます。
今まで世の中を騙してきましたが、もう辞めにしましょう。
てんいくは誰でもあのような絵が描けることを皆さんに描いてもらって証明します。
バスキアの絵を隣に並べて、バスキアの作品を肯定するのはかなり苦しい仕事になるでしょうね。
今のすべての評論家はこの方法で立場を失います。
ネットによる正と負の逆転は時間の問題です。
最後に、散々メロンパン言って大変恐縮ですが、私は一時期コンビニのメロンパンに、はまったことがありましたが、今はメロンパンが好物でもなんでもありません。
「大人の振る舞い」を教えながら、自由にのびのび生きていくことができる力を育ててあげることです。
高校で習った化学式より私はメロンパンの方が大事です。
多分私以外の多くの人にとっても。
日本人に公平に学ぶ機会を与えるように早急にシステムを確立しなければならなかった戦前の大昔や戦後の学校教育ならまだしも、現代では、もっと学ぶ内容をみんなの身近なものにするべきだと思います。
化学式からは何もうかびませんが、身近なものからはいろんなことが浮かびます。
ある程度の幅広い知識を持つことは大切です。
でも、過剰に知識を詰め込むことに意味はありません。
余計な知識を詰め込むのはやめて、身近な問題に目を向けて、思いや考えをぽんぽん発想してスイスイ出せるようになることの方が皆んなにとって大切なことのように思います。
現在はネットで好きな知識がえられます。そして自分の思いや考えを発信することができます。
今までは学識のあるものでなければ学んだり、発信することはできませんでした。
それが正負を作り、空気のような見えない政府を作りました。
でもこれからは違います。
なので、ネットでえられる情報が学校教育の内容を上回ればいい。と思っています。
無駄な知識の詰め込みを続ける学校を尻目に、必要な知識を皆んなはネットでえて勉強します。
ネットでは自分の思いや考えを自由に発言することができます。
そして意見もえることができます。
学校はどうですか❔
例えば先生に向かって自由に発言できますか?
学校の先生、大学でも高校でも、中学、幼稚園でもいいです。発言できませんよね❔
これって実はすごく間違っていると思うんです。
私はこれは教育ではないと考えています。
といって私のクマビもそうですが・・・。
生徒が授業中に自由に発言し始めれば授業は頓挫します。
大人と先生の言うことを無条件に聞き入れるということが大事なこともあります。
でも大きな弊害もあると思います。
美術に限らず。
でも、特に、こと美術に至っては、実は致命的な問題とも言えるのではないかと思います。
美術の学生は本当に自由に発言していますか?
していませんよね❔
美術の学生は本当に表現していますか?
大切なことを表現できたら歓喜の声をあげて喜んでいるはずです。
あなたは本当に歓喜の声を上げて表現できたことを喜んでいますか?
していませんよね❔
今、この話を聞いて、自分にとって都合の悪い発言はしなくていいです。
自分の内に秘めてください。
でも、良く考えてください。
私はよく、美術の本質を生徒に話す時、美術には人に感動を与えて、人の歓喜の声を呼び起こす力があるといいます。
例えば、学校ではできない遊びだけれど、彫刻の本質、デザインの本質、デッサンの本質を話す時に粘土遊びの話をします。
パパッと粘土で人の形を作る。
それを子供に見せる。
そしてそれを指差して「これ小平」と言って首をちょん切る。
すると大抵の子供も大人も歓喜の声を挙げて喜びます。
それが本質が伝わった瞬間です。
死んだ魚の眼をして無感動に向かい合うものに真実はありません。
輪切りのサメとか・・。
死んだ魚の眼であることが学ぶことと勘違いしていませんか?
私の眼の前には今まだ、メロンパンがあります。
300年前のパンです。
このパンは貴重です。
このような遊びが魚の眼を取り払う通過儀礼です。
遊びを続けます。
この貴重なパンに興味を持ったとします。 そのうち誰かが価値をはかります。
価値をはかるためには色々と調べなければなりません。
このパンが一体誰のものなのか?
もしかしたら歴史に名を残した誰かのものかもしれませんね。
どうして300年前のパンが今まで残っていたのか?
古物としての金銭的な価値はどのくらいになるのか?
さて、結論から言います。
私は300年前のパンにやっぱり興味はありません。
そんな食ったら腹を壊しそうなパンよりも
今の時代のパンの方が大切です。
現実の空気を大切にすることの方が大切。
いくら英語が大切と言われても私の身の周りには英語はありません。
もし英語が大切なら私の隣に英語の日常を用意してください。
英語は私にとって300年前のメロンパンと同じです。
肌として全く価値はありません。
300年前のパンが1億円で売れたとします。
それをすごいという人はいるでしょうね・・。
パンが一億円。
確かにそのパン自体はすごいです。
でも、美術が気をつけなければならないのは、
たったひとつの一億円の価値にばかり眼が言ってしまい、世の中にある今の時代のパンの価値に眼がいかなくなることです。
先ほども申し上げた通り、私は一億円のパンに全く興味はありません。
でも目の前のパンには興味があります。
それと同じように私は1億円の絵に全く興味はありません。
微塵も。お金は好きですが。
気を付けなければならないのは冷やかしを恐れて気持ちが流されないようにすることです。
一億円のパンを賞賛しなければ冷やかされるのではないか?という強迫観念が美術の世界にはあります。
でも実はこれがくだらない正と負。政府を作っているのだと私は考えます。
冷やかしによって社会全体の美術のイメージを操作する空気の政府。
私は自分の眼の前の絵に興味があります。
離れた所にある絵には全く興味はありません。
わざわざ足を運んでみる気にもなりません。
一億円の絵。私には関係ないです。
300年前のパンは大切です。
でも、そのパンと私は関係ありません。
そのパンはどこかの倉庫の奥に箱にしまって放っておけばいいのです。
世の中で仮に一億円のパンが発見されたとします。
そうすると一瞬みんな「え~すごいね~」と思います。
でも、すぐに忘れます。
パンと言えば日頃から慣れ親しんでいるパンが一番。
一億円のパンのことはみんなすぐに忘れると思います。
でも、これがこと美術となると違います。
一億円の絵がメディアで取り上げられて、それから身近な所にある絵の方に気持ちが行きません。
自分の子供の頃の絵とか・・・。
一億円のパンは一度メディアで取り上げられたら、それ以降は旬ではないので取り上げられることはありません。
でも、絵の場合は他に挙げられるものがないので、何度も一億円の絵を取り上げます。
世の中の皆は一億円の絵の相場感覚はないので、どうしてその絵が一億円になるのかよくわかりません。
仮に300年前のパンは300年前幾らくらいだったか皆想像つきます。
それはパンの価値がわかるからです。
パンの価値はわかりますが、絵の価値はわかりません。
言ってしまえばそもそも最初から絵の金銭的な価値はないのです。
つまり、みんなが日常で売買するような価値のないもの。
お父さんが絵を描いてどこかに売る。
そのような価値が最初からないのです。
一億円の絵の価値。具体性がない泡銭なので説明が成り立ちません。
良い言い方で落書き、悪い言い方でゴミと一緒です。
でもそれでいいのだと思います。
ゴミでも価値があります。
300年前の人が捨てたゴミ。
興味湧きませんか❔
300年前の人が書いて捨てた落書き。
私は興味が湧きます。
多分今の人の落書きと大差ないんだろうな~。
と思うと思います。
そして絵は大切なものだな~。
と思います。
絵はパンよりも大切と思える時もあるというか。
私はこれでも絵描きなので、
正直メロンパンよりも絵の方が興味あります。
絵は消費されるために生み出されたものよりも大切なものというか。
本来は空気みたいにお金にはならないけれど大切なもの。
なので、空気を一億円と言われても私にはよくわかりません。
300年前の空気。一億円。
よくわかりません。
よくわかろうとも思いません。
何故ならばそこに皆んなにとって大切な本質はないからです。
ZO○○TO○Nみてください。
中身は見えますか❔
絵が一億円というのは美術の市場では一応泡ですが価値があります。
空気を水の膜で覆った綺麗な泡。
泡は軽いので良く飛びます。
そしてすぐに割れます。
美術市場で流通している作品の殆どが泡のように割れて価値がなくなります。
儲かるのは割れる事を知らない客に販売した画廊です。
一億円という価値はマネーゲームでつり上がった金額であって、ゲーム以外の価値はありません。
まあ、ゲームを無くす必要はないと思います。
金持ちが見栄のために行きつくゲーム。
でも、ゲームに参加しない人にとっては不可解以外の何物でもないので、関わる必要は一切ないものです。
絵が一億円というのは空気のようにスッと聞き流せばいいことだと思います。
マネーゲームをするなら株の方が良いと思います。
美術の正と負は綺麗に入れ代わります。
正と負、政府。
身の回りにあるメロンパンの大切さは言わずと知れています。
でも絵は知られていません。
正確に言えば、絵は嫌煙されているもの、不可解なもの。よくわからないものという認識だと思います。
一部の正が冷やかしているのですから社会のみんなから冷たく扱われても文句は言えないですよね。
自業自得です。
絵が人から嫌煙されるのは美術の一部の正が身の周りの絵を大切に扱わないからです。
一億絵の絵ばかりを話題にする。
一億円の絵を話題にして儲かるのは美術館、画廊、学校です。
一億円を大事にするのが今の時代の正。
みんなの身の周りの絵を大事にするのは負という認識だから、今のみんなは絵を嫌煙するんです。
一部の正を正当化することで、みんなは自分の絵を価値のないものと見てしまいます。だから才能のない、下手な絵という風に見てしまいます。
そのように教育されてしまっているので、自分の絵を才能というくだらないことを気にせず見たり、考えたりすることはできません。
正を否定し、負を肯定する。ネットでそれは可能です。
これから必ず起きるムーヴ。
例えばz○z○の買ったバスキア
あの作品を悪くいうつもりはありませんが、あのような絵は誰でも描けます。
今まで世の中を騙してきましたが、もう辞めにしましょう。
てんいくは誰でもあのような絵が描けることを皆さんに描いてもらって証明します。
バスキアの絵を隣に並べて、バスキアの作品を肯定するのはかなり苦しい仕事になるでしょうね。
今のすべての評論家はこの方法で立場を失います。
ネットによる正と負の逆転は時間の問題です。
最後に、散々メロンパン言って大変恐縮ですが、私は一時期コンビニのメロンパンに、はまったことがありましたが、今はメロンパンが好物でもなんでもありません。