天才育成計画てんいく「古いパンハザード」
正直、私は難しいことはわかりません。
英語で書かれた本とか。
元素記号で書かれた絵の具の成分とか。
カタカタな連発の論文とか。
教育者らしい堅苦しいこととか。
一部を深く掘り下げた美術史とか。
全て空気感という次元では何一つ、よくわかりません。
なので私はテストは0点です。
馬鹿ですよね。先生失格です。
でも、東京藝術大学だとか美術の世界でいい成績をおさめようと思えばいくらでも点はとれます。全く意味はありませんが。
馬鹿なのにいくらでも点がとれるなんて不思議ですね。
あ、言っておきますが、これ、才能ではないですよ。
私は才能全くありません。
よくわからないもの。
これら全て「私の人生と結びついた美術」ではないものです。
最近の大学では学生が英語への興味関心を高めるように英語の必要性を色んな所で説いています。
私も英語の必要性を様々な場面で生徒に話します。
でも、私にとっての美術とは実際には英語とは無関係のものです。
正直言えば私は英語に軸足を置くことで身の周りにある美術が疎かになることを危惧します。
英語脳で空気感まで理解する。そのような日常を過ごすとなると相当高度な英語力が必要です。
いや、それ、普通は無理ですよね・・・。
なので私は密かに英語の勉強を続けつつも、英語に軸足を置くことは放棄しています。
英語に軸足を置くことによる損失は計り知れない。
私と同じように英語に軸足を置くことが大きな損失につながる学生は多いと思います。
大きな流行や長いものに流されずに自分を見極め、選んだ道を貫くことは大切です。
それが英語を捨てることなら、それもその人の立派な道でしょう。
美術やデザインを志す学生が今から英語を学ぶことは必要なことです。
英語は大切。
なので私も大学も企業の先輩も多くの人が英語を学ぶように声かけしています。
大きなキャンペーンの中で、もし自分が合わないと思うなら勇気を出して断る勇気を持ってください。
私はディスレクシアです。英語と国語の。国語は一日中文章と向かいあっているのである程度普通の人並みに書けるようになってきました。
相変わらず2~3行書いたら今まで何を書いたか思い出せませんが。
で、英語に関してはやっと英語のたった1曲の歌詞の3分の2程度が覚えられたくらいです。2年くらいかけて・・・。
なので英語に関しては究極の馬鹿です。
でも、英語が得意な人と私を比べて一概に私が美術に関して無知無能だという気がしません。
同じように、元素記号がわかる人とか、論文とか、教育者とか、美術史に精通している人と比べて私が劣っているとはどうしても思えません。
彼らはちゃぶ台を返さなかった。私は返した。その違いは能力の違いを表しているわけではありません。
彼らが英語や元素記号を見続けた時間に私が見続けた美術はあります。
なので英語や元素記号は絶対に不可欠な知識や能力とは言い切れない。
わからないなら、わからないなりに、わかる道を進めばいいと思います。
ただ、自分の好き勝手に進んでいいと最初から学生に言ってしまうと誰も英語の勉強をしなくなるので問題ですが・・・。
話が矛盾するようですが、念のために言っておかなければならないのです。「英語は必須と言いながらも英語が使えないなら使えないなりの道はあります」
誰も、私を無知だとは言っていないことはわかります。
でも、そのように言われているような気がするのです。
社会にはそういった空気感があります。
学校では、無条件に英語を学ばされます。物理も、国語も、学ぶ姿勢、歴史も。
他教科多科目を学ぶことを絶対条件として組み立てられたシラバスはどうしても私にはこれができなければ美術に関して欠落している箇所があると言われているような気がしてなりません。
言い方はあるにしても結果的に押し付けられている。
そしてそれは直接的な言葉として投げかけられることがなくとも、その場の空間全体を強力な力で支配しています。
学校教育を経た後。
学校で教わったことで、できないことがあれば、それが無知の証明のような烙印を押される、そんな気分にされます。
そして、これから学び始める学生達には、早い段階で、正しい学生像としての見本と間違った学生像としての見本が示されます。 学校内部ではできなければできなかった学生の例を出して冷やかし、できて成功している学生の例を出して褒めたたえます。
美術の世界には冷やかしがあります。
東京藝術大学の学部では芸大に入れなかった人を冷やかします。
大学院では大学院に残れなかった学部卒を冷やかします。
博士は博士課程後期に残れなかった大学院生を冷やかします。
冷やかして、よくあるのは「行方不明」という言い方です。
行方がわかったら「生きてたのか」と言います。
「行方不明」この言葉は学生たちや卒業生が非常に嫌悪する言葉です。
そして行方不明でないものが行方不明者を嘲笑って遊びます。
私はこの嘲笑を徹底的に駆逐したいと思います。
行方不明と言われる側は負。
行方不明と言い放つ側は正です。
大学はこの正と負によって大学独特の簡単には実態の掴めない空気のような政府を作っています。
活字には残さない実在する空気の政府。
人は冷やかされることを嫌います。
一部の正が負を冷やかし、空気感を作り、それがはっきりと進むべき道を示し、空気には蟻の巣のようなはっきりとした道ができます。
一部の正が快適に過ごせるように緻密に設計された蟻の巣。
この蟻の巣は大多数の蟻にとっては負の世界です。
冷やかしが構築した完全世界。
でも、これから負の立場は逆転します。
それは蟻の巣が冷やかしが生んだ虚構だからです。
ネットという殺虫剤。
蟻の巣に住まわなくても生きていけるようになる。
これから逆転する正と負。
逆転するのは負の側の人間にネットによる発言の機会が得られたからです。
正と負に具体的な能力差はあるのか?
何を根拠に正を選んでいるのか?
少しずつ白日のもとにさらされます。
選び方の問題が次第に露わになり、決定的なことは負の力が詳細に証明されることです。
負が負ではなくなる。
これまでは大学では大学に最後まで残った一部の学生しか正になることはありませんでした。
つまり、行方がわかるのは最後まで残った者。
殆どの学生は音信不通です。
それによってまかり通ってしまう大学の政治。
つまり、大学を出れば音信不通になってくれるのでなんでもできるのです。
学校教育の内容はほんの一部の正のために作られたものです。大多数の負の側の人にとっては関係ない。
政府の力が強大なので殆どの負は泣き寝入りして、関係ないことを学ぶことを黙って受け入れています。
それが常識です。常識はよくわかります。でもそれは教育の本質でもなく。学びの本質でもないです。
負の側に適した学びがある。
大多数の負が正に点じた時、天才は必ず現れます。
音信不通で眼を向けられることのなかった負の世界。
この負の世界は巨大です。
未開発のこの領域に美術を大きく覆す力が眠っています。
英語で書かれた本とか。
元素記号で書かれた絵の具の成分とか。
カタカタな連発の論文とか。
教育者らしい堅苦しいこととか。
一部を深く掘り下げた美術史とか。
全て空気感という次元では何一つ、よくわかりません。
なので私はテストは0点です。
馬鹿ですよね。先生失格です。
でも、東京藝術大学だとか美術の世界でいい成績をおさめようと思えばいくらでも点はとれます。全く意味はありませんが。
馬鹿なのにいくらでも点がとれるなんて不思議ですね。
あ、言っておきますが、これ、才能ではないですよ。
私は才能全くありません。
よくわからないもの。
これら全て「私の人生と結びついた美術」ではないものです。
最近の大学では学生が英語への興味関心を高めるように英語の必要性を色んな所で説いています。
私も英語の必要性を様々な場面で生徒に話します。
でも、私にとっての美術とは実際には英語とは無関係のものです。
正直言えば私は英語に軸足を置くことで身の周りにある美術が疎かになることを危惧します。
英語脳で空気感まで理解する。そのような日常を過ごすとなると相当高度な英語力が必要です。
いや、それ、普通は無理ですよね・・・。
なので私は密かに英語の勉強を続けつつも、英語に軸足を置くことは放棄しています。
英語に軸足を置くことによる損失は計り知れない。
私と同じように英語に軸足を置くことが大きな損失につながる学生は多いと思います。
大きな流行や長いものに流されずに自分を見極め、選んだ道を貫くことは大切です。
それが英語を捨てることなら、それもその人の立派な道でしょう。
美術やデザインを志す学生が今から英語を学ぶことは必要なことです。
英語は大切。
なので私も大学も企業の先輩も多くの人が英語を学ぶように声かけしています。
大きなキャンペーンの中で、もし自分が合わないと思うなら勇気を出して断る勇気を持ってください。
私はディスレクシアです。英語と国語の。国語は一日中文章と向かいあっているのである程度普通の人並みに書けるようになってきました。
相変わらず2~3行書いたら今まで何を書いたか思い出せませんが。
で、英語に関してはやっと英語のたった1曲の歌詞の3分の2程度が覚えられたくらいです。2年くらいかけて・・・。
なので英語に関しては究極の馬鹿です。
でも、英語が得意な人と私を比べて一概に私が美術に関して無知無能だという気がしません。
同じように、元素記号がわかる人とか、論文とか、教育者とか、美術史に精通している人と比べて私が劣っているとはどうしても思えません。
彼らはちゃぶ台を返さなかった。私は返した。その違いは能力の違いを表しているわけではありません。
彼らが英語や元素記号を見続けた時間に私が見続けた美術はあります。
なので英語や元素記号は絶対に不可欠な知識や能力とは言い切れない。
わからないなら、わからないなりに、わかる道を進めばいいと思います。
ただ、自分の好き勝手に進んでいいと最初から学生に言ってしまうと誰も英語の勉強をしなくなるので問題ですが・・・。
話が矛盾するようですが、念のために言っておかなければならないのです。「英語は必須と言いながらも英語が使えないなら使えないなりの道はあります」
誰も、私を無知だとは言っていないことはわかります。
でも、そのように言われているような気がするのです。
社会にはそういった空気感があります。
学校では、無条件に英語を学ばされます。物理も、国語も、学ぶ姿勢、歴史も。
他教科多科目を学ぶことを絶対条件として組み立てられたシラバスはどうしても私にはこれができなければ美術に関して欠落している箇所があると言われているような気がしてなりません。
言い方はあるにしても結果的に押し付けられている。
そしてそれは直接的な言葉として投げかけられることがなくとも、その場の空間全体を強力な力で支配しています。
学校教育を経た後。
学校で教わったことで、できないことがあれば、それが無知の証明のような烙印を押される、そんな気分にされます。
そして、これから学び始める学生達には、早い段階で、正しい学生像としての見本と間違った学生像としての見本が示されます。 学校内部ではできなければできなかった学生の例を出して冷やかし、できて成功している学生の例を出して褒めたたえます。
美術の世界には冷やかしがあります。
東京藝術大学の学部では芸大に入れなかった人を冷やかします。
大学院では大学院に残れなかった学部卒を冷やかします。
博士は博士課程後期に残れなかった大学院生を冷やかします。
冷やかして、よくあるのは「行方不明」という言い方です。
行方がわかったら「生きてたのか」と言います。
「行方不明」この言葉は学生たちや卒業生が非常に嫌悪する言葉です。
そして行方不明でないものが行方不明者を嘲笑って遊びます。
私はこの嘲笑を徹底的に駆逐したいと思います。
行方不明と言われる側は負。
行方不明と言い放つ側は正です。
大学はこの正と負によって大学独特の簡単には実態の掴めない空気のような政府を作っています。
活字には残さない実在する空気の政府。
人は冷やかされることを嫌います。
一部の正が負を冷やかし、空気感を作り、それがはっきりと進むべき道を示し、空気には蟻の巣のようなはっきりとした道ができます。
一部の正が快適に過ごせるように緻密に設計された蟻の巣。
この蟻の巣は大多数の蟻にとっては負の世界です。
冷やかしが構築した完全世界。
でも、これから負の立場は逆転します。
それは蟻の巣が冷やかしが生んだ虚構だからです。
ネットという殺虫剤。
蟻の巣に住まわなくても生きていけるようになる。
これから逆転する正と負。
逆転するのは負の側の人間にネットによる発言の機会が得られたからです。
正と負に具体的な能力差はあるのか?
何を根拠に正を選んでいるのか?
少しずつ白日のもとにさらされます。
選び方の問題が次第に露わになり、決定的なことは負の力が詳細に証明されることです。
負が負ではなくなる。
これまでは大学では大学に最後まで残った一部の学生しか正になることはありませんでした。
つまり、行方がわかるのは最後まで残った者。
殆どの学生は音信不通です。
それによってまかり通ってしまう大学の政治。
つまり、大学を出れば音信不通になってくれるのでなんでもできるのです。
学校教育の内容はほんの一部の正のために作られたものです。大多数の負の側の人にとっては関係ない。
政府の力が強大なので殆どの負は泣き寝入りして、関係ないことを学ぶことを黙って受け入れています。
それが常識です。常識はよくわかります。でもそれは教育の本質でもなく。学びの本質でもないです。
負の側に適した学びがある。
大多数の負が正に点じた時、天才は必ず現れます。
音信不通で眼を向けられることのなかった負の世界。
この負の世界は巨大です。
未開発のこの領域に美術を大きく覆す力が眠っています。