中途半端ハザード
この問題の根深さは「自由とのびのび」という認識を、美術に関わるほとんどの先生が古い指導の考え方にのっとって社会に発信し続けていることです。
本来なら話す相手の事情や目的などの細かい事情に合わせて話を区別しなければ間違いが起こることですが画一的な指導の感覚がそれを邪魔します。
つまり「自由」とは皆んな同じ物事を指しているのではありません。
自分が違うように個々によって自由は違います。
同じように指導される先生はおそらく生徒が皆んな同じ顔に見えているのだと思います。 「自由にのびのび」という言葉を自分が思っているように皆んなが同じように受け取るような気がしている。
例えば高校生には覚悟がない生徒に対して「自由にのびのび」できると進路指導してしまう。 覚悟がない生徒にとって「自由」の場は恐怖以外の何者でもありません。恐怖を知るタイミングは遅い場合、学校を卒業してからです。
例えば覚悟ができている生徒に「自由」な道を示すことができない。 やる気が有り余っている生徒にとっては思いっ切りぶつかれる価値のある場なければ退屈以外の何物でもありません。
覚悟のない生徒にもある生徒にも都合がいいので同じ進学先を指導してしまうというエラーを起きています。
例えば東京芸術大学の場合覚悟のない生徒の多くは中途半端に潰れています。
例えば専門学校の場合、あまりにも周りの意識が低すぎて、指導もヌルすぎて中途半端に1年生で辞めてしまいます。
例えば大手企業に入ってバリバリ活躍するデザイナーになれるのに就職先はないと思ってなんでもかんでも教員になることを勧めて教育系の美術大学に進んでしまいます。
勿論ある程度正しい認識を持っている先生もおられます。ただし「正しい」という認識に大きなバラツキがあります。 バラツキはつまり誤りがあるということです。
現状では私のこのような内容の文章を読んで、こんなことを書いたら生徒が来なくなるから書かなければいいのにと思われる方もおられると思います。 というか、殆ど皆さんそうかもしれません。でも美術とデザインの正しい形を目指して書く必要があると思います。
今書いていることは実は多くの大人がわかっているけれど・・・大人の都合で誰も口にしない。暗黙の了解で皆んなで長年流してやってきていることです。
でも世界はたった一人の覚悟で変わるのです。
あ、ごめんなさい私じゃないです。
私はちょろい人間なので誰か先頭に立ってお願いします。
そう、あなたです。
さて、この話は、生徒の側にいるこの常識を読めずに事故に遭遇する可能性のある人に向けて書いています。 読んだ後は暗黙の了解での話なので何食わぬ顔で「自由にのびのび」風の佇まいで生き抜いてもらってもいいと思います。 そうすることで事故だけは避けて欲しいと考えます。なのでわざわざ書きます。
先生方は「自由でのびのび」でなくなっては困ると思います。 なぜならば「自由にのびのび」は一つひとつの物事をぼかせる都合の良い便利な言葉だからです。 つまり、ぼかさなかったら明瞭に具体性のある内容を指導しなければならない。 急にそんなことになっても知らないものやわからないことは指導できません。 つまりモヤッとした所で生徒が良く見えない状態で物事の区別をしてほぼ勘で決めてしまって判断を誤るのです。 そのようなモヤッとした指導は行き先を指差して導く「指導」に全くなっていません。
殆どの先生が正直にわからないものはわからないと生徒に話されています。 しかし、一部の、多分今時は少ないですが、強引に生徒をコントロールしようとする先生はわからないとは口が裂けてもいいません。
神のごとき雰囲気を醸し出して、神のような口調でお話します。ただ、口調だけで内容が全く無いですが・・。
もし、そのような先生に当たった場合は、なんでも「はい」と答えて受け流してください。下手にいじると厄介です。
最近では○大アメフト部の先生たちがわかりやすいですかね。美術とデザインの世界にもいます。日大らしいなと思います。
「自由にのびのび」が浸透しているのは元の考えが正義だからです。 つまり、画家などの芸術家として食べていけるようになるためには最後は自分の力でどうすれば良いか掴まなければならないので最後の詰めの指導は誰にもできません。 最後は遊びが必要です。なので最後まで学生や芸術家を締め付けないように「自由にのびのび」という言葉があります。
「本気〜真面目〜遊び」のプロセスを経た最後の遊びです。
本来なら話す相手の事情や目的などの細かい事情に合わせて話を区別しなければ間違いが起こることですが画一的な指導の感覚がそれを邪魔します。
つまり「自由」とは皆んな同じ物事を指しているのではありません。
自分が違うように個々によって自由は違います。
同じように指導される先生はおそらく生徒が皆んな同じ顔に見えているのだと思います。 「自由にのびのび」という言葉を自分が思っているように皆んなが同じように受け取るような気がしている。
例えば高校生には覚悟がない生徒に対して「自由にのびのび」できると進路指導してしまう。 覚悟がない生徒にとって「自由」の場は恐怖以外の何者でもありません。恐怖を知るタイミングは遅い場合、学校を卒業してからです。
例えば覚悟ができている生徒に「自由」な道を示すことができない。 やる気が有り余っている生徒にとっては思いっ切りぶつかれる価値のある場なければ退屈以外の何物でもありません。
覚悟のない生徒にもある生徒にも都合がいいので同じ進学先を指導してしまうというエラーを起きています。
例えば東京芸術大学の場合覚悟のない生徒の多くは中途半端に潰れています。
例えば専門学校の場合、あまりにも周りの意識が低すぎて、指導もヌルすぎて中途半端に1年生で辞めてしまいます。
例えば大手企業に入ってバリバリ活躍するデザイナーになれるのに就職先はないと思ってなんでもかんでも教員になることを勧めて教育系の美術大学に進んでしまいます。
勿論ある程度正しい認識を持っている先生もおられます。ただし「正しい」という認識に大きなバラツキがあります。 バラツキはつまり誤りがあるということです。
現状では私のこのような内容の文章を読んで、こんなことを書いたら生徒が来なくなるから書かなければいいのにと思われる方もおられると思います。 というか、殆ど皆さんそうかもしれません。でも美術とデザインの正しい形を目指して書く必要があると思います。
今書いていることは実は多くの大人がわかっているけれど・・・大人の都合で誰も口にしない。暗黙の了解で皆んなで長年流してやってきていることです。
でも世界はたった一人の覚悟で変わるのです。
あ、ごめんなさい私じゃないです。
私はちょろい人間なので誰か先頭に立ってお願いします。
そう、あなたです。
さて、この話は、生徒の側にいるこの常識を読めずに事故に遭遇する可能性のある人に向けて書いています。 読んだ後は暗黙の了解での話なので何食わぬ顔で「自由にのびのび」風の佇まいで生き抜いてもらってもいいと思います。 そうすることで事故だけは避けて欲しいと考えます。なのでわざわざ書きます。
先生方は「自由でのびのび」でなくなっては困ると思います。 なぜならば「自由にのびのび」は一つひとつの物事をぼかせる都合の良い便利な言葉だからです。 つまり、ぼかさなかったら明瞭に具体性のある内容を指導しなければならない。 急にそんなことになっても知らないものやわからないことは指導できません。 つまりモヤッとした所で生徒が良く見えない状態で物事の区別をしてほぼ勘で決めてしまって判断を誤るのです。 そのようなモヤッとした指導は行き先を指差して導く「指導」に全くなっていません。
殆どの先生が正直にわからないものはわからないと生徒に話されています。 しかし、一部の、多分今時は少ないですが、強引に生徒をコントロールしようとする先生はわからないとは口が裂けてもいいません。
神のごとき雰囲気を醸し出して、神のような口調でお話します。ただ、口調だけで内容が全く無いですが・・。
もし、そのような先生に当たった場合は、なんでも「はい」と答えて受け流してください。下手にいじると厄介です。
最近では○大アメフト部の先生たちがわかりやすいですかね。美術とデザインの世界にもいます。日大らしいなと思います。
「自由にのびのび」が浸透しているのは元の考えが正義だからです。 つまり、画家などの芸術家として食べていけるようになるためには最後は自分の力でどうすれば良いか掴まなければならないので最後の詰めの指導は誰にもできません。 最後は遊びが必要です。なので最後まで学生や芸術家を締め付けないように「自由にのびのび」という言葉があります。
「本気〜真面目〜遊び」のプロセスを経た最後の遊びです。